作家でごはん!鍛練場
夜月 遥

月影マリオネット。

Side.Tukiri

しゃっしゃっと動くシャーペンの手を止める。
季節は夏になりかけみたいな感じで気持ち悪い。

「やっと、終わった。」

そう言って、ぐだっと図書室でくつろぐ。課題が多すぎて死ぬとこだった。
何教科あるんだろ。めんどくさい。
ほんっと疲れる。
そう言ってる私は、月里 すいれん。
「お疲れ様、月里さん。」
そう言って、優しく声をかけるのがクラスメイトのアイツ。
みんなから「イケメン」って持て囃されてる。
名前は、名前は確か、
木影、木影 蓮。

名前に違わず善意にあふれるやつ。

ちょっとクールだけど女子には甘いやつ。

こう、「僕、甘いの苦手なんだよね。」とかほざく爽やか系男子。

そう思うでしょ?

「アンタもお疲れ。あ、勉強じゃなくてキャラ作りの方ー。」

「ほら、早くしろ。オレだって忙しいんだよ。」
あはは、残念。スーパー猫かぶり男子。ちょっと残念じゃないか?ってたまに思う。

「爽やかさの欠片もないねー。木影。」

そう茶化して見せれば、サラサラの黒髪を揺らして、

「は?別にどうでもいいだろうが。お前、バラしてないよな?」
私の前でしか見せない、本来の男子中学生の姿。

周りの子だったら「私だけに!?」とか言ってさ、目にハート付けてんだろうけど。
私は一切興味ないんだよね。申し訳ないけどさー。

アイツのこの秘密は、最高に面白いんだよね。

さあ、この動向をじっくりと観察してやりたいなと思う。
アイツはどう思ってんだろうかな。

まあ、私にも言えないことはあるんだけどね。


Side.Kokage

さっきまでずっと滑らかに動いていた手を止めて、横にいるアイツが喋る。
オレらは、今図書館で自習中だ。

「やっと、終わったー。」
そう言って猫のように背中を伸ばす月里。月里 すいれん。

猫のようなたたずまいに加えて、容姿も同様で愛らしい。
櫛を使えばすぐに通ってしまう、柔らかそうな金に近い白髪。
目は蜂蜜のような色で、ビー玉のように透き通っている。
人形のように小さい体で、守りたくなって仕舞う程に華奢。
本当に、愛くるしいという言葉が似合う美少女だ。

しかし、アイツは優良物件って訳でもなさそうだ。
だから、無難にじっくり落とそうと思う。でも、オレは弱みが握られている。

「お疲れ様、月里さん。」
優しく声をかけてやる。すると、
「アンタもお疲れ。あ、勉強じゃなくてキャラ作りの方ー。」
と、嫌味たっぷりの言葉が返ってくる。
アイツがあんまりモテない理由は、煽り厨だからだ。
あそこまできれいな見た目をしているのに、可哀想だ。

アイツは、アイツにはどこか闇を感じる。
裏があるんじゃねえかって思う。でも、可笑しい。何でこんなことを思うんだろう。
だから、気づいていることを悟られないようにこういっておく。
「ほら、早くしろ。オレだって忙しいんだよ。」

「爽やかさの欠片もないねー。木影。」

ほら、いつも通りにさらっとかわしやがった。ほんとに何なんだよ。でも、オレの素性を明かされてはオレの立場が危うい。

「は?別にどうでもいいだろうが。お前、バラしてないよな?」

聞いておかないと、オレの立場以外にもコイツとの関係にもヒビが入りそうで怖かった。
月里は、オレの何なんだろう。

図書室を出たのは、最終下校時刻だった。
カーテンが閉じられた窓の向こう、夕暮れの色がじわじわと沈み込んでいく。
電気のほわほわした光に淡く照らされた廊下は、じっとりとした湿気を孕んでいて、私は思わず鼻をひそめた。
ぬるくて濁っている、この空気が嫌いだなと思う。

