憎しみの河
序章・悲しみを超えて
降り続いた雨がようやくやみ、秋の夜は不思議な静寂を湛えていた。
奈津子の両親は堤防の決壊を心配したが、夜の10時に警報は解除され、少し水かさが増した程度の流れに変わっていた。
奈津子は二階の子供部屋の二段ベッドの下段で寝ていた。上段は妹の佳代子の寝床だ。
佳代子は姉と一緒に寝ることが好きだったが、その夜は腹痛を起こし、一階で両親と川の字になって眠った。
奈津子は夢の中で水が流れるような音を聞いた。やがてそれは、サラサラという砂利の流れのような振動に変わり、彼女は突然目を覚ます。
なんだろう?
振動が急に激しさを増し、奈津子の体がベッドの上で小刻みに揺れた。
明かりが消え、家が船のように揺れると、彼女は思わず悲鳴を上げた。
揺れはすぐに収まり、不気味な静けさが訪れた。
暗闇の中、彼女は階段を駆け降りたが、足を濡らす泥水に気づき、その場で立ち止まった。
1メートル四方ほどの、どす黒い水面の下に家族がいる。
「お父さん! お母さん!」
水面は分厚いガラス板のように冷たく、どんな叫びも通さない。
「佳代子! 返事をして!」
11歳の奈津子に泥水に潜る勇気はなく、ただ泣き叫ぶしかなかった。
誰がそれを責めることが出来よう。しかし、彼女は自分を責め続けた。
土石流の発生から二日後、奈津子は仮設された安置所で家族の遺体を確認した。
青いビニールシートの上に三人の遺体が並べられていた。両親の遺体はひどく傷ついていたが、幼い妹の遺体には傷ひとつなく、ただ眠っているかのように見えた。
「姉ちゃんだよ。起きて」
何度呼んでも、妹が目を覚ますことはなかった。
「佳代子! 姉ちゃんを赦して!」
しかし、彼女自身が自分を赦さなかった。
あたしは妹を見捨てた……
そのトラウマは悲しみを憎しみに変え、彼女は自分の処罰を望む。処罰とは一種の救済なのだ。
親類が彼女を引き取らなければ、彼女は自分の手首を切っていただろう。
奈津子を引き取ったのは牧場を営む親類であった。
その牧場は祖父母と、奈津子の母の姉である叔母と、その夫の四人で営まれていた。
「今日からここは、なっちゃんの家だから」
「おばさん。お世話になります」
「思いっきり甘えていいからね」
叔母夫婦には子供がおらず、ふたりには奈津子が我が子のように思えた。彼らは実の親以上の愛を示すと心に誓い、祖父母も優しい目で奈津子の成長を見守った。
その甲斐あってか、奈津子に明るい笑顔が戻り、心の傷は、やがては癒えるものと思えた。
第二章・クズどもの軌跡
その翌年の夏、奈津子が住むその田舎町で事件が起きようとしていた。
二人のチンピラが、駐車場で煙草を吸いながら店内の様子をうかがっていた。拓哉と慎吾が、コンビニを襲うタイミングをはかっていたのだ。
拓哉という青年は、救いようのないクズだった。
母親は若いころからアル中で、吹き溜まりのような安酒場に入りびたり、春を売って酒代を稼いだりした。
彼女は赤ん坊をほったらかして呑んだくれ、眠っている拓哉を指差して、「お酒と交換してよ」と言い、客にからんだりもした。
拓哉は父を知らず、母からはクズと呼ばれて幼少期を過ごした。
一瞬たりとも愛されることなく育ったからか、ひどく短気で、こらえ性のない性格をしていた。
彼はシンナーを吸い、万引きや恐喝に明け暮れた。
ある日、拓哉は、肩が当たったと言って通行人をいきなり切りつけ、警察が出動する事態となった。
その逮捕劇も、滑稽で愚かだった。
彼はナイフ片手に狂犬のごとく吠えた。
「かかって来い、ポリ公! 刺されたい奴はどいつだ!」
「ナイフを捨てなさい!」
「馬鹿野郎! なめんじゃねえぞ!」
ついに警官は拳銃を構えた。もちろん撃つ気などさらさらない。
「上等だ! 撃ってみろ!」
拓哉はナイフを振り回したが、警棒で打ちのめされて身柄を拘束され、お決まりのレーンに乗った。
彼は少年院でも、些細なことで騒ぎを起こしたから、慎吾以外に相手をする者はいなかったのだ。
かたや慎吾という青年は、相棒とは真逆な性質を有していた。
彼には本質を見抜く洞察力があり、知能検査でも高い数値を示した。だが、その知性を有益に使おうとはしなかった。
彼の父は家庭をかえりみない遊び人で、パチンコに狂い、持ち玉が尽きれば幼い慎吾に玉拾いをさせた。
「このクズが。もっと拾ってこい!」
