3分間のハイライト
駅前のベーカリー「ルミエール」の夕暮れ時は、いつも焼き立てのクロワッサンの甘い香りと、仕事帰りの人々で賑わう。大学2年生の真穂(まほ)がここでアルバイトを始めて3ヶ月。彼女には、密かな「3分間の楽しみ」があった。毎週火曜日の午後7時。自動ドアが開くチャイムとともに、決まって一人の青年がやってくる。少し癖のある黒髪に、仕立てのいいスーツ。近くのオフィス街で働いているのだろう。彼はいつも、どこか疲れた顔で店内に入ってくる。「いらっしゃいませ」真穂が声をかけると、彼は少しだけ目元を緩めて会釈する。そして、トレイに「塩バターメロンパン」をひとつだけ乗せて、レジへと進んでくるのだ。(あ、今日も塩バターメロンパンだ)心の中で小さくガッツポーズをする。彼が財布から小銭を出す数秒間、ポイントカードをスキャンする数秒間。それが真穂にとっての「3分間」のハイライトだった。「210円になります。……お仕事、お疲れ様です」ある日、真穂は思わず口を滑らせてしまった。いつも本当に疲れた顔をしていたから、励ましたくなったのだ。言った直後、馴れ馴れしかったかと顔がカッと熱くなる。しかし、青年は驚いたように目を見開いた後、今日一番の、そして真穂が初めて見る柔らかな笑顔を浮かべた。「……ありがとうございます。これ、すごく美味しくて。食べると元気になるんです」彼の声は、心地よく耳に響いた。「あ、ありがとうございます! 中のバターがじゅわっとして、美味しいですよね」「そう、それです。また来ますね」彼はパンの袋を手に、嬉しそうに去っていった。その日を境に、二人の「3分間」は、少しだけ特別な時間に変わった。「今日は新作のレモンデニッシュもありますよ」「じゃあ、それも一つ。あ、でもやっぱりメロンパンも外せないな」そんな、たわいもない会話。名前も知らない。連絡先も知らない。だけど、火曜日の7時が近づくたびに、真穂の胸はトースターの中のパンのように、じんわりと熱を持った。――そして、梅雨の終わりの火曜日。その日は夕方からバケツをひっくり返したような豪雨だった。午後7時。外は激しい雨の音しか聞こえない。さすがに今日は来ないだろう。真穂が少しがっかりしながらレジを拭いていた、その時だった。自動ドアが開き、ずぶ濡れの青年が駆け込んできた。傘が役に立たなかったのか、スーツの肩も髪の毛も濡れて、息を切らせている。「あ、あの! 大丈夫ですか!?」真穂は慌てて奥から店用のタオルを持って走り出た。「すみません、濡れちゃって……」「いいえ、それよりこれを!」タオルを手渡すと、彼は前髪を拭いながら、少し照れくさそうに笑った。その手には、何も乗っていないトレイがある。「あの、実は今日、プロジェクトが一段落して定時で上がれたんです。でも、豪雨で電車が止まっちゃって」「えっ、じゃあどうしてここに……?」「走ってきました。駅の反対側から」青年はまっすぐに真穂の目を見た。「火曜日の7時にここに来ないと、あなたに会えないから。……今日を逃したら、また1週間頑張れないと思って」心臓が、ドクンと大きな音を立てた。ベーカリーの甘い香りのなかで、真穂の顔が夕焼けよりも赤くなっていくのが自分でも分かった。「……メロンパン、もう売り切れちゃいましたか?」不安そうに尋ねる彼に、真穂は胸いっぱいの愛おしさを込めて首を振った。「いいえ! 最後のひとつ、奥にとってあります。……あと、私の名前は真穂っていいます」青年は一瞬呆然とした後、今日一番の、いや、今までで一番眩しい笑顔を咲かせた。「僕は、航(わたる)です。真穂さん、そのメロンパン……一緒に食べてもいいですか?」外の雨音はいつの間にか遠ざかり、二人の新しい時間が、いま静かに動き出そうとしていた。航と名前を交わし、雨のベーカリーで一緒にメロンパンを食べたあの日から、二人の距離は少しずつ縮まっていた。