作家でごはん!鍛練場
辛澄菜澄

傷心メイドの引き際

「店主さん。この煮卵ラーメンってどうやって発明したんです? 美味いけど、誕生経緯が分からない」

 左隣の席に座って両腕で頬杖を付きながら、皺一つない鼠色の軍服を着たバル・トライストンが、徐ろに屋外屋台の店主に訊いた。
 僕たち二人の前には食べかけのラーメンがあって、それには夥しい数の煮卵が浮かんでいる。他の具材は一切乗っかっていないため、彩りも栄養も何もないふざけたラーメンだ。煮卵は茶に色づいた茹で卵の形式を取るものが多いが、単に生卵をそのまま湯で茹で上げた種類のものも交えられた実に自由でユーモラスで、雄大なまでに勇猛果敢な一品だった。いや、それは僕と彼の前に一つずつあったから、二品と言う方が適切かもしれない。僕は人を精巧に模しただけの機械人形だ――この町ではそういう存在はカカシと呼ばれる――よって、物事は常に厳密な視点で観測しなければならない。
 バルの問を受けて、店主の男は得意げに答える。

「俺の父親の代からある品だ。死んだ父さんに訊いたことがあるが、どう思いついたかは忘れたって言ってたよ。未来でこのラーメンが歴史的価値のある伝統食になるんなら、結構な損失だぜ」
「間違いない。俺はこの煮卵ラーメンが大好きなんでね、もし政治家になれるっていうなら真っ先にこれを無形文化財に推します」
「ああ。きっと俺もそうする」

 鉢巻を巻いた店主はシニカルに笑って、次の客に提供するための煮卵の茹で加減を確認しに目線を近くの大鍋に落とした。僕の右隣にもう一人客が座っているから、そのために作っているものなのだろう。
 この町には本当に阿呆な物好きが多い。
 作る方も食いに来る方も。
 阿呆め。阿呆すぎて、もはや阿呆梅だ。
 エッグい煮卵ラーメン誕生の秘密などどうでも良かったのか、訊いた張本人たるバルも箸で豪快に煮卵を掴んで再び食べ始めている。僕のような機械の体を持つカカシに食事は必要ないから、このような形式の娯楽を楽しむ機会は少ない。
 でも今日はバルと再会した特別な日だから、まあ、彼の趣向に合わせる形で特別に付き合ってやっている。しかし初めて食べてみたものの、僕はこの奇妙なラーメンを特別美味しいとは思わなかった。機械だからといって味覚がないわけではないけれど、ここでは人だからとか機械だからとか、そういう種族の括りで考えてはいけないのではないかと思う。単純に僕は、この味の永遠に変わらないラーメンの食べ応えが苦手だった。
 口では言わないけれど。
 端的に言ってうんざりもうんざり。
 せめて味変用の調味料を添えてくれ。
 だがしかし、隣ではバルが取り憑かれたように煮卵ラーメンを貪り食っている――その光景が僕には心底不思議でならなかった。これが豚になった両親を前にした千尋の気持ちなのだろうか、と随分前に観た映画の考察に興味が向くが、今は旧交を温める時である。こういうシチュエーションで自分の世界に浸りすぎては失礼に当たると、僕の記憶メモリーは学習済みだ。

「……まったく、清々しいまでの食べっぷりだね。健啖家なのは今も昔も変わらないんだ。ただでさえ量の少ない僕の弁当から冷凍ハンバーグと占いグラタンを奪ってたでしょ? 毎日そうだっ。バルは毎日その二つだけは確実に奪いたがってた!」
「確かそうだっけか……そんなのよく覚えてたな」
「忘れないよっ。あんなのでも、思い出だから」

 僕は目線の先の煮卵ラーメンの作り出す湖面を見つめたままそう言った。忘れるものか――そもそも仕組みとして忘れることが出来ない。バルと友人をやっていた中学時代には僕の体は既にカカシになっていたから、記憶機能の仕組みが人間とは丸きり違う。
 記憶は勿論、体だって当時からずっと引き継がれる。バルの身長はかなり伸びてしまったけれど、僕はまだあの頃のままの背丈である。声変わりすらしていない。

「でも毎回ちゃんとくれたような気がする」
「だから、バルが僕から奪ったんでしょっ」
「だっけか? やっぱあんま覚えてないな」
「今はともかく、昔は相当ショックだったねっ。カカシに食事が必要ないからって、楽しみなものは楽しみなのに!」

 僕はこうやって過去を慈しむ振りこそしているものの、何かを感傷ぶって懐かしむ心を、頭が金属になってから失くしてしまった。もう人間ではないのである。だから僕が何かを思い出して泣きたそうな顔をしていても、あの頃に戻りたいなぁなんて寂しげに言い出しても、そういう風に振る舞っているだけだからきっと騙されないでね。きっと、騙されてはいけないよ。
 フロッグ・拝電というカカシは他のカカシたちに比べて割合演技派なのである。次に就く仕事は舞台俳優にしようかと密かに画策しているくらいだ。

「あの昼休み、昼食の楽しみを跡形もなく破壊された僕の不幸は未だ計り知れないっ!」
「わかったわかった。その時は悪かったよ」
「じゃあ半分許してしんぜよう」
「そこは全部許してくれよ!」 

 思い出話に花を咲かせ、その美しい花壇にどんどんと花弁が増えていった。
 夜と影の重なる部分に灯された屋台の明かりの中、僕らは実に一時間と少しをかけて煮卵ラーメンを完食した。だが一時間と少しの内一時間くらいは僕が悪戦苦闘しているだけの詰まらない時間だった。味も好みではないが、麺を啜るという行為が絶望的に下手くそなせいでもある。だから食っている僕自身が退屈で退屈で、しかも窮屈で、鬱屈して仕方なかった。そして後味の悪いことに経緯は省くが金は全てバルが出してくれた。更には額面を聞いて、物理的に目玉がバネでびよーんと飛び出た。
 カカシには「ビックリ」の表現として、そういう気色悪い機能が搭載されている。僕だけかも。
 戻す時は手動だ。別にグロくはない。

 ■■■

 バルとおよそ十年ちょっとぶりに再会したのは、僕が労働に従事している真っ最中の事である。

「萌えろ、萌えろ、杞憂ーっん」
「…………うす」

 杞憂というのは「キュン」の捩りであって、この女装メイド喫茶が他店との差別化を図るべく涙ぐましくも打ち立てた戦略に他ならないのだが、キュンが杞憂になったところで客が寄ってくるかといえば、皆目怪しいと言わざるを得ない。一体全体何が杞憂だと言うのか。よもやこの店が潰れたくない一心で店自体に「それは杞憂だ」と無意味な暗示を掛けているのではなかろうか。付け加えるなら「萌えろ」などという上から目線極まりない魔法のオマジナイも相まって、一従業員としては汚い邪推が捗るキャッチフレーズどもである。
 日も暮れかかる夕方に一名様でご来店くださったバルは、死んだ目とカチコチに固まった上半身で僕の杞憂ビームを受け止めていた――おい、なんなのだこの状況は。鼠色の軍服姿で短髪に刈り上げた屈強な青年が、フリフリのフリルが踊る改造メイド服をめかしこんだ僕という男型カカシに偽りの奉仕を受けている。卓上に運ばれている冷めた大蒜チャーハンも心なしか白けているように見えた。
 お洒落にガーリックと冠すれば良いものを豪快に大蒜で通しているところも、この女装喫茶が繁盛しない一因であると思われる。

「……なんつーか、こんな再会になるとは、思ってなかったぜ」
「え? なになにっ、どうしたのご主人さま! なにかヤーなことでもあったのかなっ」

 接客マニュアルで用意されている台詞がだだっ広い店内フロア一帯に漂い、漂い終わってから消えた。その間衣擦れの音すら聞こえてこなかった。
 さて僕は傷つく心も痛む肉体も無いカカシだから別にどんな過酷な環境で働いたって構わないが、ワークライフバランスはきっちりしないとどうにも納得いかない性分なので、最も効率的に稼げる場所を選択したまでである。また、元より定期的に仕事は変えているから「一度はこういう所でも」と考えた訳だ。
 しかし働き始めて一ヶ月、知り合いにこんな手合いの店を利用する層は居まいと高を括っていたが、過去の知り合いの存在を計算式に含めるのを失念していた。下手に今交流のある友人と遭遇するよりも、それは気まずいものだ。とっくに業界の競合に負けて流行らない店だから、フロアがしんと静まり返っているのもこの世の地獄に頗る拍車をかけていた。
 そもそも誰がバルが女装メイド喫茶に来ると予想出来る。
 なんだろう、そういう趣味なのか。
 普段からバルは見目麗しい男子に女装をさせてそれを愉しんでいるというのか、なあ、おい。

「フロッグだよな」
「違いますよ! 私、ハネミー・拝電って言いますっ!」
「いいや絶対にフロッグだ」
「ハネミーですって! 蛙がぴょこぴょこハネミー! って覚えてくださいね。ぴょこんっ!」
「フロッグ・拝電! 俺の友達!」
「さあ、冷めない内にくっさい大蒜チャーハンを大口開けて召し上がれ! 萌えろ萌えろ杞憂っ! ビ――ムっ!」
「……そっか、忘れちまったか。もう俺ら友達じゃないんだな。帰るわ」
「ごめんごめんごめんフロッグです誠にスミマセンでした! 忘れてないからーっ!」

 思い返せば始めから正体を明かしたって良かったのだが、しかし、働く身として最低限業界の掟は守らねばならない――それにバルにこの姿で働いているところを目撃されるというのは、想像していた以上に恥ずかしいことだった。というか、想像すら出来ていなかったところに不意打ちを食らえば恥ずかしいのは尚の事である。普段何とも思っていなかった可憐な衣装が、媚びへつらった台詞が、男を落とすために開発された振る舞いが、とても僕がしてはいけないようなことの気がしてきてならなかった。

「やめろ……見るなぁ……」
「お、お前まさか、ここで無理やり働かされて……?」
「いやそれは全然自分の意思だよ」
「もうちょい恥ずかしがるターンを長引かせろよ」
「やだっ、見ないで……お願いバル……」

 と、こんな言動をしておいて、僕に心はない。
 人にはこういう涙目(潤滑オイルで再現)の上目遣いが効果的なんだっけ、と電子マニュアルを回路内で閲覧しながら実際にそれを繰り出してみせる冷静な僕と、本当にバルの前からいち早く立ち去ってしまいたい乙女な僕が同時進行で存在していた。どちらがメイン基盤の上を走る感情なのかは、読者たる君の判断のお好みに任せよう。そもそも僕に心など無いのだし、愉快な読書の合間にせいぜい無駄な考察を心ゆくまで楽しんでみて欲しい。

