うまくいくといいですね?
1
え、めちゃくちゃかわいくない? びっくりしたんだけど。
とおれが言ったら、Mは、
好みのタイプなんやろうな、とだけ明るく返答した。
タイプの問題かなあ、とおれは思ったし、そう口にしたかもしれない。とにかく、あまりにも美しい女だったし、言われ慣れてそうな返答だったから、へえ、こんなきれいな人が風俗で働くんだなあ、とだけ思った。
プレイは機械的で淡白だったから、ああ、やっぱりきれいなひとは、こういうかんじなのか、とおれは脳内で処理していた。どういう経緯で働いてるのかしらないけど、きれいなひとって、やっぱり、下品さが混じるような、激しいエロは掻き立てないんだなあ。おれはMの身体をてきとうに味わって、射精して、それで終わった。
源氏名の由来は好きな漫画のキャラクターを組み合わせたらしい。そうなんだ、とおれはいい、キャラの正式名称(英語の名前)をMが教えてくれた時に、急に発音ええやんけ、と突っ込んだら、パンと笑いが弾けた。いまの笑い気持ちいいな、とおれは感じ、今思えばそれが最初の恋愛感情の発露なのだけれど、すぐに鎮火して、それで終わった。2年前の秋のことだ。
年が明けて、去年の2月1日のことだった。
エレベーターに乗ったら、Mが、「あけおめ!」とテンション高くおれに挨拶する。
あけおめ?
と内心思うが、あけおめ、とおれも口にして、そのままおしゃべりを続ける。この時期にアケオメなんて言ってるの、うちらだけやで、とMが楽しそうに言うから、おれ、この子とこんなに打ち解けてたっけ? とふと思う。
たしかリピートとしては3回めだったけれど、年末に遊んだときはこんなテンションではなかった。そもそもおれは、風俗遊びでは大してコミュニケーションをとらない。心の交流の場だなんて全く思っていないし、髪を切りにいくようなテンションで、溜まったから、抜きにいくだけだ。風俗でガチ恋するやつがいるらしい、ということくらいはぼんやり知っていたが、いい歳こいて、性欲と恋愛感情の分別もできないバカもいるもんだなあ、と冷笑していた。
シャワー室から出て、ベッドに腰掛けていたら、はつしゅっきーん、と手を広げて、Mが笑っている。
初出勤?
また意味がわからず一瞬とまどうが、ああ、今年初の出勤ということか、と把握する。
なに、今年初めてなの、と聞くと、そうやねん、とMは答える。
一ヶ月なにしてたん?
なんもしてないねん、出勤表だしては、消して、ってやってた。
えー、じゃあ、今年初、おれ? やったあ、とおれは、ここでなぜか喜んでしまう。処女厨みたいな発想していたんだろう、と思うが、そのまま、Mを見つめて、甘ったるいキスをする。
初めてのひとより、いつもきてくれる人のほうがいい、とMがおれにいう。そりゃそうだよなあ、とおれは答えるが、あなたがきてくれてうれしい、としか聞こえず、脳みそが溶けたまま、また、甘々のキスをしている。体勢を変えて、Mの股間に口を持っていったときに、「これ風俗?」という、おれの内なる声がする。
「これ、いま、なに?」
「風俗って、こんなんだっけ?」
「なんか、恋愛の空気でてないか?」
あとで聞いたところによれば、Mは、トラウマになるような嫌な客との遭遇が年末にあったらしい。おれもたまたま年末にMをリピートしていて、だから、Mの中で、「いやな客ばかりのなかで、マナー違反しない、まともなリピーター」として認識されていたのだろう。久々に、不安の中で出勤したら、「まともなリピーター」が来た、というのが、最初の「あけおめ!」「はつしゅっきーん!」のハイテンションだったというわけだ。
リピート率にも悩んでいるようだった。
おれは、へえ、この美女が? と思いながら、同時に、たぶんプレイがマニュアルっぽすぎるんだろうな、などと分析していた。
かわいいから大丈夫でしょ、とだけおれは言った。
好き嫌い別れるんよ、わたしの顔、ロリ系とかキュート系の子には勝てんよなあ、とMが言う。
いやいや、だれがどう考えもかわいいから、と重ねておれが褒めると、Mは、こういうひとを大事にしなきゃいけないんやろな、と言い、赤面しながら、おれに身体をすり寄せようとしてるのか、モジモジ、妙な動作をしている。服を慌てて着たからか、襟がヨレてしまっている。
一応直してあげながら、
ハイ?
