有坂どりいに雨が降る
1.小説を書いている先輩から人間扱いされるようになる
ありていに言って有坂どりいはかなりめんどうな人物だ。学校で友人とはなしているところを見たことがないし、そもそも授業などでのひつようが無ければ発言じたいをほとんどしない。かといって挨拶を無視したり世間ばなしに応じずこちらをじ、と見つめ返してくるほどには過剰でないので、その具合を知りたいのであればためしにいちど話しかけてみればいい。
しかしきっと会話はすぐに終わる。
いい天気だね。そうですねー。
きょうは寒いね。ほんとうにー。
さいきんに観たおもしろい映画や動画チャンネルのはなしをしても「ああ、そうなんだ」といなされるだけ。それで二人してそらをみる。
いまどきAIボットでも反応にもうすこしバラエティーがある。むしろいったい自我があるのか、と俺はなんだか興味がでてきた。そこであるときひどい雷雨のときためしに「いい天気だね」と言ってみると、一拍おいてから「見ようによっては」とほんとうにごく僅かにだけくちの端を上げたため、彼女にもいちおうの意思があるのだとそう納得した。
文芸部にはいった俺が彼女の後輩になってからもう三ヶ月が経ったころで、とくに仲がわるいとか居心地のわるいというわけでもなかったのだが、『爬虫類ってなつくのだろうか?』というようなたぐいの連想をいだいてはいた。
そこで、「なんで先輩は人間に興味がないんですか」と訊いたが、もちろん応えはない。
そうしていちど会話が途切れるととめどない雨音が耳をおおう。まどには雨垂れが無数に支脈をつくり、灰空に浮いた森の黒い輪郭のうずきが風とともに擾乱している。ふたりきりの部室に会話はない。けれどこのような天候では帰るフリもできない。ふるい部活棟の薄い屋根で翠雨がはじける音が無言のせかいを満たした。
するとつまり、部活動をするしかないのだった。先輩の角向かいの席にすわりタブレットで部活のクラウドサービスにログインする。すると通知が届いており、其れは有坂どりい先輩のアカウントが、あたらしい小説を公開したことを告げるものだった。
それで目をスマホからあげると向かいの先輩が此方をじ、と見ている。顔見知りの書いた小説を読むのは初めてで、どぎまぎした。先輩ひとりしかいなかった文芸部に入部したときいらいこんなことは一度もなかったため。文芸部とはただ放課後に本を読むだけの活動なのかとおもっていた。
他人の小説を読む
それは意外なことに登場人物が動物であるメルヘンだ。ただし舞台はひどく現実的だった。なぜなら動物たちが活動するのは学校でありそしておそらくは描写からするに俺たちのかようこの学校そのものであったからだ。
ハダカデバネズミの英語教師がだれであるのか、アライグマの数学教師がだれであるのか等、生徒であれば自明であるため、これはつまり風刺である。
どうだった? どりい氏が平素なかおでそう問うが、それはじぶんの小説を読ませたあいてに対する普通のたいおうではない。
「感想」というものについて、俺は考えた。
いちばん印象に残っているのは登場人物はみな動物なのだが、彼ら彼女たちがみな制服を着るというルールに縛られていることだ。それでロバなどの四足獣はトイレにひどく時間を取られるらしい。なかでもゾウは取りわけトイレがながくいつも遅刻してしまうので、午後のいちばん初めの授業でいつも長く重たげな睫毛をしばたかせて「この学校はゾウについての配慮が足りない」と自己弁護の演説がはじまる。先生、授業のサボタージュを止めてください。前肢を机の上にのせたカピバラが言う。『僕らに残された時間はおおくない。はやく授業をはじめてください』
俺はタブレットから目をもちあげて部活棟の二階の窓から外を見た。
近隣の公立学校の生徒が駅に向かって流れていく。そのお仕着せの制服を着た学生たちはおしなべて無個性にみえる。なのでスカートを折って短くしたり、ぎりぎり自毛にもみえるブリーチをあてるなど校則ぎりぎりの振る舞いをすることで個性を確保しようとする。しかしそれも無駄な営為だ。
学生がかくも無個性なのは制服というのが、ひどく個性的な衣装だからだ。なので個人の個性などその装束の印象に呑み込まれてしまう。囚人服とどうように、その衣装によって属性を判断される。学生服を着た人物がいかに二十歳いじょうだと言い張ってもコンビニの店員はビールを売ってくれないだろう。どれだけ制服を着崩したって意味はない。
理由もなく、あんなにもレトロモダンな服装をして暮らす人物はいない。なので理由が透けてしまう。つまり、喪服のひとをみたら人の死を連想するのとおなじことでーー。
「ダメだ」と俺はいって首をふるい。「だめだな」とあらためてスマホから目をあげてあらためて彼女に告げる。「どりい先輩の小説がどう読まれるか俺には判断できないから、それは学外のだれかに読んでもらったほうがいいよ。」
面白くなかった?
「いや面白いよでも、なんでこの小説が面白いのかどうかが俺には評論できない。きみはほんとうに、この学校がこんなに愉快にみえているの?」と無表情なぶっちょう面に問いかけるが返事はない。
「あと、つくりが。オーウェルっぽいよな、動物農場みたい」
そのとき、おそらく初めてのことだったが、どりい先輩の目がめがねの奥でたしかに少し開いた。
「ジョージ・オーウェル読んでるひとが、この学校にいるだなんて。」
「いや。なんつーか、ーー古典名作だし、ここは文芸部なんだからそんなに驚くところじゃないだろ」
「だってきみ、髪も染めてちゃらちゃらしているから、せいぜいラノベくらいしか読まないとおもってた」
「ラノベについても俺に対しても、ひどい偏見だ」たしかにそんなに読まないけれど。「服装既定のない私学で目立たない黒髪だとぼっちゃんぽくて逆に浮くんだよ。先輩みたいにさ」
すると有坂どりいは、じぶんの前髪やおさげのふさにトタトタと手をふれて、き、とそう眼差しをただす。
「ラノベ、あまり読んだことないが。お勧めは」
「オレンジ党シリーズとか、ペパーミントの魔術師かな」
うん、とうなずき。それでまぶたを伏せたどりいは「じゃあ太宰はなにが好き?」とそう核心をつく。
たぶん人間失格ではダメなのだろうな、と思い『女生徒』と応えた。
なるほどなるほど、どりいが頷く。彼女が俺ときちんと会話をするようになったのはそれからのことだ。
「まえ、なんで人間に興味がないのかと訊かれた憶えがあるけど、人間に興味がないわけではない、学校のひとたちに興味がないだけ」
なるほど。俺は頷く「でもそれ、あんまりよそでは言わないほうが良いですよ」
「だってたまたまだから。こんなのはたまたま。
似た年代似た地域にいたからひとまとめにされただけの、一時的な集団。養鶏場や養豚場のトリやブタがたがいに仲良くするひつようはないでしょ。どうせ出荷先はバラバラなんだから」
「家畜なら」俺は言う。「だけど先輩は人間だから。行き先もじぶんで選ばなくてはいけない」
「でも目立ちたくないんです。はやくなまえのない一員になりたい」
目立ちたくない、俺のくちがそう繰り言をする「だから先輩はまだまえの制服をまだ着ているのですか」
膝下丈のスカート、紺のソックスに合成皮革のローファー。しかしほんらいは校章が記されているべき左むねにはなにもない。いな、よくみれば何かを模ったようなミシンホールの図形だけが残っている。ワッペンはわざわざ剥がしたのだろう。
しばらくして雨が止んだのでその隙に俺とどりい先輩は水捌けのわるい校庭をアメンボのように水たまりを避けてかえった。
制服すがたは日常に学生が居そうなところいがいにあるとひどく浮く。つまり学校、駅、街路、小売店、などいがいでは。また場所によらず深夜から明け方まではどこにも居ることができない。そのあいだ、住処のない学生たちはいったいどこに消えているのだろう。
NHKが深夜に流していた何年まえのものかも知れないそのドキュメンタリーを思い浮かべながら、どりい先輩のことを想起せずにはいられなかった。
服装規定のない私学の高校なのに転校まえの制服でかよいつづけているので無茶苦茶めだっている。転校とうじはこの比ではなかったろうし。それはようやく周囲がなんとはなく、無視できるようになってきているだけで。
翌日。あいかわらず、放課後の部室でどりい先輩はどこにもない学校の女子生徒の制服を着て、それで女生徒を読むというメタ的な営為に励んでいた。ブックカバーをかけてはいたが、肩越しにちらりと見えた紙面にあの特徴的な文体が匂うのだ。おそらくは未読だったのだろう。知らない本を話題に出されたとき「なるほどね」とながしてその足で本屋に向かうというのはこの界隈ではめずらしくもないムーブだった。その向かいで俺は坂口安吾のミステリを読んでいる。まったく。この状況が知れたらこの文芸部に新入部員など二度と入ってこないだろうな。俺は思う。
安吾の、不連続殺人事件の背表紙をベニヤの長づくえに伏せた。「ねえまえの小説だけど」言うとその、伸ばしているというかは伸びすぎたといった風情で、長めの前髪と眼鏡のおくに潜む双眸がこちらを警戒のおももちで見やる。
