漂泊の剣 ─第二幕─
二月初旬、岡田以蔵は京都を後にし、坂本龍馬の助言を頼りに江戸にいる高杉晋作のもとへ向かった。
何かしら新しい道を示してくれるかも知れんのう──
初めはそんな期待を抱きつつの旅だった。しかし、京洛からの脱出は寒さが残る時期での孤独な逃亡であり、さらに精神を疲弊したままの旅路は決して容易なものではない。よって道中、以蔵はこれまでの自分の歩みについて顧みることを一度もしなかった。意味がなかった。生きていたいという悲痛な叫びだけが、以蔵を前に突き動かす唯一の原動力だったのかもしれない。ようやく江戸に着いた頃には、精も根も尽き果てていた。
龍馬の指示通り長州藩の拠点を訪ねた以蔵は静かに迎え入れられ、高杉晋作のもとへ案内された。
かつて松下村塾で吉田松陰に学び、その後は長州尊皇攘夷派の中心人物として頭角を現した高杉晋作は、若くして盟友・久坂玄瑞《くさかげんずい》と共に「松下村塾の双璧」と謳われた奇抜鬼才の志士だ。以蔵は坂本龍馬の推薦を受けたことで、この男と直接顔を合わせる機会を得たのである。
「君が岡田君か、坂本からは聞いている」
控えめな笑顔で以蔵を迎え入れた。
昔の師に似ている──
と以蔵は思った。柔和なその物腰の中に、どこか痛烈な思想家としての芯を垣間見た気がした。
「京、あそこはもう幕府の間者の巣だ。君が長居する場所じゃなかろう」
高杉晋作の言葉に以蔵は視線を反らしうつむいた。刹那、晋作はそこに下卑た野良犬の目を想起した。
思わず、「憐れ」と口をついた。
「……まあ、話は後にしよう。先ずはひとっ風呂あびてきな、今、仕度をさせている」
「恐れ入りまする……」
晋作の施しにどこか安らぎを覚えた。「ありがてえ」とだけ短く返事をする。
こやつは敵ではない──
その瞬間、以蔵の中で仮の宿は決まった。
翌日夕刻、高杉晋作は以蔵の部屋を訪れた。片手に織部の徳利をぶら下げ、もう片方の手には萩焼の湯呑を二口指に挟んでいる。
「どうだい、疲れはとれたかい」
「はあ、かたじけのうございます」
「よかった。桂が置いていったものだが、付き合わんか」
「いいんですか……ご馳走になります」
並々とついだ。以蔵は一気に煽った。
「ああ、うまい!」
「いけるくちかい」
晋作がまた注ぐ。
「高松の『凱陣《がいじん》』、大吟醸だ。このキレと深い米の旨み、異人どもにはわかるまいよ。奴らに呑ませてなるものぞ」
晋作はゆっくり酒を煽ると、自身の思想を語り始めた。
「岡田君、まあ聞きな。攘夷とは夷を攘《はら》う。つまり、異国勢力を国内から駆逐することなんだよ。でなければ、日本国を護ることはできん。清国のようにしてはならんのだ」
過去に上海を視察した経験が、晋作の尊皇攘夷思想に火をつけた。
「あの国はアヘンで骨抜きにされた、今や英吉利《えいぎりす》の奴隷だ。列強はやることがえげつない。で、やってやったさ」
晋作は昨年末(文久二年十二月)、江戸北品川の御殿山に建つイギリス公使館を焼き討ちしている。彼を筆頭とする長州藩士十二名は、闇夜に紛れて完成間近の公使館に放火し全焼させたのだ。
「なんと……」
「だがな、やったはいいがどうやら幕府の片棒を担いじまったらしい。甘かった、笑えるだろ」
と、晋作は不適な笑みを溢した。
「は、はあ……」
「ところで君の持つ刀は」
「はい……肥前忠広、と聞いております」
「ほう名工忠広の。で、聞いているとは」
「龍馬から、貸し与えられたものでございます」
「なるほど、良いものを。この肥前忠広は日本の伝統美の結晶ともいえる。しかしな岡田君、刀を握るだけでは志士足り得んことは知っておくべきだ」
隆々たる武士の家柄という生い立ちながら、高杉晋作の行動には伝統を超えた新たな考え方が根づいていた。制度に囚われない新しい社会構想を持ち、藩内で強い存在感を示していた。
「心に剣を持つ者、即ち闘争心があるならば、身分を超えて思想や理想を身につけるべきである。たとえ手にした武器が鎌であろうが天秤棒であろうが」と、晋作は熱く論じた。
これは吉田松陰の思想『草莽崛起《そうもうくっき》』。のちの奇兵隊組織に象徴される、身分を超えた軍隊構成思想を端的に伝えるものであった。
「はあ……」
以蔵は深く考えさせられるものの、民衆にとって大志がいかほどの役割を持ち得るか、答えを見出すことができなかった。
「武市さんからどんな教えを受けたかは知らぬが、それに囚われずに自身の生き方を考えたらいい。剣が君を振るうのか、それとも君が剣を振るのか、そこが分かれ目だ」──
数日以蔵は晋作の静かで力強い言葉を思い返した。
