タリーズに葉加瀬太郎がやってきた
毎朝、9時の開店と同時にタリーズに足を踏み入れるが、9割くらいの確率で、野口さんに会う。
この、野口さんという店員は、ちびまる子ちゃんの野口さんとそっくりの見た目をしており、だいたい50代くらいの、髪は明るめの茶髪にしているけれども、全体的に暗い、おとなしそうな、無口で、客に対しても関心がなさそうな、おそらく俺がちんこを丸出しにしていても気づかないだろう。
会計時にタリーズアプリをバーコードでピッとやる時も上の空で、おそらく、スマホの代わりにちんこを出しても、ピッとバーコードみたいに打たれてしまいそうで、まぁ、俺のちん毛の並びもたまにバーコード表示みたいになっているときがあるから、レジ機械に『エスプレッソ』と入力されてしまうこともなきにしもあらずといったところだが、
このタリーズに通い詰めてはや2年、ほとんど毎日、このおばさんと会う。家政婦のミタのような、サイボーグ感、仕事をそつなくこなし、もう新しい仕事を覚えることもなさそうで、ただ慣性のままに働いている。まるで俺が出前館で働くような感じで、この人も、地球がぐるぐる回るにまかせて、あるいは、ハムスターがぐるぐる回るやつのように、やっているんだろうけれども、間違えて、この人がぐるぐる回っている回し車の中にバイクで入ってしまった気分になる。
とくに、俺といえば、午前と午後と2回、朝9時〜11時と昼の13時〜16時、出前館の配達がてら、ほぼ一日中、タリーズで過ごしているわけだが、そのことも、あまりよくわかってなさそうな──
ほとんどの店員からは、まーた来やがった、出前館の休憩のためにウチに涼みに来てんだろ? 海にホース繋げて水浴びながら走ってろよバカが、と思われていそうだが、この人はまったく頭からそんな感想は持っていなそうである。
この三千世界に、我関せず、我知らず、我動じず、我よしなしごとなし──
基本的に笑わない。この人が笑ったところを見たことがない。まぁ、俺も笑ったことがないので、お互いさまだが、後に続くお客さんたちも笑わないので、朝からお通夜みたいな空気が流れる。コーヒーじゃなくて墓石にかける水をもらっているような、この目の前の地蔵にぶっかけるためにもらっているんじゃないかと思う。
俺のこともわかってないんじゃないかと思う。もうここ2年、毎日顔を合わせているけど、俺のことも知らないんじゃないか。
そんなことありえるか? と思うかもしれないけど、
「あの、すいません、初めてなんですけど、おすすめとかありますか?」
と聞いても、
「はい」
と言われて、普通におすすめを紹介されると思う(そりゃそうか?)
こればかりは直感としかいいようがないのだけど、なんとなく、この人は結婚してないんじゃないかと思う。子供もいないんじゃないか、そんな気がする。
なんとなく、家庭を持っている女性とそうでない女性はわかってしまうというか、女性の手には、これまでに洗った皿の量が、回転寿司の積み重ねられた皿のように背後に見え隠れするものだけど、この人の手には、背後に寿司をのせた新幹線の機械が素通りしていくようである。
とはいえ、人生に満足しているといえばしている。それについてとやかく言われる年齢も逸して、母親もやっと何も言わなくなり、正真正銘の自由を手に入れた。あとは気兼ねなくやりたいことをやるだけ。しかし、やりたいこともやることもない。まぁ、コーヒーでも作っか、みたいな、ちい散歩みたいなノリで、黒ずんだ乳首もコーヒー豆も一緒だろうということで、タリーズにやってきた。
このタリーズには、筋肉ダルマのような女性もおり、この人の場合はすぐに結婚しているとわかる。「せー!(いらっしゃいませの略)」と無駄に店内を荒らしまわるような声を出してまわっているが、これは結婚していなかったら無理な芸当だったろうと思われる。何一つ不安なく、力みなぎり、家電量販店の店員に負けない声を出せているのは、家族がいることからきており、誰もが職場でこんなふうにやり通したいから、人々は結婚をするのだろうと思われる。
※
ある日、野口さんがテーブルをダスターで拭きながらブツブツと独り言を言っていた。
いっとき、昔、アニメで、イマジナリーフレンドが流行っていた時期があったが、それを思い起こされた。まぁ、ちびまる子の野口さんもそんなキャラだし、コーヒーよーし、ストローよーし、粉チーズマンカス代用よーし、と汽車の駅員みたいに、一つ一つ声に出して確認する類の仕事でもないし、何してるんだろうと思って見ていたら、どうやら、座っているおじさんに話しかけていたらしい。
