邂逅(仮題)
夜の散歩が趣味だ。
午後九時過ぎに家を出る。見上げる空は紫色に濁っている。足音が響く。猫の目が光る。昼間とはまったく違う世界を一人で歩いていると、根拠のない全能感がわき上がってくる。たとえば目からビームが発射できそうな気がする。
人通りの少ない住宅街をぶらぶらと巡り、ぼうっと光を放つ自動販売機でミネラルウォーターを買い、帰宅を急ぐサラリーマンとすれ違い、桜池神社の参道を往復し、もみじ公園の木製ベンチに寝転んで人工衛星を探し、軽いストレッチをして家に向かう。
誰にも迷惑をかけず、健康的で、実に健全な趣味だと思っている。
いや、正確には思っていた。
二日前のことだった。九月初旬の月齢十二の夜、ショルダーバッグに双眼鏡を忍ばせて家を出た。いつものコースをいつものペースで歩き、いつものようにもみじ公園の敷地に入ろうとしたところでパトロール中の警察官二人に声をかけられた。
「こんな時間に何をしているの」
「散歩です」
「散歩? もう夜だよ」
「夜の散歩が趣味なんです」
警察官の目つきが変わった。
「中学生?」
「高二です」
「ほう高校生ね。どこの高校?」
「桜ヶ丘高校です」
「名前と住所を教えてもらえるかな」
際限なく続く質問にうんざりし、「本当は何が聞きたいんですか」と問い返したかったが、ぐっと我慢して素直に名前と住所を教える。
「カバンの中を見せてもらいたいんだけど、いいかな」
「えっ、カバンの中をですか」
「お願いします」
命令口調ではなく、あくまでもお願いモードという体裁だが、ここで断ると面倒なことになるだろうことは小学生にだってわかる。でも断りたかった。タバコやナイフが入っているわけではないけれど、カバンの中というのはプライベートな空間で、たとえ空っぽであっても気前よく他人に見せるものではないと思うのだ。どうしようか。断るとすればどんな理由とするのがいいのか。落ちついて考えれば妙案が浮かぶかもしれないが、二人の警察官にじっと見つめられているという状況では、あせるばかりで頭が回らない。
「どうしました。見られるとまずいものでも入ってるの?」
駄目押しの〈見せない=不審物所持〉という論理だ。これで断るという選択肢は封じられた。ぼくはわざともたつきながらショルダーバッグのファスナーを開き、警察官の目の前に、プライベートな空間をぐいっと突き出してやった。
「ほう、双眼鏡とはねえ」
二人の警察官は意味ありげに目配せをした。
「これで何を見るの?」
「月を観ます」
「月?」
ぼくは南南東の空を指さした。
「あのマンションの右上に出ています」
二人の警察官は同時に空を見上げた。
「今夜は月齢十二なんです」
「月齢十二? それと双眼鏡とはどういう関係があるの」
「この月齢のときのクレーターが一番きれいなんです」
「ふうん」
反応が鈍い。たぶん、伝わらなかった。
「この双眼鏡、ちょっと借りてもいいかな」
「どうぞ」
背の高い方の警察官がショルダーバッグから双眼鏡を取り出し顔の前に掲げた。
「なるほどな。これはよく見えるわ」
「間違いないか」
「ええ、ばっちりですね」
二人の警察官は顔を見合わせ、うなずき合った。
よかった。これでようやく解放される。
ぼくは、強張っていた肩の力を抜き、少し青みがかった月を見上げた。
「ここでは長話もできないので、交番まで来てもらえますか」
「は?」
聞き間違いだと思った。すべての質問に素直に答え、不快な要求にも誠実な対応をしたぼくに、これ以上何の話があるというのか。
「これはすごく性能がいい双眼鏡だね。あのマンションの最上階の部屋に立派なシャンデリアがあるのがくっきり見えたよ。うん、こういうものを持っていると、他にもいろいろ見てみたくなるんだろうな」
「ぼくがのぞきをすると言うんですか」
「するの?」
「しません。さっきも言いましたけど、それは月を観るために持ってきたんです」
「でもねえ、月なら自宅の窓からでも見えるでしょ。わざわざこんな公園にまで出かけてくる必要はあるのかな」
「だから散歩なんです。月を観るのは散歩の中でのルーティンみたいなもので――」
「その辺のことを交番でくわしく聞かせてほしいと、そう言ってるんですよ」
そうか。こういう理屈でくるのか。やっぱりショルダーバッグの中を見せたのは失敗だった。でもあの流れで断るのは無理だった。そして今も、交番行きを拒むことはできそうにない。交番でも同じようなことをしつこく聞かれ、らちが明かず、親が呼ばれ、下手をしたら学校にも連絡が行って――
