死神人間を避けよ
真田まゆみが、死神人間を避けよというタイトルでブログを載せた。
その時、作業に集中するあまりか、気づけなかった、甘い匂いが、穏やかな気持ちを運んでくる。
デスクに置かれているモカブレンドラテのことをすっかり忘れていることに気づく。
視線をそこに落とす。
湯気が立っている薄茶色の液が喉を誘惑する。白を基調とする、赤いさざ波模様のコップを持った。エアコンで冷え切る室内でも、暖かさが、じんわり手に伝う。揺れる薄茶色を見ながら、唇に運ぶ。
コーヒーやシロップよりも、ミルクの味が舌をとろけさせる。
いろんな味が混じるけれど、このミルクの味が一番好き。
それにしてもと、まゆみは味覚を堪能しながら、考えた。
死神人間は人を不幸にする。こうして啓発しないといけない。ブログに興味を持つ人がいたら、クライアントも獲得出来るかもしれないし、一挙両得ね。
まゆみが死神人間に遭遇したのは、十二年前の二十四歳の時だ。同じコンビニで働く直子という女性から、私の周りでは多くの人が死ぬのと、聞いた。
その時のことを、まゆみは頭に浮かべる。
「でも、きっと偶然よね」
「偶然ね」
まゆみの声には、いくらかの同情の響きがあった。
まゆみは、直子のことが不憫で積極的に彼女と関わることに決めた。
こういう不幸属性の人を放っておくのは可哀想だし、何よりも、人として放っておいてはいけない気がする。
直子はメンがへたっている十七歳の女の子で、感情の起伏が激しい。仕事だけではなくて、プライベートでも付き合ってわかることってある。何か気に入らないことがある度に、直子の言語体系には誹謗中傷しかない。仕事では、人格を穏便に装っているとわかった。
一緒にカフェで過ごしていたら、直子が突然、私に打ち明けてきた。
「また、元彼が死んだの、ふふふ」
負の気配が直子の全身から漂っている。彼女の笑いは、喜んでいるのか、悲しんでいるのかもわからない。まゆみは、少し知っている心理学の知識で、ミラーリングを行うことにする。とりあえず、ミラーリングでもすれば彼女の心は安定するかもしれない。そう考えた。
この技術は相手と同じ反応をする心理学の技術で、そうすることで、相手から好意を引き出すことが出来る。
「元彼が死んだんだね」
まゆみは、直子と同じような笑顔を作って、彼女に返した。
「何笑っているのよ! 使っているでしょ、ミラーリング」
語気が強いけれど、平静を装うことにする。それよりも、まゆみは、ミラーリングを知っている、彼女に少し驚く。顔に笑顔を貼り付けたまま、何のことと言って、とぼける。
「知っているのよ、そのカウンセリングの技術」
「私は知らないけれど」
相手が気づけば、あざとくて、逆効果になるミラーリング。まさか、気づかれるとは思わなかった。
「いいえ、あなたは使っているわ。ミラーリング」
「使っていません」
「じゃあ、どうしてそこで笑うのよ。笑う意味は?」
返答に困ってはいけない。一瞬で答えを出さなければいけない。そうしないと、直子の言い分が通る。
まゆみは、そう考えて瞬発的な頭で、言葉を創る。
「笑ったら、あなたの気持ちが落ち着きそうだったから」
直子が急に立ち上がり、まゆみの頭上にコップの水を降らせた。
「馬鹿にしているわ」
直子はそう言って、お金も置かずカフェを出ていった。
その時以来、直子はコンビニにも来なくなってしまう。
全く災難。あんな死神人間と関わった私に落ち度があったんだ。きっと、直子の周囲でよく人が亡くなるのは、彼女のせいだ。彼女の不安定さで周囲の人々が亡くなったに違いない。まゆみは、そう考えた。
直子と会ってから三年後、まゆみはビルを借りて、カウンセリング事務所を経営する。その頃の、まゆみは既に三冊の書籍を刊行していて、その書籍の一つはベストセラーとまではいかないまでも、滅法売れていた。内容は人間を階級で分けて、評価するというもの。残りの二つの書籍もそこそこ売れていて、内容はいい女の探し方。少し知名度があった。カウンセリング事務所には、開業初日からクライアントが五人も来ている。