葉加瀬太郎のようなチリチリパーマ頭に、ガッチリした体型、服装は白のYシャツに緑のカーゴパンツを履いて、小綺麗な格好をしていた。野口と同年齢くらい、50代くらいの、仕事がよくできそうなサラリーマンといった調子で、ずいぶん使い込んでいると思われる、FMVの古い小型のビジネス型ノートパソコンをテーブルの上に置いて、キーボードを叩いていた。
野口さんはテーブルを拭いたり、食器を片付けたり、店内のあちこちを移動していたが、隙をみてカウンター内に入り、アイスコーヒーを一杯作ると、それをトレーにのせずに手掴みで持ってきて、葉加瀬のテーブルの上にポンと置いた。
葉加瀬はそれに目もくれず、礼の一言も言わず、キーボードを叩き続けていた。FMVのやや古い型の小型のビジネスノートブックだったが、いかにも仕事のために使われているといったパソコンで、付箋やメモがたくさん貼り付けられている。
(誰だろう)
(誰かしら……あの男は……)
(FMVの工作員?)
カウンター内で釘付けになって見ている従業員たちの手から注がれているコーヒーの液体がカップからあふれでていた。
野口さんは従業員らの視線が気にならないのか、男と話し続けていた。
学校時代などもそうだったが、おとなしい女子生徒であっても、この手の視線をまったく気にしない剛のタイプがいる。学年に一組か二組くらい、まるでふたりの世界といったように、クラス内の視線に晒されながらも、学校内のすべての時間をふたりで過ごし、休み時間も一緒に過ごし、一緒に弁当を食べ、一緒に帰っていくカップルがいるが、あれと同じ類のように思われた。
あんがい、人気者タイプの方が、恋人と一緒にいるのを見られるのを気にするというか、自意識過剰というか、クラス内で付き合っても、学校では口を効かない態度を通そうとするきらいがある。
この手のカップルはなかなか別れず、3年間ずっと付き合い通しで、とうとう学校時代に同性の友達との思い出はほとんど残らないといったことさえあり、その男の手垢がベッタリついているさまときたら、風呂場の根強い汚れのようにガンコで、たとえ別れて心機一転を図ろうにも、時すでに遅し、ほとんどエキスが残ってないとみなされ、「さぁどうぞ♪」と差し出されても、「いや……いい……」というふうに残り物のプラサード同様に見なされ、まるで引退後のAV女優と同視されてしまうほどに落ち込んでしまうのは、日本人の悪い癖というか、悪い潔癖性のあらわれである。
「葉加瀬くん」
「くん付け」で呼んでいた。やっぱり結婚はしていないらしい。
くん付け、甘い、ノスタルジックの香りが飛び込んでくる。年代でいえば、くんせい漬けの方が合っているように思われたが、50代くらいの男女のくん付けというのは、あすなろ白書のような、昔のいい時代の青春の名残を感じさせる。
「きゃあああああーーー! 君だって!」
「君、君って」
「クンニみたいなもんじゃんね〜」
と、バックヤードの従業員たちの黄色い声が飛んできそうだった。
だけど、このぐらいの年齢になると、若い人同士の恋愛とは少し気色が違う。やたらと世話を焼いているのが目立った。野口さんは、相変わらず、そんなに笑う……といったことはなかったが、男の行動やパターンや性癖を知り尽くしているようで、さっとコーヒーを出したり、さっと荷物を収納ボックスに入れてあげたりして、それも無言のうちにやっていることが、長年によって染みついた歴史のようなものを感じさせた。
しかし、それにもかかわらず、色褪せないときめきのようなものがあった。これは、どこからきたものだろう。
たとえば、二人が最初、出会ったのは大学の図書館で、共通の親友を自殺で失い、野口はもともとその男と付き合っていたが、葉加瀬も野口も互いに恋心を抱いていることはわかっているが、その死んだ親友の存在が気になって遠慮してしまい──、その間、隣のキャンパスB練にいるミドリとかブルーとかいう活発なタイプの女性と知りあい、ついつい恋に落ちていくが、やっぱり精神病院にいる野口のことが忘れられず──
ノルウェイの森の読みすぎか。
一つ、この男に特筆すべき点があるとすれば、まるで疲れているところがなさそうだった。もう50代くらいの男性になってくると、たいていは、みんな疲れた顔をしているのものだが、それがほとんど見られなかった。やはり家庭を持っていないからか、好きなことを仕事にしているからか、音楽家か、YouTuberか、出前館……
出前館?
