ミーソス
【登場人物】
・へーラー・・・ゼウスの正妻。結婚と貞節の女神。
・へーベー・・・ゼウスとへーラーの娘。夫はヘーラクレース。青春の女神。
・エイレイテュイア・・・ゼウスとへーラーの娘。へーベーの妹。出産の女神。
・イーリス・・・へーラーの伝令使。虹の女神。
・ゼウス・・・へーラーの夫。神々の王。
ヘーラーは純白の寝台の上で、宙を見ていた。その眉間には皺が出来、睨んでいるかの様であった。今彼女の頭の中には、夫・ゼウスの事が渦巻いていた。それは怒りやら恨みやらが、絡み合った複雑なものだった。
ゼウスは好色な夫であった。ヘーラーと結婚して以来ゼウスが抱いた女は、数が知れない。その中には子を生した者も居た。ヘーラーはこれらの者に、漏れなく不幸を振り撒いた。例えそれが、相手の望んだ事であるかに関わらずにだ。ヘーラーはそれ程に、許せなかった。ヘーラーの職分は、結婚と貞節を司る事である。それを乱し、主神の正妻の座を揺るがしかねない者を許せる筈が無かった。そして、そんな存在を次から次へと生み出していくゼウスが憎かった。
ヘーラーは寝台を見た。大人2人が眠れる大きさがある。しかし、この寝台で寝るのは、ヘーラーだけになっていた。隣はいつも空だった。この寝台の1人分の空白が、寂しかった。
「フッ……」
そこに至ってヘーラーの口から、息が漏れた。笑ったのだ。自嘲の笑みであった。
(寂しい、か……)
ゼウスの事が憎い。それは紛れも無い事実だ。
(そう思いながらも、寂しいのか……私は)
ヘーラーはゼウスよりも年上であった。関係性で言えば、姉でもあった。そのプライドが、ゼウスをさらに憎たらしく思わせていた。そう思う事で、寂しさに気づかぬ様にしていた。
廊下から軽い足音が聞こえて来た。跳ねる様な足音だ。
「お母様ッ!」
顔覗かせたのは、へーべーであった。春の様な笑顔が、へーラーに向けて咲いていた。彼女はゼウスとへーラーの間に生まれた青春の女神である。
「あぁ、へーべー。どうしたの?」
へーベーを見た途端、へーラーの顔から険しさが消えていた。へーラーはこの愛娘の事を、溺愛していた。
「ふふっ、お母様。準備ができましたわ。さっ、いきましょう」
へーラーは先程まで忘れていた今日の予定を、思い出した。今日はナウプリアにある泉・カナートスへ向かう日であった。へーラーは毎年この泉で、沐浴し苛立ちを洗い流していた。この沐浴の後は、ゼウスも誰にも眼もくれずへーラーだけを愛した。今日はそのカナートスへと向かう日であった。
「そう、分かったわ。………そう言えば、エイレイテュイアはどうしたの?」
エイレイテュイアも娘の1人であり、へーベーの妹の出産の女神である。いつもはそのエイレイテュイアが、呼びに来るのだ。
「久しぶりに来たんですもの。私が呼びたいって、頼んだのよ」
へーベーの頭に乗せた黄金の冠が、煌めいて美しさを引き立てていた。
この様に美しいへーベーをへーラーは、四六時中そばに置いていた。しかし、ヘーラクレースと結婚してからはそう言う訳にもいかず、離れている時間も多くなっていた。今日はカナートスへいく言う事で、久しぶりに遊びに来たのであった。
「そう、なのね……それではいきましょうか。待たせても、悪いものね」
へーラーはへーベーの髪を愛でると、共に部屋を後にした。
住まい入り口にはエイレイテュイアとイーリスが馬車と共に待っていた。
「待たせたわね。2人とも」
へーラーは2人に謝意を述べた。エイレイテュイアはただ
「いえ……」
と頭を下げただけであったが、イーリスは
「へーラー様、お気になさらないで下さい。へーラー様の為であれば、何時迄も何時迄も待って居られますから──」
とよく喋る口を動かした。
「ありがとう、イーリス。貴女の気持ちは、良く分かったわ」
へーラーはそのイーリスの口を、止めた。
イーリスはへーラーの伝令使を勤める虹の女神である。背中に生える翼が、白い羽根が日の光で白さが増していた。
「そろそろ行きましょうか。イーリス、お願いね」
へーラーが促すと、エイレイテュイアが馬車の戸を開けた。へーラーが乗り込むとへーベー、エイレイテュイアがそれに続く。それを見届けると、イーリスは馬車の前に出て背を向けた。
「よし、行きますよー!」
