作家でごはん!鍛練場
中村ノリオ

ハルキゲニアンスープ

 僕が住んでるアパートにはハルキゲニアがたくさんいます。
 と言っても分からないか。少し説明が必要かもしれない。別に飼っているわけじゃなくて、いつの間にか現れて増えてしまっていた……って言う前に、まずハルキゲニアがどういうものかを伝えないといけないのか。知ってる人はどのくらいいるのかな。
 すごく変な奴なんだ。
 胴体は回虫のように細くて長い。そして片方の端をキウイのような形に膨らませ、もう一方の端は貝の吸水口のように細く伸びている。とは言ってもどちらが頭なのかはハッキリしなくて、細くなった先端部に空いている穴が何のためのものなのかも分からない。何しろ目も鼻も口も無いんだから。そもそもが、物を食べるのかも、呼吸するのかどうかさえ定かでないくらいだ。生き物だとは思うんだけど。
 その他、彼らの際立った特徴としては、身体の上下に生えている奇妙な突起の列があげられるだろう。腹部と見える下の方には生っ白くて細い幽霊の腕のようなものが二列に十本づつ。計二十本くらい並んで生えていて、それが真っすぐに地面に伸びて身体を支えている。ウーバールーパーの前足を、長―くしたような感じと言うのが近いだろうか。もやしなんかともちょっと似ている。
 背中と見える上部には、ウニの棘を長くしたような棒状物が並んでいる。それは十五本。奇妙なことに不規則に、って言うか互い違いに、突起と突起の間を線で結ぶとジグザグになるように生えている。そして頭っぽいキウイ型の部分は萎み加減に歪んでおり、尻尾と見える細い先っぽは水平方向に大きく湾曲している。生物を生物らしく見せる左右対称性があやふやで、ずれてしまっている感じがするんだ。
 色は全身真っ白だ。まるで洞穴の奥深くで進化した生物のように、本当に何の色素もない。大きさは十五センチから二十センチほど。
 何とも奇妙な姿だけど、僕は以前これと同じような姿を、古生物図鑑で見たことがあった。何億年も前の地層で見つかった化石の生物を復元した図で、それについていた名前はハルキゲニア。だから僕は彼らをそう呼んでいる。本当のところは化石になって残っていたそれと、僕のアパートに現れたやつらが同じかどうかなんてわかりはしないんだけどね。
 ついでに言うと、ハルキゲニアっていうのは「夢に出てくるもの」っていう意味らしい。どこの国でもこいつの姿は奇妙に思うらしく、中国語で書くと怪誕蟲。どちらかと言うと僕はこっちの方に心惹かれる。だけど、残念ながらどう発音するのかが分からない。
 まあハルキゲニアの方が一般的なようだからこれでいいだろう。
 そんなことよりも、どうしてそれが僕のアパートに現れたのかを説明しろって? そんなことは分からないよ。
 とにかくそれはいつの間にかいて、それが当たり前という顔をしていたんだ。彼らに顔があればの話だけど。少なくとも僕にはそんな風に見えた。
 出没し始めた時期もハッキリしない。このアパートに住み始めた当初にはいなかったはずだから、多分一年前か二年前。半年前っていうことはないと思う。僕はあんまり時間とか細かいことは気にしない方だけど、寒い季節じゃなかったのだけは覚えているから。そういう季節に部屋に変な生き物が出てきたら、冬にゴキブリを見たのと同じで印象に残るに決まっているからね。
 それにしても、これまでそいつらをさして気にせず暮らしてきたのは、ちょっと「ボンヤリし過ぎている」と言われても仕方ないかな。まあそれは、自分でも自覚しているけど。
 僕は人よりちょっと夢見がちと言うか、世界が少しくらい変てこになっても、平気なところがあるらしい。
 いつも自分のペースで生きていて、現実と空想がごっちゃになっても、それはそれで楽しめばいいと思っている方だから。人間っていうのは簡単には理解出来ない不思議なものだから、自分の中を覗き込んでいるだけでも退屈しないっていうもんだし。
 頭の中をからっぽにすれば、いつまででも空を見ていられる。以前は夢日記を書いたりもしていたし。そのノートは結局十冊くらいにはなった。でもちょっとやり過ぎたか、寝起きにぼんやりと変な物が見えたりするようになって、それで辞めてしまったんだけど。
 ああ、いや、精神病的な幻覚なんかじゃないよ。朝目を覚まして寝ぼけた時に、薄っすらと見える気がするだけ。ブツブツと泡のようなものが空中に浮いていたり、黒い血管模様のようなものが複雑に絡まって見えたり。アルファベットのNの字が千個くらいビッシリとブロックのように並んでいるのが見えたり、とかいったていどだ。
 これだけでも充分おかしいかな。そんなでもないと思うんだけど。
 ほら、世の中には「夜中に不気味な気配を感じて目を覚ました時に幽霊を見た」とか言い張る人がいるじゃないか。それはきっと僕が見たりするこれと、同じ現象なんだろうって思うんだ。つまり、頭の中はまだ夢を見ているのに、どういう加減でか瞼はパッチリ開いてしまった。だから脳が混線して、夢に出るような変なものを見せているっていう状態だね。
