冷遇
近所を散歩する事があった。
風呂に入った後、湯冷めも兼ねた散歩だった。
私が部屋から出る時には、もう陽は落ちていた。
静かな冷気が迫ってきていた。
風が、私の正面から来ると、あまりの心地よさに立ち止まった。
風切り音の隅に、葉の擦れる音がした。
音のする方へ首をめぐらすと、電灯の傍に樹があった。
機械的な白さに照らされる樹は、光を鬱陶しそうに、隷属させている小枝たちを風にあおり、静かな音を立てていた。
私は近寄って仰ぎ見た。風と遊んでいるのか、と思ったが、樹は断続して小枝たちを電灯にぶつけているようだった。
なるほど、電灯が邪魔らしい。と思った。
なにかの諧謔心らしい心持ちが湧いてきた。
私は、樹に聞いた。
「移動してみたくはないか」
排斥されている樹に、憐憫を抱いたのだった。しかし、当然、樹は答えなかった。
私は、その樹が妙に好きになってくる感じがあった。私の視界を占領する構図が、美しかった。
私は樹の幹に触れた。ひどく乾いて、硬化していた。
私はゆっくり上下に撫でながら、水が足りないんじゃないかしら、と思った。
樹が撫でられることを嫌そうにしているらしいことを感じながら、私は執拗に撫で続けた。
私は、再び樹に話しかけた。
「動けないのは、辛そうだ。人間には、君たちを見習った不動の精神がある。どうだ? 樹にも、動物を見習った能動の精神はあるか? 」
やはり、応えるはずもなかった。
私は手を離し、少しの間見つめてから、部屋へ戻った。
しかし、それから、その樹の事が嫌に思い浮かんで離れなくなった。
私は、このごろ、湯冷ましの散歩で毎日その樹を見つめていた。
植物を愛撫する友人がいた。
その友人と最後に会ったのは、一年前の暮れだった。
その頃、熱心に育てていた植物が枯れたらしく、ひどく狼狽し、友人は交友を全て絶ってしまっていたのだった。
それから連絡が取れなくなっていたが、私はその友人に樹についての話を聞かせ、助言を得たいように思い始めていた。
樹に執着して二ヶ月が過ぎた。
夏の全盛、若葉が繁り、少し満足そうに見える樹を、私もまた満足して眺め続けていた。
ある休日の午後、私は写真をプリントするためにカメラ屋に向かっていた。
すると、往来の向こうにある園芸店の軒先で、その友人を目撃した。
その友人は、かなりの大きさがある鉢樹を抱えるようにして、うずくまっていた。
なにをしているのか? 思いながら、そっと観察していると、友人はしきりにポケットをまさぐって、その度に失望しているらしいのである。
友人は、手に持っている財布の中身を見て、鉢樹を見て、頭を垂れる。
金が足りないのか。と思った。
私は往来を渡って、少し駆けるようになりながら友人の方へ行った。
丸くなった友人の背中を見ていると、ふと、脅かしてやるか、と思い付いた。
ぎゅっと友人の腕をつかみ、
「君! 久しぶりじゃないか! 」
すると友人は、急に腕をつかまれた驚きを引きづって、窪んだ眼窩の奥にある目をギョロとさせて私の方を顧みた。
すこし無言になり、ようやく私を認識したかと思うと、
「びっくりするじゃないか! 」
と私をたしなめた。しかし友人は、険しい表情を徐々に柔和にしていき、
「確かに、久し振りだ」
と言って、抱えていた鉢樹を床に降ろして立ち上がった。
鉢樹は、友人の胸の高さまであった。
再会の社交辞令で、
「今まで、どうしていたんだ。心配していたんだ」
すると、
「どうって事はない。発芽しない種のような感じだ。部屋に閉じ籠もり、怠惰だけを貪っていた」
そこまで言うと、段々と顔を曇らせ、私の機嫌を伺うような低姿勢になっていくのを感じた。
「金が、無いんだろう」
「部屋にはあるんだが、手持ちがない」
「帰って、取ってくれば良いんじゃないの」
「ダメだよ。こいつが、取られたらどうするんだ。可愛い奴だ。私が買って育ててやりたい」
友人は謙った目で私を見た。
