震度3
「トマトとホウレン草のパスタ、コーヒーはホットで食後に」
「かしこまりました」
ウェイターは身体がちょっと右に傾いでいる。ネクタイが居心地悪そうに締められている。バイトさん見習いかな、大学一年生かな、と初々しさが眩しく見える。
「木漏れ日ヴィエント」は喫茶店にしては広く、レストランとしては狭い。職場からは少し遠く、田んぼの中にぽつんとあるような一軒家だが、イタリア帰りというシェフの評判もあってか、なかなかに繁盛している。緑の観葉植物が水を浴びて生き生きとしている。
「さいあくー、今日ね、占いで、運勢最悪だって」
「どうせテレビの時間つぶしのやつでしょ、それにもう一日の半分は過ぎちゃったじゃない」
「でもでも」
なんと客は制服姿の女子高生が大半だ。
時代は変わったものだ。
わたしが若い頃は、学校帰りにこんな所に寄れなかったな。髪の綺麗な同級生がそこで先輩に告白されたとかどうとか、そんな噂話に、なんだかもっと特別な場所って感じだった。
まあ「若い頃は」って、今でも十分に若いのだけど、と言い訳してしまうくらいに、わたしは純然たる若人ではない。一生来るもんかとすら思えた三十路という言葉が、ひたひたと迫る年齢だ。
「それでね、今日、体育の沼田が」
「げっ、沼田、かんべん」
「聞いてよっ、ほんとむかつくんだからー」
「いや。無理、むり、ムリっしょ」
店内の落ち着いたピアノクラシックに、あけっぴろげな甲高い声がのっかる。
客が店を選べても、店は客を選べない。
ガラス細工のグラスを用意しても、そこに注がれる液体が必ずしもワインとは限らない。オレンジジュースな時もある。
でも、その不調和な元気の良さが、今の自分には助かる。しっとりとしたムードで、少し長めの時間を持て余してしまったら、わたしは泣いてしまうかもしれない。
彼氏にフラれた。
大学時代からの付き合いだった。お互いの実家は知らず、口に出すことはなかったが、将来はこの人と、と思うような人だった。
恋の最初の夢のひと時が過ぎると、ゆるやかな倦怠期が訪れて、デートは水族館の空飛ぶペンギンから街中華の塩ラーメンへとなっていく。
そのゆるやかさが、妙に馴染んで、心地よかった。それがずっと続いていって、そのままもっとスローになって、家族になっていくんだなと思っていた。
一昨年の初詣で、人ごみに紛れてあやうく迷子になりかけ、それでも「二人このままで」と願をかけ、相手もきっと同じような願いをしただろうと幸せを思った。そこが二人の時間のピークだった。
その年の春に三年計画の大きな仕事を受け持つこととなり、三年計画が五年の規模となり、いやいやもっと大きくと成りかけて、休日出勤も出張も多くなり、二人で過ごす時間も大きく削られていった。
このままではダメだ、と二泊三日の台湾旅行を予約して、二人で本場の屋台飯を、なんて語ったりしていたら、やり手の先輩が胃潰瘍で身体を壊した。
その日は名古屋への出張へと変わり、大事な用があるからと言うのを何とか説得し、二週間後のフレンチレストランでテリーヌのキャビア添えを目の前にしたら、そこで別れを告げられた。
らしくない背広姿で固くなって
「これまでだよな、俺たち。ごめんな、ごめんなさい、貴重な時間を奪ってしまって」
なんて、らしくないセリフを使われた。
キャビアがやけにしょっぱかった。
にこやかに笑って、思い出の映画館や公園や、それこそラーメン屋で、さっとお別れして欲しかった。その方があの人らしかった。いや、こう、踏ん切りがつかずに、さよならするのに形式ばっちゃうところが彼らしい、のかもしれないのだけど。
だからなのか、別れたという実感がなかった。
名古屋名物、ういろうのお土産を職場の同僚と片付けても、心は傷ついた箇所がわからないように、痛む歯がわからないように、じんじんと疼いて、所在なかった。