いつのまにか、夏がすぐそこまで来ている。
この季節特有の、どこかまとわりつくような空気。思考まで鈍くなりそうで、早くこの場を抜け出したくなる。
ローファーがカツカツ鳴るのがうるさく感じて、いっそのこと音を立ててやろうと思って、足に力を込めた。

「お前、どうせまた何か隠してんだろ。言えよ。」

後ろから聞こえたのは、アイツ―木影 蓮の声。
甘ったるくて優しい演技はとうに脱ぎ捨てたトーン。
誰かに聞かれたら、きっと女子が幻滅するだろう声。

「あは。なんでそんなに詮索すんのさ。私に興味あるの?」

軽く冗談っぽく返すけど、わずかに心に引っかかった。
私は、こうして冗談めかしているほうが、ずっと楽。
本音なんてわかんないからなー、考えたくもない。

「いや。単純に、お前の本音が気になっただけ。」

木影は、すぐ横を歩きながら、こちらを見ずに言った。
木影のあの深い群青の目が見えないのに、私の何かが見透かされてるような気がして、ぞわっとする。
何かはわからないけれど、寒気がする。
まあ私の嘘なんか、当てられるわけないもんね。木影なんかにさ。

「ふーん。じゃあ、当ててみたら?私の本音ってやつ。」

「お前の本音なんて、その発言の中に一つもねえだろ。」

その返しに、一瞬だけ、口の中が乾いた。ぞわり、と嫌な予感がする。
制服に汗が張り付いて気持ち悪い。冷や汗、だ。
今まで、木影との会話の中でこんなに追い詰められたことなんてないはずなのに。

でも、私は笑う。にやりと、ふざけた顔を貼り付けて。精一杯、仮面を被る。

「そ。じゃあ、お互い様だね。木影の“善人キャラ”も、大概薄っぺらいしー。」

「それでも、それを信じてる奴はいる。十分だろうが。」

その一言に、妙な棘を感じる。刺されたように、じくじくと心が痛む。
木影は本気で、言っているのか。
それとも、私に刺さるように、わざと選んだのか。
どちらにせよ、何かが違う。

駅までの道を、木影とふたりで歩く。
踏切の音が遠くに鳴って、すぐにまた静寂が戻る。
その波が何とも言い難く、気持ち悪い。
だけど、まるで世界に二人しかいないみたいに、さーっと周囲の音が消えていく。

私はこの静けさが、怖い。
誰にも見られていない気がするけど、逆に、全部を見透かされている気もする。
嘲笑われてる。そう考えた矢先、鋭い電流のようなものが私を切り裂いたような感覚に陥る。
自分の中の何かが、そっと削れていくような気がする。

「お前ってさ、自分が主導権握ってるって思ってんの?」

突然、木影がそう言った。
その口調は、からかっているようで、どこか真剣でもあった。

「なにそれ。私が操ってるって?アンタのこと?」

「そう。……でも、実際は違う気がしてんだよ」

「ふーん。随分、自信なくなったじゃんか。」

「いや。自信はあんぞ。お前は、お前自身が思ってるより脆い。」

その言葉に、何かが引っかかる。脆い?私が?木影が、思ってんの?
笑い飛ばそうとしても、喉の奥に何かが引っかかって、声がうまく出なかった。

「ふーん。じゃあさ、試せばいいじゃん。私がどこまで脆いかって。」

沈黙。

木影はそのまま黙り込んでいる。
駅の喧騒は、ずっとさっきから遠のいている。
すれ違う人の気配すら、どこか遠い。まるで、現実が少しずつ曖昧になっていくみたいだった。
それは、嘘と本当が曖昧になって、何がなにかもわかんなくなった自分のように。

その沈黙のなかに、何かがあるような。ないような。
それが何かは、私にも、まだ分からない。

横をふと盗み見ると、どこか遠くを眺めている木影の顔があった。
いつも澄み切っている紺色の瞳が、今は深く、暗く、憂いを含んでいるように見えた。
その横顔を、なんとなく見ているのが辛くてそっぽを向く。
アイツ、自分が操られてると思ってんのかな。
ほんとに面白い。
そう、いつものように笑い飛ばせない。重く、鉛のように言葉がのしかかる。
嘘はつき続けるたびに重くなる、なんて一番わかっていたのに。