 ■■■

 バル、君は両性愛者なのかと尋ねてみたけれど、彼は「違ぇよ」と苦笑いを返してきただけで、それ以降はこの件については寄せ付けない雰囲気だった。僕からしてみれば疑問で、町の自警軍に入るくらいには心身逞しいバルが、場末の女装喫茶に単身乗り込んでくるなんてことは予想だにしていなかった事なのである。僕らがまだ若かった中学時代、彼は同学年の女の子を一途に愛する、ただの優しい男児だった筈だ。

「にしても、さっきは随分と可愛らしかったな。昔なら絶対照れなかった。フロッグにも羞恥って感情が芽生えたってことか」
「そんな訳ない! カカシたる僕に感情が芽生えるなんてことは人間が六百年生きるよりもあり得ないねっ。まったくよぉ、憶測でものを言うのはやめて貰えるかな!」
「ふふっ、怒っても可愛いとは恐れ入ったぜ」
「もーっ! バルのアホ! アホ梅!」

 数時間後にバイトのシフトを終えて邪魔なメイド服もさっさと着替えてしまった僕は、バルが操縦する滞空二輪の後ろ側に乗せてもらい、拝電町の作り出す幻想的で、しっとり暗い夜空を星の如く流れていた――落ちないように、僕はぎゅーっと、バルの背中にしがみついている。当然密着状態だから、硬いほっぺや上半身を押し付けてしまい、せっかく夜食に誘ってくれたバルには申し訳なく思う。高所特有の吹き付ける冷たい横風の中、せめて僕の温かい体――昔は冷たかったのだが自分で改良した――をカイロ代わりにして貰えれば、多少の恩返しには出来るだろうかと思った。僕は、受けた恩は決して忘れない偉いカカシなのである。
 たとえ返し終わっても、絶対に忘れない。
 ああ、君のお察しの通り、ここから冒頭で触れた煮卵ラーメンの悲劇に接続されるのだ。時系列を弄る僕の語り部としての才覚に震えるが良いとも。僕の体でぬくぬく温かいバルとは正反対に、君は震えているが良いとも。いや読者の「君」と煮卵の「黄身」を掛けた古典的な駄洒落を言ったつもりはないから、そこは誤解なきように。
 遥か眼下には縦横無尽に橋の架かる川が見え、その岸辺にはオカルティックな風貌の会館や聳え立つエネルギー供給鉄塔、レトロ趣味の喫茶など、沢山の建築物たちが小さく見下ろせる。それぞれに何か個性的な名前が付いていた気がするけれど、取り立てて此処で書いてみる必要は無いだろう。そんなへんてこりんな町に、星の数ほど人間とカカシが生きている――ただ、カカシを生きていると定義出来るかは人やカカシによるとしか。バルと僕もそんな無数の星たちの中の二つぼっちなのだ。

「――忘れないでください。皆さんの一票で、定められた運命すら捻じ曲げられることを。私が、私がこの手でこの町を幸福にするお手伝いをしてほしいんです! どうか、どうか私に、清きラブの込められた濁りなき愛の一票を投じて頂けないでしょうか! どうか、私の名前だけでも覚えて帰ってください!」
「……あれは」
「ああ……アゲハだ」

 大型広告映像が投影されているエビフライシップ(注、後部に付いた舵取りモジュールが海老の尻尾に見える巨大飛行船の愛称)が目の前を横断するのをホバリング状態で待つ間、ターミナルの宝辺駅ロータリー付近にかなりの数の星々が密集した銀河を見つけた。といって、町を運営する政治家の一人の演説に見物人や支持者が集まっているだけの光景に過ぎないのだから、僕がそう言ったのはただのお洒落ぇな比喩だ。

「あんなん言ってるが、一度知ったらあんな人間忘れられる奴の方が少ないだろうな」
「ん、全くもって同感だよっ」

 アゲハ・アートアサインは拝電町議会に一席を持つ若い女性政治家であり、味方ゼロの孤軍奮闘から不思議なカリスマと尋常でないバイタルによって徐々に支持率を勝ち取ってきた紛れもない傑物である。きりりんとした印象のスーツ姿、に合わせる形で、セミロングに切り揃えられた頭に、ひらひら黒色リボンの巻き付くミニシルクハットをあざとくも斜めに被せている変人でもあるが――「乙女ゲームの発展と振興」を中心理念とした政策やマニフェスト方針の数々は一部の層からカルト的な人気を獲得し、普段彼女は大真面目な顔をして議会に出席しているらしい。大真面目な顔で、それでいて普通に顔も良いから余計に支持は広がるばかりだ。
 顔が良いと何かと便利な世の中であるな。

「それお前が言うなよ……」
「えーっと、何のことかな?」

 極彩色のネオンライトと衆目の関心を高台の上で目一杯に浴びて、アゲハは似合わないマイクを握る力を強めたように見えた。彼女はそれから如何に乙女ゲームがこの町を救うか、役立つか、将来のために必要かを説き、時には激情すら滲ませ「無形文化財に登録すべきだ」と叫び、トキメキを抑えきれない様子で通常の諸問題への対策案を述べた。彼女は勿論、議員選挙の時期が迫っているから演説をしているのだろう。ここで落とされれば数年は政治家として活動出来なくなる危機――ただ、アゲハはそんなものよりもどちらかと言えばむしろ、ただ純粋に己の願いの為に行動しているように思う。

「衆人はゲームの中のイケメンほど簡単には攻略出来ないからね。自分の望みを実現するために必死に足掻いて、もがいて、覚えてもらって、好感度を稼がないと。議員さんはそういう仕事をしているんだ」
「……フロッグは、アゲハに投票するのか」
「なぁに? 僕に探り入れようって? バルは相変わらずノンデリカシーな男だね。そういうのは友達同士であっても訊くのは控えた方が良いと思うよっ」

 バルは「確かにそうだな」と納得したようで、滞空二輪のアナログな操作盤を弄り、軽い口当たりのロック音楽をかけ始めた。
 エビフライシップの尻尾を見送る形で走り出す車両は軍の支給品でなく、恐らくはバルの趣味だ。こんなイカす二輪に乗ったバルが女装喫茶かと僕は執拗にも気になってしまったのだけれど、たぶん今はポップ・ロックに包まれながらバルもそうしているだろうから、かつて同じ中学校に通っていた僕らの愛すべき友人――アゲハ・アートアサイン女史へ郷愁を巡らせることとする。
 そうして僕もバルも、何も言えなくなった。忘れられない記憶の彼方へタイムトラベルしているものだからね。余計な言葉は旅情の邪魔にしかならないのだ。
 アゲハはバルの想い人だった人であり、今でも僕の恩人だった。

 ■■■

 中学一年生の春、僕は人間を辞めた。
 具体的には、辞めさせられた。
 僕は不幸にも文字通りの電撃通り魔に遭遇し、スタンガンと電気ショックを浴びせられ続けた結果右半身の麻痺を受けたのだ。我ながら間抜け也。その後僕は何者かに誘拐され、しばらくの期間されるがままの行方不明状態だったそうだが、ある日急に家族の元に戻った。全身が重くて硬くて、それでも元の人間の外見を限りなく保った、拝電の姓を持つカカシの一機となって、奇跡的に無事に戻った。無事というのはある意味の上での話の気もする。
 玄関で母親に号泣されながら抱きつかれた瞬間に自我が復活し、あとはご覧の通り健やかに生きている……「冷たいね」と小声が漏れるのを聞いたのが、今でも印象深い。命は拾ったが、拾えた理由が分からないし改造手術の記憶も無いしで、当時は混乱ここに極まれりという感じだった。
 当然、その春から通う予定だった町立傾国中学校には一月ほど遅れて入学する羽目になった。その頃の僕は実にナイーブで、カカシになった直後ということもあってか人間的な苦悩や恐怖、トラウマに四六時中苛まれていた。まだ心が消えていない頃である。大きい人が怖い、電気なんて見たくもない、何かのスイッチに触れるのすら、指が震える。小さな不安が大きな不安を呼び、それがまたそこそこの大きさの不安を引き連れてやってくる毎日は地獄で、俯いてばかりいるから友達も出来ない。
 そういう日々を派手に打ち破ってくれたのが、件の恩人、クラスメイトのアゲハ・アートアサインだった。

「――じゃあ克服しようよ。苦しいならそれが報われるように行動しなくちゃ。でないと、ただの人形じゃない?」

 まず困難があって、それを脱するにはどうすれば良いかと言って、早急に二つも三つも案を出し、優れている案を上から順に実行してさあ、幸せになろう、というのが要約したアゲハの生き様である。困難があるからといって立ち止まらず、自分のみならずクラスの端で固まっているような機械にすら己の哲学を適用させようとしてくる馬鹿みたいに巨大なエネルギーを、一体彼女はどこから精製しているのだろうと思った。多分だけれど、心臓に毛の代わりに原子炉でも生えているのだろう。毎日の弁当にこっそりウランの煮付けを入れているに相違ない。
 五月のある平凡な昼休み、僕が独りで弁当を食べている机を挟み込むように彼女が椅子を持ってきて、勝手に居座り始めた。パック牛乳片手にちゅーちゅーやりながら、自信ありげにこう語る。

「フロッグくんは、弟枠だ」
「……それは、どういうこと?」
「弟のように可愛らしく、儚げで、守ってあげたくなる存在。それが弟枠。属性とも言う。実際の弟じゃなくてもいいんだよ。要は雰囲気だ。実は! 実はね、この世の全ての女性は自分のことをお姉ちゃんと慕ってくれる弟を欲しているんだよ!」
「アゲハさんだけだよ……」
「何歳になってもだ! これだけは、これだけは覚えてて! 何歳になろうともその原則は揺るがないの! 少なくとも私はそう! ねえフロッグくん、私たち互いに二十五になったら結婚しちゃおうかぁ⁉ お姉ちゃんを腕枕と膝枕でダブルツインでローテーションの連続コンボで癒してよぉー! 私をこの不幸から救ってくれぇー!」
「怖いです怖いです、やめてくださいーっ!」