「肩代わりしてやっても良い」
私は、財布を取り出し、一枚の紙幣を手渡しながら、ふと思い付いた。
そして、打算的に一つ条件をつけた。
「君に相談がある。聞いてくれるね」
すると、
「もちろん、もちろん」
と大いに頷き、私から紙幣を受け取ると鉢樹を会計に持って行った。
園芸店を出た我々は、行く当てが無かったが、
「ツツジのきれいな公園が近くにある」
友人がそう言ったため、私は着いていくことにした。
友人は、口が達者な方では無かった。自分の夢中な事は精一杯話すくせに、それ以外にはとんと興味を示さず、言葉も発しない。
「君は、まだあのあばら屋で植物と一緒に住んでいるのか? 」
「悪くないぜ、そういう生活も」
これが道中で最後の会話だった。
我々は、ツツジの公園、奥の日陰にある湿ったベンチに腰を下ろした。
私は、ベンチに腰掛けてからも、しばらく話さなかった。
ここにきて、私の相談が非常にくだらないことだと自覚したからだった。
友人は、手持ち無沙汰で、ポケットからたばこを取り出して火をつけた。
そこには、たばこの香ばしい匂いと、葉の擦れる音のみがあった。
無言の果てに、
「用ってなんだい」
ついにしびれを切らした友人が聞く。
私はもう、甚だ自信が無かった。変に言葉がでてこず、口篭り、
「植物にも、感情はあるのだろうか? 」
こんなことを言った。
すると友人も、大いに困った様子で、
「何の話だ? 」
と聞き返した。私は観念した。
その樹にまつわる話を、ぶちまけたのだった。
私は、笑われる、と身構えた。
しかし友人は、私の心持ちと裏腹に、真剣に考えこんでいる風だった。
「俺も、植物の感情について考えた事がある」
友人は、私にとってある衝撃的な告白をした。
続けて、
「君の場合は、移動したいかを問いたいわけだ」
そうだと答えると、友人は一度たばこを大いに吸い込み、煙を吐き出して一呼吸置いた。
「その樹というのは、どこにある? 」
「私の家のすぐ傍だ」
「では、街中ということだね」
「ああ」
すると友人は、ちょっと黙ってしまった。不思議に思い見つめると、
「山なら、分かり易んだがね」
と呟いた。
「山なら、どうすればわかる? 」
友人は、口角を上げ、ヤニのついた歯を見せた。
「根元を掘るんだ。平生、山の樹は独立しているように見えて、地中では他の樹の根に絡みついて密に連絡を取り合っている。たまに、山で誰かに見られている感触はないか? それは、一本の樹を通して山全体がおまえを見張っているからだ」
すると友人は、手に持っていたたばこを投げ捨て、ポケットから小型のスコップを取り出した。そして、近くにある樹の根元にズボリと差し込んだ。
二三回掘ると、乾いた土の音の中に、ブチブチと何かが裂ける音が混じっていることが分かった。
友人は私の方を見て手招きした。その方へ行くと、
「見てごらん、他の樹と根を絡ませている。地中は奴らの縄張りだ」
ちょっと、友人が何を言いたいかが不明瞭になってきた。
「つまり、どういう事だ? 」
友人は立ち上がり、ぐっと背伸びをして膝立ちの私を見下ろした。
「孤立している樹を探すんだ。根元を掘り、どことも繋がっていない樹、これは、根付いているようで、執着がない。好奇心があるともとれる。そういった樹は移動したがっているものだ」
「君の言う樹は、電灯を邪魔そうにしている、と言ったね」
「私の主観で、そう見えるだけかも知れない」
「いや、そういう感覚は大事だ。おそらく、その樹は意思で以て繋がりを持とうとしていない。執着がないからだ」
そう言うと、再びベンチの方へ戻って行った。私も後を着いて再びベンチに横並びになると、
「街中の樹に、問いたいわけだったね」
と思い出したように言った。
「方法があるのか? 」
すると友人は曖昧気味に頷いた。
「街中は、山のようには行かない。孤立しているからといって移動したいということではない」
と前置きしておいて、
