作家でごはん!鍛練場
あげもち

世界が色づくまで

視界が開けると、そこはぼんやりと灰色に霞んだ世界だった。

私はゆっくりとベッドから起き上がり、クローゼットを開ける。制服に袖を通し、家を出た。

ホームにぽつんと立ち、電車を待つ。

ふと隣に目を向ける。

――誰もいない。

分かっている。もう隣にいるはずなんてない。

それでも、その事実を認めたくなかった。



私がまだ中学一年生だった頃。

初めての中学校。初めて会う人ばかりで、私はひどく緊張していた。

「はじめまして! 最寄り駅、同じだったよね? 名前なんていうの? あ、私、波田絢香。よろしくね!」

彼女はリュックを下ろしながら、屈託なく話しかけてきた。

「……はじめまして。中伊真那です」

短く返事をして、私はすぐに小説へ視線を戻した。

ふと彼女を見る。

「……君、汗」

聞こえるかどうかというくらい小さな声だったのに、

「だよねぇ! 四月なのに暑くない?」

……反応するんだ。

少し驚きながらも、それ以上私は口を開かなかった。




「ねぇねぇ、一緒に帰ろ?」

授業が終わり、一息ついた頃、また彼女が話しかけてきた。

「……」

正直、一緒に帰るのは気が進まない。

推しの妄想に浸りながら、一人で帰りたかった。

「駄目? 最寄り駅も同じだし、いいじゃん」

「……うん。分かった」

ああ。

まぁ、いっか。




「ねぇねぇ、真那ちゃんって、どの部活にするか決めた? 今日、部活動紹介あったじゃん」

「……別に、どこでもいいかな」

本当はどこでもいい。

ただ、彼女とは同じ部活になりたくなかった。

私とは住む世界が違いすぎる。

「私は演劇部かなぁ。先輩がすっごくかっこよかったんだよね」

「……そっか」

そこで会話が途切れた。

沈黙。

よかった。やっと静かになった。

――そう思ったのに。

「ねぇねぇ、今年の担任の先生って当たりかな?」

沈黙を埋めるように話し続ける人は、正直あまり得意じゃない。





「あ、そうそう。同じクラスの美咲ちゃん、かるた部に入るんだって!」

思わず口が動いた。

「……どこからの情報?」

あ、しまった。

「あっ! やっと返事してくれた! 美咲ちゃんとさっき話したんだよ!」

「……そう」




家に帰れば、そこは地獄だった。

「真那。塾から電話が来てたわよ。最近、成績が下がってるって?」

ああ。

最悪だ。

「……ごめんなさい」

「ごめんなさいじゃないでしょ。ただの努力不足よ。もっとちゃんとやりなさい」

「……はい」

「それと、塾の先生に宿題を増やしてもらったから」

……今でも十分多いのに。

「返事は?」

「……はい」

「声が小さい! やる気ないの? 高いお金払ってるのよ!」

次の瞬間、お母さんの平手が頬を打った。

じん、と熱が広がる。

「……ごめんなさい」

「謝れば済むと思ってるの? 行動で示しなさい!」

「……はい」

私は足音を立てないように、自室へ逃げ込んだ。




やっと一人になれる。

そう思ったのに。

「……え」

私の推しの祭壇が、なくなっていた。

部屋中を探しても見つからない。

そのとき、階段を上る足音が聞こえた。

肩がびくりと震える。

ドアが開く。

「あ、そうそう。真那の推しグッズ、売ってきたわよ。保存状態がよかったから、結構高く売れたの」

「……なんで」

「勉強の邪魔だから」

「……その、お金は?」

「塾代に回すわ」

そう言うと、お母さんは部屋を出ていった。

……勉強、勉強、勉強。

私は気づけば、机の上のカッターを握っていた。



その夜、私は部屋の灯りもつけないまま床に座り込んでいた。

カーテンの隙間から差し込む街灯の明かりだけが、ぼんやりと部屋を照らしている。

推しのグッズが並んでいた場所だけが、不自然に空いていた。

何もない。

何も残っていない。

胸の奥が、ぎゅっと締めつけられる。

涙は出なかった。

泣く気力すら残っていなかった。

時計の針だけが、静かな部屋に時を刻んでいる。

勉強机の上には、終わらない宿題。

部屋の外からは、お母さんがテレビを見て笑う声が聞こえた。