何かが変わり始めている。
私と、木影との関係も。
そして―私自身の、どこかも。


オレがノートを開くとき、図書室はいつも静かだった。

本を閉じる音も、椅子を引く音もない。静寂だけがそこにある。
その空間に、オレはいつもいた。決まった席に座り、そっとページをめくる。
ぱさり―乾いた音だけが、耳に届く。

開かれたノート。表紙も、タイトルもない。
化学式や歴史の年号が整然と並んでいるように見える。でも、全く違う。
アイツについての、メモだ。

「月里 すいれん」。

日付、服装、髪型、歩く速度。
授業中の姿勢、ノートの取り方、ふと漏らした独り言。
そして、口にした嘘の数々。

嘘―それは大げさなものではない。
「今日は寝てない」「朝ごはん食べた」「大丈夫」
そんな、ごく小さな、誰も気に留めないような言葉。
“本当ではない”ということだけが、なぜか直感でわかってしまう。

笑っていたはずの目が、ほんの一瞬だけ沈んだ時。
語尾の抑揚が、ほんの少しだけ揺れた時。
ペンを強く握った指の節に浮かぶ、わずかな力み。
それらすべてが、ノートの余白に、淡々と記録されていく。

オレにとってこれは、趣味でも、興味でも、恋心でもなかった。

ただ、“見えてしまう”だけだった。

風景を見るように。空の雲の形を追うように。
彼女の微細な変化が、自然と目に入ってきて、気づけばノートに記している。
自分でも、なぜこんなことをしているのか、わからなかった。
ただひとつ確かなのは、気づいたときには追っていた、ということだ。

月里すいれん。

クラスではよく笑う。声は明るく、言葉選びも軽やか。
誰とでも分け隔てなく接し、馴染んでいる。
そう見える。
けれど、その“仮面”が少しだけズレる瞬間があることに、オレは気づいてしまった。
それが、どうしても頭から離れなかった。

あのとき、オレは言った。

「お前の本音なんて、一つもない」

でも、それは本当に彼女に向けた言葉だったのか?
あれは―オレ自身に向けた問いだった。

自己投影。
聞こえはいいが、欲に塗れ、醜く、歪んでいる。
月里を見ているつもりでも、自分を見ていた。
アイツは、掴み所がない。するすると器用に逃げる。

“なら―オレの本音って、どこにあんだよ?”

人は日々を演じていく。
誰かの言葉に笑い、言葉を飾り、
「平気だよ」と言いながら、どこかでため息をついている。

舞台は図書室。
幕は開いている。
だけど、誰も観客はいない。
役者は一人。ノートの前に座る、オレだけ。

彼女の嘘の輪郭がわかるまで、オレはどれくらいかかるんだろう?
放課後の校舎裏。

誰もいないはずのその場所に、月里すいれんはぽつんと立っていた。
夕焼けに照らされた髪が、ゆっくりと揺れる。
あの、金色に近い白髪が―今は炎のように赤く燃えている。
透けそうなほど細いその背中が、不意に現実から切り離されたように思えた。

オレは、足を止める。
見つけた瞬間、なぜか息をひそめていた。
胸の奥が、わずかに軋んだ。どうしてだろう。理由はわからない。ただ―目が離せなかった。

月里は、ノートを開いていた。
違う。あれは、日記だ。
小さな手がページの端をそっと撫でる。その所作には、妙な慎重さと、どこか儀式めいた静けさがあった。

物陰から、オレは見ていた。
盗み見るつもりなんてなかった。けれど、目も心も、もう月里から逸らせなかった。

ふと、月里の口元がわずかに動いた。
誰かと会話しているように。けれど、その場には誰もいない。
声は聞こえない。ただ、その瞬間だけ風が吹き抜け、ひとつの言葉だけがオレのもとに届いた。