「葉っぱでも、小枝でも良い。樹の傍に、その樹の物だと明確に分かる物と土を一緒に入れた鉢を置くんだ。一週間後、その鉢に芽がでたなら、樹が移動したがっていたということだ。逆はしかりだ。一度芽がでると、ぐんと成長するぜ」
私は思わず口角が上がった。
それは、友人が私の満足する回答を示したからに他ならなかった。
「本当にそれでわかるんだね? 」
「私はそれで、一本だが、移動させた事がある」
少し、驚きがあった。
「君でも、一本だけなのか」
「近所の里山へ潜れば、もっと増えるが、街中は複雑で難しい。排斥されているよう見えても、それがその樹にとっての落ち着き方であったりする」
友人は続けて、
「例えば、フェンスに絡まった樹を見たことがあるだろう。どんなことを思う? 」
「それは、可哀想だ」
すると食い気味に、
「それこそが、我々の脆い所だ。我々に個性があるように、樹にも当然個体差がある。その場所を好む物好きも居るという話だ」
私は、よく分からないまま頷いた。
すると、友人は急に改まり、
「しかし、気を付けるんだね」
といった。何を気を付けるのか尋ねると、
「平生、移動すべきでない物を動かすことは、危険をはらむものだ。人間が、空を飛ぶべきでないことと同じだ」
少し意味が分からなかったが、友人は時に奇っ怪な言動をすることがあったためさして気に留めなかった。
「とにかく、感謝する。君に会えてよかった。またどこかで話さないか」
「ああ、それは、良い。ぜひ、樹を移動する計画を実行してからにしてくれ。結果を知りたい」
それに相槌で応え、ベンチから立ち上がった。
少し進んだ所で友人を顧みると、ベンチに座ったまま、茫然としてツツジを見つめるのだった。
「私はもう行くよ」
そう声をかけると、
「私はもう少し、いようと思う」
と曖昧気味に応えた。
私は早速園芸店で用土と鉢を購入し、樹の小枝をプチリとちぎり鉢の中に入れ、それを樹の傍に置いた。
私は鉢を設置してからも、その樹を毎晩見続けた。すると、ある様子がおかしいことに気付いた。
樹勢が、妙に衰えだしたのだ。枝が急にしなび、若葉は途端にどす黒く変色している。それは末端から広がっていた。
それは、日を追うごとに顕著になっていった。
葉は抜け落ち、枝は下を向き、根幹も、深くシワが刻まれ、風の微力でさえ剥がれる有様だった。
私はあまりの悲哀に、近寄って確認した。
枯死している。と思った。
私は樹の傍に置いた鉢を思い出した。覗き込むと、そこに盆栽のように縮尺を帯びた若木が茂っているのだった。
やられた、と思った。憤怒が湧いてきた。
私は、その鉢を部屋へ持って帰る事は出来なかった。
部屋へ戻る道中。畜生、あの野郎。騙したな。私は心の中で毒づいた。
これは私にとって事件だった。そこに根付いているべき樹の消滅は、やって良いはずもなかった。
得難い怒りを感じていた。
私は、朝と晩に、樹勢を確認するようになった。
干からび、禿げ上がった樹は、私が少し触れると、痛々しい音を立てて倒壊を始めようとしていた。
慌てて手を離し、後退りした。
枯死した樹を見つめていると、目頭から刺痛がしてき、涙が溜まっていく感覚があった。
怒りが形骸していき、そこに不安や焦燥が充填され始めていた。
発端は、私だったのだ。
私は、好奇心に抗えず友人の言葉を鵜呑みにしたことがすべての始まりであることを理解し始めていた。
しかし、それを拒否しようとする本能も働いていた。
私があの相談をしたとき、友人は明確な危惧を口にしなかった。こうなる事は分かっていたはずである。であれば、友人も少なからず断罪されなければならない。
私は最終、自身の罪を理解しながら、しかしそれを上手いように友人に被せることが出来ないかというところに執着し始めていたのだった。
私は、しかし友人を問いただせなければならないと思った。
少し経つと、その樹の周りにカラーコーンが並べられていた。市井の仕業だった。