まゆみはブログでも、書籍でも、ハイパーカウンセラーという肩書を使っている。カウンセリング業界の暗部を、まゆみは突くのを心得ている。
カウンセラーというのは、無資格でもなれる。本来なら、臨床心理士や公認心理士あたりの資格がないと、知識が不足しているといえるのだけれど、いかにも資格がありそうにしていた。
ハイパーカウンセラー、真田まゆみ。
高卒であることは伏せている。
いろんなクライアント、特に男がまゆみのカウンセリング事務所に訪れた。
いい女の探し方や、いい女とは何かと、まゆみに尋ねる男が大半である。
でも、まゆみは自分のことをいい女とは思っていない。二十歳の時に最初の離婚をしていたし、再婚を三度していた。
けれど、メンタルは強い。離婚しても、冷静でいられる。そうまゆみは思っていた。
木々の葉が全て落ちている季節、若くておどおどとした声で、カウンセリングの予約を入れてきたのは初めてのクライアントの男、野本である。
カウンセリング事務所に来た野本の体型は、コート越しでも瘦せているを通り過ぎて、痩せすぎとわかるほどで、まゆみは心配になった。
鬱で、ご飯を食べられないのかも。
あまりにも重度だった場合、手に負えないと判断し、まゆみは何度もカウンセリングを継続させず、心療内科や精神科に回すことにしている。
まゆみには、重度の人をカウンセリングする技術はもちろんない。
この野本という男も一応話しは聞いて、病院にたらい回しにしないといけないかな。
まゆみは、せっかく来た初めてのクライアントから継続したお金をとれそうにないことを残念に思った。
まゆみは、野本に靴を脱いでもらい、スリッパを履いてほしいと伝えた。ビルの玄関から、奥の部屋に野本を案内する。記入表に住所と名前を書いてもらい、種類の違うお茶のパックを五つ差出して、どれがよいですかと聞く。
野本がハーブティーを選ぶ。カップを差し出す。野本が、ハーブティーのお茶パックの紙を外し、カップの中に入れる。まゆみがあらかじめ沸かしていたお湯をカップに注いだ。
まゆみは、野本が話し出すのを待つ。
「僕の彼女の周り、人がよく死ぬんです」
その言葉はまゆみに、直子のことを思い出させ、頭にコップの水を降らされたことも思い出させる。まゆみは、持ち前の精神力で、表情には出さないようにした。
「別れたほうがよいかもね」
「え?」
「死神人間」
と、まゆみは言った。
「死神人間?」
怯えるような声音で、野本は問い返す。
「ええ。世の中には、そういう種類の人間が少なからずいるの。レアだけどね」
野本は眉を寄せ、口をわなわなと震わせている。
「彼女は、彼女は優しい子なんです」
「もしかしたら、そうかもしれないけれど、彼女の周り人がよく亡くなるんでしょう。野本さんのためですよ」
まゆみは、優しい笑顔を顔に貼り付けていたが、内心は、憤怒している。ああいう死神人間と関わっては、誰もが不幸になる。
野本とカウンセリングで九十分の間話し、別れるよう説得した。
「本当は、次のカウンセリングでもお金を頂くことになるのだけれど、死神人間と関わってしまっているあなたからは、次回はお金をとらないようにします。ちゃんと、別れるのを見届けたいし」
まゆみは、野本のことを想ってそう言っているのではない。もちろん、直子のような死神人間の憤怒からである。
野本が、頷き、まゆみのカウンセリング事務所から出て行った。
「真田先生、彼女と別れました。でも……」
野本は電話で、悲痛な声音でそうまゆみにそう言った。
「でも?」
「カウンセリングで話します」
野本とカウンセリングの日を決め、まゆみは、自分のブログを教え、死神人間のことを書くからよければ、読んでねと言った。