「動物だけじゃなく『人間』も出してみたらどうかな」
「え」と、どりいが指先でくちびるに触れる。「その『人間』は、ちょっと、面倒くさいよ。」
面倒くさい。俺はそう復唱する。
「それは、動物だって植物だっていっしょだろう。それを飼えるというのが大事だ」
そこで有坂どりいは思案するように一拍おいて、うなずいた。
「じゃあ私の動物農場ではきみのコトを飼育してみようかな」
2.みてぃの登場を機に俺のアイデンティティがぶれ始める
あるひの放課後、俺が部室でトマス・ピンチョンの分厚いやつを広げてページをたぐっていると、部長の有坂どりいがおくれて入ってくる。そうして俺のとなりに座っている折戸みてぃのことを一瞥し、いつもどおりに二つ重ねの長机の俺からいちばん遠い対角線上にすわった。
「珍しいねきみが、紙の本だなんて」
あー電書化されていないんだコレ。俺はそう『重力の虹』の背表紙を部長に示す。「中古上下巻で一万円はするんでちょっと買えないし、図書館で借りたけれど重すぎて家にもち運びするのも面倒だ。だから此処で読もうかなと」
えええ本ってそんなに高いの? みてぃがそう驚くので、ものによっては、と俺はそれに応え、ページをたぐる。
「文芸部はプライベート図書館ではないんだよ」いってどりいはノートパソコンを広げ、「で、それはだあれ」とはじめて折戸みてぃの存在に言及する。
「瑞人くんのクラスメートの折戸みてぃでっす。よろしくお願いしまーす」みてぃがそう、おどけたようすで右手をこめかみに敬礼するが、部長の無表情はくずれない。笑顔を張りつけているみてぃのかおに目をくれることもせず、
「『ミズト』か。そっかきみ、たしかそんな名前でしたっけ」
「ええまあ一応」そういえば有坂どりいから下のなまえを呼ばれたことが一度もない。はじめてこの部室で自己紹介をしたときには俺はまだ人間として認知されていなかったのだ。苗字さえ覚えておけば識別にはじゅうぶんと判断されたんだろう。
「それでいったいクラスメートが部室でなにをしているの」あくまでみてぃを無視したままでどりいがふたたび俺にそう問うた。
「あのー、瑞人くんにノートを写させてもらってて」みてぃが応えると「そうでしたか」とどりいはノートパソコンに目を落とす。
「ね、きのうテレビみた?」ノートにペンを走らせながらみてぃが訊ねてくる。「ドラゴンボールの劇場版やってて、ついつい観ちゃったわ」「俺のへやテレビがないから」「あー、そうだったっけ。でもさSNSであんだけ実況盛り上がってたのに、気になったりしない?」
「あの、ちょっと聞いてもいいかな」どりいが言う。
「もしかしておじゃまですか」とみてぃが応じる。
「いや、まさか」部長がそうはじめて、彼女のほうに向く。「ただなんで、クラスメートが他人のノートをみさせてもらう必要があるのか、すこし興味がでてきて」
なるほどそれはネコやカラスなど言葉を解さぬ生き物がにゃーにゃーカァカァやっているのを見つめつつ『いったいなにをやっているのだろう』とそれを観察するたぐいの好奇心なのだろう。それで気づいたのだけど有坂どりいはおそらく、いま俺たちの会話をタイピングで記録しているのだった。たぶん、創作のネタ帳として。インナーに紫をいれたポニーテールのみてぃと黒髪メガネで制服の有坂どりいはひどく対照てきだ。
だって瑞人くんのノートのほうが要点がまとまっていて参考になる、とみてぃが応えた。理解したうえで取られたノートには思考のかていが書き込まれているから、と。
「そんなもの?」いまいちピンと来ないようすでどりいが言った。
「あーおなじ文芸部だけあって先輩もきっと文系優等生なんですね。偉い人たちにはわからんのですよ。ノートの質のちがいがどれだけ点数に影響をするのかが」
そういうものですか。先輩はうんうんと肯くが、きっとわかってはなさそうだ。単純に、ノートを見せあうほど他者との交友がないのだ。なのでノートの質の優劣とかいう話題が広がるわけもない。それで、じぶんの書いた小説をどりい先輩に見せなくてはならないという未来が連想されて憂鬱になる。文化祭で合作の中編小説を配布することとなったのだ。文芸部としての合作であれば匿名性がたかく文責もあいまいになるだろうとタカを括っていたのだが、考えてみれば自作の小説をどりいに読ませるコトとひとしい。また、執筆がまるで進んでいないことも気にかかる。部長がプロットをなかなか上げてこないせいだ。
「ならしかし、わざわざ書き写したりせず、ノートのコピー取ればいいだけではないのかな」どりいがみてぃに疑問をていする。
「それじゃあ、蛍光ペンで行にいれたラインとかそーいうだいじなフレーバーが飛んじゃうじゃん」みてぃがそう苦笑する。
「なら、カラーコピーしたら良いんじゃない?」
「そんなしたら、一枚あたりの単価が高すぎで商売になりませんよー」
さて、部室での俺とみてぃはどんな動物として小説のなかの学校に封入されるのだろう。なんて考えながらそのやりとりを見ているとなんだか、息がつまる。窓のそとに覗く夕空が朱い物理てきな天井であるかのようにかんじられた。
「あ。そういうコトだったら、このアプリとか使えばカラーのPDFで取り込めるしOCR認識もしてくれるよ」先輩がそうスマホをみてぃにかざしてみせる。
「でも、あたしスマホ持っていないんで」
そうか、と有坂どりいはうなずいてスマホをつくえに伏せる。いったいこの女はスマホのホーム画面をどんな壁紙にしているのだろう、ふとそんなコトを考えつつ、俺はピンチョンのかたわら二人のやり取りを横目にみている。
「いがいだ詮索しないんだね先輩は」みてぃがそうほほえむ。
この制服のない私学にスマホ禁止などという校則があるわけもなく、その不所持には特別な理由がひつようになる。
たとえば経済上てき理由、あるいは信仰もしくは政治思想上のイデオロギーなど。いずれ余人には触れがたいセンシティブな事由が。
「ごめん。そんなにあなたに興味がなくて」有坂どりいのそのにべもない言葉に。ああやっぱり、とみてぃがうなずく。
「あたしはなんだか段々と先輩にきょうみが湧いてきました」
「それでも、私にはやっぱり興味がもてない」
みてぃ。と俺は言った「気にすることない、べつにこのひとーー先輩はおまえのコトがきらいなワケではないんだ。ちょっと人見知りするだけでーー」
「なぜきみが私の内面を代弁するのですか」どりいがそう、怒るわけでもなくほんとうに不思議そうに答えを求めるようすなので、
「だって、その方がらしいだろ? じぶんの知り合いどうしが剣呑な遣り取りをしかけているのを看過できずに思わず口を出してしまうというのは、どうにもふつうの人間らしい」
「すばらしい」と有坂どりいは珍しく満足げに、にぃと笑んでキーボードを手繰りつづける。
「瑞人くん。なんだかいつもと雰囲気がちがうね」みてぃがこちらに向く。それで、そうか。俺は先輩とはちがいSNSとかの流行りはチェックして話題にのれないぼっちにならないように立ち振る舞っている、クラスでは。しかし先輩しかいないこの部室では、いつからか、そうではなかったのだろう。なのにきょうはみてぃが居る。すると俺はこの場所に相応しい顔をまだ持たないのだ。だから擬態とその擬態へのメタ的な観察が立てつづけに口を吐くこととなる。
どりいとみてぃ双方から普段はみせていなかった側の俺のかおに注目されることとなる。
「じゃあ、普段のこいつはどんなんなの」そう、どりいがみてぃの方にむく。
「そんな知っているわけじゃあないけど、もう少し気さくな感じだよ」
「きっと本を読んでいるからさ。それはちがう人間になりたいという欲望を裏付けるふるまいだからな」くちを開くとやはりクラスでは俺がけして言ったりしないだろうセリフが出た。しかしまた、先輩をあいてにも出ようがないハズの言葉だった。なぜなら、俺がわざわざそんな自明なコトを先輩に対してせつめいする必要がないからだ。そうだじぶんは不必要なことを語らない人物だった。しかし、この場ではそうもいかない。
「そういうことか」関心したように有坂どりいがいって、うなずく。「二人と三人ではこれほどちがうか。ねえみてぃさん、だっけ。毎日でもいいからノートうつしに部室にきなよ。居ごこちの良いように私物を持ちこんでもいい」
「え、と」
「私はあなたに興味を持ちました」有坂どりいがみてぃにそうにっこりつくり笑顔をするので、
「ウソだこの人はみてぃに興味なんてない」俺はいう。どりいに興味があるのはーー
「でも、ご迷惑じゃあ?」
「みてぃさん、気にしないで」無表情な有坂どりいがからからと声だけでわらって言った。「あんしんして下さいね。この部員は文芸部だというのに、いつもぜんぜん何も書かずに本を読んでいるだけなので、それが読書だろうがクラスメートのあいてだろうがいっこうに構わないわけ。どうぞゆっくりとしていって欲しい。」
「書かないのではなくて書けないんだよ、先輩がプロットを上げてくれないから」
