断罪のエクスタシア《改訂版》
プロローグ
どこで、道を間違えたんだろうか。
大切な、何もかもが、私の手に触れた途端、呆気なく何処かに消えていってしまう。
どうして?なんで?
一生をかけて守りたいものが、手放したくないものが離れるたびに、何度、そう思っただろうか。
もっと早く、結論を導き出すべきだった。もっと早く、「自分」という名の解答用紙に、答えを書き込むべきだったのだ。
私は、制限時間を大幅に過ぎてしまっていた。
もう書き込むことのできない、時間切れの空白に向き合うだけの、無意味な時間を過ごしていたのだ。
どんなに抗ったところで、その事実は変わらない。結果は0点、ゲームオーバー。
それを現実だと、認めなければならない。
何もかも失ってしまった。何一つ、残すことなく……いや、最初から何も持っていなかったのかもしれない。守るものすらも、幻想だったのかもしれない。最初から、こうなる運命だった、これが、正解だったのかもしれない。
最後に残った大切なものが、目の前でガラスのように脆く、あっさりと壊れる様は、不思議と、悲しくはなかった。
悲しさとは、傷つき、欠けてしまった、ガラスのように鋭く砕け散った心の破片を素手で拾い集めて修復する痛みのことなのではないかと、私は思っている。
全てを失った私の心は、完全に崩れ落ちてしまったのだ。
粉のように細々になった、修復不可能な心の痕。それを見て、私は安心したのだ。「もう、拾い集めなくてもいいんだ」と。
だから、もういいんだ。
そう、思っていたのに。
綺麗さっぱり消えたと思っていた私の心は、黒いもので補完されてしまった。どす黒く、スライムのように粘っこいそれは、どんな攻撃を受けようとも、吸収し、崩れなかった。
私は思った。吸収されれば、何もかも終わらせられるのではないか。面白いことに、私はそれに縋り付きたいと思ってしまったのだ。
目を閉じると、体が楽になっていく。私を、抱擁して、受け入れてくれる。それが何であろうと、私はそれを受け入れるだろう。
もう何も、恐れなくていい。
もう誰にも止められない。止めたいとも思わないし、止められる訳もない。どんなものだって、壊して見せる。それが、私の選んだ道なのだ。
でも、一つだけ、心残りがある。もし、やり直せるのなら、全て、ゲームのようにリセットできるならば。
私は、かつての仲間を殺すことも厭わないだろう。
リセットするならば、どこがいいだろうか。
ああ、あの日だ。
あの日から、全てが始まったんだ。
第一話
「ごはんできたよー!」
フィオナの元気な声が、キャンドルの薄明かりに照らされた家全体に響き渡る。
その声を聞いた子どもたちが、弾けるような笑顔を浮かべながら彼女のもとへ一斉に走ってきた。
「ほら、みんなお皿持って並んで!」
フィオナはそう言いながら、彼女の横にあった大きめの椅子の上に、大量の積み上げられた木皿を置く。
何十人もの子どもたちが慌ただしくその皿を一つずつ持ち、騒々しい喧騒の中、彼女の前で列を成していくその光景は、まるで童話の一場面を連想させるようであった。
フィオナが子どもたちの皿に次々と注いでいく夕食のカレーは、どちらかと言うと、スパイス香る野菜スープに近いものである。少ない材料で薄味のそれは一概に美味しいとは言えないものであり、食べ盛りの子どもたちにとっても、満足いくものではないだろう。
しかし、そんなことはないと言わんばかりの笑顔で皆、夕食を受け取っていた。
「カレーを注がれた子から、ミラお姉ちゃんの所に行ってね」
そう言うフィオナの後ろには、キッチンで黙々と鶏肉のステーキを切り分けている少女、ミラがいた。
「はいはい……そこ、そんなに押すんじゃない。全員分ちゃんと用意してあるんだ」
艶のある黒髪をポニーテールにまとめた、平均よりも少し背の高い少女。エプロンの下からちらりと覗く手足は引き締まっており、いかにもスポーツマンというような印象を与えていた。
「ほら、ステーキ班ミラ様のお通りだ」
そう言って、ステーキの切り分けを終え、キッチンから大皿を片手に出てきた彼女は、慣れた仕草で子供たちの皿に一つずつ、ステーキとスプーンを置いていく。
表面に薄い焦げ目を帯びている鶏肉の皮の下から溢れんばかりに滴り落ちて、カレーの表面に波紋を作り上げる黄金色の肉汁は、カレーの薄味をみるみるうちに相殺し、その香ばしい香りも相まって、子どもたちの食欲を倍増させていった。
「肉が来たぞー!」「ミラ姐、ありがとー!」
「はいはい、“僕”に感謝くらいなら、お礼に皿洗いでもしたらどうだい?」
悪そうな笑顔を見せながら、冗談めかしてそう言うミラの「僕」という一人称に、ここでは誰も疑問を抱かない。
そのボーイッシュな見た目と雰囲気が、あまりにも彼女の印象と合致していたからである。
料理の配膳が完了した子どもたちは、フィオナとミラの目線の先にある六つの長机に向かい、設置されている椅子に次々と座っていく。
そこに向かうまでの道中で子どもたちから発せられる足音や喧騒は、まるで一種の音楽のようにどこか明るく楽しげな様相を奏でており、食卓の雰囲気をより一層暖かくしていった。
