肉筆回覧体
その日は暑かった。八月の午後。地面から跳ね返る灼熱の熱気を全身で浴びていた。部屋の空気はグツグツと煮えた鍋のように重かった。家賃は六万八千円、築55年エアコンなしの四畳半。東京に住んでいるとはいえ、なんとも寂しいボロアパートだ。扇風機がうるさく首を振る。部屋に置いてある黒いテーブルの上でペットボトルがジトジトと汗をかいていた。
俺は中学を卒業してから家を出た。日雇いの仕事をハローワークか電柱に貼ってある怪しげな広告から見つけては日銭を稼いでいた。その日の現場は、いつもより一段と暑く、昼飯も家畜の餌同然だった。仕事が終わるころには現場仕事のねっちょりとした男が出す独特の脂をまとっていた。部屋に戻って一刻も早く、自分の背脂と分離したい思いから320円を握りしめてバスに乗車し家路を急いだ。
築55年の角部屋で日当たりは悪く、常に湿気とカビ、家畜の背脂で充満している。
ぬるいシャワーを浴びながら、俺はずっと腕の内側を見ていた。特にケガをした覚えはない。痣でもない。けれど、24年間生きてきて感じたことのない違和感が腕にはあった。
皮膚の下に筋が浮いているような、血管ではない。脂肪でもなく、もっと浅くて、もっとどす黒い。
洗い流せば消えるだろうと、牛乳石鹸を乱暴に泡立て指先でこすってみる。シャワーの音にかき消されながら自分の皮膚の表面がシュッシュッと音を立てる。
それでも、違和感は消えなかった。
指でなぞった時、ほんのわずかに盛り上がっている事に気づいた。
異物感。
まるで皮膚の中で内出血を起こしたかのような、皮膚の裏に埋まっていて、内側から押し出されれているような何か…
鏡を曇りガラス越しに見て、自然と背中に目線がいった。
そこにも、うっすらと、どす黒い筋が浮いている。まるで誰かが書きなぐった筆跡のような。
石鹸の香り。生ぬるい水音。カビで湿った蒸気。全てが日常なのに、その中に異常なモノが、ポツンと混じっている。
シャワーの温度を上げた。熱湯が肩に打ち付ける。
なのに、そのどす黒い筋ははっきりと、クッキリと黒さを増していった。
それが文字だと気が付いたのは数分後の事だった。
「2025年8月18日19:18」
今思うと、腕に書かれている内容は現在の日時を示していた。
だが、その時は作業現場で、何かの銘板でも擦ったのかと思った。疲れていたし、あまり深く考えなかった。
真夜中とはいえクーラーのない部屋は強烈な湿度とモワッとした室温で家畜の汗をむき出しにしていく。早朝に近づくにつれて、俺の体は脂まみれになっていた。
翌朝、気持ちの悪さからシャワーを浴びようと薄手のシャツを脱いだ時、脇腹のあたりに昨日にはなかった黒い筋が浮かんでいた。
鏡の前に立ち、改めて自分の中性脂肪が乗った脇腹を注意深く観察する。
筆で書かれたようなミミズがへばったような筆致。皮膚の内側から染み出すように浮かんでいた。
「こ、今生、労役を果たし終えたり…」
意味は、分かった。分かってしまった。
現世の務めは終わった。誰が、誰に向けて、そう記したのか。
俺は何が起こっているのか見当もつかなかった。それよりも、あまりにも汚い文字めいたモノだったので自分でも半信半疑に見ていたのかもしれない。
語り口に感情はなく、皮膚の内側から浮かび上がった筆跡は昔、お寺で見た僧侶が、唱えるような経文に似ていた。
時計の針が夜九つを指したとき。相変わらずの暑さから顔から吹き出る脂を落とすことにした。洗面台にある、くたびれきった洗顔石鹼のチューブを絞り石鹸を首周りから塗りたくる。顔を拭うたび、首の裏に感じたことのある、ざらつきが残る。
指先でなぞると、そこにはまた、何かが浮かび上がっていた。
「次なる問答、罪について語らん」
その一文が皮膚に触れた瞬間、喉の奥が詰まった。
声が出ない。自分の体が、その瞬間だけ自分でなくなる感覚。まるで、何かが自分に喋らせようという感覚だ。その直後、皮膚の下で何かが、うごめいた。呻きにも似た音。内側から聞こえた。
オン・サンサーラ・カルマ・スィッダ・ソワカ
人間の声ではない。だが、確かに俺の中のどこかで唱えられていた。
次の日の朝、目覚めは最悪だった。まず感じたのは皮膚の引っ張りだった。
内側から突き上げるような違和感。腹部の下あたり、シャツの裾をまくると新しい文字らしきモノが羅列されていた。どす黒い筆跡で。昨日より長い。明らかに文章だった。
「君は命を再生可能な部品として扱った。再生は“権利”ではなく、“義務”とした」
最初の一行を読んだ瞬間、言い訳のような何かが喉元までこみ上げたが、それは途中でつっかえて消えた。思い出してはいけないモノが脳幹から這い出して来る。
白色の大脳皮質の内側を、錆びた手術針でなぞられるような記憶だった。
俺の体表面に付着している皮膚は沈黙しているわけではなかった。文章は体のあちこちに続いていた。右の脇腹に回り込んだあたりから、さらに筆致が続いている。
「切断、観察、再生、再結合」
自分の呼吸が浅く、早くなり身体の震えと同調していた。心臓の音ばかりがやけにうるさく、足がもつれそうになりながらも洗面台へと向かった。シャツを脱ぎ捨てる。背中、肩、太もも。あちらこちらに知らない文体の記述が浮かんでいた。そしてどの一文も、俺の過去にしか存在しえない記憶と寸分違わぬ内容だった。
幼稚園の頃、俺はよくミミズを切って遊んでいた。だから俺は雨あがりの校庭が大好きだった。まだ乾ききらないコンクリートの上に長く伸びた、それらがよく這い出していた。
最初は怖かった。指で突っついては引っ込む様子を楽しむだけだった。
それがカッターに変わったのは、ある日、誰かが言ったからだ。
「ミミズは切っても生き返るよ」
その言葉に安心した。安心して何度でも斬れると思った。はじめは真ん中から。それから斜めに。真ん中よりちょっと右端にしわしわがある。輪切りに、分割して並べた。分割してもそれらは、うねうねとのたうち回っていた。俺は生命が二つになった。三つになったと喜んだ。
両端がそれぞれ動き出すと、俺はノートに日付と形を記した。
「生きている」
「分裂しても大丈夫」
そう思っていた。本気で、そう思っていた。
でもある日、一本のミミズが、どうしても動かなかった。切り方が悪かったのか、体液のにじみがひどかった。でもミミズの体液は赤くない。だから痛くないと思った。
そのとき俺は初めて、「死んだ」という言葉を思い出した。
次の瞬間、皮膚の上に言葉が浮かんだ。ちょうど脇腹のあたり。
「死んだ。ひゃっかいチョンギッタ。もう切れない。ゴミばこ。」
どこか懐かしい言い回しだった。いや、違う。