私は膝を抱え、顔をうずめる。

――苦しい。

その言葉だけが、頭の中を何度も巡った。




翌朝。

目覚ましが鳴るより早く目が覚めた。

ほとんど眠れなかったせいか、頭がぼんやりする。

鏡に映る自分の顔は青白く、ひどく疲れて見えた。

制服に着替え、何事もなかったように家を出る。

今日も学校へ行かなければならない。

今日も、お母さんの機嫌をうかがわなければならない。

今日も、笑えないまま一日が始まる。

ホームに立つと、朝の冷たい風が頬をなでた。

電車が来るまで、あと数分。

私はぼんやりと線路を眺めていた。

そのときだった。

「あ、真那ちゃーん!! おはよー!!」

空気を切り裂くような明るい声が響く。

私はゆっくりと振り返った。


「……おはよ」

振り向くと、絢香が息を切らしながら駆け寄ってきた。

……私の乗る時間に、わざわざ合わせてくれたんだ。

「早いねぇ、真那ちゃん」

そう言って笑う彼女が、ひどく眩しく見えた。

「大丈夫? 顔色悪いよ?」

……この人、すごく優しい。

そう思った、そのときだった。

「真那ちゃん!! 袖、血が滲んでる!!」

はっとして自分の袖を見る。

確かに、白いシャツには赤い染みがじわりと広がっていた。

私は慌てて袖口を隠す。

「……ごめん。大丈夫だから」

「……ほんと?」

心配そうな瞳が、まっすぐ私を見つめる。

「うん。本当に大丈夫」

嘘だった。

大丈夫なんかじゃない。

全然。



それから、一か月ほどが過ぎた。

六月に入り、周りのみんなは半袖姿になっていた。

それでも私は、頑なに長袖を着続けていた。

ある日の帰り道。

いつもより口数の少ない絢香が、不意に立ち止まった。

「真那」

その声は、どこか緊張しているように聞こえた。

「言いたくなかったら言わなくていいんだけど……」

一拍置いて、彼女は静かに尋ねた。

「……リスカ、してる?」

息が詰まる。

心臓が嫌な音を立てた。

「……なん、で……?」

ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど震えていた。

「今日の家庭科の授業でさ。針で指を刺したでしょ」

それは、本当だった。

「……それは、たまたま」

苦しい言い訳だと、自分でも分かっていた。

「それに」

絢香は私の長袖を見つめる。

「みんな半袖なのに、真那だけずっと長袖だよね」

図星だった。

もう、ごまかせない。

しばらく沈黙が続く。

私は小さく息を吸い、諦めたように口を開いた。

「……してる」

その一言を聞くと、絢香は何も言わなかった。

初めて見る沈黙だった。

……ああ。

嫌われた。

そう思った。

すると、絢香はふっと力なく笑った。

「そっか……」

少しだけ目を伏せてから、小さな声で続ける。

「私もだよ」

「……え?」

「仲間がいて、よかった」

「は? 君も?」

私は思わず立ち止まった。




「え、うん」

絢香は少しだけ困ったように笑った。

「誰にも言ってないけどね」

私は思わず立ち止まる。

「……」

「なんかさ、真那だけじゃないよって言いたかっただけ」

電車の走る音が、二人の間を横切った。

「……なんで」

「ん?」

「なんで、そんなこと私に言うの」

絢香は少し考えるように空を見上げる。

「最初はね、真那が何考えてるのか全然分かんなかった。」

「……」

「でも、いつも一人でいて、本を読んでて、話しかけても短くしか返してくれなくて。」

私は目を逸らした。

「正直、嫌われてるのかなって思ってた。」

「違う。」

気づけば、言葉が口からこぼれていた。

「……嫌いじゃない。」

「え?」

「人が……苦手なだけ。」

絢香は目を丸くしたあと、ふっと笑った。

「そっか。」

その一言だけだった。

責めるでもなく、問い詰めるでもなく。

ただ、「そっか」と返してくれた。

その短い言葉が、不思議なくらい胸に残った。

「真那。」

「……なに。」

「今すぐ全部話さなくてもいいから。」

絢香はゆっくり歩きながら続ける。

「でも、一人で抱え込まないで。」