 二十五って。普通は三十だろう。
 切りよく十年後辺りということなのだろうか。
 アゲハは入学当初からこういう人物像で良くも悪くも有名であり、求婚された男子は中学三年間でゆうに千人を超えた。つまり全校の男子に余さず求婚したことになる。二つ上の先輩と二つ下の後輩含め、一人残らずだ。どんな悪辣な性格の男でも掻き分けるように美点を探し出し妄想で「実はイイ奴エピソード」を塗り重ねていく様は鬼気迫るものがあり、取った異名は『傾国の攻略者』――その異常性を忌避する者と敬愛する者との乖離と対立は戦乱が如く凄まじく、彼女が二年次に生徒会長になれたのも他の正統派候補と僅差で競った上での事だ。この空前絶後の選挙動乱はそれだけで一冊の本を認められるが、長くなるし今は語るまい。
 一学期の間、僕はほとんどずっとそんな台風に付き纏われた。じゃあ克服しようよ、と宣ったアゲハに巻き込まれるままに僕は彼女やその友人、次第にクラスメイトたちをその渦の波に交えて電気の実験をしたり、格技場を借りて柔道部のエースと手合わせ願ったりもした。青春というリハビリを一つ一つ重ねていく毎に、僕は少しだけ心が洗濯され、真っ白い光に救われていくようだった。アゲハの打ち出した作戦は完璧だったのだ。
 それでも僕は、そういう細やかな抵抗が一時凌ぎでしかないことを悟っていた。これから何年も、何十年も生きていく。親は勿論、出来た友達もみんな揃って死んでいくだろう。機械は人間と同じ尺度で物事を測ることを許されないのである。僕はカカシだから実質寿命などないし、きっと最後は自分で自分を壊すことを選んでしまうだろうと思った。僕は自分でそうすると確信している癖に、そうなる未来が怖くて仕方なかった。そんな確定しない未来の恐怖を、僕は夕日差し込む放課後の教室でアゲハに吐露した事がある。
 すると彼女は別に何でもないことのように笑った。笑いながら言う、その彼女にしか出来ないであろう返答が今の僕を生き永らえさせる原点となり、彼女が彼女たり、恩人たる所以なのだ。

「――カカシになっちゃったんだしさ、フロッグくんにはもう心がないって考えたらどうかな。そしたら、ちょっとは気が楽にならない? はい、どーんっ。これで心が消えちまったぜ!」

 右手で左肩をとーんっ、と小突かれた。
 その瞬間、ああ、やっぱり好きだなぁと思った。
 だけれども、僕には心がないので、それは偽りの、作られたプログラムなのだろうとその瞬間に考え直した。今でもずっとそう信じているし、疑っていない。恩人のアゲハを疑うのは失礼だし、何より僕自身が疑いたくない。
 心がなくなった僕は、僕を虐めてくる一切の動揺も恐怖も、全てさっぱりと忘れ去ることが出来た。アゲハには感謝してもしきれない。
 なお、一年次に同じくクラスメイトだったバルが僕に急接近し「俺はアゲハが好きだからお前はあいつに近づくな」と的外れな警告をしてきたのは、微笑ましい与太話として処理しても構わないだろう。僕は彼女が好きでも何でもないし、傾国中学校で警告を受けるというマイナーな実績も解除出来たことだし、当初から不問としている。バルも二年開始の頃には引くほどの誠心誠意の謝罪を済ませ、僕とは無二の親友をやっていた。その頃、アゲハは別の誰かを救っていたり生徒会選挙の準備をしていたりして、僕とは以前ほど会話をしなくなっていた。
 バルは、中学の内にアゲハに想いを打ち明けられなかったらしい。高校に入る直前にもなるとアゲハはよく名前を見かける名門高校に入学するために遠くへ引っ越して行き、告白の機会は霧のように消えて失われてしまった。バルはその事を深く、深く、底なし沼のように深く後悔していると、卒業祝いに三年のクラスで行ったブルーハワイ味のたこ焼き屋で、僕にだけこっそり耳打ちしてくれた。
 僕もバルも、今年で二十五になる歳だった。

 ■■■

 バルは中学二年の頃、生徒会選挙におけるアゲハの公認サポーター(推薦者)として活躍していた時期がある。
 担う仕事は主君の宣伝、他の候補者との調整役、支持者拡大を見込めるレクリエーションの企画運営、時間割や宿題スケジュールのマネジメント業務など多岐に渡り、要するに中二の始め辺りという青春における大切な時期を全てその仕事に消費しなければならないという、根っからの縁の下の力持ちにしか務まらない影の世界の大役である(奴隷とか雑用係とか言ってはいけない、彼ら彼女らが好きでやっていることなのだ)。
 カリスマと信念溢れる候補者たちは自身のサポーターを一名しか認定出来ないため、そのポストに就くために熱心な生徒たちが学校の意向や主君らを無視して、勝手に小規模な選挙をあちこちで開催するのだ――昔は殴り合いで決めていたそうだが、今は比較的穏やかになったと言えるだろう。いつかの世代で「そうしよう」と提案した英雄がいたに違いない。そんな高潔なる青春の大戦争を、学校当局側も今となっては実質不可欠なものとして最早黙認状態である。先ほど触れた「生徒会選挙の動乱」の中にはこの前哨戦も第二章あたりに含まれる(だから話すと長くなる……波乱万丈の大長編だ、劇場版が制作できてしまうよ)。
 いくつもの困難がバルを襲ったが、彼はアゲハを支えたいと主張する多数の志願者たちを辛くも打倒し、ただの一つしかないサポート権を見事勝ち取ったのだ。結果はご存じの通り、アゲハは接戦を制し、生徒会長として一年間傾国中学校のリーダーを務めることと相成った。バルの決死の努力は実を結び、選挙後も彼はアゲハとは親しくしている様子だった。
 生徒会選挙本選は真面目に戦い抜いた格好良いアゲハなのだけれど、とはいえ彼女は自分のサポーターを決めるその前哨戦だけは、まるで娯楽映画でも嗜むかのようにうきうきとした、子供みたいな興奮と共に眺めていたように思うものだ――少なくとも、僕の見る限りでは。

「誰が勝っても嬉しいな! 傾国男子箱推しだし」
「グループアイドルかよっ」
「この世の男子はみんなアイドルみたいなものだよ」

 総選挙ならぬサポーター選挙もあることだし、と言って夏制服のアゲハは冗談っぽく笑って額の汗を拭った。
 アゲハのことは一年の頃から憎からず思っていた僕だったけれど、熱血だったり苛烈だったり赤色を連想させるような熟語はそこまで好きではないから、サポーター選挙自体に僕は我関せずの姿勢を貫いていた。そもそも入学が遅れたのもあって全てがマイナスからスタートする僕に、サポーターとして戦える地盤と資格があるとも思っていなかったのだ。
 そうしてどこ吹く風を飄々と吹かしているところに、アゲハが大立ち回りの選挙戦争の息抜きにやってきてくれたことが何度もある。そのたびに弟くん弟くんと可愛がられたもので、僕も彼女の訪問を仄かな楽しみとしている節があった。今にして思えば、僕は敢えて彼女が息抜き出来る休憩所を作っていたのだと思う。

「バルはアゲハのことを応援したい、絶対俺が一番応援したいって言ってた。他の奴らには負けてられんって……俗っぽい言い方になるけど、熱い男だと思う」
「うん、凄く嬉しい。私のサポーターをしたいって言ってくれる人はたくさんいるけどさ、実はね、箱推しとは言っても、私の一押しはバルくんなんだ。バルくんは白馬の王子様ってよりかは、寡黙で誠実な騎士さまって感じ!」
「騎士、か……」
「ん。そういうの、なんか……けっこう、好きなの」

 アゲハはその頬を手のひらで抱いて、僕に聞こえるか聞こえないか、ギリギリのところで小さく呟いた。彼女の目線は窓の外の、運動部の占拠するグラウンドの土にぼんやりと向けられている。そこに、部活に精を出す学生に紛れてバルが大声を出していた――アゲハを最も的確に支えられるのは俺だと、思い切り、喉を壊しかねない勢いで声を張り上げて生徒たちに演説している。確かにその堅実で愚直な立ち回りは、過程と成果両方を重んじる騎士と形容されるに相応しい戦い方だった。

「……あいつが聞いたら慢心するから、言わないでね。絶対、言っちゃダメ」
「あー、こっちこそ誰にも言っちゃダメだからね! 私はフロッグくんを信頼して話してるのです」
「言わないよっ。アゲハの一押しなんて知れ渡ったりしたら、学校中大騒ぎだ」
「……フロッグくんがサポーターやりたいって言うんなら、バルくん抜いて、一押しはきみだったかもしれないんだけどな」

 一年の頃は喧嘩ばかりしていたけど、二年になってからバルは、アゲハを好きになった理由を「いつも人の良いところを見つけて、それを肯定しているから」と僕に教えてくれた。自分がそうされたからではなく、他の人――学校に来たばかりの僕がされているのを見て、その太陽みたいな笑顔を見て、ぽっと、急に恋をしたと思った、そう分かってしまった、らしい。だから青くも若くも猪突猛進で僕に突っかかった。

「いやいやっ、そんな気軽に使っていい言葉じゃないでしょ、一押しって」
「嘘じゃない。心から言ってるの。きみは私の、一押しだよ」

 正直に言えばその燃え上がるような気持ちが心のかなり深いところで理解出来て共鳴してしまったから、僕とバルは因縁と確執を乗り越えて打ち解けるまでに至ったと言っても決して過言ではないのである。
 まあ、何度でも重ねて言うけれど。
 カカシたる僕には心なんてないんだけれどね。

 ■■■

 うだうだと途中経過を話すのも間怠っこしいし紙面を大幅に占拠するのも憚られるから端的に紆余曲折の場面を飛ばしてしまうけれど、アゲハ・アートアサインはその季節の選挙で呆気なく落選した。初夏某日の、晴れた午後四時丁度に、そのように確定された。
 中学時代の生徒会選挙の時と同じように正統派の候補者との一騎打ちかと思われたが、その人はいとも容易く一番星を勝ち取り、アゲハの切り拓いた道を進むフォロワー候補が二着に喰らいつき、アゲハは出馬した選挙区内で三位に沈んだのである――三位から下は落選だ。どんなに僅差の戦いであっても数字のみが真実であり、議員としての権利は剥奪される。
 前回は他を寄せ付けない圧勝だったためにこの結果は驚愕をもって報じられ、僕はその事をバイト先で知った。大蒜チャーハンをバルのテーブルまで運んできた両手が震えて、視線は少し高い棚に置かれている古くさい液晶画面に釘付けになっている。アングラマガジン社という町に密着した編集部を主として、複数の媒体が伝えたという。僕は乱れるはずのない息が不規則に揺れるのがおかしくてすぐに自己診断とセルフメンテナンスを実行したけれど、体のどこにも異常値や損傷は見られなかった。
 超健康体だ。異常ナシであります。

「……そうかよ。これから忙しくなるな」

 同じタイミングでニュースを確認し、真心のこもった大蒜チャーハンを既に食べ終えて片頬を担いでいたバルがそう呟いた。再会して以来時々この女装メイド喫茶を訪れるようになったバルは、冒険心なくいつも初回と同じ、大蒜チャーハンを注文する。共に働いていた同僚たちはあれから大半が(小説の場面のように)飛んでしまったので、毎度の如く僕がデカい中華鍋を振るって作って出していた。
 僕はなるべく微動を悟られないように声を繕う。
 それは当然、アゲハは一番で当選すると信じて疑っていなかったからだ。あのアゲハほどの人物が、他の有象無象の誰かに負けるなんてあり得ないと思っていたから――あり得て良い筈がないと思っていたから動揺するし、それを必死に取り繕うしかないのだ。幸いにも人間ではないため、そういう偽装は得意分野だった。確実にバレていない。