これは、俺が当時、記録していた言葉そのものだった。
俺の中には、最初からそういう“視点”があったのか。それとも、今になって“誰かがそう書いている”のか。わからない。ただ、その日からミミズは、「命」ではなくなった。「素材」になった。
次に浮かび上がったのは、背中の左肩肩甲骨あたりだった。皮膚が爬虫類の脱皮前の黒い鱗のようにざらつき、異物感が蠢いていた。鏡越しに首をひねると、そこにはまた文のような、否、記録のような筆跡が浮かんでいた。
「生体に名を刻み、他種へと回路を結んだ。」
あれは、たしか小学校の高学年の頃だった。理科室裏の植え込みには各学年の子供たちのパンジーやチューリップが咲いていた。たまにカエルが素知らぬ顔でピョンピョン飛び跳ねて女児たちを無邪気にからかっていた。近所の悪ガキどもは、まだ万引きや校舎のガラスを割るような、たいそうな事は出来なかった。準備運動として虫網で追い回しては放り投げていたが、俺はその日、妙に静かな衝動に取り憑かれていた。
ひとり孤独に理科室裏の植え込みでカエルを探した。さほど苦労するでもなく一匹のカエルをつまみ上げた。カエルの腹は白くヌルヌルしていた。俺はそれを、給食の牛乳パックの中に入れたまま、ランドセルにしまった。
その日の授業、友達との会話、まったく頭に入ってこなかった。いいや、学童期の記憶自体が、そのワクワク感に比べたら陳腐な体験に思えた。
放課後、誰かがトタン屋根をはつったようなボロ小屋に戻った。支柱は腐りかけ、いつ崩れ落ちてもおかしくない状態だった。行政が先に指導をいれるか、支柱が朽ちてしまうか。俺の幼少期の命はオンボロの支柱が握っていた。
誰もいない時間を見計らい、アルコール中毒の親父の工具箱を開けた。工具箱といっても、エロ雑誌の破片、カッターナイフ、朽ちたマイナスドライバー。変色した接着剤が無造作に入っている木箱だった。その中には小さなカタツムリ数匹と大きなカタツムリが一匹、混じっていた。以前、図工の時間に使うために持ち出したときはカタツムリはいなかった。台所のまな板にタンスの下に敷いてあった新聞紙を敷いた。バックから取り出したとき、カエルはもう、ほとんど動かなかった。
腹を裂いた。
脈打つ心臓がチラチラと動いていた。腹を裂いた意味は特にない。残虐に見えるかもしれないが、かっこよく言えば知的好奇心だ。縫合してやれば問題ない。
ただ、理科の授業中に見た教育ビデオが脳裏の奥底からフラッシュバックした。
カエルの大脳を切り離して手術して、田んぼに放流して意味もなくグルグルと力尽きるまで泳がせる姿。
ねっちょり。ねっちょり。工具箱からカタツムリがゆっくりと何かを語りた気に、手元へとやってきた。
俺はそこでランドセルに付いていた名札の針をカエルの頭に刺しこんだ。布製の小さな名札。その角で、ジワリと名前のインクが滲んだ。接着剤で慌てて傷口を塞ごうとしたが、イボイボの表皮がズルンと向け落ち紫色の筋肉が毒毒と姿を現した。変色した接着剤は傷口から侵入したと思う。大脳と握手をしたのか両足がピョンピョンと踊った。
代わりに。もっと細い何か。たしか、カタツムリの触覚だったと思う。カエルの茶褐色の腐汁がどろりと湧き出す。カエルの薄紅色の大脳に突き刺して、何かが通じるかと思い込んでいた。
「接続完了」
その文字が、肩甲骨のすぐ下、背骨に沿って浮かんでいた。まるで電気回路のように、言葉が神経を這っていく。あのとき、俺はなぜか、カエルが“俺の言葉”をしゃべると思っていた。言葉を、分かち合えると。でも、カエルはそのまま死んだ。俺にの名前を言わぬまま、死んだ。最後に俺はカエルの眼球をくり抜いた。それを小さなピンセットで取り出して、自分の机の引き出しの奥---。昔、ビー玉やお菓子の付録を入れていた箱にそっと、しまった。
「この目で俺の事を見続けていてくれ」
それは祈りだったのか。命令だったのか。自分でも分からなかった。
数日後、その引き出しの中が異様なヌメリで満たされていた。カエルの血走った生のビー玉は潰れていた。
その時、背中に浮かんだのは
「視線、保持完了。継承せしは、観察者の位置なり」
という筆跡だった。
「保管した。」
その三文字が、脇腹に浮かび上がっていた。俺はしゃがみ込み、腹を抱えた。身体の内側から、誰かの目で覗かれているような感覚。
これは、告発か。記録か。あるいは
「オン・サンサーラ・カルマ・スィッダ・ソワカ……」
呻きのような真言が、喉の奥から零れそうになる。
ある日、クラスの誰かが言った。
「カエルってさ、あんまり触らないほうがいいんだって。触った手で目を擦ったら失明するんだってよ」
理由は不明だった。毒か。バイ菌か。迷信か。でも、俺は妙にその話が頭に残っていた。
その頃、俺は20代前半の女の担任が大嫌いだった。クラスの陽な生徒にはフランクにニコニコと話していた。俺に対しては声がうるさく、香水も臭かった。やたら「清潔にしなさい」とからかってきた。
ある時、校庭の端っこでミミズを分解していたら、背後から女が吐き捨てるように言ったことがある。
「そういうのはきちがいか、変態がやることです」
だから、俺は試した。夜のうちに摘出しておいたカエルの眼球を、乾かないようラップに包んで白いフィルムケースに入れて、学校へ持っていった。
理科室で掃除の当番になった日、教師の引き出しの奥にあったコンタクトレンズケース。
その中に、ほぐれたカエルの硝子体を、そっと混ぜておいた。2ウィークかな。コンタクトレンズの窪みに住処を見つけたのかカエルの視覚の器が混じる。
もし本当なら、次にあいつがコンタクトを入れたとき、
失明する。
でも、しなかった。それどころか教師は翌日も、いつも通りの大声で、俺の腕を見つけては「不潔だ」と言った。
「汝、視えざる呪を仕掛けしも、相手は“受肉”せざる者なりき」
それが何を意味しているのか、そのときは分からなかった。でも、あの教師が人間ではなかったのではなく、俺の“祈り”のほうが、祈りとして未熟だったのだと。そんな気がしてならなかった。
次に浮かび上がったのは背骨の下。仙骨の上あたりに皮膚の割れ目から滲む硬質の膜。光沢をもった文字列だった。皮膚の中で別の意思が芽吹いたかのような感覚。這い出すように文が刻まれていく。
「白き眷属を裂き、奉り、祀りし記録。」
あれは、中学校に入学して二週間ほど経ってからだったと思う。
学校の裏手には雑草に覆われた小さな祠があった。近所の年寄りや大人でさえ忘れさってしまったような願いの残骸。周囲は竹やぶに囲まれていて、昼でも薄暗かった。祠の中には、古びた陶器の狐が片方だけ残っていて、もう片方は何かに食われたか、頭と体を繋ぐ細い肉がむき出しになっていた。