私は返事ができなかった。

そんな簡単なことができるなら、とっくにそうしている。

家のこと。

勉強のこと。

お母さんのこと。

誰かに話したところで、何か変わるとは思えなかった。

「……難しい。」

ようやく出た言葉は、それだけだった。

「うん。」

絢香は頷く。

「難しいよね。」

否定も励ましもしない。

その代わり、歩幅だけを私に合わせてくれた。

駅を出ると、夕日が住宅街を橙色に染めていた。

「じゃあ、ここで。」

分かれ道に差しかかる。

「……うん。」

「また明日。」

「……また。」

私は小さく手を振った。

絢香も大きく振り返してくる。

その姿が見えなくなるまで、私はその場を動けなかった。

家へ向かう足取りは重い。

それでも今日は、不思議と朝より少しだけ息がしやすかった。

「……また明日、か。」

そんな約束を交わしたのは、いつぶりだっただろう。

私は小さく呟いて、夕暮れの道を歩き出した。

けれど、そのときはまだ知らなかった。

その「また明日」が、私の中で少しずつ色を失っていた世界を変え始めることになるなんて。




翌日。

「おはよー!」

改札を抜ける前から聞こえてくる声に、私は小さく息を吐いた。

「……おはよう」

「今日はちゃんと『おはよう』って言ってくれた!」

「昨日も言ったけど」

「昨日は『おはよ』だったもん」

「……細かい」

絢香はけらけらと笑う。

朝日を浴びた横顔は、相変わらず眩しかった。

電車がホームへ滑り込む。

私たちは並んで乗り込み、空いている席へ腰を下ろした。

少し前までなら、この沈黙は苦痛だった。

けれど今は、不思議と嫌ではない。

絢香も無理に話しかけてこなくなった。

私が本を開けば、その間は静かにスマホを見たり、窓の外を眺めたりしている。

話したくなったら話す。

そんな距離感になっていた。

「真那。」

「……なに。」

「今日、お昼一緒に食べない?」

「……いいけど。」

「やった!」

そんなことで、そこまで喜べるものなのだろうか。

私は少しだけ首を傾げた。

昼休み。

教室の隅で二人並んで弁当を広げる。

「真那のお弁当、美味しそう。」

「普通だけど。」

「卵焼き、一個ちょうだい?」

「……嫌。」

「えぇー!」

絢香は大げさに肩を落とす。

少しして、私は黙って卵焼きを一つ箸でつまみ、絢香のお弁当箱へ置いた。

「え。」

「……一個だけ。」

「真那ぁ!」

「大きい声出さないで。」

「やっぱり優しいじゃん!」

「違う。」

私はそっぽを向く。

頬が少し熱かった。

絢香は嬉しそうに卵焼きを頬張る。

「美味しい!」

その笑顔を見ていると、少しだけ気持ちが軽くなる自分がいた。


「ねぇ、真那って好きなものある?」

帰り道。

絢香が何気なく尋ねる。

「……本。」

「それは知ってる。」

「あと、推し。」

言った瞬間、言わなければよかったと思った。

祭壇のあった部屋。

空っぽの棚。

あの日のことが頭をよぎる。

「あ、ごめん……。」

絢香も気づいたのか、言葉を止めた。

「……いいよ。」

少し間を置いて、私は続けた。

「もう、ないけど。」

その四文字だけで十分だった。

絢香は何も聞かなかった。

理由も。

誰がそうしたのかも。

ただ、小さく頷いただけだった。

「今度さ。」

「?」

「アニメイト、一緒に行こ。」

私は思わず顔を上げる。

「見るだけでも楽しいよ。」

「……。」

「もちろん、嫌だったらいいけど。」

私は少し考えてから、小さく頷いた。

「……行く。」

その瞬間、絢香の表情がぱっと明るくなる。

「ほんと!? 約束ね!」

「……うん。」

約束。

その言葉が胸の奥で静かに響いた。

いつからだろう。

"明日"を待つようになったのは。



約束の日は、すぐにやってきた。

土曜日。

待ち合わせは駅前の時計台。

休日の駅前は人で溢れていて、私はその端の方で小説を読みながら時間を潰していた。

「真那ー!」

聞き慣れた声がして顔を上げる。

絢香が手を大きく振りながら走ってきた。

「ごめん! 待った?」