とおれは思う。
ハイ? なんで、このレベルの美女が、ちょっとテンパって、モジモジしてるんだ?
と困惑する。
逆だろ。どう考えても、ふつう、おれが、お前に、モジモジ、あわあわする側だろ。
奇妙な回だったなあ、と思いながら店を出る。
プレイ中の空気とか、赤面でモジモジする姿を思い出して、開けてはいけないフタが開いてしまった予感がする。脳の中で、風俗嬢のオキニ枠、とは違うラベリングで、Mの存在が格納された感じがする。「たまたま、依存されてるだけだから、勘違いするなよ」という声がする。あんな美女でも、リピーター確保に苦戦するとかあるんだなあ、面白い業界やねえ、などと、帰り際、呑気に思うなどする。
謎の、じぶんの美的資産を活かせてない、不器用な美女に、その後も何度も会いに行く。
やはり、話し方は自然体だけれど、プレイは相変わらずマニュアル的で、演技がわかりすいな、とか思いながら、Mの身体を弄んでいる。前回みたいな、リアルな甘々感は出てこない。
やっぱ、前回は、本人の素性が剥き出しの、特殊な回に、偶然当たったんだなあ、と思いながら、おれのなかに、前回の記憶の残影で、恋愛感情に限りなく近いなにかがチラついているのを、観測する。が、好きだなんて言わないし、連絡先も聞かない。聞く気もない。口説かない。嬢と、客という境界線を死守する。おれは、情緒を、金銭という清潔な通貨で切断し、女の、女体だけを気軽に摂取する、経済合理的な主体だからだ。
やめないでね、とだけ、「客」としておれは言う。
なんか、やめちゃいそうだから、やめないでね、とだけ、帰り際、ハグするときに言うと、
やめへんよー、やめさせられんねん!とMが明るく言う。
出勤悪いくらいで、店辞めさせられるわけないだろ、お前ほどの美女が。フーゾクだぞ? へんなとこ、真面目なんだなあ、と思うなどする。
「本気になるなよ」という声がする。
前回は、Mが、偶然、不安定だっただけだから。本気になるなよ、お前、かつて馬鹿にしていた、ガチ恋客にでもなるつもりか?
*
結果からいえば、ガチ恋した。
脳内にあった嬢客関係の境界線はドロドロに溶けて、陳腐な言い方だが、熱に浮かされたとしかいいようのない状態で、あるとき、Mのことしか考えられない日が、ドンと突然襲来する。
Mの顔、身体の動き、声の雰囲気、口調、ランダムに放たれる余白まみれの発言、演技性の綻びから漏れ出てくるホンモノっぽい情緒、孤独の影、感性の鋭さと不器用さの同居に、おれのなかの、ずっと封印されていた湿っぽい感情が侵食され、爆発し、一歩引いてて冷徹なおれという自己像を徹底的に焼き払って、脳内を占拠した。
好きだ、と思ってしまった。
おれはきっと、こんなひとをずっと待っていたんだ、と、信じがたいような、甘ったるいポエムがおれのなかで垂れ流されていた。脳内で突然起きた炎上を放熱させるために、大学院生の頃にハマっていた、同じ音楽を繰り返し聴いた。感情の発火と、好きな音楽を聴いている時の興奮状態が、似ているような気がしたからだ。D.A.Nというバンドの、Anthemという曲だった。その曲の歌詞には、偶然、こんな言葉が載っている。
真っ白い悪夢 身体中駆け巡る
真っ白い悪夢 もう気が狂いそう
真っ白い悪夢 真っ白い悪夢が
真っ白い悪夢が身体中駆け巡る
Mは、おれに、好きなアニメのキャラに雰囲気が似てる、とか言ってくる。おすすめの映画の話をしたら、隣に解説してくれるひとおってほしい、とか言ってくる。好きなバンドの話しながら、「ライブとか行きたいけど、いっしょにいける友達もいないし。。」とか言ってくる。
おかしい、おれは、あくまで客としての立場を維持しようとしてるのに、
とおれはおもう。
なんで、お前の方から、そんなにこっちへ、越境してくるんだ。
運の悪いことに、Mの、韓国系といったらいいのか、切れ長の一重まぶたの、目鼻立ちのクールな、彫刻系の美人顔が、最初から、美的感性ど真ん中に、抜けない形で刺さってしまっていた。
関西弁の、やわらかくて品のある喋り方も刺さっていた。
HPの写真、顔隠さず全部載せちゃおうかな、わたし、別に失うもんないし、と言ってから、「闇深〜い」と自虐して笑う、孤独の形と、ユーモアの発露の仕方も、刺さっていた。
ガチで、口説きにいこうかな、と考え始めていた。
でもな、とおれは思う。
おれ、既婚者だしな。べつに、奥さんとだって円満ですし。