「ねえ、木影。どうして、あんたは―」

その先の言葉は、風にさらわれた。
だが、たったそれだけで―オレの中の何かがひび割れた。

頭の奥に、ノイズが走る。
金属を擦るような、不協和音。
コンピューターのバグのように、オレの中を何かが駆け巡る。
黒く、ざらついた記憶の断片が、封じ込めていた場所から溢れ出そうになる。

思い出してはいけない記憶。
開いてはいけない扉。

だめ、ダメ、駄目!!
あそこには触れちゃいけない。
そこには、“木影 蓮”の―秘密がある。

月里が持っていたノート。
その端に、走り書きのような字が見えた気がした。

「木影 蓮」

瞬間、背筋に冷たいものが走る。
心臓が一拍、打ち損ねたような感覚。
まるで世界の重力が、ほんの少しだけ傾いた気がした。

「…見ちゃった?」

静かに。けれど確かに。月里の声。
オレの存在には、とうに気づいていたということだ。

月里は振り返らないまま、ぽつりと続けた。

「隠し事って、癖になるよね。私もそう。
だから、私じゃなくて―アンタのも。いつかバラしてあげるね。」

笑っていた。
けれど、その笑顔はどこか壊れかけていた。
繊細で、儚くて、それでもどこか、オレの心の奥をそっと撫でるようだった。

今まで何度も見てきた笑顔だったはずなのに、
今日のそれは、何かが違っていた。
嘘? いや、そうじゃない。もっと深い、何か―。

何なんだ、お前は。

でもそれを問いかける前に、言葉は喉で凍りついた。

「なあ、月里。お前、前の学校ってどこだった?」

いつもの図書室。
放課後の空気は、ゆっくりと色を変え、窓から差し込む夕陽がカーテン越しに床を朱に染めていた。
その中で、木影は何気ない風を装って、ぽつりと問いかけた。

私は手を止め、少しだけ間を置いてから笑った。

「またそうやって探り入れるの、好きだよね。前にも聞いてなかった?」

「いや。オレは聞いてない。初めてだよ」

……そうだったっけ?

木影の言葉に、背筋がほんの少しだけ冷たくなった。
この会話―どこかで一度、交わしたことがあったような気がした。
夢の中か、あるいは忘れかけの記憶の底で。

でも、確かめる前にその感覚は、霧のようにすり抜けていった。

「うーん……なんか、地方の学校だったかな。名前は忘れた」

私は笑って答えた。
けれど、それは紛れもなく嘘だった。

本当は、出身校の名前なんて最初から曖昧だった。
どんな制服だったか、どんな授業を受けていたか、どんな友達がいたか――
ひとつも、まともに思い出せない。

まるで誰かに与えられた設定だけが頭に入っていて、
肝心の“中身”が抜け落ちているみたいに。

嘘をついているのは自分でわかる。
でも、それ以上に怖いのは、本当のことが何も思い出せないことだった。

木影は、私を見ていた。
その視線の奥に、何かを確かめるような静けさがあった。
やがてふいに、窓の外へ目を逸らす。

「…昔から知ってた気がしたんだけどな。」

そのつぶやきに、胸が小さく鳴った。
驚きじゃない。けれど、なぜだか―苦しかった。

木影の言葉は、まるで何かを思い出そうとしている自分自身に向けられたようで。
私の知らないはずの“過去”に、木影が手を伸ばしているように感じた。

「あ、そういえばさ。月里の誕生日、いつ?」

私は少し首をかしげながらも、自然に答えた。

「十一月二十日。」

木影は、わずかに目を見開き、それから静かに笑った。

「そっか。奇遇だな。オレと、同じだ」

その言葉に、胸の奥がわずかに揺れた。
偶然―にしては、できすぎている。

私たちは、同じ日を誕生日として過ごしてきた。
けれど、それを知った今、何かが噛み合い始める気配がして―同時に、怖くなった。

木影はそれ以上、何も言わずに窓の外を見つめていた。
夕陽がその瞳に映り込んで、普段の紺色が朱に染まる。

その横顔が、ほんの一瞬だけ。
“別の人”に見えた。

私は何も言えなかった。
ざわつく感情に、まだ名前をつけられないまま。

その夜、夢を見た。
白く冷たい部屋。壁も天井も無機質で、まるで病院の一室のようだった。
蛍光灯の冷たい光がぼんやりと空間を照らし、消毒液のツンとした甘ったるい匂いが鼻を突く。
空気は重たく、息をするたびに胸の奥がきしむような感覚があった。

