アグレッシヴ・ゲイズ
深夜一時、宝塚から三田へ向かう電車に一人、座っていた。凍てついた田園を駆け抜ける車両は真冬の張り詰めた空気を切り裂いて進む。
車内の暖房に耐えきれず脱いだジャケットを膝に置いて、柵に肘をつき宵闇を眺めていた。深夜営業の居酒屋の喧騒から打って変わり、車内には自分一人しかおらず、電車と線路の打つ音だけが流れている。車窓から街灯を反射して輝く武庫川が見える。
人がいない電車は好きだ。あちこちに残った人々の視線の跡を誰の視線に晒されることもなく探ることができる。荷物棚に忘れられた紙袋、人の頭に触れてシワがついた吊り下げ広告、窓についた指紋。今ここにいない乗客がどこに目を向けていたのか思考を巡らせながら一人の車内を眺めていた。
トンネルを二つ抜け、気圧の変化に耳を攻撃されながら道場駅に停車した。寂れた構内に黒いロングコートを羽織った女がひとり立っていた。氷点下の空気とともに女が乗り込んだ。電灯のついた車内で女は独立した空間をまとっている。
その女を見て、ひどく不快であると思った。というのは何も特別容姿が醜いわけでもなく、ひどく不潔だというわけでもない。具体的に何と言えるわけではないが不快だと、そう私は感じたのである。だから、私は女から目を背けて体制を変え座り直したのである。
ドアが閉まって電車が動き出すと、足音がこちらへ向かってきた。車両の席はどこでも使えるのになぜよりにもよって私の近くを使おうとしているのかと、少しいらだちながら私は目を閉じた。
「嫌いだわ」
女が低い声でそう呟くとシャッター音が響いた。
「はあ?」
思わず目を見開いて声が漏れた。当然である。見ず知らずの女に嫌いだと罵られた上勝手に写真を撮られて黙っているほど私は私に無関心であるわけではない。女をもう一度じっくり見ていると、腰まで伸びた長い髪の毛の中に、絵の具で塗ったように白い顔が隠れていることに気がついた。切れ長の目が私を真っ直ぐに見つめ、上品に添えられた鼻の下に真紅の細い唇が艶っぽく輝いている。えらく美人な女だと思ったけれども依然として不快であることに変わりはなかった。
女は一枚の写真を床に投げ捨てて、隣の車両へと音もなく歩いていった。その写真を拾い上げて見ると、私がひどくくすんだ色で写されている。気味悪く思い、その写真を丸めてカバンに詰めると、ブレーキをかけて三田駅に停車した。
降車してしばらく突っ立っていると、電車が私の目の前を通過していったが隣の車両にいたはずの不快な女の姿はなかった。少し変に感じながらも車内との温度差に体が悲鳴をあげるので、すぐに走って改札を出て家へと急いだ。
私が持ってきた商品を打つレジの男は私の目を見ているが、私という個人を見ようとはせず、ただ客という集合を見ている。道ゆく中ですれ違う通行人は私を個人ではなく群衆として見ている。個人というフィルターのない視線は心地良い。個人というフィルターを通した瞬間に人は私を若く細い不健康そうな男としてカテゴリーの中に閉じ込めて本当かもわからない前提条件をもとに攻撃する。人に話してもただの考えすぎだと一蹴するが、私がそう他人を見ている以上は他人もそう見ていると考えざるを得ないのだ。
数日が経ち写真がいつの間にかどこかへ消えていることも気づかなくなった月曜日、私は再び深夜の電車に揺られていた。
トンネルを走る電車の轟音を聴きながら、私は眠っていた。何度か停車と出発を繰り返すと、アナウンスとともに電車は三田駅に着いた。目を閉じていてもわかるほどに何度も繰り返してきた経路を辿って改札を出た。自転車の鍵を探してカバンの中身を見ると、再び私の写真が入っているのを見つけた。
今度の写真は前回のものよりもさらに色彩が失われ、インクが滲んで綺麗に見られない部分が何箇所もあった。またあの不快な女が乗ってきたのかと、数日前を鮮明に思い出しながら、私はその写真を丁寧に何度も引き裂いて草むらの中に捨てた。
それから、ずっとあの女への不快感が頭の中にこびりついて常に反芻されていた。常に反芻される不快感が蠱毒のように私を苦しめるのを感じながら日々を単調に過ごすのである。次あったら必ず捕まえて、どういうつもりか吐かせるのだと固く決意し、また今日も例の如く早朝の電車に乗り込むのだ。
電車が道場駅に停車すると、例の女が現れた。私が声をあげる間もなく女は一枚の写真を差し出してきた。その写真には破れたものをもう一度繋ぎ合わせたような線が入り乱れ、完全に白黒になった私の顔は大部分が黒く滲んで認識できなくなっていた。
それを見た瞬間、強烈な吐き気が私を襲った。電車が三田駅に到着するとすぐ私は便所へ駆け込んだ。
ひとしきり便器に向かって嘔吐すると出すものもなくなって吐き気は治った。手と口を洗い、便所を出ると、今日はホームに女が立って私を見ていた。
瞬間、猛烈な怒りが込み上げてくるのを感じながら私は女に向かって、聞き取れもしない怒声を浴びせた。それでも、女はにやにやと私を眺めるだけである。
私の喚き声を聞いて飛び出してきた駅員になだめられ、駅員を問いただしても私以外に人はいないの一点張りである。駅員の男の視線は軽蔑と恐怖が込められていた。
女は私の攻撃性だった。私が他人にあると思い込んでいた私への攻撃性だった。私は吠えた。私が攻撃すべき全ての視線に対して。
執筆の狙い
時間ができたので久しぶりに書いてみたはいいものの正解が分からず迷走に迷走...2000字程度の文章です。なにとぞ。