結局、その樹は危険と判断されたらしく、官吏に回収され、樹のあった場所にはカラーコーンだけが残されていた。
私は、その場所へ行った。鉢は道の隅に追いやられていた。
鉢を持ち上げると、思いがけない重さに腰がぐらついた。
そして、ある決心をした。
腐った樹の根元に、鉢を投げつけた。
陶器の鈍い音が響いた。
土と鉢の欠片が散乱し、その真中に、移動した樹が訳も分からず横たわっている。
日、まだ太陽が南中に達しない頃、私は友人の住むアパートに押し掛けた。
インターホンは壊れていた。
私は、執拗にドアをたたき続けた。
友人が気だるそうにドアを開ける。部屋中に染み付いたたばこの匂いが外の空気を懐かしむように私の目の前を通り過ぎていった。
友人のせいで、私がどれだけの苦労をしたか。しかしこいつは、呑気に昼まで眠りこけ、たばこを吹かし遊んでいるのか。
それが、私の癪に触った。
私はすかさず友人の胸ぐらを掴んで叫んだ。
「聞いてない、枯れたぞ。立派な大樹だったんだ。私が干渉すべきでない相手を、なんてことを教えやがって! 」
友人は、私の剣幕に一瞬怯んだ様子を見せたが、すぐに居直り、
「移動するという話だったはずだ。君は、自分の部屋から外へ移動したとき、部屋にいる自分と外にいる自分が混在していると思っていたのか」
盲点だった。最も当たり前で然るべき事実が、認識の外にあった。
「警告は、したはずだ。移動すべきでない物を動かした代償が支払われたのだ」
私は、それを聞いて、とっさにツツジの公園で友人が口にした奇っ怪な言葉を反芻した。
その場しのぎの怒りを作り上げた。
「しかし、私はそれを具体的に理解したなら、やらなかったぞ。抽象的すぎたんだ。おまえの説明が」
すると友人は、
「しかし、君の心には安堵が見える」
と切り返した。即座に理解できず、私が言い淀んでいると、友人はさらに、
「さては、その樹の写真でも撮ったな」
私はどきりとした。左様、私は湯冷ましの散歩で、毎日写真を撮っていた。
友人は私の態度で察したらしく、
「君の欲望は、実に満たされたと見える。物体を具現化し、所有してみせた。干渉が許されない、と言ったな。しかし君はとっくにその境界を侵していたんだ。それは、移動したいかを問いたいと思った瞬間からだよ」
いつの間にか、友人の胸ぐらにあった私の腕はそこから離れ下を向いていた。
しばらく、無言があった。
友人が、たばこを取り出して火を付ける。
「まあ、上がるか、何もないが、話は聞いてやる」
しかし私は頭を振った。そして、
「君は一本を移動したと言ったな」
と、反論した。
「私は、それを許されない行為だとは思わない。我々は自由であるべきで、反対に樹はその場に束縛されてあるべきだ。その禁忌を、向こうから侵したいと言われたら、やるべきが我々の憐憫だろう」
私は、今度こそ何も言えなかった。
「せっかく来たなら、見せてやろうか。ずいぶん大きくなって、床に根を張りそうな勢いだ」
友人は、気味の悪い笑みを浮かべた。
その背後に目を向けると、部屋を埋め尽くす勢いで張り巡らされた枝が、一つの鉢に収斂して収まっているのだった。
「償おうと思わない方が良い。それは憐憫ではなく陶酔だ。我々が抱くと厄介だ」
その友人の言葉で、明瞭に見えていた枝が、途端に輪郭が定まらなくなってきた。
私は、黙ったまま振り返り、歩いた。私の背後から、
「金は、どうしようか。一応、準備はあるんだが」
という友人の声が聞こえたが、応えなかった。
帰る最中、私は根元に叩き付けた若樹の様子が気になって変に落ち着かないながらも、もう手を出すのは辞めようと思った。
友人に対する怒りや、樹に対する後悔も無かった。
ただ、私には、身の丈に合わない物を好いてしまったな、という後悔のみが残っていた。
執筆の狙い
約6000字です。
感想やご指摘をいただけたら幸いです。
よろしくお願いいたします。