甍を越える
下山予定を2日過ぎた。
カルナ・ダハルはメンバーにベースキャンプの撤収を命じた。
「それが阿久津との約束だ」
戸惑うように立ちつくす松岡に目をやり、カルナ・ダハルはそう付け加える。
無線連絡もつかない状況に、もう阿久津は戻らないと判断したらしかった。
長年に渡り、何度もエヴェレストへと登ってきた伝説のシェルパ。その男が下したのだから、恐らくそれは正しい決断に違いない。
阿久津はもう戻っては来ない。
目の前の山、一年中消えない雪と氷の何処かに、あの男の骸が埋もれている。
その他大勢のそれと同じく、朽ちて土に還る事もない。
頭で理解しても、松岡はカルナ・ダハルと一緒に下山することは出来なかった。
他の遠征隊はすでに去っていた。
そこかしこから立ち昇っていた湯気も、生活音にあふれていた活気もとうにない。
登山シーズンの約2ヶ月間だけ現れ、終わると跡形もなく消滅する「幻の都市」。
色とりどりのテントが消えた氷河の上を、カルナ・ダハルたちの一団が下山していく。
無理を言って頼みこみ、衛星電話と数日分の食料を残してもらった。
カルナ・ダハルを見送った松岡は山を見上げた。
その稜線近くに、渡り鳥を見つけて目を凝らす。隊列をなして飛ぶのは、アネハツルの群れだろうか。飛行機と殆ど同じ高度、9000mを飛ぶことすらあるという。
人間が決して超えられない境界を、あの鳥は軽々と超えていく。
畏敬の念と恨みがましい気持ちが混ざって、胸が圧迫されるようだ。
軽々と―――など、同じ高みへ挑まない者のやっかみだ。地表の甍を越えられずに落ちる個体もいるはずだ。
酸素の薄い大気を大きく吸い込んで、松岡は不快感をため息に逃した。
その苦しみや努力を何も知らずに、ただ批評したり羨むなどは愚かの極みだ。
頭が納得しているのなら、どこがそれに逆らっているのだろう。
心だろうか。気づけば胸骨の辺りを掴んで、ぐっと握りしめていた。
どこにあるとも判然としないのに、何故か胸のあたりが指で押さえつけられたように凝っていく。
理性も感情も。あるべき場所へ収まっておらず、どちらも無秩序に内側を漂っている。自分が自分でないような寄る辺のない心地がした。
自分の実力では到底及ばない、冬季エヴェレスト南西壁無酸素登頂。
天秤の片方に己の心臓を載せ、死を覚悟して挑まねばならないと分かっていた。
そのくせ、登頂した瞬間の阿久津の姿をファインダーにおさめる夢想を捨てきれない。
自分は今、カメラマンという業そのものだ。
「撮影はかまわない。互いに干渉はなしだ。もし滑落しても、俺はお前を助けない」
お前もそうしろ。吐き捨てるようにそう言うと、阿久津は松岡に背を向けた。そのまま歩きだす。
一度深呼吸をして松岡はぐっと口を引き結ぶ。
「わかった」
阿久津の背中に声をかけて、後を追うように進んだ。
釣り合わない両皿のまま足を踏み入れる者を、受け入れる山ではなかった。
登攀を開始すると徐々にその距離はひらき、最初から最後まで阿久津の背中を見続けた。
両手のピッケルを交互に突き立て、つま先のアイゼンを蹴り込んで氷に打ち込み、垂直に切り立つ氷壁を登る。
薄い酸素と氷点下の気温が、そこにいるだけで生命を削り取っていくのがわかる。
朦朧とする意識を繋ぎとめるのがやっとの状態の松岡を、鋭い頭痛が襲う。脳を直接雑巾のように絞られている感覚。高度が7500mを越えた証拠だった。
薄い酸素と極寒の大気、高度8000m以上は人が生存することを許さない世界。
地上の1/3までに減った酸素は人体に著しい機能低下をもたらす。
ゆっくりと一歩足を進めるだけで全力疾走した直後のように息切れがした。簡単な計算すら、答えを出すのが難しくなるほど脳の機能は低下する。
そこへ滞在するだけで、1秒毎確実に死に近づいていくのだ。
いま阿久津と、その背中を追う自分が臨もうとしているのはそういう場所だ。
最高峰の先端、この地表で一番空に近い場所。
しかし、それに価値を見出さない人間にとっては、ただ山の頂上でしかない。