何の冗談か知らないが、慎吾も相棒と同じように、親からクズと呼ばれて幼少期を過ごした。
殴られて唇を切った慎吾は、ゴキブリのように店内をはいまわり、店員に注意されるまで玉を拾い集めた。
慎吾の父は子供の愛し方を知らない。彼も親から虐待されて育ったからだ。結局、慎吾の父はよそに女をつくって出て行ってしまった。
慎吾には美咲という二つ年下の妹がいた。
母親は育児を放棄していたから、美咲の面倒はすべて彼がみた。美咲はそんな兄のことが大好きだった。
しかし、給食や教材の費用までは、慎吾ではどうすることも出来なかった。
「お母さん。美咲が使うノートを買いたいんだけど……」
「あんた! 母さんに何の恨みがあるの! 顔も見たくない。とっとと出て行け!」
母親は髪を掻きむしって声を上げた。慎吾は父の暴力以上に、母の金切り声を恐れていた。
結局、彼は万引きに手を染めることになる。たまに店員に見つかったが、その場で叱られるだけで、警察や学校への通報はされなかった。
慎吾は周囲から心の優しい少年と思われていた。
数人のクラスメイト相手に殴り合いをしたことがあるが、それは彼がイジメを止めようとしたからだ。
優しく、正義感もある彼であったが、ある事件をきっかけに人生の歯車が大きく狂った。
彼が中三のとき、妹が河に身を投げて死んだのだ。
いつも陰でいじめられていた美咲は、ある日工場の跡地にある倉庫に呼び出され、クズどもに取り囲まれて自慰を強要された。総勢十人ほどの少年少女が、笑いながら携帯をかざした。
美咲は画像を拡散すると脅迫され、金がないなら稼ぐ方法を教えてやると言われた。
彼女は勇気をふり絞って警察に行ったが、学校で相談しろと言われて帰されてしまった。
しかし、学校での相談など無意味なのだ。教師は隠蔽しか考えていない。イジメを受けている生徒は皆そう思っていた。
美咲はクズどもに言われるまま春を売り、ずるずると地獄にはまり込んでいった。
それでも兄に相談をしなかった。いや、出来なかったのだ。
慎吾は彼女が死んでから、日記の存在を知った。
「おじさんにホテルに連れて行かれた。やめてって言ったけど、無理矢理ベッドに寝かされた。兄ちゃん、助けて。でも、兄ちゃんに、こんなこと言えない。言いたくない……」
そこから先は文字が涙でにじんでいた。
慎吾は真相を知り、怒りと悲しみに打ち震えた。
なんで俺は気づかなかったんだ。この糞野郎…… お前が死ね!
加害者の親たちは、自殺の原因は美咲の家庭環境にあると口をそろえて証言し、学校と警察は事件化を見送った。
イジメ事件は教育者のキャリアの汚点になるし、警察にとっても、少年事件は評価されない『美味しくない事件』だったのだ。
慎吾は美咲が身を投げた河を見つめながら、彼女と過ごした日々を振り返った。妹の後を追って、流れに身を任せたいとさえ思った。
しかし、やるべきことがあった。彼は憎悪を抱きながらも、冷静に復讐の機会をうかがった。
主犯格の二人は、彼と同じ三年生の男女だった。
彼は平静を装いながら二人の一部始終を観察し、二人が美咲を呼び出した倉庫でやっていることを突き止めた。
彼は二人は卒業式の日も必ずヤルと確信し、式が終わると倉庫に先回りして待ち伏せをした。
案の定、二人が現れてヤリはじめると、彼は鉄パイプを握りしめて絶好のタイミングをうかがった。
女子は作業台の上で股を開いてあえぎ、男子は立ったまま腰を動かしていた。
男子が女子の腹にまき散らした瞬間、その後頭部に鉄パイプが振り下ろされた。
慎吾は男子がのたうち回っている間に、女子を後ろ手に手錠で固定し、ロープで作業台の脚に縛りつけた。
そして男子の体に鉄パイプを何度も振り下ろすと、スポーツバッグから斧を取り出した。
「おい。まだ死ぬなよ」
慎吾が男子の体を解体すると、床一面が血の海と化し、女子の方に振り向くと、口から血があふれていた。恐怖のあまり、自分で舌を噛みちぎったのだ。
慎吾は女子の前髪をつかんで言った。
「どうだ? 気分は」
彼女は血の泡を噴きながら命乞いをした。
「俺の妹は、お前らに殺されたんだ」
慎吾がナイフで彼女の喉元をえぐると、鮮血が流れ落ち、胸から下腹部までを赤く染めた。
慎吾は死にゆく姿を眺めながら煙草を吸い、妹を救えなかった自分を責めた。
俺が間抜けだから、美咲は死んだ……
彼は吸いかけの煙草を握りしめた。手のひらを焼く火でさえも、悲しみを打ち消すことは出来なかった。