「……五分。」

「えっ、ごめん!」

「私が早く来ただけ。」

本当は待ち合わせの二十分前には着いていた。

家にいても落ち着かなかったからだ。

「じゃあ、行こ!」

私の返事も待たず、絢香は歩き出す。

その後ろを、私は少しだけ早足で追いかけた。

「わぁ……」

店内に入るなり、絢香が目を輝かせる。

「すごいね!」

「……初めて来たの?」

「うん!」

意外だった。

絢香ならこういう場所にもよく来ていると思っていた。

「私、アニメとかあんまり詳しくないんだ。」

「じゃあ、なんで来たの。」

「真那が好きなもの、見てみたくて。」

その言葉に、私は何も返せなかった。

そんな理由で来る人なんて、初めてだった。

店内をゆっくり歩く。

新作グッズ。

色紙。

アクリルスタンド。

ぬいぐるみ。

目に入るたび、胸が少しだけ痛んだ。

以前なら、どれを買おうか悩んでいただろう。

けれど今は、見るだけだった。

財布の中身も、家で何を言われるかも分かっていたから。

「真那。」

「……なに。」

「これ。」

絢香が指差した先には、小さな缶バッジが並んでいた。

私の推しだった。

思わず足が止まる。

「好きなんでしょ?」

「……うん。」

「可愛いね。」

「……うん。」

ただ、それだけの会話。

なのに、胸が熱くなった。

推しを「勉強の邪魔」と言われた私にとって、「可愛いね」と言ってもらえたことが、どうしようもなく嬉しかった。

店を出るころには、空が少し赤く染まり始めていた。

「楽しかったー!」

絢香が大きく伸びをする。

「……そう。」

「真那は?」

少し考える。

「……楽しかった。」

自分でも驚くほど素直な言葉だった。

「ほんと!?」

絢香は飛び上がるように喜ぶ。

「じゃあまた来よう!」

「……うん。」

また。

その言葉が、少しずつ嫌いじゃなくなっていた。

電車を待つホーム。

夕焼けが線路を赤く照らしている。

「ねぇ、真那。」

「なに。」

「笑うと可愛いよ。」

「……は?」

「今日、ちょっと笑ってた。」

「笑ってない。」

「笑ってたって!」

「気のせい。」

「絶対笑ってた!」

私は思わず小さく息を吐く。

「……ふふ。」

「あっ!」

しまった。

「今笑った!」

「……うるさい。」

顔が熱い。

絢香は嬉しそうに笑っている。

その笑顔につられて、私も口元が少し緩んだ。

あの日までは。

この時間が、ずっと続くものだと信じていた。



それからというもの、私たちは毎日のように一緒に帰るようになった。

朝はホームで待ち合わせをして。

学校では休み時間に少し話して。

帰りは駅までの道を並んで歩く。

気づけば、それが当たり前になっていた。

「真那ー!」

今日も遠くから絢香が手を振る。

私は小さく手を上げて応えた。

最初はそれすらできなかったのに。

「ねぇ、今日の数学やばくなかった?」

「……普通。」

「えぇ!? あれ普通なの!?」

「最後の問題は、教科書の応用とほぼ同じだった。」

「そんなの覚えてないよぉ……。」

絢香は大げさに頭を抱える。

私は思わず吹き出した。

「ふっ……。」

「あっ! 今笑った!」

「笑ってない。」

「笑ったってば!」

「気のせい。」

「真那、最近ちょっと意地悪になったよね。」

「……絢香がうるさいから。」

「ひどーい!」

口ではそう言いながらも、絢香は楽しそうだった。

私も。

少しだけ、楽しかった。

夏休みが近づき、蝉の声が朝から響くようになった。

制服も夏服に変わる。

私は相変わらず長袖のカーディガンを羽織っていた。

「暑くない?」

「……平気。」

「私はもう溶けそう。」

そう言って絢香は制服の裾をぱたぱたと揺らす。

私は思わず笑った。

「……子ども。」

「むっ! 一個しか変わんないじゃん!」

「精神年齢。」

「ひどい!」

二人で笑いながら歩く。

少し前までの私なら、考えられなかった。

「ねぇ、真那。」

「なに。」

「将来って決まってる?」

突然の質問だった。

「……まだ。」