独身だったらなあ。映画、誘えたのにね。ビビらずに、誘っちゃえばよかったわ。いや、不倫は、マジであぶねえからやめとけ。友人で、破滅したやつを知っている。じゃ、金で愛人にしようかな。仕事に苦戦してるみたいだし。金で安全距離を保つのだ。って、それ、店で遊ぶのと違いあんの? ないね。発覚リスクも、隠蔽コストも、高くつくだけ。不倫が嫌だから、低リスクで性欲を外注してんのにさあ、なにしてんの、おれ? そもそも、客として、依存されてるだけだから。お前から積極的に越境したら、絶対、引かれるぞ。いいからだまって、肉体だけ、効率的に、摂取しとけよ。心を発注すな。でも、「横に解説してくれるひと、おってほしい」なんて、ただの客に、いうかしら。やっぱり、あれ、誘ってね?
ハ?
でも、おれ、既婚者だしなあ。
とかいってる間に、出勤が減ってくる。少し人気も出て、枠を取りにくくなる。予約したのに、当日、いきなり出勤が消える日が増えてくる。奥さんに怪しまれたくないから、あまり遅い時間に来店したくないのに、Mの出勤時間が、遅刻のせいでどんどん後ろに伸びてくる。そこに他の客の予約が重なり断念する。口コミが順調に増えていく。嫉妬感情が発火するのがこわいから、口コミが見れない。おれだけが知ってたはずの、不器用な美女が、どんどん認知されて、遠くへいってしまうような気分になり、その感情を、おれの理性が墓場の底から、お前、完膚なきまでにやっちゃってるわ、と鼻で笑う。ようやくMに会えそうな日は、また当日、直前になって、いきなり出勤が消える。それが繰り返され、おれのメンタルが焦燥感で削れていく。Mの出勤スケジュールに振り回されて、主導権が、完全に、失われている状況になる。なにしてんの、おれ、Mのスケジュールを日がなずっとチェックして、ハラハラして、ようやく遊びにいって、その発言に一喜一憂して、びびって、結局越境できなくて。
Mが生活の中心になっている、苦しい、しんどい、こんなのはおれがやりたい生活じゃない、
と喘いでいたら、8月くらいに、突然、Mは、HP上から、在籍ごと消滅した。
あ、消えた、とおれは思った。
これで、会える可能性が、物理的に切断された。
助かった、
と思った。
2
取り急ぎ、記憶を上書きするか、と考えて、以前遊んだ風俗嬢をリピートする。ニコニコと、強固な境界線の向こう側から愛想よく微笑んで、強火のエロが提供される。2-3回も遊べばエロの火力は落ちてくる。別の嬢を指名する。アタリもあればハズレもある。オキニフォルダと新規フォルダを脳内で効率的に組み替える。オスのバラマキ本能だけが取引的に充足される。
風俗って本来これだよなあ、とおれはおもう。Mで激震したあの日以降より、下半身も元気で、脳内の爆音に悩まされることなく、仕事もエロも、家庭生活もつつがなく進んでいく。
Mが消えて2週間くらいの間は、チラッと脳内をよぎることはあるものの、あまり抑圧すると反動形成されるだろう、と思うから、無理せず放っておくこととする。どうせもう会えないのだから、感情くんが暴れようと、無理なものは無理なのだ。Mに少し似ているAV女優を選んで、Mを思い出しながら射精し、ティッシュにくるんで、捨てていく。やがてその頻度も減って、Mの声とか、仕草に関する生々しい記憶はどんどん風化していくから、Mに対する感情のリアリティも、警戒してたより、あっさり希薄化していくのを観測する。今回は、神風が吹いた、ガチで危なかった、と思うなどする。
芸術に対する感動と、感情の発熱は、やはり脳神経の反応する部位が似ているらしい。当時のおれは自覚していないけれど、Mとの接触によって開通してしまった情動の回路は、そのまま文学へと接続し、おれは、これも大学院生から8年ぶりに、また小説を読み始め、大学生の頃に書いた小説をリライトしていくことになる。
そして没頭する。
脳内からMの影が消滅し、AIとの対話のなかで、どういう小説を書きたいのか整理していきながら、新人賞投稿用の自作小説を練り上げていくことに、情熱が傾けられていくなかで、ある日、突然、Mの在籍が、復活する。
*
おれさ、最近小説書いてるんだよね、といったら、
えっ、
とMの動きがピタッと止まった。
え、かっこいい。
学生のとき文学好きでさあ、と言って、おれがいま描き直しているRという小説の内容を伝える。下品で、過激で、ナンセンスな内容だ。
Mは大笑いして、なにそれ、というから、えっ、読む? 読んで欲しいなあ、というと、Mは、読みたい!と、リアクションした。
ほんとに読む気だろうか?