彼は自ら出頭して身柄を拘束され、拓哉と同じようにお決まりのレーンに乗った。
妹の後を追って、河に身を投げようとさえ考えた慎吾だったが、少年院で自殺を図ることはなかった。
同じ様な境遇で育った者がたくさんいたし、なんと言っても、拓哉との出会いが大きかった。
それは昼食のときのこと。
「おい。この肉を食ってくれよ」と拓哉は慎吾に言った。
「いいのか?」
「こんな安い肉は食えねえんだよ。俺は上流階級の出だからな」
「本当か?」
「見りゃ分かるじゃねえか」
慎吾はクスクスと笑った。
「馬鹿野郎! 俺はセレブなんだ!」
「そうだな。確かにセレブだ。でも悪いから、俺の飯を半分食ってくれよ」
「おう、悪いなぁ。やっぱ米が一番だぜ」
慎吾は拓哉といると不思議に心が休まった。拓哉には裏表がなかったからだ。ただ、裏表がないと言うより、裏表を作れなかったのだ。彼は裏表を作る前に爆発してしまうから。
滑稽なまでに愚かな拓哉。一瞬も愛されたことがない拓哉。ある意味において、慎吾以上に不幸な存在だった。
そんな彼を慎吾は不憫に思い、憎しみを募らせたのだ。
社会への復讐。その冷たい炎を胸に秘め、慎吾は生き続けることになる。
第三章・愚か者の所業
そんな過去を背負った二人のチンピラが、奈津子12歳の夏の日、彼女が住む田舎町で事件を起こそうとしていた。
二人が狙っているコンビニは、片田舎で競争相手が少ないからか、なかなか繁盛していた。
彼らはクソみたいな過去を振り返りながら、客が消えるのを待っていた。
拓哉は慎吾に言った。
「あの野郎、検査だとか言って俺のケツの穴に指を入れやがった。ありゃ絶対奴の趣味だぜ。きっと股間を大きくして、喜んでやがったんだ」
慎吾はげらげらと笑った。
「いいじゃねえか。けつの穴くらい貸してやれよ」
「馬鹿野郎! いつかあいつ、ぶっ殺してやる!」
「おい、客がいなくなったぜ。そろそろやるか」
「おう。派手に行こうぜ」
「いや、ちょっと待て」
小さな女の子がまだ店内にいた。
「ガキなんて気にするな」
「だめだ。あの子が行ってからだ」
「じれってえなぁ」
女の子が店から出て行くと、彼らは煙草を投げ捨てて目出し帽をかぶり、店に入って若い店員にナイフを突きつけた。
「じっとしてろ」
「長生きはするもんだぜ」
拓哉がナイフで威嚇している間に慎吾がレジの金を奪った。
「おい慎吾! ポップコーンも頼むぜ!」
「そんなもん、どうでもいい! 行くぞ!」
拓哉は「サツを呼んだら殺すぞ!」と若者を脅すと、ポップコーンを鷲掴みにして店を出た。
二人がアクセルをふかすと、カラーボールが拓哉のバイクの横で弾け、彼のスニーカーを塗料で汚した。
拓哉はバイクから降りるとリュックからバールを出した。
慎吾は「ほっとけ!」と言ったが、拓哉は完全に切れていた。
「いくらしたと思う? ディオールだぞ!」
慎吾は皮肉混じりに笑った。
「いくらした? どうせ盗んだ金だろ」
「うるせえ! あの野郎。頭叩き割って脳みそを踏みつぶしてやる」
警察は二人をすんでのところで取り逃がし、県下に緊急非常配備を敷いた。
慎吾は目立たぬよう走ろうとしたが、拓哉はマフラーを派手にふかした。しかも、鼻歌混じりにだ。
「盗んだバイクで走り出す。行き先も、分からぬまま〜」
パトカーのサイレンが山あいの静けさを切り裂き、うるさく響く蝉の声さえかき消した。
第四章・惨劇の夜
その日の晩も、奈津子が身を寄せる酪農家の食卓はにぎやかだった。
叔母夫婦は実の親以上の愛を示すと心に誓っていた。二人は子宝に恵まれなかったから、奈津子が我が子のように思えたのだ。
だが奈津子は、それに甘えようとしなかった。
彼女は箸を置くと、祖父に言った。
「なんでもやります! 他人と思って下さい!」
祖父は笑みをこぼした。
「よし! 朝五時から牛舎で働け!」
叔母が怒った。
「なっちゃんはまだ小学生よ。意地悪ね!」
彼女の夫が言った。
「お父さんは冗談を言ったんだよ」
そのとき「バタン!」とドアが閉まる音が響いた。
「あらいけない。鍵を掛けるの忘れたかしら」
「おばさん。あたし、見てきます」
奈津子が玄関にゆくと、分厚い木のドアが風に揺れており、ドアノブを持って閉めようとすると、カサカサと草の擦れる音が聞こえた。
外に出て見回していると、メリーの鳴き声が聞こえた。
メリー、どうしたの?