その祠の前に、二匹の白蛇がいた。ほっそりと長く、まるでガラス細工のような透けた鱗がヌラヌラと揺れていた。
俺は「神様」だとは思わなかった。ただ、綺麗だった。触りたかった。裂いてみたかった。
最初に締めたのは、頭部だった。制服のポケットに入れていた朽ちたマイナスドライバーで一匹を突き刺した。抵抗はなかった。蛇の目は閉じなかった。黒曜石のような眼球が、まっすぐこちらを見ていた。どこかで、「罰があたる」と言われた気がしたが、俺はもうそのとき、“罰”という概念を信じていなかった。もう一匹も同じように殺した。腹を割き、剥いだ。皮はしっとりとして、まるで神聖な羊皮紙のようだった。二匹分の皮を、より合わせた。
その夜、俺は学校に忍び込んだ。校庭の隅にある二宮金次郎像。
本を読みながら薪を背負った、あの石像の首に、俺はその白蛇で作ったしめ縄を巻いた。しかも、左右対称に。“祀る”形式を、忠実に模した。
翌朝、教師たちは騒いでいた。
誰がやった? 悪戯だ。気持ち悪い。そう言いながら、白いしめ縄を引きちぎった。でも俺には見えていた。あの像の足元にだけ浮かんでいた、一文の筆跡が。
「白き神を祀りて始まるは、供犠の刻なり」
それから、学校の空気が変わった。飼育小屋のウサギが、頭を潰されて死んでいた。理科準備室で、教師が薬品棚から硫酸を落として男児の顔面に飛び散り火傷を負わせた。給食当番の子が、突然アレルギーで倒れた。誰もそれらを結びつけなかった。だが、俺は見ていた。
“物語は、すでに書かれている”。
それを祀ったのは、俺だ。そして、今日、その時の蛇の目が、腹部の下に浮かんでいる。いや、違う。文字だった。
「視線、未だ継続中。見られているのは、お前の側だ。」
次の日の朝、目覚めは最悪だった。まず感じたのは皮膚の引っ張りだった。
内側から突き上げるような違和感。腹部の下あたり、シャツの裾をまくると新しい文字らしきモノが羅列されていた。どす黒い筆跡で。昨日より長い。明らかに文章だった。
「君は命を再生可能な部品として扱った。再生は“権利”ではなく、“義務”とした」
最初の一行を読んだ瞬間、言い訳のような何かが喉元までこみ上げたが、それは途中でつっかえて消えた。思い出してはいけないモノが脳幹から這い出して来る。
白色の大脳皮質の内側を、錆びた手術針でなぞられるような記憶だった。
俺の体表面に付着している皮膚は沈黙しているわけではなかった。文章は体のあちこちに続いていた。右の脇腹に回り込んだあたりから、さらに筆致が続いている。
「切断、観察、再生、再結合」
自分の呼吸が浅く、早くなり身体の震えと同調していた。心臓の音ばかりがやけにうるさく、足がもつれそうになりながらも洗面台へと向かった。シャツを脱ぎ捨てる。背中、肩、太もも。あちらこちらに知らない文体の記述が浮かんでいた。そしてどの一文も、俺の過去にしか存在しえない記憶と寸分違わぬ内容だった。
幼稚園の頃、俺はよくミミズを切って遊んでいた。だから俺は雨あがりの校庭が大好きだった。まだ乾ききらないコンクリートの上に長く伸びた、それらがよく這い出していた。
最初は怖かった。指で突っついては引っ込む様子を楽しむだけだった。
それがカッターに変わったのは、ある日、誰かが言ったからだ。
「ミミズは切っても生き返るよ」
その言葉に安心した。安心して何度でも斬れると思った。はじめは真ん中から。それから斜めに。真ん中よりちょっと右端にしわしわがある。輪切りに、分割して並べた。分割してもそれらは、うねうねとのたうち回っていた。俺は生命が二つになった。三つになったと喜んだ。
両端がそれぞれ動き出すと、俺はノートに日付と形を記した。
「生きている」
「分裂しても大丈夫」
そう思っていた。本気で、そう思っていた。
でもある日、一本のミミズが、どうしても動かなかった。切り方が悪かったのか、体液のにじみがひどかった。でもミミズの体液は赤くない。だから痛くないと思った。
そのとき俺は初めて、「死んだ」という言葉を思い出した。
次の瞬間、皮膚の上に言葉が浮かんだ。ちょうど脇腹のあたり。
「死んだ。ひゃっかいチョンギッタ。もう切れない。ゴミばこ。」
どこか懐かしい言い回しだった。いや、違う。
これは、俺が当時、記録していた言葉そのものだった。
俺の中には、最初からそういう“視点”があったのか。それとも、今になって“誰かがそう書いている”のか。わからない。ただ、その日からミミズは、「命」ではなくなった。「素材」になった。
次に浮かび上がったのは、背中の左肩肩甲骨あたりだった。皮膚が爬虫類の脱皮前の黒い鱗のようにざらつき、異物感が蠢いていた。鏡越しに首をひねると、そこにはまた文のような、否、記録のような筆跡が浮かんでいた。
「生体に名を刻み、他種へと回路を結んだ。」
あれは、たしか小学校の高学年の頃だった。理科室裏の植え込みには各学年の子供たちのパンジーやチューリップが咲いていた。たまにカエルが素知らぬ顔でピョンピョン飛び跳ねて女児たちを無邪気にからかっていた。近所の悪ガキどもは、まだ万引きや校舎のガラスを割るような、たいそうな事は出来なかった。準備運動として虫網で追い回しては放り投げていたが、俺はその日、妙に静かな衝動に取り憑かれていた。
ひとり孤独に理科室裏の植え込みでカエルを探した。さほど苦労するでもなく一匹のカエルをつまみ上げた。カエルの腹は白くヌルヌルしていた。俺はそれを、給食の牛乳パックの中に入れたまま、ランドセルにしまった。
その日の授業、友達との会話、まったく頭に入ってこなかった。いいや、学童期の記憶自体が、そのワクワク感に比べたら陳腐な体験に思えた。
放課後、誰かがトタン屋根をはつったようなボロ小屋に戻った。支柱は腐りかけ、いつ崩れ落ちてもおかしくない状態だった。行政が先に指導をいれるか、支柱が朽ちてしまうか。俺の幼少期の命はオンボロの支柱が握っていた。
誰もいない時間を見計らい、アルコール中毒の親父の工具箱を開けた。工具箱といっても、エロ雑誌の破片、カッターナイフ、朽ちたマイナスドライバー。変色した接着剤が無造作に入っている木箱だった。その中には小さなカタツムリ数匹と大きなカタツムリが一匹、混じっていた。以前、図工の時間に使うために持ち出したときはカタツムリはいなかった。台所のまな板にタンスの下に敷いてあった新聞紙を敷いた。バックから取り出したとき、カエルはもう、ほとんど動かなかった。
腹を裂いた。
