さよならmeちゃん
私とみーちゃんには、放課後の日課が二つある。一つは、アイスを食べながら帰ること。十七歳という貴重な青春時代を彩るアイスは、何でもいいわけではない。二人で半分こできることが条件で、例えばホワイトサワー味のパピコ(コーヒー味は嫌だとみーちゃんが駄々をこねる)とか、六粒入りのピノとか。冬の時期には雪見だいふくなんかも相応しい。でも、小学五年生から高校三年生の八年間で一番食べたのは、アイス棒が二本刺さっていて、半分に割るといつもどちらか一方が大きくなってしまうソーダ味のアイスだ。
「二つで一つって、私たちみたいだね」
いつだったか、真っ青に染まった舌を見せながら、みーちゃんが嬉しそうに言った。それを聞いた私がなんて返したのかはハッキリと覚えていない。おそらく、「人間とアイスが一緒ってどうなのよ?」みたいな感じで、適当に茶化したのだと思う。でも、数年前に生産終了の報せを聞いた時に、近所のコンビニとスーパーを二人で回って買い占める位には。そして、「これは特別な時に食べようか」と言って、最後の一本を冷凍庫の奥底に閉まっている位には、私たちの放課後に欠かせない存在だった。
「香澄、今日も行くでしょ」
オレンジ色のアイスの実を口の中で転がしながら、みーちゃんが尋ねてきた。梅雨明け宣言が発表されたばかりの空には、昨日までよりも濃い青が広がっている。太陽は半そでの制服から伸びた手足をじりじりと焦がし、塩からい浜風は背中まで伸びた彼女の黒髪をたおやかになびかせていた。
「もちろん。この後バイトだから、十五分ぐらいだけど」
「場所はどうする」
「そろそろ、交わらない場所の左側に行こっか」
「まだ私たちには早くない? もう少し右側で頑張ろうよ」
防波堤に腰をかけていた私たちは、いつものように手早く紺色の靴下を脱いで、カバンの中からビーチサンダルを取り出した。最初は窮屈だったピンク色の鼻緒も、今では親指と人差し指のつけ根にすっと馴染む。大きな波がこの町の一部を飲み込んでから、九年とちょっと。長い年月をかけて完成した防波堤の道路側の斜面には、地元の小学生が植えたクロマツの苗が等間隔で並んでいた。私の腰ぐらいまでひょろりと伸びた苗は、まだこの地に何十年、何百年と根を張って生きていくことを躊躇っているかのようで、頼りなくその身を揺らしている。でも、来春には東京に行ってしまう私が、その先を見届けることはないのだろう。そう考えると、胸の奥に微かな痛みが走った。
階段を下りて浜辺に足を踏み入れた私たちは、真っすぐ「交わらない場所」に向かう。交わらない場所なんて意味ありげな名前をつけているけれど、別になんてことはない。簡単に言えば、川と海の合流地点のこと。道路の向こう側には市街地を流れる川の終着点となる大きな沼があって、その沼から伸びる一本の水路が海へと続いている。ずっと昔、この境界線の水がしょっぱいかどうかで、私とみーちゃんが口論した思い出の場所だ。
「昔から水が合わないっていうぐらいだし、交わらないんじゃない」
「そんなことないと思うな。海水とだって仲良くやっていけるよきっと」
「それって海側の理屈じゃん。川側はずっと真水で生きてきたんだから、今更しょっぱくなりたいとは思ってないんじゃないかな」
住む世界の違う者同士が交わることは、とても難しい。九年前にこの町に越してきた私は、そのことをよく知っている。別に教科書に落書きされたり、上履きを隠されたりするイジメを受けたわけではない。ご近所さんとの仲だって良好だ。雰囲気の良い雑貨屋さんやオシャレなカフェだって知っている。でも、「この町があなたの故郷か」と聞かれたら、やっぱり私は首を横に振ってしまうだろう。少しだけ躊躇ったふりをしながら、申し訳なさそうに眉毛を少し下げてみたりなんかして。
「香澄は本当に頑固だなぁ」
「みーちゃんも、だけどね」
結局、お互いの意見は平行線を辿って。海でも川でもないそのエリアを、私たちは「交わらない場所」と名づけた。本当は水を掬って一口飲んでみれば解決する話なのだろう。でも、それをするのはなんだか野暮だよねと、二人でうなずき合った。