メリーとは母牛と生き別れた雌の子牛である。
奈津子とメリーは出会った瞬間に心が通じ合った。互いに傷ついていたが、奈津子はメリーを妹のように可愛がり、メリーも彼女に心を開いた。
彼女がメリーの元に行こうとすると叔母の声が聞こえた。
「なっちゃん! 誰か来たの!」
「誰もいません! でも、ちょっと牛舎を見てきます!」
メリーは奈津子の姿を見ると鳴き止んだ。
「大丈夫だよ。あたしが守ってあげるから」
彼女はメリーの頭に頬ずりをし、おでこに口づけをした。
奈津子がドアに鍵を掛けて居間にもどると、七時のニュースがコンビニで起きた事件を伝えていた。
祖母は箸をとめると祖父に言った。
「あれ、あんたがお酒を買う店よ。こんな田舎なのに物騒だねぇ」
ニュースは若い店員の死を伝え、防犯カメラが捉えた犯人たちの映像を流した。
そのとき牛たちの鳴き声が響いた。
「ちょっと見てくるから食べていてよ」
「おじさん。あたしも行きます」
「ひとりで十分だよ」
彼が食卓を離れると、叔母はまた自分の父に文句を言った。
「小学生に朝の作業ができるわけないでしょ」
「わかってるよ。しつこい奴だな」
「あんたに似たのさ」と祖母が皮肉を言うと、牛たちの騒ぐ声が遠くから届いた。
「なにかしら? 見てくるわ」
「おばさん。あたしも手伝います」
「なっちゃんはいいの。ご飯を食べていてね」
そう言い残し、彼女も食卓を離れた。
歌番組の最初の演歌が終わると、祖父は味噌汁を勢いよく飲み干し、お椀をことんと置いた。
「奈津子。酪農が好きか?」
「はい。動物が好きなんです」
「メリーか?」
「メリーも、ほかの牛たちも大好きです」
「酪農はきついから、まだ無理だな」
「どんな試練も乗り越えてみせます!」
12歳とは思えぬ受け答えに、祖父はほとほと感心した。
そのとき木材のきしむ音が響き、居間のドアが少し開いた。
「お疲れ様。牛舎でなにがあったんだ?」
ドアの向こうから返事はなかった。
「なにしてるんだ? 早く入ってこいよ」
ドアの向こうは暗く、明るい部屋からでは逆光になり、何も見えなかった。だが奈津子は不穏な気配を感じ取っていた。
二匹の獣が手を振りながら笑っていたのだ。
不気味な声が聞こえた。
「なっちゃん。試練が始まるよ。なっちゃん……」
「誰なんだ!」と祖父が怒鳴ると、木のドアが全開し、クズどもが居間に入ってきた。
「なんの用だ!」
「めし食わせろよ」と拓哉が言い、慎吾はビールはあるかと祖父に聞いた。
「娘たちに何をした!」
「さあな」
拓哉はガツガツと料理をむさぼった。
「いいもん食ってやがるなぁ。畜生」
慎吾は鎮静系の錠剤をつまみにし、静かにビールを飲んでいた。すると警察が犯人を特定したとのニュース速報が流れた。
慎吾は錠剤を噛み砕き、拓哉は食い物を口に入れたままテレビに注目した。
メインキャスターは、二人の容疑者は未成年だから氏名は公表できないと言い、社会部の記者とやらがコメントを述べた。
「少年の人権は十分尊重されるべきです。だからと言って、何をしても赦されるわけではありません」
正論である。しかし、憎しみに支配された者には、なんの効力もない。
拓哉は慎吾に聞いた。
「俺たち死刑かな?」
「だろうな」
「でも未成年だぜ」
「三人じゃ無理だろ」
そのときパトカーのサイレンが遠くで鳴り響き、それを聞いた祖父が罵倒を始めた。
「人殺しめ! 少年だから赦されると思うなよ!」
慎吾は老人に言った。
「赦して欲しいなんて言ってないよ」
「クズどもめ!」
クズ…… それは彼らが自分の親から散々浴びせられた言葉だ。
慎吾はため息をつき、奈津子に聞いた。
「なっちゃん。君はメリーが好きなんだよね?」
「メリーは、あたしの妹なの」
「どうして?」
「あたしの妹は泥水に呑まれて死んだの。だから、今はメリーが妹」
「そうなんだ……」
慎吾はうつろな目で奈津子を見つめた。
「実は、お兄さんにも妹がいたんだ。彼女も死んじゃったけどね」
「どうして?」
「ひどいイジメに遭ったんだ。誰も助けてくれなかった」
「先生は?」
「学校も警察も見て見ぬふりさ」
慎吾はしばらく黙り込むと、何かを思いついたように奈津子に聞いた。
「ところで、君はメリーの運命を聞いているの?」
「運命?」
「やはり聞いてないのか」
そこで拓哉が口を挟んだ。
「ステーキになって食われるんだ」
「おい、拓哉」
その目に拓哉は怖気づいた。
「なんだよ」
「納屋に斧があっただろ。持ってきてくれよ」
「なにするんだ?」
慎吾はメリーの運命を、分かりやすい形で再現した。奈津子は耳をふさいで目を閉じたが、老人の悲鳴が微かに聞こえ、鈍い振動が体に伝わってきた。
慎吾はことを終えると、台所から濡れタオルを持ってきて、奈津子の正面に座った。
「目を開けてもいいよ」
奈津子が目を開くと、慎吾が彼女の目を見つめていた。
「お兄さんの顔しか見ちゃだめだからね」
慎吾は奈津子の体に飛び散った血を、濡れタオルで丁寧にふき取ると言った。
「なっちゃん。君の試練が始まった。乗り越えるには、憎しみを捨てるしかない。お兄さんには出来なかった。君はできる?」
「うん」
「そうか。良かった」
慎吾は奈津子を抱きしめて震えた。気づけば、彼は奈津子を守りたいと思っていた。
しかし、彼の知性は冷酷な現実を否応なく理解した。
美咲を守れなかった俺が、この子を守る? ふざけるな……クズ野郎。
第五章・憎しみの溶解
事件から二十四年が過ぎ、奈津子は36歳の主婦になっていた。
夫と一人娘の三人家族。一見幸せな家庭に見えたが、奈津子の心は血を流し続けていた。
彼女は今も残酷な運命を呪っていた。
なぜ、こんな目に遭わなくてはいけないの? お父さん、お母さん。佳代子…… この声が聞こえる? 一緒に死んだほうが、幸せだった。
あたしを愛してくれた人たちは、みんな殺された。ああ、メリー、生きているの? 死んだらまた会えるかな?