隣には小さな黒髪の少年がひっそりと座っていた。
体つきからして、かなり小さいようだ。
彼は涙をこらえるように小刻みに震え、声も出さずに静かに泣いている。
その涙は音もなく零れ落ち、床に吸い込まれていくようだった。

「すいれん……すいれん、置いていかないで」

その声は囁きのようにかすかで、夢の中でさえも消え入りそうだった。
しかし、どこか胸の奥深くに響き、胸を締めつけて離さなかった。

夢の中で、少年の顔がぼんやりと見えた瞬間。
突如として激しい頭痛が襲った。
それはまるで、記憶の奥深くに封じられていた何かが無理矢理引き裂かれるような、鋭く痛む感覚だった。鈍器で殴られたような、痛みが頭を襲う。

思考は霧の中に沈み、手繰り寄せようとする記憶が次々に崩れ落ちていく。
時間も場所も曖昧になり、ただ痛みだけがリアルに感じられた。

やがて目が覚めた。
薄暗い部屋の中、額からは冷たい汗がじんわりと流れ落ちていた。
まだ眠っていた頃のぬくもりを感じる、震える手を握りしめ、ベッドの縁に深く座り込む。

胸の奥がざわつき、何かが欠けていくような不安感が膨らんでいく。
言葉にはできない違和感と恐怖。
それはまるで、忘れてはいけない扉が静かに開き始めていることを告げているかのようだった。

「何なんだろ……この気持ちは」

翌朝。
学校の下駄箱に、小さな紙片がひっそりと差し込まれていた。

白く薄いメモ用紙。それは、何かを切り取ったような小さな紙だった。

そこには、鉛筆で淡々と、丁寧で、無機質な文字でこう書かれていた。

「思い出すな」

差出人の名前はなかった。
けれど、その文字は見慣れた筆跡だった。

木影の字。

その瞬間、脳の奥で小さな音が鳴った。
忘れかけていた何かが、静かに目覚め始めるような、ひんやりとした感触。
心の中の隙間に、パズルのピースがかちりと音を立てて嵌まった気がした。

朝の清々しい空気を吸ってみれば、少しは楽になるかなと思い、吸ってみる。
すーっ、はーっ。
何度も、何度も深呼吸を繰り返す。
しかし、清々しさとは相反した、ダイキライな生ぬるい空気が、肺を通過してっただけだった。

オレは、ほとんど夢を見なかった。
夢の内容を覚えていることは、稀だ。

ただ、ある頃から、記憶の輪郭がぼやけていった。
目を閉じても、確かなはずの過去が霧のようにかすみ、形をなさなくなる。
自分はどこで生まれたのか。
両親はどんな顔をしていたのか。
その記憶は、いつの間にか遠ざかってしまっていた。

なのに、なぜだろう。
月里の仕草や声だけは、不思議と鮮明に、懐かしく胸に響くのだ。
まるで、ずっと昔から知っていた人のように。

放課後の図書室は、午後の柔らかな光に包まれていた。
カーテン越しに差し込む夕陽が、ページの隅を金色に染める。
静寂の中で、オレは彼女の表情をノートに書きとめ続けた。

「左手で髪をかき上げるのは、思考中のサイン」
「嘘をつくときは、語尾が曖昧になる」
「昔話を避ける」

紙に並ぶ文字は、冷静に淡々と事実を綴っているけれど、オレの胸の内は混乱していた。
なぜ、これほど細かいことがわかるのか?
その理由が、オレにはまだわからなかった。

