創世記・仮象たちの黙示録
山なす波浪が起伏する狂乱怒涛の大海にあり、舟人が一隻の扁舟に身を託すように、苦しみや悲しみが荒れ狂う世界で、人は個別化の原理を支えとし、従容と座している。
ショーペンハウアー 『意志と表像としての世界』
会社が倒産し、私が失業すると、妻はすぐに離婚届を持ってきた。
当たり前だ。子供はいないし、まともな人間なら、ゴミと一緒に生きたいなんて思うわけがない。
職を探す気もなかった。疲れていた。いや、疲れたと言うより、空虚だった。
子供の頃から積み上げた徒労の城が、無惨に崩れ落ちた。それが実感だった。
今思えば、私はずっと良い人間を演じてきた。親に、友達に、先生に。同僚に、上司に、妻に。
馬鹿らしくて、溜め息しか出ない。
無気力になった私は、半年もの間、布団にもぐっていた。一生が早く終わればいいと思いながら、静かに目を閉じていた。
布団から出たのは、トイレと、冷蔵庫にビールを取りに行ったときだけ。
ヨガの達人の中には、数十年も飲まず食わずで生きる者がいるそうだから、半年くらい大したことじゃない。
確か一ヶ月ほど前、誰かが激しくドアを叩いていた。
「誰かいますか! 返事をしてください!」
家賃は口座振替で、口座にはまだ失業手当が残っているはず。
ドアを叩きまくったのは視聴料の取り立てだろう。さらに布団の奥にもぐってやった。
久しぶりに外の空気が吸いたくなった。
寝転がったまま伸びをすると、気持ち良く骨が鳴り、あぐらをかいて寝ぼけ眼をこすってみると、枕元に一匹のゴキブリがいた。
そばにある週刊誌を丸めて振り上げても、逃げる気配すらない。よく見ると、後足が一本欠けている。
「お前、ゴキブリ失格だな。それとも、俺をゴミだと思っているのか?」
ゴキブリは手を振るかのように、触角を左右に振った。
「俺を慰めてくれるのか?」
情けないことに、ゴキブリが可愛く思える。
丸めた週刊誌は、半年ほど前にコンビニの駐車場で拾ったものだ。表紙には馬鹿げた見出しが載っている。
『巨大隕石の襲来! 人類絶滅の危機!』
記事の中身は『方舟(はこぶね)計画』。NASAが開発した人工知能wisdom(叡智)が、巨大な小惑星の衝突を予測したため、人類は極秘裏に建造していた『方舟号』で、火星への移住を始める。
小惑星の衝突で舞い上がった粉塵は成層圏にまで達し、地球は氷河期を迎える。元に戻るまで六十万年かかるため、人類は地球を留守にする間、強靭な生命力を持つクローンに、文化遺産を保全させるとのこと。
阿呆らしくて、それ以上読む気にはなれなかった。
私は団地の最上階に住んでいる。
団地に住んでいるのは老人ばかりで、隣には元気な婆さんが住んでいる。
顔を合わせると世間話に付き合わされるから、静かにドアを閉めて忍び足で歩く。なぜかエレベーターが停止しているから、音を立てないように階段を降りる。
道路に立って朝の空気を吸うと、久しぶりに、コンビニのコーヒーが飲みたくなった。
コンビニに行くには、緑地公園を通り抜けるのが最短。
公園に入ると、やけに静かで、いつになく景色が美しい。紅葉と青空が織りなす風景は、印象派の絵画のようだ。
しかし、なにか様子が変だ。なにかが違う。わかったぞ。老人がいない。子供もいない。人が一人もいない。どうしたんだ?