波に濡れないようスカートの裾をギリギリまでたくし上げ、砂浜に落ちている漂流物を一つひとつ確認する。これが、私たちのもう一つの日課だ。
拾ったばかりの細長い枝を使って、白い砂浜を無作為にほじくり返す。時折、波打ち際まで行って海に還っていく波の中を覗いたりもする。ビーチサンダルが波に濡れると、小指の擦り傷を覆っていた絆創膏が剥がれ落ちた。昨日できたばかりの傷はピンク色のケロイド状になっていて、塩水が痛みの記憶を呼び覚ます。それでも私とみーちゃんは、黙って手と足と目を動かし続ける。毎朝決まった時間に犬の散歩をする人のように、適度な義務感と使命感を負いながら。
くしゃくしゃになったコンビニの袋とか、名前も知らない赤緑色をした海藻とか、お土産屋に売ってそうな白くきれいな貝殻とか。今日も色々発掘したけれど、どれだけ探しても目当ての物はなかなか見つからない。いや、本当は見つからない方がいいのかもしれない。何故なら、私たちが探しているのは、人間の骨なのだから。
◆
私たちが人間の骨を探すようになったのは、この町に来てしばらく経った頃。たしか小学五年生の一学期だったと思う。みーちゃんと一緒に、学校の図書館で一冊の本を読んだことがきっかけだった。
昔、海には竜の王様と乙姫と呼ばれる一人娘がいたこと。乙姫は病気をしており、それを治すには猿の生き肝が必要だったこと。わざわざ竜宮城まで連れてきたけれど、結局猿に逃げられたこと。その時に門番だったカレイとクラゲは、責任をとって罰を受けたこと。竜王の手によって、カレイは二つに断たれ、クラゲは骨を抜かれてしまったこと。
そのなんともやりきれない結末は、これまで読んだ絵本や児童書のハッピーエンドを嘲笑っているかのようで。現実世界に横たわっている不条理の延長線上にあって。でも幼い私たちはそれを言語化する術を持ち合わせてはいなかった。
「そんなんで骨を奪われるとか、なんか納得しない」
みーちゃんも「これで終わり?」と消化不良の表情をしている。どうやらあまりお気に召さなかったようだ。
だから私たちは、その本の注釈にあった(命あれば海月も骨に会う=長く生きているとめったに遭遇しないような幸運にも出会うことがあるという諺)をベースに、物語の続きを考えることにした。
「クラゲも納得していないと思うな。それからクラゲは、こっそり骨を食べるようになったのよ」
「食べる? 骨を?」
みーちゃんの反応に気を良くした私は、両腕で大きな輪を作り、頭からみーちゃんを飲み込んだ。
「こうやって傘の部分をぶわっと広げて、海にぷかりと漂っている骨を一口で飲み込むの。それで自分の骨にしちゃうのよ」
私たちは身長も体重も一緒だから、自然と抱き合うような形になる。ガラス細工のような背中の儚い感触が両腕に伝わってくる。「ちょっときついよ……」と漏れる彼女の息が、私の首筋をなぞる。
「だとしたら、骨なら何でもいいわけではないと思うな。きっと人間のじゃないとダメなの」
みーちゃんが目を輝かせながら言った。私の物語が彼女によって進化する。
「……人間の……骨ってこと?」
子供心にも――いや子供だからこそ、その言葉の持つ後ろめたさや残酷さ、それに伴う不謹慎で怪しい快感を素直に受け止められたのだろう。抱き合ったままの二人の身体はますます硬直し、体温がわずかに上昇する。少しだけ苦しくなった私は、大きく息を吐いて両腕の力を緩めた。
「本当なら猿が一番なんだけれどね。でも、海に猿の骨はないじゃん。だから、人間の骨がその代わりってわけ」
「でも、人間の骨だって、なかなか手に入らないんじゃないの」
「そうね。だからとっても珍しくて、骨があるクラゲを見た人は願いが叶うんだって」
「本当?」
「嘘じゃないって。昔からある言い伝えなんだから」
みーちゃんも私も気持ちがハイになっているせいか、嘘がつらつらと出てくる。今思えば、一種の倒錯状態だったのだろう。
「願いは何でもいいの?」
「そうだと思うよ」と、みーちゃんが頷く。
「だったらさ、骨のあるクラゲを今から探しにいこうよ」