「どうかしましたか」
背後から男の声がした。
公園の入り口にある公衆トイレの前に、すらりとした体形の男性がこちらの様子をうかがうようにして立っていた。
「あなたは?」
背の高い方の警察官が警戒しながら問いかけた。
男性は無言のまま一歩、二歩と近づいて、ぐいっと顔を突き出した。
短く切りそろえられた口髭がまず目に入った。よく見ると少し白いものが混じっているが肌つやは良い。四十代前半から半ばぐらいだろうか。さらりとした清潔感のある髪型、優しげな目、すっと通った鼻筋など、どれもが品の良さを漂わせていた。
「お、やっぱり守山君じゃないか。どうしたの、迷子になってお巡りさんに帰り道をたずねてるのかい」
誰だこの人は。なぜぼくの名前を知ってるんだ。
「それとも家出少年に間違われたのかな。今は散歩の途中です。いつもここで星や月を観てるんですって、ちゃんと説明したかい」
「ちょっと、あなた、質問に答えなさい」
「ああ、これは失礼しました。私は東堂という者です。学習塾の講師をやっています」
「塾の先生ですか。じゃあ、この――」
「ええ、守山君は桜ヶ丘高校の生徒です」
「それは先ほど聞きましたがね」
「守山君の趣味は夜の散歩なんですよ。ああ、そうか、不審者と間違われたんですね。そりゃあ、双眼鏡を持って夜の公園をうろついていたら怪しまれても仕方ないなあ。どうもご迷惑をおかけしました。守山君の身元については私が保証します。あ、これ、名刺です」
名刺を受け取った警察官は、「東堂塾ですか。ああ、あの駅前のビルに入ってるところか」とつぶやきながら、もう一人の警察官に名刺を回した。
「わかりました。そういうことでしたら問題ないでしょう。でも、高校生が夜遅くに外をうろつくのは控えた方がいいですな。面倒事に巻き込まれる可能性がありますからね」
「おっしゃるとおりです。以後気をつけるように、私からも注意しておきます。いつもごくろうさまです」
「先生もお疲れさまです」
どうやら事態は収拾に向かっているようで、警察官は撤収の体勢に入っている。
ちょっと待ってほしい。ぼくはこの男性を知らない。なのにこの男性は一方的にぼくのことを知っているみたいだ。名前だけでなく、通っている高校、さらには個人的な趣味まで。でも、それっておかしいだろう。やばいだろう。お巡りさんたち、この得体の知れない男性と二人きりにしないでくれ。
という願いもむなしく、二人の警察官は、「それでは、あとはよろしく」と言い残して去っていった。
どうする。逃げるか?
ぼくはつま先に体重をかけ、いつでも走り出せる体勢をとった。
「では、私も失礼しますね」
男性は軽く手を上げると、くるりと背を向け、警察官たちの去った方角とは反対の方へと歩き出した。
え?
関わりを持たれることを怖れてはいたが、かといってまったく何もないままサヨナラでは肩すかし感が半端ない。いやそれよりも、ぼくのプライベートな情報が見ず知らずの男性に知られており、さらにはその背景がわからずじまいとなってしまうというのは気持ちが悪い。
ぼくは胸に手を当て息を整えた。
「あの、すいません」
男性は声をかけられることを予測していたかのようにぴたりと立ち止まり、回れ右の動きで振り返った。
「はい、なんでしょうか」
男性は小さく首をかしげた。
「えっとですね、もしぼくが忘れてしまっていたらごめんなさい。これまでにどこかでお会いしたことがありましたか」
「初対面ですよ。でも、最近はこのあたりをよくぶらついていますから、どこかですれ違ったことぐらいはあるかもしれませんね」
そう言ってから、男性は、「ああ、そうか」と胸の前で手を打った。
「頼まれもしていないのに横から口を出して、しかも馴れ馴れしい口調で話しかけて――もしかすると、よけいなことをしてしまいましたか」
「あ、いえ、そのことについては助かりました。ありがとうございます」
「なら、よかった」
「差し支えなければ教えてほしいんですが、ぼくの名前とか、通ってる学校とか、夜の散歩のこととか、どうしてご存知なんですか」
男性は、「先ほどのお巡りさんには内緒にしておいてくださいよ」と言って、片目をつぶった。
「家に帰る途中だったんですが、ここから少し先の交差点にさしかかったあたりで急におなかが痛くなりましてね。この公園に公衆トイレがあったことを思い出して駆け込んだんです。間一髪のタイミングでした。個室に入ってズボンを下ろし、ほっと一息ついたところで聞こえてきたんですよ。お巡りさんとあなたとのやりとりが」