 心霊現象とかを信じる人はそういう時に不安を感じて幽霊とかを見るんだろうけど、僕はそういうのを全く信じていなくて、不安も全然何もないから無機質な泡や模様になるんだろう。
 味気無いような気がしないでもないけど、それが僕の感覚なんだ。
 ちょっと話がそれちゃったかな。
 ハルキゲニアの話だ。
 一度立ち止まって考えてみよう。最初に彼らを見つけたのは、どんな状況でだったろうか。
 それはどうも曖昧だ、多分風呂に入っている時に、洗い場の隅で湯気に濡れて縮こまっている姿が見えたんじゃないかな。僕はいい湯加減だったから湯舟から出たくなくて、「奇妙なやつがいる」と思っても見逃す気持ちになったのかも。
 いや、そうじゃあなくて、部屋に掃除機をかけている時だったかもしれない。カーテンレールの上にチョコンと乗っているのが見えたけど、「あんなところまで掃除機をかけなくてもいいかなあ」と思って見逃したのかも。でなければ、台所で夕食を作っている時だったかも。
 僕は料理が好きで、だいたい毎食自炊する。以前洋食屋でアルバイトしていたこともあるからオムレツなどはお手の物なんだ。
 熱した卵を箸で掻き回してから形を整えようとフライパンを持った左手を右手でトントンと叩いていた時に、視界の隅にハルキゲニアの姿がチラリと映ったのかもしれない。でもそういう時ならば、見えたものを二の次にして技術を要する作業に集中してもおかしくはないだろう。
 とにかく僕は最初に見つけたそれを見逃した。心が慢性低血圧気味で急にはテンションが上がらなかったから、「変なものがいるようだけど。まあ、いいか」って思ったんだ。
 それが間違いの元って言うか、ハルキゲニアたちを呼び寄せる呼び水のようになってしまったらしい。
 何しろあんな奇妙なやつを静観して見逃す人は、そんなにいないと思うからね。
 ハルキゲニアたちは、「このアパートなら奇異な眼で見られることなく、掴まえられることもない。伸び伸び羽根を伸ばせる」と思って喜んだんじゃないかな。きっと他の住居に現れた時には邪険に扱われていたんだろう。
 ゴキブリ並みに悲鳴をあげられたり、スリッパで叩かれたり、殺虫剤をかけられたりもしたのかもしれない。
 それにくらべれば、僕はずいぶんましな方だろう。
 実際、彼らが気分よく滞在してくれるなら、少しくらいは場所を貸してやってもいいとは思っている。それは別に構わないんだ。しかし、それにも程度っていうものがある。
 ちょっと油断していたら、どう控えめに見ても邪魔としか言いようがないほどに、彼らを見かける事態となってしまった。
 床やテーブルの上は言うに及ばず、キッチンの洗い場や本棚の上、どうかすると厚みのない直線に近いようなテレビ画面の上や、壁の高い位置にあるエアコンの上にまで、器用に立っている姿を見かけるという状況になったんだけど、想像できるかな。
 ひどい時には一度に二十体近くはうろついていたと思う。
 あっ、今「うろついている」って書いたけど、彼らはもちろん移動はできる。でもそれはゆっくりで、進む方向はまちまちだ。頭のような膨らみがある方向へ進むこともあれば、先が細まった尻尾のように見える方向へ進むこともある。それどころか、真横へジワジワと移動していたり、斜めへ瞬間移動するように、ピョンと跳んだりすることもある。でもほとんどの時間はじっとしているけどね。たまに体全体に力を入れて硬直させて、寒いところでオシッコをした後のように細かく体を震わせている時もあるけど、これはいったい何なのか。未だに分からない。ちょっと不可解なところもあるかな。
 こんなやつらがあちらこちらにいれば、お釈迦様やキリスト様でも気になってしまうっていうものだろう。
 まあ、それでも、慣れてしまえば大丈夫だったけど。
 彼らの奇妙な姿は、部屋に置かれたオブジェとしてみればそんなに悪くなかった。前衛芸術とかシュールなものは僕は嫌いじゃない方だから、見ようによってはこれもキッチュかなって思わないでもなかったんだ。
 でも一度だけ、せっかく作って食べようとしたシチュー皿の中から現れた時には閉口したかな。ハルキゲニアもさすがに熱くて長い時間はいられなかったらしくて、鰐が岸辺に這い上がるようにして出て来たんだけど、まるで死んで腐った鯨かなんかの骨が、ドロドロのヘドロを纏って浮上して来たかのように見えたんだ。そんなんじゃあ食欲が湧くはずがないよ。
 それに、出て来た後がまたいけなかった。赤ちゃんの手のような脚の先をペタペタテーブル面について、小さな紅葉模様を無数につけながらテーブルを斜めに横切って行った。胴体からもスープがポタポタ落ちるものだから、あたりは白いとろみでドロッドロだ。
 まったく、その場にじっとしていればティッシュで拭いてあげられたのに。どうしてこういう時に限って全力で移動するのかねえ。
 僕は思わぬ素早さで床に跳び降りて逃げたそいつを追いかけて、部屋の隅に追い詰めた。そしてようやく捕まえてタオルで優しく包むと浴室へ連れて行った。どうせならシャワーで洗ってあげようと思ったんだけど、どうした訳かタオルを開いたらいなくなっていた。