何故そうまでして山に登るのか。
以前そう問いを投げかけた時、阿久津は虚を突かれたような表情を浮かべた。
しばし考え込む目をした男は、結局明言をさけた。
翻って同じ質問を己にぶつけてみる。何故、自分は今この山を登っているのか。
切欠は阿久津の持っている古いカメラ———恐らく何度かこの山を登るなかで、男が偶然それを発見したのだろう———コダック・スペシャルだった。
イギリス人登山家マロリーの所持していたとされる機種だ。
もしそれがマロリーのものであるなら、中のフィルムを現像することができるなら。
彼がエヴェレスト人類初登頂に成功したかどうか?という長年の謎が明らかにされる可能性があるのだ。
フィルム次第ではエヴェレスト初登頂の記録が、何十年も遡って塗り替えられることになる。それは同時に、ジャーナリストとしての栄誉を確約するものだ。
そのカメラを手に入れたいと、日本とネパールを行き来して阿久津と交渉をした。
山へ登るには大金が必要だ。だが、それなりの金額を提示しても、男は決して首を縦に振らない。
交渉のために調べ上げた男の過去は、松岡を驚かせた。
まだ会社勤めをしていた頃、阿久津は登山中に事故にあっていた。日本でも指折りの難易度を誇るクライミングの名所、谷川岳。
そこで、ザイルパートナーを亡くしたこと。そのザイルを切ったのが、阿久津ではないかと疑われていたこと。
松岡の背中を冷たい汗が伝っていった。
自分はどんな男を追いかけているのか。
深い淵を覗き込むように阿久津の過去を辿っても、その暗い水面に映るのは自分の顔だけだった。
同時に腹の底がカッと熱くなる。
エヴェレストの単独登頂にかける阿久津の並々ならぬ執念。
その理由を知りたい。強烈な欲が身の裡で沸騰した。
男が頂きを踏む瞬間に、自分が立ち会いたい。
いつしかそう切望するようになっていた。
それがどうしてなのかは、男と同じように自分も説明は出来なかった。
あの男によって胸に灯された情熱に、ひきずられるようにここまできた。
手元の焦点すら合わなくなってきた目を、苦労してわずかに上げる。それだけで息が上がった。
はるか上に、阿久津の青いジャケットがぼやけて見える。
自分もあの男も、同じなのかもしれない。
何かの答えを探すために、登っているのかもしれなかった。
雪混じりの風が強くなり、嵐の気配を濃くしていく。
吹き付ける風に容赦なく体温が奪われ、指先の感覚は殆どない。既に左腕は持ち上げることすら出来なくなっている。
ピッケルをこれ以上打ち込む力はもうない。自重を支えるためには、氷壁にアンカーを設けなくてはならない。
頭が内側から破裂しそうな酷い頭痛に呻きながら、殆ど動かせない手でアイススクリューを氷壁にねじ込む。
辛うじて1本を取り付けるのが精一杯で、V字にザイルを保持するためにもう1本同じ作業をする気力は残っていなかった。
震える手では狙いが定まらず、何度もカラビナを取り落としそうになる。どうにかハーネスのザイルをスクリューとつないだ。
僅かな安堵は、すぐに頭痛で跡形もなく消えた。
ザイルで身体を支えてはいるが、状況が好転した訳ではない。むしろどんどん悪化している。かろうじて宙づりになっているだけだ。
急速に冷えて動かせなくなってく身体の末端に、確実に死が迫ってくるのを感じる。
この氷壁を登りきれないのなら死は時間の問題だ。このまま凍死するのか、或いはその前に滑落するかだ。
雷鳴が絶えず不穏に鳴り響く。
雲は見た事もない速さで蠢いて、一時も同じ形を留めることはない。稲妻が縦横にそれを切り裂いて光った。
眩しさと風雪に目を閉じても、その光景が頭から消えてくれない。
『7500mを越えると頭痛と幻覚に襲われる』カルナ・ダハルの警句が脳裏をかすめると、今度は視界の端から暗赤色の染みが広がって周囲を飲み込んでいく。
それはいつか見た、粘菌が移動して広がっていくさまに似ていた。
その赤が自分の足元から這い上ってくる。