おれの小説、クセ強いし、微妙な空気になったら気まずいな、と思いながら、次回来店時に、プリントアウトして持っていく。
本持ってきた!?
と、Mが開幕からハイテンションで聞いてくる。
楽しみにしてたんやで、といって、おれの小説Rを渡すよう催促する。楽しみにしすぎて、予習として、なんかよくわからない哲学の本も買ったらしい。なんで哲学なんだよ、とおれは笑う。けっこうガチで楽しみにしてたんだな、風俗嬢に自作小説読ませるとか、この関係ウケるな、と思うなどする。
数ヶ月前まで、Mを巡って、脳内が大炎上したことなど、もうすっかり、なかったことになっている。有り体にいえば、感情のしぶとさを、このときのおれはまだ、心のどこかで舐めている。「オキニ嬢」「殿堂入り」ラベルのフォルダを作って、処理を完了したつもりでいる。
あけおめ!
から開幕したのは、今年の1月31日のことだ。
あけおめ、と笑いながら返すと、
久しぶりやなあ、いつぶりだっけ? とMが聞いてくる。
年末ぶりでしょ、とおれが返すと、年末、、そんなに前だったっけ、とMがトボけているが、アケオメって言ってるんだから、ほんとは覚えてたんだろう、とおれは思う。
R、読んだで、めちゃくちゃ面白かった!
と続けてMがいう。
Rを渡した翌日には、全部読破して、しかも、めちゃくちゃ面白かったらしい。これ、お世辞じゃないで、ほんまにおもろかったで、とMが強調する。ほんとは、もっと早く感想いいたかったんだけど、なかなか来てくれないから。とってもクリーミィっていう、あのワード、写メ日記にも使おうかなって思ったけど、でも、アピールしすぎかなって。
おれは、作品Rに対するMの、予想以上の好反応に、喜びが爆発する。マジで!?と驚いて、Mの伝えてくる感想に、手を叩いて、うれしいなあ、と大笑いする。この子、ほんとに、感性が合うのかもしれないなあ。
ファン第一号やなあ、とかなんとか、けらけら笑って、テンションの高いまま、プレイに突入する。Mの中で指を揺らすと、無言のまま吐息だけ漏らしていて、粘性の高い、白濁した体液が指全体にべったり絡み付いている。仕込みローションじゃないよな、これ、と思うなどする。Mと舌を絡め合いながら、
ん?
と、ふと我に帰る一瞬がある。
あれ、またガチ恋になるやつか? との声がある。
すぐに否定して、鎮火する。
「ちがうよ」
「たまたま、風俗嬢が、お前の読者になっただけ」
「なぜなら、この子は、」
「単なるレジェンド・オキニですから」
あの子、ほんとに文学に興味あるのかもなあ、とうれしくなったおれは、新作Bと、何冊かの小説を選んで、Mに渡す。
Mは、今年の芥川賞受賞作を本屋で買って、読み始めたらしい。
うそぉ!?