 まるでテレポーテーションをするように、パッと消えてしまったとしか思えないような見事な消失ぶりだったんだ。
 僕はもちろん驚いた。でもその一方では、納得がいくような気がしないでもなかった。彼らが出現する時にはどうやってアパートの中に入ってくるのかが謎だったんだけど、瞬間移動ができるのだとすると、そんなことは朝飯前というもんじゃないか。
 あるいは飛び越えているのは空間じゃなくて、時間なのかもしれない、とも考えてみた。もともと現代にいるはずのない彼らのことだから、時間を飛び越えて、彼らの仲間が生きていた数億年前の世界と今とを往復しているのかもしれないと。まさかそんなことは無いとは思うんだけどね。
 多分消えたと思ったのは僕の勘違いで、ハルキゲニアはただ目につかないところで逃げてしまっていただけなんだろう。
 まあ、長く一緒にいたら、すこしくらいのドタバタはあるものさ。
 そんなこんなで時は過ぎ、彼らは僕が近くにいても、まったく気にしないっていう感じになってきた。それは以前からっていう気がしないでもないけど、ここは自分たちの住み家だっていう余裕が感じられ、体も少し大きくなってきているような気がしたものだ。
 そしてそれは、どうやら僕の気のせいというわけではなかったらしい。
 久しぶりに高校時代の友人が訪ねてきた時のことだ。
 ああ、いや、意外かもしれないけど、僕にも友人の一人くらいいる。中山って言って、無口な上に無表情で、何を考えているのか分からないようなやつなんだけど。SFファンで映画好きっていう趣味が合ったので、高校では一緒にいることが多かった。大学に進学してからは地元と東京に分かれたので、会うことも少なくなってしまっていたけど。
 そいつはアパートに入ってくると、挨拶もそこそこに部屋中央へオタク太りのでか尻を据えた。そして当然のように、中古で買った大型テレビのリモコンを操作して、
「映画の配信サービスには入ってないのか」
「Uのサービスに入ってるよ」
「俺はAに入ってるんだ。ふうん。Uではこんな映画が配信されているのか」
 てな流れで、当然のようにSF映画の鑑賞会が始まった。
 近況など、積もる話はほとんどしない。考えてみるとおかしいようだけど、それで何となく気心が知れてお互い安心するようなところがあった。
 ああ、こいつだけは余計な気を遣わなくていいやつだ。みたいな。
 でも僕は、始まった映画に集中できなかった。テレビの上にはハルキゲニアがいて、ウーパールーパーのような脚の先でテレビ上部の縁を掴んで危うい均衡を保っていたから。いつバランスが崩れて落ちてくるか分からないし、尻尾のように細くなった胴の端をダランと画面の上に垂らしてもいた。気になってしまうのは当たり前っていうもんじゃないか。
 しかし、中山は僕とは大分違い、奇妙な集中力を発揮して画面に見入っている。
 画面には人類を襲う宇宙生物の恐ろしい姿がアップになったりしていたけど、その上に本物の謎生物がいるのでは、迫力も半減する気がした。ストーリーは、まあ、ありがちな宇宙活劇といったところだ。
 映画が終わると、中山は仏頂面を崩さずに感想を漏らした。
「結構面白かったな」
「そうだね。ちょっとベタだったけど未来都市とか宇宙船のデザインが良かった」
「ところでちょっと気になったんだが。テレビの上に乗っている変なものは何なんだ」
 そう指摘され、僕は胸を撫でおろした。「ああ、こいつにもちゃんと見えていたんだな」と。あまりに平然としているものだから、ひょっとしたらハルキゲニアが見えていないのかと不安になってしまった。やっぱりこのハルキゲニアは、僕一人だけに見える幻覚なんかじゃなかったんだ。
 いや、分かってはいたけどね。確かめる機会がなければ百パーセント確実とは言えないじゃないか。
「しばらく前からこのアパートに出てきているんだ。僕はハルキゲニアっていうやつじゃないかと思うんだけど」
 山中は理系で科学マニアみたいなところがあるので、当然ハルキゲニアは知っていた。それどころか、僕よりも遥かに詳しかったんだ。
「造り物じゃあなかったのか。しかし、そいつは違うんじゃないかな。ハルキゲニアっていうのは体長一センチから五センチくらいの小さいものなんだぜ。そこにいるやつは三十センチくらいあるじゃないか」
 そう言われて初めて気づいた。
 僕は何となくこのアパートに出てくるやつをハルキゲニアだと思っていたけれど、肝心のハルキゲニアについて詳しく調べたことは一度もなかったんだ。
 こういうことは割とよくある。公式データを確認するより先に、ついつい自分の頭で考えてしまうんだ。そういうのが癖になっている。「ネットで検索しろ」とか人はいうけれど、ネットに誤情報が多いのは周知の事実だ。ネットで知った情報が正しいかどうかは、どこで確認すればいいのだろう。
 そんなことを考えると億劫になってきて、何となく手が伸びなくてそのままになってしまう。
 僕はなんだか不安になってきた。
「じゃあ、いったいなんなんだろう」