でも、だめ。あたしには守らなきゃいけない人たちがいる。
奈津子は片時も慎吾の言葉を忘れなかった。
試練を乗り越えるには、憎しみを捨てるしかない……
慎吾の運命が、憎しみは破滅しか生まないと教えてくれた。しかし彼女の心には今も、激しい憎しみが渦巻いている。
彼女は赦すことで、憎しみを断とうとした。しかし、それはあまりに辛く、時に封印された憎悪が顔を出した。でも彼女は試練に耐え続けた。すべては家族のために。
なんと、奈津子は死刑に反対した。
事件当時12歳だった彼女の名は伏せられたから、名指しでの非難はなかったが、犯罪を助長するとの声が多く上がった。しかし、彼女の意志は固かった。
被害者遺族Xの意志が死刑反対運動に勢いを与え、当局が刑の執行をためらうと、死刑囚の一人である拓哉は手を叩いて喜んだ。
彼は面会に訪れる支援者たちに、いつも愚痴っていたのだ。
「俺がやったのはコンビニの兄ちゃんだけだ。牧場で一家を皆殺しにしたのは慎吾だぜ。二人以上が死刑の相場だろ? なら俺が死刑になるなんて、おかしいじゃないか」
しかし、慎吾は相棒とは真逆な意志を表明していた。彼は死刑反対運動に反対した。
奈津子は幾度も刑務所に書簡を送り、愚かなことはやめてほしいと訴えた。
「私はもう、あなたを憎んでいません。お願いだから生きてください」
だが返信には頑なな意志が綴られていた。
「なっちゃん。もう死刑に反対しないで欲しい。俺は死にたい。でも自殺はしない。俺は偽善者どもに殺しをさせるつもりだ。そうなれば奴らも殺し屋だからな」
悲しくも愚かな復讐だった。
慎吾の説得は秘密裏に行われた。奈津子は家族の目に触れないよう、局留めで書簡のやりとりを続けていた。
慎吾が生まれ育った境遇を知るたびに、奈津子の中の憎しみは少しずつ溶けていき、やがて悲しみに変わっていった。
慎吾は奈津子を、自分の妹の分身のように思っていたから、彼は死んだ美咲のことや、自分が犯した復讐について赤裸々に綴った。
彼は奈津子に自分のようになって欲しくなかったから、憎しみの恐ろしさを伝えようとしたのだ。
実は、奈津子の他にもうひとり、慎吾からの書簡を読んでいる者がいた。
その者はひっそりと手紙に目を通し、慎吾の過去に己の現在を重ね合せた。
復讐の否定は卑怯者の言い逃れ。愛する者に対する裏切り。その者には、そうとしか思えなかった。
第六章・踏みにじられた官能
綾香は奈津子の一人娘である。
彼女は中一の春に美術部に入り、すぐ突出した存在となった。彼女は媚びることが嫌いで、周囲に合わせようなんて気はなかったから、部活はおろかクラスでも常に浮いた存在だった。
中二の春、一人の女子が綾香の前に現れた。それは運命的な出会いだった。
麻弥(まや)はおどおどしながら教壇に立ち、クラスメイトに挨拶をした。
「よろしく、お願いします……」
淡い花びらのように存在が薄く、綾香でさえも、彼女の才能にしばらく気づかなかった。
彼女は美術部に入り、綾香を驚かせた。綾香は自分を超える才能に初めて出会ったのだ。
綾香の絵は病的なまでに写実的で、妥協を許さぬ性格がにじみ出ていた。
かたや麻弥の絵は、牧歌的な光に包まれており、その穏やかな性格をうかがわせた。
素人の評価は圧倒的なものに傾きがちだ。だが天才は天才を理解していた。
綾香は晩飯時に奈津子に言った。
「お母さん。凄い子が転校してきたの。あたし、その子と友達になるつもりよ」
「なら家に遊びに来てもらったら」
綾香はキャンバスに向かう麻弥に声をかけた。
「上手だね。あたしなんて足元にも及ばない」
「そんなことないです。綾香さんの絵、とても素敵です」
「さん付けなんてやめて。綾香って呼んで」
「あやか……」
「麻弥。次の土曜、あたしの部屋で一緒に絵を描こうよ」
こうして綾香の部屋は、ふたりのアトリエとなった。
彼女たちは絵ばかり描いていたわけではない。好きな小説や将来の夢などを語り合った。そして恋についても。
「麻弥は好きな子がいるの?」
麻弥は何も答えなかった。
「ねえ。教えてよ」
「いないと思う。綾香は?」
「えっ、あたし?」
綾香は一瞬言葉に詰まり、「あたしも、いないと思う」と慌てて取り繕った。
麻弥は「本当に?」と言い、澄んだ瞳で綾香の目を見つめた。
綾香は観念した。麻弥の知性を欺けても、彼女の感性を欺くなんて出来るはずがない。
「麻弥。あたしが好きな人はね……」
すると麻弥が言葉を遮った。
「綾香。ごめん。あたし、嘘を言った。本当は好きな人がいるの」
「だれ?」
夏休みに入ると、ふたりはクーラーの効いた部屋で大胆な手法を採用した。
