作家でごはん!鍛練場
大歳士人

神物語 序章

 若い人よ、その若い日は、まだ人生のプロローグにすぎない。──大歳士人

序章

   ファンタジーの世界へ

 世界が崩壊してゆく。これは、これから現実に起きることだ──

 久しぶりに会った友人の言葉だった。

 彼とは同郷で幼少期からの学友で、思えばそれなりに長い付き合いだ。他の友人らを交え、学校を卒業してからも一緒に遊んだり、旅行やツーリングなどにも行ったりしていた。

 それが三十路をすぎたあたりからは、彼や同世代の馴染みとも、直接会うことが徐々になくなっていった。だがべつに会わなくなったからといって、疎遠になったわけでもなく、会おうと思えばいつでも会えるし、彼とは相変わらずどぎつい冗談もいえる間柄だった。

 そんな彼からメールが届いていた。──入院して、暇だから、見舞いに来てくれ、と。

 会うのはいつぶりだろうか。記憶をたどると、10年は会っていない。驚きだ。──しかし、あいつも年食って、バイクで事故って骨折でもしたか。

 病院の受付で聞くと、贅沢にも個室というので、病室に行ったら笑ってやろうと思っていた。が、彼の顔を見たら、そんなチャラついた気分が、一気に失せた。

 それでもベッドの上で彼が、

 「ダイエットに失敗して拒食症になった」

 と冗談を言うので、

 「精気を吸い取られただけだろ。女遊びのしすぎだ」

 ──笑いはない。こともなげに会話は進む。彼は、

 「無駄話している時間もないので、まあ、なんだ、端的にいって、末期の癌。近々死ぬことは決定事項。数か月まえからわかっていたことだ。みんなには言わないでおこうと思ってた。言ってもしょうがないことだし、言うつもりもない。けど、おまえには頼みたいことがあるから、──頼むわ」

 言葉ははっきりとしていた。ただ、ベッドにはミイラのように痩せこけた男がいる。電動ベッドで上体を起こしていたので、とりあえず元気そうには見えるが、かなりつらいようだ。

 「40すぎてファンタジー小説を書いているなんて、ガキみたいで、恥ずかしいと思うか? ──でも、いまからでも遅くない。おまえがその小説のつづきを書いて、完結させてほしい」

 ネットに晒しているという彼の小説を、私はスマホで読んでいた。病院ではあったが、その個室でのスマホ使用は禁止されていない。

 「ガンゾーイ、ソニン、ミリフィア、というのは、あれか、モデルがいるのか?」

 「──ああ。あと、二人、ルルレとウェスタ。というのが出てくる予定だ。全体の、だいたいのプロットがあるから、そのファイルをあとで送っとくよ」

 「そいつらは、みんな……、死ぬのか?」

 「まさか。逆だ、逆。ファンタジー小説のなかで、みんな、生きる。よみがえる」

 私たちは何でもつつみ隠さず、本音でものが言える。しかし、二十数年前の事故のことだけは、冗談でもいっさい口にすることはできなかった。

 当時、私たち二人は、まだ免許取り立ての二十歳だった。あの日──

 ガンゾーイ、ソニン、ミリフィア、そして、ルルレ、ウェスタを乗せた一台の車は、山岳の道路の崖下でひっくり返り、漏れたガソリンに引火して、燃え盛っていた。カーブで大きくはみ出してきたトラックと衝突して押し出されたらしい。

 事故を発見し、通報したのは、自動車の後方から登ってきた二台のバイク──しばらく彼と私はバイクにまたがったまま、上から自動車が燃えているのをただ呆然と眺めていた。

 何が起きたのか、まったく理解できない、信じられなかった。その後も、まるで他人事みたいで、何も考えられず、ただ、たんたんと警察の事情聴取にも応じていた。

 彼は言う──

 「──ウェブ小説の、異世界ものは、一時期大はやりして、もういまでは一つのジャンルとして確立しているが、もとは不慮の事故で我が子を失った母親や親族らが書いていたという都市伝説があるらしい。だからウェブであり、原稿用紙の書き方すら満足にできない、ほとんどが素人ばかりだ」

 「ゴミばっかりか? ネットでつながるからな、どうせどのみち出版不況で、小説なんてまさに斜陽だろ。素人同士の趣味の世界でいいんじゃないのか」

 「そりゃ、昔はよかったの懐古ジジイの愚痴だな。いまは小説だけで完結する小さな世界じゃない。時代も市場も大きく変わった。コミカライズされ、アニメ化されて、全世界に向けて配信されていく。そこで日本のJポップも再評価されている。これから、底なしに、夢が広がっていく産業だ。とくに日本のアニメは世界最高峰だからな、日本人に生まれてきたことに感謝だ。──ま、俺にはもう時間がないが、ワクワクする新時代の始まりだろ。うらやましいぜ」

 「書いたのは、ネットの、これだけ?」

 私はスマホを掲げ、彼に聞く。

 「ああ。書きたくても、もう書く気力が出ない。終わりだ……。──たしか2章の2節ぶんまで書いたかな、……けど、その2節を1章に入れ込んで、1章12節にして、2章からおまえの好きにすればいい。たぶんそのほうが書きやすいはず。──ま、わかっているだろうが、そもそも主人公のモデルはおまえだ。アトマ。だから1章も統一感を出すために、書き直してくれていい。重要なことは、──いや、大切なことは、あいつらと、向き合うことだった。じゃないと、報われないし、おまえだってそうだろ。このまま何者でもないまま終わる」

 「べつに、いまさら何者かになろうとするつもりもないけどな。それと、アトマは小学生のときに飼っていた犬の名前だ。よく覚えてたな」

 「むかし、同人誌のコラムに寄稿してくれただろ? そんなかに、──壮大な時間の流れを意識するとすべて夢の如く感じられる。いま手に触れるリアリティーも過去に埋没すればいずれフィクションとなる──みたいなことが書いてあったんだが、覚えてるか?」

 「あーまあ、書いたな、そういうこと」

 「もうすぐ自分が死んだら──。死んだら、もうこの世界には戻ってこれないんだから、この世界が、崩壊するようなもんだ。──だろ? 何千億年か知らないが、この宇宙でさえ消失するのは……確実な事実なんだから。そう考えるとこの世界自体も、ファンタジー……だよ。世界がなくなれば、もう、みんな、うそっこだ。だから……もっと好きに生きていいんだ。もっと愉快に……せいいっぱい、楽しめばいい──」

 疲れてきたのか、彼の言葉が弱々しくなる。

 「──ほかに要望は? ルルレかウェスタがおまえの妹なんだろ? あの勉強のよくできた。医大を目指してたんだよな」

 彼は両親を早くに亡くしていたので肉親は妹だけだった。

 「それよりミリフィアだ。嫌がるミリフィアを、おまえのためだといって強引に誘いだしたのは、俺だ。それを思うと、本来ミリフィアは死ななくてすんだ。いまだに、悔やんでも悔やみきれない──。悪かった──」

 そういった話になってしまうから、事故のことは、互いにこれまで話したくなかったんだと思う。

 「詮ないだろ。言わなくていい。とっくに終わった話だ」

 ミリフィアは実家の近所の子で、最初に出会ったときは不登校の中学生だった。私はそのときまだ高校生だったが、彼女の両親とは家族的に懇意にしていたので、勉強を教えてやってくれと家庭教師みたいなことを頼まれて、関係はつづいていた。

 「──常識のなかに引きこもってないで、出てこい。──おまえの言葉だ。おまえは、人をはっとさせるような、いい言葉をもってる。だから、作家になるべきだ……」

 ベッドを倒し、彼は横になった。私は彼を休ませてやろうと思い、

 「あー──、とにかく、つづきは書くよ。たぶんおまえのプロット通りには書けないから、どうなるかわからないが、楽しませてもらう」

 「──それでいい。それで。もうここへは来なくていいから。……葬式も伯父に頼んで、誰にも連絡しないようにいってある。死んだことを知らせないように。もし死んだという話を聞いても無視してくれ。……俺は、死んだ友人としておまえの記憶に残るのではなく、会わないだけで、いまも生きている友人と、思われていたい」