隣のテーブルの女子高生は一年後には恥ずかしくなるような流行りの一発ギャグで「もう、古いよ、それ」なんて話を弾ませている。チーズケーキの白と、そこに添えられたレモンソースなんて、「オシャレ」とか「彩りのセンスある」とかそんな言葉を待っているだろうに。
でも、そんなネットやテレビの聞きなれたセリフを瑞々しく言えるそんな仲は、確かに羨ましかった。
思ったよりも長い、料理が来るまでの時間に、わたしはスマホを取り出す。ニュースやらファッションやら取り留めもなく。心がざっくばらんにスライドしていく。そして習慣からか、ほんとにそれは習慣なのだろうけど、彼氏のツイッター、今はXっていうけどわたしはどうもそれに慣れない、へとどうしても流れてしまう。
ひであき@hideaki9274・32m
勝龍軒の麻婆豆腐定食 相変わらず美味し♪
わたしは何を期待していたのだろう。しているのだろう。
ブックマークから外して、もう見ないって決めたのに、取り留めもない時間が来ると、どうしようもなくそのツイッターを覗き、そこに自分の痕跡がどこにもないことを認め、また言葉ではどうとも言い表せない気分に沈んでいく。
ほんとに、わたしは、しょうもない女だ。
*
トマトとホウレン草のパスタを胃に収め、隣のテーブルには女子高生の代わりに化粧が濃いおばさんらが座り、食後のコーヒーも冷めていった。
やっと取れた休日。一人で部屋にこもっていてはダメになる、とカフェにまで来て自分を保っている。
そもそも保っているのが、自分なのか。
ここにいる自分は、自分なのだろうか。
本当の自分なのだろうか。
あんなに笑っていた自分なのに。
最近はこんな風に考え込んでしまい、哲学的だなと自嘲してしまうが、それもどうでもいい考え事なのだろう。
こんなことよりも明日の天気や気温、このところ毎日快適なのだけど、を調べた方がずっと健康的で建設的だ。
そしてそのわたしの手元にはスマホがある。
だけど、そうした思考はとどまりを知らず、また、わたしを飲み込む。飲み込んでいく。その時だった。
手元がふるえた。
コーヒーカップの黒い液体が揺れた。
身体が揺れた。
おばさんの取り留めもない会話が「きゃっ」となった。
わたしも何か声を出しそうになった。
揺れは続いている。
思ったよりも続いている。
もしかして本格的に揺れるのでは、大きなものが来るのではと思ったところで、それは徐々に緩やかになり、収まった。
震度はおそらく、3くらいだろうか。
まだ心は震えている。
地震。
大震災。
続いていく毎日の中で、完全に頭から可能性を消していた。
蘇る。
光景。
写真。
新聞記事。
そして、彼氏の声。
おばさん達は、スマホに見入っている。
ラインでも送っているのだろうか。震災情報を確認しているのだろうか。
わたしもニュースサイトを回ってチェックする。
幸い、地震の規模は思ったよりも大きくないようだ。震源地は南関東の方で、机がガタコトと揺れるテレビの放送局の様子が映されていた。
あの時も、そんな地震だった。
彼氏と付き合いだしてまだスノボにも行ってなかったころ。
地震があって。
それは外国で大地震があった直ぐ後だったからなのかもしれないけど。
震度3。
その直後に、スマホが鳴った。
思わず手に取ると、彼氏だった。
「無事だったか」
「うん」
「怪我はないか」
「うん」
「よかったあ」
「おおげさだよ」
「だって、心配だったんだよ」
「大丈夫だよ」
「でもなー」
「なんか恥ずかしいな、ありがと、でもやっぱり大げさだよ」
わたしはニュースサイトのチェックを終え、しばらく店内の観葉植物を眺めた。
それからツイッターへとタッチした。
ひであき@hideaki9274・2h
勝龍軒の麻婆豆腐定食 相変わらず美味し♪
更新されていなかった。
その当たり前の画面を見つめるわたしの目から、涙がこぼれた。
執筆の狙い
どうにかこうにか。こうにかどうにか。
よろしくお願いします。