文化祭にコピー誌で出す予定の中編合作のプロットを有坂どりいがまったく仕上げてくれないせいだ。まえに読ませてもらったどりいの、この学校を舞台とした動物農場てきせかいを押し広げた作品にしようというところまでは決まっていた。俺としてはその設計図をずっと待ちつづけているのだ。しかし、いまこの場でそんな言い争いをしてもはじまらない。なのでまた紙面に目を落とすと、
「いいわけだな」どりいが言って、「創作なのにプロットなんて中核のゲタをあいてに預けたじてんできみには何にも言う資格なんてないんだよ。合作小説でプロットは私が書くって案を出したとき、実はちょっとほ、としてたろミズトくん。だからきみには文句をいう権利はないししょうじき、期待もしていないのです」
「じゃあなんで合作なんて言い出したんだよ」
「だって。そうでもしなきゃきみは小説を読ませてくれないから」どりいがいって俯く。
「瑞人くん、文芸部なのに小説書かないの? 書くのってそんなに難しいんですか」みてぃがそう俺とどりいに問うので、
「なあんにも」どりいがそう応える。「小説であることの要件はそれが文字の羅列であることいがいは特にない。それは日記でもウソでもいいわけで、その内容は問われない。つまり、小説を読ませることで自分がくだらない人間であると看過されることを恐れているんだ。」
「先輩に俺のなにがわかりますか」
「わかるよ。今のじぶんでは居たくないくせに、ではその今のじぶんがどんな具合なのか、鏡をのぞく勇気がないわけ。たまらない。私が代わりにその空っぽの容れ物のなかみを書いてあげるよ」
「それは俺の鏡ではなく単なる決めつけの妄想でしょ」
きみは、と、ノートパソコンから完全にあげたまなざしで有坂どりいが珍しく目を合わせてくる。「外部からの視点に敏感で髪まで染めて周囲へ埋没できるようにつとめている。その一方で小説なんて古びたメディアに耽溺しており古典への造詣も深い。ほんとうは太宰も『女生徒』ではなく『人間失格』の方が趣味なんじゃあないか」そうむに、と口もとをゆがめる。「ほんとうはゲーテよりもデュマ、安吾より乱歩のほうが好みなのではないか」
「まったく、先輩の趣味はかたよっているぜ」
「もちろんさ趣味なんて偏愛の集合でその積分が創作だから。だから、きみは小説を読ませたくない。その偏愛が透けてしまうから。わかるかみてぃさん、こいつはありのままのじぶんを誰にも見せる気がないんだ。」
え、ええと。なんかあたしのせいで仲たがいしちゃってるの? そう苦わらいするみてぃに、「いやもともと仲を違えるいぜんに仲良しじゃあないから」素直にそう俺が応じる。
でもでも、もう半年くらい二人で部活してきたんでしょ? 仲わるければそんなの不可能でしょ。
「みてぃには分からないかも知れないが」俺はまずそう前置きをして二人に視線を巡らせる。「世の中には仲が『良い悪い』で測りきれない関係もある。そもそもどりい先輩には友人がだれもいないんだ」
「瑞人くんいがいには、ってコト?」
「いや俺も友だちじゃあないよ」みてぃにそう告げるとどりい先輩もこくりとあごを揺すり同意する。
「友だちではなく、部員です。感情で接合しているわけではない」有坂どりいがそう、眼鏡のおくで目を細める。「じゃあそちらの二人はどうなのか。友だちなのかクラスメートか。その関係を定義できるたがいに一致した尺度があったら教えてほしい。」
そのまなざしに曝されて俺の周囲からは空気が抜けていく。俺とみてぃとの関係性についてなにがしかの興味をもったなら、それを物語に封入するつもりにちがいない。それが有坂どりいのやり口なのだ。
3.いかがわしい行為と誤認されたので弁明をする
「友だちならきっと、こいつの書いた小説を読んでみたいんじゃないかな。その内面をのぞいてみたいと思いませんか」との先輩の問いに、
「えー、と」逡巡したようすのみてぃが此方をみやる。そして俺の嫌悪にみちた表情をちゃあんと読みとったらしい。
「あ、あたし。友だちじゃないかも!」みてぃがそう挙手して立ちあがる。「ホラあたしいろいろあって信用ないからさー、だけどこのひと空気読まないから。すこし助けてくれてるだけで」そう、いそいそと荷物をまとめて去ってゆく。
じゃ、またね。とみてぃの去ったあと、「なんだよ追わないのか。友だちがいの無いやつだな」と有坂どりいがこちらに向く。
いつもどおり部室が二人きりになった。すると西陽が急に目ざわりに思えて、俺がカーテンを閉めると陽になれた視界がよるのように暗くなった。
「だから、友だちじゃない、て当人が言ってたじゃないすかーー」
「なあきみ、小説を私には読ませたくない。その理由をかんがえてみなよ。ネットなんかで匿名で読ませるにはかまわないが、私には読ませたくない。そして折戸みてぃにはもっと読ませたくない。そーいうことでしょう?」
「だから謝りますよ。部外者をかってに連れてきたことは。だけど言っていたようにちょっと頼まれただけで」俺はドアのちかくのスイッチに触れる。
「だから構わないから、さっきも言ったようにまた連れてきなよ」しかしきみが人助けとはね。有坂どりいはそうくふりとわらって視線を逸らせたままパソコンの青い光に身をひたすようしている。
付きのわるくなった蛍光灯がぱちぱちフリッカー式にくらく明滅して、ようやく灯る。
俺はスカーフで綴じられたその制服の襟元に掴みかかった。偽善者が。有坂どりいがかすかにそう口をうごかしたのが見てとれたのだ。
耳がいいんだね。あと、怒るんだ。やはり心当たりがあるの。
「すまない、忘れてください」言って俺は椅子からずり落ちそうになっている先輩の身体を、うしろから抱えて起こそうとするのだが、どうやら当人に体幹を立て直す気がないらしく。両腕で彼女の左かたと右のわきを維持したまま動きが取れなくなってしまう。
家族いがいの異性とここまで密着するのは初めてだ。大型犬を抱え上げたときのようなじんわりとした温もり。
それにきっと毎日あたまを洗っていないのだろう。山に踏みこんだときとか、雨の降りはじめのような香りがした。人間からそのような匂いを嗅ぐのは初めてのことだった。
「そのまま床に降ろしてくれれば良いから」というので、せなかを胸でささえて左に持ってゆくと突如、その弛緩した身体にちからがこもり身をよじって俺の胸もとにしがみ付く。支えきれず床に仰向けになった俺のことを、逆光に黒く翳っためがねが睥睨する。
「あ。なんだこれ、総合だったんだ。ちゃんとレギュレーション教えてもらわないとさ」そう馬乗りになった先輩の肩ぐちをパンパンとタップすると、
「それで何に怒ってるの? 人助けが趣味みたいなふるまいをしたところで、それは『ふるまい』でしか無いって自覚しているくせに」
まだその話題が続いているらしく俺のしっている作法で降参しても有坂どりいは俺のうえから降りてくれない。ルールブックも審判も不明なせかいでいったい俺はこの不条理にどう応ずればいいのだろうか。
ねえ偽善者と善人のちがいはどこだと思う。言いながらとん、とん、とこめかみを人差し指でつつきながら。どりいが言う。「あたまが良いかわるいか、です。じしんの振舞いに弱むしな打算が含まれているかどうかとかいうメタ認知をオフに出来ない人間は、けして純正な善人にはなれないんだよ」ね、だから仕方がないんだ。「他人を拒絶しているのはあいてで無くきみの側なんだから」
それで、
ふいに俺はその、論理と倫理が理解できてしまった。じぶんの欲望を自覚しつつでしか他者と接することができない。なので偽善に陥らないために他者を避けている。その、幼くて尊大な孤独について。
なるほどたしかに全ての善人はバカにみえる。しかしこの世のなかに居るのは偽善者と善人だけではない。むしろ俺のように、そのどちらにも成りきれない中庸な凡人がほとんどなのだ。
「あの、俺なんとなく先輩のこと理解できちゃいました」
「うそだ」有坂どりいが否定する。「だいいち私がおまえについて話しているんだが」
「それでも分かっちゃったんです。じぶんは先輩とは違うんだって」すごいな、言葉はーーほんとうに鏡なのだ。「たしかに俺は折戸みてぃに内面を知られたくない。頼まれたら断りづらい。それは友人だから。そして俺のなかでそれは矛盾しません。」
じぶんに馬乗りになった身体からすこし震えが伝わってくる。すると先輩がスカートであること、同年代の異性の下着が衣服ごしに接しているのだということが否応なく意識された。
ややあって先輩もそれに気づいたのだろう。すこし腰を浮かせたので立膝で股を割ってマウントを抜けようと俺は身をよじり。それで、ドアを開けたままの姿勢で凍りついたように立ち尽くす折戸みてぃをようやく発見したのだった。
「あ、あの。さっき慌てて瑞人くんのノート持ってっちゃったから、それを返しに」みてぃがそうどぎまぎと俯くので、
「それで、いつから?」あおむけのままで俺は問う。
「ごめんなさい。こんなの見てたらいけないって、帰ろうとおもったんだけどーーね?