第1章 魔法と剣の世界

   1 想像の世界へ降り立つ

 意識を漂わせる。ただ自由に──

 こうしていると想像の世界が広がる。うすぼんやりとした不安から解放される。ゆえに、この想像の世界では、すべてが自由だ。

 そう、私にとって。

 だからここでは私が創造神となる。ただ、語るだけでいい。この語りによって、私のリアルな意識世界が構築されていく。

 そうだ、私は私自身にたいして語ろう。それこそがまた自由の源でもあるのだから。私は誰にも支配されない。されていない。私の支配者はつねに私自身、自分自身である。

 さあ、これから、どこに行こうか──

 ふと見やると、草原の大地に人がいる。上空から私はそれを発見した。体格のよい男が二人と華奢な少女が一人。三人が歩いている。フード付きのマントで身をつつんでいる装いから察するに、旅をしているのか。

 しかしどうにも薄汚れている。長いこと旅をしてきたのだろうか。足取りはしっかりと力強いがどこか疲れているようすも垣間見える。

 私は先回りをして彼らがやってくるであろう場所に降り立った。その姿は、人の形。青年の器だ。麻の質素な衣をまとい、この世界のどこにでもいるふうの純朴な若い男の格好をした。

 この世界には男女の差はあっても人種の差はない。後天的に日に焼けていれば肌は黒くなっていくだろうし、そうでなければ青白くなる。勇ましければ骨格も太くなり、人によっては彫りが深く、または張り出してもくるだろうし、気が弱ければ平らな、貧弱な体つきにもなる。

 私はこれといった特徴のない中肉中背の見た目あまり強そうでない男の体をつくりあげた。相手の警戒心を解くためである。

 すでに私はこの世界の人間には魔力を与えていた。いや、それは、人間ばかりではない。この世の生きとし生けるものすべてにそのチャンスを与えておいた。

 うまく魔力を扱える者は知性や自由を勝ち取ることに成功しているようだった。

 たとえ腕力の劣る女性や子どもでも、魔力によっては屈強な男性と対等もしくはそれ以上に、戦える。筋力を鍛えるように魔力を鍛えれば、その体格差など容易に補える。ここはそんな世界となっていた。

 さっそく彼らは、かなり遠くから目視で私を発見し、探知の魔法を仕掛けてきた。

 魔力とは、生命体から発せられる意識そのものだ。それは人の目には見えない霧状のようなもので、その強さによっては、まるで生き物が這いずるが如く、どこまでも広がる。数百メートル先からそれが届いたということは、探知にかけては相当の使い手である。

 私はこちらの力を気取られぬよう、あふれんばかりの魔力を抑えていた。この器から外に広がっていかぬよう押しとどめて、そのあいだ、この空っぽの器の中に濃厚な意識を流し込みかき混ぜていた。

 そうやって記憶を捏造し、固有の人格を形成した。するとその記憶はすぐさまこの世界の時空をねじ曲げ、その瞬間に、この世界の事実となる。

 個々の放つ魔力には、個別の種は当然のこと、質の差もあった。いま探りを入れんがため、私の肉体にからみついている者の魔力は、とても良質なものであった。透明感がありほとんど気配を感じさせない。これならおいそれとは気づかれないであろう。私以外になら。

 良質の魔力を放つ者は善人である。意識に穢れがないから、それは透明感を保つことができる。そもそも魔力とは、魔の力であり、基本は、我欲、強欲、──ようはつまり、欲を満たすための野性的な生命力でもある。だからその力ゆえに、人は得てして、悪の道に走りやすい。

 「敵意はない」

 手のひらを見せるように彼らは右手を軽く挙げながら近寄ってきた。あいさつの仕草というより、武器を手にしていない、攻撃するつもりはない、という意思表示でもあるのだろう。

 二人の男は同時に手を挙げていたが、後ろの少女は、男たちの仕草に気づいて慌てて手を挙げた。私はマントをはおっていないので、まさに明らかな丸腰ではあったが、私もゆるりと右手を挙げた。すると、

 「近くに村か町があるのだろうか?」

 いかつい大男は聞いてきた。

 「あなた方はなんだろう? ただの旅人か、それとも、移民難民のたぐいか。もしくは、魔物を狩るハンター、冒険者か?」

 私はすべてを知っている。知っているうえでそう聞き返した。彼らがどう反応するのか、それを見るのは自分でも思いがけなく、想像以上に新鮮で、楽しいのだ。

 「ああ、我々は……」

 大男は言いよどみ、隣の背の高い男を一瞥してから、

 「移民だ。生活の拠点となる場所を探している」

 と、私の質問に答えた。

 ※「第1章 Ⅱ 念話術を使いこなしている者たち」につづく

 アルファポリスにて 公開中
 大歳士人 神物語 つまり私が本当の神様になった世界でのお話
 https://www.alphapolis.co.jp/novel/799104515/686694718

 第5回 次世代ファンタジーカップ 参加中
 https://www.alphapolis.co.jp/novel/cup/2504

神物語 序章

執筆の狙い

作者 大歳士人
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前回投稿した『神物語』に感想をいただき、お二方の感想を参考に、強調の記号を排除し、世界観の設定がわかるよう新たに「序章」を付け加えました。

先日ようやくアルファポリスにて、本1冊分の分量が完結し、自分では満足できる仕上がりになっていると思っております。予定のプロットのちょうど半分。しかし需要がなければここで終わり。それはなんとか避けたい。

チャレンジしている「次世代ファンタジーカップ」の順位も、やはり書き手ばかりが多いなか、ただ投稿しているだけでは下がってしまい、サポートしていただきたくこちらに投稿します。もしよろしければ、アルファポリスにて続きを閲覧いただけると幸いです。とくに「ボーナスタイム中」は閲覧獲得ポイントが倍増しているので、それだとなおうれしい。

アルファポリスほか、カクヨムや小説家になろうにもアカウントがありますので、そこでフォローしてくれるとフォローバックいたします。また、ご要望があれば、どうしても辛辣(誹謗中傷と言われかねない)になってしまいますので、拡散防止のためこの場にて、御作への感想も書かせていただきます。

コメント

偏差値45
KD059132059253.au-net.ne.jp

>本1冊分の分量が完結し、自分では満足できる仕上がりになっている
お疲れ様でした。

うーん、書くことは誰にでも出来る。
だけど、楽しく読ませることは誰にでも出来るわけではないです。
そこまで書いてしまったら、今さら読者の感想を聞いても……。
マイナーチェンジは出来ても、大規模な修正は難しいでしょうからね。
いっそ別の作品を書いた方がいさぎよい気がしますね。

さて感想。
現実の世界と空想の世界が融合しているわけですね。
本当に上手な作家さんであれば、いいかもしれない。
作品が求める技術に対して、作家さんの技術が足りていない気がしますね。
まあ、やりたいことと出来ることは違う。そんな気がしますね。

>「ガンゾーイ、ソニン、ミリフィア、というのは、あれか、モデルがいるのか?」

こ、これは……!
唐突過ぎる。
個人的には、知っているキャラクターだけれども。
初見の人にとっては「謎」ですね。
大事なことは読者に「伝える」ことです。
「謎」「疑問」「理解不能」そんなことを読者にさせてはいけないのですよ。
なぜなら、すらすら読めないから。
作家さんの技術力を疑ってしまうかな。
今回はこの段階で挫折ですね。
とはいえ、折角なので短いから最後まで読みましたが……。
面白くはないですね。残念。 

青井水脈
softbank114049130173.bbtec.net

読ませていただきました。
掲載分だけですが、先は気になる感じでした。
最初は無意識に、日本人かと思って読んでいて。

>ガンゾーイ、ソニン、ミリフィア、そして、ルルレ、ウェスタを乗せた一台の車は、
外国人だったのか、と思って。

>とくに日本のアニメは世界最高峰だからな、日本人に生まれてきたことに感謝だ。
でもやっぱり日本人?
日本人に、外国人風(ファンタジー小説風)の名前を付けたってことでしょうか?