「忙しくなるって、なんで?」
「今回偶然三位でも、アゲハは人気があるだろ。多分しばらくはデモやら暴動の警備とか鎮圧に当たらないといけない……めっちゃ疲れるだろうな」
「どうして、そんなことが起こるの? 法律に則って民主的なプロセスを経て決まった事でしょ? 今さらそんな、そんなさ、終わった事で騒いでも仕方ないじゃん」

 そんなこと、自分でも分かっていた。自明だ。
 しかし訊かずにはいられなかった。
 誰かの声で疑問の、とりあえずでいいから、その解答が聞きたかった。

「人は自分の思い通りにならねぇと駄々こねる生き物なんだよ。特に、他にやることも生き甲斐もない退屈な連中はな……フロッグには分かりにくいか? 屁理屈つけんだよ、票数が操作されただの裏で金の受け渡しがあっただの……阿呆みたいだろ」
「阿呆だね。阿呆すぎる。阿呆すぎて――」

 阿呆梅だ、と二人で同時に言って、二人で同じくらい盛大に声を上げて笑った。「お前、いつまでそのセリフこすってんだよ」――しかし、今目の前で親しみやすい笑顔でふざけているバルも、この町の治安に責任を持つ軍人であることを忘れていた気がする。僕は大人になって更に頼もしくなったバルを何度も見ていたけれど、彼が私服を着ているのを見たことがない。プリティでキュートなこの喫茶の内装にまるで馴染まない鼠色の無骨で物々しい軍服が、違和感として残りつつも僕はそれを違和感として飲み込むのを無意識に避けていたように思う。

「じゃ、てなわけでご馳走さん。ちょっくら上司と対策練ってくるわ。萌えっカス入り大蒜チャーハンはツケで頼む」
「ねえねえ、バルさん」
「バルさん言うなよ部屋中の虫がぶっ死ぬだろ」
「そろそろツケの合計が10000に到達するんですけど本当に払ってくれるんですか? 私とっても心配です」
「杞憂だな。男は大金まとめてカルトンにドーンって置くのが格好いいんだ。覚えとけよ」
「軍人さんは安月給と聞きますけどねっ」
「だ、だからツケにしてんだよ! 分かれったら……今貯めてるの! お金!」

 格好つけようとしてつけきれず、咳き込みながら席を立つバルが滑稽である。

「咳をしながら席を立つ……ふふ」
「俺でしょうもない駄洒落作るなよ……」

 女装しながらの媚び媚びお給仕は貰える対価が十全なので、その点に関してだけはバル・トライストンという無欠の男に勝ったような気がして、我ながら精神が子供だなと思うけれど、少しだけ嬉しかった。ついこの世で最も詰まらないカスのような駄洒落も誕生するというものである。いや、嬉しくない。嬉しくないよ。カカシの僕には心が無いのだから、別に全然これっぽっちも嬉しくなんてないったら。
 というか、女装と駄洒落でバルに勝っても普通に嬉しくない。

「俺、アゲハのことが今でも好きなんだ。だいぶ頑張ったけど……忘れられなかった」
「……え」
「マジだよ」

 背中を見せながら店の出入り口に向かって歩いていたバルが徐ろに立ち止まって、告白した。僕にじゃなく、アゲハに。待ってましたとばかりにバネで僕の両目玉がびよーんと飛び出てきた。僕にはとても高性能な耳が搭載されているけれど、何を言われたのかを数秒理解することが出来ずに、目をかちりとはめ直す間は呆然としていた。間抜けに目玉が揺ら揺れる。
 とてもじゃないけれど、取り繕えていない。何もかもバレバレだ。これではカカシの名が聞いて呆れる。まるで、心がある人間みたいじゃないか。

「あれから、十年も経ってるのに……もう終わった事だと思ってた」
「時間で想いの量は減ったりしない」

 バルは自分以外の何もかもを突き放すような口調で断言する。それが絶対の原則であるかのように、断言した。僕は飛び出た目玉をかちりと嵌め直しながらバルの背に畳み掛けた。

「それがきみの言う人間の恋ってこと? わからないな。人間は簡単に昔のことを忘れちゃうのに」
「ああ、簡単に忘れるさ。でもな、つけ残したケリは簡単にはつけられねぇ。だから今まで引きずっちまった」
「余りにも引きずりすぎだよ。引きずってきたモノ、とっくに擦り切れてなくなってるんじゃない?」
「振り切ろうと息切らして逃げ回ってたら、勢い余って引っ張ってたソレが宙に浮いちまったみたいだ。摩耗ゼロ、新品みたいに輝いてんだぜ」
「……ふーん。実に人っぽい詭弁だねっ。気に入らないな」
「何とでも言ってくれ。俺はこの、超絶未練タラタラで馬鹿みてぇに図々しい自分を、心から誇りに思ってるから」

 胸を張って、しかし力なく笑いながらバルは店の入り口ドアに手をかけてそこで僕の方を頭だけで振り返った。何を言うでもなく「お前なら分かってくれるよな」とでも言いたげな真っ直ぐな目だった――言われるまでもないし、そんな懇願みたいな視線を貰うまでもない。僕は決まった結果に文句をつける奴は馬鹿だ阿呆だと言ってバルの大切な記憶を冷やかした分際で、誰よりもアゲハの落選という決まった結果に不満たらたらで、彼女が今の時代にまで僕の中に残した淡い記憶に縛られ続けているのだ。
 縛られ続け、しらばっくれ続けていた。
 あの女の子――アゲハ・アートアサインの衝撃を、見ない振りをしていた。忘れた振りをしていた。だがバルは一切隠し立てをすることなく、覚えていると断言してみせた。忘れることなんて、絶対に出来ないと――。
 バルはかつて僕の親友だったし、偶然にも再会して確信したけれど今でも親友だった。共に喜怒哀楽と春夏秋冬と東奔西走を共有し、互いの好き嫌いだって容易に言い当てることが出来る。だからこそバルは僕がアゲハの落選でかつて無いほどに動揺しているのが分かるし、それがきっかけで友人のバルにらしくもなく棘のある言葉を使ってしまったことすらも多分見透かされている、と、そんなことまで否応なく僕に伝わってしまうのだ。
 僕はそれをありがたいことだなと思うと同時に、バルに僕の何が分かるのだ、など子供のような反発心が湧き上がってきて、目の前がくらくらちかちかして、体内を巡る潤滑オイルの勢いが速まったり遅まったり温まったり冷えたりした。こんなにオイルの状態が様変わり行ったり来たりすれば翌日の体調に響くこと間違いナッシング。
 そして、バルは僕の目を貫いていた目を少しだけ落として、まるで自分を聞き分けのない子供に置き換えて言い聞かせるように言葉を紡いでいく。僕らは、おそらくは、二人ともまだ子供だったのである。

「あいつを守れるから、俺は軍人になったんだ。ということは、ここからが俺の本領発揮ってやつかもな」
「アゲハがまさか議員さんになるなんて、バルは知りようもなかったと思うけれど」
「パティシエだろうが書道家だろうが、プロ乙女ゲーマーだろうが、俺が身を挺して守ってやりたい。そのつもりで志願したんだよ。あの時も、今も」
「いつか想いを伝えるために? ……叶わないだろ」
「恋は叶う確率で考えるもんじゃないぜ。気持ちの証明が出来るか、否か。それだけ」

 悪いが僕は数学の話は専ら苦手としている。国語ほどじゃあないけれど。
 際限なく入り口付近から僕と会話していたバルもここが区切りと判断したのかようやく扉を開き、カラコロンチョンと特徴的なベルが鳴る。
 この応酬の打ち切りは酷く一方的なもので、僕はもう少し彼との有益な意見交換を引き延ばそうと思ったのだが、感情の、心の分からない僕が何か意見を飛ばしたところで恋の炎に燃えるバルにあっさり論破されてしまうのが関の山だと諦めた。事実僕は彼の語る恋愛論に関してはピンと来ていなかったし、理解しようと努めることも幼くもダサいと冷たく捉えてしまって、気まずい雰囲気の立ち込める幕引きとなりそうだった。
 だからせめて別れ際だけはいつもの親友の距離感でとぼけてみせようと画策し、それで暗黙の仲直りの記念碑を打ち立てようみたいなちょっとした抵抗のようなことを、僕はしようと考えた。

「……バルさま。私はご主人様が食べ散らかしたお皿とテーブルの片付けがありますので、これにてっ」
「ああ、すまん……って散らかしてねぇよ。大蒜チャーハン綺麗に食ってるよ食事マナーには自信あるよ」

 果たして僕の作戦は上手くいき、バルも機微を察し乗ってくれたようで、やはり友達とは良いものだと僕は微小ながらも安心した。潤滑オイルの循環がじゅんじゅんに戻り始めるのが我ながらすんごく単純。じゅん。

「確かに弁当おかず強奪マンは強奪する割には丁寧な食いっぷりだった」
「その件引きずりすぎだろッ⁉」

 僕が「引きずりすぎはお互い様でしょ」とすかさずクリティカルな反撃パンチラインをバルの鳩尾辺りに打ち込むと、そういう種類のツボを的確に突っついてしまったのか、彼は今日一番大きな声で笑っていた。今日どころか中学の頃でも滅多に聞かないほど、恥も外聞もなく腹を抱えて背中を反って。

「わりぃ、フロッグ。しばらく来れねぇかも」

 入口扉の閉まり際、そう聞こえるか聞こえないかの瀬戸際で謝るバルの俯いた横顔が、頭にこびりついてどうも離れてくれない。直前まで場を満たしていた笑い声との対比がなされて、余計に更に、妙に薄ら寒かった。

「……ツケ袋ぶら下げてのお帰り、心よりお待ちしております」

 僕から放たれた文字通り心ないお願いは物言わぬドアの向こう側へ届くことはなく、ぶつかったかと思えば短く跳ね返ってからんと音を立てそこに落ちる。そして墜落地点に「残念でした」と書かれた旗が立ってひらひら舞った。勿論ただのイメージなので深掘りするなかれ。
 バルとの小規模な喧嘩と、その探り探りのおっかなびっくり仲直り。アゲハの熱狂的支持者がこの町で自爆テロを起こす一時間ほど前の、カカシでなくともきっと忘れ難いだろう出来事だった。

