幸福
「あ」
思い出してつい、声に出た。
スマホを取り出して、妻に連絡すると、すでに駅で待ってくれているそうだ。ありがたい。
かだん、と電車がひとつ揺れた。
帰宅途中の学生や、サラリーマンのぎっしり詰めこまれた車内は、においの熱気で蒸れている。
車窓を叩いたあとの雨粒が、ふるえながら、筋をひいて消えてゆく。
停車駅につき、ドアがひらくと、周りに押し出されるようにしてホームに降りた。人いきれ。
改札をでて、人混みのなか、妻と目が合うと、その顔がパッとかがやき、手をふってくれた。
おや、と思った。
聞けば、途中、ずぶ濡れのおじいさんに、ぼくの傘を渡したのだという。
ぼくは、嬉しくなった。彼女と一緒になることができて、このときほど、幸せだと思ったことはなかった。
肩を寄せ合い、相合傘をして帰った。
それは学生のとき以来のことだった。
傘に落ちる雨音さえ、それは楽しいメロディだ。
↓(つづくよ)
黒い蝙蝠傘を差した老人が、ひとつ傘の下、肩を寄せ合って歩く若い男女の後ろ姿を、食い入るように、じつと見詰めていた。
傘を持ち上げているその腕は、傘を支える中棒と変わらぬ細さで、微かに震えている。
彼の身体はひどく濡れ、腹の底まで冷えきっていた。薄汚い襤褸(ぼろ)を纏(まと)い、破れて露になった肩口から胸元までの青黒い肌の下からは、鎖骨が不気味に盛り上がって、襤褸の下が皮と骨だけであることが容易に想像できた。
男の頬はげっそりと痩け、歯のない口はだらしなく半ばに開き、口の端から泡立った涎が一筋伸びて、白い鼻毛がふたつの穴からひょろりと出ている。もうほとんど、骸のような姿だが、瞳だけ、その瞳だけは蝙蝠傘の暗い影の下で、爛々と輝いている。
天涯孤独のかれは、これから暗く湿った黴だらけのよごれた棲みかに、帰るだけ。
ああ、雨のおとがうるさい。
執筆の狙い
お世話になります。
掌編を書きました。
前半パートは読みやすく温かな雰囲気を心がけました。後半パートの印象を強くするためです。上手くいっているでしょうか。
楽しんでいただければ幸いです。
よろしくお願いします。