少しして、子どもたち全員が席に着いた。
それを確認したフィオナは、自分たち二人と、ここ、孤児院「ララ」の養父母の分のカレーを注ぎ、残り二枚の鶏肉の切れ端を彼らの皿に載せてから席に向かった。
二人はまだ十八歳と若い少女であるが、ここを切り盛りする立派な存在だ。
二人は、料理や家事、子どもたちの世話などを、自分たちを拾い、大切に育ててくれた養父母の代わりにこなしていた。
フィオナが自分の席に着こうとした時、一人の子どもが彼女に話しかける。
「フィオ姉、わたしのおにく、たべて!」
その子は、鶏肉の乗った自分の皿をフィオナに突き出してきた。
「えっ、ユキ?」
フィオナは驚いて、席に向かう足を思わず止める。
「わたし、これがなくてもへーきだから!」
そう言い張る子ども——ユキであったが、その幼子としての大きな覚悟を裏切るかのように、彼女の腹の虫が大きな悲鳴をあげた。
彼女は顔を真っ赤にして、半泣きでフィオナから目を逸らそうとする。その愛らしい仕草を見て、フィオナは思わず吹き出してしまった。
「フィオ姉!わたしほんきなんだからね!」
最近芽生えた羞恥心と、揺らぐ覚悟の狭間で感情がいっぱいになってしまったユキは、ついに泣き出しそうになってしまう。
フィオナは、そんな彼女が浮かべている涙を拭い、優しい声で話しかける。
「ありがとう、ユキ。でもね、あなたが食べてくれないと、フィオ姉は悲しんじゃうんだよ? だって私は、みんなのためにご飯を作ったんだから」
そう言う彼女であったが、ユキはなかなか引き下がらない。
「でも、いっつも頑張ってるフィオ姉には、もっといっぱい食べてほしいし……」
口を尖らせながら、照れ隠しのように呟くユキ。その様子を見ていたミラが、にやりと笑って自分の黒髪を指先で弄りながら、小声で口を挟む。
「ユキ、ここだけの秘密なんだけど、実はね……あの子、ダイエット中なの」
「そ、そうなの?」
「そ、そうよ、私はダイエットしてるの。だから、渡されたら食べるしかないし、太ったら困っちゃうなあー」
嘘が苦手なフィオナは、ミラのフォローを活かすために必死で棒読みをした。
「……わかった、でも、おなかがすいたらおしえてね!」
そう言って、ユキは自分の席に小走りで戻っていった。
「ミラ、余計なこと言わないでよ……」
フィオナが頬を膨らませながミラの方を向くと、彼女は意地悪そうな笑みを浮かべながら肩をすくめる。
「まあまあ、僕のおかげで丸く収まったんだから、ね?」
「むぅ……」
「……それよりさ、本当に太った?」
「うるさい」
「ダイエット、手伝おうか?」
「考えとく」
キャンドルの明かりが、揺れ動く子どもたちの影を壁やカーテンに映し出している。それは外から見れば、大家族が温かく囲まれているような光景に見えるだろう。
他愛のない会話をしながら机に向かうフィオナとミラの足取りに、疲れた様子は全く見られない。
毎日のように忙しいが、彼女はこの生活が大好きであった。子どもたちの笑顔が何よりの励みで、どんな困難ですらも乗り越えられる気がしていた。
「フィオ姉! 早くいただきますしようぜ!」
そう、一人の男の子が言う。
「そうだね、じゃあみんな手を合わせて……」
『いただきます!』
その掛け声を合図に、子どもたちは夕食を食べ始める。
「……みんな、今日も楽しそうだな」
フィオナの横で、ミラが静かに呟く。
彼女の言葉に、フィオナは頷く。
「うん、そうだね」
いつもと変わらない風景が子どもたちの笑顔が、どこか胸を温かくさせる。
それが今の幸せであり、それを守ることが自分たちの与えられた使命なのだと、二人は心の底から思っていた。
あまり裕福ではない、その場凌ぎのような生活。
けれど、毎日が楽しくて、平和だった。
「いつも悪いなぁ、こんなに助けてもらっちまって」
「二人とも、たまには休んでもいいのよ?」
二人の横に座っている老夫婦は、食事を口に運びながら、そう口にする。
フィオナは少し微笑みながら言った。
「いえいえ、私はただ、昔の恩返しをしているだけですから!」
フィオナは、自慢げな顔をしながら、その豊満な胸をそらす。
「嫌なことも、大変なことも、あの子たちの笑顔を見ていると、全部かき消されていく」
ミラは、頬杖をついてそう呟く。
「今なら、じいちゃんとばあちゃんが僕らを拾ってくれた理由が分かるな」
その無邪気で、楽しそうな顔を見ながら、幸せそうにミラは微笑む。
「こんな日が、毎日続けばいいのに」
コン、コン。
そんな時、軽く、玄関の戸を叩く音がした。
「おじさん、誰か来たよ」
フィオナがそう言うと、客人に気づいた老夫が立ち上がる。
「こんな時間に客か、珍しいな」
コン、コン。
再び、控えめなノックの音が響く。
「はいはい、今開けるよ」
穏やかな声とともに、養父は扉へと向かった。
ギィィィ……と音を立てながら彼はドアを開く。
扉の向こうにいたのは、謎の集団。
八、九人ほどで構成された集団は皆、同じような白装束を身に纏い、真っ白で不気味なヴェネチアンマスクを身につけていた。
「あの……なんの御用ですかな?」