 ■■■

 痛い、痛い、許されて良い筈がないと延々呻く木偶の坊が、赤色の血とどす黒い煤にべっとり塗れて店のフロアに横たわっている。左足に深々と突き刺さった割れた窓ガラスが抉り取った腿の欠片が点々と外や中に散らばって色褪せつつあるから、時間の経過具合からして、もう少しで町の軍が到着するだろう。それまでは僕がこの哀れなる男の監視と、周囲の安全確保を実施しなければならない――倒れている人たちの止血し、呼吸がない人には心肺蘇生の手当てを行う。最も効率よく安全に作業に従事出来るのは、人でなしのカカシに他ならない。
 幸い近くの系列店だからすぐ駆けつけられたけれど、この時は男が爆発物を抱えてメイド喫茶に突っ込んだ事くらいしか分かっていなかった。アゲハに絡む事件だとは、まさか思わなかったのだ。

「……よく生きてたね。特攻するタイプのテロリストにしては臆病な末路だ。爆発する寸前で爆弾を放り投げたな? 途中で日和った? 死ぬのが怖くなったのかい?」

 僕は最大限の治療を行ってから、満身創痍の男の近くにしゃがんで彼の鼻をつまみ上げつつ、無感情に質問した。特に馬鹿にしているという訳でもなく、この人間のやる事がまるで理解できなかったから興味本位で純粋に問いかけたのだ。

「乙女ゲームに、栄光あれッ!」
「そんなこと僕は訊いてないよ」
「アゲハさんが、落ちて良い筈がない」
「……そう。で、それがお前がこのお店を襲撃する理由になるのかな。僕にはちっとも理解できないねっ」
「はは。ははははっ。お前、カカシか? ははは、じゃあ、分からなくても仕方ねぇな。はは、ははは」

 カカシだから、分からない。カカシ差別主義者か。阿呆らしい。
 だが、咄嗟に言い返すことは不可能と判断。
 放っておいてもどうせ動けないほど男は負傷しているから、僕は思いっきり男の鼻を引っ張り抓ってから立ち上がり周囲を見渡した。
 店の中は僕の働く女装喫茶と似ている華やかな内装で、一目見ただけでも繁盛しているのがわかる。どうしてかと説明するまでもないが、爆破によって滅茶苦茶になった店内のあちこちにお客やメイド姿の店員さんが生き物とは思えないような形に変形して転がっていたからだ。曲がるはずのない方向に腕が割れ、飛び出た体液と臓器から察するに容赦のない理不尽な火薬の暴力だった。フロアをデコレートしているのはチョコレートビームでも愛のオマジナイでもなく、ひとえに延焼と悪臭である。倒れた背もたれ付き椅子の側に、柄の端がハートに象られたスプーンが落ちていた。今、壁に張られた額入りのメニュー表が燃え終わる。
 それらの惨状を見ても、やはり僕は動揺したが、動揺しなかった。何故なら僕には心がないからだ。心がないなら動揺のしようがない。なのでこの震えも目の前がほんのり赤色に染まるのも機械の誤作動か感覚器官の錯覚で、だから僕は冷静の領域に踏みとどまれる。

「――血の、匂い。酷いね。神聖なるメイド喫茶がめちゃくちゃだ」

 事の発端となったアゲハ・アートアサインその人が少し向こうの方にある入店ドア付近に見えても、僕は冷静に冷静な領域に踏みとどまり、ゆっくりと彼女の方を振り返った。選挙戦のすぐ後だというのに、独りで駆けつけるなんて周囲の意見が許す筈がないというのに、彼女は今ここに居る。そんな心意気と異次元の度胸がやはり好きだった。僕は心臓があるだろう、あったであろう場所がぎゅうと跳ねるのを錯覚と処理しながら口を開こうとしたが、それよりもアゲハが氷みたいに冷たい声を出すのが早かった。

「きみたちがこのお店を燃やしたんだ?」
「違うよ。こいつが……」
「私の落選を、なかったことにしたいんでしょ。わざわざ犯行予告まで送りつけて……でもよー、ちょっとやり方が強引すぎるんじゃない?」

 僕の側に倒れている男が「あれは招待状だ」と汚らしく叫ぶとアゲハは片手で拳銃を構え、こちらを憎しみの血走る目で睨みつけた。

「なんで……アゲハさん、俺はあんたのために!」
「二人とも喋らないで。一歩も動くな。まずはね、聞かせてよ……こんなことして、私がやっほい! って、喜ぶとでも思ったのかな。このお店、友達も働いてたし、なんならその人はお気に入りだし、どうしてくれるのかな。ねえ、そこのさ、顔見えない人って、後ろ姿、その人にそっくりなんだけど、分かるかな。分からないか」

 アゲハの呼気が速まり、頬に力が入るのが僕の高性能な視界カメラに映る。上半身の上下で彼女の拳銃が縦に不規則に揺れていた。
 どうして彼女が怒っているのかは大体理解できるし、僕がかつてクラスメイトで親交のあったフロッグ・拝電だと気づかないのにも納得している――確かに入口付近からでは僕らの顔は認識しにくい。そもそも時間帯的に明かりの乏しい夜だし、爆発の影響で照明が壊れ、暗闇のフロア一帯は人の目では見通せない。僕が人間じゃないから対応できるだけで、人間のアゲハには酷なことだ。十年前のクラスメイトの声だってこんな状況で今すぐ思い出せるものでもないだろう。
 僕は犯人の男の腹を思いっきり履いていたヒールで踏みつけて悶えさせる。彼の言葉は今は所詮雑音でしかないし、アゲハに無闇に怖い思いをさせたくない。

「分かんないよね……私のこと応援してくれるなら、分かってて欲しかったけど……悔しいな。自分のことを皆に伝えきれなかった、自分が情けなさすぎる……」
「アゲハ……」
「喋らないでって言ってるでしょ!」

 興奮したアゲハが発砲し、僕は左手で飛んできた弾を弾いた。甲高い音が緊張の音を奏でる。

「……! カカシ。きみ、カカシだね。服もよく見たら、メイド服? じゃあ、メイドのカカシさん。お店に内部犯? 協力者が居た? いや、主犯が潜り込んでたってことか」

 こういう時々、自分が化け物になって良かったと思うことがある。もしもあの時拐われていなかったら僕は人の体のまま悠々と生きて、何ともなしに気怠く命を使い潰し、適当に安定した職に就いて寿命のタイムリミットが来ることを恐れすらしなかっただろう。だから多少傷は付くけれど、銃弾を食らっても人と違って痛くないし、修理さえすれば治癒も早い体は便利で、僕に新しい価値観を与えてくれた。
 でも今になって、体じゃないどこかにどんどん新しい傷が付いていく気がするのは何故だ。

「……アゲハに、銃は似合わない」
「なに……使わせたのが誰か分からないの?」
「アゲハは、銃なんて撃たないっ……相応しくない! そんな姿、見たくなかった……!」
「それはきみが定義することじゃないでしょ。私自身が何をどうするかで私が決まるの。きみの中にしかない歪んだ虚像を投影しないでほしいな」

 カカシになったから僕は日々を精一杯生きれているし、如何せん体が丈夫だから色々な仕事に挑戦出来る。いずれ必ず訪れる友達の死に怯え、会える時にきちんと会って楽しむし、たまには慣れない煮卵ラーメンだって付き合ってみせよう。心はもうなくなってしまったけれど、なくなったからこそ他のみんなの心を見つめることを止めないし、みんなに降り注ぐ火の粉だって積極的に払ってあげたい。あの日アゲハが僕にそうしてくれたように、誰かの心を救って、安らかに人生を過ごしてほしい。誰かが何かを成し遂げようとしているなら、応援したい。
 それは傾国中学校で生徒会長を務め、大人になってから議員さんになったアゲハの生き方そのものだったし、だから今の僕を作ったのは紛れもなくアゲハだった。何も分からなくても、分かってもらえなくて残念がられても、それだけはずっと僕の中で分かっているつもりだった。
 人間じゃないから、そうやって割り切るしかなかった。

「いい? 私は落選したの。それが決定事項だし、多分きっとそうなる運命だったんだと思うのよ。ただの私の実力不足。それを見ず知らずの誰かさんの暴力で覆すとか、私のやり方じゃないんだ」

 アゲハは一息を吸い込み、自分をひとまず言葉で定義する。恐らくは、今後はそれを行動で定義していく。

「私の意志を勝手に代弁するな。私を、人殺しなんかで語るな。私がこういうの嫌いだって、忘れちゃったの?」
「僕が、アゲハを忘れるかよ……あなたのことを忘れたことなんて、まさか一度だってない」
「いいえ、きみは私のことを知らない。理解度が全然足りないよ……覚え直して。本当の私を、ちゃんと」
「――――」
「初めてまして。アゲハ・アートアサインといいます。ちょっと気が早いかもだけど、次の選挙での当選目指してます。私のこと、これからは忘れないでくださいね」

 何が初めましてだ、何が忘れるなだ、なんて僕が柄にもなくイラッときてしまうくらいそれはあり得ない仮定だった。昔からずっと変わらないアゲハが今でも変わっていないと知れるだけで僕は嬉しいくらいなのだから、今更覚え直せと言われても本当に今更で噴飯ものだ。僕は知っている。彼女が「この世の男子は皆アイドル」と断言するような最高の女の子であることを知っている。いや、今は女性と言ったほうが良いのか、と思案したところで僕は急に視界が黒に染まり、システムダウンした。

「――誰かが居なきゃ自分を定義できねぇ奴は嫌いだ。だから俺はメイドって存在が大っ嫌いなのさッ!」

 足元の男が僕の右足に無理やりウイルスパッチを接続したことが原因と知れるのはそれから数日後、目覚めてからことである――理由はちっとも分からないけれども、油断大敵也。敵性ウイルス一つで一転致命傷とは、無敵に思えるカカシにもきちんと脆弱性があるのだなと思った。
 心がない、の次に、致命的な弱点である。

 ■■■

 特段死んでみたくはないが、もしも僕が死ぬ運命ならばそれでも良いと思っていた。それが決められた不変の結末なのだと、世界に、町に運命づけられているとしたら僕はそれに文句は付けないし、さながら従順なメイドのように恭しくも自らの死を受け入れていただろう。
 今回は偶然にもそうはならなかったようで、僕はベッドの上で再起動を果たし、側の窓から差し込む陽の光に目を眩ませた。いや、ベッド脇で座りながら眠りこけているアゲハの寝顔が筆舌に尽くしがたいほど美しかったから、それに見惚れてそう思っただけなのかもしれない。駆け寄ってきたお医者さま(正確にはカカシ技師)に教えてもらったけれど、アゲハは僕が目覚めるまでひと時も欠かさず、お花摘みの時以外はずっと側に居てくれたらしい――目が覚めた時、誰かが居ないと寂しいだろうから、と。修理費用も機体維持費もまとめて、彼女が支払ってくれたと。
 だからそれを聞いた瞬間、死ななくて良かったと、自分の一つしかない命を精一杯ぎゅーっと、ぎゅーっと抱き締めた。死んでも良いとは思っていたが、誰かが大事に思ってくれるなら僕は壊れる訳にはいかない。僕の命なんて誘拐されてカカシに改造されたあの時に一度失ったようなものだから、今は不自然な生を歩まされているに過ぎないのだろうけれど、ガタガタの道程を歩むこんな僕を好きでいてくれる人がいるのなら、自分のためではなくて、その人のために生きてあげなきゃと思った。でないととても不誠実だ。不誠実な生き方というのはアゲハの真逆みたいなものだから嫌いである。