「麻弥。あたしを描いてくれる?」
「うん」
「服を脱いでもいい?」
麻弥は綾香の『肉体』を正確なタッチで描いた。麻弥の眼差しは肉体の表面から、その奥底にある実体を正確に捉えた。
麻弥は描き終わると言った。
「あたしも描いて欲しいの」
「わかった」
「綾香。綺麗に描かないでね。嘘はいやよ」
「麻弥、あたしがそんな間抜けだと思う?」
彼女たちは十四歳にして官能を知った。それは人間の手垢にまみれていない、純粋な情熱だった。
夏休み明けのある日、麻弥のカバンからA4のスケッチブックが消えた。
そこには綾香の裸体が描かれていた。そのデッサンは麻弥が想像に任せて描いたものだ。肉体はおろか、心まで描いたようなデッサンで、麻弥はそれを綾香に贈るつもりだった。言葉では届かない何かを絵に託して。
麻弥はカバンの中にノートの切れ端を見つけた。
『返して欲しいなら、明日の放課後、一人で体育館の倉庫においで。来なければ、絵をコピーして学校中にバラまくからね』
麻弥は綾香に相談をしなかった。
いや、出来なかった。
あたしは、なんて馬鹿なんだろう。綾香の裸をカバンに入れて、教室に放置しておくなんて……
麻弥は自力で解決しようとしたが、ゴミクズどもが彼女を待ち受けていた。
「よく来たわね」
その女はマスクとサングラスで顔を隠していたが、同じクラスの女子だと声で分かった。彼女も美術部だが、彼女を歯牙にも掛けない綾香を心底憎んでいた。綾香を傷つけるために麻弥を狙ったのだ。
「お願い。スケッチブックを返して」
「これがそんなに大切なの?」
彼女は麻弥の足元にそれを投げ捨てた。
麻弥がスケッチブックを拾って倉庫から出て行こうとすると、五匹の獣が行く手を塞いだ。全員仮面を付けていたが、クラスの男子だと声で分かった。
彼らは麻弥の腕をつかみ、服を引き裂くと、四つん這いにさせてその手足を押さえた。輪姦されて泣き叫ぶ麻弥の口に肉棒がねじ込まれ、その様子を鬼畜女子がスケッチブックに描いていた。
「もっと口を開けろ」
「おいおい。顎が外れんじゃねえのか?」
彼らはげらげらと笑った。
「歯を立てんじゃねえ!」
その瞬間、拳が振り下ろされた。鈍い音が響き、麻弥の鼻から噴き出した血が、倉庫の床に赤いしみを作った。
「あーあ、こいつ鼻いったな」
「早く血を拭け!」
「このまま返したらバレるぞ」
「兄貴に頼んで車を回してもらうから、マットの袋をはがせ」
「なんで?」
「馬鹿野郎! このまま乗せたら車が汚れるだろ!」
翌日の早朝、麻弥の携帯からメールが届いた。
『郵便受けを見て』
綾香は郵便受けから麻弥のスケッチブックを取り出すと、何度も彼女の携帯を鳴らした。しかし、いくら呼んでも彼女が出ることはなかった。
信じられないことに、麻弥の死は自殺として処理された。遺書もないのにだ。
犯行を疑われた少年の中に、地元を牛耳る政治家の孫がいたからだ。
殺人の可能性は無視され、まともな検死すらされず、鼻骨の損傷は河への落下が原因とされた。
綾香は犯人が分かっていた。クズどもは綾香を横目で見ては、明からさまに笑っていたのだから。
やがて綾香は、クラスの誰もが、自分の方を見てニヤニヤと笑っていることに気づいた。麻弥が描いた綾香の裸体が拡散されていたのだ。
それでも綾香は学校に訴えようとはしなかった。教師は隠蔽しか考えていないし、そんなことをすればクズどもは警戒をする。
綾香は両親にも相談しなかった。
父に相談すれば担任に相談しろと言うだけだし、母は人を憎んではいけないと口癖のように言っていた。
綾香は麻弥のスケッチブックを机の引き出しの奥にしまった。
麻弥。仇をとってあげるからね……
第七章・憎しみの継承
麻弥の死からほどなくして慎吾の元に薄い封書が届いた。封を開けると、一枚の便箋に奈津子の筆跡で書かれていた。
『一度だけ面会してください。それでもあなたが死を望むなら、私はあきらめます』
「彼女」が指定された時刻に面会室に入って待っていると、やがて慎吾が目の前に現れた。
二人はアクリル板越しに互いを見つめ合った。
なぜか彼女は薄いサングラスを掛けたまま黙っていた。だから慎吾から話し掛けた。
「俺の意志が変わることはない。だから、もう死刑に反対しないで欲しい」
すると彼女はサングラスを外して小さな声で言った。
「あたしが誰か分かる?」
奈津子の顔は慎吾の脳裏に焼きついていた。ただ不思議なことに、その顔は少女のままだった。
「君は誰だ?」
「やっぱり、お母さんにそっくりなのね」
「君は彼女の娘なのか?」