彼らは、何も答えない。数秒の沈黙の後、集団の先頭にいた男が口を開けながら、真っ白なマントの内側から短剣を抜いた。
「——っ?」
何か言う間もなく、刃を養父の喉元に剣の鋒を突きつける。
「“器”を差し出せ、さもなくば殺す」
白装束の声は無機質で、極めて冷静なものであった。
第二話
「“器”を差し出せ、さもなくば殺す」
突然の出来事に怯えた老夫は、摺り足でじりじりと部屋の中に追い込まれていく。その光景に気づいたフィオナたちは戦慄し、動くことができなかった。
動けば、殺される。
誰一人として声を発さない、いや、発せない状況の中で、本能的に全員がそう直感していた。
「もう一度言う。器を差し出せ」
老夫は、黙っていた。そんなもの、砂粒ほどの心当たりすらない。必死に弁明しようと、彼は再び口を開ける。
「本当に何も知らないんだ、信じてくれ!」
「……そうか、ならば死ね」
白装束が、静かに剣を振り、彼の喉元を切り裂いた。
切創から赤黒い血が勢いよく吹き出し、彼は膝を突いて前に倒れ込む。
どさり、という彼の力尽きた音が、地獄の始まりを告げた。
「あ、あなた……?」
目の前の光景を理解できない老婦は、既に事切れた夫の死体に駆け寄る。
「ねえ!あなた!あなた!」
彼女は絶叫しながら死体を左右に揺さぶった。
「どけ、邪魔だ」
白装束たちは、彼女をあっさりと切り捨てる。
その刃には、情の一切が込められていなかった。
次の瞬間、白装束たちが室内になだれ込んでくる。
どこに潜んでいたのだろうか、ゆうに五十を超える人数の白装束が孤児院に押しかけていた。
その目的はただ一つ。
「『器』を差し出せ」
再び一方的に突きつけるその声は、未だ淡々としていた。それはまるで何百回と繰り返した台詞のように、感情のかけらもないように聞こえた。
ようやく目の前で起こっていることを、フィオナとミラは理解する。
動かなきゃ、殺される——そう思った時には、すでに体が動いていた。
「逃げて!!」
フィオナの叫び声が響く。
ミラはすぐさま、一番近くにいた二人の幼子を両脇に抱え、食堂の奥にある階段へと駆け出す。
フィオナと子どもたちが、ミラの後をついていくように一斉に走り出した。
だが、遅すぎた。
逃げ遅れた子どもたちが、次々と白装束の手にかけられていく。
血飛沫が舞う。
子どもたちのまだ小さな内臓が飛び出し、壁や床にこびりつく。
机がひっくり返され、食器が割れる音が響く。
机の下に隠れていた一人の子どもが、断末魔をあげながら手足を引きちぎられて死んでいった。
命からがら二階にある寝室に逃げ延びた二人の少女と子どもたちは、ベッドでバリケードを作って立てこもる。
暖かかったはずの空気は、すでに冷え切っていた。
そんな時、白装束たちが階段を駆け上がってくる。
「ちっ、無駄な抵抗しやがって」
そう言いながら、彼は、フィオナたちが必死に作ったバリケードを、一蹴りでいとも簡単に吹き飛ばした。寝室に入ってきた白装束たちは、再び子どもたちの虐殺を再開する。
「やめて、やめてよぉぉぉ!」
フィオナの絶叫も虚しく、白装束たちは何の感情も見せずに、子供たちを殺していく。
それでも、彼女は諦めなかった。
ミラとともに、わずかに生き残った子供たちを連れて、奥の物置へと走る。
「はやく、はやくっ!」
泣き叫ぶ子供の手を引き、物置の扉を閉めて、机や棚で再びバリケードを作る。
息が荒い。心臓が痛いほどに跳ねる。
だが、それも束の間であった。
扉の向こうから聞こえたのは三度の衝撃音。重たい扉が揺れるたび、子供たちが恐怖で引きつった声を上げる。
その時だった。
これまでとは比較にならないほどの轟音と共に、バリケードごと扉が粉砕される。
扉を爆発させたのだろうか、扉があった場所の周辺は黒く焦げ付いており、散乱した木材からは火の手が上がっていた。
「逃げても無駄だ。“器”は、傷付けても死ぬことは無いらしいからな。皆殺しにして、炙り出すだけ……ん?」
「……もう、やめて……おねがい……」
ユキの声だった。フィオナの腕の中で震えていた彼女は、涙を流しながら立ち上がる。
「もう、みんなをころさ……」
その言葉が、届くことはなかった。
一切の躊躇いのない風切音と共に、ユキの体が縦に真っ二つに切断された。
崩れ落ちる肉体を目の当たりにしたフィオナは、飛び散る彼女の血と内臓を、全身で浴びる。
「……ちっ、またハズレか」
「…………っ」
その瞬間、フィオナの胸に押し寄せたのは、無力感と怒りだった。
何かが壊れる音が、フィオナの胸の奥で響いた。
その瞬間、彼女は背中にぞわり、とした感覚を覚える。
その感覚は、すぐに全身に広がった。
フィオナの周りに、謎の黒いドロドロが湧き上がる。
こ ろ せ
フィオナは右の掌を突き出し、「それ」に命令を下した。
第三話
フィオナに命令を下された「それ」は、まっすぐ白装束の方に伸びていき、あっという間にその身体を捉える。
「やめ——」
フィオナは、突き出した右手を握りしめた。
すると、「それ」に握りしめられた白装束の身体が潰れ、四散する。
それはまるで、破裂する風船のように、儚く、一瞬の出来事であった。
「殺す……全部、殺す……」