ある日、誰もいない図書室の片隅で、こっそり彼女のノートをめくった。
そこに、ただ一行だけ、ぽつんと書かれていた言葉。

「私は、兄の顔を覚えていない」

その文字を見た瞬間、オレの背中を冷たい汗が流れた。
月里には、兄がいたらしい。
そんな話は一度も聞いたことがなかった。
けれど、どこかで知っていたような、そんな気もした。

まるで、自分がその“兄”だったのではないかという、恐ろしい錯覚に襲われた。

否定しようとした。
けれど、視線がふと机の引き出しに向かった。
そこに、見慣れない封筒が置かれているのを見つけた。

封筒は古びていて、紙は黄ばんでいる。
ゆっくりと開くと、中には一枚の白黒写真が入っていた。

用意された1つのベッドの上で寄り添う二人の赤ん坊。
一人は白く透き通った髪をしていて、写真の中でもひときわ目立つ。
もう一人は、真っ黒な髪の子だった。
二人の髪色は対極で、お互いを際立たせている。
静かな温もりの中に、同じ時を刻む二人の存在が、そこに確かにあった。

写真の裏には、鉛筆で小さな文字が書かれている。

「月里 すいれん」
「木影 蓮」

その瞬間、オレの中で、何かがつながった。

静かな図書室で、夕陽はまだゆっくりと沈んでいく。
オレの胸の奥は、不確かな記憶と感情が渦巻いて、まるで静かな嵐のようだった。

何かが始まろうとしている―そんな気配がしてならなかった。

真実を知っても、オレはすぐに言葉にできなかった。
その一言が、壊れやすい糸を切ってしまうのが怖かった。
月里はまだ、自分の正体に気づいていない。
いや、気づかないようにしているのかもしれない。

最初から、主導権なんて存在しなかった。
二人はまるで、誰かの手の中のマリオネットのようだった。
お互いが「操っている、操られている」と思い込みながらも、実は誰か別の“糸”に繋がれ、動かされている。
それは時に自由を装い、時に互いを縛る鎖にもなりうる。

でも、真実は決して隠しきれなかった。
木影はずっと見ていた。
月里の嘘も、笑顔も、隠そうとする過去も、
彼女自身が必死に信じていた“偽りの物語”さえも。

ある日、わたしは静かな声で問いかけた。
「ねえ、木影……私、何を隠してたと思う?」

その言葉は、まるで人形の糸が解けてしまいそうなほど、弱く震えていた。
けれど木影は黙ったまま。答えを出す勇気を探しているのか、それとも答えたくなかったのか。

わたしの胸は締めつけられて、視線が揺れる。
それでも、かすかな笑みを浮かべて言った。
「うん、たぶん……最初からあんたは知ってたんだよね」

その瞬間、胸の奥の鎧が少しだけひび割れた。
「私よりも、私のことを……」

それは告白であり、同時に木影への挑戦でもあった。
嘘と本音が絡み合う中で、わたしは彼の答えを待ち続けていた。

けれど木影は黙ったまま、深い息を吐いてわたしの瞳を見つめる。
その目には言葉以上に重いものが宿っていた。
それは、後悔かもしれないし、覚悟かもしれない。あるいは哀しみかもしれない。

わたしたちはお互いの存在に縛られているのに、どこかで引き離されている。
まるで操り糸を手放すことができない人形のように、動きながらも動けずにいる。
でも、その糸の主は誰なのか。
それが自分たち自身なのか、それとも誰か別の誰かなのか。

「……それでも、いいんだよね?」

声が震え、涙が頬を伝う。
木影はゆっくりと頷く。言葉はないが、その肯定は何よりも強い。

その瞬間、わたしたちの間に張りつめていた糸が、少しだけ緩んだように感じた。
壊れそうで、でも確かな繋がりがそこにあった。

わたしはまだ、この人形劇の先に何があるのか分からない。
けれど、もしかしたら、この絡まり合った糸の中に、ほんの少しだけ自分の意志で動ける場所があるのかもしれない。