「小さな声で話して。看守に聞こえるから。筆跡を真似して免許証を偽造したの。録音もされてないわ」
「なんの真似だ。看守を呼ぶぞ」
綾香は彼の目を見つめた。
「あたし、知っているのよ。あなたが優しい人だって」
「ガキが知ったような口を聞くな」
「あなたがした復讐のことも知っている。あなたは妹の美咲さんをとても愛していた。あたし、あなたの気持ちがよく分かるわ」
「黙れ。お前に何がわかる」
「お願い。ひとつだけ教えて。そしたら、すぐに帰るから」
「何が聞きたい?」
「復讐したことを、後悔してる?」
綾香が林間学校に出発する日の前夜、奈津子は海外にいる夫と電話で口論をしていた。
奈津子は綾香を林間学校に行かせたくないと言ったが、夫は耳を貸さなかった。
「お願い、分かって。どうしても行かせたくないの」
「なぜ?」
「なにか悪い予感がするの」
「なに馬鹿なこと言ってるんだ」
いつの間にか綾香がそばに立っていた。
「お母さん。あたし、みんなと仲良くなりたいの」
「でも……」
「奈津子。そこに綾香がいるんだろ。代わってくれ」
奈津子は娘に受話器を渡した。
「綾香。一人で絵ばかり描いてちゃいけない。気持ちを切り替えて、新しい友達を作りなさい」
「うん。そうする」
「持ち物は全部用意したのか?」
「大丈夫。準備はもう出来ているわ」
指定された持ち物はもちろんのこと、綾香はカレーに入れる特別な食材を用意していた。わざわざ郊外の山奥まで足を運んで採ってきたのだ。
翌日は朝から青空が広がり、絶好の遠足日和となった。
紅葉を迎えた渓谷で飯盒炊爨をし、キャンプ場の近くで合宿する予定だ。
「みんなでカレーライスを作るのよ」と綾香は嬉しそうに言った。だが彼女は香辛料にアレルギーがあった。
「あなた、カレーなんて食べて大丈夫なの?」
「あたしは作るだけ。美味しいカレーを作って、みんなに食べてもらうの」
あることが奈津子の不安を駆り立てていた。綾香の机の引き出しの奥にあったB5のノートだ。
綾香の裸体が描かれたスケッチブックの下に、B5のノートはあった。教室の風景が描かれていたが、クラスメイトの顔に目が無かったのだ。
あの子はクラスの子たちを憎んでいる。合宿に行きたがるなんて、どう考えてもおかしい……
「綾香。やっぱり何か悪い予感がするの」
「大丈夫。心配のしすぎ」
綾香はテーブルにつくと、白い皿に乗った目玉焼きを箸で食べ始めた。
「お母さん。フォークとって」
食器棚からフォークを取り出し、テーブルの方に振り向いた瞬間、奈津子はそれを手から落とした。
朝のニュースが、十八歳の時に逮捕された二人の死刑囚の最期を伝えたのだ。
奈津子はがっくりと床に崩れ落ち、両手をついて泣いた。
致命的な瞬間であった。奈津子は赦す相手を永遠に失い、綾香には処刑された者たちが犠牲者に思えた。
奈津子が顔を上げると、綾香が目の前に立っていた。
「お母さん。何があったの?」
「なんでもないの。気にしないで」
「お母さんは、なにか恐ろしい経験をしたんじゃないの?」
「なに言ってるの! そんなことないわ!」
「そう。なら、あたしの思い過ごしね」
綾香は涙を浮かべる母をじっと見つめた。
「お母さん。どうしても行かなくちゃいけないの」
綾香は大きなリュックを背負って部屋から出て行った。
その日の午後、奈津子が洗濯物をたたんでいると、学校から緊急のメールが入った。
『林間学校で大規模な食中毒が発生し、警察と救急隊が来ています。詳細は追って連絡します』
テレビをつけると、黄色いテープが張り巡らされたキャンプ場が映し出された。
騒然とする現場を背景に、若い女のリポーターが早口で状況を伝えていた。
「カレーを食べた生徒たちが救急搬送されました。すでに十七名の生徒が亡くなり、まだ死者は増える模様。警察は毒物混入事件として捜査を開始しました」
電話は繋がらず、奈津子はメールを送った。
『綾香、大丈夫なの? カレーを食べたの?』
すぐに返信が来た。
『作っただけだから心配しないで』
トリカブトの粉末がカレーの中から検出された。それは犯行現場周辺の森にも自生していたが、犯人がそれを採取してキャンプ場へ侵入したり、生徒が森に採りにいったとは考えにくい。そんなことをすれば、簡単に目撃されてしまうからだ。
引率した学校関係者は全員調べられたが、誰にも動機がなかった。いじめの報復という線でも捜査は進められたが、容疑者は多数にのぼった。
ただし、綾香の名前は早い段階から浮上していた。
被害者は彼女のクラスに集中しており、彼女がクラスメイトを憎んでいたという証言を、警察は複数の生徒から聴取していた。
最終章・憎しみを超えて