 中山は無言で立ち上がるとテレビに近づいて、上に載っているやつを繁々と眺めた。尻尾のような細い先っぽを指で摘まんでピロンと軽く持ち上げてみたりもした。確かに生き物らしいのを確認すると、振り返って、
「どうして専門家に見せないんだ」
「いや、何となく」
「大発見かもしれないんだが」
「何だか気が進まないんだよ」
 ていうよりも、そんなことは思いつきもしなかった。どうしてかは説明しようがない。
「何て言ったらいいのか。こいつらは、僕を信頼してこのアパートに出てきてきているような気がするんだ。だからそういうことはしたくない。第一面倒くさいしね。もし話題になって、専門家やらマスコミやらがこのアパートに押しかけて来たら落ち着かないじゃないか」
「『こいつら』と言ったな。これと同じようなやつは他にもいるのか」
 山中は不審そうにジロリと室内を見渡した。
「ああ。今は眼につかないけど、探せば何匹かはいると思う」
「ううむ。それをマスコミに知られたら騒がれるから面倒くさいと」
 山中は腕組みし、険しい顔をして考え込んだ。しかし、少しすると脱力して、「……それもそうか」と呟いた。
 考えてみると、これで納得したのは不思議なことだ。この男もかなり変わっている。さすが僕の友人だけのことはある。
 しかし何だか気まずい雰囲気にはなった。知ってはいけない友人の秘密を知ってしまったような気がしたのかもしれない。しばらくすると中山は言った。
「俺はもう帰るよ」
 そしてアパートから出て行って、結局それが彼と顔を会わせる最後の機会となった……。って、別に死んじゃあいないんだけど。
 何となく会わないでいるうちに、いつの間にか連絡がつかなくなってしまって、携帯に登録してあった電話番号とメールアドレスが消えてしまっていると気がついた、というだけだ。多分何かのミスで消してしまったんだと思うんだけど。
 例によって僕はすぐに行動せずに、それを復活させるのを先延ばしにしていた。そしたら数年後、「中山は外資の会社に就職してイギリスに移住したらしい」という噂が耳に入ってきた。
 僕は人づきあいには淡泊な方なんで、「そんな遠くにいるんじゃあ、きっともう会うことは無いんだろうな」と思ってあきらめたっていう話だ。でもそれは大分後のことなので、話を元の時間軸に戻す。
 中山に指摘を受けてから、僕はアパートに出没するハルキゲニアを注意して見るようになった。
 遅ればせながらネットで調べた復元図と見比べてみると、目の前にいるのはそれとは体の造りが微妙に違っていると気がついた。例えば復元図では細く伸びた尻尾?の先は二股になっていたけど、僕のアパートに現れるやつはそのままスッと一本のまま。端が膨らんだ方に目がついている復元図もあったけど、僕のアパートに現れるやつにはない。背中に並んだ長い棘棒も、復元図では互い違いに並んでなどいなかった。
 そして動きをよく見てみると、たくさんある脚の動かし方もすごく変てこだった。ムカデのように波打つように動くのではなく、ヒトデの腹から伸び出た触手のように、てんでバラバラに動いている。でも結果としては一定方向に進んで行くというおかしなものだった。
 でも、一番注目したのはやっぱり大きさかな。
 彼らは、確かに大きくなってきていたんだ。
 図鑑に載ってるハルキゲニアは体長五センチで、中山が見たやつは目測体長三十センチ。しかし気をつけて見ると、それより大きいものもいるとわかった。四十センチくらいは珍しくない。それだけでなく形も変異して、胴体がツチノコのように太くなってきている。ぬいぐるみのデフォルメキャラのようなシルエットに近づいてきていた。
 いったいどういうことなんだろう。僕のアパート内は眼に見えない栄養満点のスープに満たされていて、ただそこにいるだけで養分を吸収して太ってしまう。なんていうこともないと思うんだけど。第一僕は全然太らないし。
 そのうちに「あれっ、ずいぶん大きなのがいるな」と思った時に、巻き尺を買ってきて長さを計ってみた。近くのホームセンターへ行っている間に消えてしまうかもとも思ったけど、そんなこともなくて、帰っても同じ場所でじっとしていたので尺を充ててみると、驚いたことに六十五センチもあったんだ。胴体も大根より太かったから、大きさは小型犬と大差ないと言っていい。
 でも彼らは食べないし、飲まない。糞もしない。少なくとも僕の目につくところでは。なので何の手間もかからない。小犬のように手間や世話が必要だったら、きっと僕には扱いきれなかったろうな。
 だんだんと、僕は彼らとの共同生活に、親しみのようなものを感じるようになってきた。
 どうしても一緒にいるやつの体がある程度の大きさになると、同居人に近い存在のように認識してしまうんだ。逆に言うと、きっと犬や猫が小さくなったら、愛着は相当減るんだろうな。ゴキブリサイズのやつがワンとかニャーとか言って自分を見上げていても、ピンとこないというものじゃないか。
 人間は幼い子供くらいのサイズのものに最も愛着を持つようにできているらしい。