あの、ロボットもののアニメとかで主人公と敵が会話しながら戦ったりするヤツあるじゃん。さすがにありえねーだろ、って思ってたわけ。でもさ、現実にあんな感じでセックスしてたから、なんだかあたし、『あたしはまだ世の中のコトぜんぜん知らないんだなー』って。なっちゃって。」
「いや納得した。無理もない」俺はみてぃに言って、「先輩どいてください、つぎは此方が説明をしなければいけない」そうして見上げるどりいの表情には一切のどうようの色もなく、こういう所はさすがだな、と俺はなんだか感心すらしてしまう。
立ちあがった先輩が制服のプリーツスカートのすそを整える。俺は先ほどまで先輩が座っていた椅子に腰かけた、まだじんわりと温かい。体感ではずいぶんと長く感じたがあの時みてぃが去ってからまだわずかな時しか経っていなかった。
さて説明をしなくてはいけない、フィクションならではの演出みたく会話をしながらコトに及ぼうとしていたわけじゃあないよ、というあたりを。
「ああ、助かったよ。ケンカの仲裁をしてもらって」
ケンカ? と小首をかしげるみてぃ。「さいしょは瑞人くんの方から迫っていたように見えたけど。」
「ああ、先輩から挑発された。このひとは人の怒らせかたが上手い。気をつけたほうがいい。それでマウントを取られたんで、焦って助けを呼ぼうかとしていたところだった」
「はいはい、それで。そのケンカの原因はあたし?」
「ざっくり言うと先輩は俺がみてぃをかってに連れてきたのが嫌だったんだ。しかし一方で、みてぃといっしょに居るときの俺のことをもっと観察したいという欲望をいだいた」俺は飽くまでしょうじきに行こうとそう決めた。
先輩は、それを否定も肯定もしない。
「なんだよーそれ、もう愛じゃん愛」みてぃがわらう。「ふだんからそんな現国の読解問題みたいなことをやっているの? 文芸部ってたいへんだね」
文芸部一般がたいへんなのではなくて有坂どりいという個人がめんどうなだけだ、と俺は説明をする。
「でもいいの? そんなどりい先輩の内面みたいなものをケンカあいてが開示しちゃって」
「もちろん身近な人物の内面を解釈してとうにんの前で語るなんてとうぜんふつうは良くない。でもそうでもしなきゃ、みてぃは納得しないだろう」
そっか、とうなずきながらいまいち腑に落ちないかおで、意を決したように「でも瑞人くんは勃起をしていた」とみてぃが言う。「ケンカのさいちゅうでも、そうなるもの?」
「みてぃ。さすがに、それは先輩にたいして失礼すぎるとは思わないか。十代の男なんて同年代の異性にからだが触れていたら条件反射で反応するものだ」俺は飽くまで真顔でそう言いきった。
「そーいうものなんだあ」みてぃがしばし、中空に目をやり思案げにする。
「というわけで、みてぃが来てくれたおかげで解決をした。ケンカっていうのはいつもその終えかたのほうが難しいものだから。ありがとうな」
「あーいいよ。だって『友だち』なんでしょ? あらたまって言われると、なんだか照れるけど。さっきは流れであんな言ってごめん、ごめん。ほんとはあたしだって瑞人くんのこと、友だちと思っている」耳もとに紫の髪のふさを垂らした同級生がそう宣誓する。
そこでふいに俺は無表情を保てなくなり、横からは、まじまじとそれを観察するどりいの視線。
まったく俺はきっと、俺やみてぃを題材にして先輩がつくった登場人物の動物を俺の小説のなかに描かなくてはならないんだろう。そしてそれをどりいとみてぃが読むにちがいないのだ。
4.みてぃから瑞人の情報を聞き出そうとする有坂どりい。
ねえみてぃ。あなたもしかしてコイツのこと好きだろ。あれから数日後、有坂どりいがみてぃにだし抜けにそんなコトを問う。
文化祭の合作用のプロットがまだ上がってきそうにないのでは俺は俺なりに部室で執筆に励んでいた。読ませたくないが読ませなくてはいけないのなら、その相手が目のまえにいるときが一番書きやすいと気づいたのだ。帰宅後の自室では先延ばしにしたまま、なかなか手につかない。しかし、
みてぃが社交辞令みたいな笑みのひょうじょうのまま先輩の問いに応えないでいるので、
「先輩、そーいう雑なコミュニケーションが成り立つのは小学校高学年までですよ。俺がこの場所にいるのにみてぃが答えられるわけないでしょう」と助け船をだした。「だいたい、そうだとしたらまえの俺と先輩の『ケンカ』に出くわしたとき、ちょっと違う反応が出てきたんじゃないかな」と俺がそう考えをのべる。と、なるほどと先輩はあごに触れて、
「じゃあ話題を変えようか。ねえみてぃさん、こいつーーミズトくんはさあ。友だちなんていない、って無頼なコトを言いつつじっさいのところあなたというご友人があられたわけだ。じっさいのとこ、クラスではどんな感じなのかな?」
違う。じっさいのところコトのなりゆきでみてぃを友だち認定せざるを得なかっただけなんだけど、とうのみてぃの前でそんな反論をできるわけもない。先輩とちがって『普通の人間』のつらいところだ。しっかし当人のいる席で俺の情報を聞き出そうとするかね、ふつう。しかしはなから普通ではない有坂どりいにはそんな批判はあたらない。
「あ、ミズトくん自身が居るんだからネガティヴな評価もかげぐちにはなりません。どーぞフランクにね」有坂どりいがそうみてぃに助言するのだけど、
「それは、陰ぐちにはならなくても悪ぐちになっちゃわないかなあ」みてぃが苦笑いする。
「他人ならね。しかし友人同士であれば、短所や欠点を率直に告げることはむしろ当人のためになるのではないですか」
「先輩、その行動原理をほんとうに地でいったら友人どころか、親戚との関係や家庭すら維持できないのでは」
「ひょっとしてミズトくんは、私の家庭環境に興味があるの?」
「いえ、それは聞きたくない。だって俺と先輩はいまのままで良いと思うんです。」言って、タブレットをスリープしてポケットにつっこむ。秋物の新調にミニサイズのタブレットが入るジャケットを選んだのだが、ひじょうに使い勝手がよい。荷物をまとめた俺が立ちあがると、
「またあたしのせいでケンカかあ。『文芸部の外交は複雑怪奇なりー』」みてぃがそうちゃかすので、
「いや違う、ただ」俺は応え。「たまにはガールズトークも良いだろうから、俺は図書室で作業するよ」
「図書室はパソコン禁止ですよ」どりいがそう俺を横目に見やるが、
「こうるさいキーボードのないタブレットなら使用は禁止されていない」
すると、ノートパソコンを閉じた有坂どりいはそのまま、其れを抱えこむように机にしがみついて突っ伏した。
「いや、いや。なにごと?」みてぃがそう狼狽する。
「気にしなくていい。こうして異常な行動をとることで俺のことを足止めできると考えている。さいしょのころ、俺がまだ先輩にたいして甘かったころに味をしめた習性がまだ抜けきらないんだ」
みてぃにそう説明をすると早々にあきらめ身を起こした先輩が、
「率直にいって、みてぃさんからのきみの情報も欲しいけれど、どちらかと言えばその情報を私が知ったと知ったときのきみの反応が知りたいわけ」とほんとうに率直にそういった。
それを聞いたみてぃが「おっっもっ!」吹きだしてわらう。
「なんかあたしすこしだけ、どりい先輩のこと分かってきたかも」
ことばは鏡だからな。なので俺はできるかぎり無口でいようとつとめているのだが、有坂どりいが身近にいる以上それは果たされぬことのない望みだった。
「あんしんしてちゃあんと、瑞人くんにはほかにも友だちがいっぱい居るからさ!」みてぃがどりいに、ふだんの俺について説明する。まったく。こーいうのが始まるまえに俺は図書室に逃げようとしていたわけだけど。
けれど、それはほんとうに友人なのだろうか。そう疑わしげにする先輩にみてぃが応じる。
「まあそう言われると友だち? かはわからないけど周りのひとたちといっぱい仲良くしているし。で、友だちが一人しかいないのはあたしのほう。あたしの友だちは瑞人くん一人だけ」
「理由は? スマホもってないのと関係している?」
踏み入りづらいひとの事情にずけずけ踏みこむことにかけて有坂どりいの右に出るものを俺は知らない。