脈打つ心臓がチラチラと動いていた。腹を裂いた意味は特にない。残虐に見えるかもしれないが、かっこよく言えば知的好奇心だ。縫合してやれば問題ない。
ただ、理科の授業中に見た教育ビデオが脳裏の奥底からフラッシュバックした。
カエルの大脳を切り離して手術して、田んぼに放流して意味もなくグルグルと力尽きるまで泳がせる姿。
ねっちょり。ねっちょり。工具箱からカタツムリがゆっくりと何かを語りた気に、手元へとやってきた。
俺はそこでランドセルに付いていた名札の針をカエルの頭に刺しこんだ。布製の小さな名札。その角で、ジワリと名前のインクが滲んだ。接着剤で慌てて傷口を塞ごうとしたが、イボイボの表皮がズルンと向け落ち紫色の筋肉が毒毒と姿を現した。変色した接着剤は傷口から侵入したと思う。大脳と握手をしたのか両足がピョンピョンと踊った。
代わりに。もっと細い何か。たしか、カタツムリの触覚だったと思う。カエルの茶褐色の腐汁がどろりと湧き出す。カエルの薄紅色の大脳に突き刺して、何かが通じるかと思い込んでいた。
「接続完了」
その文字が、肩甲骨のすぐ下、背骨に沿って浮かんでいた。まるで電気回路のように、言葉が神経を這っていく。あのとき、俺はなぜか、カエルが“俺の言葉”をしゃべると思っていた。言葉を、分かち合えると。でも、カエルはそのまま死んだ。俺にの名前を言わぬまま、死んだ。最後に俺はカエルの眼球をくり抜いた。それを小さなピンセットで取り出して、自分の机の引き出しの奥---。昔、ビー玉やお菓子の付録を入れていた箱にそっと、しまった。
「この目で俺の事を見続けていてくれ」
それは祈りだったのか。命令だったのか。自分でも分からなかった。
数日後、その引き出しの中が異様なヌメリで満たされていた。カエルの血走った生のビー玉は潰れていた。
その時、背中に浮かんだのは
「視線、保持完了。継承せしは、観察者の位置なり」
という筆跡だった。
「保管した。」
その三文字が、脇腹に浮かび上がっていた。俺はしゃがみ込み、腹を抱えた。身体の内側から、誰かの目で覗かれているような感覚。
これは、告発か。記録か。あるいは
「オン・サンサーラ・カルマ・スィッダ・ソワカ……」
呻きのような真言が、喉の奥から零れそうになる。
ある日、クラスの誰かが言った。
「カエルってさ、あんまり触らないほうがいいんだって。触った手で目を擦ったら失明するんだってよ」
理由は不明だった。毒か。バイ菌か。迷信か。でも、俺は妙にその話が頭に残っていた。
その頃、俺は20代前半の女の担任が大嫌いだった。クラスの陽な生徒にはフランクにニコニコと話していた。俺に対しては声がうるさく、香水も臭かった。やたら「清潔にしなさい」とからかってきた。
ある時、校庭の端っこでミミズを分解していたら、背後から女が吐き捨てるように言ったことがある。
「そういうのはきちがいか、変態がやることです」
だから、俺は試した。夜のうちに摘出しておいたカエルの眼球を、乾かないようラップに包んで白いフィルムケースに入れて、学校へ持っていった。
理科室で掃除の当番になった日、教師の引き出しの奥にあったコンタクトレンズケース。
その中に、ほぐれたカエルの硝子体を、そっと混ぜておいた。2ウィークかな。コンタクトレンズの窪みに住処を見つけたのかカエルの視覚の器が混じる。
もし本当なら、次にあいつがコンタクトを入れたとき、
失明する。
でも、しなかった。それどころか教師は翌日も、いつも通りの大声で、俺の腕を見つけては「不潔だ」と言った。
「汝、視えざる呪を仕掛けしも、相手は“受肉”せざる者なりき」
それが何を意味しているのか、そのときは分からなかった。でも、あの教師が人間ではなかったのではなく、俺の“祈り”のほうが、祈りとして未熟だったのだと。そんな気がしてならなかった。
次に浮かび上がったのは背骨の下。仙骨の上あたりに皮膚の割れ目から滲む硬質の膜。光沢をもった文字列だった。皮膚の中で別の意思が芽吹いたかのような感覚。這い出すように文が刻まれていく。
「白き眷属を裂き、奉り、祀りし記録。」
あれは、中学校に入学して二週間ほど経ってからだったと思う。
学校の裏手には雑草に覆われた小さな祠があった。近所の年寄りや大人でさえ忘れさってしまったような願いの残骸。周囲は竹やぶに囲まれていて、昼でも薄暗かった。祠の中には、古びた陶器の狐が片方だけ残っていて、もう片方は何かに食われたか、頭と体を繋ぐ細い肉がむき出しになっていた。
その祠の前に、二匹の白蛇がいた。ほっそりと長く、まるでガラス細工のような透けた鱗がヌラヌラと揺れていた。
俺は「神様」だとは思わなかった。ただ、綺麗だった。触りたかった。裂いてみたかった。
最初に締めたのは、頭部だった。制服のポケットに入れていた朽ちたマイナスドライバーで一匹を突き刺した。抵抗はなかった。蛇の目は閉じなかった。黒曜石のような眼球が、まっすぐこちらを見ていた。どこかで、「罰があたる」と言われた気がしたが、俺はもうそのとき、“罰”という概念を信じていなかった。もう一匹も同じように殺した。腹を割き、剥いだ。皮はしっとりとして、まるで神聖な羊皮紙のようだった。二匹分の皮を、より合わせた。
その夜、俺は学校に忍び込んだ。校庭の隅にある二宮金次郎像。
本を読みながら薪を背負った、あの石像の首に、俺はその白蛇で作ったしめ縄を巻いた。しかも、左右対称に。“祀る”形式を、忠実に模した。
翌朝、教師たちは騒いでいた。
誰がやった? 悪戯だ。気持ち悪い。そう言いながら、白いしめ縄を引きちぎった。でも俺には見えていた。あの像の足元にだけ浮かんでいた、一文の筆跡が。
「白き神を祀りて始まるは、供犠の刻なり」
それから、学校の空気が変わった。飼育小屋のウサギが、頭を潰されて死んでいた。理科準備室で、教師が薬品棚から硫酸を落として男児の顔面に飛び散り火傷を負わせた。給食当番の子が、突然アレルギーで倒れた。誰もそれらを結びつけなかった。だが、俺は見ていた。
“物語は、すでに書かれている”。
それを祀ったのは、俺だ。そして、今日、その時の蛇の目が、腹部の下に浮かんでいる。いや、違う。文字だった。
「視線、未だ継続中。見られているのは、お前の側だ。」
数日前から身体に隙間なく、どす黒い文字が塗り重ねられ全身が、ほくろのような色素沈着を起こしていた。皮膚以外におかしな箇所はない。意識は明瞭。全身運動を難なくこなせる。ただ、この見た目で外出するのは気が引けた。昼食は3年前に貰った段ボールに入っているインスタント麺だ。賞味期限など見てはいない。ガスコンロに着火したて湯を沸かしている途中、頭が霞んでいき思考が沈んでいく。