恐怖に開いた口からは悲鳴すら漏れず、瞬きもせずに見ていることしか出来ない。
「松岡!しっかりしろ!」
何度も頬を張られのろのろと目を開く。強烈な吹雪と低酸素で霞む視界が、徐々に輪郭を取り戻す。ついにゴーグルをかけた男の顔を描き出した。
「——―あ、くつ……な、んで、」
ようやく一言絞りだしたが、その後はヒューヒューと喘ぐ音だけで声にはならなかった。
「気分は?荷物を下ろせ、ピッケルも貸せ、邪魔になる」
酸素の回らない頭に、言葉が浸透していかない。
その意味を脳が理解するよりも先に、松岡は戦慄した。阿久津が自分を背負って、この氷壁を登ろうとしているのが分かったからだ。
登攀前、お互いが危機に陥っても干渉しないという約束をした。この山へ入る者ならば、それは暗黙の了解だ。わざわざ阿久津はそれを口にするのだ、と内心驚いたくらいだ。
他人を助けるという行為など、そもそもできるはずもない。
「このまま上がるぞ、しっかりつかまれ」
ザイルが軋む音。
自分など置いていけと言いたいのに、声がでない。
意識と無意識をぐらぐらと行き来しながら、松岡は不甲斐ない自分を責めた。
約束を反故にして、自分を救おうとする阿久津に憤りさえ感じる。
それもすぐに茫漠と漂って消えていった。
腕すら動かせない松岡にロープをかけて背負い、阿久津が氷壁を登り始める。
自分では到底登り切れなかった垂直の壁。
歯を食いしばり低く唸りながらも、阿久津は嵐の中をじりじりと登っていく。
密着した部分から熱が伝わってくる。そこから自分が溶けだすような錯覚に、松岡は堪らず目を閉じた。
男の背中を温かいと感じた自分。男の登攀計画を狂わせ、約束を反故にさせた自分。
意識が途切れるまで胸を締めつけていたのは、阿久津の命を削り取っているのは自分なのだという冷徹な事実だった。
岩壁の途中、辛うじてビバーク出来る岩棚に、阿久津はテントを張っていた。そこへ担ぎ込まれて転がされ、しばらくして目が覚めた。
なかなか起き上がれない松岡に、阿久津が水分を取れとカップを差し出す。湯気で鼻先を温め、紅茶に口をつける。何度も咳込んだあと、ぽつりと口からこぼれた。
「———どうして助けたんだ」
不満めいた自分の声色に狼狽して、松岡は素早く阿久津の横顔に目をやった。
阿久津の視線は、風を受けてたわむテントを見ている。こちらを振り向く様子はない。
「助けてない、下山するまで分からん。この嵐じゃあ、助かるかどうかわからんぞ」
意を決してそう口にした松岡への答えは、何の感情も滲まない重い声だった。
それが男の本心なのか気遣いであるのか。
どちらであるのか、松岡には分からなかった。
どちらだったら自分は許されるのだろうか。そう考えた自分を恥じた。
紅茶の熱が臓腑に伝わって、今にも昏倒しそうなほどの睡魔が襲ってくる。
脳裏に浮かんだのは男の過去。ザイルの切断面にナイフで切られた痕跡があった、という新聞記事だった。
視点の定まらない目で男の横顔を見つめ続ける。
阿久津は最後までこちらを見ることはなかった。
「下りに気をつけろ、俺はもう助けられない」
翌日嵐の過ぎるのを待って、阿久津は頂上へ向けて出発した。
これ以上進むのを諦めて下山することに決めた松岡は、そこから独りで登る阿久津の背中にシャッターをきった。
その時から、この山は自分と阿久津を違う地表に置いたのだった。
山の頂を望む者と、そうでない者とに。
テント越しに朝の陽射しを感じる。昨日に引き続き、天気はいいらしい。シーズンもすぎようとしているこの時期に、珍しいことだ。
寝台からのろのろと降りて身体を伸ばし、小さなやかんを火にかけてから外へ出る。
午後には自分もここを離れて、エヴェレスト登山の入口である街、カトマンドゥへ下りなくてはならない。
カルナ・ダハルの残してくれた食料も、明日の朝には尽きる。これ以上ここへ留まることはできない。
ぎゅっと下唇を噛んで詰めていた息を、疲れた様子で吐き出した。
気付けば松岡の右手は自然と胸のあたりを掴んでいた。