と、おれが本を持ってきたことを伝えたら、喜んでいる。
本の差し入れは、初めてかも、とMがいう。
差し入れっていうか、洗脳だから、これ、とおれが笑うと、
わたしのこと考えて、選んでくれたのがうれしい、とMが続ける。プレイが、前よりもマニュアルっぽさが抜けて、自分から積極的に動いてくれるようになっている。
ん?
と、おれは、ふと思うなどする。
あれ、この子、こんなに、エロかったっけ。まあ、風俗嬢という仕事に、慣れ始めてるだけかなあ。
作品B、めっちゃ怖くない!?
と、Mが言う。こっわ〜、て思って、街中で、やばい人に遭遇しちゃったときの、ゾワゾワ感あった、あれ、文章だけで表現できるの、自分すごいなあ!?
作品Bは、奇妙な人物と「私」が夜道で繰り広げる、グロ系のスラップスティックだ。途中から難解な展開に突入するから、
え、全部読めた?
と質問すると、途中の、路上のゲロを踏み潰して、ぴちゃん、ぴちゃんという音がする場面で、気分が悪くなって挫折したらしい。
わたし、ちょっと、ゲロは無理やねん、グロいのとかホラーとか、わりと得意な方なんやけど、ごめんなあ。
でも、まだ枕元には、あの小説、ずっと置いてあんねん、といわれる。
枕元にあれ置くとか、呪われるぞ、とおれは笑いながら、やっぱり、この子、感性というか、五感がすごい鋭いんだなあ、と感心する。プレイしながらも、ずっと、途切れ途切れながら、Mとしゃべっている。Mの胸を撫でながら、ほんとにキレイな顔してるよなあ、とおれがいうと、今までMから聞いたことないような、女の濡れた笑い方が漏れてくる。
だって、この角度からみても、鼻筋とか、全部きれいだわ、と続けると、
笑わせようとしてるの? とMがいう。
まあ、ちょっとだけ、とおれは笑って、プレイを再開する。頭の中で、大学生の頃付き合っていた人とのセックスをちらっと思い出している。射精して、おれの精子がMの腕に飛んだあとも、後処理せずに、しばらくの間、舌を絡ませ合い続けている。なんか、お互いニヤけてまうなあ、とMがいう。
プレイ後、Mの口から、あまり脈絡がないまま、すこし複雑な家庭環境の話を聞く。キスの相性がどうとか、性自認が揺らいでいることとか、好きな異性のタイプとか、どんどん開示されるようになる。飲み会での孤独の話をしたら、初めて分かり合えたわ、と二人で笑って、Mが言う。
なんか、根っこの部分が似てるよなあ。育った環境が違ったら、わたしも、物書いたりする人になってたのかなあ。
*
考えてみると、Mは、常に、曖昧さと揺らぎのなかで、ゆらゆら揺れながら、社会的な孤独の中で、美貌と、鋭い感性だけで辛うじて立っている存在のように思われた。
物心ついたときには父親がいなくて、一人っ子で、常に昼夜逆転していて、性自認も曖昧で、本人曰く、友達もいないらしい。発言は余白まみれで、線引きが曖昧で、営業の枠を超えたような発言を繰り返すが、次の回ではまた、「嬢」と「客」の境界線をリセットしようとする気配がある。近付くと遠ざかり、遠ざかると近づいてくる。また境界線が溶けていく。
おれは、いつの間にか、あの濡れた笑い声とか、枕元に置いてあんねん、という発言が、ぐるぐる脳内で無限に再生されて、また、Mのことが頭から離れなくなっている。1週間もすれば消えるでしょ、と放っておくが、新作Bも書き終えているから、放熱先がない。空席になった情動回路が、再びMに強く接続されていく。
この子を本気で口説き落とすとしたら、
と、このタイミングでおれは、真剣に検討を始める。AIと壁打ちしながら、Mの性格と、関係性の推移を分析していく。
Mさんは、
とAIがいう。
Mさんは、自己の感情に対して、ラベリングが遅延しがちな人といえるでしょう。
