羽化の囁き
大きな墓標。
眼鏡を通して見上げた校舎に朝子(あさこ)は胸中で漏らした。
朝日が校舎に当たり灰色の外壁をきらやかに照らしていたが陰鬱な思いは拭えなかった。
中学校の国語教員になって十年、今までもこれからもずっとこの墓標の中で生きなければならないことに朝子は気鬱な思いをつのらせた。
小学校高学年まで私はおてんば娘だった。女の子とだけでなく男の子ともよく喧嘩をした。けれどもある時度が過ぎてクラスメートの男子を入院させる怪我を負わせてしまった。
野球をしていて喧嘩の延長で相手の頭を鉄のバッドで殴った。男の子は頭から血を流し病院に運ばれた。
初めて両親が泣いていたのを見た。その光景は今も鮮明に覚えていた。そして私は変わることを決意した。
大人しく静かな子にならなければいけない、と。そこから中学、高校、大学とずっと内向的な自分でいた。
朝子が授業のため教室へと入ると忍び笑いが聞こえてきた。
くすくす、くすくす、と小鳥の囀りのように、囁きが漏れていた。
忍び笑いは黒板の絵と絵を見た朝子に向けられていた。
黒板には朝子が全裸で股を開き、自慰行為をしている絵が書かれていた。
絵の吹き出しからは「ペニスが欲しくてたまらな~い」という文字が書かれていた。
朝子は無言のまま、無表情で黒板消しを使い絵を消していく。
「相変わらず無反応やな」
「先生~。なんで俺の作品を黙って消すん~?」
「先生みたいな暗い処女はセックス出来るーん?」
朝子の背に向かって男子生徒も女子生徒も笑い声と共に非難の声を投げた。
黒板や朝子の背中に向け、コンドームがいくつも投げられた。
「先生のためにみんなからのプレゼントでーす」
「わざわざ買わんくともこれでセックスやり放題やからー」
「ゴーム! ゴーム!」
掛け声に合わせるように声が重ねられていく。教室内はクラスメート全員が一斉に声を合わせ「ゴーム、ゴーム」と合唱した。
「教科書の29ページを開いてください」
朝子は声を無視しながら淡々と声に出した。
授業が終わり、職員室に朝子が戻ると待っていたかのように他の教師たちが囲んだ。
「困るんですよね、朝子先生。隣のクラスの授業のことも考えて頂かんと! 生徒たちが授業に集中できんやないすか!」
「生徒が騒ぐんをしっかり抑えて頂かんと困るんよ」
三人の教師たちが朝子に向かって苦情を訴えた。
「本当、困ったもんだわ。あなた教師には向いてないんじゃない?」
一番年長の女教師が朝子を睨みながらぶつけた。
「すみません……」
下を向き、目をつむりながら朝子は答えた。
「学級崩壊が起きてるって校外に知られたら、こんな地方じゃすぐ噂が広まってしまうんやから、気を付けてーよ」
「すみません……」
小さな声で続けて謝罪の言葉を朝子は漏らす。
誰も助けてなどくれない……。嫌がらせを受けたり、いじめを受けて分かったことがある。それは誰も助けてくれないということだった。
朝子はその思いを噛み締めながらひたすらにいつものように謝り続けた。
帰路につきながら、朝子は心の中で漏らし続けた。
――助けて。助けて。助けて。誰か助けて。助けて。助けて。
うつむきながら涙をこらえ歩き続けた。
もう疲れた、このまま車道にでも飛び出て終わりにしたい。そう考えながら人通りが少ない場所を歩いていた所へ男が朝子へ声をかけた。
「ねえねえ」
朝子が顔を上げると、目の前には中肉中背の中年男性がいた。薄汚れた格好をしており、十年以上前の流行だった髪型をしていた。
「暇ですか? これからホテルでもどう?」
ニヤニヤと笑いながら男は喋った。
「結構です」
また目を伏せ、男の横を足早に通り抜けた。
朝子は少し歩いた所で足を止め、振り返った。男は背を向けゆらゆらと歩き出していた。
――いっそのこと、もう落ちる所まで落ちてしまいたい。もう、殺されてもいい。
朝子は男の後を追い、呼び止めた。
「私をメチャメチャにして。壊れるくらいに」
ホテルに入ると男は朝子を押し倒した。倒れると同時に付けていた眼鏡は床へと転がった。
「期待通り、ぐちゃぐちゃにしてやるよ」
男は乱暴に朝子の服や下着を破れるような勢いで剥がした。
わずかながらの抵抗を示すも男は手で払い除けた。
「お前が望んだことだろう。壊れるほどの激しいセックスをさ!」
男は無理やり股に顔を埋め、汚らしい音を出した。
指を、身体の一部を、男は無造作に無理やりこねくり回した。
「淫乱女め」
苦しい痛みに耐えながら涙を流し、苦悶の表情を朝子は剥き出しにする。
そう、これが私の求めていたこと……。これが愚かな私にふさわしい姿なんだ……。
朝子は痛む声を荒げながらベッド横を見た。そこには鏡に映る醜い自分がいた。
小汚い男に、浅ましい人間に犯され、侵害されている自分。
「あんたは男に声をかけられ、簡単に付いていく最低な女だな」
ちがう。違う、違う!