目に見えない、触れることもできないのに、確かにここにあるのだ。
いっそこの場所へ置いていってしまいたい。
それはずっと。
無駄だと承知であの男を待っていたいのだと、こんなにも訴えているのだから。
上を向くとすがすがしく晴れた空の、冷たさを感じさせる青色が目を刺す。
目を細めて視線を下げると、岩壁の間の雪原に小さな点が見えた。
瞬間、耳につく拍動を感じながらテントへとって返す。双眼鏡を手に転げるように外へでた松岡の目に、先ほどよりも大きくなった点が見える。
曇ったレンズを乱暴に擦って覗きこむ。松岡は双眼鏡を放り投げて走りだした。
「阿久津!!」
雪に足を取られて思うように進まない。焦りと苛立ちで、みっともなく顔が歪んでいるのがわかる。
一瞬足を止めた阿久津が再び歩き出す。
上がる呼吸、忙しい喘鳴。
阿久津の名を呼ぶ自分の声と、雪を掻き分け蹴散らす音しか聞こえない。
高地での鉄則を忘れて軽々に駆け出した自分を、弁えろとばかりに激しい頭痛が襲う。
それでも松岡は足を止めなかった。
徐々に縮まる距離に、口許の呼気の白さが見える。
阿久津がよろよろと手を上げる。それが、挨拶や歓喜の仕草ではなく制止なのだとわかって、松岡は足を止めた。
目の前の男は、まだ単独登攀の途上にいるのだ。
頼りない足取りで、男が自分の前を過ぎ去っていく。
今にも倒れそうな阿久津と、自分の立つこの雪原は同じではない。
そうはっきりと突き付けられる。
マロリーの謎を明らかにし、エヴェレスト初登頂の歴史を塗り替えるスクープという野心も。阿久津のエヴェレスト登頂を写真におさめたいという欲望も。
もはや過去に現像した写真の1枚に過ぎなかった。
綺麗に切り取られて、客観的に眺められる行儀のよい感情。
それに比べて、今の自分を満たしているこの感情を、松岡はうまく言い表せない。
安堵とも誇らしいとも違う、もっと単純で根源から噴き出す何か。
これが何かを知っているのは、自分と恐らくはあの男なのだ。
途中で阿久津を追い抜いて、テントに駆け込む。
沸いていた湯を盥に移し、水を足して適温に整える。
辿り着くなりくずおれた身体を支えて、男のザックと装備を外した。阿久津を寝台に横たえ、盥を運ぶ。寝台から下ろした阿久津の脚を、松岡は湯で洗い温めた。
「阿久津、大丈夫か」
「……ああ」
掠れてひどく億劫そうな声がする。
「身体を起こせるか、手も」
返事もなく、片手がだらりと下がった。
松岡は男の手から手袋を外して、湯に浸した。
大きな手を表に裏にと返して、凍傷で傷んだ指はないかと調べる。そうしているうちに、阿久津は眠ってしまったらしかった。
顔に張り付いている髪を剥がし、ゆるく絞ったタオルで顔を拭く。眉が微かに寄せられたが、起きる気配はなかった。
松岡は構わずにあちこちを拭い、顔にも耳にも凍傷の痕跡がないことを確認する。
ほっとして、ずるずるとへたり込んだ。
目の高さにある男の胸に耳を押し付ける。心臓が規則正しく血液を全身へ送り出す音と、頼りない呼吸が繰り返されているのが聞こえる。
松岡は目を閉じて、しばらくその音を聞いていた。
「起きたか。飲めるか?これ」
数時間後、ようやく目を覚まし身体を起こした阿久津に、蜂蜜のたっぷり入った紅茶を手渡す。隣に開いたスペースに松岡も腰をかけた。
阿久津は金属の器を両手で包み込むようにして、しばらく熱を楽しんでから口をつけてすすった。湯気が動いて松岡にも蜂蜜の匂いが届く。
互いに髭も伸び放題で、風呂にも入っていない男二人。そこに介在するのは、なぜか蜂蜜の甘ったるい匂い。笑いをかみ殺せば口許が変に歪んだ。
「なんだ」
阿久津がまっすぐに松岡を見る。
なんと説明していいか、気持ちが定まらない。口をひらくと、言葉がたどたどしくこぼれていく。
「いや、はちみつが……そうだな。俺はただ―――あんたが戻ってこれたのが。生きて、ここへ戻ってきてくれたから」
ありがとうと出かかった単語に、少しだけ戸惑って拳で口をふさぐ。
誰に何を感謝しているのだ?