 でも、だからと言って、僕は彼らを猫可愛がりし始めたわけじゃないよ。あくまでドライな関係で、相手を尊重して存在を認めようという気分が強くなってきただけだ。依然として、連中に哺乳類のような感情があるのかどうかは全然分からないし。
 でも、それを感じさせる出来事も少しはあったかな。
 アパートにネットで注文した品物が届いた時のことだ。
 ちなみにそのブツは、フランス飲料メーカーのリコピン増し増し地中海産岩塩入り高級トマトジュース二十四本セット。僕はトマトが大好きなんで、トマト愛好者ならその味を想像しただけで唾液が湧き出ると言われるそれが届くのを心待ちにしていた。だけど実際に届いた時は、残念なことにトイレの中にいたんだ。
 そんなわけで呼び鈴が鳴るのは聞こえたんだけど、すぐには出られなかった。こんな時には同居人がいたらいいのにっていう気持ちになるね。
 慌てて水を流して廊下に出ると、玄関方向には驚くような光景があった。玄関の扉が開き、外には青い制服を着た宅配業者の人が荷物を抱えて立っていたんだけど、問題なのは誰が扉を開けたのかっていうことだ。
 どうやらそれは、ハルキゲニアだったようなんだ。それも今までに見た中でも最大級に大きなやつが、尻尾っぽく細まった胴の端を三和土の床に着けて、キウイっぽい方を持ち上げてドアノブに凭れかかっている。並んだ脚には骨が無くてぐにゃぐにゃで先が赤ちゃんの手のように先別れしているので、ドアノブを掴むのはできるようだった。
 そいつは長い胴体を縦にして立ち上がり、丸いノブを半回転させて僕の代わりに宅配業者を迎え入れてくれたんだろうか。
 多分そういうつもりじゃあないんだろうけど。多分呼び鈴の電子音に反応して動いただけなんだろうけど、僕の代わりを勤めようとしてくれている風には見えたんだ。
 間の抜けた僕は、玄関のドアに鍵をかけるのを忘れてしまっていたらしい。
 宅配業者の男性は、ドア裏に縋りついている奇妙なものに気がついて、口をあんぐりと開けっ放しにしていた。目尻をヒクヒクと痙攣させて、その場から逃げ出すをこらえているようにも見える。
 あと一、二秒もしたら迷わすそれを実行したんだろうけど、不運なことにトイレから出てきた僕を見てしまったので、マニュアル通りに住人の対応を待たざるを得ない状況に陥ってしまったようだ。
 まあ、混乱するのも無理はないけど、ちょっと慌てすぎじゃあないのかな。
 僕はその人を怖がらせたらいけないと思ったので、わざとゆっくりと平然さを取り繕って玄関へ向かった。
 何でもないんですよ。ここにいる生き物はちょっと変わってるけど全然無害だし、このアパートではこれが普通なんだから、怯える必要なんてないんです。といったことを伝えたかったんだけど、さすがに無理があったかな。
 宅配業者の人は、傍に行った僕の胸にいきなり重みのある四角い段ボール箱をドンと押し付けた。そしてその上に置いた紙片をトントントントンッとせわしなく指で叩く。横にはボールペンも添えていたので、「早くサインしろ」っていう意味なのは分かった。
 まるで五十メートル走でもしたかのように、やたら呼吸が荒くなってもいる。
 どうやら歯の根が合わなくて、上手く言葉が出てこないらしい。
 僕が下手くそな字で苗字を書くと、宅配の男性はそれをひったくって全速力で走り去ってしまったんだ。
 まったく。立派な体格をしているのに、いったい何を怯えてるんだろう。本格的に取っ組み合ったら、ハルキゲニアくらい投げ飛ばせるに決まっているのにな。
 そりゃあ確かに初めての人にとっては、エイリアン並みに奇怪な姿に見えるっていうのは認めるけどさ。
 僕は傍にいるハルキゲニアと顔を見合わせた。僕はもうこの頃にはこいつの胴の端にあるキウイ型の膨らみは、顔なのだと確信するようになっていた。
 そこには目も鼻も口もない。なのに何となく哀し気に見えた。多分少しだけ萎み加減に歪んでいたのが哀愁を誘ったんだろう。
 そうしたらその時奇跡が起こったんだ。
「キューッ」
 錯覚なんかじゃない。ゴム製の鳴き人形に空気を詰めて握りしめた時に出るような音が、ハルキゲニアから洩れた。キウイのように膨らんだ部分からか、それとも反対側にある細い先端部の穴からか、それとも胃が鳴るように、胴体の中央部から出たものなのか。それははっきりしなかったけど、そんなことよりも、「ハルキゲニアが音を発することがある」という事実が驚きだった。
 僕が見つめると、ハルキゲニアは何となく、気まずそうにしているように見えた。すごすごと、半身を凭れさせていた扉から身を剥がし、三和土のスペースでいつものように胴体を水平にして細い脚の列を床につける体勢に戻った。
 何となく、その姿は叱られた後の犬のようだったんだ。もちろんそれは、僕の主観にすぎないとは思うんだけど。
 僕がハルキゲニアが音を発する場面に遭遇したのは後にも先にもその時だけだった。
 ちなみにその時届いたトマトジュースは極めて美味だった。さすがマニアの間で絶賛されるだけのことはある。高価いのでそういつも買うわけにはいかないけれど、年に一回くらいは注文して飲みたいと思ったものだ。
 さて、そんなことがあってから、僕は妙なことに気がつくようになった。