まゆみはブログで、死神人間は、自分のせいで多くの人が亡くなっている因を作っているのに、反省をしない最悪な人種と書いていた。
まゆみは再び自分のカウンセリング事務所へ一番早い時間に来た野本に、いつもの接客をする。奥の部屋に入ってもらい、お茶を選んでもらう。野本が緑茶のパックを選んだ。コップにお湯を注ぐと、野本は啜る。
「元カノが自殺で死にました」
まゆみは驚いて、野本の表情を窺がった。野本は目に涙を、湛えるも、流さない。まゆみは、自分のコップにも注いだ、紅茶が入っているコップを掴み、鬱屈とした野本の気にやられないように気晴らしに一口啜る。
カウンセラーとして暖かい言葉をかけておこう。
「お辛い気持ち、お察しします」
野本が訥々と語る内容は、別れようとラインで元カノに言ったら、彼女は耐えられない、今から自殺するというもの。突然、ラインが切られ、何度通話してもとってくれなくて、元カノの家に向かった。
玄関のインターホンを押し、元カノの家族がドアを開けて、事情を話したそうだ。元カノの部屋に一緒に向かって、ドアを開けたら、首を吊っているのを発見する。野本は慌てていて、彼女の家の固定電話に電話することをすっかり、失念していたそうだ。
まゆみは言った。
「あなたのせいではありませんよ。死神人間は死ぬ宿命だったんですよ」
まゆみは、じっくりと野本の気持ちに寄り添いながら、六十分話しをする。
カウンセリング終了の時間になっても、野本はまだ話し足りないようで、喋ろうとしていいるのを、まゆみは遮った。
「そろそろ、お時間ですね」
野本が肩を落とした。
「次回のカウンセリングをされますか? ここで予約を入れますか?」
「いえ、いいです」
野本が力ない歩き方で、部屋を出て行き、まゆみは玄関まで見送った。
その後、次々に、カウンセリング事務所で、クライアントと話しをした。
茜色の日差しが窓から差してくる。中年の女とカウンセリングをしている最中、カウンセリング事務所に電話がかかってくる。
予約の電話かなと思い、まゆみは取った。
「真田カウンセリング事務所の、真田さんですか?」
今まで聞いたことがない年老いた声で、新しいクライアントかなと思った。
「ええ、そうです」
「私は警察の、故金と言います」
まゆみは、突然の警察からの電話に、驚きを隠せなかった。
「なんでしょうか?」
声が裏返り、緊張で受話器を持っている手が、若干震える。
「はい。先程、飛び込み自殺がありまして。真田カウンセリング事務所の、真田まゆみ。あいつのせいで、僕の彼女が死んだと何度も叫んでいた男が、電車に飛び込んだんです。あなたの都合のいい時間でよいので、少し、お話しをさせていただきたいんですが」
「それは構いません。ですが、私は普通にカウンセリングをしていただけですよ」
「ええ、ですからその話しを聞かせていただきたいのです。あなたの都合のいい時間に」
「では、十九時半に、私のカウンセリング事務所で」
まゆみは、受話器を置いた。
「真田さんどうしたんですか? 様子がおかしいと感じるんですが」
「ええ、ちょっとね。それより、カウンセリングを再開しましょう」
まゆみは、頭を切り替えて、カウンセリングに専念することにした。
インターホンが鳴った。まゆみが玄関に行き、ドアを開ける。暗がりの中、初老の男とその後ろに、一人の中年の男が佇んでいる。初老の男は、背が高く、肩幅が広いがっちりした体格をしていて、一方、中年の男は、初老の男よりは、十五cmは低い、中肉中背である。彼等の目は、外の闇とは対照的に、輝いていて、はっきりとした強い意思のようなものを感じる。まゆみはたじろぎ、後ずさりをした。
「落ち着いてください。話を聞きにきただけですから」
初老の男が言った。
「そうですね。ここで、立ち話もなんですから、上がって下さい」
まゆみは、野本とのカウンセリングでどんなことを話したのか、慎重に自分に不利になりそうにないことだけを話した。