フィオナの瞳は赤黒く染まり、ぶつぶつとそう繰り返す声は低く、怒りと絶望に満ちていた。「それ」が床を這い、壁を伝い、みるみるうちに部屋中を黒く変色させていく。
「くそっ、発現したのか……ッ!」
一人の白装束がそう呟きながら、仲間に指示を出してフィオナ目掛けて一斉に攻撃を仕掛ける。
しかし、それは全く以て無駄な行為であった。
フィオナが腕を振り上げると、黒く変色した床から、棘のような姿へと変形した「それ」が無数に突き上がって白装束達の身体を貫いた。
フィオナは、串刺しにされた大量の死体の中心で天井に空いた穴から刺す月明かりに照らされている。神々しく、狂気と残虐さに塗れたその姿は、まるで地獄の王を連想させるようであった。
「くそっ……!」
貫かれた白装束の殆どは即死、又は致命傷を負って動けなくなっていた。そんな中で一人だけ、頭部以外を貫かれた状態で一命を取り留めていた。フィオナはそれに気づき、とどめを刺すためにゆっくりと歩き出す。
「フィオナっ!」
その時、物置にいたミラがフィオナに向かってそう叫ぶ。彼女は、どこか悲しく、そして怯えている、まるで主人に突き放された子犬のような表情を浮かべていた。
フィオナは、その姿を一瞥し、ミラに一言だけ呟いてから次の動作に移る。
「子どもたちを、お願い」
彼女は、棘によって空中に固定されている白装束の仮面を優しく取り、その素顔を見つめる。かろうじて残った、その双眸は、恐怖で大きく散大していた。
「くそっ……!」
「……あなたは何も分かってない」
そう言ってフィオナは彼の頬にそっと手を当て、「それ」を纏わせてから自分の顔に近づける。
「これは、あなたたちが私たちにやったこと」
「ヒッ……!」
彼は、殺気に満ち、血で赤く滲んだフィオナの眼を見つめ、顔を引き攣らせる。
「……ギャッ……!」
その瞬間、「それ」が収縮し、彼の顔が潰れた。
「……ぜんぶ、殺す」
依然としてそう独り言を呟き続けるフィオナは、壁の一部を吹き飛ばし、外に飛び降りた。
フィオナが地面に着地し、次の標的を仕留めるために辺りを見渡す。
次の瞬間、空間が歪み、そこから長槍を持った五人の白装束たちが現れ、彼女を取り囲んだ。
しかし、誰一人として動くことができない。
フィオナの殺気と、「それ」を纏った異常な光景に怖気付いたのだ。
「うわあああぁぁぁぁ!」
今動かなければ死ぬ——、そう悟った槍持ちの一人が叫びながら、フィオナを貫こうと飛び上がる。
フィオナは空気のように軽やかに動き、その一人目を真っ正面から迎え撃つ。彼女は、まっすぐ突き出された槍を右に交わして槍を掴んで白装束ごとこちらに引き寄せ、その頭に手をそっと触れる。
その瞬間、頭蓋骨が砕け散る音があたりに響いた。とどめの瞬間、一瞬のフリーズ、他の四人はそれを見逃さなかった。
それぞれがフィオナの周りに槍を突き出す。避ける場所を最大限まで削り、一撃で敵を絶命させる連携技。
しかし、フィオナは、避けなかった。
身体を貫通した——はずだった。
貫いたはずの箇所は黒ずみ、ドロドロとした粘液のような状態になっていた。
彼女の体に入っていた槍が吸収され、白装束たちは武器を失う。次の瞬間、五人は全滅し、周囲には首のない死体が無惨に転がった。
フィオナの足元に、滴る血と黒い粘液が混ざり合い、広がっていく。その光景は、まるで本当の地獄を連想させるようであった。彼女に恐怖し、逃げる白装束たちが、叫び声も上げられずに体の一部を消され、次々と静かに血の海に沈んでいく。
それはもはや“戦闘”ではなかった。
虐殺だった。
そんな時、全滅を悟った白装束の一人が生き残った仲間に向かって叫ぶ。
「奴を、捕獲対象から討伐対象に変更する。“あれ”を、解放するぞ」
その言葉が響くと同時に、その場の空気が変わる。
「隊長!“あれ”って……まさか!」
「やらなきゃ全員死ぬ!考えている暇はない、やるぞ!」
白装束たちが会話をしている間にも、フィオナの影は彼らに向かってみるみるうちに近づいてくる。
白装束たちは一斉に、傍にあった森へと走った。
フィオナもそれを追いかけたが、気配を隠した彼らを、我を失った彼女は見つけることができない。
すると、森の影に身を潜めた白装束の一人が魔法を唱え始める。
「神よ、我等に力をお貸しください!あ……」
「待て」
「おい、今は詠唱中だ!死にたいのか、お前……」
彼の横にいたのは、どこからか現れた、身長の低い少女だった。銀の長髪を靡かせ、真っ黒なレース付きのドレスを着ている。彼は、その姿を見た瞬間驚き、即座に距離を取る。
「お前はっ『回収者』……!」
その瞬間、轟音と土煙が辺りを包む。
「今度は一体なんだ!」
轟音が連続し、地面は地震の如く揺れ、ひび割れ始めた。
辺りが土煙に覆われる。
次に視界が開けた時に目にした光景は、到底信じられるものではなかった。
目の前にあった森の一部が、消失していた。白装束を見失ったフィオナが、怒りに任せて腕を肥大化させ、森を地面ごと抉ったのだ。
彼女の目的は、彼らへの復讐。
辺りの、生きた白装束の気配が完全に消え去るまでその勢いは止まらない。彼女は次に、自分の腕を五百メートルほどの長さに延ばして、横に一回転する。