>近々死ぬことは決定事項。
余命わずか、もう長くはない。言い回しは色々ありますね。参考までに。

書こうとしていることはわかりました。
末期癌で余命幾ばくもない友人から、自作の小説の続きを書いて完結させてほしいと頼まれる。ここまではありえるかもしれませんが、2人には過去のある出来事が棘となって残っていた。それが今後、どう絡むのか。気にはなります。

小次郎
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序章面白かったです。
一章になって、?です
一章は、主人公が小説で書いたファンタジーなのか、それとも、本当にファンタジー世界なのか?
わからず、つまづきました。
ところで、この手のジャンル本当にライバル多いですよね。
この手のジャンルで、大歳士人さんだけしか書けない独自性が必要なのだと思いますよ。
序章は独自性ありそうと思いました。

青井水脈
60.87.210.193

前回投稿された分より、読みやすい感じがしました。というか、序章があるとないとじゃ心象が違っていて、ファンタジーカップの中でも、やや異色ではないかと。
タイトルだけで目を引くように、「創造神である私が自由に造る物語世界」とか、内容をもう少しイメージしやすいタイトルにしてみてもいいかもしれませんね。一口に神や世界といっても色々なので、もうちょっと奥行きあるように。
第一章に入る前にも、
>それでは、彼の残した物語を語ろう。
などの前置きがあってもいいかもしれませんし。

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カクヨムで見てきましたけど、作品の話数のわりに評価が低いですね。
あまり読まれていないのかな……
カクヨム内の自主企画に参加して、もっとアピールした方が良いのではないですか?

ここに出しても伸びませんよ。

大歳士人
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偏差値45さん、感想をくださりありがとうございます。

読んでくださり、また感想をくださったことは、ほんとうにありがたく思っております。しかし小説を書いている同士として腹を割って話せば、たいへん大きな勘違いをしているようなので反論ではありませんが、意見を述べさせていただきます。

むろん読者としての立場ならどういう感想を書こうがご自由。作者は、それを分析し、理解し、糧にするのが当然。そこは問題はありません。ただ、もし小説を書く側の人間としてこのサイトに参加しているようなら、意識を改めておかないとトラブルの原因にも。

まず前提として、書くことは誰にでも出来る、とのことですが、小説は10人に1人くらいしかまともに書くことができません。これが現実。また統計は出せませんが、正しく文章を読むことも最近のSNS界隈で聞くところによるとできない人が多いとか。

そして、小説には楽しく読ませる一面もあるが、それが小説の本質的な魅力ではない。そちらの言わんとしていることはよく理解しております。ただ、楽しく、に価値基準をおくと、小説における評価、良否の判定を見誤り、これまたまともな小説が書けなくなる原因にも。

大事なことは読者に伝えること、というのも、間違った認識、結論、メッセージで、そういった考えもこれを機に再考してみていただきたい。くしくもご自身の出したキーワード「謎」「疑問」「理解不能」こそが小説、文学の醍醐味で、それらがあるからこそ、自分の頭で考えるを好む人間は、マンガではなく小説を手に取る。そして「すらすら読めない、脳に程よく負荷がかかる、けれども読めた」といった一連の経験、読書体験があって、それが愛読書にもなりうる。またそういった刺激を与えるものを、マンガ家でもアニメ監督でもない、作家が本来発想すべきこと、書くべきことかと。

小説は書き上げてもすぐに出版となるわけではなく、半年から1年後に出版なんてこともざらで、アニメ化となるともっとあと。だから、次は(たとえば2年後は)何が来る、を予測し考え、先取りして書かないともう遅い。

また先取り競争に参加していると、あれがつまらない、これがつまらない、面白くない、などといっている暇はなく、そういった傍観者ずら、悪くいうと老害的な見識は、ご自身の人生をもつまらないものにさせてしまう。

つねに、次は何が来る?の心構え、発想、自分なりの答えは、小説を書くモチベーションになります。そういった世界で戦いましょう。

感想にたいして作者が反論をすることは客観的な心証としてもたいへんリスクのあることで、受け流すのがマナーになっていますが、2度も最初に感想をいただき、感謝、返礼として、あえて書いていることをご了承ください。最近つまらないものばかり、なら自分たちの手で一緒に時代を切り拓きましょう。

大歳士人
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青井水脈さん、お読みいただき、そしてご感想、ありがとうございます。

ご指摘の、外国人だったのかと思った、というのは偏差値45さんの感想に引きずられた感じではないかと思います。

病室に来て友人が書いている小説を読んで、その感想として作中のキャラ名を出し、それにモデルがいるのか、と問うのはごくしぜんな会話の流れで、これに唐突感を覚えるのはちょっとまた別の先入観からかと。

そして実際の名前(日本人名)ではなく、そのキャラ名を使って話を進めるというのも、会話的センスの問題で、そこには故人の具体的な名前を口にしたくないという心情が働いているというのも読み取っていただきたく、表現方法としてはもう変更の余地がありません。もちろん青井さんが受けた印象は貴重なご意見として参考にいたします。ありがとうございます。

近々死ぬことは決定事項、というのも余命がわずかという現状のみを表現しているのではなく、これは決まったことで運命は変えられない、同情したり悲しんだりする必要はない、そんなことはしてもしょうがない、とおよそ死が近づくと感傷的になってしまいがちですが、それに反して、ややクールに、40代の友人同士の、先入観にとらわれない人間関係を意図して書いています。そのせいかキャラ的な区別がつきにくく、平面的なのは否めない。ただし自分のなかでは妥協の範囲内でやっています。

意図したほどでもないけれども、年齢、世代に関しては、本編でも取り上げ、意識改革の一環としてネタにしています。たとえばいま『片田舎のおっさん、剣聖になる』というアニメが何かと話題ですが、個人的にはマンガで読んでいて(アニメはまだ見てない)、面白いけどこんなもの誰が読むんだというのがありました。それは10代20代ならおっさんに感情移入できないという自分自身の思い込みでのせいで、アニメを見るメインの視聴者もすでに変わってきていることが(わかっていたけど)、やはり気づいてなかったというのがあります。

だから自分ではこうだと思っていても、他人の意見に耳を傾けることは大事。ということで青井さんのコメント、ほんとうにありがとうございました。

大歳士人
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小次郎さん、お読みいただき、感謝申し上げます。

つまずきを覚えたのは、やや言い訳に聞こえるかもしれませんが、新しい概念なので、こういう発想、とらえ方、もあるんだなぁと一度知ってしまえば、当たり前になるようなものだと考えております。

独自性が必要とのことですが、これは、おっしゃりたいことはわかりますが、いまの時代は独自性というよりも、たとえばファンタジー小説ならファンタジー小説のこれから発展していくその先、それをいちはやくとらえることができるかどうかだと考えております。

独自性が重宝される時代は、秩序立った社会でみんながルールを守り、平和だけど統一的に管理されてそれを退屈だという空気が出てきて、個性が、独自性が、となるもので、いまの時代、みんな自由奔放すぎて、むしろ独自性はネット配信者の迷惑行為に近いものがあります。新しい発想という意味で独自性という言葉を使うのはよろしいかと思いますが、独自性を基準にしては道を誤ります。

作品を上げていたので読んでみましたが、辛辣なことをいうと、まだ小説のレベルのものになっておりません。作文レベルで、作者が作文を書く感じで伊集院レイについて書いている。過去に涼宮ハルヒや西尾維新の作品で、語り手の主人公が美少女キャラについて語りまくって読ませる手法はありましたが、その場合やはり登場人物の少年が語っていて、少女と少年との興味深い関係性を創作しています。

本格的に小説を書くには物語性以外にも、キャラ同士の関係性を設定することも重要な要素になってきます。ファンがいたらその関係性から二次創作する欲求も出てきます。作者がただ登場人物について語るだけではお金を払って読む水準のものにならない。

小説は10人に1人しか書けないというのが現実とほかで書きましたが、書き方に、はたと気づくと、すぐに書けるようになります。書写をすることで書けるようになることも。面倒ならネットで読める試し読み部分だけでも十分と個人的には思います。ただ、書き写すのは、現役の作家のものにしないと古い書き方になってしまうので注意が必要。

多くの人のご意見、感想をいただくことで、自分が考えていることが気づけることもあり、小次郎さんのようにコメントをいただくことは、たいへん参考になります。ありがとうございました。

大歳士人
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青井水脈さん、再コメントありがとうございます。