イーリスは翼を広げると、大きく羽ばたいた。足が浮く。途端に、イーリスの姿は遠く小さくなっていた。その後ろを、虹が掛かっていく。その上を、へーラー達を乗せた馬車が走り出した。
エイレイテュイアは、岩に腰掛けてカナートスを眺めていた。カナートスは美しい泉である。水面が陽に照らされて、輝いていた。その輝きの中で、へーラーが沐浴をしている。へーラーが身体を泉で洗う度に、表情が柔らかくなっていった。エイレイテュイアは毎年、へーラーのこの姿を見ていた。しかし、今年はそこにヘーベーが出されて賑やかになっている。今もへーベーがへーラーの背を洗い流していた。
(こう見てみると、母上の好みが良く分かる)
へーラーが気に入った者には、共通の気性があった。それは、明るいと言う事である。へーベーは元より、イーリスもこれに当てはまる。そして、ゼウスもそうであった。常は最高神としての威厳を示しているが、一度愛する者の前になればその明るさを発揮した。
(父上は母上の好みであったわけだ……そして、母上は今も父上の事を嫌ってはいない)
そうでなければ、毎年此処に来ることなどないのだ。愛しているからこそ、ゼウスの愛人が許せないのだ。嫉妬が強いからこそ、その制裁も酷いものになる。綺麗で素直なものではないが、確かにそこに愛があるのだ。
(そう、そうであってくれなければ困る……)
エイレイテュイアには、そう思いたい理由があった。彼女は2度、へーラーの愛人への制裁を手伝った事があった。ゼウスの愛人の中には子を宿した者もいた。その者に対する制裁に、エイレイテュイアは駆り出された。何をしたのかと言えば、難産にしたのである。エイレイテュイアは出産の女神である。難産にするなど、彼女にかかれば容易な事であった。しかし、その2度の制裁がエイレイテュイアの心に傷を負わせた。彼女の権能には、産婦の加護も含まれていた。難産は、産婦に大きな負荷が掛かる。最悪の場合、死に至る。これは彼女の存在意義を、大きく揺るがす事であった。それが故に思い込みたかった。
(私は母上の憎悪の為にやったのではない……愛の為にやったのだ)
憎悪の為であっても、愛の為であってもやった事は変わらない。しかし、その小さな差異が彼女にとっては何よりも大事に思えた。
(そうでなければ、私は……心の弱い私は、自分のみならず母上の事も恨んでしまう。憎んでしまう……)
ヘーラーは純白の寝台の上で、宙を見ていた。何処か浮いた様な気分であった。腕を触ってみたり、シーツを撫でてみたりと手が落ち着きなく動いている。手を止めても、そわそわと何度も居直してしまう。そんなへーラーの耳に足音が聞こえてきた。その足音は部屋に近付いている。その足音の主を、へーラーは知っていた。部屋の入り口に、待っていた顔が現れた。白髪の巻毛に白い髭。服から覗く腕は、太く逞しい。
「おぉ、我が妻よ」
ゼウスはへーラーを見るなり、相好を崩した。その顔を見てへーラーは、視線を外した。ゼウスはへーラーの横に座ると、肩に手を置いた。分厚い手の感触が、伝わってくる。両の手が、へーラーの双肩を自身の方に向ける。顔もゼウスの方を向いた。ゼウスはへーラーの顔を真剣に見つめている。
「済まない、我が妻よ。神々の女王よ。私は間違っていた。どんな女神も人間も、お前程に愛おしい者など居ない」
ゼウスの口上は、毎年同じ様なものであった。しかし、その言葉はへーラーの胸に温かく溶けていく。ゼウスの顔が近づいた。そして、そのまま唇が重なった。それは甘くお互いが持っている愛を、分からせられているかの様であった。へーラーの体が芯の抜けた様に倒される。イーリスの整えたベッドに、身を沈めた。
(嗚呼、憎い……)
ゼウスの愛を一身に受けながらへーラーは思った。散々悩まされた相手に、こうも簡単に絆されてしまう自分が。憎い憎いと思っていながら、如何しようもなくゼウスを相手していた自分が。この愛もすぐに消えてしまうと分かっていながら、嬉しく思ってしまう自分が。そして、この自分に恋い慕わせ心乱させるゼウスが、ただ憎かった。
執筆の狙い
ニワカ知識とWikipediaさんの情報で書いてみました。
最初はエッチなのを書こうと思ったけれど、向いていなかった様です。
書いてて神話って面白いなと、再認識しました。