空想が現実を侵食する。自分自身の思いもよらない提案に一瞬だけ思考が停止したが、落ち着くにつれてそれはとても素敵なアイデアに思えてきた。
今思えば、あの頃の私は父への想いをなんとか昇華したかったのだと思う。「せっかくの休みだし、釣りにでも行くかな」と言って、二度と戻ってこなかった父。津波に流されて、どこかの海岸のテトラポットに引っかかっているのではないか。本当は運よく助かったのだけれど、記憶喪失になって帰る場所が分からなくなっているだけではないか。だとしたら、ふとしたきっかけで私と母のことを思い出して、ある日ひょっこり戻ってくるのではないか。
本当は母に尋ねてみたかったけれど、それは出来なかった。父の名を出すことは現実と向き合わなければいけないわけで、おそらく母も同様の想いだったのだろう。二人の会話に父の話題が上ることは不自然なほどになかった。その癖、母は私に何の相談もなく、父があの日釣りに出かけたこの町に引越しを決めてしまった。そんな彼女に、正しい答えを導き出せるとは到底思えなかった。
それから八年。私たちは、波が不機嫌に鳴る大雨の日も、鈍色の空が落ちてきそうな冬の日も、欠かすことなく骨のあるクラゲを探し続けている。最初の頃は、「お父さんが生きて戻ってきますように」と、祈るように砂浜に向かっていた。しばらく経つと、「クラゲが取り込んだのは、お父さんの骨なんじゃないか」と思うようになっていた。
現在は、骨を見つけることが目的なのか、探す行為自体が目的なのか、よく分からなくなっている。当時のような熱量もすっかり失われた。事実、今では海に入ってずぶ濡れになることはほとんどない。砂浜に打ち上げられて帰れなくなって、干からびて骨だけになったクラゲの残骸を探す私たちの行為を、無責任な大人はご都合主義と呼ぶのかもしれない。それでも私たちの行為が日常に溶け込んだ分、ある種の儀式のような神聖さを増していた。
幼かった頃はともかく、骨のあるクラゲが居ないなんてことは、高校三年生になった今はもう理解している。しかし、放課後の二つの日課が迷子になっていた幼い私を救ってくれたのも、ゆるぎない事実だった。
◆
火曜日と木曜日の週二回、私たちは近所の食品工場でアルバイトをしている。みーちゃんは、「自動車の免許を取るため」と言っているけれど、私は特別使うあてはない。免許を取る気はあまりないし、買い物と言えば学校帰りに食べるアイスぐらいだし。しいて言えば、上京するための費用として考えている程度だ。
工場はそれほど大きくなくて、年老いた社長夫妻の他には、パートさんが六名だけ。一個十円とか二十円の駄菓子を、お盆と正月の数日を除き、毎日休まず作り続けていた。ゴワゴワとした白い作業着に袖を通し、髪と耳がすっぽり入るフードを被り、最後に白いマスクをつける。ホワイトボードに貼ってある担当表を見ると、今日は二番ラインだった。私たちは、マニュアル通りに手洗いや消毒を済ませ、ラインの一番後ろにスタンバイをする。
仕事はいたって簡単で、出来上がった駄菓子に不良品がないか調べるだけ。赤とか黄とか青とか緑とかピンクとか。子どもたちを喜ばせるためだけに生まれてきた派手な色彩のお菓子が、コンベアの上をゆっくりと流れていく。私も小さいころによく食べていたそれは、飲み込むタイミングが掴めなくて。正式な商品名はあったけれど、「アメだかガムだかグミだかよくわからないお菓子」と呼んでいた。
「あ、これは象の鼻が欠けてる」
「今度は、ウサギの耳がない」
みーちゃんは、間違い探しを見つける子どものように、コンベアを流れる動物の形をした駄菓子を楽しそうにはじいていく。工場の機械はかなりお歳を召しているせいか、不良品がでる割合もそこそこ高い。
「ねぇ、みーちゃん。今日は何の話しようか」
「うーん……この子たちの行方についてはどう?」
そう言うと、みーちゃんは機械の不具合で二つに繋がってしまったお菓子を手に取る。お互いの下半身から伸びる計八本の足は触手みたいに変形していて、偶然にもそれはクラゲの姿をしていた。
「行方って、廃棄するだけでしょ。私もたまにもらって帰るけれど」
「違う違う。捨てられるんじゃなくて、この子たちは工場が静まり返った後に自分たちの意志で逃げ出すんだよ」