ファンタジーカップについては、やはり上位の人にはファンみたいなものがついていて、過去には書籍化をしてたりしてますね。また何作も書いてらっしゃる方も多い。

タイトルで目を引くというのもわかりますが、タイトル数が多く、またみんながみんな長いタイトルをつけているので、もう選ぶのも面倒でランキング上位のものを数点クリックする感じではないではないかと。

否定するつもりはなく一つの考えとして、「それでは、彼の残した物語を語ろう。」というのはちょっと古い感じがして、いまの小説は読者を想定し読者に向かって語っているのではなく、本編の中でも書いていますが、自分に対して語る、わかりやすくいうなら「独り言」を並べる感じで書いています。

ご意見、アドバイスを否定したような形になってしまいましたが、それは自分が気づかない第三者的な見方として、とても参考になります。ありがとうございました。

大歳士人
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凪さん、コメントありがとうございます。

ネット時代の小説の売り方として、もう従来の販売方法では売れなくなってきているというのもあると考えます。新人賞を受賞して帯をつけて書店に並べておけばそれが勝手に売れるという時代ではない。

知名度のあるタレントが文学賞を取ったらそれが爆発的に売れるというように、考えてみればブロガーやユーチューバー、Vチューバーがいろいろな本を出して売り上げを伸ばしている現状がすでにあって、作家一筋だけの人がお高くとまって小説さえ書いていれば何もせずとも売れるというのはありえない。タレントはタレントして売れる努力をしていたから売れたんだとそれを認めることが大事。

意識改革が必要で、小説の質を高めれば売れる、評価されるというわけでもなく、まず個人のタレント性があって、それをSNSや小説投稿サイト、エックスやインスタなどで地道に知名度を上げておく必要がある。

自分的には目立つのはあまり好まないし、見ず知らずの人間とのコミュニケーションも気苦労するのでやりたくはないけど、その必要性を今回、身にしみて感じております。カクヨムや小説家になろうにもアカウントはありますが、小説を一作品出して宣伝もしてないので評価が低いというより誰も見向きはしないといったところでしょう。

アピールせよ、とのこと。重々参考にさせてもらいます。ありがとうございました。

小次郎
121-81-132-203f1.hyg1.eonet.ne.jp

感想いたいだいたんで。
どう思ったか、ここに書かせていただきます。
僕が載せたものは、導入部の導入部ぐらいで、これから、多くの人々と主人公が関係をつくっていきます。
それでも、面白くできるかは、わかりませんけど。
お読みいただきありがとうございます。

大歳士人
104.28.83.196

小次郎さん、ちょっと誤解させてしまったようなのでもう少し説明を。

関係性というのは、物語が進むにつれて登場してくる人物との関わりというよりも、最初の設定のことです。

読者はストーリーを読み進めるのを目的としていますが、それ以外にも設定された空間に魅力を感じ、たとえば異世界ものなら、こんな世界で過ごしてみたいな、自在に魔力が使えたら楽しいだろうな、みんなも魔力が使えるけど、しかし自分だけは特別なチート能力が使えたら、もっと楽しく優越感に浸れるな。つまりそこには自分と他の住人との関係性が設定されている。

導入部分では、作家が読者にどういう場を用意しているのか設定しているのか、明確にしておくことが大事。

小次郎さんの作品は作者が語ってしまっているので期待させるものがない。たとえば似たようなのでいうと、シャーロックホームズ。あれは友人であるワトソンが知性の塊ホームズについて語っている。事件解決も面白いが、ベースとなっているホームズとワトソンの二人の関係性が面白くさせてそれが商品化させている。

それに基づくなら伊集院レイを語る人物を設定し、その人物が語るようにしておくとレイとの関係性ができあがり期待値が上がる。ただの友人が語るのであれば目新しさはないので、ストーカー的な人物だとか、死んだ人間だったとか、猫とか。神とか? 神はいまこちらの作品でやっていて、その神の作る世界は、自身の記憶から作られた不慮の事故で亡くなった友人たち。

関係性を構築するのはエンタメ作品を書くなら必要不可欠な要素。たとえばワンパンマンでも、ワンパンチで敵を倒すという設定より、その能力を知っているジェノスの存在、二人の関係性がストーリーを面白くさせている。ジェノスは知っているけど他の超人は知らないという関係性。

名探偵コナンも似たようなもので、新一がコナンだということを博士や灰原哀などごく一部の人間だけが知っていて、蘭は知らない、という二人の関係性が、長寿アニメにさせている。その関係性、秘密がばれて壊れた時点で終了。

もし物語性についてしか考えていなかったら関係性についても考慮し、面白いプロットづくりに精を出してみるの上達の近道かもしれません。

小次郎
121-81-132-203f1.hyg1.eonet.ne.jp

実は僕、あまり読書していないんですが、全く読んでないわけではなくて。
主人公の文章論から始まっている小説やら、主人公の置かれている状況から始まっている小説やら、いろいろあるような気がいたしますが?
もちろん、よしもとばななさんの「TUGUMI」みたいな形式もありますね。
大歳士人さんが今言われている形式が、「TUGUMI」みたいなの。
綿矢りささんの、「蹴りたい背中」は、導入部が自分語りだったり。心理描写です。
絶対に、導入部が誰かから見た、誰かを語る形式ではないのでは?
導入部の設定が問題というより、僕の技量不足のような。
どんな導入部にするにしても、作者に技量がないと面白くないのかも。
上記にあげた作品一人称ですが。
実は、三人称あまり読んでなくて。
一応、僕は三人称一元視点で書いていたつもりなんですが、神視点だったのかもしれませんね。
丁寧に、教えていただいてありがとうございます。

偏差値45
KD059132069085.au-net.ne.jp

再訪失礼します。

>小説は10人に1人くらいしかまともに書くことができません。
10人の分母。対象としている人たちによりますね。
このサイトで言えば、ほとんどの人が書けると思いますよ。
その意味で言っているのです。

>「謎」「疑問」「理解不能」こそが小説、文学の醍醐味で、
ストーリとして?
文章として? あるいは小説の作法として?
色々ありますね。

伏線として用いたり、読書意欲をそそる為のものもありましょう。
しかし、そうはあっても、すらすら読めるべきだと考えますね。
そこが作家としての技術でしょうね。
そしてもう一つ言えるのは、作家さんへの信頼度は大きいですね。
プロの人気作家さんであれば、何らかの意味があるのだろうと期待します。
素人作家さんの場合は、それがないので読者を不安にさせるだけのような気がしますね。

もっとも大事なことはコスパですね。
「謎」「疑問」「理解不能」こんなものばかりだと時間を必要しますね。
分かりやすくて面白い。それがベストかな。
逆に言えば、難解でつまらない。これがワーストですね。
あえて難解だけど面白い。この選択を選ぶ必要はない気がしますね。
そもそも面白いか否かは人に依る部分が大きいですからね。
どんなに作家さんが面白い小説だと思って書いても、
それを伝えるだけの技術がなければ、ポンコツ作品しか出来ません。

で、一番の問題は、自分自身が書いた作品の良し悪しは、
意外と自分では分からないものです。
だからこそこのサイトは意義があるのでしょうね。
個人的には、このサイトにおいて本当に面白いと言える作品はマレですね。
たとえ誰かに褒められたとしてもあまり信じない方がいいです。
なぜなら、プロの作品でさえ面白いものはマレですからね。

飼い猫ちゃりりん
sp1-75-8-238.msc.spmode.ne.jp

大歳様
素晴らしい作品です。胸が締めつけられるような切なさと、それでも前に進もうとする力強さを感じました。
冒頭、「若い日は、まだ人生のプロローグにすぎない」という引用から始まり、まるでこの物語自体が”人生の物語”を映し出す鏡のように感じました。友人との再会から語られる実際の現実、死を目前にした人物の静かな覚悟と、それでも夢を託そうとする熱意。読んでいて、単なる創作やファンタジーの枠を超えて、「生きることとは何か」「想像することとは何か」と問いかけられている気がしました。
このような素晴らしい作品を読ませていただき、感謝感激です。ありがとうございました。

大歳士人
104.28.83.209

小次郎さん、偏差値45さん。再訪ありがとうございます。

これから書くことはこのサイトの「作家稼業でごはんを食べられるようになる」という理想のあり方に添った考えを基準にまとめているため少々厳しめの評価、意見になりますがご了承を。