 大学への行き帰りや、ちょっとした買い物などで外に出た時に、妙によそよそしい視線が僕に向けられているのを感じるようになってきたんだ。「あれっ?」と思ってその方向を見ると、そういう視線の主は、僕と同じアパートに住むご近所さんだったり、スーパーでよく顔を見かける店員さんだったりする。何となく、距離をとってコソコソ見つめるような感じがして、あんまり感じがよろしくないんだ。そして、こちらから見つめ返すと、目線を逸らして逃げるような反応を示す。
 時々言葉をかわす隣室の人と顔を会わせた時なんかにも、ちょっとそんな感じがあったかな。その人は普段は気さくで冗談好きな独身サラリーマンなんだけど、僕がいつも通りに挨拶しても、受け答えがどことなくぎこちなくて会話が続かないんだ。一応上辺はにこやかなんだけど、中身は全然違うっていうか。
 さすがに僕でもピンときた。こんなことは考えたくないけど、どうやら僕が住む部屋に変な生き物がいるという噂が広まって、それで気味悪がられているようなんだね。
 うかつなことに、僕はこの時初めて、ハルキゲニアが現れるのは僕の部屋だけなんだっていう事実を知った。二階建て木造建築の同じ建物内なんだから、ハルキゲニアはたまには他の部屋にも現れているのかなあ。と漠然と思わないでもなかったんだけど、そんなことは全く無かったんだね。
 きっと宅配業者の人は僕のところに来た後に、他のご近所さんへも届け物をしたんだろう。そこで今見たばかりの衝撃体験を話し、それで噂が広まってしまったっていうことなんだろうな。
 まあ、ハルキゲニアを見たことが無いのなら、ご近所さんが気味悪がるのも無理はない。そのくらいのことは僕でも理解はできる。でもそれならそれで、実際に僕の部屋に来てハルキゲニアたちに触れあってみれば誤解も解けると思うんだけど、それもしないのは困ったもんだ。いや、正確には、少ししてから大家さんはやってきたんだけど。
 初老で小太りで頭の禿げた、いかにも大家でございますっていう感じの人だ。その人は一目アパート室内を見ると、眉を顰めて「困りますね」って言うんだ。「ペットは禁止と入居する前に交わした契約書に書いてあったでしょ。守らないと退去してもらいますよ」
 でも僕にも言い分はあった。別にここにいるハルキゲニアは飼っているんじゃなくて、勝手に現れたものだ。つまり、どちらかと言えばゴキブリやネズミに近い存在で、そういうものが現れるのは建物に何らかの不備があるからだと言えないだろうか。実際のところ、こんなものが現れる部屋に平然と住み続ける人は少ないと思われる。僕はそれを我慢しているのだから、逆に家賃を割り引いてほしいくらいのものだ。
 そうしたら、やっぱり言ってはみるものだ。大家は厭な顔をして、結局お咎めは無しとなった。まあ実際のところ、こんな噂が立ってしまったら、僕に出ていかれた後に入居する人はいないだろうから、大家が妥協するのは当たり前だったんだけどね。
 とは言えそれからも、ご近所さんの白い目はあんまり変わらなかったけど。まあ、それはしょうがない。人はそれぞれだから。僕は僕で勝手に生きて行くだけだ。
 でも少しだけ、先行きが心配になってきたりもしたかな。なぜかと言うと、その時僕にはいずれはアパートに連れてこなければいけないと思っている人がいたからだ。その人もご近所さんと同じようにハルキゲニアを見て拒否反応を起こしてしまったら嫌だなあ、と思わずにはいられなかったんだ。
 ああ、いや、その人っていうのはご想像の通り女性だけど、母親なんかじゃないよ。妹でもない。そうじゃあなくて、僕と同い年の、多分僕の主観を抜きにしても平均よりは可愛らしい女子だ。つまり、何ていうか、意外かもしれないけど、僕にも彼女の一人くらいはいるってことだ。って、二人以上いたら問題だけど。
 どうして僕のようなのが彼女を作れたのか。不思議だろうけど、それについて書くつもりはない。そんなことを教えるのは恥ずかしい気がするし、どうせ大した話じゃあないからだ。ただそれには多大な幸運があって、それに乗っかった僕は天使の御利益に預かる気分だったと言えば十分だろう。
 心配なのは、彼女が僕を勘違いしちゃいないかってことだ。
 自慢じゃないけど僕は昔から成績は良くて、レベルの高い大学に通っている。一方彼女の大学は中レベルで、見た目も小柄で慎ましい。人柄も丸くふんわりしていて、良い意味での凡庸を長所にしてる感じがあった。
 だからだろうか。一緒にいると、どうも彼女は学歴高めで背が高い僕を、ずいぶん上の存在として見て買いかぶってるんじゃないかって思える時がある。一歩引いて僕を立ててくれ、頼もしそうにこちらの顔を見上げてきたりするんだけど、そんな時僕は何だか騙しているようで、申し訳ない気がしてしまうんだ。僕はどうやってつき合ったらいいか分からないものだから、一般的な「おつき合いマニュアル」的なものを勉強して、それをなぞっているだけなんだけど。それが変に期待値を上げる結果になってしまってるんじゃないだろうか。
