語りえぬものを語る技法
語りえぬものを語る技法。精神分析とは、つまりそういうことである。
精神分析の核をなす「無意識」という概念には多くの批判があった。
「無意識というものがある、そう考えること自体がすでに意識的である」という現象学的批判。「無意識とは、本人が自覚できないというその構造上、分析者の解釈が正しいが否かの判断ができない。ゆえに無意味であり、信頼のおけぬものである」という反精神分析学的立場。
これらの意見が間違っているとは言わないが、そういった水準の議論では精神分析の大事な部分が抜け落ちてしまう。
精神分析とは「語りえぬものを語るための技法」なのだ。
言葉にしようとすると詰まること。うまく説明できない感情。思い出したくないのに、なぜか繰り返してしまう記憶。そういうものは「語りえない」まま、別の形でふと現れてしまう。
精神分析は、そうした“語りえなさ”に耳を傾ける。きちんと説明された言葉ではなく、言いよどみや言い間違いの中にこそ、意味を見ようとする。
言いよどみ、言い違い、反復、逸脱――それらは単なるノイズではなく、「語りえなさ」が歪んだ形で出現する契機である。精神分析とは、語りの内部に生じる亀裂を通じて、語りえぬものに接近しようとする試みと言える。
ここで大事なのは「語りえぬもの」と「語りたくないもの」は必ずしも同じではない、ということだ。ただ厄介なことに、この二つはしばしば重なりあう。語りたくないものは意志の問題だが、語りえぬものは構造の問題である。
なぜか同じタイプの人を好きになる。言いたいことがあるはずなのに笑ってごまかす。似たような失敗を繰り返す。
人は、完全に黙ることも、完全に語ることもできない。沈黙と饒舌の間で、少しずつ、あるいは大きく、歪んだ形で語ってしまう。時に過剰なまでに語り、時に頑なほどに黙り込む。
そして精神分析は、その沈黙すら「語られた」ものとして解釈する。精神分析は黙秘権など認めない。「あなたは沈黙という態度によって語っているのだ」と、そう解釈してくる。どこか暴力的ですらある。なるほど、こんな学問、こんな医学、批判されて当然ではある。
反精神分析学者の意見はヴィトゲンシュタインの「語りえぬものについては沈黙せねばならない」という言葉に通じるものがある。そしてそれが正解なのも知れない。
しかし黙ってばかりはいられないのが人間でもある。だからこそ人は、語りえぬものを語り続ける。本人ですら意識せずに。
そして、その不完全な語りの中で発せられる叫び——小さな、あるいは大きな、そして切実であり痛みを伴う叫び——に、耳を澄ませる技法、たとえどんなに歪み、どれだけ逸脱しようが「あなたの言葉を真摯に聞いています」と態度で示す行為。
語りえぬものを語り続けること、その中に潜む叫びと願いを聞き取るべく、静かに耳を傾けること。その行為こそが精神分析である。人と人の間に生まれる理解の技法である。
執筆の狙い
小説というよりエッセイに近いもですが、ご感想をいただけたら幸いです。