小説の公募では一次選考でだいたい10人に9人がふるい落とされる仕組みで10人に1人しか通過できないのが現実です。けれども一次選考は小説の形になっていれば通過するというレベルのもので単純に小説が書けているかどうかの選考と聞きます。

小説というものへの正しい理解ができていればこのサイトにあるものはほとんどが小説ではなく、作文、感想文、随筆、回顧録のような書き方をした中途半端なもの。だからもし正直に感想を書くならばどうしても辛辣なものになります。

もちろん逆もまた然りで、感想を書く側にも小説というものへの正しい理解がないと、ただの誹謗中傷、言いがかりにもなりかねないでしょう。

一般的な文章、作文は筆者が自分の思いを主観的に書きます。しかし小説は客観的にその世界の状況を淡々と書く(叙述する)もので、またそうでなければ長編となると筆者の「お気持ち」にはうんざりします。

一次選考をする人は下読みと呼ばれ、特別に文学や小説へ見識や価値観を持ち合わせている人ではないが小説を読む習慣のある人で、読者が何を求めているかジャンルが適切かどうかなど、数あるもののうちから小説として適切なものを選ぶことはできます。

小説が書けていない人はあまり読書をしていないせいか、自分が何を書いているのか書いたものがどのジャンルに属するのかさえわかっておらず、またそれでいて面白いか面白くないか伝わるか伝わらないかの主観のみで判断していると簡単にマウントが取れてしまうため、感想のやり取りがトラブルの原因になることも。だから素人同士の感想のやり取りを禁止している小説教室の講師もいるようです。

そうは言っても従来の公募から作家になっても簡単には小説は売れず、だからSNSで名前が売れている必要性もある。誰でも作家になれるいい時代なのか面倒くさい時代なのかわからないが人としてコミュニケーションが取れないと難しい時代になってきている。ここでその訓練をし今後のSNS活動に活かしたいと思っております。

プロの作品でも面白いものはマレとのことですが、たとえばプロ野球でも興味のない人には何が面白いのか理解不能。けれどもプロ野球の歴史(事情、経過)を知っているプロ野球ファンならば面白い。小説も同じで、小説、コミカライズ、アニメ化とそれらを一体として見ると、四半期ごとに新しいものと思わせるものが出てきて面白い。そこでの戦いの一翼を目指しましょう。

大歳士人
104.28.83.209

飼い猫ちゃりりんさん、お読みくださり、また過分な高評価、お言葉をいただき、ありがとうございます。

日本のアニメも子どもの娯楽にとどまらず人生につながるような考え方や人生訓などが学べるので世界から高く評価されています。でもそれはマンガ家のおかげでもあって、では小説家は何をすべきかというと、新しい発想、価値観を先取りし提示することではないかと。

小説はコミカライズされることによって文字だけの空想が具象化しより多くの読者を得て、最終的にアニメ化されて音楽と融合し完成する。そういうイメージをもっております。しかしそうなっても自分一人の力、原作の力ではない。この国にマンガ文化、アニメ文化、日本独自の素晴らしい音楽文化があってこそで、みなで創り上げる世界であり芸術です。

全部がそうなると決めつけませんが小説、小説家の生き残る選択肢はそこにしかないし次世代の文化のコアとなるのでやりがいのある仕事となるでしょう。

「はい論破」というのが何年か前に小学生のあいだで広まったというのがありますが最近でもまだあるようで、親たちはそれにどう対応すべきか、というのが何日か前の新聞にも。これは「大人のいうことを素直に聞く、権威に弱い」という価値観から「理屈で納得できるか」に日本人の意識が移行してきているからと感じます。

ワンパンチで敵を倒すワンパンマンの設定は面白いけどなぜ強いのかという理屈がないとこれからの子どもたちには通用しないだろうし、フジテレビ問題も本質的に同じでタレントや芸人に誰もが無条件で好意的で喜ぶとはかぎらないというのが表面化してきただけ。時代はかなり早いスピードで動いている。

僭越ながら御作を読むとあれでは小説としては認められないし需要もないでしょう。書く目的意識を変えて書き方を大転換させるべきかと進言させていただきます。文章の書き方一文一文が回顧録のように過去の出来事の要約をして書いている感じなので古臭く、全体に生き生きとした新鮮さもなく場合によっては不快感も。

たとえば冒頭「秋の夜は不思議な静寂を湛えていた」とあるが「不思議な静寂」というのは作者の「お気持ち」なので素人のポエム。「拓哉という青年は、救いようのないクズだった」というのも構文としては似たようなもので作者の決めた設定にたいし作者自身が「救いようのないクズ」とお気持ちを表明している。つまり作者が自分の書いている描写や設定にたいして作者みずから感想を被せてきているので素人感、読者に対する説教感がある。かりにそういった表現をしたい場合作者や第三者的な語り手ではなく登場人物に考えさせたり言わせたりするのが一般的。

ネーミングセンスも古く40〜50年まえの名前で10〜20代になら親の世代を感じさせる。登場人物の名前だけを並べて眺めているだけでその場にどんなストーリーが生まれるかイメージできるしイメージさせる。コメント欄で推敲と称して文章を書き直しているようですが、推敲というのは校正や校閲といったものではなく読者の立場で読んだ場合どう感じるだろうかのチェック。理想をいえば自分が書いたことを忘れてるくらいの状態で読まないとできない。ご自分の作品を客観的な立場で見る力がないか、意識していないようなのでそのあたりから意識の改革を。

描写と説明に関しても書いてありますが、小説では「説明」ではなく「叙述」すべきもの。説明とは筆者が読み手に向けてわかるよう書くものでそれは作文などの書き方。頭の隅に読者を意識して書くのはあるが小説では読者関係なしにただ順を追って書いていく「叙述」が基本。またこのドライさがないと長編小説は書けないし読めるものにはならない。

今の時代の小説で書くべき事柄は「状況」と「心情」と「会話」でこの三つで自分の表現したい世界を作り上げる。状況はいま書いたように叙述するだけで読者に向かって説明する必要はない。心情も作者が読者に向けて直接的に書いてしまうと子ども向けになる。「メロスは激怒した」はインパクトがあるけど子ども向けの文章。ゆえに描写する。しかしそれをそのまま描写(漫画に)すると激しく怒った顔のメロスのアップ。画力があったとしても大人向けの表現ではないため、だからたとえば近くにあるゴミ箱を突然蹴飛ばし暴れまくるとか、またゴミ箱じゃなく近くにいた幼い子どもを意味なく殴りはじめてボコボコにするかするとその男の狂気までも表現できる。さらに男のその行動を見ても誰も止めなかったらその世界の異様な世界観、価値観なども表現できる。

どう書くか、どう書いたら正解か、ではなく、また拓哉がクズだというのなら拓也の行動を淡々と叙述するだけにして、読者には何も説明はしない。読者に生い立ちなどを説明をするとわかりやすいけどそんな説明に読者は面白さを感じない。クズだと感じさせる行動に興味をもちそこで読者に、こいつクズだな、と思わせることができたらそれが正解。

辛辣に意見しましたが、わかりやすく、伝わりやすく、で書く人がはまってしまう落とし穴に落ちてもがいているようなので書かせていただきました。とにかく古臭く辛気臭い。古い考え方を一掃しましょう。書き方を根底からひっくり返しましょう。伝えたいことありきではなく自分の直観を信じて書き進める。

章立てしてますがあれでは「章」ではなく「節」か「話(わ)」。ネットではパラグラフごとに空白行を入れるがそれは書きやすくなるからでもある。パラグラフを積み重ねて「節(話)」を作り、「節(話)」を積み重ねて「章」を作る。だから根本は一つのパラグラフが書けるようになるとあとはそれを積み重ねていくだけの作業。文章とはもっとクールに向き合いましょう。突破口は、どうなるかわからない未知への関心、好奇心。過去ではなく前を見て走り出しましょう。