 それがハルキゲニアを見た瞬間に一気に崩れて、「こんな得体のしれない生き物と同居してるなんて。ショック。私がつき合っているのはただの変わり者だったんだわ」と認識されてしまうのが怖い。いや、それは実像に極めて近く、ほぼ事実だから構わないんだけど。できれば少しずつ段階を踏んで、僕という人間を理解して行ってほしい。そして落下の衝撃を、和らげたいと思ってるんだ。
 塔から飛び降りたアクション俳優が窓から跳び出た幌にに何度もバウンドすることによって怪我をしないで地面に到達するように。いや、そんな華々しさはなくても、高いところから卵を落としても、地面に段ボール箱を敷き詰めて低反発素材をその上に敷いていれば割れないですむ。みたいな感じにしたいんだけど、どう考えてもそれにはハルキゲニアはなじまない。
 ……って、そんなことを思っているうちに、その時はあっけなくやってきてしまった。
 その日は以前ハルキゲニアを糾弾していた大家が、再び僕の部屋にやってきていたんだ。
「いやいや、この前はすみませんでしたね。もう出ていけなんて申しませんから。できるだけ長くお住みになってください」
 大家は自分の不利を悟ったんだろう。気持ち悪いような愛想笑いをして、お詫びの印とばかりに三百五十ミリリットルの缶ビールを三本セットで持ってきていた。そしてそれを上がり口に置くと、僕の足の横から顔を出して来たハルキゲニアに笑いかけて、頭を撫でんばかりの媚態を示す。
 この頃には、宅配業者を迎えに出たハルキゲニアは来客があるたびに玄関に出てくるようになってしまっていた。僕はそんなことはやめさせたいけど、どうやったらその意志を伝えられるのかが分からなかったんだ。
 ホラこの通り、私はこの生き物を何とも思ってはいませんから。という感じで、大家は仲直りをアッピールすると、「もういいですね」と言わんばかりに扉が開いた玄関口から去ろうとした。
 そしたらそのすぐ外には、僕がつきあっている彼女が身体を硬くして立ちつくしていた。という訳だ。
 大家は人生経験豊富な人らしく、僕らの関係をすぐに察したようだった。邪魔にならないようにそそくさとその場から消えた。
 後には僕の横にいるハルキゲニアをポカンと見つめる彼女がいるばかり。
 彼女は襟が大きくフリル状になったワンピースを着て、ちょっとだけ普段より澄ました格好をしていたかな。
 彼女の顔を見た僕は、「目が点」とはこういうことを言うのだろうなあ。と、間抜けな感想を持った。まさかショックで倒れたりはしないだろうな。と心配にもなった。
 でも、もうこうなったら仕方がない。なるようになれだ。
「やあ」と笑いかけた。
 ぎこちない間があった後、彼女の口からも言葉が洩れた。
「ちょっと近くを通りかかったから……。お邪魔だったかしら」
「いや、そんなことはないよ。でも来る時には連絡してもらった方がいいかな。アパートの中は散らかってるから少しは整理する時間が欲しい」
「そうね。ごめんなさい」
「謝る必要はないけど。中に入る?」
 僕は足元にいるハルキゲニアには触れないようにした。
 この誘いは十中八九、断られるんだろうと諦めていた。何しろ頑健な宅配業者も、したたかに人づきあいの網を絞る世間の人たちも、みんなコイツは避けるんだから。彼女は通せんぼをするように上がり口に立ち塞がっているハルキゲニアに尻込みして、きっと帰ってしまうんだろう、と。
 でもそれは、ただの杞憂に過ぎなかったんだ。
 彼女は何のためらいもなく、「お邪魔しまーす」と小さく間延びした声で言った。そして三和土に靴を脱いで上がってきた。
 僕の足元に目をやって、
「その子、名前は何て言うの?」
 ごく当たり前の口調だったので、僕はかえって戸惑った。
「えっ、ハルキゲニアって言うんだけど」
 正確には僕は彼女の問いには答えていない。彼女が訊いたのは個体としての名前で、僕が答えたのは種としての名前。飼い犬を見て「何て名前」と訊かれて「犬」と答えるようなものだ。でもそれで問題はなかった。彼女はそれを個体の名前として捉え、それを略した愛称が、結局は個体の名前として定着したからだ。
「ふふっ、変な名前。ハルちゃん。よろしくねー」
 少しクスッとした彼女は、膝を折ってハルキゲニアの前にしゃがみ込み、グンニャリした胴体の真ん中あたりを両手で掴んで抱き上げた。
 驚いたのはハルキゲニアだ。今まで一度もそんなことをされたことが無かったのだろう。いささかパニックになって、地面を失った脚の前部をバタバタさせた。みんなてんで勝手な方向に動くので、慌ててる感はすごく伝わる。
 目を点にするのは僕の方だった。
 掠れる声で訊いた。
「怖くはないの?」
「どうして?」
 胸にハルキゲニアを抱いた彼女は何を訊かれているのか分からないというようにキョトンとしていた。その姿はまるで幼い甥っ子を抱いている農家のお姉さんのように邪心が無かった。
 僕のように鈍感な人間でも、人の気持ちが分かる時はある。彼女のハルキゲニアへの接し方は、決して無理して作ったものなんかじゃなかった。そうじゃあなくて純粋に、自然にニュートラルな親愛の情を向けただけだったんだ。