さすがに出前館やってちゃぁ、ノルウェイの森みてーなストーリーも台無しだな! バン! バン! と俺は机を叩いた。君の膵臓を食べたいじゃなくて、君の海鮮ピザが食べたいみたいになっちまう。
野口の方も一緒で、疲れている様子がなかった。、彼の世話を焼いているときは少しも疲れるということはなさそうで、一緒に暮らしているかどうかはわからないが、家に帰っても、すぐに上着を外してハンガーにかけてあげたり、スリッパを出している光景が目に浮かぶようで、また、野口自らがそれを買って出たいと申し出ているようだった。
(ふーむ。普通の妻より、妻らしいことをしている)
これだけの妻力があるのならば、どこの妻になってもやっていけるだろうに、と俺は思った。
いや──
逆に、結婚しないことで、独身としてのキャリアを築くことで、妻力が養われるということがあるのか。
「あー! 私も野口さんみたいに、結婚しなければよかった〜!」
「家に帰ると、つい主人につらくあたっちゃうのよねぇ〜!」
とでもいうかのように、自身の過ごしてきたタイムテーブルと取り替えたい──というような声が、タリーズのバッグボード内にて、従業員たちがエスプレッソマシーンにウィぃぃぃ!とガミガミガミガミとひき肉のように潰されていくように声を上げていた。
野口自身は、トラップカード発動──といったふうに、すべてをちゃぶ台返ししたつもりは毛頭なく、これみよがしな自慢げなところはなかった。自分がもともと住んでいる世界はこちら側であって、タリーズで過ごしている方は世を忍ぶ仮の姿、独身G面👺とでもいうかのように、初めからまったく気にしていないという様子だった。
もし、野口が新卒2、3年目で結婚していたら、この力は育たなかったかもしれない。これは、女性すべてに言えることかもしれないが、すべての女性の中にある、一人の男に尽くしたいという気持ちが長年にわたって抑圧に抑圧された結果、かえってその力はたくわえられ、バネをもって跳ね返り、既婚女性たちをひっくり返してしまうことがあるのだ。
俺は安心した。
以前、子供時代、飼っていた猫が退屈しているように見えるから、はやく家に帰ってかまってあげなければならないという責務感に襲われていたという内容の記事を書いたばかりだが、どこかで、野口と遊ばなければならないと思っていたところがあったが、これで遊ぶ必要がないことがはっきりして安心した。
また一人、幸せな人が見つかってよかった。
俺は野口が作ったコーヒーを飲んだ。先までは墓石用の水のような味しかしなかったが、熟成されたワインのような味がした。
酔いがまわった俺は、今、外を歩いたら、 吾輩は猫であるの猫のオチのように、フラフラして穴に落ちて死んでしまいそうだったので、今日の出前館の出動はやめることにした。
※
翌朝──
朝9時、開店と同時にタリーズに行くと、野口がいた。
相変わらず、我知らず、関せず、動じず、といった調子でレジに立っている。まるで店と関係のない人みたいだ。
「ご注文はうさぎですか?」
俺はいっしゅん、耳を疑った。
野口がそう言った気がしたのだ。
「ご注文はいかがなさいますか?」
「本日のコーヒー、ショート、店内で」
「かしこまりました」
相変わらず、野口は笑わない。
(それもいいさ)
その笑顔は、ちびまる子のためにとっておくがいい。
俺は野口が渡したコーヒーを手にすると、そのまま、吾輩は猫であるのオチの猫のように、フラフラと歩きながらお気に入りの席までいき、これから暑い中をバイクで走ることに備えて、ちゅううう♪とバッタみたいにカップに吸い付いて水分補給することにした。
執筆の狙い
よろしくお願いします。5195文字になります。この令和の時代の新しい小説スタイルを打ち出すべく、ここで鍛錬した文章を映像表現と合致して活かせられないものかと模索したものです。よかったらご視聴ください。『未確認飛行物体マンモッコリ』https://youtu.be/cMW4C-L4H18?feature=shared