俺の人生
誰かが俺を呼んでいる。そこはどうやら青く澄み切った高原のようだ。
あの声は……由美の声に似ている。寝そべって空を見ている。俺は起きだして声の主を探した。でも何処まで行っても由美の姿は見えなかった。
俺は叫んだ。「由美~~何処にいる?」
突然、男の声が側で俺に言った。
「おい! また寝言か同じ夢を見たのか。よく同じ夢を何度も見られるもんだ。可笑しな奴だぜ」
それで俺は眼が覚めた。周りを見たが其処は高原ではなく、薄暗い八畳ほどの部屋だった。
周りには家具類や電化製品の類もなく、むき出しのトイレに布団が四人分、出口もない部屋だ。いや、あるにはあるが鉄格子で鍵が掛かっていた。そう、此処は留置所の中だった。
今日で四日になるが、取調べは毎日続いた。俺はやってないと何度言っても分かってくれない。怒った俺は、ついに黙秘権を行使し、俺の名前も住所も職場も一切拒否した。
但し免許証を没収されたから全て警察は分かっているが、少なくとも俺の抵抗だ。
あれは通勤電車の中での事だった。突然、女は俺の手を取って「痴漢!! この人痴漢です」と叫んだのだ。なんと普段は知らん顔をする乗客の数人が、俺を取り押さえたではないか。
「おいこれは何の真似だ。俺が痴漢だと? 馬鹿な俺は何もしていない。離せおまえら許さぞ」
「痴漢した奴はみん同じことを言うもんだ。言い訳は警言う言う
やがて俺は警察に連れて行かれた。
勿論そこでも俺は、やっていないと主張したのだが、警察は最初から俺が犯人だと決め付けているような雰囲気だった。俺を取り押さえた群衆だって優しそうな女と俺と比較したのだろう。結局は俺が悪党扱いされた。
相手の女は二十五~六才だろうか、見るからに清楚な感じであった。俺と来たら残念ながら見た眼つきが悪い。かなりゴツイ顔だ。街のチンピラも眼を逸らす程の風体をしている。だからって俺をなんで犯人と決め付ける? 一見、清楚な美人と野獣男では確かに不利だった。この痴漢という奴は厄介で、やっていないという証拠はない。逆にやったという証拠もないが。一旦、痴漢扱いを受けると覆しには並大抵ではないと聞く。
まず痴漢で捕まれば九十九%は有罪そうだ。これを覆しには宝くじに当たるのと同じくらい難しいだろう。
取調べでは、刑事がとんでもない事を言い出だす。
「正直に白状すれば罰金三十万で済むぞ」
冗談じゃない。それは誘導尋問だ。当然の如く俺は拒否した。
そうだ! 夢に出て来たのは俺の恋人だ。彼女が痴漢で逮捕されと知ったらどう思うだろう? 冷ややかな目で俺から立ち去って行くだろう。罰金数三十万を払えば釈放されるそうだが、それでは罪を認め前科が付く。罰金を払えは罪を認めたことなる。払わなければ裁判で裁かれ刑務所行き。そうなったら最後、痴漢の前科があったと知ったら、彼女も居なくなり将来の結婚にも支障がでる。それ以前に冤罪なのに、前科者になるのは人生の敗北である。
だがそれから三日が過ぎた頃、俺は突然に釈放された。俺は何がなんだか分からない。
黙秘権は自分に不利になる事は言わなくて良い権利である。だが印象が悪い。それなのに何故? その痴漢だと訴えた女には、なんと前科があった。つまり相手を痴漢扱して金を脅しとる常習犯であった。清楚な美人を武器にすれば、周りが信用するのだそうだ。
俺の場合は少し事情が違ったようだ。いつものように警察に行く前に二人だけで話を付ける(無かった事にするから)で五十万金を巻き上げるつもりが、この時ばかりは乗客の二人が一緒に着いて来て脅しつもりが、第三者が居ては出来なくなる。予定が狂ったらしい。
警察に連れて行けば女には一円も入らない。痴漢した相手が罰金三十万前後払っても女には自分のものにならない。自分のものにするには弁護士を雇い慰謝料をとるしかない。これには色んな交渉してやっと手に入る。しかも弁護士費用を差し引けばうま味がない。しかも常習犯とバレたら藪蛇だ。
これでは強請る事も出来なかったとか。理由はともあれ、俺は犯人扱いされ留置所に長い間監禁され取り調べられた警察官も許せなかった。
俺は警察署を出る前に謝った刑事をぶん殴ってしまった。
俺は、その場でまた留置所へ逆戻り。それから三日、俺はやっと釈放された。
「俺を犯人扱いした女はどうなるのですか。俺に詫びの一言もなく会うことさえ許されないとは我慢できん」
「気持ちは分かるか法律に則って裁くから安心しろ」
本来なら警官を殴ったのだから罪は重いが、警察も無罪の人間を留置所に入れきつい取り調べしたから警察にも非はある訳で、三日で釈放れた。