たしかに公衆トイレはすぐそこにある。
この距離なら聞こえたかも――いや、聞こえたんだ。
「悪いかなと思いながらも、つい聞き耳を立ててしまいました。夜の公園ってとても静かなんですね。細かいところまで全部聞こえました。あのお巡りさんたちもそれが仕事ですから、夜遅くに見かけた未成年者に声をかけること自体は問題ないと思います。でも、話の持って行き方がちょっと強引でしたね。あれだけのやりとりをすれば、守山さんが特に問題のない高校生だってことはわかったでしょうに。それで、よけいなお節介かなとは思いましたが、口を挟ませてもらいました」
学校名、氏名、住所、趣味――すべてはぼく自身の口から出た情報だったんだ。
「そうだったんですか。でも、客観的に見れば、ぼくの行動はたしかにあやしいですよね。警察官とのやりとりを聞いて、不審者だとは思わなかったんですか」
男性はにこりと笑って南南東の空を見上げた。
「あれが月齢十二で、双眼鏡で観るとクレーターがきれいだなんて、とっさに思いつく説明ではありません」
そうか、この人には伝わっていたんだ。
「本当にきれいなんですよ。ちょっと観てみますか」
男性の返事を待たずに双眼鏡を手渡した。
「ほほう、思った以上に立体的に見えるんですね。まさに空に浮かんでいるって感じがします」
「そうなんです。ぽっかりって感じがいいんです。三日月だと照らされている部分が狭くて、満月に近いとのっぺりしてクレーターの凹凸があまり楽しめません。球体であることが実感できて、クレーターの美しさも堪能できるのが月齢十二の月なんです。十四番目よりも十二番目の月が好きって歌があってもいいと思っています」
「ユーミンですね。若いのによくご存じだ」と言って、男性は薄く笑った。
「ユーミンもいいけど、スピッツのもいいですよ」
「ん?」
男性は首をかしげ、ぼくは肩をすくめた。微妙な空気。そしてまあいいかという感じで会話はフェードアウトした。
「双眼鏡をお返しします。では、そろそろ失礼しますね」
「あ、はい。長々と引き留めてしまってすいません」
男性は、「おやすみなさい」と告げて、外灯の向こうの暗闇に溶け込んでいった。
おやすみなさい。
ショルダーバッグに双眼鏡をしまい、最後にもう一度空を見上げた。
月は薄雲の向こうに隠れ、滲んだ輪郭が白く光っていた。
◇
学校からの帰り道、母から頼まれた木綿豆腐を買うために、駅前の商店街にある小さなスーパーに立ち寄った。五時を過ぎて値引きシールが貼られ始めたらしく、生鮮品と惣菜売り場は年配の人たちで賑わっていた。明日が賞味期限の木綿豆腐は三十円引きになっている。少し迷ってそれを買った。
店を出ると、淡い夕闇が道行く人を景色の中に溶かし込み、レトロな映画のワンシーンを見ているような感じがした。夜もいいが夕暮れもいい。少し遠回りして帰ろう。右や左に目をやりながら駅前通りをのんびりと歩く。古びた雑居ビルの前にさしかかり、ふと顔を上げると、それを待っていたかのようなタイミングで二階の窓に明かりが灯った。
東 堂 塾
それは三枚の窓ガラスに貼られた紙に一文字ずつ、黒々とした明朝体で印刷されていた。頭の中で「とうどうじゅく」と声に出してみる。月齢十二の月と品の良い男性の顔が浮かんだ。そうだ、あのとき名刺を受け取った警察官が「東堂塾ですか」と言っていた。
ここだったのか。
あらためて窓を見上げた。ちらりと人影が動いた。
ちょうどいいじゃないか。お礼をかねて顔を出してみよう。
いやまてよ、もう塾の授業が始まってるかもしれないな。やっぱりやめておこうか、と迷いつつも、足は雑居ビルの方へと向いていた。狭い階段を上った先に薄暗い廊下があり、一番手前のドアに、「東堂塾」と書かれた白いプレートが掲げられていた。
「どうぞ、開いてますよ」
三つめのノックにかぶせるように中から声が返ってきた。ほぼ同時に足音が聞こえ、内側にドアが開かれた。
「やあいらっしゃい。入塾希望ですか?」
細身で色白の男性が、愛嬌のある笑みを浮かべて立っていた。
違う。髭がない。
あの夜の口髭の男性が迎えてくれるものだと思い込んでいたので、一瞬言葉に詰まってしまった。
「あ、そうではなくて、先日こちらの先生にお世話になった者です。近くを通りかかったので、ご挨拶をと思って」
「ほう。先日といいますと、いつのことでしょう」