「あなたのブログ読ませていただきました。死神人間を避けよですか。大胆なことを書かれていますね」
中年の男が、眉を寄せて言った。
まゆみは、いるんですよと本当にと言い、そこで話しを終えた。
それからというもの、まゆみの人生にケチがついた。真由美の夫が不慮の事故で死んだだけではない。まゆみの傍から友人が、一人一人とひっそりと離れていく。まゆみには誰もいなくなった。クライアントを除いて。孤独感を感じ、カウンセリングを受けようかと考え、インターネットでカウンセリング事務所を検索していた時だ。まゆみの心がショックで揺れる。まゆみのカウンセリング事務所や、まゆみのことを直接は書かれていないが、死神人間はいないと、まゆみに対抗するようなブログを見つけたせいだ。真っ向から、まゆみの書いていることを否定している。
そのブログ主の小森は、臨床心理士と公認心理士の資格があるとブログに載せていた。まゆみは、自分より格上の相手の記事に呑まれそうになる。
決めた、とまゆみは思った。
まゆみは目を覚まし、上半身を起こす。寒さに震えた。家の中でも、木枯らの音が鳴っている。白いダッフルコートを着込んで、外に出た。
ビルにの二階にある小森カウンセリング事務所に着くと、インターホンを押す。玄関のドアを開けたのは、アロハジャツを着た、薄い髪の白髪を生やしたいろんな経験をずっと積んできたであろう男だった。顔には、幾重にもある皺とほうれい線が刻まれている。穏やかな目とまゆみの目があった。
この季節に、アロハシャツはおかしいと言いたいのを堪え、まゆみは男が何か言うのを待った。
「予約を入れてくれた真田さんかね。どうぞ入って下さい」
まゆみは、カウンセリング事務所に入った。
質素ね、とまゆみは思った。
テーブルとそれを囲む椅子、ウオーターサーバー、キッチン、三段の本棚。本棚には、心理学の本がぎっしり詰まっている。
「コーヒー飲みますか?」
小森が海の底に沈んだ船からでも発声しているような、そんな微かな声で聞いてきた。
「ええ」
「温度はホットですか? 冷たいほうがいいですか? ホットの場合、非常に暖かいと、そこそこ暖かいに調節できます」
「そこそこ暖かいホットで」
小森がキッチンに行く。息を何度か吐く間に、小森がコップを持って、ウオーターサーバーの湯を入れる。
どうやらインスタントコーヒーっぽいなとまゆみは思う。
テーブルの上に、コーヒーが置かれる。あらかじめ置かれているガムシロップの籠から、ガムシロップを入れ、シュガーポットの蓋を開け、甘味料も入れる。
コップを唇に運び、三口、飲む。
「死神人間はいますよ」
まゆみが倹ある声で言った。
「いませんよ」
まゆみは死神人間が私の周りにかつていて、他にもいたと、まくしたてるように、小森に言った。
「あなたは同業者ですからね。厳しいことを言いますが……」
小森の反論によれば、私自身が死神人間らしい。こういう持論が人を傷つけると言ってきた。激しい論争をしたが決着が着かなかった。
小森カウンセリング事務所の玄関を出ようとしたところ、背後から小森が言った。
「バタフライ効果」
まゆみは、バタフライ効果の意味を考えながら、道を歩いた。
私の言葉が、野本の彼女を自殺に追い込み、野本も自殺に追い込んだ?
そんなはずはない、とまゆみはその考えを打ち消した。
野本の彼女が死神人間で、私まで巻き込んだのだ。
そう思考を、帰結した。
自宅の前に着くと、見慣れない車が路上に停まっていた。
不審な車を無視し、玄関に向かっていると、車から野本似の年輩の男が降りてきた。
よく見ると、片手で木刀を持っている。
身の危険を感じ、翻って走った。
「お前のせいで」
そう聞こえた次の瞬間、激痛が頭を襲った。
それは、一度きりではない。
「や、やめて」
まゆみの声は、宙を漂うばかりで、激痛が連続した。
執筆の狙い
バタフライ効果での、怖さを考えました。言葉には責任ってあると思います。