「まさか、あの凶悪なコンピュータウイルスを抜いてもらえるなんて……僕は幸せ者だな」

 カカシは体に自分では直せない不調が起こっても、町の公的な支援を受けることが出来ない――扱いとしてはあくまでも機械で、壊れたら捨てればよいという認識なのだ。だから、カカシを直せる技術者は医院を持っていたとしても、一人残らず独学でカカシ弄りを覚えた闇医者である。つまりいちいち患者の身元を確認したりしないし、希望がない限り親しい人に連絡を入れたりもしない。カカシはフィジカルこそ強いけれど、誰か優しい人が居ないとすぐに孤独になってしまう、とても脆い生き物なのだ。

「――男の子を攻略するのには、時にお金が必要になるの。私はそのためなら出費を惜しまない! 攻略させていただくのだから、私は見合った対価を差し出さないとね? いえ、出来れば見合う以上のものをお出しするべき! きみもそう思わない? 思うよね!」

 再起動した僕をあの頃と全然変わらない勢いのまま連れ出したアゲハが向かった先は、いつかバルにも連れて行かれた名もなき煮卵ラーメンの屋台だった。

「ここ、アゲハも行きつけだったのか」
「好きなの。味が昔からずっと変わらなくて良い!」
「ふーん。好きな人多いんだね」

 路地と路地に囲まれた屋台付近は影になって人気がなく、日の出ている時間というのもあって、以前夜にバルと来た時とはまるで受け取るイメージが違う。活気がなく、厳かにしんと清らかな空気を漂わせる屋台は出迎えた僕らに着席するよう語りかけているような気すらした。店主の親父もどうしたのだ、そんなにキリッとしちゃって。何故気取ったサングラスをかけて無口になっている。そんなアイテム一つでハードボイルドになれるなら、特徴的な掛け声一つで僕の働く女装喫茶が繁盛したって良い筈だろう。浮世はとっても世知辛いものなのだぞ。

「貯金ならあるから心配しないで。ここの煮卵ラーメンは最高だよ! 私のお金で食べまくっちゃって!」
「それ、政治家としてなんらかの違反にならないの?」
「バレなきゃいいの。それに、命の恩人にお礼が出来なくなるくらいなら、私は政治家じゃなくなってもいい。もちろん、この後軍の人たちにも差し入れ持ってくよ。……あ、私たちが食べに来たことは秘密でね、マスター?」
「ああ――約束は、守るぜ……」
「マスターて。渋い返事だな。どっちかと言えば夜のほうにそのキャラでいるべきでしょ。この前の景気が良い人物像はどこに落としてきたの」

 アゲハは僕を恩人と言うけれど、実際にテロリストの男からアゲハを助けたのは僕がシステムダウンした直後に到着したらしい町の軍で、その隊列の中にはデモ対策を上司と練っていたバルも居た筈だった。
 僕じゃなくて、バルこそがアゲハを身を挺して守った。察するにバルはあのメイド喫茶の店先で、アゲハと正面から再会した筈なのである。
 席について暫しして、僕らの前にやはり煮卵ラーメンが用意された。アゲハがオススメだと言うから、僕は食べればアゲハの事が少しでも分かるかなと思って、そんな薄い望みに賭けて食うことに決めた。相変わらず気味悪い量の煮卵が麺すら覆い隠して(煮卵の黄身と掛けた訳ではない)、丼の底が見えない。そう言えばバルの時も似たような状況だったなと思い返し、おい、この屋台は罰ゲーム会場か何かなのか、僕に夥しいほどの煮卵を食べさせて誰か喜ぶのかという順当な愚痴が口をついて出そうになったけれど、でも、まあ、万が一誰かが喜んでくれるのなら、なんとか我慢して食ってやろうと思わないでもなかった。僕は優しいカカシであろうと日々努めている。アゲハならそういう風にするだろうから。
 ずるずる。うええん。やっぱり不味い。この際はっきり申し上げるが余りにも不味い。不味すぎる。阿呆不味い。不味すぎて阿呆不味だ。アゲハがオススメだと言うから食べるが、やっぱり僕の好みとは全くかけ離れている。

「改めてになるけど……ずるずる。一昨日は誤解しちゃってごめんなさい」
「ずるずる。仕方ないよ。あの暗闇で推定テロリストに立ち向かうなんてのは、生半可な勇気じゃ出来ないことさっ」
「あれは元はと言えば私の責任だからね。でも私、あんなにシリアスな場面で、こう思ってたんだ」
「え。なになにっ。ずるっ」
「やば、萌え。メイド服ロボット男の娘テロリスト。ずるるー。結構属性的にはアリかも、攻略したい、って」
「そんなことあの場で声に出されてたら読者はみんなそこで本を投げただろうね。そして二度と読み出さない」
「私が私たる生き様を見て離れていくなら止めないよ。じゅるるん。私は絶対に、この生き方を忘れないから。忘れちゃうくらいなら死んでやる」
「……死なないでよ。悲しいから。ずる」
「生き方を忘れて、それで生きてるって言えると思う? よっぽどの事がない限り呼吸の仕方は忘れないから、ずるずる、それでかろうじて生きてるだけって人も世の中には結構いるのよ……拝電町のために働くようになって、そうだと知った。ごくごく。私みたいに強く生きられる人は、実はそんなにいないんだって、知ったの。ずるんちょ。ぷはー」

 スープごと煮卵を口に吸い込んでいくアゲハは丼の模様を見つめながらそう言った。
 メイド喫茶で働いてきた彼女の知り合いは無事命を拾ったらしく、今は人間用の病院で安静にしているとのことだった。重傷者、死者は出たが爆発を伴う店舗襲撃にしては被害は奇跡的なほどに少なく、これは迅速に現場に到着してテロリストと相対した元町議員アゲハ・アートアサインと、軍人バル・トライストン二名の手腕によるものが大きいとされている。アゲハはその報道で僕の存在が取り上げられていないことに不満を持っているようだった――メイド服を着ていたからそれが迷彩になって、結果的にただの被害者に間違われたのだろう。でも、僕はこれで良いと思っている。目立つのはアゲハの勇気と、バルを含む軍の活躍だけで良い。
 世間がそのことを忘れなければ、それで良い。
 アゲハには支持が集まり、バルは英雄になれる。

「ところで――あの、ちょっと相談したいことがあって」

 僕は暗闇からそっと、二人のことを見守っているから。

「相談? なんでも言ってっ。アゲハが僕を頼ってくれるなんて嬉しいな」

 これからはもうちょっと離れたところから、二人の夢を応援しているから。

「私の中学のクラスメイトに、バルって男の子がいて……その人が、話題の軍人さんなの」

 そこに僕がいても、雑音になるだけだ。

「きみと同じくらい、昨日助けてくれたんだ。中学の時けっこう仲良くてね、十年ぶりに再会したっていうか」

 アゲハにも、僕やバルと同じ十年の月日が流れている。十年は、重い。彼女は中学時代を遥かに凌駕する量の悲喜こもごもの思い出を積み上げているのだ。
 僕以上に仲良しなカカシだっていたかもしれない。傾国中学で生徒会長をするよりも楽しくて充実した青春を過ごしたのだろう。僕やバルと別れたあの冬よりも、わんわん泣いた夜があったに違いないとも。そんな日々の中で、中学時代からずっと変わらない生き方で男子に関わり続けていれば、その星の数ほどの顔や名前を一つ残らず覚えておくのはとても難しいことだと思う。
 彼女は人間だから、忘れる。カカシと違って。自然だ。当然のことだ。あのアゲハであっても、当たり前。僕も数え切れない星の中の一人だったというだけ。

「落ち着いた後に話しかけてくれて、やっと思い出せたんだ。再会を祝してせっかくだし、これからお食事に誘おうと思うんだけど……どこのお店がいいかな? オススメあったら教えてほしい! その、えーと、失敗したくないからさ!」

 なんだ。意外と脈アリ? それとも昨日僕が想像できないほど格好良いところを見せられたのかな。どちらにせよ良かったじゃないか、バル。案外、一途に想い続ければ届くものなのかもしれないね。

「どこでも彼は喜ぶと思うよ。アゲハほどの人から誘われたらどんな堅物でも滝のような涙を流して歓喜する。強いて言うなら、うーん、軍人さんでしょ? 食べ応えのある大蒜チャーハンとか、好きなんじゃないかなっ」

 実のところ病院で一言二言アゲハと話したときから、僕のことを忘れている――或いは僕を僕だと分かっていないというのは、薄々、というかめちゃくちゃしっかり察していた。よって僕は考えうる限りの理論と考察と分析を行い、どうしてこんな事になってしまったのか納得出来るように努力し、そして最終的に納得した。納得してみせた。納得したのだから僕は一切動じたりなどしないし、アゲハがどれだけ時の流れに伴って膨れ上がった残酷な現実を見せつけてこようと、もう大丈夫である。
 何故なら僕は、中学時代にアゲハが定義してくれたように苦しいこと、辛いこと、悲しいことで傷付いてしまうような心をなくしてしまえたからだ。そうに決まりきっているから、そう思えば、もう大丈夫。
 こんなの、僕じゃないときっと耐えられないよ。

「なるほど、ガッツリ系ね! でも大蒜チャーハンだなんて、ずいぶん狭いところまで絞ったね」
「僕は心がない機械だから馬鹿みたいに正確な分析が出来るのさっ」
「え、カカシさんって心ないの? 初耳」

 僕には心がない。でも、僕は忘れない。

「うん、ないよ。昔そう言ってくれた偉人がいたんだ」
「へ〜そうなんだ〜」

 僕は、悲しいことを絶対に忘れられないけど、嬉しかったことだって、絶対の絶対に、忘れない。

「少しは参考になったかな」
「うん、これで攻略が捗るよ。ありがと! えーと……」

 アゲハは僕の横顔を覗き込んで両手の指を合わせ、ちょっぴり申し訳なさそうな表情で言葉を詰まらせた。斜めに被せたミニミニシルクハットが更に角度を増して傾く。その無言で、音にせず、可愛らしくて品の良い質問の仕草に思わず吹き出してしまった。

「……ハネミー・拝電と申します。今は制服着てないけど、影から大切なご主人さまをサポートする、とっても優秀なメイドだよ。名前だけでも覚えて帰ってねっ」

 蛙がぴょこぴょこハネミーって、今度はいつまでもいつまでも、出来る限り覚えててくださいね。ぴょこん。

「ハネミーくんね、覚えた。きみのことも、今度攻略させてよ」
「やめときなっ。下手に触れると火傷しちゃうんだぞ」
「あはは、なにそれー。絶対投票させてやるからなぁ! このこのーっ」