「私はね、演劇に関わる仕事してみたいんだ。」

目を輝かせながら話す絢香を見つめる。

「舞台の裏方でもいいし、役者でもいいし。」

「夢、あるんだ。」

「うん!」

迷いなく頷く。

その姿が眩しくて、私は目を細めた。

「真那は?」

「……ない。」

「じゃあ、一緒に探そ。」

「探す?」

「うん。好きなものとか、得意なこととか。」

私は少しだけ考える。

好きなものならあった。

でも、それはもう失ってしまった。

「……分かんない。」

「そっか。」

絢香はそれ以上聞かなかった。

「じゃあ、ゆっくり探せばいいよ。」

その言葉が、不思議と胸に残った。

夏休み初日。

「真那ー!」

改札を出ると、絢香がアイスを二本持って立っていた。

「はい。」

「……私の?」

「そう。」

「なんで。」

「食べたかったから。一人じゃつまんないじゃん。」

「理由になってない。」

「いいのいいの。」

半ば強引に渡されたアイスを受け取る。

ひんやりとした冷たさが手に伝わる。

「……ありがと。」

私がそう言うと、絢香は少し驚いたような顔をした。

「え?」

「なに。」

「今、『ありがとう』って言った。」

「……言うでしょ。」

「真那が!?」

「失礼。」

「ふふっ。」

笑い合う。

何気ない時間だった。

何気ない夏だった。

この時間が、ずっと続くと思っていた。

少なくとも、私はそう信じ始めていた。

だから。

あの日の朝。

ホームに立っても、絢香の姿が見えなかったとき。

私は、ただの寝坊だと思った。

そのときは、まだ。




夏休みが近づくにつれて、家にいる時間が増えた。

それは、私にとって嬉しいことではなかった。

「真那。」

夕食を食べ終えた頃、お母さんが私を呼ぶ。

「この前の模試、偏差値が下がってるじゃない。」

私は黙ってうつむいた。

「最近、浮かれてるんじゃないの?」

「……そんなこと」

「あるでしょ。学校で友達と遊んでる暇があるなら、その時間を勉強に使いなさい。」

胸がちくりと痛んだ。

「……はい。」

「その返事、本当に反省してる人の返事?」

言葉が出ない。

「だから成績が落ちるのよ。」

その日から、お母さんは私の部屋へ入る回数が増えた。

机の引き出し。

本棚。

学校用のリュック。

何かを探すように勝手に開けては閉める。

「漫画なんて読まなくていい。」

「小説ばっかり読んでるから現実が見えなくなるの。」

私の大切にしていたものは、一つずつ部屋から消えていった。

学校では。

「真那、おはよ!」

絢香はいつも通り笑っていた。

「……おはよう。」

その笑顔を見るたび、少しだけ息ができる。

でも。

家へ帰ると、その空気は一瞬で消えてしまう。

夜になると、眠れなかった。

布団に入っても、お母さんの声が何度も頭の中で響く。

『努力不足。』

『もっと勉強しなさい。』

『その程度だから駄目なの。』

耳を塞いでも消えない。

学校へ行けば絢香がいる。

でも、家に帰ればまた同じことの繰り返し。

私は、自分の居場所がどこにもないような気がしていた。

ある朝。

鏡の前に立つ。

目の下には濃い隈ができていた。

制服の袖を見つめる。

今日も長袖を選ぶ。

暑い。

苦しい。

それでも、これしか選べなかった。

「真那!」

駅に着くと、絢香がいつものように手を振っていた。

「大丈夫?」

その一言に、胸が締めつけられる。

大丈夫じゃない。

そう言いたかった。

でも。

「……平気。」

その言葉しか出てこなかった。





電車がホームへ滑り込む。

いつもなら、発車の直前に「待ってー!」と駆け込んでくるはずだった。

私は何度も改札の方へ目を向ける。

来ない。

「……珍しい。」

小さく呟き、一人で電車に乗り込んだ。

眠かったのかな。

今日はたまたま。

そんなことを考えながら窓の外を眺める。

学校へ着いても、教室に絢香の姿はなかった。

「先生、波田さんは?」

誰かが尋ねる。

「今日はお休みです。」

先生はそれだけ言って出席簿を閉じた。

私は胸の奥が少しざわついた。

でも、風邪かもしれない。