「うん、うん。関係おーありだよお、スマホ持ったらまた良くないコトをしでかすって思っているわけ。親も、先生も、まあまわりのだいたいが」そんなとこ。とみてぃがそう口をつぐむ。
「ミズトくんはそのあたり知っているの?」とどりいが俺に振るので、噂ていどに聞いてはいたが、もちろん回答を拒否する。「本人から教えてもらえばいい」
「でも知られたくないな」とみてぃ。じゃあ仕方ないな、俺はそう安心する。しかし、
「だけど聞いて欲しくもあるって、わがままだよね」とクラスメートはそうつづけて俯いた。「だからみんな怒るわけ。助けて欲しいならなんで話さないんだ、って」
「それは仕方ないな。知られたくないけれど語りたいなんて、間違いなくわがままです」有坂どりいは言下にそう裁断する。「そんなの、知りたくなるにきまっている」
「うん」
「良い考えがあります。なら小説を書けばいい。その無責任で他者を顧みない衝動を創作にゆだねてしまえば良い。なにしろ其れは、もっともらしくウソを語るためだけに存在をしているメディアなんだから」
なるほど。ほんとうの事を言いたくないけれど、話をしたいから吐くウソが小説ということか。すくなくとも、有坂どりいにとってはそうなのだ。ならば創作は次善の代替策でしかない。するといずれ普通さを獲得したとき、ある種の成熟にいたったときに、それはもうどりいから必要とはされなくなるのだろう。
かたや俺はじぶんが普通であるコトにとかく、むしゃくしゃする、其れだけでーー。じぶんだけの固有の価値基準が欲しくて同年代のだれも読んでいなさそうなものを選んで読んでいる。同じ文芸部の部室にはいても、おそらく。この状況はぎゃく向きに交差する線の交わる一点に過ぎない。
「ほんとうに、みてぃが一人増えるだけでずいぶんと視界がかわるな」
「え?」
「めずらしく、先輩の案に同感だ」
「でもいろいろとほんとうに後悔しているし、過去を振り返るだけで恥ずかしいし。小説なんて無理だよ死んじゃう」
「『恥の多い生涯を送って来ました』か。そんな感じで良いんじゃあないか?」
「え?」
「だから、全部ウソに翻案してしまえばいい」
「ほんあん?」
「伝えたい事柄の中核だけを軸にして、それにまつわる舞台や設定や人物をすべてウソのがわに転回してしまえばいい」そう。じしんの名前すらも、変えてしまってーー。
5.他人の書いた俺の小説
じつのところおそらく折戸みてぃは、自らの本業は学生ではないと考えている。いまは両親とはなれて児童保護施設から学校にかよっているマイノリティだ。自治体からの補助で私学の入学金や授業料は免除されていたが、恒例として訪問先が海外である修学旅行の積立金が数十万にのぼるため、じっしつてきに低所得者の子弟はこの学校から排除されていた。しかし施設がよいながら県の弁論大会で上位にのこったみてぃに、児童支援活動を行っているとあるNPO法人が目をつけた。それで、順当に入試にうかっていらい、みてぃは法人からの補助を受けながら学校に通っている。
つまるところ、折戸みてぃは法人の宣伝塔として、その対価でいまの暮らしの生計を立てているのだと自覚していた。バイトの収入もふくめれば経済的にスマホの所有も可能だろうし、ケツ持ちのNPO法人に後見人として一筆書いてもらえば契約審査もとおるだろう。しかし、
『こうした子どもたちは、同世代ならだれもが持っているスマートフォンを所持することができません』という法人の謳い文句の一節を体現するためにそれを所持していない。指示されたわけではないが、たしかにその方が説得力があるなあ、とみてぃじしんがそのように決めたのだ。なにしろ、『様々な事情により支援がひつような子ども』がじしんの生業なのだから。
そして、俺とどうようにして擬態をしている。土曜日に駅前でみたみてぃは紫に染めたインナーカラーをおさげに隠して募金箱をかかえていた。その両隣りにNPO法人の職員がおり、募金用のQRコードが右下に印刷されたプラカードをもって救われるべき子どもたちへの支援を訴えかけている。そしてみてぃは他人のように俺といっさい目を合わそうとはしなかった。
折戸みてぃは正直なやつで、俺に勉強を教えてほしいと持ちかけてきたときにその辺りの事情をざっくり説明してくれていた。そんなこんなで、給付型の奨学金や国からの補助を組み合わせることで未来の人生設計をしないといけないのだと語った。
なぜなら、『様々な事情により支援がひつような子ども』であるといういまのじぶんの商品価値は子どもで無くなったときに失われてしまうから、と。
「切実だな」俺はすなおにそう応える。「しかしたしかに現文は得意だけどひとに教えた経験なんてない」
「でも文芸部でしょ。読むだけじゃなく他人につたえることもできるはず」
「なら良いんだけどね」俺はうなずく。「現文はその文章が一般的にどう読まれるかを判定するだけだから、俺は俺にとって常識的な回答をしているだけなんだよ」
「あたし、読書習慣のない環境で育ったからきっと、そのあたりの『常識』がないんだわ」
「じゃあ評論を読むのはどうだろう」
「評論?」
「評論って小説とかの解析だけど、その小説を読んだことのないひとも読者になるかもしれないから、あるていどその粗筋とか要点も紹介される。するとその小説がふつうはどう読まれるかと、それで評論家がどう解釈したかがセットで提示されるからーー。それでつぎに小説のほうを読んでみるとより楽しめる。小説と評論を読む順序は逆でもいいけれど、読みなれていないなら評論がさきが良いかな」
「きっと理解できないとおもうけど、評論と小説の二冊も本を読むというのね、あたしみたいな人間にとってはけっこう大変なんだよねー。あそうだ。ノートみせてよ。そこに瑞人くんの『理解』が記録されているはずでしょ?」
すまん、現国の授業ってノートを取っていないんだ。俺はそう説明する。作者の考えていることを答えなさい。みたいな、テストの設問のなかに答えが含まれている問題ばかりなのでわざわざ授業でやった内容について復習や暗記のひつようがないのだ。試験にそなえて勉強をするということもないので、本当に他人への教えかたがわからない。
「つまり瑞人くんにとっては『常識てきな判断』での回答でもんだいないから、わざわざ勉強するひつようが無いってこと」
「まあ、ざっくり言えば」
「じゃあこんどから授業で習った範囲について瑞人くんの思ったその『常識的な理解』の内容をノートにとってあたしに見せてくれないかなー」
「すまん。あんまりこーいう直截な言いかたはしたくないんだけど」俺はそう前置きしたうえで、「なぜ俺がそこまでの労力をつかわなくてはいけない?」と訊いた。
成果におうじた対価は払うよ。折戸みてぃがそうきっぱりと断言する。
「じゃあ普通に塾に通ったら良いんじゃないかな。プロに教えてもらったほうが間違いなく効率はいい」
「そんなしたら『援助がひつような可哀想な子ども』じゃ無くなっちゃうでしょう。法令上のもんだいもあるしーーそこがあたしの生命線なんだから」とうんうんするみてぃ。「可哀想な子どもが『合法てきに可哀想な子ども』であり続けるための協力をおねがい。ギブアンドテイクってことでさ」
「なんだか、いろいろと大変なんだな」俺はそう思案して、まあたまたまクラスメートになったんだから出来る範囲で協力しあったっていいだろうか。という結論に落ちついた。
「いいよいいよ、お金とか欲望にすなおなひとは信用できる」
「なあみてぃ、俺にはいいがあまり他所ではそーいう誤解を招くことは言わないほうがいいぜ」そう声をひそめる。するとみてぃがその振るまいに乗っかって俺の耳もとに口を寄せる。
「でもさあ瑞人くん。善人よりは子悪党のほうが信頼できるじゃない」
俺は現国のノートを取り始める。ノートを取るのはきらいではない。べつにひつようが無いからしなかっただけで。やる事もないけれど堂々と居眠りするわけにもいかないので、いままでぼう、と無為に過ごしていた時間をそれに充てただけだ。しかしあとから気づいたのだが、俺はそれ以後小説が書けなくなってしまった。あの想像と余白のじかんが創作の源泉であったのだと気づいたのはずっとあとの話だ。
