あの日の光景
バイクに乗って、海岸線を走っていた。先頭を走る神谷はほとんど車の通らない道路を自由に走行している。僕は彼の運転を見ながら後ろを付いていった。夏の夕暮れの日差しが辺りを照らし、右側には海が広がっている。もう少ししたら日が暮れてしまうので、僕らは海岸に着くと、バイクを降りた。砂の上を歩きながら、神谷は背伸びをしている。
「最近なんで学校を休んでいたんだよ」と僕は聞いた。
「そうだなぁ」
彼はそう言って砂浜にしゃがみ込み、貝殻を一枚拾い、空にかざす。神谷は先週から学校に来ていなかった。担任の先生も理由を知らないようで、僕に彼について尋ねた。もちろん僕は理由を知らない。
「なんだか生きているのが奇妙に感じるんだよ。そう。奇妙だ。生まれてからずっとね」
神谷はそう言うとポケットに貝殻を仕舞う。
「僕には意味がわからないよ」
当時の僕は彼が言った意味がさっぱり理解できなかった。神谷は勉強ができるし、テニス部だった頃は関東大会に出るほどの実力だ。顔も整っていたし、性格も魅力的で、僕は彼にある種の憧れを抱いていた。彼と過ごすのは楽しかったけれど、一緒にいると、なんだか儚い気持ちになる。
「そろそろ帰ろうか。暗くなるし」
彼はそう言ってバイクの方へ向かった。
「来週は学校に来るの?」と僕は聞く。
「たぶんな」
彼はそう言って薄く笑った。
その日は夜まで彼と一緒に過ごしていた。駅の近くのファミレスで食事をして、僕らは別れた。家までの帰り道はバイクであっという間だ。
家のドアを開けると、リビングに母親がいる。
「ご飯は?」と聞かれたので「食べてきた」と言った。
「そう」
母親はそう言って、洗濯物を畳んでいる。
部屋に戻ると、僕は受験勉強を始めた。来年の冬には受験を控えている。神谷は有名な国立大学を受けるようで、僕も狙っていた。僕らが通う高校は進学校で、毎年多くの人が有名大学に進学する。
神谷が何で最近学校を休んでいるのかはわからなかった。僕は英語の問題集を開き、ノートに解答を書く。三十分ほど勉強をしていたが、今日はあまり集中できなかった。仕方がないので、音楽を聴きながら、問題を解いていく。
気が付くと時間は過ぎていき、僕は風呂に入った。夏で暑かったので、シャワーだけ浴びた。風呂から出ると、冷蔵庫からパックの牛乳を取り出して飲む。思い出したのは太陽の沈んでいく水平線だった。そこには神谷がいて、僕はこの先の人生でもあの光景を思い出すと思う。
次の週に学校に行くと、彼の机の上には花瓶と花が生けてあり、周りの同級生がただじっと机に座っている奇妙な光景だった。僕はすぐに彼が死んだことを理解して、机に座ると、中村詩織のことを見ていた。彼女はハンカチで目元の涙を拭いている。中村は神谷の彼女だ。
チャイムが鳴ると担任の先生が教室に入ってくる。
「神谷君は残念なことに亡くなりました」
しばらくの間、黙祷して、授業が始まる。僕はただ周囲の人を見ていた。それは神谷の癖だったと思う。一緒にいても、彼の意識は周囲に向いていた。いつの間にか自分もそうする習慣が身に付いている。
英語の授業では大学の過去問を解いた。神谷は亡くなったが、まだ死因はわかっていない。おそらくは自殺だろうと思った。僕は英語の授業が終わると、担任の立川先生のところに行く。立川先生は三十代くらいの女性の先生で、彼が亡くなったことにショックを受けているようだった。
「みんなには言ってないけど、自殺だったみたい。車の中で練炭を焚いて亡くなったんだって」
僕はなんとなくそういう気がしていた。きっと海岸に行ったのは僕と過ごす最後だったのだろう。
その日は憂鬱の中で過ごしていた。授業の間に涙が滲んでも、やり過ごすことができた。教室内は悲しい空気に包まれていたからだ。
帰りのホームルームが終わると、中村が僕の席にやってきた。彼女は僕のことをじっと見つめて何かを訴えかけているようだ。
「少し話さない?」と彼女は言った。
「わかった」と僕は言い、彼女の後ろを付いていった。
彼女は資料室のドアを開けて中に入る。ここは確か文芸部の部室で、中村は文芸部だったはずだ。
部屋の中に入ると、本が壁一面に並んでいる。パイプ椅子に座ると、中村はポットで紙コップに紅茶を淹れた。
僕は彼女が淹れてくれた紅茶を飲みながら、部屋の中を見ていた。テーブルの上には文芸部の冊子が置いてある。おそらく秋の文化祭で出すのだろう。
「神谷君は何かあなたに言ってた?」
彼女はやり切れない様子で僕に尋ねる。
「先週の終わりに放課後に海に行ったんだ。そこで貝殻を拾ってさ。人生は奇妙だって言っていた」
「人生が奇妙か。笑っちゃうよね。時々あの人は変なことを呟くからさ」
中村はそう言うとシャツの裾で涙を拭った。
「中村には何か言っていたの?」
「いろんなことを言っていたよ。たぶん佐々木君は知らないと思うけどさ。せっかくだし、屋上に行かない? 今日は天文部が天体観測をするから屋上が開いてるの」
