たとえば書くことについての、ひとつの空想
机に向かっている可奈がキーボードを叩きながら「またなの?」と言うと、その背後にじっと身を潜めていた葵の身体がこわばった。もはや習慣となりつつある可奈の"小説家気取り"に対し、何か文句を言いたくて仕方のない葵は勢い可奈の肩を掴んでディスプレイを覗き込む。「やめろ!」と言う可奈を無視し続けるその目は文章の体をなしつつある言葉のかたまりの隅々に行き渡る。
「だからやめろって!」
葵はソファに腰を落とし、「読者に対してそんなに怒ってもいいのかな?」と言った。
可奈は出かかった言葉を呑み込まざるを得ず不機嫌さをキーボードにぶつける。
「優雅な音楽って何?」
可奈の雑なタイピングがふと止まる。
「読んだの?」
「小説家に向いてないよ」
「どの口が言う」
「向いてない私に向いてないって言われてるんだよ、意味わかる?」
可奈は黙ったままタイピングを続けた。
可奈の隣の勉強机には行き場のなくなったA4の印刷済みコピー用紙の束が山積みになっている。それだけではなく小説に関するメモ書きのノート、手書きのほうが頭が刺激されて良いものが書けると謳っていた作家に影響されて一時期使っていたピカピカの万年筆。それらを見ないようにしているがきっと無言の圧力となって可奈にのしかかっているに違いないと葵は確認するように眺める。意識的にか無意識にか分からないが決して見ようともしない可奈が憎くて仕方ない。
「何の根拠があるの?」
珍しく可奈から口をひらいた。その問いかけが葵をソファから引きはがした。椅子の背もたれに手をかけて葵はため息をひとつ吐く。
「読めばわかる」
「いや、だから説得力ないって」と可奈は言いつつ一呼吸おいて「自分が上手くいかなかったからでしょ?」と気持ち葵のほうに顔を向けて前々から頭にしたためていた言葉を吐いた。決まった、と可奈は確信する。もちろん、先に敗れてボロボロになった葵がかわいそうだとは思う。しかしまだ結果の出ていない私には誰からも文句の言われる筋合いはないのだ。
「もともと私のほうが葵より読書家だったし、今は小説の書き方の本もたくさん読んでるし、教室にだって通ってる、プロの先生に教えてもらってるんだよ。葵の独学とは違うの」
しばし沈黙がやってきて可奈は我にかえった。
「ごめん、葵」
振り返った可奈は葵の表情を見て驚いた。
「なんで笑ってるの?」
葵は笑いを堪えていたが我慢できなくなり、声を出して笑った。可奈は呆然としている。
「ちょっとタイム」
そう言った葵は部屋から出て行った。
「は?」
可奈は馬鹿にされたとそこで初めて気づき、葵に一言でも謝ったことを後悔した。
翌日、可奈はいつものように文章を紡ぎ、葵を待っていた。昨日の件は許されることではないと葵に問い詰めなければいけない。
「なんで?」
部屋にこっそり入ろうとしていた葵が驚いてそう言った。可奈がこっちを向いている。
「とにかく入りなさい」
「怖いんだけど」
恐る恐るソファに腰掛けた葵に可奈は詰め寄る。
「一言謝りな」
「は?」
「人を馬鹿にするのは良くない」
「何当たり前のこと言ってんの?」
「なんで昨日のこと忘れてんの?」
葵は思い出したように目を見開き、こわばっていた表情が綻んだ。
「小説の書き方とかないからさ」
「は?」
可奈は引き出しから本を取り出し葵に見せつけた。
「葵が昔たくさん書いてたやつ、神視点だったよね? そういうのってダメなんだよ。ここにちゃんと書いてある」
葵は表紙にちらと目をやってから「あんた本当に読書家なの?」と言った。
可奈は少し考えてから「そりゃ神視点の小説だってたくさんあるよ、でもそれは神視点がダメだってわかっててやってるから良いんだよ。小説家はまず型を知らなければダメなの。私は葵みたいになりたくないの!」
「まずさ、受験勉強じゃないんだから」
「そんなの分かってる!」
可奈が語気を強める。
葵は深く息をすってから冷静に話し始めた。
「一人称の語り手は、その語り手が知り得ないことを語ってはいけないんでしょ?」
可奈も熱くなっていた感情を抑え、ゆっくりと「そうだね」と言った。
「でもそんなルール、どこで誰が決めたの?」
「どことか誰とかじゃなくて、なんていうか暗黙のルールでしょ?」
「小説がこうあるべきとか、小説ってこういうものとか、つまり小説が何かって答えはない。だからルールは作者が自分で決めるものだよ。それを暗黙のルールみたいに言うのは、小説に対して自分はこうだって、つまり自分で考えることを辞めちゃう、もはや思考停止に近い」
「そんないい加減な考えじゃめちゃくちゃなものにしかならないよ」と可奈は即座に言い返す。
「そう、私は可奈みたいな読書家よりもね、小説を一度も読んだことがない人が書いた小説が読みたい」
「何言ってんの?」
「まあそのうち分かるんじゃない?」
「知らない!」
「いっそのことAIに書いてもらったら?」
「出てって!」
葵は部屋から出ていった。可奈はディスプレイに向かい、自分の書いた文章を読みながら冒頭に戻り、今夜八回目の推敲を行う。僅かながら、葵の言葉に動揺している自分を隠しながら。
可奈はこの先一次選考を一度も通過することなく作家を早々と諦める。いささか拗らせてしまった葵と違い一次選考すら通らなかったことが彼女にとっては不幸中の幸いだった。
東向きの窓は開いている。外から風の音が聞こえる。古い家だから、二階のこの部屋はすぐに軋む。梅雨の終わりの風。もうすぐ夏が来る。いや窓は開いていなかった。風の音もしない。新築の彼女たちの家には雪が降り積もり冬の知らせを伝えていた。
執筆の狙い
件の完璧な小説とやらに感銘を受け、オマージュさせていただきました。
とくべつ、感想は必要ありません。こういうのもあるのだなという、参考にしてください。本文に書いたように、自分としては「は?」という感じのものなので、件の完璧な小説がなかったら書けないものです。そんなものを出して申し訳ございません。一部の人が書け書けとうるさいので、小説の新しい書き方のスタイルとして、試したところがありました。