名前を知らない君の声
最初にその声を聞いたのは、雨がやんだ午後だった。
学校の図書室。人気のない窓際の席で、私はいつものように分厚い本を広げていた。
ページをめくる音と、遠くの廊下で誰かが走る足音だけが、静けさを切り裂いていた。
「……それ、面白い?」
ふいに、誰かの声が聞こえた。
透き通るような、けれどどこか掠れた、触れたら壊れてしまいそうな声。
私は顔を上げた。でも、そこには誰もいなかった。
空耳? でも――。
次の日も、その声は聞こえた。
「そのページ、まだ途中だよ」
ページを戻すと、確かに読み飛ばしていた一節があった。
私はそっと笑った。「ありがとう」と言ったけれど、返事はなかった。
日が経つにつれ、私はその声と話すことが日常になった。
「君は誰なの?」と聞いても、返事はなく、ただときどき笑うような空気が伝わるだけ。
「君の名前、教えてよ」
それだけは、いつ聞いても答えてくれなかった。
季節が巡り、桜が散り、蝉が鳴き、木々が赤く染まっても、私と“その声”は図書室で会い続けた。
時には本の内容を語り合い、時にはただ黙って、風の音を聞いた。
ある日、学校が老朽化のために取り壊されることが決まった。
図書室も、来週には閉鎖される。
私は最後の日、本を読まずに窓際の席に座った。
「ねえ、今日が最後なんだって。…寂しいね」
声はしばらく返ってこなかった。
「君の名前、今だけでいいから…教えて」
風がカーテンを揺らし、日差しが差し込む。
そして、その声が静かに言った。
「名前なんて、なくていいよ。君が覚えてくれてる限り、私はここにいるから」
私は涙がこぼれるのを止められなかった。
図書室を出るとき、私は振り返り、小さく手を振った。
その瞬間、光の中に人影が見えた気がした。
長い髪を揺らし、静かに微笑んでいた少女。
けれど、次の瞬間にはもう、誰もいなかった。
名前を知らない君の声は、今も私の中に響いている。
本のページをめくるたびに。
風がカーテンを揺らすたびに。
――ありがとう、名前を知らない君。
執筆の狙い
この小説を書いた理由は、「存在しないはずのものとの出会いが心に残す温かさや切なさ」を描きたかったからです。声だけの存在という形にしたのは、人の記憶や感情が、形を持たずとも確かに心に生き続けることを象徴しています。表現したかったのは、名前も顔も知らない誰かとの小さなつながりが、人生においてどれほど深い意味を持つのかということ。そしてそれは、別れの後にこそ本当の価値が見えてくるということです。執筆における挑戦は、「声」という形のない存在を読者に実感させることでした。実体がないぶん描写に制限があり、語感や静けさ、風景描写で感情を伝える工夫が必要でした。読後に余韻が残るよう、説明しすぎず、感じ取らせる構成を意識しました。