飼い猫ちゃりりん
sp1-72-9-107.msc.spmode.ne.jp

大歳士人様

>若い人よ、その若い日は、まだ人生のプロローグにすぎない。──大歳士人

うーん。出だしいきなり二重表現は、素人丸出しでちょっと辛いかなぁ。まあ素人だから、別にいいんだけど。

修正案
>若者よ。輝ける日々は、まだプロローグにすぎない。──大歳士人

>若い人
若者、でスッキリ。

>その若い日
若いんだから、若い日に決まってますよね。
浮かれる若者に対するメッセージでしょ。だから若者の状況を表現する。
輝ける日々

> まだ人生のプロローグにすぎない。

これから物語を語るんだから、人生の、なんて説明いる?
いきなり「プロローグにすぎない」と言った方が刺さると思いますよ。

>若者よ。輝ける日々は、まだプロローグにすぎない。──大歳士人

の方が猫的にはいいと思うけど、好きにして下さい。
他にも山ほど疑問点があるけど、やめておきます。横から粘着だとか言って非難する人がいるので。

大歳士人
140.248.33.11

飼い猫ちゃりりんさん、再訪ありがとうございます。

ご指摘の点についてこれから書くことは、反論もしくは上から目線の意見になってしまいますが、知識の共有としてご理解いただけるとうれしく思います。また誤解があったとしても恨みとか憎悪とかそういったたぐいのものはいっさいございませんので。

結論から申しますと、「横から粘着だとか言って非難する人がいる」というのは、飼い猫ちゃりりんさんの「小説」への評価の仕方、読み方が根本的に間違っているからと思われる。前回「書き方を根底からひっくり返しましょう」と書きましたが、読み方も根底からひっくり返しましょう。

「小説」と「作文」を混同されている方が多くいます。もし「作文」を評価するのだったら、その内容が面白いか面白くないか、文章が伝わるか伝わらないか、といった主観的で単純なものでもよいのかもしれない。しかし「小説」の場合は「小説」としてのルール、約束事があり、また基本的に作者が高度な考えや意図をもって書いているのでそのへんも留意しなければならない。

「若い人」というのは必ずしも若者ではなく、「自分はまだ若いと思っているがいい年齢の人」にたいしてへの呼びかけでもあったりします。30代か40代の男性に、たとえば「その若い日」=「過去に失敗した日、思い出したくもない日のこと」は、あなたの人生のプロローグにすぎず、まだまだこれから本格的な人生は始まるんだ、という触発が目的だったりします。

10代20代でも、もし過去のトラウマを気にしているようなら「その若い日」=「幼い日、未熟だった日」はあなたの人生のメインではなく、これから本格的に人生が始まっていくんだ、と前向きな気持ちにさせたい。

ただし、作者がこういった思いで書いていたとの意図があったとしても、読者にはわからなかったり、伝わらなかったりするので、推敲というものがある。それは作者が読者の立場になって読む行為が本質的で、だからその結果、たとえもし読者が理解できず読み飛ばしたとしても支障がない、とドライに考える場合もある。

伝わるか伝わらないかよりニュアンスが大事で、「若者よ。輝ける日々は、まだプロローグにすぎない」だと失礼ながら言葉の意味が限定的で言葉の響きも古臭くダサい。ダサいかダサくないかは時流にもよるので自分の直観や感性を信じるしかない。ただ、二重表現だからだめだとか、言葉の意味がこうだからこうだとか、いわゆる原理主義的に文章を構築するとそこには、生き生きとした感性も、表現者自身の個もない。表現の幅が狭められ究極的には役人の文章、退屈な文章、誰が書いても同じ文章となる。

しかしながら、小説には小説としての客観的な一定の形があるので最低限それは守らないと、小説を読もうとして読み始めたら、作文だった、日記だった、お手紙だった、となれば信用を失う。だからそこだけは誰が書いても同じ形にしなければならない。つまり小説の書き方の決まりごとを守らなければならない。ここはあれこれ議論しても帰するところ、まずはちゃんとした「小説」を書けとなる。

論ずるまでもなく私小説や書簡文体の小説といったものは過去に存在する。しかしそれがいまこの時代に求められているかどうか。そこももっと真剣に考えてから書くべきで、書きやすいから作文、日記、お手紙という形になってやしないか。

初歩的な知識として大事なことは、今の時代の小説というものの定義を踏まえているかどうかで、それができていないと小説としては認められない。そもそも不完全なものなら読者が金を払ってまで読もうと思わない。またその定義を意識することなく本来の目的も考えずに文章批評をしていると、的外れなことを指摘してしまい、誹謗中傷、難癖、粘着だと思われてしまう。

ただ、小説の定義を理屈では示すことができずとも、普段から小説を読んで楽しんでいる人ならば、自分が楽しめない理由として難点を指摘するので、それは実際的で有益なものとなる。

自分が今の時代に書かれた新しい小説を楽しんでいるのだろうか。こういったことは小説だけにかぎらず、むしろ一般的に小説はもうあまり読まれていないので、SNSやマンガやアニメ、音楽(歌詞)といったものから、日本人の、または日本の精神性や文化的な流れ「現在」を感じることができる。

現在を感じることができず、ただ文章から言葉の意味の正誤その些細な受け止め方の違いを指摘したり、そして自分だったらこういう文章を書くといっても、そこには世情に疎い一個人の理屈に当てはまる書き方をした、死んだ文章があるだけで、きっと相手には理解されない。

猫ちゃりりんさんの作品があがっていたので読みましたが、やはり書き方が古臭い。今の時代の読者のために書かれた小説ではなく、お爺さんの思い出話を書いた作文になっている。小説であっても冒頭を主観的な作文、説明文で入りやすくする工夫するものがあるが全体にそれが続き、もしそれが長編ともなるとうんざりする。

作文、日記、手紙スタイルでも娯楽の少ない時代なら需要があったろうが、今の時代、過去の出来事を説明するような文章は、描写だろうがなんだろうが、読むのに疲れるし何しろ興味がわかない。小説の中の「現在」の流れを淡々と描き、語り手自身の思い出への感想や感慨ではなく、読者の気持ちとして次に何が起きるのだろうとハラハラワクワクさせる叙述的な文章を。

自分自身のものでいえば、ここの作品を出しても賞レースの順位の上がりが思うようにいかなかったことから改善の余地、思うところはいろいろあるけれども、意識すべきは文章の書き方ではなく、読者の興味を引けるかどうか、やはりその核心的問題。飼い猫ちゃりりんさんも今の読者を見て戦いましょう。

10万字の作品を書いてみると事情を説明する書き方だと自分でも読むのが苦痛と感じることができ、文章の一つ一つのこだわり疑問といったことが小説を楽しむ読者にとっては些細なことと認識できる。このサイトの名にあるように「作家でごはん!」を本題として小説を書く読むをし、そういった観点から相手と語り合えば少なくとも粘着と非難されることもないでしょう。

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冒頭の

「彼」を固有名詞に変更する。アキラでもハヤトでもリョウでも何でも良い。で、人称を「私」から俺に変える。

これをやるだけで、作品のイメージがだいぶ違ってくる気がします。

あと、

>若い人よ、その若い日は、まだ人生のプロローグにすぎない。──大歳士人

これはいらない。中途半端。
作者名になっているので、はしがきとするなら文字数を増やした方が良いと思う。でなければ不要。

大歳士人
104.28.83.197

凪さん、再訪ありがとうございます。

「彼」を固有名に変更するとのご意見、その感覚はわかります。何日か時間をおいて再読してみると、「彼」という人称代名詞があまりに多く気になっていたのでいくらかは削れると考えておりました。

ただ固有名詞にするのは「序章」でもあり、覚える名前が無駄に増えることから、読者に負担を与えてしまい不都合と考えます。また具体的な名前を出すことにより読者との共感、距離感が広がってしまうのではないか。

人称を「私」から「俺」へというのは、人称の役割として非常にまずい。男性の場合、その社会性、関係性において「僕」「俺」「私」と変化してゆく。だから本編でも語り手として神視点となっている場合は「私」。物語の中のキャラとしては「僕」と使い分けている。

これは作中の人物であるガンゾーイにもそうさせており、騎士団長として公的な立場の感覚でいる場合には「私」を使い、友情に厚い友人に切り替わったなら「俺」としている。そのせいで人称代名詞を統一しろとの指摘があるかもしれないと心配をしておりました。

おっしゃるように人称代名詞でイメージが違ってくる。日本語の表現の豊かさを痛感していまして、アニメ化されて翻訳され海外に配信された場合、そういった違いはなくなるんだろうなと狸の皮算用みたいなことを思い巡らしてもいます。