僕らは文芸部の部室を出て、階段を上った。管弦楽部の演奏が校内に響いている。神谷は亡くなったが、いつものように日常が続いている。屋上に出ると、夕方の街の景色が広がっている。僕は海岸にいた神谷の面影を思い出す。
「神谷君とはいろんなことを話したよ。人生に選択肢はなくて、全て決まっているとか、人間は想像以上に多様性に満ちているとかね」
僕は彼が言ったことを考えていたのだが、あまり腑に落ちなかった。中村もおそらく僕と同じような感覚だったと思う。
「結局なんで亡くなったのかは私もわからないんだ。何かに苦しんでいるような感じはなかったからさ」
「僕もそれには同意見だよ。だって普通に死ぬ直前まで僕と遊んでいたんだ」
「なんだか奇妙な人だよね。私はそこが好きだったんだけどさ」
屋上で僕らは話をしたが、結局彼が死んだ理由については何一つわからなかった。彼の両親はこのことをどう思っているのだろう。僕は彼が言った台詞を思い出す。「人生は奇妙だ」というのは今思えばその通りだと思う。彼自身がまさに奇妙な人間だったのだ。
僕らは屋上を後にして、階段を下っていった。中村とは時々一緒にいることがあったのだが、彼女は将来のことについて考えていて、そこにはいつも神谷の存在があった。僕は彼女が相当ショックを受けているのだろうと思ったが、彼女は思ったよりもしっかりとしていて、今回のことも受け止めているようだ。
人のいなくなった教室で鞄を取り、中村と一緒に下駄箱まで行った。
「最後に会いたかったな」
「学校を休んでいたのもきっと関係があったんだろうな」
「わからないよ。彼は奇妙な人だからさ」
中村はそう言って笑いながら、歩いて行く。辺りは段々と暗くなっていき、僕らは駅に向かって歩いて行った。
特に話すこともなかったので、僕らは駅で別れると別々の方向へ向かう。ホームで電車を待っていると、海岸で見た光景が蘇ってくる。僕はきっと大人になっても神谷と見た光景を思い出すと思う。ただそれだけが僕に残っているような気がした。神谷と会うことは二度とないというのが、なんだか切なくて悲しい。
電車がやってくると、隅の席に座り、鞄を膝の上に置いた。電車はゆっくりと動き出す。僕はぼんやりと窓の外の景色を眺めていた。電車から降りると改札を抜ける。辺りは夜になっていき、街灯の光が道を照らしていた。
会社のビルを出ると、繁華街には多くの人がいて、人混みを通り抜けていった。僕は明日の会議のことを考えながら、いつものように駅まで向かう。季節は冬で冷たい風が吹いている。
ホームで電車を待っていると、「佐々木君」と後ろから声を掛けられた。振り向くとそこにいたのは中村詩織だった。彼女だとわかったのは、雰囲気があまり変わっていなかったからかもしれない。化粧をしていたが、すぐに思い出すことができた。
「奇遇だね」と僕は言い、電車に乗るのを止めた。
「仕事終わり?」
「そうだよ」
「よかったらせっかくだし、夕食食べない?」
「いいね」
僕らは駅の近くの焼き肉屋に入った。席に案内されると、肉と野菜を適当に注文する。僕らはビールを飲みながら、向き合って座っていた。
「なんだか懐かしいな」と彼女は言う。
「そういえば、神谷っていたよね」
「神谷君か。懐かしいね」
あの日から十年が経ち、神谷はすっかり過去の人になった。今思うと彼が言っていたことの意味がわかるような気がする。いつの間にか彼を思い出すこともなくなったし、心が揺さぶられることもなかった。
「死んだのは本当に残念だよ」と彼女は言う。
「そうだね。今でも生きていたら三人でこうやって焼き肉を食べていたかもしれない」
「人生は辛いこともあるけどさ。年を取ってわかることもあるよね」
僕らは肉を焼きながら、高校生の頃のことを話した。ビールの酔いで少し饒舌になっている。中村詩織は昔と比べると、大人びた雰囲気を持っていたが、それでも何処かに当時の面影を残している。
「あれから恋人はいるの?」と僕は聞いた。
「大学生の頃は誰とも付き合わなかったよ。彼のことを引きずっていたからね。会社で働くようになってから付き合った人はいるよ」
「そっか」
記憶の中の神谷のことを思い出し、もしかしたらここで僕らが出会ったのも必然ではないかと思った。
「神谷のことはもう忘れたの?」と僕は聞いた。
「そうだね。思い出すことは少なくなったな」
僕らは焼き肉を食べ終えると、最後にデザートを注文して、会計をした。店の外に出ると、風が冷たく感じて、体が震える。僕の隣で中村も寒そうに首をすくめていた。
僕らは夜の街を駅に向かって歩いて行った。その先に何があるのかなんて誰にもわからない。でも全ては決まっているのかもしれないと思う。空には星がまばらに輝き、雲一つなかった。僕の隣を歩く中村は鼻歌を歌っている。僕はあの日の夕暮れの海岸の光景を思い出した。
執筆の狙い
村上春樹のノルウェイの森に影響されて書いてみました。