「真穂さん、今度の日曜日、もし良ければ……」火曜日の午後7時。航が照れくさそうに差し出してきたのは、真穂が好きなアーティストの美術展のチケットだった。「これ、よかったら一緒に行きませんか?」「えっ……! 嬉しい、行きたいです!」初めてのデートの約束。嬉しくて、真穂はその日からカレンダーの「日曜日」の周りに、何度も赤いペンで丸をつけた。当日に着ていく服を悩み、髪型を鏡の前で何度も試す時間は、たまらなく愛おしくて幸せだった。――そして、約束の日曜日。待ち合わせは午前11時、駅前の時計台の下。真穂は楽しみのあまり、30分も前に到着してしまった。初夏の風が心地よく、真穂の心を弾ませる。しかし、11時を過ぎても、航の姿は見えなかった。11時15分、11時30分。駅の改札から出てくる人混みの中に、あの見慣れた黒髪を探すけれど、どこにもいない。(何かあったのかな……)不安が胸をよぎる。しかし、真穂は航の連絡先を知らなかった。いつも火曜日のレジ越しに話すだけだったから、連絡先を交換するタイミングを逃していたのだ。12時を過ぎた頃、ポツリ、と冷たい雫が真穂の頬を叩いた。あの日と同じような、予期せぬにわか雨だった。周りの人々が雨宿りのために走り出す中、真穂は時計台の下から動けずにいた。(もしかしたら、私の聞き間違いだったのかな。それとも、ただの社交辞令だった……?)冷たい雨が服を濡らし、楽しみに選んだ白いスカートが色を変えていく。期待が大きかった分、胸が締め付けられるように痛かった。結局、14時になっても航は現れず、真穂は一人、濡れた体でトボトボと家に帰った。涙が雨に混じって流れた。それから、2週間が経った。火曜日が2回通り過ぎたけれど、午後7時になっても自動ドアが開くことはなかった。「ルミエール」のレジに立つ真穂の心は、ぽっかりと穴が空いたようだった。(やっぱり、迷惑だったんだ。私が一人で舞い上がっていただけなんだ)諦めよう。そう自分に言い聞かせるたびに、胸がツンと痛む。塩バターメロンパンを見るだけで、泣きそうになってしまう。そして迎えた、3回目の火曜日。外はすっかり暗くなった午後8時前。もうすぐ閉店の時間だった。「いらっしゃいませ……」元気のない声で挨拶をした真穂は、自動ドアの前に立つ人物を見て、息を呑んだ。そこにいたのは、航だった。だけど、いつもの仕立てのいいスーツ姿ではない。右腕に白いギプスをはめ、首から三角巾で吊るしている。顔もどこかやつれて、痛々しかった。「真穂、さん……」航の声は、かすれて小さかった。真穂は驚きと心配で、レジから飛び出した。「航さん!? その怪我、どうしたんですか!?」「すみません……本当に、すみません……」航は頭を下げた。その声は震えていた。「あの日の朝、待ち合わせに向かう途中で、階段から落ちそうになったお年寄りを庇って……僕がそのまま落ちちゃって。スマホもその時に粉々になって、病院に緊急搬送されて……」「えっ……」「頭も打っていたから、数日間入院して、昨日やっと退院できたんです。すぐに真穂さんに連絡したかったのに、連絡先もわからなくて……。ずっと、ずっと謝りたくて、でも動けなくて……」航の目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。「せっかく真穂さんが待っててくれたのに、最悪なことをしました。本当にごめんなさい。もう、会ってくれないかと思って……」真穂の胸の奥のモヤモヤが、一瞬で消え去っていった。すれ違っていたのではない。彼は、誰かを守るために傷つき、そして動けない体で、ずっと真穂のことを考えてくれていたのだ。「ううん、違うの……!」真穂は、ギプスのない方の航の左手を、そっと両手で包み込んだ。「私、航さんが嫌いになったんじゃなくてよかったって……安心したら、涙が出ちゃいそうで」「真穂さん……」「怪我、すごく大変だったんですね。