マスクの中から、彼女の少しくぐもった声が漏れる。
「逃げるって……お菓子なのに?」
「そこに居場所がないのなら、お菓子だって逃げるわよ。ただ黙って捨てられるなんてまっぴらだと思うな」
クラゲの一件以来、私とみーちゃんはお互いに嘘をつくようになった。条件というか約束事は二つ。一つ目は、二人だけの時にしか嘘をつかないこと。二つ目は、自分を都合よく着飾ったり、誰かを不用意に傷つけたりはしないこと。例えば、ナナホシテントウの背中の丸模様は、不思議の国のアリスのウサギ穴のように、別世界に繋がっていることとか。夜中の二時に洗面所の鏡を覗くと、もう一人の自分が抜け出してきて友だちになってくれるとか。それはどこかで聞いたような空想話がほとんどだ。でも、現実に起きる数々の歪さと向き合っていくには、毒にも薬にもならないような嘘がどうしても必要だった。
「でもさ、どこか逃げるあてはあるの」
「それを探すのが、この子たちの目的なんじゃないかな。自分が本当に生きていける場所を見つける旅をするんだよ。たとえ、道半ばでネズミやカラスに食べられたとしてもね」
そう話しながらも、私たちの手は休むことなく動き続ける。合成ゴムの手袋越しでも充分に細さが伝わるみーちゃんの指。その隙間から零れ落ちた動物たちは、軽やかにコンベアの上を駆け抜け、「不良品」と書かれたコンテナの中に落ちていった。油が不足しているせいか、機械はきぃきぃと軋む。その音色は、新しい世界への旅立ちを歓ぶ祝いの歌声のようでもあり、美味しく食べられる使命をまっとうできなかった彼らの悲鳴のようでもあった。
バイトが終わって帰り支度をしていると、遅番の東野さんが事務所に入ってきた。仕事前のはずなのに、滝のような汗が玄関マットを濡らしている。
「お疲れ様です。今日も自転車ですか」
「おっす。自転車じゃなくて、ロードバイクな、バ・イ・ク」
「真夏に自転車ってきつくないんですか」
「まぁ毎日だし流石に慣れたよ。それにいつか東京に行ったら、車よりロードバイクの方が動きやすいしな」
今年で三十歳になる東野さんは、「いつか東京に」が口癖だ。そのくせ、修学旅行以外で東京に行ったことがないらしく、生まれてからずっとこの町で暮らしている。なんでも、就職を機に上京するまで二週間をきっていた三月十一日の金曜日にお母さんが怪我をしたそうで、(それ自体は大したことがなかったけれど)東京行きを断念したらしい。それから間もなく、「車の免許があると便利だよ」という周囲の言葉を無視して、東野さんは百万円近くするロードバイクを購入した。今では、どんなに遠い場所でもそれに乗って通っている。
私には、東野さんの気持ちが少しだけわかる。おそらく運転免許は、東京で暮らすこと――いやこの町から出ていくことを諦めるための証明書なのだ。もちろん、運転免許を取ったからといって東京に住めないわけではないし、この町に暮らす以上は車があったほうが便利に決まっている。それでも東野さんは、融通の利かないしんどい生き方しかできない人なのだ。
厚手のタオルで顔の汗を拭っている彼をしり目に、私たちは事務所を出た。生温い風が顔をくすぐる。
「東野さんが免許を取る日って、いつか来るのかな」
私の呟きは頼りなく宙を漂い続ける。少しだけ沈黙した後に、「いつかは来るんじゃないかな」と、みーちゃんは答えた。
「そんなものかな?」
「そんなもんじゃん。案外、来年あたりには若葉マークをつけて乗り回してるかもよ。人の想いはね、時間が経てばあっさり変質するものよ」
「それ、みーちゃんが考えたの?」
「ううん、なんかの映画で見た」
「なんだか切ないね」
「そんなことないよ」と、彼女はいつになく現実的な言葉を放つ。私たちとみーちゃんの関係も、いつの日か変わってしまうのだろうか。そのことを考えると、周囲の空気がぎゅうと縮んだ気がした。夕闇に紛れたせいで、彼女の表情はうかがい知れなかった。いや、おかげと言うべきなのかもしれない。
「かーすーみーちゃん」