そう思えたのは、木影の瞳が静かに揺れて、わたしの思いを映してくれたからだった。

月里すいれんは、いつの間にか学校からいなくなっていた。
転校という形式をとってはいたものの、誰もその詳細を知らなかった。
先生も、友達も、ましてや木影でさえ、ただ「月里がいなくなった」という事実だけが、ぽつんと胸に残った。

彼女の席は、もう空っぽだった。
放課後の静かな図書室。
夕陽がゆっくりとカーテン越しに差し込み、埃っぽい空気を黄金色に染める。
木影はいつものように図書室の奥の席に座り、重い気持ちでノートを閉じた。

それは、彼女のことを記録してきたノートだった。
ページには、月里の細やかな仕草、微妙な表情の変化、言葉の端々に潜む嘘と本音が綴られている。
あまりに細かく、あまりに深く観察してきたからこそ、わかってしまったことがあった。

最後のページをそっとめくると、そこに一言だけ、短く、しかし重く響く文字があった。

「人形に見えたのは、彼女じゃなかった。オレだった。」

その言葉は、まるで彼自身の胸の奥底で響く呟きのようだった。
まるで、これまでずっと操っていると思い込んでいた“すいれん”の姿が、実は鏡像だったことを告げるかのように。

人形の糸に繋がれ、操られ、翻弄されるのはいつも“オレ”だと思っていた。
けれど、本当は月里が知らず知らずのうちにオレの手の中の人形になっていたのかもしれない。
そのことに気づいたとき、胸の中で絡まっていた糸が音を立てて切れ、崩れ落ちる感覚がした。

窓の外、夕陽はすでに沈みかけ、世界は少しずつ夜の色に溶けていく。
図書室の静寂は、余韻の中でやけに重く、冷たく感じられた。

木影は手の中のノートをじっと見つめ、何度もその言葉を反芻した。
まるで呪文のように、自分自身を縛りつけていたものを解き放つための鍵のように。

「あいつは……本当にいなくなったんだ」

彼の心にぽつんと零れたその思いは、決して消えない傷跡として残り続けるだろう。
だが同時に、それは新たな始まりの兆しでもあった。

すいれんが去った後も、彼は自分自身と向き合い続けなければならなかった。
操る側であると思っていた“月里”が、実は一番弱く、傷つきやすい人形だったことを理解するために。

すいれんの残した言葉の断片は、木影にとっての“鏡”であり、苦しい真実の断片だった。
そしてそれは、彼がこれから進むべき道の灯火でもあった。

夜の帳が降りる中、ノートを閉じた手に、ほんの少しだけ強さが宿ったように見えた。
木影の瞳は、静かに未来を見据えていた。

春になった。

季節は変わって、制服も軽くなった。
だけどオレの中には、何ひとつ「軽くなった」と感じるものはなかった。
すいれんがいなくなってから、世界は静かだった。
あの毒舌も、茶化す声も、嘘か本音かわからない言葉も―もう、聞こえない。

けれど、彼女は完全にオレの中から消えたわけじゃない。

木影は毎朝、制服のポケットに小さなメモ帳を入れて登校する。
それは、月里 すいれんの記録を書き続けた、あのノートの一部を切り取ったもの。
彼女の表情。彼女の言葉。彼女の矛盾。
そして、何より―彼女の嘘。
「嘘で守られた人間は、どこまでが本物なんだろうな」
木影は誰にも聞かれないように、そう呟いた。
それは、自分自身への問いでもあった。
彼女を見ていたのは、木影だった。
でも――操っていたわけじゃない。
ただ、見ていただけ。
壊れていくのを、壊してしまうのを、止められなかった。
**
あれは、マリオネットじゃなかった。
彼女も、オレも。
自分の糸を、握っているつもりでいただけだった。
操っていたのではない。
ただ、操られたいと思っていた。
**
春風が吹いて、校門の桜が舞った。
その花びらの中に、ふと白い髪とあの蜂蜜色の目が見えた気がして、振り返る。