緑地公園を通り抜けると、街はしんと静まり返っていた。普通の静けさじゃない。耳をすましても、物音ひとつ聞こえない。
見渡すと、車が道路脇に無造作に放置され、車内に人影がない。信号は遥か先まで消えている。
遠くを見ると、モノレールが駅で止まっており、車内とホームに人影がない。
どこを見渡しても、人はおろか、一匹のカラスさえいない。
一体、なにがあったんだ……
交番に駆け込んでも警官はいない。受話器を取っても無音。
私は交番から出て叫んだ。
「おーい! 誰かいないのかあ!」
その声が街にこだまする。文明のただ中で、こんな静寂はあり得ない。
コンビニに駆け込んでも店員はいない。私は缶詰を有りったけカゴに放り込み、団地に戻った。
部屋に入ると、あの後足が一本ないゴキブリがまだ枕元にいた。
「おい。俺達だけになっちまったようだ」
ゴキブリは触角を静かに振った。
私とゴキブリだけの生活が延々と続いた。
十年ほどは暦をつけていたが、やがて億劫になり、時の流れさえ曖昧になった。
人間が消えた世界は、私から理性、希望、羞恥心といった人間的なものを奪い、ついに私は人格をも失った。
私はゴキブリに等しい存在となり、いつの間にか、ゴキブリとの意思疎通が可能となった。
私が話し掛けると、ゴキブリは触角を指揮者のように振り、自分の意志を伝えてくる。一種の手話だ。
ゴキブリは言葉を正確に理解できた。
人は知性で意味を理解するが、ゴキブリは触角で、言葉の裏に隠された意図までも感じ取る。その感性は人を遥かに超える。
その驚くべき事実を、私はゴキブリから教えられた。
ある年の夏、ゴキブリを虫かごに入れて海に行った。燃料満タンの車は山ほどあるので移動には困らない。
波打ち際にジープをとめ、砂浜に立つと、白波が素足を濡らした。
虫かごの蓋を開けると、ゴキブリは勢いよく舞い上がった。
ゴキブリは懸命に羽ばたき、潮風と戯れていた。ゴキブリの喜びは私の喜び。至福のひと時に心が安らいだ。
そのとき、白波が高く跳ね上がり、ゴキブリを呑み込んだ。
「大丈夫か!」
私は海に飛び込み、懸命にゴキブリを探した。しかし、海の中で小さな虫を見つけることは不可能。
私は海を甘く見た。もう取り返しがつかない。
私は海から上がると、波打ち際に両手をついて泣き崩れた。
すると、砂浜を移動するゴキブリが目に入った。
「お前、泳げたのか……」
冬が来ると、ゴキブリが窓際から離れなくなった。
ゴキブリは暗いところが好きなのに、なぜか窓のそばから動かない。
「おい、どうした?」
ゴキブリはガラス越しに、何かをじっと見つめている。その視線の遥か先には、廃墟と化した摩天楼がある。
「あそこに、何かあるのか?」
彼は触角をゆっくりと振った。
翌日、ジープでその都市に向かった。
並び立つ高層ビルの間を低速で走っていると、ゴキブリが虫かごの中で激しく動き始めた。
私は車を止めて聞いた。
「どうした? 散歩したいのか?」
ゴキブリは触角で円を描いた。
ゴキブリを危険に晒したくないから、できれば、競技場のような見渡しの良い場所で散歩させたい。
やがて前方に巨大なスタジアムが現れた。
ジープで駐車場のゲートを押し開けて、建造物を見上げると、その大きさに圧倒された。
そのとき、ゴキブリが虫かごの隙間から外に出て、凄い勢いで走り出した。今思えば、彼は私を導いていたのだ。
私は懸命に彼を追った。だが追いつくことはできず、ついに見失ってしまった。狂ったように彼を探し求めたが、見つけることは出来なかった。
がっくりと通路に崩れ落ちると、妙な違和感を足の裏に感じた。
全身から嫌な汗がふき出した。
恐る恐る靴底を見ると、彼が張りついていた……
発狂。
絶叫がこだまし、血の涙が流れた。
最後の友を殺した。最後の家族を踏み潰した。
透明な心が砕け散り、ガラス片が粉雪のように舞っていた。
なんて綺麗なんだ。まるで夢の中にいるようだ……
ああ、歌声が聞こえる。大勢で練習をしているのか? 聴き覚えのあるメロディーだ。
私は友の亡骸を胸のポケットに入れ、声のする方に駆け出した。
スタジアムの観客席に躍り出ると、何万人もの歌手が合唱を始めた。
『歓喜の歌』がスタジアムを揺るがせ、歌詞が怒涛の如く荒れ狂う。
『汝らは倒れ伏すか。幾百万の者どもよ。創造主を予感するか。世界よ』(シラー 『歓喜に寄す』)
おお、信じられない。歓喜の嵐の中を、友が舞っているではないか。
彼が私の元に戻ると、私は歓喜の絶頂に達した。
合唱が終わると、全ての歌手が私の方に振り向き、一斉に仮面を取った。
黒い服に身を包んだ壮麗な男女。彼らの顔には目と鼻が無く、あるのは口のみ。だが驚きはしない。むしろ当然に思える。
彼らは幽霊のような存在。つまり操り人形。つまり仮象なのだ。
そのとき、凄まじい轟音が空に響き渡った。
顔を上げると、巨大な火の玉が青空を切り裂いていた。だが次の瞬間、それは粉々に砕け散った。
彼を手のひらに乗せて聞いた。
「あれは小惑星なのか? 危機は去ったのか?」
彼は触角を振って答えた。
『そうだ。こうなることを祖先から聞いていた。三億年を生き抜いた感性に比べれば、人の知性など児戯に等しい』
その通りだ。知性など小道具に過ぎない。私は彼に言った。
「相棒よ。俺たちだけが自由意志を持っている。ふたりで創り上げよう。世界を」
彼は触角を指揮者のように振った。
『友よ。自由とは、喜びに満ち溢れ、光り輝くもの。自由とは、歓喜そのものなのだ』
終わり
執筆の狙い
3600字の作品です。よろしくお願いします。