中途半端に感じた一文が不要というのはその通りで、もともと本文に加えるものと考えておらず、このサイトに載せるにあたって、タイトルの「神物語 序章」のすぐ下に「序章」と続き体裁が悪いため、即席に急遽付け加えたもの。作者名を入れた理由は作者名が目立ち名前を覚えてもらえるだろうと。

しかし、書いてからすでに数週間が経ち、やっと客観的に見られるようになって、今ではこの序章自体が不要と思われ、各掲載サイトでも削除することにいたしました。

もうちょっと読者を信じていいのではないだろうか。世界観が一つの謎解きであったことを、そしてタイトル『神物語 つまり私が本当の神様になった世界でのお話』で、すでにその答えを明示していたことを我ながら今ごろ気づいた次第です。

小説はある程度期間をおいて最終稿までに4〜5回ほど通読しながら推敲を施すものと思いますが、それが不十分で自分でも作品全体をまだ捉えきれていない。だから少し時間をおいて客観的に何度か通読し手直しをしたい。しかし足踏みは怠慢。すでに次は独立したもので続編としてではなくライトに読めるものを一つ入れようと構想しております。いいタイトルが思い浮かんだので予告、宣伝しておくと『神眼をもつ異世界の少女たちは神の視点で因果を楽しむ』

さて、凪さんの作品があったので読ませていただきました。苦言を申し上げると、あれでは小説家としての未来はない。現実的に先は見えない。だからもうこの際書き方を一変させましょう。

歴史小説や時代小説にはまだああいった書き方が残っているのかもしれないが、書き方が古く、何よりあの書き方では作者自身が長編小説を完成させることができない。あれはあの短い分量だから書けるもので、商品として成立させるためには、あれのちょうど2倍くらいの長さのものを1話として30話を超えてやっと10万字に近づく。書けますか?

原因は小説ではなく作文を書いているため。わかりやすくいえば神視点で書いているからとなりますが、要するに文章に装飾をほどこすなどの技巧を凝らす文章改変作業がメインになっている。わかりやすくいえば、詩を書く感じ、美文を書く感じ、か。

たとえば「〜と言った」と簡潔には書かないで、「その声色は柔らかであるが、無慈悲なまでに鋭い」というふうに凝った書き方をしている。文章作成自体にこだわり毎回そういうことを考えて書くのでかなりしんどいと思われる。読む方も文章量が多くなるとしんどい。

作文を書くのは小中学校の時からで慣れているので、つい同じような感覚で書いてしまうが、作文の文章と小説の文章はまったく異なる。作文が「説明文」なら小説はその反対側に位置する「叙情文」「叙事文」「叙景文」であり、違いは、相手に向けて語っているのかどうか。

説明文は当然、読者、読み手に向かって書いている。しかし小説の文章は説明ではなく叙述であり、それは読者に向けて書いているものではなくモノローグのように、ただ書いている、といったらいいだろうか。

だから叙事文のように事実や出来事をただありのままに書く。いまの傾向として、主観を交えない、作者が状況の感想を書かない、美化しない、のが当たり前。

「雨の匂いを纏いながら暗い路地へと消えていく中で、以蔵の心にはひとつの感情が渦巻いた。それは悲しみでも、反省でも、ましてや、恐れなどでもない。」

こういう説明、ナレーションは今時は「ない」と思われる。もし仮に映像化するなら夜の雨の中を歩いて去っていくシーンか。そのとき作者の主観や感想を入れずに書くのが、作者読者双方に疲れない書き方。

小説で書くべきことは、状況、心情、会話の三つ。この状況を書くときに装飾的な虚飾的な文章を書くのを改め、主観を交えずありのままに書く。それだけでもっと書きやすくなるだろうし、長編小説も楽に書けるようになる。

そして心情。これはAIには書けない。また人間が心情を書く場合でも子ども向けの童話のようなものなら、怒った、悔しがった、喜んだなどとわかりやすく書いてもいいが(AIでも書けるが)、大人向けの小説で人物の心情をそのまま書くのは御法度。映像化できる描写をし間接的に人物の心情を描く。アニメでもドラマでもナレーションが入って人物の心情を語ることはない時代だからご理解できるはず。

たまたまだろうけど、飼い猫ちゃりりんさんと同じミスをしている。本人は説明文を書いているつもりではないが、ひたすら説明文を書いているので、文章自体の練り直しつまりそれを推敲として文章をいじることにこだわってしまう。

理屈をあれこれ述べましたが小説とは何かを問うならば、今の時代のおいては読者が「追体験」できるものであるかどうか、それに尽きる。御作でそれをご確認いただきたい。美文名文を競った時代はとっくに終わっている。

追体験については次に書く、飼い猫ちゃりりんさんへのコメントに少し詳しく書いておきます。お読みいただけると幸いです。

大歳士人
104.28.83.197

飼い猫ちゃりりんさんが誤解しているようなので補足として書かせていただきたい。これは飼い猫ちゃりりんさん以外の小説書きの初心者にも向けて書いています。

てっとり早く、自分が書いているものが小説かどうかは、読者が読んで「追体験」できそうなものであるかを基準に考えればよい。

小説ではなく作文を書いている人のそれは説明文を書いているため、追体験ではなく、読者の印象として残るのは、思い出話を聞いた、面白い話を聞いた、有益な話を聞いたとなり、完璧なものを仕上げても最終的に「いい話だなぁ」という感想になるだろう。

説明文というのは書き手が読み手に向かってわかりやすく書く行為。しかし小説の叙述の文章は読者を想定していても読者に向かって書いているのではない。

ちょっと改変すればその違いがわかる文章が伝言板にあったのでそれをここに取り上げたい。

引用させてもらうのは偏差値45さんの書いた雑文。まさに読み手に向けて書いた作文といったもので、小説ではないけれども小説的な書き方が癖になっているのか、ほんの少し手を加えれば立派な小説に様変わりする。

前者は偏差値45さんのもの、後者は導入部と終わりをちょっと変えたもの。だがほとんど変えてない。だから見栄えとパラグラフが重要だということもわかってもらえるのではないだろうか。

────────

今朝、食パンが無かったのでバイクに乗って出かけた。
ひどいモヤだった。およそ視界は十メートルぐらい。
買い物をして、その帰りです。
 
線路の踏切の手前でちらりと見えた自動車のテールランプ。
もしかしたら警察?
だから減速をして一時停止する。
交通ルールは守らないといけない。
だが、そのテールランプの主は警察車両ではなかった。
一般人の所有するコンパクトカー。車種まではモヤだったので分からない。
そこに一人の男性がたたずんでいた。こちらを見ている。

なんで?

その疑問は直ぐに解消できた。
事故っていた。自動車がガードレールに突撃していた。
ボンネットがゆがんいる。その間から銀色に光る車の部品の一部が見えた。

やれやれ、警察ではなかった。ビックリさせやがって……。
とはいえ、彼の方がよっぽどビックリしただろう。
たぶん、何かの理由で急いでいたに違いない。

「焦らず、慌てず、諦めず」
誰かの名言を思い出したね。
みなさんも気をつけて欲しいものです。

────────

 朝早く、食パンが無かったのでバイクに乗って出かける。ひどいモヤだった。およそ視界は十メートルぐらいか。

 買い物をしたその帰りだ。線路の踏切の手前でちらりと見えた自動車のテールランプ。

 もしかしたら警察?

 減速をして一時停止する。交通ルールは守らないといけない。

 が、そのテールランプの主は警察車両ではなかった。一般人の所有するコンパクトカー。モヤのせいで車種までは分からない。

 一人の男性がたたずんでいた。こちらを見ている。

 なんで?

