アメちゃんの最終講義
夜遅くお風呂に入る。お湯はすっかりぬるま湯だが、それも心地いい季節となった。
今日は競馬の祭典日本ダービーで美味しいシーンを最前列で観ようと地下馬道で三時間、立ち尽くしていた。応援していた馬が非常に善戦、率直に言えば悔やしい敗戦をして、心もちょっと疲れた。勝った馬はみなから祝福される一番人気だし、スターホースの階段を昇っていくような馬だ。地下馬道でNO1のポーズをとるダービージョッキーは喜びで一杯で、走り終えて汗が滲む馬体に勝利のレイをかけた馬は大げさではなく輝いていた。生命に叫びがあるとしたら、それが響いてくるようだった。彼らに心から拍手できたけど、心の奥はやっぱり悔しい。
そんな疲れを洗い流すことなど出来ないが、じわんと身体を温めてじわり足先から逃がす。シャンプーをして、髭をそるのは面倒だからさぼって、お風呂を出る。
すると猫のアメちゃんがドアの表で待っていた。「ごはんのおねだりかな」とも思ったが、やはり違う気がした。
慌てて服を着て、少し濡れたまま自然に乾くのに任せ、ちょこんと佇んでいる猫の元に向かう。アメちゃん、アメリカンショートヘアだからアメちゃんだ、芸の無い名前と思われるかもしれないが、今は亡き母がつけた名前だし、愛着がある。アメちゃんは少し太ったシマシマ模様の灰色と黒の猫さんだ。アメちゃんはじっとしている。
「そっか」
と独り言ちて、ゆるゆる廊下を歩く。アメちゃんも付いていく。ごはんのある台所ではなく、玄関の方へ。
玄関に着いて、暗い中シューズを探り当てひっかぶり、ドアを開けると、アメちゃんはとっとっと外へ出る。もともと「アメちゃん専用」の猫ドアがあるのだが、こういう時一緒に出るのが通例になっている。アメちゃんは玄関の前の石畳で気持ちよさそうにしている。
ウチにはけっこう大き目の庭がある。猫の縄張りとしては最上の環境だろう。またぶーたれた稼ぎの少ない自分のような息子たちにとっても貴重な財産だろう。この庭は、父が死んで自分たちに遺産が渡った後、売られてしまうかもしれない。でも、アメちゃんからこの庭を奪って不幸せにさせることはないだろう。アメちゃんはもう今年で十五になる。アメリカンショートヘアの平均寿命が十三だから、もうウチの父以上のおじいちゃんだ。
そんな父は、居間で野球中継を観ている。時間的に録画だろう。たぶん高校野球。年甲斐もなく高校野球を愛する父は、埼玉地域の大会には足しげく通い、バックネット裏で野球を見て、野球中継の録画やyoutubeでアップロードされた大会の試合の過程を観たりして夜を過ごしている。昔、何度か父の高校野球観戦につきあったことがあるが、この投手の何が決め球なのか、なにがストライクでボールなのか全くわからないで酷く退屈して途中で帰ってしまったことがある。そんなこんなで野球観戦は父の趣味、競馬観戦は僕の趣味となった。
居間のカーテン越しに光がこぼれ、野球中継が聞こえる中、アメちゃんは悠然と歩く。どうやら家の側面とブロック塀の間を行く魂胆らしい。途中アリじごくがいそうな砂山をふんふんと鼻でならし、べニア板を超え、家の裏のモグの小屋まで来た。
モグは十年以上前に飼っていた愛犬だ。モグと僕は仲良くなり、いろんな散歩コースを一緒に歩いた。時には調子に乗って隣町や車がビュンビュン通る大通りも歩いたりもしたが、大抵はのどかな田舎道で、モグは楽しそうについて来た。
今はアメちゃんについて来たら、そんなモグの昔いた小屋に連れてかれた。きゅっとなる。自分は入院していてモグの死に目に会えなかった。毎回見舞いに来る父母に「モグ元気?」と聞いて、「モグ死んじゃった」と返事が来たとき、ほんとに悲しかった。だからアメちゃんが死ぬときは「最後には一緒にいたいな」と思うのだが、猫の最後は人に看取られないように何処かへ行くとも聞いているし、アメちゃんは庭を行き来できるミニノラだから、難しいような気もしてしまう。だから最後にはではなく、「最後になるまで出来るだけ一緒にいたい」と思う。だからなのか、こんなアメちゃんの夜の散歩につきあってしまうのだ。といってもアメちゃんを一日ほっぽってダービーまで行っちゃうダメな飼い主だけど。ああ、だから今日は寂しかったから、お風呂まで迎えに行って夜の散歩に誘ったのか。できるだけ一緒に居たいという想いはアメちゃんも同じなのかなとふと思い、目頭が図らずも刺激される。