「二日前の火曜日の夜です」
「お世話とはどのような」
「あの、こちらの先生はおられないのですか」
「いますよ。ここに」
男性は自分の顔を指さした。
「え?」「ん?」
内側に開かれたドアの上部にあるプレートを確認する。「東堂塾」で間違いない。駅前のビルという条件も満たしている。ということは、あの口髭の男性は塾長で、このくせ毛の男性は講師の一人ということになるのだろうか。
「すいません、ちゃんと説明していませんでした。ぼくがお世話になったのは東堂先生の方なんです」
「東堂ですか」
なんとなくだが会話がかみ合っていないのはわかる。
「東堂先生、今日はおられないんでしょうか」
「いますよ。ボクが東堂です」
くせ毛の男性は自分の顔を指さした。
念のため、もう一度よく見てみる。三十歳前後だろうか。髪だけでなく眉も濃い。まつげも長いし目は切れ長で深い二重だ。すっと通った鼻筋や頬からあごにかけてのシャープな輪郭は先日の男性と似ているような気がするが、髪の質が違っているし、目の前の男性の方が明らかに若い。
間違いようがない。二日前の夜に出会った口髭の男性とは別人だ。
「ややこしい話になりそうですか」
「あ、いえ、ぼくの勘違いだったみたいです。すいません」
「あなたが二日前にお世話になった男性が東堂と名乗ったのですね」
「はい。『とうどう』と聞こえました」
「そしてあなたがここを訪ねてこられたということは、その男性はここの住所もしくはこの塾のこともあなたに教えたのですね」
正確には、ぼくにではなく警察官に教えたのだが、別人になりすましていたということには変わりはない。その嘘にはどんな意味があるのか。なりすまされた当の本人だって気になるところだろう。
「えっと、警察も関わっている話なので、最初からちゃんと説明した方がいいですよね」
「おやおや、ここで立ち話という感じじゃなくなってきましたね。生徒たちが来るまでまだ少し時間があります。とりあえずお入りください」
くせ毛の男性――本物の東堂さんに招かれて中に入ると、そこは長机が整然と並ぶ昔ながらの学習塾の教室だった。
「トイレの水を流してないなあ」
「え?」
「今の話の中に、公衆トイレの水を流す音のことが出てきませんでしたが、どうです、あなたは音を聞きましたか?」
どうだったか。今一度、もみじ公園についたときからのあれこれを思い起こしてみる。
「聞いてないですね」
「ということは、おなかが痛くなって公衆トイレに駆け込んだというのが嘘ということになりますね。いや、嘘じゃないと困ります。使用後に水を流さないなんて、そんなのだめでしょう。想像もしたくない」
「でも、水を流したら、トイレの中で警察官とのやりとりを聞いていたってことがばれてしまいませんか。ぼくのことを前から知っていることにするためには、それはちょっとまずいだろうって考えて、とりあえず流さずに出てきた。水は帰る前に流せばいいやって」
「帰る前に流してましたか」
「――流してないですね」
「おなかが痛くてトイレにこもっているときに、あなたたちのやりとりを聞いたというのが本当であれば、音なんか気にせずに水を流して、堂々とトイレから登場すればいいのです。聞き覚えのある声が耳に入ったので、とかなんとか言いながらね。あなたの塾の先生だという設定はいかにもありそうですから、警察官もそこに関しては疑いませんよ」
「いろいろ納得ですが、結局、何が問題なんでしょうか」
「警察官に対して、自分は東堂だと名乗った嘘は、あなたを助けるために必要だったのでまあよしとしましょう。でもね、警察官が立ち去った後のあなたへの説明の中で、腹痛でトイレに駆け込んだ云々という嘘をつく必要性がね」
東堂さんは天井を見上げ、眉をひそめた。
「とにかくその男性はあやしいということです」
あやしいのはわかっている。普通の人は他人になりすましたりはしない。
「ちなみにその男性の容姿はどんな感じでしたか。ボクに多少は似てるのですか」
「こうしてお話をしていると、雰囲気は似ているような気もしますが、髪の質とかは違ってますし、年齢も少し上だったと思います。あと、わかりやすい特徴としては、鼻の下に短い口髭を生やしていました。全体の雰囲気からは、そうですね、紳士っていう表現がしっくりきます」
それまで饒舌だった東堂さんが、「口髭を生やした紳士ねえ」と言ったきり黙り込んでしまった。