Mさんの中で、「おれ」との関係は、実質的に「客」としてのラベルが外れて、すでに、未定義フォルダに格納されているようです。もっとも、そのフォルダは、「恋愛」とも名付けられてはいません。Mさんの特性上、感情を未定義のまま保留する傾向にありますので、名前のないフォルダでも、心地よければ、そのまま放置する可能性が高いでしょう。現時点で、「おれ」からMさんに交際や連絡先などを要求すれば、Mさんは、防衛線を強化し、態度は硬化するでしょう。
恋愛関係へと移行したいのであれば、
とAI回答が生成されていく。
Mさんは、時折、営業と本音で揺らいでいるようですから、本音の揺らぎが見えたタイミングで、「おれ」から、なるべく軽いトーンで、自分がこの関係を、恋愛に近いものと考えていることを伝えましょう。
重たい告白は、Mさんにとって感情の責任を要求されるものであり、防衛されるので避けましょう。「おれ」から軽く、繰り返し好意を伝えて、返答は求めないまま、現在の良好な関係を継続しましょう。他の異性や、あなたの喪失の予感を匂わせると、より効果的といえるでしょう。やがてMさんが、「おれ」に対し、極端に甘えたり、一喜一憂したり、束縛したりする発言が起きる可能性はあるでしょう。その場合、Mさんは、「恋愛」のラベルを貼ったことになるでしょう。
恋愛になった場合、
とAI回答が生成されていく。
「おれ」は、Mさんと店外へ移行して、恋愛的相性を確認することになるでしょう。「おれ」はMさんに「本気」のようですから、この期間中に、「おれ」は、奥さんであるKさんと、Mさんを、比較検討していくことになるでしょう。
離婚を選択する場合、「おれ」から自発的に、Kさんに離婚を切り出しましょう。不貞の証拠さえなければ、「おれ」はKさんと協議離婚という対等なテーブルに就くことができるでしょう。それでも、財産分与と、婚姻費用と、Mさんの生活保障で、ざっと1000万円くらいはかかると見ておいた方がいいでしょう。不貞がKさんに発覚した場合、交渉権を剥奪され、そのぶん出費も高額になりますので、証拠の隠滅には、十分に注意しましょう。
なお、Mさんの、社会的孤立の現状等を踏まえると、「おれ」との関係が安定的で成熟したものになるかは、慎重に見極める必要がありそうです。そのため、分岐判断が確定するまでの数年は、リスクヘッジとして、良好な婚姻関係をきちんと保全し、Kさんの笑顔には、きちんと笑顔で返しましょう。
Mさんとの関係性に確信が持てた場合には、そのタイミングで、Kさんとの関係について、終止符を打ちましょう。
ご希望であれば、MさんとKさんの比較検討ポイントや、不倫証拠の隠蔽の要点まとめ、Kさんに終止符を打つ最適なタイミングの整理なども、お手伝いできますよ。
進めていきますか?
と問う声がする。
進めていきたいですか? これ、ほんとうに、と、おれが、おれに問いかける声がする。
サイコロ次第で、おれ、本当に、Kを裏切って、切り捨てることになっちゃうんだけど。マジでやるつもりなんですか?
3
Kとおれは、おれが大学院生のときに、マッチングアプリで知り合った。
事前にやり取りしたときは、なんか暗い、変わった人だな、とか、LINEのアイコンも変な猿が写っていたから、あまり期待していなかった。前日は寝不足だったから、違うなと思ったら、理由付けてさっさと帰ろうと算段を立てて、上野駅で待ち合わせていた。
えっ、めっちゃかわいくない? びっくりしたんだけど、というのが、Kに会った時の最初の感想だ。
小動物系で、クリクリした丸い目でニコニコ笑って、待ち合わせ場所に立っていた。あまり喋るほうではなかったが、不思議と気まずいわけでもなく、おれが気に食わなくて黙ってるわけでもなさそうだから、てきとうなところで飲んで、カラオケして、そのまま初日にセックスしていた。