アメちゃんはつとつとと奥の方に行くが、灯かりから離れ暗い中、狭い道で足元がおぼつかなくためらう。しかし、アメちゃんは適度な距離を保ちつつ、僕についてくるように誘うように、立ち止まっている。僕が意を決して近づこうとしたら、壊れてほったらかされた雨どいを踏んづけてしまい派手な音がした。アメちゃんは驚いて、俊敏にステップして駆け出す。一気に視界から消え、どっかへ行ってしまう。不安になりながら追いかけると、アメちゃんがいない。いないと心がざわつく絶妙なタイミングを見透かしたように、アメちゃんがどてんと佇んで待っている。可愛い。その距離感が可愛い。
今度はアメちゃんは庭を表に回り、家の端っこの軒下と言って良いんだろうか。ちょっとした段差のある凹凸の隙間にやって来る。そこはアメちゃんのお気に入りの場所だ。その雨と陽射しをしのげるちょっとしたデコボコの隙間とその周りのコンクリートのひんやりした床がお気に入りで、僕が春先からおやつ時に帰ってきた時、たいていそこでぬくもっていて、僕が近づくとお腹を見せて「なででなでてー」ってするのだ。夜の散歩でも必修コースで、ここで一休みするのが常だ。というのもアメちゃんの「夜の散歩」に付き合うのはこれがはじめてではない。最近アメちゃんが本当に老齢になり、そして日当たりも良く夜が涼しく気持ちよくなった春から、僕を夜の散歩に誘う。時にはお風呂上り、時にはごはんを貰った後。時にはパソコンで熱中している時、デスクの上に乗っかって注意を惹いて。
アメちゃんは僕に何を伝えたいんだろうか。アメちゃんは座っている。夜の匂いを嗅ぐように。やがて、寝そべり始めた。僕もなんだか夜を味わいたくなって、アメちゃんの近くのコンクリートの段差に腰かけ、アメちゃんじゃなく、夜空や夜の風景をぼんやりと眺める。星は見えない。月も隠れている。カエルの鳴き声が心地いい。庭には、すいかの苗木が植わっている。「すいか食べ放題」なんて夢を乗せて、僕が買ってきて植えた苗だ。「カラスに食べられちゃうよ」と父は言うが、僕は望みを持っている。一気にスイカを一玉食べきるのだ。
今年の夏は熱いかな。アメちゃんも僕も元気に乗り越えれるかな。アメちゃん。振り返ると、アメちゃんはぼぅっと夜の空気を吸っている。僕も一緒にそれを楽しむことにする。本当に取り留めのない。考えても何の成果もない、人によっては意味もないものだと思うだろう、考え事が浮かぶ。
世の中には永遠など無い。地球も太陽も宇宙もいつか終わりが来る。だから自分の世界でずっと続くものはない。だけどずっと続くものがないという状態がある。永遠なんてない。ということが永遠に続くことが、永遠なんではないだろうか。なんて、なかなか良くわかんないことを考える。
だからアメちゃんと僕は永遠に一緒に居られないけど、でも永遠に離れるわけではない。また何時か会える。もしかしたら親切な人が、天国でアメちゃんと待ち合わせさせてくれるかもしれない。ああ、人はそれを神と呼ぶんだろうな。とか。
ほんとどーでもいいこと。
そんな風に夜を味わう。「夜の楽しみ方」それがアメちゃんがくれる僕への最終講義なのかもしれない。出来るだけさぼらないように参加しようと思う。
そんな風にぼーっとして三十分か一時間。アメちゃんは、気付けば僕のふれれる位置までいつの間にかにじり寄っていた。「よしよし」と撫でる。
それからしばらく周りをパトロールして家に帰る。
家に帰ったら、お風呂上りに用意していた「ところてん」が待っている。きんきんに冷蔵庫で冷やした袋状のところてんをざるにあけ、添え付けのごまと青のりのふりかけと辛子をかけていただく。たれの酸味がマイルドで美味しい。アメちゃんも台所のテーブルに乗って、「ちゃおちゅーる」を催促している。もちろんやるとも。ちょっと待ってろ。そんなこんなで夜の散歩の終わりには美味しいおやつが待っている。
執筆の狙い
日本ダービーの予想は外れました。馬券買ってないけど。
お願いしますです。