「しゃがめ!」
少女のその言葉で咄嗟に、横にいた白装束も男は屈む。
次の瞬間、森の木が全て切り倒されていた。
木の断面が恐ろしく歪なことから、切断したのではなく、断面を無理矢理抉り取ったことが分かる。
辺りには、首や上半身が吹き飛んでいる者と、運良く避けられた者が残っていた。しかし、その生存者も即座に接近したフィオナによって、次々に殺害されていく。
「あれは一体なんなんだ……!?」
「禁忌魔法」
怯える男の問いに、少女は静かに答える。
「あれは、持ち主の願いに合わせて能力が変化する最強の魔法だ。まさに、お前たちが欲しがっていた、な」
「嘘……だろ……?」
男は、絶望した表情で蹂躙される仲間たちの姿を見ていた。
「……私に、一つ作戦がある。お前のそのローブを私に……」
そこまで言いかけた少女は、横にいる男の雰囲気が急変したことに気づいた。
男がその場で立ち尽くし、嗤いはじめたのだ。
「ハハ……ハハハ……ああ、そうか。もう、終わりなんだな……」
乾いた笑みを浮かべながら、彼の頬に涙が伝っていく。
男は、最初で最後の「敗北」を味わったのだ。
その感情は、恐怖とも、絶望とも名状し難いものであった。
男はゆっくりと顔を上げながら静かに白装束を脱ぎ捨て、自らの上半身を露わにする。
「……もうどうなってもいい。全ては、我らが神の御導きのままに……」
彼の胸元には謎の紋章のような刺青が大量に彫られており、その首元には一本の首飾りが掛けられている。その先端には、禍々しいオーラを持った黒い球体が繋がれていた。
「貴方に全てを捧げます。どうか、我に力を——!」
そう叫んだ直後、男は謎の球体を口に入れて飲み込んだ。
黒い球体が男の喉を滑り落ちた瞬間、周囲の空気が凍りつくように変質する。
ごぎ、ぐぎぎ、と肉が軋む音が男の全身から響く。男の体表は瞬く間に紫黒色に変わり、皮膚が裂けて血管が浮き出し、骨格そのものが音を立てて歪み始めた。
「うっ……がああああああああっ!」
苦悶と快楽の混じったような咆哮を上げながら、男の体は膨張する。黒く変色した身体中の骨という骨が、変形しながら皮膚を破り、外界に晒される。
破れた皮膚からは、無数の眼球のようなものが湧き出てきた。共に肥大化した手足は、その巨体を支えるために四足歩行のような形態になり、最終的にヒトの形を完全に失ったその全身は、黒く濁った粘液で構成されているかのような様相を見せた。
ぼたぼたと爛れ落ちる皮膚だったものは、触れた地面を溶かし、辺りに蒸気と激臭を振り撒いている。
「……これが、“信徒化”……」
少女の声は低く、未だ冷静さを保っていた。
「唯一神よ、同志を殺したこの不浄なる者に、天罰を——ッ!」
男の言葉と共に、最後に残った小さな顔も歪みながら姿を消す。同時に巨大化した腕が地を裂き、少女へと振り下ろされる。
しかしその一撃は、少女には届かなかった。
フィオナが、信徒化した男に襲いかかったのだ。
第四話
怪物に襲いかかったフィオナの肥大化した双眸は、既に焦点が定まっておらず、正気の沙汰とは思えない様相を見せていた。
彼女の、体の各所から伸び、怪物の巨体に絡みついた「それ」は、暴れる怪物の上でフィオナを固定し、彼女の身長の十倍はあるであろう怪物相手に、彼女は次々に攻撃を与えていった。
「グアアァァァ!!」
ようやく「それ」を引き剥がすことに成功した怪物がフィオナを吹き飛ばす。
異常な速度で再生する怪物と、傷だらけのまま狂ったような笑みを見せるフィオナ。
彼女は再び、怪物に攻撃を仕掛ける。
手足を獣脚類のように変化させ、超高速で怪物に急接近した。突進されると悟り、怪物は反射的にフィオナのいる方向に防御を集中させる。
しかし彼女は、衝突直前で真上に飛び上がり、腕を怪物と同程度まで急激に肥大化させ、落下速度を上乗せした一撃を怪物に叩き込んだ。
無防備な真上からの攻撃によって、怪物は地面に捩じ込まれるようにしてめり込む。フィオナは、動けない状態の怪物を前にして、笑いながら連続して打撃を叩き込んだ。
自在に姿形を変化させる手足、大きく裂けて牙を見せる血塗れの口、そして、額に生えている一本の黒角。
そんな彼女の姿は、信徒化した男同様、もはや人間の形を保っているとは言い難いものであった。破壊衝動と戦闘欲求に支配されたフィオナが怪物を蹂躙するたびに、音が爆ぜ、地面が揺れる。
怪物が咆哮し、打撃から逃れようと暴れる。
フィオナは、その様子を見て愉しむかのようにして、粘液の槍を複数生成させると、次々と怪物の背中に打ち込んでいった。
フィオナの心は、家族を殺された恐怖と苦痛ですでに壊れてしまっていた。
ただひたすらに、「殺す」、その衝動だけが、彼女の体を突き動かしていた。
無数の打撃の衝撃によって地割れが起こったことで、怪物はやっとのことで地面から抜け出す。フィオナの打撃を回避し、そのまま彼女を空中に殴り上げて攻勢に転じようとする。
しかし、殴り上げられたフィオナは空中で体勢を整え、そのまま一気に怪物の顔面へと飛びかかった。鋭く変質し、肥大化した巨大な爪が、怪物の巨体を貫く。