事件から一カ月後、一台の捜査用車が奈津子の家の横で止まった。
ベテランの刑事はダッシュボードに駐車禁止除外車証を置き、若い刑事に指示を出した。
「お前だけで行ってこい。二人で行ったら相手に構えられるからな」
「わかりました」
「さりげなく娘の部屋に入れて欲しいと言え。くれぐれも無理をするなよ」
若い刑事は奈津子の家のインターホンを鳴らした。
「どちら様ですか?」
「警察です。少しお聞きしたいことがあるんですが」
奈津子がドアを開けると、背広姿の若者が警察手帳を見せた。
「警視庁捜査一課の稲垣といいます。綾香さんのことで、少しお聞きしたいのですが」
「なんでしょうか?」
「ここではなんですから、上がらせてもらっていいですか?」
奈津子は彼を居間に通すと、熱いコーヒーを出した。
「娘が何かしたんですか?」
「いや、綾香さんがってわけじゃないんです。例の事件のことで、生徒全員の自宅を周っているんです」
「そうですか」
「事件のことで、綾香さんは何か言ってませんでしたか?」
「あの子は香辛料にアレルギーがあるんです。だからカレーを食べなかったんです」
「ええ知ってますよ。綾香さんを疑っているわけじゃありません」
「家で事件のことなんて話しません。暗い気持ちになるので」
「そうですか。もし良ければ、ちょっと綾香さんの部屋を見せてもらえないですか? 無理なら結構ですが」
「いえ。別に構いませんが」
彼は部屋に入ると、壁に張ってある絵に注目した。
「綾香さんは絵が上手なんですね」
「あの子は美術部だったんです」
「今は違うんですか?」
「周囲に馴染めなくて、辞めてしまったんです」
「そうなんですか。いや、それにしても上手だなぁ。自分も学生のころ絵を描いていたんです。でも、とてもかなわない。綾香さんはきっと天才ですよ」
「いえ、そんなことは」
彼は机の上の分厚いスケッチブックに触れた。
「見てもいいですか?」
「ええ。どうぞ」
彼は描かれた人物を確かめながら、ゆっくりと紙をめくった。
「これはお母さんですね」
「はい」
「見事に特徴をとらえてますよ。この男性は?」
「それは夫です」
「ご主人の絵が少ないですね」
「主人は海外に赴任しているんです。それに仕事だけの人だから、絵のモデルなんて」
「そうですか」
ほとんどが奈津子の肖像画で、たまに父親や俳優の絵があった。
やがて絵は途絶えて白紙が現れたが、それでも彼は紙をめくり続けた。すると最終ページ近くで、暗い目をした男の肖像画が現れたのだ。
「これは誰ですか?」
奈津子がその男と対面したのは二十四年前。当時彼は十八歳で、奈津子は十二歳。顔つきは変わっていたが目つきは昔と同じ。当時は憎しみに満ちた目をしていたが、今は悲しみが勝っている。
綾香は悲しみが氷結したような彼の眼差しを、たった一度、それも数分しか会っていないのに、見事に描き切っていた。
奈津子は息を呑んだ。
あの子は知っている……
急に目眩がして床に崩れ落ちた。
「奥さん! 大丈夫ですか!」
「貧血がひどくて」
「すみません。立たせたままで」
「その男の人、知りません……」
「いいんですよ。誰かの写真を見て描いたのかもしれませんし」
彼は奈津子をソファーに寝かせた。
「突然お邪魔してすみませんでした。今日のところは、これで失礼します」
彼は一礼し、ドアを閉めて出ていった。
奈津子は綾香が自分の過去を知っていることを悟った。もう隠すことに意味はない。
その夜、奈津子は娘にすべてを打ち明けた。
「母さんは、あの事件を忘れたかった。一瞬たりとも思い出したくなかった。でも、すぐに憎しみが渦巻いて、気が狂いそうになった。そのたびに、あの人の言葉を思い出した。試練を乗り越えるには、憎しみを捨てるしかないって。母さんは赦すことで、憎しみを断ち切ろうとした。家族を巻き込みたくなかったから……」
涙が頬を伝い、言葉はそこで途切れた。
「お母さん。明日、警察に連れて行って」
「だめ! そんなことをしても、亡くなった子たちは戻らないのよ!」
「なら、あたし一人で行く。ごめんね。お母さん」
奈津子は、迫り来る憎しみの激流を予感した。だが、たとえそれに呑まれても、娘の手は決して離さない、そう心に誓ったのだ。
その夜、奈津子は綾香と一緒に寝た。
眠れなかった。いや、眠りたくなかった。娘を抱いていれば、幸せを感じることが出来たから。
「綾香、ごめんね……」
娘は母のことを思い、その温かい腕の中で、静かに泣いていた。
終わり
執筆の狙い
原稿用紙約39枚の作品です。よろしくお願いします。
章で分けると読みやすくなるんですね。