振り返ると、ぼんやりと光る工場の方から私の名を呼ぶ声がする。目を細めると、工場長の奥さんが遠くで大きく手を振っていた。事務所に引き返すと、奥さんは「はいお土産」と、私に向かってコンビニ袋を一つだけ差し出してきた。
「なんですか、これ」
「いつも頑張ってくれているお礼よ」
袋を受け取り中を覗くと、さっきまで私たちが仕分けていた不完全な動物たちが、みっちり詰まっていた。
「どうするの?」
見送る奥さんの姿が完全に消えたところで、みーちゃんに袋を突き出した。
「どうするって?」
「夜中に旅に出るんでしょ、この子たち」
「だね」
「だね、じゃなくてどうするの?」
「どうするって言われてもねぇ」
空想話の心配をするというあまりにも不毛な会話に、どちらともなく噴き出してしまった。二つの笑い声は一つになって夕闇に溶けていく。
「とりあえず、甘い物でも食べてから考えよっか」
そう言いながら、私たちはコンビニ袋に手を入れた。久しぶりに食べるそれは、やっぱりアメだかガムだかグミだかよくわからなくて。みーちゃんと私は、いつまでも口の中でもちゃもちゃと噛み続けていた。
◆
熱帯夜のせいだろうか。その夜はなかなか寝つくことができなかった。布団に潜って無理やり目を閉じてはみたけれど、意識すればするほどかえって目は冴えてしまう。壁かけ時計の秒針がやけに五月蠅い。見ると、二つの針はちょうどてっぺんを指していた。とはいえ日付が変わったぐらいで、昨日が簡単にリセットされるわけはもちろんなくて。私は数時間前の愚かな私に嫌悪してしまい、ますます眠れなくなってしまう。
仕方がないのでお茶でも飲んで気持ちを落ち着かせようと、足首にくるまったタオルケットを剥いでベッドを降りる。蒸された空気を入れ替えるために窓を開けると、網戸の向こうから柔らかい風が流れてきた。白いレースのカーテンが丸く膨らみ左右に揺れる。夜に出現したクラゲ。いつだったかみーちゃんにしたように、両腕で輪をつくって私の裡に取り込もうと試みた。しかし、レースの渇いた感触を残してクラゲは萎んでしまった。窓から差し込む満月の光は嘘のように煌々と輝いていて、部屋の輪郭をくっきり映し出している。
勉強机の上には、幼いころに父に買ってもらったシンデレラの人形が横たわっていた。数年ぶりにおもちゃ箱から引っ張り出してきたそれは、白いドレスが埃で薄汚れていて、ガラスの靴が片方だけ無くなっていた。その姿はまるで、お城に行く前の灰かぶりに戻っているみたいだった。
みーちゃんと出会うまでは一番の友だちで、誰もいない時に私の話し合いになってくれた、イマジナリーなお姫様。
私のくだらない空想話をいつも笑顔で聞いてくれた姫に、「しばらく会わずにごめんね」と小さく謝り、彼女の頭を優しく撫でる。そのたびに、キューティクルを失った銀色の髪がはらはらと抜け落ちた。
廊下にも月の光は充分届いていて、どうやら電気を点けなくても台所には辿り着けそうだった。海に沈んだような青い夜を、ゆらりと泳ぐ。素足にはりつく床がひんやりと心地良くて、何度も何度もぺちりと鳴らした。
台所に入ると、黒い影が弾かれたように動いた。目を凝らして見ると、母がテーブルに肘をつきながらお酒を舐めている。
「あら香澄。こんな時間にどうしたの」
「お母さんこそどうしたのさ。電気も点けないで」
私の問いかけに、母は切子のグラスを少しだけ持ち上げて、顔の横でカチリと氷を鳴らした。大きな窓から差し込む夜の灯が、グラスを流れる琥珀色の液体を艶めかしく照らしている。
「ん。月がキレイだなって思ってさ」
「なにそれ。似合わない」
冷蔵庫から取りだした麦茶をコップに注ぎ、母がつまみ代わりに食べていた大福を手にとる。ていうか、お酒に大福って。のんべの味覚はよくわからない。大福は私の握りこぶしぐらいあって、見た目通りずっしりと重い。でっぷり太った身を指でちぎると、餡の中から真っ赤な苺が飛び出してきた。
「はい半分」
大きくちぎれた大福を差し出したけれど、母は「最近太ったから」と小さい方を選んだ。時間が経っても大福はしっとりと柔らかく、油断すると指が白肌に沈んでしまうかのようだった。慌てて口を大福に運ぶと、白い粉がテーブルの上にはらはらと落ちた。