「ガアアアアァァ!!」
落下と同時に、フィオナは、突き刺した腕を触手のように変形させ、怪物の内部を蹂躙していく。
そんな時だった。
「フィオナ、もうやめて!」
その時、少し離れた悲痛なミラの叫び声が響いた。
しかし、その訴えはフィオナの耳には届かない。
「フィオナまでいなくなったら、僕……もう……」
「大丈夫だ」
地面に突っ伏して涙を流すミラに、誰かが声をかける。
そこには、白装束のローブを片手に立っている黒ドレスを身に纏った少女の姿があった。
「彼女……フィオナの心は、まだ完全に飲み込まれたわけじゃない。怪物は、おそらく手遅れだがな」
そう言って、少女は白装束を羽織る。
「フィオナを鎮静化してくる。君は、ここで待っていろ」
そう言った直後、彼女は音もなくその場から消え去った。
第四話
「やれやれ……何を願ったらこんなことになるんだか」
ミラの前から消えた少女は、瞬時にフィオナのいる付近の上空に現れ、独り言を呟く。
その時だった。
ズシャァァァッ!!
怪物の息の根を完全に止めたフィオナが、跳躍して少女に襲いかかる。
少女はその攻撃を軽々と躱してフィオナを地面に叩き落とした。フィオナと共に、少女もゆっくりと地上に降下する。
地面と激突したフィオナは、先程とは一変して全く笑顔を見せず、顔をぐにゃりと歪めて少女を睨みつけていた。腕が延び、完全に四足歩行状態になっているその肢体と形相は、獣以外の何者でもなかった。
「フィオナ」
その名を呼んだ少女の声には、冷たさも怒りもなかった。まるで、幼子を諭すような優しさすら滲んでいた。
フィオナの体がびくりと震えた。
一瞬の動揺を見せた後、まるで獲物を見つけた捕食者のように、彼女はゆっくりと少女がいる方向へと距離を詰めていく。
「さあ……来い」
瞬間、フィオナが凄まじい速度で少女に向かって拳を振る。怪物をも凌駕した一撃、それを、間一髪で少女は横に躱す。
「フィオナ、私は……」
少女が言葉をかけようとするが、フィオナは攻撃を継続する。地面が一瞬で黒く変色し、そこから伸びた無数の棘が少女を突き刺す——が、それは残像。
少女は、すでにフィオナの背後に周り、彼女の後頭部に手のひらを翳す。
だが次の瞬間、フィオナの後頭部が裂け、そこから生えてきた三本目の腕が少女を吹き飛ばした。予期せぬ攻撃を受けた少女は、頭から血を流しながら立ち上がる。
「本当に……厄介だな」
そう言いながら、少女は両手に魔法陣を展開する。
「次で、終わらせる」
朝日が、昇り始めた。
暖かな陽光が、二人を照らす。
一瞬の、静寂。
動いたのは、同時だった。
フィオナは右腕を、引き絞った弓のようにうねり、空間を切り裂くような音を立てながら少女の喉元に振り翳す。力任せの理性を持たない打撃、それは、少女にとって隙だらけだった。
少女はすれ違いざまに、フィオナの胸元に滑り込んで振り翳された腕を避ける。そして、フィオナの腹のあたりに魔法陣を展開した手のひらを当てて詠唱した。
「——律命韶(りつめいしょう)、ここに告ぐ。彼の者の穢れを禊ぎ祓え」
その瞬間、フィオナの全身が発光を始めた。
「ぐ……あ……!」
フィオナが呻くと同時に、「それ」が次第に彼女から分離し、霧散していく。額の角もなくなり、手足も元通りになっていった。
「おやすみ、フィオナ。今はただ、安らかに」
その一言と共に、光が静かに収束していく。
フィオナの体が、糸の切れた操り人形のように崩れ落ちた。
重力に従い、彼女は少女の腕の中へと倒れこむ。その寝顔は穏やかで、まるで幼い子供のようであった。
「ふう……間に合った……」
その時、物陰に隠れていたミラが飛び出してきた。
「フィオナ!しっかりして、フィオナ!」
ミラは泣きながら彼女の名前を繰り返し叫ぶ。
「大丈夫だ、死んではいない」
「あなたは……?」
フィオナの無事を確認して安堵したミラは、そう少女に問う。
「私の名前はエリィ。お前たち『器』を回収するためにここに来た“回収者”だ」
少女——エリィは、そう答えた。
第五話
「おはよう、フィオ姉!」
その声が聞こえた瞬間、カーテンのスライドする音と共に、瞼の裏の暗闇が真っ赤に染まる。
フィオナが寝惚けたまま起き上がる。
周りには、いつもの光景が広がっていた。
起きたばかりとは思えないほど、元気よく追いかけっこをしている子供。
まだ寝ている子に、ちょっかいをかけようとしている子供。
収拾がつきそうにないその状態を見てオロオロするミラ。
ベッドから起き上がり、寝具の片付けをしながらそんな光景を見ていると、近くにいた数人の子どもたちがフィオナに近づいてくる。
「フィオ姉、今日も一緒におえかきしよう!」
「もちろん。今日は、どんな絵を描こうかな?」
そう言って、女の子に渡されたスケッチブックをフィオナは手に取る。
「フィオ姉、今日の夜はカレーがいい!カレー!」
「はいはい、考えとくね」
……何か、悪い夢を見ていたような気がする。
こんな、「当たり前」を失うような、そんな夢を——
「フィオ姉!」
フィオナは、男の子の声がする方を向く。
なんで俺たちのこと、助けてくれなかったの?