Kは、表面的にはキュート系で、甘えん坊でワガママなノリをよく仕掛けてくる。が、おれが乗らずに拒否すると、甘々っぽい仮面をパンと脱ぎ捨て、理性の言葉で、コミュニケーションが取れるようになる。メンタルの処理の仕方も戦略的で、嫌なことがあるとバーっと大騒ぎして、友達や家族に愚痴の長文LINEを吐き出したかと思ったら、次の瞬間にはもうケロッと立ち直っている。
わたし、よく、友達とかにも変とか、よくわからない人って、いわれるんだよね。
とKは言っていた。
いや、あなた、相当わかりやすいよ、とおれは答えた記憶がある。
あるとき、おれは、Kに対して、好き、みたいな甘いコミュニケーションを取ろうとしたら、Kは、微妙に戸惑ったようなリアクションを取った。
ああ、
とおれはなんとなく察した。
たぶん、この人は、甘い系のコミュニケーション自体が苦手なんだろう。だから、おれも甘々の仮面をパンとすぐに脱ぎ捨てて、以降、そういうコミュニケーションをとるのはやめた。楽チンで心地いいな、などと思っていた。
セフレなのか、なんなのかよくわからない期間が続いて、いつの間にか、暗黙の合意で、付き合うことになっていた。交際6年目くらいに、Kも結婚適齢期だしな、と思い、特にプロポーズもなく、ぬるっと婚姻届を出した。
社会人になってから、勝つことがすべてだ、勝たなきゃゴミだ、勝っても攻めろ、と露悪的に日々嘯きながら、この8年間、仕事を獲得して、独立と経済的成功を目指して走ってこれたのは、どう考えても、伴走してくれたこの人の、コミュニケーションやメンタルの、安定感で、余計なことに掻き乱されずに済んだお陰だろう、とおれは思う。
Kと一緒に撮った写真を、はじめて全部見返してみる。先週いったばかりの、山登りのときの写真で、Kが、おれの隣で、ヘンテコな帽子を被って、ピースをしている。なんだよそれ、ダサいなあ、と笑われた帽子を平気で被りつづけて、おれが、Mを口説き落とす計画を練っているとも知らないで、ニコニコ笑っている。最終的に、このひとの心と、思い出と、将来設計を、全部殺す計画を、頭の中で練っているのか、とおれは思う。まったく意味がわからない、とおれがおれにいう。社会人になって、成功するまで、ずっと横にいてもらっておきながら、金で買った女とちょっといい感じになったら、Kを切り離す算段をシミュレーションしている。気が狂ってるよ、お前、きもちわりい、とおれの理性がおれにいう。
Kの寝顔を見にいってみる。仕事で疲れて、すこし肉付きのいい頬っぺたが、ベッドに張り付いて潰れて、ヒヨコみたいになっている。抱きしめて、頭の中で、好き、と呟いてみる。口に出すのは恥ずかしいし、変なふうに思われるだろうから、K、ありがとう、好きです、と頭の中で反芻する。Kがぼんやり目を覚まして、どうしたの、とおれにいう。どうして泣いてるの、と聞いてくる。涙が止まらないから、なにも答えず、Kを抱きしめつづけている。おれはたぶん、いま、ずっと抑圧していた何かに復讐されている、と思う。Kはそのまま眠りにつく。翌朝、昨晩のことは特に聞かれずに、仕事行ってくるね、とKは、いつもより優しい気もする声で、おれに手を振って、扉の閉まる音がする。
少し寝て、目を覚ますが、起き抜けの無防備な脳の裏側では、やはりMの影がチラついて、重たく、しつこくまとわり付いて離れない。まだ発熱が続いていることに絶望する。LINEで、Kに、今日、取引先と飲んでくるわ、とメッセージを送る。本当は今日行く予定はなかったけれど、無理やりスケジュールを組んで、Mに会いにいくことに決める。自分ではもうどうしようもないのだから、Mに、介錯してもらうしかない、と考えている。
ところで、もし、
と、おれの感情がムクリと起き上がって、キラキラした目でおれに問う。
もし、Mちゃんへの口説きが、うまくいったら、おれの生活は、その後、どんなふうになるんだろう?
うまくいったら、Mちゃんと、どんな甘くて、楽しい生活が待っている?