 疑問は直ぐに解消できた。事故っていた。自動車がガードレールに突撃している。ボンネットがゆがみ、その間から銀色に光る車の部品の一部が見えた。

 やれやれ、警察ではなかった。ビックリさせやがって……

 しかし彼の方がよっぽどビックリしただろう。たぶん、何かの理由で急いでいたに違いない。

 焦らず、慌てず、諦めず──

 誰かの名言を思い出した。

 車を運転する者ならみな気をつけて欲しいものだ。

────────

偏差値45さんとしてはただの雑文として書いているので、メッセージやテーマ性などはないだろうが、小説という形になるとそれが見えてくる。

要約すれば、バイク乗りが気軽にバイクを乗り回して人生を楽しんでいるといったものか。ちょっと前か、もうだいぶ前になるのかな、ナラティブマーケティングというものがあり、スバルのCMにたしか、商品ではなくストーリーを売れ、というのがあったように思う。

だからたとえばバイクのところをスバル360にして、中古のマニュアル車だからクラッチ操作をしているのを、さりげなく且つ具体的な描写として入れ込めば現実味と臨場感が出てマニアックな人にはたまらないだろう。ただの作文に価値が生じる。

作家のために書くか読者のために書くかと分けておられる人もいるようだけど、たぶん実際は、作家=読者であり、作家は一度書き上げたあとすべてを忘れて最初の読者となって通読し推敲するときに追体験をし喜びを感じるものではないだろうか。

文章の上手い下手を競うように文章をまさに作文している人はまだ小説を書く本当の喜びを実感していない。

かなり上から目線から書きましたが、小説を書く者同士、知識としてこういったこと共有しておきたい。人生は一度きりだけれども小説を読むことで現実的なものにかぎらず非現実世界をも体験できる。この世界にもっと面白い世界をいままで経験したこともなかった世界をたくさん創造しましょう。

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まあ、表現方法(文体)は好みの問題なので仕方がないですね。あなたの持論を押し付けるのであれば、もう少し実力を磨いてからにしていただきたいと思います。

あなたの長編が読まれていないのは、単に読者を惹き付ける魅力がないからだと思いますよ。
物語の途中で、長いブランクがあるのも気になります(カクヨム)。あれだけの期間が開いてしまうと、とうぜん読者はついてこないでしょうね。
読ませたいと思っているのなら、一度作品を削除してから、再度一話目から投稿した方が得策ではなかったかと思いました。
また、アルファポリスに於いては、ジャンルと話数の割に、総合得点があまりにも低すぎる。最低でも5万ポイントくらいは欲しいところです。上記に書いたように、ここでもまた、リーダビリティが問われているのでしょうね。

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因みにね、
12600ポイントという数は、私がアルファで書いた、一話ものの散文詩と同程度のポイントに過ぎません(笑)

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>何よりあの書き方では作者自身が長編小説を完成させることができない。あれはあの短い分量だから書けるもので、商品として成立させるためには、あれのちょうど2倍くらいの長さのものを1話として30話を超えてやっと10万字に近づく。書けますか?

これもあれだなぁ。
カクヨム「終天の朔」の数字を超えてから言ってくださいませんか?

大歳士人
140.248.33.10

凪さん、再訪ありがとうございます。なにか誤解があったようでもし怒らせてしまったのなら申し訳ない。

こちらとしては、凪さんや飼い猫ちゃりりんさんの文章作成へのこだわり、そこにある特別の矜持や思いといったものを否定するつもりはなく、ただ小説を書くにあたっての、小説に限定した書き方の基礎知識を述べておりました。

失礼ながら、お二方とも小説を書くためのノウハウを勉強したり小説を書く訓練をしたことがなくこれまで我流でやってこられ、今の時代の一般的な小説もあまり読んでおられないのではないだろうか。もちろんそれを咎めたりそのことを否定するつもりも毛頭なく、個人の考えとして、他人の小説を読まずともただ書きたいから書くだけの人がいてもいいとも考えております。

しかしながら文章を書くことに自信のある者が何の知識もなく小説を書くと概して神視点となり、またそのせいで小説としてのウケが悪く、なぜ評価されないのか原因がわからないとなるとひたすら文章の練り直し推敲を繰り返すといったことにもなりかねない。だから書き方を一から考え直す、改めるという提案をしておりました。

小説の書き方を学ぶと初期の段階で神視点について知ることになります。神視点とは、小説の世界の神つまり作者の視点で書くことを意味し、人物の内面、思っていることもすべて書ける。がその実態は、作者が自身の思い描く世界と向かい合った状態で書いているため、読者にその世界を外側から見てる感じで伝えようと説明をし、下手をすればただの梗概や随筆といったものになる。

上手くできたとしてもそういったやり方は古臭く、明治や昭和の黎明期の小説家の書き方であり芥川龍之介などもそうでしょう。また書き方(技巧や美文名文)を模索していては短編しか書けない。芥川龍之介が長編を残せなかった理由もそこにあって神視点は長編向けではない。ショートショートなどの掌編向け。これは一個人の持論といったものではなくそういった分析があって誰もが納得できるものだと思う。

またこれは神視点だから長編が書けないという話ではなく、神視点だから文章作成にこだわるようになるという話で、もしこだわりや制約などもなければ神視点であるがゆえに無制限に書けてしまう。しかしその場合たいがい出来上がったものは小説ではなく作文と揶揄される。

小説の変遷として、初期の文章作法や文章力のほかに、小説の制約として出てきたものが視点の概念であり、文章は基本的に神視点で書くものだが、一元描写や多元描写といったものによって「人物視点」で世界の内側から描かれるようになって、読者は小説の世界へ入り込めるようにもなった。

凪さんの作品でいえば、冒頭は読みやすくするために導入部分としての説明文はいいけれども、会話文が始まってからは、以蔵か武市のどちらかの視点に固定させるのが今の小説の書き方で、たとえば以蔵の視点とすると、以蔵が「先生……」と言って敷居の前で片膝をついたときに以蔵の視点で見えているものだけを限定的に描くことによってそこに緊迫感が生じ、「入りなさい」と呼ばれ、部屋に入ってから以蔵がいる場所からようやく武市の様子や姿が描写されるこの流れが人物視点を意識した書き方で、逆にこれを外すと神視点といわれ馬鹿にされる。

飼い猫さんも視点への意識が欠けているため、視点を意識して読むのが一般化している読者には、冒頭から何が起きているのかわからない。あれを最初読むと、異世界転生もののように生まれ変わって子どもだった自分がかつての妻に出会ったのかと想像してしまう。しばらく読み進めると、思い出を神視点で語っているのだとわかってようやく状況が飲み込める。構造として、お爺さんのところに孫たちが遊びにきていて、子どもらが川遊びに行っている間にお爺さんが思い出に耽るだけの話だが、子どもたちが登場してくる前にも思い出に耽っているため「時制が難しい」となる。またお爺さんの思い出話は神視点であるため、「妻」を「彼女」「小百合」などに置き換えると、思い出の中の若い自分の人物視点となり、自分も女性(妻)の存在もイメージしやすくなる。

視点は、想像力のない者、理屈っぽい人間には理解できない。だから文章を読んで体感できるか、つまり追体験できるかなどを基準に推敲するとよいという話がある。文章表現にこだわったり理屈を並べたてたものは説明文であり、目安は読みやすいか伝わりやすいかどうかだが、小説の文章は、イメージしやすいか体感できるかどうか、にある。

重箱の隅をつつくようだが、「以蔵には鋼のように重く感じられた」は、「鋼のメンタル」と「鉛のように重い」といった表現を足して2で割ったようなものでイメージしにくく拙く感じられる。また「己を削りながら彼に尽くしてきた」というのも「以蔵は鰹節か」とツッコミを入れたくなる。やはり原因はイメージができない、実感が伴わないからで、だからこういった作者の主観的な表現は推敲に推敲を重ねより鮮明にさせていく必要があり、こだわれば終わりのない果てしない作業となってしまうだろう。当然これは本来の小説の目的ではない。だから今の小説は基本的に、目に見えるままにありのままに書くとなっている。むろん人物視点ならばその限りではない。

こちらの『神物語』も本編は物語の性質上、人物視点ではあるが神視点でもあり、魔力や異世界について言及していて、それが勉強させられている感じになっていることが知れた。もちろん説明と受け止められることは承知で、次世代のファンタジーということで小説書きを読者として想定し、魔力や異世界の定番といったものへの説明が興味を牽引していくと思っていた。が、そうではなく、やはりそういったものは物語の最後の方で作品を締めくくる辻褄合わせにするものなのかもしれない。

最後に、作品を読んでくださった方、感想を書いてくださった方、コメントを入れてくださった方、感謝申し上げます。次はファンタジーであっても通常のスタイルで物語を書きたい。このたびはおつきあいどうもありがとうございました。

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