「相変わらずあんたは、食べ方が下手だねえ」と母は愉快そうに笑う。
「口を大福に持ってくんじゃなくて、大福を口に持っていくのよ」
「でもそれじゃあ、粉が落ちちゃう」
「何言ってんのよ。どっちにしても汚すくせに」
そう言うと母は、「はやく拭きなさい」と、手元にあったふきんを私に投げよこす。午前零時に食べるいちご大福は、罪悪感も手伝ってかとても美味しかった。そう言えばあの人もさっき、こうして松月堂のいちご大福を食べたっけ。三つも食べたせいで、夕食前にお腹がパンパンになっていたっけ。なんて、つまらないことを思い出してしまったのは、妙に明るい月夜と口に広がる鮮やかな甘さのせいかしらん。
「ねぇ、お母さん」
「なに?」
母はグラスを口につけながら、目線だけをこちらに寄こした。
「夕べはその……ごめんね」
「なによ急にしおらしくなって。気持ち悪いわね」
「なにそれ、せっかく謝ってるのに」
「らしくないわよ」
そう、昨夜の私はらしくなかった。母が初めて家に連れてきたあの人に、とても失礼な態度をとってしまった。
「お付き合いしている人がいるの」と母から聞かされたのは、一週間前のことだった。そして、「一度、夕ご飯に招待したい」と遠慮がちに言ってきた。あまりにも突然の告白に、曖昧な返事しか出来なかったせいだろうか。夕食会の準備はあっという間に進められ、気づくと三人で同じテーブルを囲んでいた。
どこかの会社の総務部長だというその男性は、父によく似た人だった。容姿のことではない。例えば、大福でお腹いっぱいのくせに、母の夕食を残さず食べるような。当てつけのように父との思い出を語る私の話にも、熱心に耳を傾けるような。難しい問題に直面した際も、時間をかけて解決まで導くような。その几帳面な誠実さが懐かしくて、無性に腹立たしかった。
「これ、父に昔買ってもらったシンデレラの人形なんですよ。いつの間にかガラスの靴が片方だけ無くなっちゃったんですけどね」
「それは大変だね。どこで無くしたの? 一緒に探そうか」
そんな微妙に噛み合わない会話をしている二人を、母がどのような表情で眺めていたのかは分からない。なぜなら、私は隣に座る母を一切見なかったから。父を諦めてしまった彼女に腹が立っていた。そして、父が居なくなって十年近く経ったのにも関わらず、母の幸せを願うことができない。そんな鬱屈した自分が何よりも腹立たしかった。
「あの人、良い人じゃない。お母さんにピッタリだと思う」
数時間前とは正反対な私の言葉の真意を図りかねているのか、母は困惑した表情を浮かべる。だって仕方がない。私が来年の春に東京に行った後も母の人生は続くのだから。これ以上は我がままになる。
「今度はさ、日曜日に呼ぼうよ。生姜がたっぷり入った唐揚げとか甘じょっぱい切り昆布の煮物とかキノコの炊き込みご飯とかコーン入りポテトサラダとか。お母さんの得意料理をテーブルいっぱい並べてさ。なんなら私もクッキーとか焼いちゃうよ。作ったことないけどね」
一気にそうまくしたて、「もう寝るね」と席を立った。残った麦茶をシンクに捨てると、飛び散った二つ三つの水滴がTシャツを胸の部分を黒く濡らした。
「ねえ香澄」
部屋に戻ろうとする私を、母が呼び止める。
「まだ何か?」
「用ってほどじゃないんだけれどさ」
「ほどじゃないなら寝るね。明日も学校だし」
じゃらじゃらと鳴る珠のれんの向こう側から、再び母の声が追いかけてきた。
「ごめんね」
「お母さんもさ。せっかく良い人ができたんだから、お酒はほどほどにしなよ」
母からの返事は無く、代わりにグラスの氷がカランと溶け落ちる音がした。部屋に続く階段を昇る途中、不意に世界が滲んだ。
部屋に戻ると、私は急いでスマホを取り出し発信履歴の画面を開く。一番上に表示されている父の名前を人差し指で押すと、機械的だけど声の奥に艶っぽさを残したお姉さんのアナウンスが流れてきた。
(おかけになった電話は、電波の届かない場所にいるか電源が入っていないためかかりません…………おかけになった……)