Mとの関係がうまくいったら、
とおれの理性が、おれにいう。
うまくいったら、お前はいよいよ、本格的に、地獄への扉を開けることになるだろう。
うまくいったら、お前は、Mとの関係をひた隠しにして、Kを常に心の中で裏切りながら、隠蔽のための労力コストと、罪悪感と、いつバレるかわからない地雷原のなかで、日々を過ごすことになるだろう。
お前はMに対して「本気」なのだから、Mとの関係が甘くなればなるほど、裏返って、Kに対する冷たさとして表出し、Kへの違和感を必ずや植え付けるだろう。
Mからの不意打ちのLINE1通で全ては破綻するのだから、寛ぎの場であるはずの家庭で、今後、お前の気持ちが、真に休まることはなくなるだろう。
Mは、社会的に孤立した属性を持つようだから、お前との関係が深まれば深まるほど、精神的にも、経済的にも、お前に依存することになるだろう。
依存されればされるほど、当然、お前の精神的ストレスと、隠蔽コストは加速度的に跳ね上がっていくことだろう。
不貞が発覚したら、お前は、なにも悪いことをしていないKの笑顔を破壊して、これまでのKとの思い出を、全て裏切りの色で染め直し、Kの人生設計を滅茶苦茶にして、その罪悪感の中で、もがき苦しむことになるだろう。
再構築を選択されれば、お前は、「一方的な」「加害者」という最弱の立場で、冷えた空気の家庭内で、一生を過ごすことになるだろう。失われた信頼は、もう二度と戻らないだろう。
裁判離婚になれば、お前は、慰謝料と財産分与で、数千万円を持っていかれるだろう。Mという、社会的孤立を抱えた人物との関係構築に振り回されて、不安定要素の地雷原に、金も、時間も、労力も、全リソースを投入しながら、本当に、人生のパートナーが、Kではなく、 Mでよかったのか、答えのない問いに悩み続けることになるだろう。最終的にMとも離別すれば、お前には、孤独と、後悔と、罪悪感と、自己嫌悪と、莫大な金銭的損失だけが残るだろう。
離婚か、再構築か。
おまえは有責配偶者だから、選択肢はないよ。発覚すれば、おまえは加害者なのだから、交渉カードを全て失う。生殺与奪は、すべてKに握られることになる。
どうですか?
まずは軽い告白、でしたっけ。うまくいくといいですね。
と、おれの理性が、おれにいう。
だって、おまえはもう、自分で、自分の感情を、抑圧できないんでしょう? Mちゃんのことが、好きで、好きで堪らないんだ。Mちゃんとの甘い夢の実現に、人生を賭けたいんでしょう?
じゃあ、人生の駒を、先に進めましょう。
告白、うまくいくといいですね?
*
告白された風俗嬢の断り文句を調べてみると、ありがとう、うれしい、お店にいる間は誰とも付き合えない、お店に禁止されている、すでに彼氏や夫がいる、あたりが定番らしい。
が、Mが、そういう用意されたテンプレートをスラスラいうイメージが湧いてこない。わたしも好き、といってくるビジョンも湧かない。まあ、ありがとう、のテンプレでアッサリ流れるのがやっぱり相場だろう、と仮定して、いつもより、短い枠を予約する。30代、既婚の経営者が、風俗嬢にガチ恋して、人生初の告白だってよ、人生何があるかわからんねえ、と、店へ向かう道すがら、久しぶりの冷笑キャラが顔を出して笑っている。まあ、うまくいくといいですね?
待合室で、以前書いた、Mに対して抱いた想いを箇条書きにしたメモを見返すけれど、頭に入ってこない。伸びやかな感性だの、透明感だの、曖昧な孤独の影だの、そんな言葉にリアリティは全然ない。現場で、これを伝えられるとは思えない。脳内はやけにシンとして静かだが、スマホで何を見ても、集中できない。好き、という言葉だけ、シンプルに、投げてみようと思っている。予約時間は18時だ。待合室のテレビ画面を、見るともなしに、ぼおっと眺めている。まあ、きっと失敗するし、大丈夫だろう、と思うなどする。
そして18時よりすこしまえ、想定していたより早く、店のスタッフに番号を呼ばれて、待合室のカーテンが開かれる。1階フロアに誘導されて、エレベーターの前で待たされる。Mの乗っているハコが、電光板で3、2、1と降下してくる。ガガン、と歪んだ金属音が鳴って、片側開きの、古いエレベータの扉が軋みながら開いていく。境界線の向こう側で、あの切れ長の、きれいな一重瞼を伏し目がちにしながら、曖昧に微笑むMが待っている。
久しぶり、
と、Mがいう。おれの好きな、あの柔らかい声をパンと放って、おれに向かって、笑っている。お時間まで、ごゆっくりどうぞ、と告げるスタッフの、足音が遠ざる。扉が閉まっていく。Mが近づいてくる。甘い匂いがする。
了
執筆の狙い
風俗嬢に恋した男の話です。
恋愛の皮を被ったサイコホラーのつもりで書きました。実話かどうかは秘密です。