ノリ、カツ食いに行くぜ──
「ノリ、カツ食いに行くぜ」
「ノリ、ファミマにワンピース読みに行こうぜ」
「ノリ」
「ノリ……!」
とつぜん、あるとき、ふいに、「ノリ、カツ食いに行こうぜ」という言葉が脳内でリフレインされる。
スーパーで買い物をしているとき、カフェでコーヒーを飲んでいるとき、自宅で猫とたわむれているとき、ファミマでジャンプを見たとき、海苔弁当を見たとき、ノリのいい人間を見たとき、封筒にのりを塗るとき、18歳の少年たちが41歳の同級生を「ノリ」「ノリ」と呼んでいた声がこだまするのだ。
法月 幹久(のりづき みきひさ)は、41歳で理学療法の専門学校に入学してきた男で、俺も25歳で入学した口だからあまり人のことは言えないが、41歳って、もう定年じゃねーかと思ったのは事実だ。卒業時は44歳になる。定年退職が伸びた昨今とはいえ、資格を取ってもせいぜい20年くらいしか働けないというのになんで入学してくるんだ? と思ったことも事実だ。しかし、事実、そういう人は毎年、学年で2、3人いた。法月が最長で、次点で39歳の人がいた。
法月はもともと自営で清掃業を営んでいたが、倒産してしまい──、一発奮起して理学療法士として再起を図ろうとしていることは風のウワサで聞いた。そのわりに、しょげているところはなかった。暗い影を落としながら廊下を歩いているというようなことはなく、自分はまだ遊び盛りだといわんばかりの、仕事よりも人生をエンジョイする方をシフトしてきたための当然の帰結だという顔をしていた。まわりがまだ世情に明るくない年代ということをいいことに、倒産したことを離婚した後のシングルマザーのように『箔がついた』というような顔をして廊下を歩いていた。
そうはいっても、理学療法の専門学校である。あんぱいもあんぱい、カタギもカタギ、あんぱいというより、あんぱんまんのように、あまい、食いっぱぐれを防ぐために、あんぱんの食いっぱぐれを、医療系の資格を取って手堅く生きていこうとする生き方は、果たして、彼の理想とを一致させるには矛盾するように思われたが。
友達のことを「ダチ」と言ったり、おでんのことを「でん」と言ったり、「好きなタイプの女性は?」と聞かれたら、「パツキンの爆乳ねーちゃん!」と答えそうな、いわゆる、アメリカンカジュアル系の、まだまだ自分は現役だと言わんばかりの、いわゆる、はっちゃけた大人系スタイルを地で行くような人だった。見た目は、赤や黄色のアジアン系英字Tシャツを多めに着て、インナーに、チェ・ゲバラの顔がプリントされた赤いTシャツを着てきたり、上下迷彩服だった日もあり(教師から、「二度とその服着てこないで」と注意されていたこともあった。人をいかに合理的に殺すかという服だからね。医療従事者……)いつもキャップ帽を被り、背丈は180cmほどの長身、破れたジーンズを履き、肉付きはよく、少し浅黒い肌、ほうれい線はやや深めに刻まれ、帽子から白髪が入り乱れ、実際の年齢に比べてやや老けているように見えなくもなかったが、動いているとそれほど気にならないところもあり、そのファッションによって若く見られていた。
「ノリ、ファミマでワンピース読みに行こうぜ」
当時を回顧したとき、いちばん初めにやってくる映像としては、法月の机に、複数人の男子生徒たちが集っている光景である。
「神経内科学、去年出た問題、一昨年とまったく同じらしいぜ、あの教師、新しく問題作るのめんどいんだよ」
「それコピーさせてくれカズヤ」とノリが言う。
「いいよ、コピー機あるファミマに行こう」
「ファミマでワンピース読みに行こうぜ、ノリ」
ノリの方が、一人の男子生徒の机に向かっていくこともあれば、ある男子生徒の机に集まっている男子生徒の群れに、その一員として加わっている姿もあった。
彼らは月曜日になると、学校近くのファミリーマートへジャンプを立ち読みしに行っていた。