それで「これで終わりにしようと思う」と期末テストのあとで、みてぃにそう告げた。そのころにはみてぃの文系の成績はかなり上がっておりもう十分だと思ったのだ。
「わかったこれまでありがとね」みてぃが肯く。「あんしんして報酬を踏みたおしたりなんてしないから」
「ああ、そのことだけどーー」
「うん」
「みてぃはさ、いろいろと事情があるだろう。無理しなくてもいいよ」
あわれみ。か、とみてぃがうなずく。「でもあたし瑞人くんと約束した。『事情のある可哀想な子ども』だから? だから約束を反故にされても文句はない、ってコト? ねえさあ瑞人くん。『反故』なんて語彙も、『語彙』なんて語彙も、瑞人くんに教わらなくてはこの口からは出てこなかった。偏差値なんて十も上がったし」
「ああ、役にたてて良かったよ。これからも、お互いに頑張ろう」
「瑞人くんから、どー見えているかわからないけど。せかいからの無償の施しで生きていき続けるのがイヤだから勉強をしている。だから瑞人くんは施さないで欲しいんだけど。嫌いになりたくないし、対等な友だちでいたいって」
俺はどうやら折戸みてぃのコトをしょうしょう見誤っていたらしい。これほどまでに弱者を拗らせていたとは。
そこで「じゃあ金の出どころを突き止めておきたい。バイト先ってどこ?」と問う、「人に明かせないようなアルバイトだとちょっと、ね。金を受け取った俺の事情を聞き取りにうちのインターフォンを官憲が鳴らしにくるような展開はごめんだ。来年中学受験よていの妹がいてさ、めっぽう多感な時期なんだ。」
「うん」
みてぃには夢はあるかい。俺はそう問うた。
「まえにも言ったけど。おとなになって「可哀想な子ども」としての商品価値を失ったあとも生きのこること」
それは夢じゃない、短期的な目標でしかない。俺のゆめを教えてやるよ。と言ってみてぃに語る。
生徒の自主性を重んじる校風に惹かれて入ったこの学校で社会奉仕とか短期留学とかの実績を積み重ねてさ。成績も維持したまま推薦と総合入試でそこそこの有名私大にはいる。それで、銀行や外資の商社みたいにゴリゴリなとこじゃなく、まずまず裕福に年功序列と終身雇用の維持されたまったりな職場にたどりつくのが将来のゆめなんだ。『雇用の流動性』なんて政府の指針は意にも介さず。定年を迎えたらそく引退で退職金と年金と保有資産でながい余生をおくる。海外はムリかもしれないけれど、たびたび旅行にでも出かけながら悠々自適に暮らすのだ。というわけで、こんな序盤でレールを踏みはずしたくないんだ。
「それがゆめ? そんなのがゆめ?」ぼうぜんとした様子のみてぃに、
「いまだ数年さきまでの人生設計しか視野のとどかない人間に言われたくないね」俺はそうつづける。
「あのいちおう忠告しとくけどさ、瑞人くんけっこう性格がわるい、よ。」みてぃがかおをしかめる。「あと大丈夫。あたしはきっと大人になるまえに死ぬから。あんな風になっちゃうまで生きたくないしー」そうしてふ、と真顔になってから俺のほうをまじまじと見て。
「だけど瑞人くん、なんだか苦しそうな顔をしているね」
ああなんだか、未来のことを考えていたら怖くなったんだ。俺はいった。
「もしかしてそれは、あたしのコトを心配してくれているの?」
わからない。ただ急にさきのコトがふあんになって。
ああ明日がこわい。ひとりでは眠れそうもない。
「いやいや、瑞人くんって、かなり子どもぽいと思うなあ」みてぃがそうにっこり笑んだ。そっかあ、それであたしも子どもだから仕方がないね。じゃあご褒美をあげようね。言いながら、みてぃが、そのまだうすい身体の厚みと重みでもってやわやわとのしかかってくる。
「じぶんでじぶんのコトをどれだけ嫌いになったって、それで他人がほうっておいてくれるとは限らないんだよ?」
6.推敲
こんなのは俺じゃない、俺は折戸みてぃへとそう叫ぶ。
部室には、まだ先輩は来ていなかった。
だいたい、みてぃはじぶんについて小説を書くんじゃあなかったのか。だけどこれはーーこれではまるで、俺についての小説じゃあないか。
うん。でもねあたし、じぶんについての小説を書こうとした。でも気づいたらこうなちゃったんだ。すごいね、本当に鏡なんだ。いいじゃんぜんぶ、ぜんぶウソなんだからさあ。
言いながら隣にすわるみてぃが、俺の肩に手をまわしてくる。温もりがその吐いきが頬にふれる。
だけど、あなたはこーしていると勃起しちゃうんでしょう。あたしの小説はいつまで小説のままでいられるの。
大したものだ。小説を読み終えた有坂どりいが言ってノートパソコンからかおを持ちあげる。いったいいつから、そこにいたのか。
しょうじきに言ってきみよりもみてぃさんの方が、よほど良く書けるらしい。といっても、まだ私はミズトくんの小説を読んだコトがないわけだけど。そうとうめいな眼差しが俺を向く。
決めた。これを合作のメインにします。
おいおい、『動物農場』のオマージュじゃないのかよ。
いや、この掌編を核に据えたものにしよう。
そんな、いまさら勝手な。
さきに言ったように、この界隈というのは書いたもの勝ちなんだ。プロットもテキストも書いていないきみには、他人の書いたもののあわいを埋めるフレーバーテキストを書くくらいしかできないわけ。
どりいさん、でもね実はあたし。折戸みてぃが意をけっしたように発言する。
ほんとうはあたし、あたしが書いたやつのつづきを瑞人くんに書いてほしいんだ。そうしたら地続きになるっていうか、あたしの書いた瑞人くんもほんものになるんじゃないかって思うわけ。
勘弁してくれ。そのオカルトてきな発想に俺はクラクラとする。
じゃあいまさらもうこっちの俺は必要ないだろう。と席をたち部室を出ようとするのだが、気づけばまた部室の椅子に座っており、いましがたみてぃの小説を読みおえたところだ。
こんなのは俺じゃない、俺は折戸みてぃへとそう叫ぶ。
部室には、まだ先輩は来ていなかった。
だいたい、みてぃはじぶんについて小説を書くんじゃあなかったのか。だけどこれはーーこれではまるで、俺についての小説じゃあないか。
うん。でもねあたし、じぶんについての小説を書こうとした。でも気づいたらこうなちゃったんだ。すごいね、本当に鏡なんだ。いいじゃんぜんぶ、ぜんぶウソなんだからさあ。
言いながら隣にすわるみてぃが、俺の肩に手をまわしてくる。温もりがその吐いきが頬にふれる。
だけど、あなたはこーしていると勃起しちゃうんでしょう。あたしの小説はいつまで小説のままでいられるの。
大したものだ。小説を読み終えた有坂どりいが言ってノートパソコンからかおを持ちあげる。いったいいつから、そこにいたのか。
しょうじきに言ってきみよりもみてぃさんの方が、よほど良く書けるらしい。といっても、まだ私はミズトくんの小説を読んだコトがないわけだけど。そうとうめいな眼差しが俺を向く。
決めた。これを合作のメインにします。
おいおい、『動物農場』のオマージュじゃないのかよ。
いや、この掌編を核に据えたものにしよう。
そんな、いまさら勝手な。
さきに言ったように、この界隈というのは書いたもの勝ちなんだ。プロットもテキストも書いていないきみには、他人の書いたもののあわいを埋めるフレーバーテキストを書くくらいしかできないわけ。
どりいさん、でもね実はあたし。折戸みてぃが意をけっしたように発言する。
ほんとうはあたし、あたしが書いたやつのつづきを瑞人くんに書いてほしいんだ。そうしたら地続きになるっていうか、あたしの書いた瑞人くんもほんものになるんじゃないかって思うわけ。
勘弁してくれ。そのオカルトてきな発想に俺はクラクラとする。
じゃあいまさらもうこっちの俺は必要ないだろう。と席をたち部室を出ようとするのだが、気づけばまた部室の椅子に座っており、いましがたみてぃの小説を読みおえたところだ。
こんなのは俺じゃない、俺は折戸みてぃへとそう叫ぶ。
部室には、まだ先輩は来ていなかった。
だいたい、みてぃはじぶんについて小説を書くんじゃあなかったのか。だけどこれはーーこれではまるで、俺についての小説じゃあないか。