父が持っているはずの携帯電話は、もう海の底に沈んでいるかもしれない。このアナウンスを聞くのも何百回……いや何千回目だろうか。それでも電話をかけずにはいられなかった。
今となっては、父の声よりお姉さんの声の方が鮮明に思い出せる。それでもこの電話番号は、唯一残された父と繋がるための手段であるわけで、その糸を自ら断ち切ることはできないわけで。ずっと料金を払い続けている母も、きっと同じ想いなのだろう。ただしそれはもう、過去のことだ。
いつの日か、父の携帯電話に繋がる日が――いや、父の電話番号を消せる日がやって来るのだろうか。
カーテンの向こう側にいる月夜がどこまでも私を追いかけくる。粘り気を含んだ感情が全身の毛穴から噴き出してきて、何もかも鬱陶しい夜だった。脳内で繰り返し鳴るお姉さんの声は、気づけばみーちゃんの声に変わっていた。
◆
翌日、私とみーちゃんは日が昇ると同時に海へと向かった。セミの鳴き声や新聞配達のバイク音が一日の始まりを告げている。水平線の底から見え始めた太陽が、澄んだ空気を少しずつ焦がしている。東の空には朝雲が多少見え隠れしているが、いずれ流されていくだろう。どうやら今日も暑くなりそうだ。
誰もいない砂浜に立ち、私たちはいつもよりだいぶ早い日課に取り組む。くたびれたビーチサンダルと素足の隙間に、白い粒が遠慮なく潜りこんだ。まだ熱をため込んでいない地面はいつもより少し頼りない気がして、必要以上に強く足を踏み込む。みーちゃんはというと、相変わらず無邪気な様子で軽やかに浜辺を歩いている。
いつもより時間をかけて砂浜を巡ったけれど、探し物は見当たらなかった。もしかしたら、すでに流れ着いていて、地中に埋もれているかもしれない。そう思い地面を掘ってみたりもした。しかし、スナガニの住処を不必要に奪ってしまっただけだった。
探している最中に、薄れてしまった父の面影を必死に思いだそうとした。東京で暮らしている七ヶ月後の私の姿も想像してみる。しかし、頭の中の霧が晴れることはなかった。ずっと下を向いていたせいだろうか。無数の足跡で乱れた砂浜がぐるぐると回る。張りつめていた想いが、渦に飲み込まれていった。
「みーちゃんさ、今日学校さぼっちゃおうか」
足を止めて彼女の方を見る。首筋に滲む汗が、陽光を受けてキラキラと輝いている。金色に光る産毛は生まれたての赤ちゃんみたいだった。
「サボってどうするの」
「このまま電車に乗ってさ、東京に行こうよ。長い人生なんだから、一度ぐらい冒険したっていいじゃない。東京が嫌なら私が生まれた町でもいいわ。少し遠いけれど、二本の足でてくてく歩いていくの。途中でたくさんアイスを食べてさ。忘れられない夏の思い出になるわよ、きっと」
みーちゃんは悲しそうな笑顔を浮かべ、首を横に振った。うん、私にも分かっている。彼女を連れていくことは出来ないことを。いつまでも二人の世界には閉じこもっていられないことを。みーちゃんはもうすぐ私の前からいなくなり、その後は一人で生きていかなければいけないことを。大人になるって、多分そういうこと。会話に夢中になっていたせいだろうか。いつの間にか私たちは、交わらない場所の左側に足を踏み入れていた。
境界線の向こう側には、海水に耐性のある何種類かの植物が自生していた。その中の一つだけ、名前を知っている植物があった。ハマボウフウだ。今より少し幼い私に、「これは山菜だから食べられるんだよ」と、近所の長瀬さんが教えてくれた。その時に「海なのに山菜って」と不思議な気持ちになったから、記憶の底に残っていた。ポンポンみたいな小さな白い花が、円を描くように幾つも密集している。その集合体は一つの大きな花に見えた。
その時、波の奥で何かがキラリと光った。
「見た? みーちゃん」
「うん。なんか光ったよね」
私たちは、目標を目指し全力で走り出した。ビーチサンダルが片方脱げたけれど、構わず海中に分け入った。波は二重三重に生まれてこちらに向かい、光は気持ちよさそうにその揺らぎに身を委ねている。ずっと昔に教科書で読んだ、「クラムボンはかぷかぷわらったよ」という一節が、頭の中でリフレインした。