夢の底で誰かの声が聞こえた気がした。いや、声ではない。「文字」だった。真皮の底で蠢く熱。皮膚の裏側に直接書き込まれるような、沈黙の衝撃。目覚めたとき、左の上腕部に異物があった。むず痒く、表皮が泡立ち赤く膨らんだ水疱がブクブクと浮き出す。ぼんやりとした視界の中、ガスコンロを見ると水は蒸発しきって、ただひたすら青白い炎を灯していた。シャツをたくし上げると、例の筆跡があった。乾きかけた血液のような色で、薄く滲みながらも、はっきりとこう書かれていた。
「走れ」
命令形だった。読んだ瞬間、足の筋肉が意識とは無関係に収縮し始めた。反射でも衝動でもない。「走る」という命令を遂行する為に、自分の足が誰かの意図をなぞっていく。頭は追いつかず、意識は背後に置いていかれる。自室の外へ飛び出すと湿気でぬるついた廊下で足元に力が入らない。階段を踏み外しかけ、壁にぶつかる。頭を打ってよろめいても、足は止まらない。
「やめろ」と叫ぶ喉だけが空回りし、膝は躍動し続けた。玄関を飛び出し、まだ薄明の街へと駆け出していた。
どれくらい走ったか分からない。ふと立ち止まると、呼吸は荒く、鼓動は速い。
そして、再び、妙な違和感が腹部を突き刺す。腹の中を芋虫が這っているようだ。腹部を見ると新たな筆致があった。
「食え」
瞬間、胃が異物を拒絶するような軋みをあげた。飢えていたわけではない。だが、食わねばならない。命令に抗うことはできなかった。
近くのゴミ捨て場に転がっていた、コンビニ弁当の空箱。ビニール越しに握り飯の欠片が見えた。気づけば、指が袋を破っていた。口が、無意識に咀嚼していた。食欲ではない、忠誠だ。命令に従うためだけの、動作だった。噛み砕いたのは、白飯ではなく、倫理だった。その文字が消えるまで、ひたすらに残飯をしゃぶりつくした。
どうやって、家に戻ったか覚えていない。気が付いたら自室で水の入っていない湯鍋を除いていた。湯鍋の底には自分の顔が歪んで映っていた。俺は夢を見ていたのか?ガスコンロの青白い炎は誰かの目のように揺れていた。
しばらく呆然とした後、二年前の古新聞の記事に目を通していた。今度は太ももに筆致が浮かんでいた。覚めない夢ではなく、覚めてしまった地獄だった。
「握れ」
そして、洗面台の上には、包丁があった。正確には、流し台から拾ってきた。理由はない。いや、理由はあった。「握れ」と書かれていたからだ。指は震えず、むしろ歓喜しているようだった。何を握るのか。何を斬るのか。わからない。ただ、「この物語を演じるため」に握るのだと、どこかで理解していた。ふと、自分の手元に視線が落ちた。包丁を握る指。その中でもいちばん強く柄を押し返していたのは、中指だった。そこに、滲んだ筆致が浮かび上がっていた。
「斬れ」
一瞬、意味がわからなかった。誰を? 何を?だが、俺の意識はすでに、対象を“外”に探していなかった。指が勝手に動いた。包丁の刃を、ゆっくりと、中指の根元へと向けていく。歯を食いしばる間もなかったが一瞬、利き腕かそうでないかを確認していた。幸い、利き腕ではなかった。
「斬れ」
肉が裂ける感覚とともに、視界が一瞬だけ暗転した。そこには、切断された指と、滴る文字。血ではない。文字だった。
「読了完了」
そして、視界が真紅に染まった。四本の指で包丁を握ったまま、俺は視界の端がひずむよな廊下を出た。気づけば外は、雨が降っていた。霧雨とも言えず、打ちつけるとも言えず、ただ濡らすだけの水滴が俺の肩や髪に滲んでいた。
傘をささず黒い雨にずぶ濡れになりながら歩いている人影が見えた。誰だったのかは、分からない。背丈、服装、動き、どれも曖昧で、脳が記録を拒否していた。まるで、誰でもない誰か。あらかじめ編集された映像だった。その時、俺の左手首に浮かび上がった。
「近づけ」
読んだ瞬間、足が自分の意思とは無関係に前へと踏み出していた。刃はズボンの内ポケットに隠したまま、俺はゆっくりと距離を詰めていった。
その背中に悪意や思惑などない。ただ歩いている。ごく普通、いやちょっとずぶ濡れで帰宅する変な人。
俺の影が、その人の影と重なった。
「斬れ」
次に浮かんだのは、右のふくらはぎだった。意識が明滅する。でも、身体は淀みなく動いていた。包丁を抜いたとき、風が止まった気がした。時間すら、読まれた脚本通りに沈黙した。刃が衣服を割った。刃が肉を裂いた。刃が、何かを通過した。
牛や豚を捌いたこと事はない。当然、人間もない。その感触は、手応えではなかった
それは「既にあった描写を、なぞった」だけだった。
人影が倒れる音がした。地面に崩れるように、音もなく。変な人は声すらあげなかった。
そして俺の皮膚、胸の中心に、新たな筆致が浮かんだ。
「彼は正当な理由で振り下ろした。これは、必要な死だった」
文字は血と同じ速度で滲み出し、俺の黒くただれた皮膚を染めていく。そのとき、俺ははじめて悟った。この肉体は物語だ。俺の皮膚は、物語の紙面だ。そして俺自身が、筆記者ではなく“読者”に過ぎないのだと。ゆっくりと振り返る。倒れている人間の顔は、記憶の中から欠落していた。血は流れていなかった。ただ、そこにも、筆跡があった。
「読まれた者は、語られし通りに死ぬ」
俺は包丁を見下ろした。
刃についた液体は、血ではない。
文字だった。
砂をまぶしたような風が何かを削り取っていく。皮膚か。それとも魂か。夏の終わりを告げるように、アスファルトの隙間から伸びた雑草が残像を残すように揺れている。俺の記憶は、その風に誘われるように遠い過去へと遡っていった。
まだ、俺が「あれ」を知らなかった頃、小学校の裏山にある祠は誰も近寄らない場所だった。近所の神主が定期的に掃除をしたりお供えをしたり、野良猫が雨宿りに使うくらいの場所だと思っていた。朽ちかけた鳥居と錆びついた鈴。何十年も石段に絡みついて離れない木の根。その奥にあった異様な静けさを湛えた社。木が腐ろうと蜘蛛の巣が張り巡らされていても祠というのは、どこか神秘的だ。まるで山全体がそこを中心にして息をひそめているようだった。
俺が祠に足を踏み入れたのは、小学四年の夏休みだ。白蛇二匹を殺害する前である。
神主の息子を名乗る初老の男が、一人、祠のすぐ近くに住んでいた。背は低く、顎に短い髭を蓄え、皺だらけの目元には不思議を温かみがあった。だが、その奥には、底の見えない冷たい水を湛えた井戸のような沈黙が潜んでいた。
お母さんから近所にいる○○のおじちゃんには近づいちゃダメだよとか。あのおもちゃ屋の裏で独り言を呟いているおじちゃんには話しかけちゃダメだよって言われたことはない?