体調を崩しただけかもしれない。

そう思うことにした。

翌日も。

その次の日も。

ホームに絢香は来なかった。

教室の彼女の席だけが、ぽつんと空いている。

「……」

私は何度もスマホを取り出した。

『大丈夫?』

たった四文字が打てない。

もし寝込んでいるなら、迷惑かもしれない。

もし何か事情があるなら、聞いてはいけないことかもしれない。

そんなことを考えているうちに、画面は暗くなった。

一週間が過ぎた。

教室では少しずつ噂が広がり始める。

「長引いてるね。」

「入院なのかな。」

「転校だったりして。」

誰も本当のことは知らない。

私も知らない。

知りたいのに、聞く勇気がなかった。

帰り道。

一人で歩く駅までの道は、ひどく静かだった。

「ねぇ、真那!」

そう呼ぶ声も。

「今日の数学やばかった!」

と笑う声も。

もう聞こえない。

私は無意識に歩幅を緩める。

隣を歩く誰かを待つ癖だけが、体に残っていた。

でも。

隣に並ぶ人はいない。

風だけが、私の横を通り過ぎていった。





その日の夜。

何度も開いては閉じていたトーク画面に、私はようやく文字を打ち込んだ。

「話せる?」

送信ボタンを押したあと、すぐに後悔した。

迷惑だったらどうしよう。

返信なんて来ないかもしれない。

スマホを伏せようとした、そのときだった。

通知音が鳴る。

「うん。」

「駅前の公園なら。」

短い返事だった。

それだけで、胸の奥の張り詰めていたものが少し緩んだ。

夜の公園は静かだった。

街灯の明かりが、ベンチをぼんやりと照らしている。

先に来ていた絢香は、私に気づくと小さく手を振った。

「来てくれてありがとう。」

「……うん。」

私はベンチの端に腰を下ろす。

しばらく、どちらも何も話さなかった。

虫の鳴き声だけが聞こえる。

「真那。」

「なに。」

「ごめんね。」

思いがけない言葉に顔を上げる。

「急に学校休んじゃって。」

「……心配した。」

その一言を口にするまで、ずいぶん時間がかかった。

絢香は少し驚いたように目を丸くして、それから優しく笑った。

「ありがとう。」

また沈黙が訪れる。

でも、その沈黙は苦しくなかった。

「私ね。」

絢香がぽつりと話し始めた。

「ずっと、明るくしてれば大丈夫だって思ってた。」

私は黙って耳を傾ける。

「笑ってれば、周りも安心するし、自分もそのうち平気になるかなって。」

彼女は自嘲するように笑った。

「でも、全然そんなことなかった。」

街灯の光が、足元に長い影を落としていた。

「真那に『私もだよ』って言った日、実はすごく怖かったんだ。」

「……怖かった?」

「うん。『気持ち悪い』って思われるかもしれないって。」

私は首を横に振る。

「思わない。」

その返事に、絢香はほっと息をついた。

「よかった。」

私は少しだけ勇気を出して尋ねる。

「……どうして、誰にも言わなかったの。」

「心配かけたくなかったから。」

少し間を置いて、絢香は続けた。

「それに、『元気な絢香』でいるほうが楽だった。」

私はその言葉を反芻する。

元気でいるほうが、楽。

そういう人もいるんだ。

「真那は?」

問い返される。

私は膝の上で手を握りしめた。

「……誰にも、信じてもらえないと思ってた。」

「家でも?」

私は小さく頷く。

「頑張っても、足りないって言われる。」

声が震える。

「好きなものも、なくなって。」

そこまで言うと、それ以上言葉が続かなかった。

絢香は何も急かさない。

ただ、静かに隣に座っていた。

「……ありがとう。」

思わず口をついて出た。

「え?」

「話、聞いてくれて。」

絢香は少し笑って答える。

「私もだよ。」

風が二人の間を通り抜ける。

「一人じゃないって思えた。」

その言葉に、私はゆっくりとうなずいた。

苦しさが消えたわけじゃない。

家に帰れば、また現実が待っている。

それでも。

誰かに「話してもいい」と思えたのは、生まれて初めてだった。

夜空を見上げると、雲の切れ間から、小さな星がひとつだけ見えていた。