光の正体は、私たちが長年追い求めていたそれだった。私の手の平サイズのクラゲは半透明に艶めきながら、波の強弱にあわせて自在に姿を変えている。ある時は細長く捻じれ、一片の骨のように見えた。またある時は波に潰され、かつて無くしたシンデレラのガラスの靴のようにも見えた。
少しだけ躊躇った後に、光に向けて手を伸ばす。光は観念したかのように、ゆらりと手に収まった。そして海面から取り出した瞬間に、鮮烈な痛みが右手首に刻まれた。
クラゲに刺された右手首は、気泡で膨れ醜い形をしていた。肌を焼く痛みも変わらず残っている。恥ずかしいことに、私は赤ん坊のように泣いてしまった。その声を聞いて、犬を散歩していた男性がすぐに応急処置をしてくれた。ずっと海辺の町で育ったというその男性は、「たいしたことないけれど、後で病院に行っときなよ」と優しく言ってくれた。せっかくの散歩を邪魔されたコーギー犬は、終始ギャンギャンと吠え続けていた。ずっと泣き続けていたせいか、頭の芯が急速に冷えていく。汗か涙かよく分からないほどに顔を濡らした私を、薄い膜の向こう側にいる三人目の私が冷静に見つめていた。
男性が治療をしている間、みーちゃんは何も言わず、汗で濡れた頭を撫で続けてくれた。その手の感触は思った以上に儚くて、骨のあるクラゲもシンデレラのガラスの靴もこの世界には無いということを、はっきりと理解してしまった。
「本当に一人で病院に行けるか」
そう心配してくれた男性を、目を腫らしながら見送る。私の瞳には、彼とコーギー犬が映っている。彼の瞳には、みーちゃんが映ることはないのだろう。
気持ちを少し沈めた後、私たちは浜辺を後にした。携帯電話を見ると、七時をわずかに過ぎていて、会社に向かう自動車が次々と道路に湧き出している。私を刺したクラゲは、いつのまにかいなくなっていた。陸地で干乾びることなく、海に還って欲しいと切に願うばかりだ。全身についた砂粒が歩くたびに零れ落ちる。みーちゃんは時折こちらを振り返り、「大丈夫?」と心配そうに声をかける。その度に彼女の美しい黒髪が軽やかに舞った。その光景に目を奪われながら、私は十年後のみーちゃんを想像していた。
彼女が嘘をつかなくなる日も、いつか来るのだろうか。公務員の優しい旦那さんと結婚して、小さなマイホームを購入して。休日には、家族みんなでミニバンに乗ってピクニックになんか出かけたりして。自分が嘘をついていたことすら、すっかり忘れてしまうのだろうか。それとも今と変わらず、愛する子供たちにテントウムシの穴や逃げ出すお菓子の話を聞かせているのだろうか。今より少し皺が増えた顔を綻ばせながら。そんなありえない未来が、無性に可笑しかった。
そして、その時私は何処にいて、何をして生きているのだろうか。分からないけれど、そう悲観することもないのだと思う。私はまだ始まったばかり。時に正しく、時に不格好に。大切な物を得たり失ったりしながら、きちんと大人になっていくのだから。
入道雲に沈んでいた太陽が顔を出した。少し前を歩く彼女の影が、こちらに向かってゆっくり伸びてくる。やがて二つの影が溶けあった時、私たちがついた数々の嘘はその役目を終えた。私は、もう一人の私に別れを告げる。
憎たらしいほどに能天気な夏空に包まれながら、家を目指し思いきり駆け出した。額の汗が目に流れてきたけれど、構わずに両足を動かし続ける。病院に行って治療するとか、今日から始まる夏季講習とか、新しい父との歩み寄りとか。やるべきことは沢山あるけれど、とりあえず冷凍庫の奥に眠るソーダアイスをたった一人で食べるために。
執筆の狙い
久しぶりの投稿になります。今執筆中の別作品で試してみたい描き方があるのですが、読み手に伝わるかどうかが不安なので、みなさんの反応を知りたく投稿しました。
ただ、公募用(未発表作品のみルール)なので、似たような描き方に調整した過去作を出したいと思います。
(1)みーちゃんの正体は分かりましたでしょうか?
(2)正体が分かった方は、作品のどこあたりで分かったでしょうか?
(1)(2)以外にも、作品全体での感想・アドバイスをいただけると嬉しいです。ご無理をいって申し訳ありませんが、よろしくお願いします。