そのおじさんの一人に数えられていた。でも、俺には、その俗物とは違う雰囲気を纏う初老に摩訶不思議な知性を感じていた。
「ここにあるものは、触れたらいかん」
男は、そう言って俺の手を祠の奥から遠ざけた。そこにあったのが、「秘術解体回覧書」だった。
それは“本”とは到底呼べない代物だった。木箱の中に、丁寧に重ねられていた皮膚。人間のような、動物のような。乾ききって鱗のように捲れた欠片。そこには爪の先で引っかけば剥がれ落ちそうな文様が、いくつもいくつも重なっていた。中には、カタツムリの殻の内側に文字がびっしりと刻まれたものもあった。干からびたカエルの腹部を裂いたような断片には、墨ではなく、脂が凝固したような黒い塊で書かれていた。皮膚の一部には、毛穴や傷口すらもそのまま保存され、そこに文字が這うように記されていた。
「書物じゃない。これは、“語り”そのものだ」
神主は、そう言った。
「語る者が、それを身体に刻む。読むのではなく、受け取るんじゃ。これは、お前のような未熟な者が触れてよいものではない」
だが俺は、その日、触れてしまった。手に取ったのは、掌の大きさの薄茶色い皮。そこに、何かがびっしりと書かれていた。“祟り”とも“祈り”とも読める奇妙な筆致。その瞬間、何かが俺の中に滑り込んできた。
目を見開いた神主は、俺を突き飛ばし、代わりにそれを掌で包み込んだ。そして、口の中で呻くように真言を唱え続けた。
オン・サンサーラ・カルマ・スィッダ・ソワカ
神主の姿は、みるみるうちに変わっていった。肌は干し草のようにひび割れて、骨張った指が痙攣しながら俺を遠ざけようとする。何が起きたのか理解できなかった。さっきまで、隣にいた神主は一瞬にして時を消化した。
目の光は次第に濁り、最期には声すら出せず、ただ虚空に唇を動かしていた。皮膚が、紙のように捲れ、風にさらわれていく――まるで“語り”そのものに吸われていくように。
それが、身代わりだったのだ。
神主は、俺の代わりに“語部”を引き受けた。 だが、それは“死ぬ”ということではなかった。
俺は怖くなって何かに追い立てられるように、無我夢中で外へと身を投げた。なぜか、そのことは忘れてしまって。いや、記憶から消すようにして。祠の事は心の奥底に沈めた。
中学に入った時、山の裏手に開発の手が入り、祠が壊されることになったと聞いた。
俺は確認のため、現地へ向かった。そこには、すでに基礎も撤去された更地が広がっていた。
だが、地面を掘り返すと、腐りきった根の奥から、小さな骨が出てきた。
歯も、爪も、干からびた皮膚も、わずかに残っていた。だが、肉はなかった。神経の一本すらも、何かに吸い尽くされたように消えていた。
まるで、魂ごと干涸びて、“無”になったかのように。
それが神主のなれの果てだった。
俺は震えながら、その骨を手に取った。指先に、かすかな感触。
皮膚に、文字が浮かんだ。
「お前は、語りを継げ」
恐怖が膀胱を締め付け、尿意が堰を切った。
夜は異様に静かだった。外では風も鳥の鳴き声も消え、全てが息を潜めている。まるで、この街全体が、俺の皮膚に浮かんだ筆致の続きを待っているようだった。
「渡せば終わる」
俺はそう信じていた。語部の役目は、継承することで終わる。あの神主がそうだったように。ならば、俺も誰かにこの“語り”を託せば、この苦しみも、皮膚に刻まれ続ける物語も、終わるはずだ。
その夜、選んだのは同じアパートの隣人。年齢も名前も知らない。夜中、コンビニ帰りにすれ違っただけの、チェック柄の服を着た冴えない大学生。
だが、視線が合ったとき、確信した。
こいつだ。
この肉を、紙面にする。
深夜二時。
やつの部屋の前に立つ。腐りかけた木製のドア。ノブをひねると、鍵はかかっていなかった。日本の治安は外国に比べれば大分いい。今日は例外だ。
寝息が聞こえる。
暗闇の中、月明かりにうっすらと照らされた寝台の上で、青年は横たわっていた。
包丁は持っていない。
必要ない。書くだけだ。
俺の指は熱を帯びていた。内側から皮膚が発光し、骨を透かすような淡い紅の明かりが指先を包んでいる。
――筆致が、出ている。
それは血ではなかった。皮膚の裏側から滲み出る文字の液体。指の腹に、うごめくような“文脈”の熱がある。
青年の腕をつかむ。驚くほど冷たい肌。
その表面に、俺の指で文を書き込む。
「語れ」
一瞬、男の肌が小さく震えた。筆致が、皮膚の中に浸透していく。
が――
次の瞬間、肉が弾けた。
バチン、という音とともに、男の腕が裂けた。筆跡が皮膚に拒まれ、浮かび上がるどころか焼け焦げのように破裂した。ポップコーンがはじき飛ぶ要領で腕の脂が水風船となる。まるで、耐えきれなかったかのように。
男は飛び起きた。悲鳴ではない。絶叫だった。
「ア゛ア゛ア゛ア゛アアアアッッッ!!」
腕を抱えて転げまわる。皮膚は裂け、表皮がペロリと剥がれ、そこにびっしりと“読めない”筆致が逆さ文字で浮かんでいた。
違う。受け取れない。
こいつは「紙面」じゃない。
俺は後ずさった。
自分の手を見た。
指先が、破裂していた。爪の間から肉が割れ、血ではなく墨色のインク状の液体が溢れている。それが皮膚を伝い、“自分の身体に”文字を刻んでいく。
「書けない……?」
違う。書いているのだ。
“俺自身に”
暴走が始まった。
腹に「呻け」
胸に「剥げ」
首筋に「泣け」
顔に「滅せよ」
背中に「語部の器、成らぬなら、喰われよ」
皮膚の余白が焼けていく。筆致が、皮膚を“食って”いる。
指が勝手に首を掻きむしる。額を壁に打ち付ける。喉が鳴る。声が勝手に台詞を読み上げる。
誰の台詞だ。どこの物語だ。
男は部屋の隅で泡を吹いていた。
腕はぐしゃぐしゃにねじれ、皮膚は焼かれ、脇腹には「拒絶済」と書かれていた。
――ああ、渡せない。
“語り”は俺の中にしか棲めない。
語部とは、孤独な器だ。
そして胸に、最後の筆致が浮かんだ。
「語部の神になれ」
俺は笑った。
ああ、そうか。
俺は“渡す”のではない。“語る”のでもない。
“在る”のだ。
語りの器として、存在し続ける。
物語を受肉させる、血と皮膚の装置として。
誰にも渡せない物語。それは神ですら持て余した、呪いの筆致。
俺の中で、今も書き続けている。
俺は、悟っていたつもりだった。