鏡の自分を見ながら朝子は自分に向かって言った。今までの嫌な出来事や経験が脳内を巡った。嘲笑、薄笑い、侮蔑、私を馬鹿にし見ている記憶が浮かんできた。
嫌だ、もう嫌だ!
「いい加減にして!」
涙に濡れた目を見開き、男の頬を思いっきり朝子は引っ叩いた。
叩かれた男は動きを止めた。
乱れた呼吸の中で朝子は起き上がる。自身の中で何かがはじけたことを自覚し、意識していた。
めまいがするほどの今まで味わったことがない陶酔と快感が溢れ出していた。
男は呆然としたま、朝子を見つめていた。朝子はその顔をこれでもかと殺意を込めた眼で睨み付けた。
「ごめんなさい……。本当にごめんなさい」
弱々しく男は漏らした。まるで小動物のように震えていた。男は打って変わったように朝子にひれ伏した。
その姿を見て、得も言われぬ快楽と万能感、全能感が朝子の全身を駆け巡った。
「下になりなさい」
毅然に悠然と、拒否を許さない瞳と声で朝子は告げた。
男は震えたままだった。男の一部は先ほどと違い、使い物にならなくなっていた。
そこから逃げ出そうとした男を朝子は蹴り飛ばし、両手首を紐で固定した。そして男が財布の中に隠し持っていたバイアグラを無理やり飲ませた。
仰向けになった男を見下ろす自分の姿を鏡で見た。
なんて綺麗。浅はかで薄汚い外道を見下ろしている自分に朝子は笑みを漏らした。
――私は今、孤高で気高く何よりも美しい。
朝子は人を支配する快楽に身を任せながら男を犯し始めた。
男が泣き出し喚いても止めず、気を失っても男の一部が使えなくなるまで朝子は相手を一晩中犯し続けた――。
朝子がいつもと同じように教壇に立った。グレーのスーツ姿も眼鏡もいつもと同じであった。
「先生~。昨日ゴムあげたんやけどいきなり男とのセックスは無理と思うんで、これあげまーす」
黒板めがけて男子生徒が投げ付けた。黒板にぶつかり床へと転げ落ちた物体はピンク色のバイブだった。
「このバイブ使ってね~」
その声に続き、生徒たちが一斉にバイブ、バイブと声を合わせ合唱した。
教壇の机に置いてある教科書やノートを朝子は手で勢いよく床に払い落とした。
「ううううう、うわああああ」
獣のような低い唸り声を出しながら、朝子は教壇机を横へとひっくり倒した。
「うるせえんだよクソガキどもが! 静かにしねーとこうなんぞコラァ!」
教室中に低くドスが効いた怒声が響き渡った。
「その腐った脳髄を引きずり出されてブタの餌にされてえのかあ!」
黒板を力強く右手の拳でドンと叩きつける。
「ひっ」
「こええ」
女子生徒も男子生徒も目を見開き、一瞬にして固まっていた。
私は生まれ変わった。もう何者も私の邪魔はさせない。私は自由を手に入れたんだ。
溢れ出る喜びと快感のベールを顔に貼り付け、朝子は恍惚な微笑を浮かべた。
(終)
執筆の狙い
気鬱な女教師のお話。一部暴力表現、性的表現を含みます。