その瞬間、男の子の身体が黒ずみ、どろどろと溶けていく。溶けた箇所から滲み出す黒い粘液は彼の周囲をみるみるうちに漆黒に染めていった。
よろよろとこちらに近づいてくる彼に恐怖を覚えたフィオナは、反射的に後ろに下がる。
彼女の腕に、冷たいものがぴとりと触れた。
後ろを振り向くと、その先には信じ難い光景が広がっていた。数十人の子供たちが、黒い粘液の溢れ出す、窪んだ眼窩をこちらに向けていたのだ。
「やめ——!」
フィオナは、必死でそれを振り払おうとするが、思うように体が動かない。足元を見ると、粘液から這い上がってきた子どもたちが、縋り付くようにして彼女の足を掴んでいた。
抵抗できないまま倒れ、背中を打ちつけて動けないフィオナは、粘液に全身を嬲られ始める。
力を入れても、その一切を体が受け付けない。
その感覚は、彼女の心にこの上ない恐怖と絶望を刻みつけた。
沈んでいる。
そう感じた時にはもう遅い。
冷たい圧迫感は、すでに全身を覆っていた。
全身が沈み、水中を漂っているような感覚に陥った瞬間、そっとフィオナの頬に誰かが触れる。
視界が開けたその先には、目の前で両断されたはずの少女、アミがいた。彼女は、フィオナの目をまっすぐ見て告げる。
ひ と ご ろ し
フィオナは、叫び声を上げながら目を覚ました。
額には冷や汗が滲み、心臓が今にも飛び出しそうな勢いで激しく鼓動している。
「……フィオナ、大丈夫?」
ぼんやりとした視界の中に、朝日の逆光に映るミラのシルエットが浮かぶ。
「……夢、だった?」
フィオナはそう呟きながら身体を起こそうとしたが、全身に激痛が走った。ミラは、そんな彼女の頭を自分の膝からそっと下ろし、背中を支えて身体を起こすのを手伝う。
起き上がって初めて、フィオナは気づいた。
目の前に、大量の墓標が立っている。そばにあったはずの孤児院は、原型がないほどに損傷しており、今にも崩れそうな状態であった。
一体、何が——
「無理しないで……あんなことがあったあとだもん……」
混乱しているフィオナに、悲しそうな声でミラが話しかける。
「あんな、こと……」
ふと、そばにある墓標にフィオナは目を向ける。
手作りの十字架、花束の添えられた盛り土、名前が刻まれた板。
一枚の板に、こう刻まれていた。
『アミ』
「……嘘」
次の瞬間フィオナは、その場で地面に嘔吐し始める。
何度も、何度も、胃袋が飛び出し、腹の中が空っぽになるほどまで嘔吐を繰り返した。
ミラは、フィオナが落ち着くまで、ずっとそばで彼女の背中を優しく摩っていた
涙も、声も出ない。ただ、この現実を受け入れまいと、フィオナの全身が外界を拒絶し、震え続けていた。
「気がついたみたいだな」
その声に気づいたフィオナが咄嗟に顔を上げると、銀髪を靡かせている少女が目の前に立っていた。同い年、いや、年下だろうか。140センチメートル半ば程度の身長に見える彼女の雰囲気はやけに大人びており、身長に反して全く幼さを感じさせなかった。
「あなたは……誰?」
フィオナがそう問う。
「私の名前はエリィ・イーヴァ。世界連合軍——エクソダスから派遣された“回収者”だ」
「かいしゅうしゃ……?」
「フィオナと、ミラ。二人は『器』に選ばれた存在、“禁忌魔法”の発現者だ。
私は、この世界に存在する八人の『器』を発見、回収するため、ここにいる」
その言葉が、強く胸に刺さる。昨日のあの光景、怒りと殺意にまかせた、狂気のような衝動と、溢れ出る黒い粘液。あの時、白装束の一人が言ったのを思い出す。
『発現したのか』と。
「……私が……?」
「“禁忌魔法”、それは、所有者の願いを叶える魔法だ。」
「願い……」
「ああ、君があの時持った『無力感』と『復讐心』、その二つが、あの黒い粘液——“人を殺す魔法”とでも称しておこうか——を生み出したんだ」
フィオナがエリィの言葉を噛み締めている横で、ミラが彼女に質問をする。
「何が、あなたの目的なの」
ミラの問いに、エリィはほんの少しだけ沈黙を挟んだ後、真っ直ぐミラの方を向いて話し始めた。
「私たちエクソダスの目的は、“ネフィリム”の討伐だ」
第六話
エリィは二人に話した。白装束の目的は、「器」とはなんなのか、彼女の、目的とは何か。
“ネフィリム”——それは、魔法を持たないとされる幻の種族。
彼らは、禁忌魔法の強大な力に魅せられ、その力を巡って争い合った。禁忌魔法の、真の権能を我が物にするために。
「……書き換える?」
「そう、八つ全ての禁忌魔法が揃った時、——その力を持って“聖域”で祈ることで、世界は、持ち主の願いに沿って“無条件の再構築”を行う。世界そのもののあり方が、所持者によって作り替えられるんだ」