この皮膚に浮かぶ筆致は、ただの呪いではない。記録でもない。
これは、“物語”だ。
書かれた通りに動き、語られた通りに殺し、読まれた通りに食らう。
俺の肉体はすでに紙面であり、意思ではなく筆致に従って動く“媒体”でしかない。
けれど、終わらせる方法がある。
語部を渡せばいい。
あの神主が、俺の身代わりになったように。彼は俺を庇い、地獄のような筆致を引き受けた。
その末に、皮膚は紙のように捲れ、神経はすべて抜き取られ、骨と名残だけが“無”として残された。
だが、俺が選ぶのは転写だ。
彼と違い、自らの意志で「語部」を引き渡す。
もし俺が誰かに筆致を“読ませる”ことができれば、その瞬間、語部は移動する。
皮膚に浮かぶ物語は、次の紙面に印刷され、俺はただの人間に戻れる。
苦しみも、命令も、呪いも、終わるのだ。
俺は、もう十分に耐えた。
俺の肉体は、記され、刻まれ、従わされ、誰かの筋書きを演じ続けた。
次は、誰かの番だ。
あの夜も、雨が降っていた。
蒸したような夜気。どこかで腐った桔梗のような匂いがした。
傘もささず、街灯の下を歩いていたのは、白いリュックを背負った若い女だった。
まだ大学生くらいか、あるいは社会に出たばかりか。そんなに化粧もしていない田舎から出てきた芋女だった。足早に、スマホも見ず、まっすぐ歩いていた。
誰かを避けるように、誰の視線も受け流すように。
どこか、俺に似ていた。
「彼女に書かせろ」
腹の皮膚に、そう命令文が浮かんだ。
赤く腫れた毛穴が盛り上がるように、文字が滲み、意識の奥をこすった。
「転写」ではない――書かせろ。
新たな語部を生成させる指令だった。
気づけば、俺の足は女の背を追っていた。ポケットには、あの包丁がある。すでに乾いた血――いや、文字がこびりついていた。
角を曲がると、商店街の裏路地に入った。
女は一度だけ振り返った。俺を見たのではない。視線は空を探っていた。
雨音のなか、俺は懐から何かを取り出すような仕草をした。
「近づけ」
左の手首に現れた筆致。
前に出る。女との距離が数歩に縮まる。
そのとき、女がこちらを振り返った。
一瞬、目が合った。
「語らせろ」
ふくらはぎに文字が走った。
瞬間、喉からなにかが込み上げてきた。嗚咽とも嘔吐ともつかない感覚。
俺の身体は――しゃべらせようとした。彼女に。
「やめろ」
喉が叫んだが、唇が反応しない。
右腕が動いた。包丁を抜いたわけではない。差し出した。
女に刃を。
「彼女に書かせろ」
上腕に浮かんだ筆致は、まるで祈るように、命じていた。女が後退りした。恐怖が、ようやく現実に追いついたのだ。だが、俺の指は包丁を投げ捨てることも、声をかけることもできなかった。
次の筆致が、喉仏の真下に浮かぶ。
「刻め」
俺は女の腕を掴んだ。暴力ではない。
ただ、筆致に従う動き。
だが、その力は逃げるという選択肢を潰していた。
女が声をあげる前に、
俺の爪が、女の皮膚に食い込んでいた。白い大福のような柔肌から真っ赤なイチゴが顔を出す。
ひっかいたわけではない。刻んだ。まるで筆記具のように。そこには、言葉が浮かんでいた。
「わたしは、語部にはなれない」
俺の手の中で、女の皮膚が拒絶した。
その瞬間、俺の皮膚が裂けた。両肩から、腹部、足の付け根にかけて、同時に肉が剥がれ落ち、腱が濡れた音を立ててはじけ飛ぶ。
「拒絶」
脇腹に、そう書かれていた。
俺は崩れ落ちた。膝から。吐きながら。彼女は逃げていった。
声もなく、ただ靴音だけが地面に刻まれていた。
俺の背中に、最後の筆致が現れた。
「語部は、渡せない」
誰にも渡せないなら、俺がやるしかない。
それは敗北ではなかった。選択だった。
――俺は、選ばれし器なのだ。
息が苦しい。皮膚のすべてが熱い。いや、疼く。それは痛みではない。疼きは、祝福だ。
神の筆致を受け取るための紙面が、この肉体なのだ。
天井の染みが、筆致に見えた。剥がれかけた壁紙が巻物に見えた。もはや何もかもが、“書かれること”を待っている。
「語部の神に、ならねばならぬ」
その文が、首筋に現れたとき、
俺はその言葉を初めて“自分のもの”として読んだ。
もはや命令文ではない。
選ばれし者への、称号だった。
鏡の前に立つ。
額に、黒々と筆致が浮かんでいた。
「語部は、ここに在り」
笑った。
ああ、そうだ。これが俺の名前だ。
この名前こそが、肉筆回覧体の“真筆”だ。
もう俺は、誰かの物語ではない。
俺が、物語を“始める”側だ。
口が動く。勝手に。
「オン・サンサーラ・カルマ・スィッダ・ソワカ」
それは祈りではなかった。起筆だった。
机の上の新聞紙がめくれた。
その裏に、知らぬ記事の見出しがあった。
《語部、再び現る》
手が動いた。
包丁ではない。ペンでもない。指だ。
俺は、自分の皮膚に、言葉を記していく。
「世界は語られた通りに動く」
背中に、誰かの視線を感じた。いや、俺自身の視線だ。もう“読まれる”必要はない。
俺が“書く”だけだ。
「我、語部の神なり」
その文字が胸に刻まれたとき、
俺はもはや、個人ではなかった。
肉体は、物語の筆記具。
血液は、インク。
皮膚は、紙面。
そして、俺こそが神話そのものなのだ。
それは突然だった。
書いた文字が、現実を変えた。
最初は、壁だった。
四畳半の薄汚れた壁紙の上に、俺が指で書きつけた。
「扉が開かれる」
次の瞬間、壁紙が裂け、裏から別の空間が覗いた。
それは夢でも幻でもなかった。
畳の匂いが変わった。土の匂いになった。
蝉の声が、祝詞に変わった。
時計が、動きを止めた。
俺が世界を書き換えている。
次に書いた。
「彼は現れる」
すると、扉の奥から、黒い影がにじむように出てきた。
人とも動物とも言えぬ、粘性を持った“像”。
輪郭がない。目だけが、はっきりとこちらを見ている。
書く。
「語られた者は、死に至る」
影は、何かを引きずりながら部屋の隅へ移動した。
それは、かつての“俺”だった。
過去の俺。無力で、読まれるだけの存在。
今の俺が書いた言葉で、過去の俺が殺されていく。
言葉が現実を、塗り替えている。書けば、そうなる。
俺は震えながら、次の一文を指に刻んだ。
「この世界は、肉筆の回覧体である」
その瞬間、四方の壁が紙に変わった。