会社には急用と言って結局十日間も休んでしまった。まさか痴漢に間違われ留置場に入っていたとは言えない。少しは気が晴れたが、十日以上も欠勤した事は間違いない。職場には俺の居場所は既になかった。悪い事は続く、唯一信用してくれるだろとう思った恋人の由美まで去っていった。痴漢が冤罪としても間違われる方にも非があると思ったのだろう。
俺は職場を追われ彼女も去っていった。
吉田幸造三十歳、無職。それが今の俺だ。全てを失った俺に残された道は決まっていた。
チンピラも避けて通る俺の風体はヤクザがお似合いだった。俺の人生は完全に狂ってしまった。何度も就職の面接試験を受けるも雇ってくれなかった。第一印象はこわもて顔が悪いのが一番欠点である。こうなったら元々悪党顔の俺には裏家業が似合っている。
唯一声を掛けてくれたのは拘置所で知り合った極道の男。奴は罰金を払い組に戻った。極道の世界は警察沙汰を起こせば組から罰せられるどころか格が上がる世界だ。奴は組長に面白い男が居ると俺は誘われるままに組に入った。
元々悪人が似合う顔だ。三年して俺は組の顔になった。最初から臨んだ世界ではないが俺には合っていた。
あれから十年、俺はある組の幹部クラスに昇進していた。
今日は組の島の見回りだ。島には沢山の飲食店も入っている。時おり店に顔を出すのも仕事だ。サラリーマン時代にない優雅な暮らしが俺には合っていた。舎弟数人を連れて夜の繁華街を練り歩く。そんなある夜、豪華なクラブに入った。
「おい雄介、この店は出来てどのくらいだ」
「へぇまだ半年でキチンと会費(みかじめ料)も頂いています」
「そうか、では挨拶しておかないとなぁ」
此処の店のママだと言う女と顔が合った。何処かで見かけた顔だ。ママも俺を見て驚いた表情を浮かべた。
もう十年も昔の話だが俺を嵌めた女の顏は忘れる事はなかった。女の方も悪党顔の俺の顏は覚えているらしい。思い出した。忘れもしないあの時の女。痴漢だと言って俺の腕を掴んだ女だ。
俺に気づいた女は逃げようとした。だが俺はあの時とは逆に女の手をむんずと掴んだ。
「てめいぇ忘れもしないぜ。おい! どう落とし前をつけるつもりだぁ!!」
「どう取れと言われても……」
「てめぇのせいで会社は首になりスケ(彼女)も逃げて行った。お蔭で今はご覧の通り裏街道家業だ。俺の人生を滅茶苦茶くにしゃがって、責任を取って貰おうか」
「御免なさい。あの~どのように責任を取れば……」
「なんだと、責任取れるというのか。俺の一生は台無しにされた。その責任は軽くはない二億円くらい払うと言うなら話は別だがフッフフ」
女は困ったような顔をして下を向いた。確かに清楚な感じはする。しかしそれに周りは騙される。だが今度ばかりそうは行かないぞ。この女だって修羅場を生きて来ただろう。クラブのママに収まっては居るが、どうせ真面目に稼いだ金ではないだろう。俺に迫られ女も観念したようだ。
「分かったわ。責任をとればよいでしょう。どうぞ好きにして」
「ほう二億円を払うというのだな。まぁそれならいいだろう」
「そんな大金ある訳がないでしょう」
「そうなればお前はこの店を畳むことになる。金を払うか店を閉めた金で払うかだ」
「店を売っても一億円にもならないわ。この店を閉めれば生きて行けないわ」
「じゃあどう落とし前を付けるんだ。俺の人生を狂わせた責任を取れ」
「だから私自身を預けるというのよ」
「なんだって……多少顔が良くても二億円の価値はないぜ」
「じゃこの店の売上金の中からコツコツ払うわ。それとも私じゃ不満」
「不満って訳ではないがお前自ら保証人なら考えても良いが」
それから一年が過ぎていた。此処は新宿にある高級マンションの一室である。
「お~い陽子。ビールはまだかぁ」
「は~い、貴方、おまちどうさま。今日はお祝いだから沢山ご馳走作ったからね」
「ん? なんのお祝いだっけ?」
「もう忘れたの、(落とし前をつけて)貴方と一緒になって一年経つのよ」
「ほうあれから一年か、お前とは妙に縁があったようだな。ハッハハ」
陽子とは腐れ縁というのか一見、清楚な美人に魔力に負けて俺達は一緒になった。陽子は払う金がないから生涯に渡って奉仕するというから許してやったが、これでは俺が報復した事になるのか、それとも陽子に又してもやられたのか。それは謎である。
了
執筆の狙い
3600字の掌編です。
痴漢と間違われ逮捕された男は釈放されたのは十日後だった。
冤罪が晴れても会社は解雇同然に追い出され彼女まで姿を消した。
元もと強面の顔は何処でも雇ってくれず、行くつく先はヤクザの世界。忘れもしない俺をハメた女と会ったのは10年ぶりだった。男は復讐に燃えるが……