唐突に生まれた沈黙の時間に、どうしたものかと周囲を見渡し、そういえばここは塾の教室だったということを思い出した。
「まあ、いいでしょう。結局、誰も不利益はこうむっていないようですし」
「いいんですか、名刺が勝手に使われたみたいですけど」
「ボクの名刺はいろんな人に渡してますし、何度か落としたこともあるので、どこかの誰かが持っていても不思議ではありません。書いてあるのはボクの名前と塾の住所と電話番号だけですから、ボクに連絡を取るため以外の利用価値はないものです。本来なら身分証にもなりません。でもその男性はうまく使ったようですね。結果的に、あなたのピンチを救うことになったわけですから、有効活用してもらったということになるのかな」
物は考えようだ。東堂さんがそれでいいと言うなら、ぼくがこれ以上こだわる必要はないのだろう。
「で、夜の散歩はどうなりました」
「どうなったとは?」
「今回のことがあって、もうやめてしまったとか」
「やめた方がいいでしょうか」
「夜の散歩、いいじゃないですか。嫌気がさしたのでなければやめる必要はないですよ。ただし――」
「ただし?」
「また不審者だと疑われる可能性はありますね」
「ですね」
「では、こうしましょう。散歩のときに持ち歩くカバンの中に、数学の問題集とノートを入れておく。失礼ながらあなたは少し幼く見えますから、生徒手帳もあった方がいいでしょう。それだけの準備をして、家を出たらまずこの塾に立ち寄る。ああ、入塾しろと言ってるのではありません。うちは小中学生が対象ですから入りたいと言われても困るのです。だから本当に立ち寄るだけです。ちょっと顔を出すでもいいし、なんならこのビルの前を通りかかるでもかまいません。で、あとはこれまで通り、あなたの好きなように散歩をする」
「すると、どうなりますか」
「こんな時間に何をしているのかと聞かれたら、塾からの帰りですと答えることができます。公園のベンチに座っているときなら、帰宅の途中にちょっと息抜きをしていましたとでも付け加えればいいでしょう。あなたは高校生ですし、夜の十時ぐらいまでなら十分通用するはずです。この対応をしておけば、カバンの中の確認を求められることはまずないと思いますが、もし見られても大丈夫という安心感があなたの言動をより自然なものにしてくれます。実際のところ、万が一見られても問題ありませんしね」
まわりくどいやり方だなと思ったが、よく考えてみれば、これまでの散歩のルートを少し変更するだけで実行できる。
「塾からの帰り――嘘ではないのか」
「ええ、嘘はだめです。ばれたとき、それ以外の嘘ではない言動まで疑われてしまいます」
嘘ではないがごまかしではあるように思う。嘘はだめでごまかしはOKなのか。その辺の線引きは人によって違うだろう。いずれにしても、誰かに迷惑をかけるわけではないし――
「こんばんはー」
キンキンした声にふりむくと、ランドセルを背負った男の子がドアを押し開け入ってきた。
「やあ、ショーヘイくんか。今日は早いね」
「終わりの会が教頭先生だったからすぐに終わったんだ」
「山下先生はお休みだったのかい」
「ぎっくり腰だって」
ショーヘイくんは机の上にランドセルを置くと、ぼくに向かって、「中学生ですか」と聞いた。
「高校生だよ」
「塾に入るんですか」
「この塾は中学生までしか生徒になれないんだって」
「じゃあ何者?」
東堂さんはにやにやするばかりでフォローする気はないようだ。そうするうちに、ほかの生徒たちも次々にやってきて、「誰?」「新入り?」「あ、西川先生の知り合いとか」「英才アカデミーのスパイでしょ」「変な服」「値引きの豆腐を持ってるぞ」と言いたい放題の小学生たちに囲まれてしまった。
「いいんですか、授業を始めなくても」
「そうだね。よし、そろそろやるか」
東堂さんが席を立ち、教室の前に向かって歩き出すと、小学生たちは自分の席へと戻っていった。
「では、ぼくはこれで失礼します」
「またいつでも顔を出してください」
小学生たちの乱入で謎の口髭紳士の件はうやむやになってしまったが、自分の名前を騙られた東堂さん自身はあまり気にしていないようだ。モヤモヤは残るが、まあいいということにしよう。
ぼくは東堂さんに軽く会釈をして、後ろのドアからそっと教室を出た。
執筆の狙い
ライトミステリー(長編)のプロローグにあたる部分です。長編の導入パートとしての役割は果たせているでしょうか。
※タイトルは今回の掲載にあたって仮につけたものです。