振るうのか、振るのか……異なことを言う──
剣術のみに生きた以蔵にとって、思想とはあまりにも高尚であり、全てを理解する術を持ち合わせてはいなかった。
その後坂本龍馬の口ききで勝海舟の護衛についたことがあった。勝には日本の行く末について聞かされた。
「はあ、なるほどそうですか」
とは答えたが、さっぱりわからぬ──というのが本音であった。
晋作の庇護を受け、幾多の機会に恵まれながらも、結局以蔵には己の生き方を見い出すことができなかった。しかしながらそれには、課せられた時間があまりにも短かかったというのも大きな理由である。
三月、状況が急速に動いた。晋作が藩命により京都へ向かうというのだ。以蔵はその流れに乗った。再び京洛の地へ足を向けることに決めた。これもまた運命であろうか。わずか一か月前に逃げるように去ったはずの地へ戻るという矛盾じみた行為に、以蔵はそれほどの疑問を抱かなかった。ただその場の流れに身を任せることしか選択肢を見いだせなかった。もはやそれは依存といえよう。疲弊した魂に、怠惰な心が巣くっていた。
京都に戻って暫くののち、高杉晋作の庇護は断ち切られた。晋作が攘夷実行のため長州に戻ってしまったのだ。京を発つ時、彼は以蔵に付いて来いとは言ってくれなかった。
以蔵はひとり藩邸を出た。その後晋作の攘夷実行を機に、長州藩は時代の激しい潮流の波に襲われることとなる。
秋風が京洛にそよぐ真夜の静寂《しじま》、突如として会津藩や薩摩藩が中心となった公武合体派勢力によって、長州藩は朝廷から排除された。いわゆる八月十八日の政変である。これにより、長州を主軸として進んでいた攘夷決行の流れは急激に停滞した。その余波は各地へ波及し、土佐藩にも影を落とす。
土佐勤王党は攘夷運動の弱体と同時に、藩主・山内容堂による弾圧の標的となっていった。藩は手始めとして、公武合体を唱えていた当時の参政・吉田東洋暗殺の真相究明に動いた。これにより、武市瑞山の理想もまた、時代の波に呑み込まれていく。
「追風が止むのもまた、土州の宿命……」
拘束された時、武市はそう呟いたという。
長州藩邸を出た岡田以蔵は、暫くは乾いた喉と空腹を抱えながらも京の町を彷徨っていたが、やがて金もつき、限界を迎える。
売るしかなかろう──
龍馬に借り受けた肥前忠広を握りしめ、刀質の前に立った。薄暗い店の奥で主人が怪訝にこちらを見詰めている。
すまん、生きるためじゃ──
以蔵は意を決し、足を踏み入れた。
「あんた、こいつは銭になるじゃろ?」
「どれどれ」
主人が鼻を鳴らして出てきた。
「忠広の名刀じゃ、十両は下らんはず」
「十両……」
瞬間、主人は以蔵を見切った。
この成り、こいつは匠業《たくみぎょう》の価値も知らぬようだ──と思ったに違いない。取引の桁が違うと。
「拝見しましょう」
柄から外すと忠広の品に間違いはなかった。
「ふっ……」
嘲笑を抑えながら刀の隅々まで目を光らせて言った。
「五両でどうです?」
「な、なんじゃと!」
以蔵は怒りをあらわにした。
「忠広の名は立派だが、数が多いんですな。それにこの欠けた刃じゃ十両なんてむりですよ。ほら、こことそこ、微かだが。ね、名刀でも欠けちまったら価値はない」
その冷たい眼差しに、以蔵は詰め寄ることができなかった。
「せめて八両でどうか」
「しようがありませんねえ。金は足せませんが、代わりにこの刀をお付けしましょう。お客様もお侍でしょ、腰が煤けてしまう」
主人は手元にあったなまくら刀と五両の金子をしぶしぶ手渡しながら、心でしたり顔を浮かべた。
全ては己の脇の甘さ、無知蒙昧がそうさせたのだ。騙されたと気づいた時には、手にした内の一両が酒と飯に消えていた。
日が落ちてから辻君を買った。
「兄さんあんた、寂しそうな顔だね」
小柄ないい女だった。
ぬるまった六月の川風に晒されながらも妙に枯れた目をしている。三十路は過ぎているだろうか。舌舐めした紅い唇だけが、月明かりにぷっくり映えていた。
「失っちまった」
「何をさ」
「剣を……」
「ふっ、腰にさしてるじゃないか」
声は吐息のように柔らかだった。
答える前に女を抱き寄せていた。
「気が早いねえ、どれだけ乾いていたんだい?」
女は笑いながら腰をひいた。
その夜は、辻君の住む長屋で過ごした。
「京の雪」/ 亡響
https://youtu.be/YcapMDaj-_0?si=_L8oKQMsGzv1E2JV
執筆の狙い
『漂泊の剣』続編となります。
今回は夜の雨さんからのアドバイスを参考に、後半に「女」を登場させています(カクヨムには掲載されていない描写です)。
よろしくお願いいたします。