うん。でもねあたし、じぶんについての小説を書こうとした。でも気づいたらこうなちゃったんだ。すごいね、本当に鏡なんだ。いいじゃんぜんぶ、ぜんぶウソなんだからさあ。
言いながら隣にすわるみてぃが、俺の肩に手をまわしてくる。温もりがその吐いきが頬にふれる。
だけど、あなたはこーしていると勃起しちゃうんでしょう。あたしの小説はいつまで小説のままでいられるの。
大したものだ。小説を読み終えた有坂どりいが言ってノートパソコンからかおを持ちあげる。いったいいつから、そこにいたのか。
しょうじきに言ってきみよりもみてぃさんの方が、よほど良く書けるらしい。といっても、まだ私はミズトくんの小説を読んだコトがないわけだけど。そうとうめいな眼差しが俺を向く。
決めた。これを合作のメインにしまず。
おいおい、『動物農場』のオマージュじゃないのかよ。
いや、この掌編を核に据えたものにしよう。
そんな、いまさら勝手な。
さきに言ったように、この界隈というのは書いたもの勝ちなんだ。プロットもテキストも書いていないきみには、他人の書いたもののあわいを埋めるフレーバーテキストを書くくらいしかできないわけ。
どりいさん、でもね実はあたし。折戸みてぃが意をけっしたように発言する。
ほんとうはあたし、あたしが書いたやつのつづきを瑞人くんに書いてほしいんだ。そうしたら地続きになるっていうか、あたしの書いた瑞人くんもほんものになるんじゃないかって思うわけ。
勘弁してくれ。そのオカルトてきな発想に俺はクラクラとする。
じゃあいまさらもうこっちの俺は必要ないだろう。と席をたち部室を出ようとするのだが、気づけばまた部室の椅子に座っており、いましがたみてぃの小説を読みおえたところだ。
こんなのは俺じゃない、俺は折戸みてぃへとそう叫ぶ。
部室には、まだ先輩は来ていなかった。
だいたい、みてぃはじぶんについて小説を書くんじゃあなかったのか。だけどこれはーーこれではまるで、俺についての小説じゃあないか。
うん。でもねあたし、じぶんについての小説を書こうとした。でも気づいたらこうなちゃったんだ。すごいね、本当に鏡なんだ。いいじゃんぜんぶ、ぜんぶウソなんだからさあ。
言いながら隣にすわるみてぃが、俺の肩に手をまわしてくる。温もりがその吐いきが頬にふれる。
だけど、あなたはこーしていると勃起しちゃうんでしょう。あたしの小説はいつまで小説のままでいられるの。
おもわず俺はみてぃのせなかに手をやってその身体を抱きよせた。かたかたとパイプ椅子の接地面が音を立てている。震えているのは俺のからだだ。もう何ヶ月も放課後を過ごしてきた部室のはずなのに不穏な予感がとまらない。それはもはや未来への不安ではなくいま目のまえにある恐怖だった。
はやく続きを。有坂どりいが机の向かいでノートパソコンのキーボードを手繰りながらこちらにそう催促をする。いつにまにそこに居たのか。俺は身を起こして立ちあがろうとするが、折戸みてぃがしがみついたままなのでそれは叶わなかった。パイプ椅子が軋みをあげるだけで俺が椅子から立ち上がることはできない。他人に俺が書いたものを読ませることを躊躇しつづけたあげく俺は、観察されるがわ描かれるがわにその役割を転回されてしまったのだった。書くがわから読まれるがわへと。愛でるがわから愛を注がれるがわへと。
こんなのは俺じゃない、俺は折戸みてぃへとそう叫ぶ。
部室には、まだ先輩は来ていなかった。
だいたい、みてぃはじぶんについて小説を書くんじゃあなかったのか。だけどこれはーーこれではまるで、俺についての小説じゃあないか。
うん。でもねあたし、じぶんについての小説を書こうとした。でも気づいたらこうなちゃったんだ。すごいね、本当に鏡なんだ。いいじゃんぜんぶ、ぜんぶウソなんだからさあ。
言いながら隣にすわるみてぃが、俺の肩に手をまわしてくる。温もりがその吐いきが頬にふれる。
だけど、あなたはこーしていると勃起しちゃうんでしょう。あたしの小説はいつまで小説のままでいられるの。
おもわず俺はみてぃのせなかに手をやってその身体を抱きよせた。かたかたとパイプ椅子の接地面が音を立てている。震えているのは俺のからだだ。もう何ヶ月も放課後を過ごしてきた部室のはずなのに不穏な予感がとまらない。それはもはや未来への不安ではなくいま目のまえにある恐怖だった。
先輩が居るだろう方向に向けて俺は問いかける。するとそこに有坂どりいは在った。
「きょうは小説を書いてきたので読んでもらえますか」
「しかし、女を抱くのと小説を読ませるのを両立させようというのはいささか傲慢じゃあない」
それで俺とみてぃは衣服をなおして何事もなかったかのように、隣どうしに座りなおした。
7.透明少女
五連のティッシュボックスを抱きかかえるようにして道ばたにしゃがみ込んでいる少女には、じつは行く先がない。ティッシュの銘柄をまちがえてしまったから、このまま帰ればとんでもないコトになるに決まっているというのに。ドラッグストアの店員はレシートが無ければ返品はできないと言う。捨てた覚えなど無いのにどこをどう探してもレシートは見あたらない。こんなにもささいな行き止まりに嵌まり込んだ少女には行き先がなくて、からだはじわじわと冷え始めている。かと言って、ビニールの外装に店名のテープを張っただけのティッシュボックスをぶら下げて、コンビニやスーパーなどをうろつきたくなど無かった。弱気はひとを臆病にさせる。今ではもう少女はすべての誤解や勘違いがおそろしくて堪らない。近所に買い物に出かけるだけのつもりだったので手袋もない両うでをこすらせながら。このままでは風邪をひいてしまうかも知れないと少女はおもう。風邪をひいたら許してもらえはしないだろうか? 熱にうかれて間違ったものを買ったのだと順番をあべこべにしてしまえばどうだろう? そんな空想にきぼうをあたためながら、少女のからだはじょじょに冷えつづけてゆく。
ドラッグストアの店員さん。ついさっき買い物をしたあたしのかおを憶えているハズなのに、あなたがちょっとしたルールを破れなかったせいであたしは風邪をひくよ。風邪をひいたらあなたのお店に薬を買いにいってそのレシートはずうっと取っておこう。一生わすれることの無いように。そう呪詛にむねをあつくしながら、少女の肌やかおはもう殆どとうめいになってしまった。
そうしてどこまでも透きとおってしまったあとではもう誰が見ても、道ばたに置きざりにされたティッシュボックスとしか思われなくなるだろう。
想像のなかで少女はじぶんを消してしまう。透明人間になった少女の前をじぶんの持つそれとおんなじティッシュボックスを提げた幽霊がとおりがかったので少女ははっとなって、思いきって声をかける。レシートが有るのならそれを頂くことはできませんか? あわい期待が少女のからだにふたたび色を置きはじめる。これは経費で落とさなくてはならないから、駄目だ。幽霊はそう断ったが、少女があんまりに真剣なことが気になったのか、レシートなんかを欲しがる理由を彼女にたずねた。ティッシュの銘柄を間違えて買ってしまったのだと、少女は掻い摘まんで幽霊にはなしをする。私には良くわからないのだけど、ひらひら水を吸い込むのならティッシュなんてなんだって構わないんじゃあ無いかい? 幽霊はそんな風に気楽に言った。あたしだってそう想うが、安物で鼻をかみすぎると痛くて赤くなってみっともないらしいのだ。だけどそれだって構わないだろうとも想うがあたしが何をどう想おうが、実際のところにはあまり関係しないのだ。
そう話し終えたあたりで少女はふと、目も鼻も口もない幽霊の顔に気がついて、母さんと姉はほんとうにどんな些細なことがらでも諍いを起こすのだと説明した。風邪をひいた姉に母が買ってきたティッシュが姉の指定と違っていたのが、そもそもの話のはじまりで。姉がはなが痛い、かさつく、と何度も何度も未練がましくそんなコトを言いつづけるものだから、言い争いが口げんかになった。そうして仲裁のティッシュを買いに来たあたしまで買い間違えていたら、もう収拾がつかないでしょう?