「それって……そんなの、神様みたいな……」
ミラが震えながらそう言う。
「ああ、まさに神の力に匹敵する。だが、それには代償が必要だった。その力を行使した結果、奴らは「肉体」と「知性」を失い、“深淵(ナラク)”に堕ちた。これが、ネフィリムの正体だ」
ミラは、一瞬、昨日の変貌した男の姿を思い出す。歪み、狂気に塗れた破壊衝動の塊を。
「……白装束の人たちは、“ネフィリム”じゃないの?」
ミラの問いに、エリィは首を横に振った。
「いや、彼らはネフィリムと融合し、その強大な戦力によって『器』を集め、もう一度聖域に向かうことを目的とした宗教団体『牙』だ。そして、自分の命と引き換えに、ネフィリムの力を得ることによって怪物に変貌する、その儀式を私たちは“信徒化”と、呼んでいる」
「……ねえ」
二人が話していると、横で座り込んでいたフィオナが、突然口を開ける。そして、おぼつかない足取りのまま崩れ落ちるようにして、アミの墓標が立ててある盛土の前に行った。
墓標の前に座り込んだフィオナは、それを優しく手のひらで撫でる。
土の中に埋められた、かつての笑顔、暖かな声、小さな手、夢、その全てが、もう戻ってこない現実に、彼女は打ちひしがれていた。
震える指先が、静かに土を握る。
彼女は、涙を流すことすら忘れていた。いや、流せなかった。
今の彼女は、ただの抜け殻。中身が空っぽになってしまったその心は、少し触れただけで、脆く、あっさりと崩れてしまいそうであった。
「ねえ……私……わたし……」
——こんな私に、生きてる意味は、価値は、あるの?
そんな答えが出るはずのない問いが、心の中で、何度も何度も廻り続ける。そんな今の彼女に、生きる希望や意味を見出すことはできなかった。
フィオナは、盛土を握る手のひらを強く握りしめる。血が滲むほど、強く、強く。それは、悲しさではなく、自分に対する絶望や呆れに近い感情であった。
そんな時、彼女の脳内に一つの言葉が響く。
「……私が、“器”?」
そう言いながら、フィオナはエリィの方を振り向く。その目は、何かに縋るような、必死さを訴えているようであった。彼女は、生気の抜けた操り人形のように、ゆっくりと立ち上がる。
「私……行かないと……ここにいたら、また……」
言葉が、喉の奥で詰まる。
ここにいたら、また何かを失うかもしれない。
だから——
一歩、
また一歩。
彼女は、ゆっくりと歩き出し、エリィの元に向かう。
エリィの元に着くまでの数メートル、その間の数秒は、フィオナにとって数時間にも、数日にも感じるようであった。
「君はもう、“ただの少女”ではいられない。」
フィオナの視線が、エリィと交差する。
「君には、『器』としての使命がある。それは、私——“回収者”と共に、“禁忌魔法”を持つ器たちを見つけ、回収すること。でなければ、この世界は——」
エリィはそこで一度言葉を区切ってから続ける。
「……再び、“書き換え”られるだろう」
その言葉の意味は、計り知れなかった。
「『器』は、全部で八人、この世界に存在する。君たちは、そのうちの一人に過ぎない。そして今、他の『器』たちも、同じように狙われている」
その言葉に、フィオナの目が見開かれる。
「このままでは、世界が“牙”によって書き換えられ、“ネフィリム”によって世界が奴らに乗っ取られる。そうなれば、君たちの願いも、選択も、全てが無に帰してしまう」
エリィは続ける。
「器を見つける旅に、私は君たち二人を連れて行く。拒否する権利はあるが——」
エリィが静かに、だが、はっきりと言い切った。
「君があの力を制御し、その“願い”を叶えるためには、私についてくる道以外はない」
フィオナの“願い”。
それは、「牙」の連中を皆殺しにした後に、ここ、孤児院「ララ」で命を断つこと。その“願い”を、エリィがはっきりと理解しているのかは分からない。
しかし、「復讐」、そして、「贖罪」。
それらを叶えるためには前に進むしかないと、フィオナは悟っていた。
「行こう、ミラ」
その言葉を聞いて、ミラが優しく、フィオナに微笑みかける。
「……うん、フィオナと一緒なら僕……きっと、大丈夫だから」
フィオナは、ミラに微笑み返す。
その笑みは、どこか痛々しく、しかし、確かな希望を滲ませていた。
その対話を聞いたエリィは、二人を見て小さく頷く。
「では、旅の始まりだ」
燃え落ちた孤児院と、幾多もの墓標を背に、三人は歩き出した。
——第二章に続く
執筆の狙い
以前投稿したものの改訂版です。執筆を初めてからまだ一ヶ月程度の未熟者ですので、厳しめなアドバイス等お待ちしております。