美味しいお店の探し方
ある水曜日の午後、オフィスのコーヒーメーカーが沈黙していたころ、僕の席までやってきて、こんなことを聞いてきた女性がいた。
「おいしいお店の探し方を教えて下さい」
彼女の名前はたぶん杉本さんだったと思う。
僕は聞き返した。
「お店の名前じゃなくて、探し方を教えてほしいのですか?」
彼女はうなずいた。
それから、まるで手帳にメモするような仕草で、僕の言葉を待った。
つまりこれは、一緒に行きましょうという意味ではないということだ。
そこに多少の落胆のようなものがあったかと訊かれれば、否定するのは難しい。
でもまあ、それでいい。
人生というのはそういう、少し肩透かしを食らったような場面の集合体なのだから。
この程度でいちいち失望していたらきりがない。
僕は親切に教えた。
「駅から10分以上歩く店は当たりが多い」とか、
「レビューの点数が高すぎない店を選ぶのがコツ」とか、
「看板が古くて、メニューが一枚しかない店にはときどき魔法がある」
といった類のことを語って聞かせてあげた。
彼女は熱心に耳を傾け、ところどころでうなずいた。
そして数日後には、別の同僚も似たようなことを僕に聞いてきた。
どうやら僕は、おいしいお店の「探し方の人」として、社内ブームの一部に据えられてしまったらしい。
少なくとも、コピー機の使い方ばかりを聞かれるよりはマシだろう。
しかし、正直に言えば──いや、正直に言わなくても──僕はその状況を「おもしろくない」と思っていた。
それは、彼女たちが僕に「お店の名前」ではなく、「探し方」だけを求めていたからだと思う。
僕自身がそのテーブルに呼ばれたことは、結局のところなかった。
そんなある日、エレベーターの前で、僕に向かってこう言ってきた女性がいた。
「あの……おいしいお店を教えてくれませんか?」
──探し方ではなかった。
その瞬間、胸の奥でひとつ、錆びついた窓がゆっくりと開いた気がした。
空が広くなった、そんな感覚だった。
その女性は、僕より少し若く見えた。
開いたエレベーターの中は、時間がゆっくりと流れているように見えた。
僕たちは乗り込む。
「おすすめ、ですか」
と僕は言った。
「はい。食べることって、けっこう大事だなって最近思って。……それに、誰かに選んでもらったもののほうが、おいしく感じるんじゃないかなって」
「ああ、それは一理あるかもしれませんね。でも、同時に危うい理屈でもありますよ」
彼女は少し首を傾げた。
まるで、猫が聞いたことのない音を耳にしたときのように。
「どういうことですか?」
エレベーターはゆっくりと降りていく。
「たとえば誰かに連れられて行った店で食べる料理がおいしいと感じたとします。でもそれは、その誰かと過ごしている時間が、おいしさに上塗りされている可能性があります。それは料理そのものの味というより、一緒にいる時間の味なんです。だから、おいしいお店の探し方を聞いてくる人が増えたとき、僕は少し奇妙な気分になりました。僕が教えたかったのは地図というより、道そのものなんです」
「それは、どこかへ行くこと、そのものが大事だということですか」
「う~ん。それもあると思うんですけど、僕にとっては、どうやって辿り着くかのほうに興味があるんですよ」
彼女はうなずいた。
まるでそれが、長いあいだ探していた答えであったかのように。
「私はですね」
と彼女が言った。
「誰かに何かを選んでもらうってことが、ずっと苦手だったんです。なんだか、自分に主体性がないみたいで。でも最近、それって少し違うのかもしれないって思うようになりました。誰かの“選び方”を知ることは、その人を知ることにもつながるのかなって」
「おもしろい考え方です。何かの探し方というものは、人の生き方を表しているのかもしれませんね」
エレベーターは地上階に到着した。
扉が開くと、冷たい冬の空気が足元から這い上がってきた。
彼女は一歩外に出てから、振り返って言った。
「じゃあ、“探し方”を教えてくれませんか? 場所じゃなくて、“探す”ってこと、そのものを」
「いいですよ」
と僕は言った。
「ただし、ちょっと歩きますけどね」
「うふ。歩くのは、嫌いじゃないです」
彼女はそう言って、控えめに笑った。
まるで、どこか遠くに置き忘れていた靴の場所を思い出したみたいな微笑だった。
その日は曇り空だった。
空には色というよりトーンだけが浮かんでいる。
言ってみれば、無音のピアノのような感じ。
僕たちは駅の南側にある小さな坂をくだり、川沿いの道を歩いた。
川といっても、水があるのかないのかよくわからない川だった。
冬の川は、水の流れのみならず、時間の流れさえも諦めたような顔をしていた。
彼女はときどき口をひらいたが、それが音になる前に閉じていた。
「それで、どこに向かっているんですか?」
ついに彼女が聞いた。
「目的地はまだ決めていません」
と僕は答えた。
「それじゃ、着かないんじゃないですか?」
「そうでもないですよ。だいたいの場合、本当に大事な店は、決めてから探すより、探しているうちに出会うんです。恋人みたいに」
彼女はくすりと笑った。
「それは、ちょっとロマンチックすぎませんか」
「そうですか? まあ、実際のところ、求めているものって、探してる最中には手に入らないことも多いんですけどね」
それからさらに20分ほど歩いた。
商店街でもなければ、住宅地でもない、曖昧な場所。
古い銭湯の前を通り、閉まった時計屋の前を抜け、交差点の脇にぽつんと佇む、木造二階建ての店の前で僕たちは足を止めた。
暖簾には、「ののや」と書かれていた。
「ここ……ですか?」
と彼女が訊いた。
「さあ、どうでしょう」
と僕は答えた。
「でも、僕は前からこの店の前を通るたびに気になっていたんです。理由はわかりません。ただ、いつかは入るべきお店なんじゃないかって気がしていたんです」
「そういうの、ありますよね」
と彼女は言った。
「まだ知らないのに、もう知ってる気がする場所──」
僕たちは暖簾をくぐって中に入った。
店内は静かだった。
木の匂いがして、時計の音が遠くからかすかに聞こえた。
席は七つしかなかった。
年配の女性がひとり、カウンターの奥で湯気を見つめていた。
「何になさいますか?」
やわらかい声で聞いてきた。
僕たちは顔を見合わせた。
「おすすめで」
と彼女が言った。
「はい、かしこまりました」
と店主は言い、調理を始めた。
僕たちはしばらく何も言わずに待った。
店の空気が、まるで音楽のように静かに身のまわりを満たしていた。
しばらくして、湯気の立った器が運ばれてきた。
それは、見た目にはごく普通の「うどん」だった。
でも、湯気の立ちのぼり方や、つゆの香りには、どこか記憶の底をくすぐるような懐かしさがあった。
僕たちは思わず顔を見合わせ、なぜか微笑んだ。
「いただきます」
一口食べた瞬間、彼女が小さく息をのむのがわかった。
「すごく、おいしい……」
「おいしいですね」
と僕は答えた。
「これは、きっと、探してたもののひとつかもしれません」
彼女は静かに笑った。
「食べて、“おいしい”って言える自分になるのも大切かも」
「ははは。そうですね」
窓の外の空は、いつのまにか少しだけ明るくなっていた。
それだけで、ほんの少しだけ何かが変わったような気がした。
< 了 >
執筆の狙い
お久しぶりです。
約2900字の短編です。
さらっとお読みいただければ幸いです。