会いに来てくれて、理由を話してくれて、ありがとうございます」航は驚いたように目を見開いた後、包み込まれた左手で、真穂の手を優しく握り返した。「今度は、絶対に僕から連絡します。だから……僕たちの初めてのデート、もう一回チャンスをくれませんか?」店内に流れる静かなBGMの中、二人の止まっていた時間が、今度こそゆっくりと、優しく重なり合っていった。あの涙の再会から1ヶ月半。梅雨がすっかり明け、本格的な夏が街を包み込んだ7月のある日。「真穂さん、お待たせしました!」駅前の時計台の下。少し日に焼けた航が、満面の笑みで駆け寄ってきた。その右腕には、もうギプスも三角巾もない。「航さん! ギプス、本当に外れたんですね」「はい、お医者さんからも『もう完璧にデートに行っていい』って太鼓判を押されました」航は茶目っ気たっぷりに右腕を大きく回してみせる。その元気な姿を見て、真穂の胸に仕えていたものが、ようやくすっきりと溶けていくような気がした。「じゃあ……今日こそ、リベンジですね!」「はい。最高の日にしましょう」真穂の白いワンピースと、航の爽やかなリネンシャツが、夏の風にふわりと揺れる。二人は並んで歩き出した。向かったのは、あの日行くはずだった美術展。静かな館内で、二人は言葉を交わさずとも、自然と歩幅を合わせて作品を見て回った。「真穂さん、これ。あの雨の日に似てますね」航が指差したのは、淡い水彩で描かれた、雨上がりの街の絵だった。雲の隙間から、優しい光が差し込んでいる。「本当ですね。ちょっと切ないけど……でも、綺麗な光」「あのとき、病院のベッドでずっと真穂さんのことを考えてたんです。雨の中で待たせてしまって、本当に申し訳なくて。でも、退院してルミエールで真穂さんの顔を見たとき、まさにこんな風に光が差し込んだ気がしました」少し真面目な顔で、まっすぐに自分を見つめる航。真穂は急に恥ずかしくなって、絵に視線を戻した。館内の冷房が効いているはずなのに、頬が熱い。「……私も、航さんがお店に来てくれたとき、同じことを思いました」小さな声でそう言うと、航は嬉しそうに目元を緩めた。美術展を出たあと、二人は近くの緑豊かな公園へ向かった。ベンチに腰掛けると、航がカバンから丁寧に包まれた保冷バッグを取り出した。「実は、今日のために作ってきたんです。腕が動くようになったから、どうしても真穂さんに食べてほしくて」開けられたケースの中には、手作りのサンドイッチが綺麗に並んでいた。「わあ、すごい! 航さんが作ったんですか?」「はい。パンは……さすがにルミエールには敵わないので、市販のものですけど。味は保証します!」真穂が一口かじると、卵の優しい甘みと、隠し味のマスタードの風味が口いっぱいに広がった。「美味しい! すごく美味しいです、航さん」「よかった……! 実は隠し味に、ちょっと工夫したんです」二人は夏の青空の下で、笑い合いながらサンドイッチを食べ進めた。あのすれ違いの日、冷たい雨に打たれていた真穂の心は、いま、航の手作りの温かさと、眩しい太陽の光で完全に満たされていた。「真穂さん」サンドイッチを食べ終え、冷たいお茶を飲んで一息ついた頃。航が、少し緊張した面持ちで、真穂の右手をそっと包み込んだ。今度はギプスのない、温かくて、少しごつごつとした航の「本当の手」だった。「あの雨の日から、ずっと伝えたかったことがあります。……僕、火曜日の7時に真穂さんに会えるのが、一週間の何よりの楽しみでした。でも今は、火曜日だけじゃ足りないです」航のまっすぐな視線が、真穂の瞳を捉える。「真穂さんのことが好きです。これからはお店の店員と お客さんとしてじゃなく、隣にいる恋人として、もっとたくさんの時間を一緒に過ごさせてくれませんか?」セミの鳴き声が、遠くで響いている。