誰も、いなかった。


だけどオレは、少しだけ笑った。
「……お前は、今でもどっかで、俺の観察してんのか?
もう、嘘なんかつかなくても、大丈夫だ、って、俺は、あいつに言えなかったな。」

そう言って歩き出す。
背中に、風が追いかけてくる。
それがどこか、懐かしい匂いを含んでいる気がした。
もう、振り返ることはなかった。

月影マリオネット。

執筆の狙い

作者 夜月 遥
nat8.kyoto-wu.ac.jp

言いたくないことは、言わなくていい。そういう自分の気持ちを形にするために、書きました。木影が、すいれんに投げかけた言葉の数々、それを思い出しながら、よんでほしいです。
二人の関係性などにも、ぜひ、注目してください。

コメント

夜月 遥
M014010129192.v4.enabler.ne.jp

作者です。追記ですが、私は初めてフルで長編を書きました。
至らぬところもありますが、温かい目で見てください。
感想や、添削お願い致します。

神楽堂
p3339011-ipoe.ipoe.ocn.ne.jp

>夜月遥さん
読ませていただきました。
二人がお互いに相手の秘密を知っていると、自分こそが優位の立場であると思い合っているところがおもしろいですね。
で、結果はどちらも優位ではなかったと。
全体の構成はきれいにまとまっていると思います。
「観察」というのがキーワードとなると思うのですが、思春期の頃って、想い人を執拗なまでに「観察」しますよね。
あと、主導権を握りたがるというか。
そういった青春がうまく表現されている作品だと思いました。
読ませていただきましてありがとうございました。

夜月 遥
M014010129192.v4.enabler.ne.jp

リプ:神楽堂さん
コメントいただき、ありがとうございます。
青春がうまく表現されているというお言葉、とても嬉しい限りです。
こちらこそ、読んでいただきありがとうございました。

夜の雨
ai201104.d.west.v6connect.net

夜月 遥さん「月影マリオネット。」読みました。

作者の夜月さん、この作品のストーリーを自分で一度書いてみてください。
そうすると、何を描こうとして描かれなかったのかがわかりますから。

私が御作を読んだところでは、どうもまとまりがないというか、とりとめのないことを描いているように思います。

で、作者さんが描こうとした世界は、双子の兄と妹の葛藤であり顛末ですよね。
同じ中学校の生徒なので冒頭を読んでいると、青春の恋愛物かと思いましたが、後半で「月里 すいれん。」が妹で「木影 蓮。」が兄という流れになっています。
それで妹の月里 すいれんは周囲に黙って、転校します。
兄の木影 蓮も彼女が転校してしまうまで気づかない。

ということで、御作をわかりよくするには、「具体的なテーマを決める必要があります」。
テーマが決まれば、現状の御作には二人の主人公がいますので、構成を練っていけばよいと思います。
構成を練るには設定とかも掘り下げておく。

まあ、最初は冒頭とラストを頭の中でイメージして、あとは、途中のエピソードを頭の中で膨らまして書いて行けば、込み入った構成でなければ、うまく書けるのではないかと思いますが。

御作を読む限りでは、登場人物は二人だけなので、これだけでは物語を動かすのは難しいと思いますので、背景部分の設定をするためにも父と母の存在とどうして双子の兄と妹が別れて暮らしているのかとかの顛末とかが必要なのでは。

双子の兄と妹なので、「アイデンティティ」とかをからめて描くのなら、自己存在とは何かとか、掘り下げて描くと面白いかも。
ただ、この手のテーマはすでに先人が描いていると思いますが。
なので、創作小説を楽しんで描くというぐらいの気持ちで勉強していくとよいのでは。

御作の文章はうまいと思いますので、底力はあると思います。
とりあえず他人(自分の好きなプロ)の作品を読んで、設定やら構成、テーマの掘り下げ方などを勉強してみてはいかがでしょうか。


それでは創作小説を楽しんでください。

夜月 遥
M014010129192.v4.enabler.ne.jp

リプ:夜の雨さん
作品を読んでいただき、ありがとうございました。
衝動で書いてしまったというのもあり、あまりテーマがまとまっていない状態で、形にしてしまっていた所もありました。次の作品では、しっかり練ってから書こうと思います。
コメントとアドバイス、ありがとうございました。

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