自分の選んだ言葉は。一体どのような源泉から生まれているのか。
探るように、視線を土間に落とす。
ことりとカップを置く、軽い金属の音がした。
顔を上げると、目の前に男の顔が迫っているのに驚く。
「あ、くつ」
「松岡……生きてる、俺は生きて戻ってきた」
なぁ、松岡。生きてるんだよ、俺もお前も。
間近に感じる熱い呼気の合間。阿久津の声が、泣く寸前のように上擦っている。
急に抱きすくめられ、上体が面白いくらいに強張った。
男の伸びた髭が首筋をチクチクと刺す。身じろぎし、松岡はその背にしっかりと腕をまわした。跳ねまわる心臓が直接阿久津の胸を叩いている気がして、頬が熱くなる。
松岡———―
くぐもった声が、肩のあたりで熱になって留まった。
あの吹雪の中で聞いた声と重なって、喉の奥がつまる。
ゆっくりと拘束が解かれて、男の腕が自分から離れていく。
先ほどの答えがみつかるだろうかと、松岡は男の目を見返した。
この敬意と祈りを誰に捧げればいいのだろう。
この男を地上へ無事戻してくれたことを感謝しているのだと、誰に?
神さまでなければ———―この男に。
疲労と脱水とで落ちくぼんだ眼窩に似合わぬ穏やかな眼が、急に剣呑な光を帯びる。
阿久津が松岡の顔を両手で掴み、縋るように唇を重ねてきた。
岩壁に取りつくような鬼気迫る力。そこには親愛の欠片も、労りもない。
ただ、折れそうなほどに強い圧迫感と、喉の奥を焼くような熱い息があるだけだ。
けれど、それでよかった。
死と隣り合わせの場所。
阿久津の、凍傷を免れた指が頬に触れている。
これは、そういう奇跡の一つなのだ。
その後、カトマンドゥで数日を過ごし、阿久津とは別れた。
それが最後に見た男の姿になった。
日本へ戻り、また写真の仕事を貰えるようになるには、帰国から半年ほどかかった。
連絡もろくに取れないフリーのカメラマンを、同じ条件で契約してくれた出版社の担当者には頭が上がらない。
雑誌の依頼で谷川岳を撮ったその日に、ネパールからエアメールが届いた。
そこには、数行の簡素な英語が書かれていた。
どこかのホテルの備品なのか、黄ばんだ紙にヒマラヤホテルと辛うじてロゴが見える。
何度も奇跡的に山から生還しつづけた男は、現地の流行り病で床について4日で死んだ。
古びた便箋が訴えたのは、それだけだった。
カルナ・ダハルからその手紙が届いたのは、阿久津が死んでからひと月も過ぎたころだった。
松岡は東京の自宅を引き払い、長野県へと転居した。
日本アルプスが遮蔽物もなく見渡せるのだけが、自慢の草庵だ。
自分はもう山へ登ることはないのだろう。
「何故山に登るのか」
問いに答えられる者だけを、懐に納めて尚峻厳に神々しくそびえる山嶺。
自分が足を踏み入れる資格はない。
その威容を眺める場所で、地に足をつけて生きていく。
男の答えがなんだったのかと、今でもふと思い出す。
いくつも思い浮かぶのは、どれも陳腐な理由。あの男ならすべて鼻で笑い飛ばしそうだ。
阿久津が阿久津であるが故に、山へ登る。恐らくそれがQ.E.D.だ。
全ての山に阿久津がいて、マロリーがいる。
山を見る度に、俺はあんたを思い出すよ―――阿久津。
執筆の狙い
本作はアニメ映画版『神々の山嶺』に着想を得た、独自のキャラクターによる創作小説です。原作・映画とは異なる結末を描いています。というか生きて下山させたかったという願望を書いているとこがあります。
原作も漫画もアニメも素晴らしいので、ぜひ!(映画は・・・・・・)