 どうして僕が正体を明かさないのか疑問に思われるかもしれないから先んじて理由を言っておくと、これはバルへの恩返しなのだ。
 だって僕がフロッグだと分かったら、バルを抜いてアゲハの一押しになってしまうかもしれないだろう。つまり彼女が気付いていないのはむしろ好都合なのだ。そうだ、そう捉えられる。例えば正体が明かされたとして、僕の存在がアゲハの気持ちを引っ張ってしまい、いつか敢行されるバルの一世一代のプロポーズが成功しないかもしれない。そうならないよう、念の為ここで身を引いておくのが気遣いの出来て賢く、アゲハに言わせれば攻略したくなるような格好良いイケメンだ。
 まあ、僕は格好良いというよりかは可愛い系の顔立ちなのだけれど。あ、そこ、自惚れてるとか言わない。
 煮卵ラーメンを食べ終わってからは特に目立った会話もなく、終始にこやかな雰囲気だったアゲハとの逢瀬は終わった。名前以上に連絡先や職場なども訊かれなかったし、これから二度と直接会うことはないだろう。アゲハが太陽のような人なら、僕は太陽から何億光年も離れたところにいるちっぽけな、学名すら付けられていないような名もなき星で良い。彼女が明るくやってるのが遠目から眺められれば、それで構わない。軍の詰め所の方向に向かって狭い路地から大通りへ抜けていくアゲハの足取りと小さな背中を見えなくなるまで見送りながら、そう思っていた。
 そうして僕は世話になった女装喫茶をひっそりと辞めて改造メイド服も修繕・洗濯して返却、また色々な職を転々とするいつもの日常に戻った。特別な結末とか興味深い顛末とかでなく、単にいつも通りの毎日に。あの二人には決して接触しないよう、それだけは気を付けると決めて、ゆっくりと、時間をかけて僕の日常に戻っていった。
 後戻りは、しない。
 心がないと言えど、生き方の選択とその決断には、大変に時間を要するものである。

 ■■■

「どうしてこうなった。僕が何をしたってんだ」

 人生、そしてカカシ生で初めて袖を通すクラシックな風貌のメイド服のごわごわした感触が落ち着かず、銀河みたいに目を輝かせてカメラのシャッターを切りまくっているクラスメイトたちになるべく怖そうに悪態をついてみるが、全く相手にされていない。何が「怒ってるフロッグも可愛い」だよ。彼ら彼女らにとってレンズと液晶越しに存在する今の僕はただの可愛いメイドさんであって、苦楽を共にしてきた友人ではないのだ。文化祭期間中――これから二日間も――本当にずっとこんな格好で学校中、どころか町中からやって来る誰かを接客しないといけないのか。

「ほら、決め台詞言って! 録画するから!」
「……おいしくなぁれ。萌え、萌え、きゅんっ?」

 僅かばかり残っていたサービス精神を駆使してアドリブでポーズ(両手でハートを作るあれだ)も加えてみたが、それきり開会式前の2年6組教室には神妙な空気が漂う。コスプレメイド喫茶の出し物の為に飾り付けられたキュートな装飾がむしろ場の熱を丁寧に取り除いていき、窓から入ってきた秋の涼風に乗って、三十ほどはある冷ややかな視線が僕のおでこに突き刺さった。
 と感じていたのは僕だけのようで、女の子たちは真剣に僕の決め台詞を脳内で味わっていたらしく、なんなら男子共も似たような甘酸っぱい煩悶を心の隅へ追いやることに必死だったそうだ。曰く、そこに言葉など生まれず、在るのはただ声に表せぬ感情のみ。カカシになって一年以上が経過し心を完全に消失させた僕にとって、それは理解からは縁遠い現象だった。さて文化祭後、僕のあざといオマジナイが収録された記録媒体を巡って天下御免の学内戦争が勃発しいつの間にか終結した、誰が勝者かは知らないと友人の一人から聞いたけれど、流石に正気を疑う。傾国中学校の生徒たちは変なところで元気が良すぎるのである。

「阿呆どもめ。阿呆すぎて、阿呆梅だね」

 元々主力メイドとして接客を担当する予定だったクラスメイトが発熱で欠席すると連絡があり、それが文化祭一日目の朝だったことが災いして、クラス一同で緊急会議が執り行われた。何名か代役の候補は挙がるものの決定打に欠ける印象が拭えず時は過ぎるばかりだったが、女子の一人が忌々しいことに「この際フロッグが一番メイド服似合うんじゃない?」なんてふざけた提案しやがった。彼女だって本気で言った訳ではなく、煮詰まる会議の陰鬱な雰囲気をほぐそうとしてくれたのは僕だって分かっている。そのひとつまみの冗談を真に受けて本人そっちのけでクラスが大盛り上がりしてしまったことについて、発端の彼女に責任はない。それはそれとして、勿論凄く恨んでいるのだが。彼女も最初こそおろおろしていたが、少ししたら何ともないような顔で「先生に許可取ってくる!」と嬉々として駆け出す始末である。この一連の流れにおいて、僕は一度だって発言していない。出るのはただ、悪魔の呻き声と間違われても仕方ないような低音のため息だけだった。
 そうして僕はコスプレメイド喫茶でご主人さまに付け焼き刃のご奉仕をする羽目になり、通販で用意したと思われるごわごわメイド服を採寸・丈合わせして着用、2年6組の出し物を代表する奇天烈な文化祭がいざ開幕した。特別な事態とか興味深い過程とか最早そのような段階にはなく、単に物凄くおかしな状況の完成である。そうだ、あの二人には決して接触しないよう、それだけは気を付けると決めて、ゆっくりと、クラスメイト以外の誰にも見られないよう確実に更衣スペースに――。

「――やぁやぁ来たよ2年6組! さぁて、私の愛しのフロッグくんはどこだ! いたあああああああ!」

 びよーんと飛び出る目玉。そしてすぐに嵌め直す僕。

「や、やぁ、アゲハ、さま。お、お帰りなさいませ……ですっ」
「キュン! な、なにそれ可愛っ……や、ちょっと待って、ちょっと、だめ、刺激強っ……思ったより、フロッグくん、可愛すぎ……」
「せ、生徒会長が倒れたぁ⁉ 前代未聞だ! おいお前、早く萌え萌えなご奉仕をして差し上げろ!」
「えぇ⁉ えっ⁉」

 アゲハ親衛隊の一人に急かされ、僕はどうにでもなれとアゲハを抱きかかえた――いわゆるお姫様抱っこ、というらしい持ち方でお席へご案内する。いくら中学生の女の子と言っても羽のような軽さではないから、運ぶ間は両腕にずっしりとした人間の重みが感じられた。
 推測になるが、きっと彼女が倒れたのは演技で、さっきの親衛隊の男子もこのシチュエーションを作り出すために茶番を任されていたのだろう。

「あの、フロッグくん……割りと、恥ずかしい。かも」
「せっかくだし楽しむといいよ。なんか、いつにも増して凝ったギミックだよね。アゲハが仕組んだんでしょ?」
「え、えと。まあね」

 アゲハの曖昧な返答を聞きながら、教室の奥の方の窓際にあるテーブル席にアゲハを持っていく。
 一歩歩くたび、アゲハの甘い香りの髪が揺れて胴に当たる――「ん」。一歩進むたび、少しずり落ちそうになる四肢を抱き直す――「うっ」。一歩ずつ一歩ずつ踏み出すたび、アゲハの脈拍と体温が、空気や肌を通してじんじんと伝わってくる――「んん」。

「温かいね」
「ひゃっ‼ な、なにが?」
「アゲハが。僕の体は冷たいから、羨ましい」
「そ……そう、かな……あはは」

 教室の入り口からテーブル席まではそこまで長い距離ではないため、僕はなるべく迅速にアゲハを下ろして席に座らせ、メニュー表を前に置いてやる。もうこうなったらとことん最後まで付き合ってやろうと思った。後は野となれ山となれの精神で、誠実に忠実なるメイドとして、傾国の生徒会長殿をおもてなしして差し上げるのだ。

「こうやって面と向かって話すのは久しぶりかな。生徒会選挙あったし、二年になってからはクラスも分かれちゃったもんね」
「そうそう。弟くんに最近会えてないなーって思ったから、恋しくなって来ちゃったよ!」
「そういうのはいいの。生徒会長として、全店舗の運営が健全かどうか視察しなきゃなんでしょ? 不健全極まりなさそうなメイド喫茶は栄えある一店舗目って訳だっ」
「……えへへー、バレちゃった?」
「よく分かったじゃねぇか。流石はフロッグ」

 知った声がしてそちらを向くと、同じく二年になってクラスが別れたバルがいた。選挙をアゲハと共に戦い抜いたバルは彼女の相棒というか、それこそお付きの騎士さまのような立場で支え続けている。今も会長職の補佐を買って出ているところなのだろう。僕も険悪だったバルと二年になってから和解し、クラスは違えどよく雑談など話す仲になっていた。
 彼は近くのテーブルから椅子を引っ張ってきてアゲハの隣に座ると、メニュー表に目を通し始める。

「えー。僕、バルの接客もしないといけないのかぁ」
「なんで嫌そうなんだよ⁉」
「ただでさえメイドなんて嫌々やってるのに、知り合いに目撃されると噂がどんどん広がって、更に知り合いがやってきて、歯止めが利かなくなるんだろうなって。僕、大勢に辱められちゃうよぉ……」
「無駄に色っぽく言うなよ。そういうとこだぜ……だからみんなお前を玩具だか着せ替え人形だかみたいに扱うんだ」

 これでも入学当初より僕はずいぶん明るい性格に変われたと思っているから、実のところ、今のクラスでの扱われ方自体に不満はなかった。一年の頃の僕はどんよりと根暗で、声を掛けることすら恐る恐るでないと出来ないような目つきを持っていたと思う――それに比べれば、今はとても愛されていると感じる。心がなくても、それくらいは分かる。だから今の僕を作ってくれたアゲハと、声を出す機会を与えてくれるバルにはとても感謝していた。
 いつか二人には、恩返しをしないといけない。

「……嫌々でなんて、勿体ないよ」
「勿体ない?」
「フロッグくん。めっちゃ、メイド服似合ってる。何回でも見たい。出来れば、いつまでも見てたい」
「……えーと、そっか。えへへ。ん、いいよ、好きなだけ見たら良いじゃないか。ほらっ」

 僕はくるりとその場で一回転して、膝丈スカートが丸くふわりと浮き上がって遊園地の遊具みたいに踊った。ローファーで華麗なターンを決めてやると、関係ない周囲から感嘆の息と疎らな拍手が聞こえる。アゲハは僕の所作をふむふむと博士とか専門家みたいにじっくり観察するようにしてから、やがてお付きのバルに水を向けた。