あの日から、私たちは約束をした。

「つらい日は、一人で抱え込まないこと。」

たったそれだけの約束だった。

毎日守れたわけじゃない。

話せない日もあった。

返事を返せない日もあった。

それでも、

「おはよう。」

その一言だけは、お互いに送り続けた。

それだけで、「今日も生きているんだ」と思えた。

夏休みが終わり、二学期が始まった。

家の中は相変わらずだった。

成績で怒られ、

塾を増やされ、

何をしても認めてもらえない。

学校だけが、息をつける場所だった。

昼休み。

「真那!」

「……なに。」

「文化祭、演劇部見に来てよ!」

「……考えとく。」

「それ、来ないやつじゃん!」

「……行く。」

「ほんと!?」

絢香は子どものように笑った。

その笑顔を見ていると、

「また明日。」

その言葉を信じたくなった。

文化祭当日。

演劇部の舞台は、大成功だった。

幕が下りると、大きな拍手が体育館に響く。

舞台袖から出てきた絢香は、私を見つけるなり駆け寄ってきた。

「どうだった!?」

「……すごかった。」

「それだけ!?」

「……かっこよかった。」

絢香は照れくさそうに笑う。

「真那に褒められると嬉しいな。」

私は少しだけ笑った。

冬になる頃。

学校の先生が、私の様子に気づいてくれた。

何度か話をするうちに、家でのことを少しずつ話せるようになった。

怖かった。

話したら全部壊れてしまうと思っていた。

でも、違った。

先生は最後まで話を聞いてくれた。

「話してくれてありがとう。」

その言葉だけで、涙が止まらなかった。

その後、学校や信頼できる大人が関わるようになり、家の状況も少しずつ変わり始めた。

時間はかかった。

すぐに何もかも良くなったわけではない。

それでも、一人で耐え続ける日々ではなくなった。

数年後。

高校生になった私は、いつもの駅のホームに立っていた。

冷たい朝の風が頬をなでる。

「真那ー!」

聞き慣れた声がして振り向く。

「おはよう。」

「今日は私のほうが早かった!」

「珍しい。」

「失礼だなぁ。」

他愛もない会話をしながら、二人で電車を待つ。

ふと隣を見る。

そこには、絢香がいる。

「どうしたの?」

「……なんでもない。」

私は少しだけ笑った。

あの頃、世界は灰色だった。

明日なんて来なくてもいいと思っていた。

でも今は違う。

灰色だった景色は、少しずつ色を取り戻していた。

鮮やかな青空でもない。

映画みたいな奇跡でもない。

それでも、

朝焼けの薄い橙色や、

電車の窓から見える緑や、

友達の笑顔くらいには、

世界はちゃんと色づいていた。

「ねぇ、真那。」

「なに?」

「今日も頑張ろ。」

私は小さくうなずく。

「……うん。」

電車がホームへ滑り込む。

扉が開く。

私たちは並んで乗り込んだ。

今度は、一人じゃない。

世界が色づくまで

執筆の狙い

作者 あげもち
p4363130-ipoe.ipoe.ocn.ne.jp

一応完結させたつもりです。
アドバイスなどあればお願いします。

コメント

偏差値45
KD124209070036.au-net.ne.jp

冒頭だけ、ちょっと読んでみた。

総じて雑ですね。空行ばかりで読みにくい。

>「はじめまして! 最寄り駅、同じだったよね? 名前なんていうの? あ、私、波田絢香。よろしくね!」
彼女はリュックを下ろしながら、屈託なく話しかけてきた。
>「……はじめまして。中伊真那です」

社会人であれば「はじめまして」なんて言葉を使うこともありますが。
学生さんはあまり言わないし、個人的には聞いたことがないですね。
現実はもっとカジュアルな感じで、気づけば友人になっていた気がしますね。
だから、小説で使うと嘘臭い気がします。

原稿用紙2、3枚程度でチャレンジしてみたらいかがでしょうか。
その方が案外面白いものが書けるかもしれないですね。

ご利用のブラウザの言語モードを「日本語(ja, ja-JP)」に設定して頂くことで書き込みが可能です。

テクニカルサポート

3,000字以内