医療系の専門学校というのは、『輪』が大事らしい。この学校の特筆すべき点として、彼らはクラス全員で、いつも一緒になって行動していた。それは、学校内でも、学校外でも。クラス総人数23人くらいで、いつも学校内を練り歩き、映画を見に行くときもカラオケに行くときも全員一緒で、学校の近くには24時間営業しているマックがあり、学校が終わると、全員でマックに行って勉強し、テスト前になると、全員で夜通し勉強していた。
それは男女混合であり、男女差というものがなく、男女の垣根さえ取っ払われたような、純粋な魂の交流があった。まるで小学校時代、互いの性差を意識しなかったあの頃に戻ったような。それは、行き過ぎれば、どこかで異性のエチケットゾーンに抵触してしまいそうな恐れもありそうで、さすがに女子トイレにまで一緒に行くということはなさそうだったが。
医療従事者らしく、仲間はずれがなく、大家族のように全てのできごとを共有し、スクールカーストもなく、リーダーも不在で、年長の法月が幹となって生徒らが枝葉となり教室中に花を咲かせているのではなく、法月も一本の枝となって咲いていた。恋愛にしたって同じテリトリー内でなければダメ、外部のバイト先の異性と付き合ったりすることもNGと言わんばかりの、プライバシーもなさそうな、そうはいっても男子生徒たちは、まだだいぶ幼さを残し、コロコロコミック片手にカブトムシを追いかけていきそうな童心が色濃く残っており、PIKOを着たり、中学生が履くような白い運動履を履いたり、スパゲッティの汁がTシャツに飛び散っていたり、女の子も女の子で、産毛を生やしていて、脇毛も剃らず、ノーメイク、一度も化粧というものをしたことがなさそうだった。素材としては悪くなく、流行りの化粧をすれば、その辺を歩いている女の子くらいにはなれそうな気がしたのに。
建物の配置も手伝っていただろう。地方の田舎駅から5kmくらいつづく険しい坂を登って行った先の、山奥に隔離された少年自然の家のように位置し、校舎は建てられたばかりの無機質なコンクリート製、正門からはいる入口は自動ドアが3回続き、3回の小部屋が続いてからフロアに出るので、まるで殺菌消毒シャワーを浴びせられ、“世俗”という埃を払い落とした後でなければ入ってきてはいけませんよと言われているようだった。内部の装飾として、精神病棟みたいに、白を基調とした、ほとんど白一色の、汚れも染みもない壁に囲まれていたのが、気をおかしくさせるのに一役買っていたように思う。
ある日、俺は、ノリたちがいったい、普段どんな会話をしているんだろうと思って、集中して彼らの会話を聞いていた。
「昨日、うちの近くの自販機でジュース買ったらさぁ、なんか、故障してたみたいで、釣り口から500円玉がめっちゃジャラジャラあふれてきた!」
「マジで!?」
「マジ!?」
「マジ! 家に持ち帰って数えてみたら、30000円分くらいあった! 150円入れただけなのに、すんげージャラジャラ出てきたさぁ……!」
このように、ぜったいに嘘と思われるようなやり取りばかりしていた。
ノリはこのとき、どんな思いで聞いていたのだろう。
昼になると、外注のお弁当屋さんがやってきていた。3階に自由スペースのラウンジがあり、そこで各々の生徒が、持ってきたお弁当や、コンビニで買ってきたものを食べる生徒もいたが、大半の生徒は、お弁当屋さんが持ってきた弁当を食べていた。我先と言わんばかりに、長蛇の列を並び、その時の顔というのが食べ物のことしか頭にない顔をしていた。並んでいる時はガヤガヤうるさかったが、食べる段となると静かになり、夢中でガツガツ食べた。女の子もピラフを口いっぱいにほうばり、平気でおかわりをしていた。業者の人も、いかにも恰幅のいい食堂のおばさんという風采で、「さぁ、たーんとお食べ」というようにフフと柔らかい笑みを浮かべ、この光景が好ましいものだというように、また光景に一役買っている自分を誇らしげのようでもあった。