「バルくんもメイド服似合うんじゃね説ある」
「な、なに言ってんだアゲハ! 馬鹿、俺には無理だ、ぜってぇ似合わねぇ」
「そんなことないよ! ねぇ、一回でいいの、着てみない⁉ お願いお願い! バルくんはね、ギャップが良いスパイスになると思うの! 絶対着そうにない点こそがまさか着ていることの爆発力といじらしさをぐんと底上げするっていうか! ねぇ着てよ、お願いバルくん! くそ、生徒会長の命令が聞けぬのかー! どりゃー!」
「職権乱用! 職権乱用パンチやめろー!」
「傾国中学の生徒会長にそんな職権はないよ……」

 僕がなにかアクションを起こすまでもなく勝手に乱痴気騒ぎを起こし始めたアゲハとバルにほとほと呆れてしまったから、僕は一応は客である二人を無視して更衣スペースに戻ることにした。勢いに流されてしまったが案の定僕にメイド役の仕事は務まらないし、てんで接客をこなせる気も湧いてこない。今からでもコミュニケーションが得意な女子に代わってもらおう。そう考えていた背中を――「フロッグくん!」――アゲハの軽快な呼びかけがちょいちょいと叩いて、覗き込んでくるようだった。
 好きになりそうだった。
 心がないから、紙一重で、惚れなかった。

「また、午後に一人で会いに来るから。それまでお仕事頑張ってね。……もしかして、もう今日はシフト入ってない?」
「……いや。向こうの方に、忘れ物した気がするだけ」
「そかそか。じゃ、楽しみにしてるから!」
「アゲハ、その時は俺も一緒に……」
「バルくん文化祭中だけサポーター解雇」
「え! な、なんで⁉」
「メイド服着てくれなかったからでーす」

 なんとか暴れん坊の二人の接客を終えて、しばらく迷ったけどアゲハの期待を裏切るのは申し訳なさが勝つので、僕はメイド服を着続けた。他にも何組かのお客を相手したりオマジナイの手際も滑らかになってきたりして、なんとか形になったおもてなし技術を見せつけてやろうと一時、二時、三時とアゲハを待っていたが、彼女は結局僕のクラスに再び現れることはなかった。
 傾国中学はご存知の通りパワフルな学校だから、あちらでトラブルこちらで想定外、しっちゃかめっちゃかのあれこれを鎮めるためにアゲハは引っ張りだこだったらしい。それは二日目も同じで、今度は朝から他の中学の生徒たちが大群で何が目的かよく分からない武力介入を仕掛けてきたが、アゲハはたった一人で傾国の文化祭を守りきり、校舎内に一切騒動の気配を悟らせなかった。これは明確にアゲハの悪癖だが、独りよがりすぎるのだ。全部、自分で背負おうとする。
 僕はなんだか校舎が若干揺れるな、くらいに思いながらお給仕をしていたが、閉会式が終わってから、何も知らずに悠々お祭りを楽しんでいた自分を恥じた。バルは、僕以上に自己を責め、落ち込んでいた。

「……『営業実態、問題なし。出店許可』」

 二日目の昼に教室に届いた書類にでかでかと押されたハンコと、それに添えられた手書きのサインを教室の片付け中に見て、僕はやれやれと独りごちる他なかった。でも、こんな滅茶苦茶なアゲハを誇りに思う気持ちに嘘はなかったと思う。確信はないけれど、そうだと信じている。
 僕は彼女の端正なサインの横に小さく描かれた、頬を赤らめた女の子をお姫様抱っこしているメイドのイラストを、そっと親指でなぞって笑う。
 わざわざ描かれずとも、あんな楽しい思い出忘れるもんかっ。

傷心メイドの引き際

執筆の狙い

作者 辛澄菜澄
KD113148223125.ppp-bb.dion.ne.jp

人間と、人間そっくりなロボットの関わりが好きです。今回は「忘れ物」というテーマで、めちゃくちゃ切ないお話を目指して書きました。

人は忘れっぽいので覚えてないかもしれませんが、あなたの過去の、その場に居た誰かが実はロボットだったとしたら、あなたの忘れた何もかもを、きっと覚えているのでしょうね。

コメント

青井水脈
softbank114049139127.bbtec.net

読ませていただきました。
バル・トライストンとフロッグが二人連れで、屋台でラーメンを食べるシーンから物語が始まる。彼ら、特にバルは、煮卵を乗せただけのシンプルなラーメンについて店主と熱く語り合う。
彼らは中学時代の友人で、およそ十年振りに再会したのだ。フロッグが人間からカカシになった経緯は小出しに、のちほど過去に遡って明らかになる。

>鼠色の軍服姿で短髪に刈り上げた屈強な青年が、フリフリのフリルが踊る改造メイド服をめかしこんだ僕という男型カカシに偽りの奉仕を受けている。
このようにコミカルに幕が開いて、
>アゲハ・アートアサインは拝電町議会に一席を持つ若い女性政治家であり、
二人の中学の同級生で、バルの想い人であるアゲハという女性が登場する。それから町の議員選挙、選挙結果に端を発したテロ事件などと話は進みーー。


阿呆な町ということですが。舞台は拝電町なんですよね。確か、喫煙する紳士とアンドロイド(サイボーグ?)が出てくる話が面白かったことを思い出します。変わった町だけど、個性的な人々の町という印象で。
今作は、最後まで読んで色々わかると、練られたストーリーと思いました。しかし大抵の読者は、はじめの方で脱落するかもしれない、わかりにくいと言われるかもしれない。設定が、はじめのうちにスムーズに伝わるといいのですが。


傾国中学での生徒会選挙、文化祭。これらの出来事が、それぞれの今に繋がっているというイメージで。

>彼女は人間だから、忘れる。カカシと違って。
テーマは「忘れ物」フロッグには大事な思い出も、人間には忘れられていく、ということなら、切ない感じーー。人間と、いわゆるロボットの違いなど考えさせられました。


>左隣の席に座って両腕で頬杖を付きながら、皺一つない鼠色の軍服を着たバル・トライストンが、徐ろに屋外屋台の店主に訊いた。
>夜と影の重なる部分に灯された屋台の明かりの中、
屋台イコール屋外のイメージがあるので、屋外屋台は冗長な表現かもしれません。屋台とだけ書いて、外にいることがわかる表現を前後で書き足したらいいと書くつもりでしたが、それは既にありますね。「夜と影の重なる部分〜」で。

青井水脈
softbank114049139127.bbtec.net

辛澄さん、この機会なので5面、作品リスト5にある「モーニングを私に」も読ませていただきました。当時も(コメント欄にも)目を通していて、流れは把握していましたが。
>そう言えば、一度はちゃんと死んだから仕事も当然殉職扱いで、名前も職員名簿に残っていないだろう。またこれからこの町で生きていくためにも職を探さなければならない。
8年間の昏睡の末に目が覚めた、でなく。一旦亡くなって8年間そのままで、蘇った。どうも、設定として受け入れにくかったというのか(すみません)

それで、こちらも排電町なんですよね、ハイパーインフレに見舞われていたとか。一度、シリーズとしてまとめられたらいいかと。簡単に、地図(中心部、東西南北のエリアに分けて、何処がどんな町とか、◯番街とか区画を設定したみたり)を書いてみたりも。

中村ノリオ
flh2-122-130-109-65.tky.mesh.ad.jp

読ませていただきました。

序盤は自由な雰囲気があって、カカシになって女装メイド喫茶に勤める主人公とかピョーンと目玉が跳び出るところとかユニークなギミックでメリハリがついているので楽しんで読めました。
中盤は自由さが冗長に流れているようで退屈を感じ、終盤は持ち直した印象です。
読んでいてどうもネジ回しが欲しいというか、会話やエピソードを整理してストーリーラインをハッキリさせたらもっといい作品になるんじゃないかという気がしました。
テロリストがどうとかは主軸のストーリーに比して強すぎるエピソードで、バランスを崩してしまう恐れがあるからいらないかも。

ロボット化して心のありかがあやふやになった主人公の女装倒錯とかは書いた人がいないんじゃないかという気がしますし、友人は記憶が薄れていくのに主人公だけは鮮明に覚えているというのも面白いテーマです。
かなりいい作品になりそうな要素がある。でも踏み込み切れていないように見える。もどかしさを感じた作品でした。

辛澄菜澄
KD113148223125.ppp-bb.dion.ne.jp

青井水脈さん、過去作もわざわざ読んでくださったのですね、どうもありがとうございます。屋外屋台の件は完全に私の手癖ですね……普通に「屋台」と書いてもよかったものの、無駄に修飾語を付けてみるのが私の流行りでして。

拝電町は私の短編を通して登場する町で、多くの出来事がこの一つの町で起こっているという前提で書いています。同じ建物があり、同じ施設や文化、常識がある特徴的な舞台をどんどん拡張していくのは壮大な世界を組み立てていくようでとても楽しく、これからも書いていきたいと思っています(今の時点で、短編小説が10本程度、映画・演劇用の脚本が2本〜3本程度、拝電町を舞台にしています。文量的には文庫本が数冊出来るくらいには書いています)。

町にはカカシと呼ばれる人間そっくりのロボットがいて、基本はライトなSFを世界観のベースとしています。そこに若干ファンタジックな要素を入れているので、設定がとっつきにくいのは仰る通りだと思います。なので、カカシという存在や必要な情報はなるべく簡素に、各短編ごとに説明してはいるのですが、今度はもう少し書き方を工夫してみてもいいかもしれません。

今回はロボットの心の機微をテーマに描きましたが、忘却の切なさが読者様に伝わっていれば幸いです。

辛澄菜澄
KD113148223125.ppp-bb.dion.ne.jp

中村ノリオさん、コメントありがとうございます。

中盤でテロ事件を起こしたのは起承転結の「転」を意識した結果でした。ご指摘の通り、序盤はコミカルな描写を多く入れて物語の雰囲気を作り、そこから一転シリアスな要素を出して展開にメリハリを付けたかったのです。「ここで何か起こさねば話がダレてしまうぞ……」と危機感を覚えてそうしたのですが、不必要と言われれば確かにそうかもしれませんね。他にいくらでもやりようはあったかな、と。とはいえ、無駄な展開を入れたつもりはありませんでしたし、できる限りコンパクトには仕上げたつもりです。

特に意識していたのは「テーマの一貫性」なので、この作品では「忘れ物・忘却」「自己定義」を欠かさないように書いていました。それにまつわらないエピソードは一切入れていないつもりですが、ここはやはり、中村ノリオさんの言う通り、語り方の整理ということなのでしょう。あえて時系列を入れ替えた順番で場面を並べましたが、普通に時系列通りにしてみたり、もっと露骨にテーマを押し出せばネジ回しは浮かんでくるのかもしれませんね。

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