真穂は、握られた手をぎゅっと握り返した。嬉しさで、視界が少しだけ潤む。「はい! 私も、航さんのことが大好きです。……これからは、火曜日以外も、たくさん一緒にいさせてください」航の顔に、今までで一番輝かしい、最高の笑顔が咲いた。すれ違った雨の日があったからこそ、二人の手は、もう二度と離れないほど強く結ばれたのだった。あの日、夏の公園で手をつなぎ、恋人同士になった真穂と航。それから4年の歳月が流れた。真穂は大学を卒業して都内の文具メーカーに就職し、航は仕事で責任あるポジションを任されるようになっていた。お互いに忙しい日々を送っていたが、二人の心の距離は、あの頃よりもずっと深く、強くなっていた。そして、めぐってきた6月の火曜日。外は、あの日を思い出させるような激しい梅雨の雨が降っていた。「お待たせ、真穂」「ううん、私も今着いたところ。お疲れ様、航さん」午後7時。駅前の時計台の下で、二人は1本の大きな傘に入った。今日は二人の4年目の記念日。本当は景色のいいレストランを予約しようかと航が言ってくれたのだが、真穂の希望で、行き先は最初から決まっていた。二人が向かったのは、駅前のベーカリー「ルミエール」。真穂はもうここでは働いていないけれど、今でも二人の原点である大切な場所だ。自動ドアが開くチャイムとともに店内に入ると、焼き立てのパンの甘い香りが、一瞬で二人をあの頃にタイムスリップさせる。「いらっしゃいませ!」当時の店長が、今も変わらない笑顔で二人を迎えてくれた。「あ、真穂ちゃんに航さん! いらっしゃい。今日も『あれ』、ちゃんと残してあるわよ」「ありがとうございます、店長」航が嬉しそうに笑う。トレイの上に乗せられたのは、2つの「塩バターメロンパン」。二人はお気に入りのイートインスペースの席に腰掛けた。外を叩く激しい雨の音を聞きながら、サクサクのメロンパンを一口かじる。中のバターがじゅわっと広がる味は、あの頃と全く変わらない。「懐かしいね。4年前の雨の日、航さんがずぶ濡れで走ってきたとき、本当にびっくりしたんだから」「あの時は必死だったからね。でも、あのとき諦めずに走ってきて、本当に本当によかったって、今でも毎日思ってるよ」航はメロンパンを置くと、少し真剣な目をして、ポケットから小さなベロア調の箱を取り出した。それを真穂の前に、そっと置く。「え……?」真穂が息を呑む。「真穂。出会った頃の僕は、毎週火曜日の7時に真穂さんに会えるだけで、1週間を乗り切る元気がもらえた。恋人になってからは、真穂が隣にいてくれるだけで、どんなに大変な仕事も頑張れた」航は箱をそっと開けた。中から現れたのは、店内の温かい照明を浴びて美しく輝く、一粒のダイヤモンドの指輪だった。「僕の人生に光をくれたのは、真穂です。これからは『火曜日以外も』なんて言わずに、毎朝、毎晩、一生ずっと、僕の隣にいてくれませんか? ……僕と結婚してください」まっすぐに自分を見つめる航の瞳。その真剣な眼差しは、あのすれ違いの雨の日に理由を話しに来てくれたときとも、初めて告白してくれたときとも同じ、誠実な航そのものだった。じわ、と真穂の視界が涙で滲んでいく。「……はい! 私の方こそ、航さんとずっと一緒にいたいです」真穂が答えると、航の緊張していた顔が、一気にあの眩しい笑顔に変わった。航は真穂の左手をそっと取り、薬指にぴったりと指輪を滑らせる。「ありがとう、真穂。これからもよろしくね」「うん! よろしくね、航さん」外の雨音はいつの間にか静まり返り、雲の隙間から、祝福するような美しい夕暮れの光が街を照らし始めていた。パンの甘い香りに包まれた小さなベーカリーで、二人の人生は、新しく、そして永遠に重なり合った。
執筆の狙い
切なくて儚い物語をかけていたらいいなと思っています。
本当に自信がないので厳しくご指導していただけると幸いです!