そうかな、買い間違えくらい、そんなのはただの笑い話でハッピーエンドさ。幽霊は明るくそう告げる。そうかこのひとは人間じゃあないんだ。人間の悩みごとなど解らないんだ。そうして人間のあたしは行きずりの幽霊なんかに慰められて、一体なにをしているのだろう。やはりレシートを貰えないだろうか? 少女はまた未練がましくそう訊いた。にっこり笑んだ幽霊は、それは無理だが代わりにお金をあげよう。そう懐をさぐる。差し出されたのは見たことのない文字のたくさん彫り込まれた銅のコインで、それがあまりに赤くピカピカなために触れたはじから腐食してゆくのを少女は手のひらに見下ろした。きれい、と声が漏れた。でもこれはあたしには遣えないわ、少女はそう握りかえすのだが幽霊がなかなか受け取らない所為で銅はすっかり錆びついてしまう。あなたがたの流儀では借りたハンカチを汚したままに返したりするのかい? 幽霊のことばに少女はかおが熱くなる。本当に、風邪をひいてしまったのかも知れない。
大丈夫、酢につけておけばまた綺麗になります。そう得意げに教える幽霊にありがとう、と少女はそうお礼を言った。
帰る道すがら、少女は幽霊からもらったコインの文字がいつの間にか読めるようになっていることに気づく。そうしていつの間にか完全に透きとおってしまった少女はコインを見て、ああ馬鹿みたい遣えるようになっても十円じゃあなんにも買えないわ。そう笑って笑って。そうか幽霊ってこんなに楽しいのね。いざこうして成ってみると、不安を感じた人間の頃のほうが奇妙に想えてくる。どうしようも無いことを考えつづけた滑稽な過去を想いかえす度に笑えてきた。これで母も姉もきっとあたしの事に吃驚してくれる。たかがティッシュを買いに行かされただけで、娘や妹が人間ではなくなって帰ってくるだなんてちょっと想像できないでしょう? 実際に、事実を目のまえにするまでは。そうして笑い話のハッピーエンドさ!
わらい話のはじまりを想いながら少女は家にむかう。でも、どうもそうはならない気がする。些細なことですぐに母を怒らせてしまうのはほんとうは姉さんではなく私だし、風邪をひいているのも姉ではなく私だし、街をあるいているのは幽霊なんかじゃなくみんなただの人間だったからだ。そこまで前提がずれてしまったさきのハッピーエンドだったはずの結末はいまこのドアのさきでどんな形に成っているのだろうか。
玄関のドアノブを握ろうとしたが色のない手のひらはすっと通りぬけてしまう。軒先でゆび先を口にあたため続けた。
8.有坂どりいはなぜ制服すがたなのか
で動物は? 小説を読んだ有坂どりいが俺に問う。
うん、俺の小説のなかに動物はいなかったんだ。幽霊と人間しか。
「なるほど。これは合作なんて無理だとあきらめよう」どりいが俯く。「それでミズトくんは、このせかいのことがほんとうにそんな怖いのか」
それで俺はわらう。「だからこれは、ただの小説ですよ」だから読ませたくなかったんだ。「ひとりきり制服で学校にきているひとに心配されるなんてさ」
「あ、でもなんか分かりますよ、あたし」みてぃがうなずく。「制服の子みるといいなー、っておもうもん。まいにち服を選ばなくていいってラクだろーなーって」
そっちかよ。「じゃあこんなとこ選ばなきゃ良かっただろ」言ってから、俺は思いいたる。「そっかみてぃにとっては児童支援NPOの宣伝塔としての『仕事』なんだっけか」
「いやそれ、小説のはなしだから」そう曖昧なえがおで顔をふるうみてぃ。「小説って、とにかくややこしいよね。あたしも瑞人くんのヤツ読んで、もしかしたら虐待されてんじゃ? とか少しヒヤヒヤしたし」
「それもぜんぶ学校の教育のせいです」有坂どりいがほおに滑らせた指さきでわざとらしく眼鏡のつるをクイと持ちあげる。しかし周囲から反応がなかったせいかもう二度クイクイそれを繰り返したのち、言葉をつづけた。
「教師のやつら子どもに作文書かせるときにさ、『見たまま感じたままを書きなさい』だなんてとんでもないコトを教えるでしょう? それはつまり文章には書き手の内面が反映される、と無意識にそう前提している」
まあ先輩の言うとおりだ。国語の教材には小説というウソが採用されている。しかし『この時の作者の気持ちを答えよ』という設題が『それはフィクションではあっても真実を伝えるためのツールである』という教条を暗黙理に指し示している。
そして教育としてはそれはそれで正しいのだった。なぜなら事実、たいていの人間は、現実のそとがわを文章に書くということをしない。日記ですら、自身の内面という現実に根ざしている。それは飽くまでまず現実を語るためのツールなのであり、虚偽や誇張もその前提を裏返した二次的な活用法にすぎない。なのでほとんどの者は生涯、書き手と読み手に共通の『現実』という、その関係性の内側に語られることばしか紡ぐことはないのだった。
「うわ、わわっ」顔をしかめたみてぃが胸のまえで両ゆびをイソギンチャクのように絡みあわせる。「きゅうにスラスラとこ難しいコト言いはじめた、こわいよーっ!」
「だいじょうぶ、たまにあることだから」どりいは感情のないままそう肯いて、「ミズトくん。そういえば小説の感想がまだだったけど。良かったよ」
うそだ。
「それはほらあれでしょう。ここで辛口なことを言うともう部員が小説を読ませてくれなさそうだからとかいう、管理職てきな事情のなせるヤツでしょう」
「まあ信じなくてもべつにいいけど。私は良いとおもった。少なくとも、私には書けないし」
「あ。あたしも、ちょっといがいでびっくりした。でもそれってつまり『面白かった』てコトなんだと思う」
それでほおが熱くなり、俺はなにも言えなくなってしまった。
「でもやっぱ難しいなー。これを瑞人くんが書いたものなんだってのを忘れて読むことはできないわー。だから、ただしく読めているのか。そもそもただしい読みかたってのがあるのかもわからんけれど」
「小説を読ませあうというのは、書き手も読み手もそれをウソと了解したうえで交換日記をするようなものだからね」
「でもそれはーーあたしたちが小説を書くコトを選んだからそんなふうに特別に思えるというだけではないの? 小説にかぎらず、マンガだって映画だって、現実のそとがわを描いている点で遜色ないきもするけれど」
みてぃさんって、いがいと頭いいよね。どりいがちょっと感心した様子なので、
ハデ髪した女子はみんなあっぱっぱーっていう偏見はどうかと思うよね。みてぃが苦笑する。
だけど小説は、
と俺のくちが言った。それがもともとは真実を語るべくしてあったツールを用いているというところが、時どき不気味に作用する。
「おあ。瑞人くんのヤツがまたはじまったねえ」みてぃがわらう。
「だから、いま会話は成り立っていると無意識にそう信頼することができる、もしそこが信頼できなくなってしまったなら、最寄りのメンタルクリニックを受診して病院への紹介状を書いてもらわなくてはいけない」
「マンガや映画が現実の出来ごとに思えちゃったときも、おんなじだと思うけど。」そうみてぃの言葉に、それはたしかに、まあそーか。と俺はなっとくする。
それで、何処でもない学校の制服を着ている有坂どりいをみやる。現実感の欠如したたたずまい。制服のない私学の校内にあって、つまりはいわゆるコスプレだった。イベントの祝祭のなかで消費されるべきもの。なのにもうずっとそれを続けている。それでいつしかもう、俺もそれに慣れてしまっている。
「あの、こんかいの小説のなかではどりい先輩はどんな動物なんですか」みてぃが問う。
「私の動物?」みれば分かるだろう。有坂どりいは演技じみた仕草で右腕を周囲につらりとめぐらせる。「人間だよ。人間だけ、人間ばかりしか出てこない。この社会というのはルールという檻に入れられた人間という動物の展示場なんだ。」
なんか、きゅうに夢野久作みたいなことを言い始めたな。なんだっけ。『この世は狂人の開放病棟である』だったっけか。それで俺はふと、その理由に思いいたった。
「何処もかしこも人間ばかりのせかいで自分の見分けがつくように、ひとりだけ制服で暮らしているんですね」
「なんだか、わかったように言わせてしまうな」
「ええ、前にも言ったけど、なんかさ。分かっちゃうんですよ」
「そうだ。私たちの生きかたというのは生まれつきの環境にどうしようもなく規定されていて。だからまえに『ケンカ』したときもきみは手を出そうとしなかった。どうしてか分かる?」
どうしてって。そんなことは当たり前だろう。自明すぎてことばにならない。
「私が女だから、暴力はいけないことだから。まともな人間であれば正しいりゆうを幾つでも上げることができる。ぜんぶ小学校一年のときに道徳の授業で教わったものです。人間というものは、ただしい事をしているうちは安心で、そうでなければ不安になる。」
なんの話ですか。
きみの恐れはじめたものが私にもなんとなく分かるのさ。たしかにこれは多分ただしくない遣いかたなのだろう。
それで、どりい先輩は文化祭にどんな小説を出すんですか、なにを書くつもり? 気を取り直すようにみてぃが言った。
そうだねーー、有坂どりいが思案してうなずく。
私の居なくなったあとのせかい、とか?
折戸みてぃはやがてこの学校を辞めてしまう。かたや、有坂どりいは卒業してしまったので俺はこの部室を閉じて文芸部をやめることにした。
執筆の狙い
いぜんにこちらに冒頭を上げさせて頂きました掌編を72枚に拡張したものになります。
忌憚のない意見を頂けましたら幸いです。
またchatgptに小説を食べさせて何度か指示しながら表紙のイメージを出力させたら、それなりにイメージに合致するものが出てきましたので、もしよろしければご覧ください。
https://imgur.com/4eohzF3