※
「しまるこさん、ディーノ使ってます?」
「ディーノは、だって加入が遅いのと、アタックが並くらいでHP、ガードが低いから使ってないよ」
「『三界麻痺蜂針』のスキル覚えるところまでいきました? 威力倍率×1.6だし、広範囲に麻痺させやすいので便利っすよ。ラスダンは麻痺耐性が低い敵ばっかだから、ほとんどハマりますよ」
「前衛にしてはTECが低くない? アシュレイやハイネの方が優秀だから出撃させることはなくて、俺はイベント戦以外は一度も使ったことないかなぁ。たまに、背後攻撃すら100%命中しないことがあるんだけど」
「技ありきっすね。MPは豊富だから、『心眼投射』を使えばある程度は補えるんすよ。Move4に加え射程2マスのおかげでユニゾンの位置取りにも苦労がないから、パラメータ以上の活躍はできますよ」
ある昼休み、ガヤガヤ騒いでいる3階のラウンジの隅っこで、おにぎりを食べていると、クラスの男子生徒が話しかけてきた。「ルミナスアーク3 -アイズ-」という、マニアックすぎてコアなゲーマーにもなかなか知られていない、クロノ・トリガーやゼノギアスを担当した光田康典さんが音楽を手掛けているそのことだけがその筋の人に知られているということしか価値のない気味の悪いゲームソフトだったが、この学校の生徒は全員ゲーマーで、18歳だというのに、押し並べて全員18禁ゲームをプレイしており、ものすごいハードなエロゲーもプレイしていたりしたが、「ルミナスアーク3」については、俺とこの男子生徒だけしか知らなかった。まぁ、一応、ナンバリングが3まで出ていることから、それほど人気のないソフトではなかったかもしれないが。
彼は一通り話終えると、「これ、マサヤんちで勉強した時のやつ」と、カバンから一枚の写真を取り出して見せてきた。当時はまだiPhone4が出たばかりで、アナログ写真を使い回すのが常だった。
俺は写真を見た。
金持ちそうな家のリビング、20畳くらいの広さがあった。男の子も女の子も一緒になって勉強している。杉の一枚板の大きなテーブルにお菓子やジュースが広げられていて、オードブルまで用意されている、親御さんが用意したものだろう。学校教材も申し訳程度に置かれてあるが、どちらかといえば漫画本の方がとっ散らかっている。革張りの大きなソファに、スナック菓子をつまみながらうつ伏せになってコミックを読んでいる女の子、怪獣のフリをして口をあんぐりと開けて目の前のクラスメイトを食べようとするポーズをとる女の子、各々が自分の部屋のようにくつろぎ、他人宅なのに裸足で過ごし、その足が複数人で絡まったりしていた。ソファの近くで、ペルシャ系の猫が大きな欠伸をしていて、それがいかにも格式が高そうだった。
(ノリもいる)
俺は自分の目を疑った。
チェ・ゲバラの赤Tを着て、数人の男子生徒たちとウイイレをやっていた。
(テロリストじゃねーか)
ノリが玄関に上がってきたとき、親はなんとも思わなかったのだろうか? これだけ大所帯で来られたら、食事の提供で忙しくて気が回らなかったか、差別するのは良くないし、心の奥でひた隠しにしたか、身長でいえば、ノリと同じくらいの背丈が2、3人いたかもしれないが、軽い運動会が開かれているようなものだし、そういうところには懐が深そうな家庭のリビングの写真には思えたが。
「ユニゾンの位置取りにも苦労しない、か。まるでディーノみたいな奴だな」
「え?」
「いや」
俺は立ち上がって、窓辺付近まで歩いて行くと、学校外の景色を眺めた。真っ白な入道雲が泳いでいた。視線を下に移すと、校舎へとつづく長い坂を自転車で駆けてくる生徒の姿があった。正門に差し掛かったとき、入道雲と重なった。
執筆の狙い
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