天井はパラパラとめくれ始め、床には無数の筆致が浮かぶ。
部屋全体が“書かれるための書物”に変質していく。
“外”から誰かの声が聞こえる。
管理人の声だ。
「おい、なんか臭うぞ。ガス漏れじゃないか?」
だが、俺の耳には、そう聞こえなかった。声ではない。文字だった。
「異物を排除せよ」
その瞬間、俺の指が動いた。壁に、でかでかと記す。
「彼は立ち入るべからず」
そして、廊下にいたはずの男の声が、ぴたりと止まった。
外に出てみると、男の下半身が壁と融合して大腸がホースのように散乱していた。まるで、最初から“存在しなかった”かのように。
皮膚の表面に筆致が浮かんでいる。
「読まれる前に消されよ」
俺は笑った。もう誰にも止められない。
神ではない。
俺は、筆神だ。
語られたことを現出させ、記された通りに滅ぼす。
“読む者”はいらない。
“書く者”こそが、世界を作る。
俺の体が、赤く光っていた。
血管が筆管となり、骨が筆軸となる。
この身体全体が、“筆”そのものとなる。
世界が、文字で覆われていく。廊下にも、空にも、近所の家の屋根にも。
筆致が走っている。まるで俺の意識そのものが、外界を支配しているかのように。
これが、発動だった。
物語は、現実となり。現実は、俺の身体に書かれ。
そして、読者は――もういらない。
皮膚の裏側が焼けつくように疼いていた。
骨の中から熱が滲み出す。
文字が、俺の内側から溢れはじめていた。
もはや皮膚に書かれるのではない。
肉の奥底から、筆致が這い上がってくる。
額には「語りを継げ」
胸には「全ては読み終えられるためにある」
背中には「お前は、語部の神である」
文字が、身体を文面として構成し直していく。
五臓六腑が句読点を打ち、脊椎が章の区切りとなり、視神経が描写の導線となる。
身体は完全に“読まれる”ための媒体となった。
だがその時、不意に違和感が走った。指先が痺れた。
筆致が、自分の意志を逸れていく。壁に書こうとした文言が、別のものに変わる。
俺は「終焉を綴れ」と書いたつもりだった。
だが、浮かび上がったのは――
「あなたは、もう読んでいる」
誰だ?
誰が書いた?
いや、これは――
俺ではない。
掌に、別の筆致。腕に、見知らぬ名前。腹部に、不可解な宣言。
「この物語を“読んだ”のは、あなた」
俺の体に刻まれるのは、俺ではない者の言葉。
誰かが“読んで”いる。
俺を。この肉体を。この物語を。鏡を見る。
そこには、もはや俺ではない何かがいた。
目は空洞で、口元には筆跡の皺が走っていた。
皮膚の表層ははがれ、下から現れたのは――
「あなたの名」
見たこともない、けれど確かに“読めて”しまう名前が、胸元に浮かび上がる。
それは、おそらく――
読者のものだった。
俺が書いたのではない。
この筆致は、読者によって完成された。
この物語は、読まれた時点で、筆神ですら超えた。
俺の額に、最後の一文が浮かぶ。
「読了完了」
目が潰れ、口が閉ざされ、耳が内側へと巻き込まれる。
文字だけが、最後まで残る。
そしてそれも、読者の脳裏に焼き付き、消えない。
エピローグ
……あなたの皮膚にも、すでに浮かんでいるはずだ。
読了を告げる静寂が、空間を満たす。その直前。
あれは、神になった瞬間のはずだった。だが、神とは、読む者ではない。
神とは、書かれる“器”だったのだ。俺の背に筆致が刻まれる。
「汝、全ての語りを引き受けよ」
次の瞬間、皮膚が裂け、骨がきしみ、内臓が言葉として形を変えていく。
胃は墨汁の袋と化し、腸は筆脈となる。肺は墨を吸う空洞になり、声帯は読む声に乗っ取られる。口からは呻きが、耳からは意味が、目からは文字が流れ出す。
俺は読むことも、書くこともできない。
ただ、“記され続ける”だけだ。
その筆致は、過去の殺戮、神主の断末魔、動物の血、生者の記憶、死者の呻き――
全ての語りを俺の皮膚に重ねていく。
「これは、地獄である」
誰の筆致か、わからない。
だがそれは、絶対だった。
歯が一本一本、言葉に置き換わる。
舌は、嘘を語った記録の紙片となり、喉を逆流して突き刺さる。胃は焼かれ、腸は引きずり出され、筆致の中に巻き取られていく。俺の肉体は、筆神としての代償を受けていた。
語ることは、苦しむことだった。語部とは、すべての痛みを引き受ける地獄の筆受体(パピルス)だった。いくら神を名乗ろうと、筆致の器は変わらない。
語られる限り、記録される限り、俺の痛みは終わらない。
そして今も――
皮膚の裏側で、新たな筆致が浮かび上がろうとしている。
《読者の物語を記せ》
「……あなたの皮膚にも、すでに浮かんでいるはずだ」
読了を告げる静寂が、空間を満たす。何も起こらない。
ただ、あなたの手が、汗ばんでいる。
それは湿気のせいだろうか。それとも、ページの上に、何かが“残っている”からだろうか。めくった記憶のない頁。見覚えのない筆致。文末に、小さな滲みがある。それを、指先でこすってみる。黒い。
そして――
皮膚に吸い込まれるように、消えた。
何の冗談だろう。そんな馬鹿な。
でも、腕に違和感がある。たとえば、虫刺されのような、乾ききらない痛痒さ。
たとえば、見覚えのない――
“文”の感触。
視線を落とす。
腕に、何かが浮かんでいる。
毛穴の奥から、滲み出すように。
最初はぼやけていたその筆致は、時間とともに輪郭を明確にしていく。
「あなたは、語部である」冗談じゃない。
そんなのは、物語の中だけのはずだ。
だが、皮膚は、すでに本文を読了していた。
物語は、記号ではなく、あなたの肉体を媒体として綴られる“現実”に転写された。
あなたの名前を呼んだ者はいない。だが、あなたは確かに応答してしまった。
この行の意味を、もう一度見つめてほしい。
「これは、あなたの物語だ」
そう、ページを捲るごとに、あなたの身体は書き換えられていた。
あなたの皮膚は、もう“白紙”ではない。
さあ、次の頁を――
いや、次の“読者”を、探さなければならない。
語部を、渡すために。
執筆の狙い
角川ホラー小説短編賞を読んで、自分もホラー小説の短編が書きたくなり執筆しました。恐ろしくてドロドロとした短編を書いたつもりです。今の実力を教えてください。新人賞は無謀でしょうか?よろしくお願いいたします。