 僕は感動した。中山のような変わり者でさえこのハルキゲニアをどう受け止めたらいいかしばらく思案していたというのに。何のためらいも無く受け入れてくれる人がいたのだ。
 涙が出てきそうだった。
 ああ、この娘と結婚するのかもしれないな。と、直感した。
 
 そしてそれは現実になった。
 不思議なくらいトントン拍子でつき合いは進み、プロポーズするのも自然な流れっていう感じだった。結婚式の日取りも決まった。その頃には僕は製薬会社に就職していて、生活も少しづつ安定してきていた。ちなみに配属されたのは新薬研究開発部門。僕の性に合っていて、人づきあいが少なめの部署だったのは運が良かった。
 式は近親者を呼んで、慎ましやかに行うことになった。僕も彼女も友人が多い方じゃあなかったし、そうした方が堅実に新しい生活に踏み出せる気がしたんだ。
 でもその式には、特別な出席者もいた方がいい。僕はそう判断した。ある意味僕たちの結び神と言えなくもない、ハルキゲニアを会場に呼んだらどうだろう。アパート内をうろついている連中の中から、代表して一体だけでも出席してもらうんだ。僕のこの案を、彼女は嫌な顔をせずに賛成してくれた。そのために犬移動用のペットケースを買って、おそらく世界で初めて個体名がついたハルキゲニアである「ハル」にそれを見せたら、案外簡単に中に入ってくれた。
 本当に、ハルキゲニアは本当は人の心が分かるんじゃないかっていう気がする時はあるね。
 結婚会場で、ハルは注目の的だった。とは言ってもそれは必ずしもいい意味じゃなくて、目を丸くしている人や、気味悪がって近づかないようにしている人もいた。僕の両親がそっち側に近かったのは少し寂しかったけど、悪童盛りの甥っ子なんかはやっぱりテンションが上がっていたかな。
 今では僕の妻となった「彼女」のお婆さんが、ハルに挨拶して仲良くしてくれたのもとても良かった。九十になるその人はもう眼が悪くて耳も遠くなっていたけど、ハルの傍に案内されると赤ちゃんのようなハルの手を握って「うちの孫と旦那さんの二人と仲良くしてくれてありがとうねえ」としみじみ言ってくれたんだ。幼い頃からお婆ちゃん子だった妻はそれを見て思わず涙ぐんでいた。
 ハルは訳が分からず膨らんだ顔をクラクラと揺れるに任せている感じだったけど、僕は彼も微かな善意くらいは感じ取ってくれたんじゃないかと思っている。
 妻が初めて見たハルにネガティブな反応を示さなかったのは、きっとこのお婆さんの薫陶が大きく関係していたんじゃあないかと僕は思っている。すべてに先入観を持たず、物に動じず、万物に分け隔てなく穏やかな愛情をもって接する。ちょっと人間離れした境地にいるのでは。と思えるような老人は、ごく稀にだが実際にいるのだ。
 僕らは結婚後もしばらくはこれまでと同じ僕のアパートで同居していた。つまり、僕らはハルキゲニアと一緒に新婚生活をしていたわけだ。
 変な感じだったけど、ペットをたくさん飼って暮らしていると思えば大して気にならない。むしろこちらの方が全然楽チンだったろう。ハルキゲニアは食べないし、糞も尿もしないんだから。
 でもそれも、終わる日がやってきた。
 妻が妊娠したのがきっかけだ。僕らは考えた末、子供が生れたらこのアパートは手狭に過ぎるという結論に達したんだ。
 長期ローンを組んで家を買う。慎ましやかなもので良いけれど、庭も少しは欲しいねなどと相談しあった。つまり、ハルキゲニアが出没するこのアパートとは縁が切れる。少し寂しい気はするけれど、彼らとはお別れとなるんだ。
 まあ、仕方ない。もともと同居してくれと頼んでいたんじゃないんだし。僕らは彼らの行く末に責任は無い。でも、もし新しくこの部屋に移り住んでくる人がいたとして、その人が酷い人だったらどうしよう。大げさに言えば、せっかく育まれて来た人間とハルキゲニアの友情が、破綻してしまうことになるんじゃないだろうか。
 それも、仕方ない。それが僕らの結論だった。
 彼らを移動用ケースに入れて新居に連れて行くことも考えたが、それではペットと同じになってしまうし、そんなことをしたって彼らは気分を悪くしたらいつでも好きな時に消えてしまうだろう。そして永遠に現れない。そんなことになりたくはなかった。
 
 僕らの新居は、それまで住んでいたアパートから大きく離れた住宅街に求めた。同じ平野の東と西という以外、両者に共通点はない。
 そこに移り住んだ僕らは、ホッとしたような寂しいような、奇妙な心持ちになったものだ。妻の出産日が近づいていたので、そんなに気にする暇はなかったけれども。いざ産まれた子供を家に連れて帰ってきたら、幸福感の中に一抹の疚しさを感じてしまったのも事実だ。
 産まれた我が子は女の子で、とても可愛いかった。ずっと顔を見ていても全然飽きない。けれど、だからこそ何かを犠牲にしてこの幸せを手に入れたのかなあ。みたいな思いも。
 多分僕は幸せには慣れていなかったんだろう。何だかこれは、僕の人生らしくないぞ。っていうような違和感が、チラリと頭をよぎったりしてもいたんだ。
 でもそれは、またしても杞憂に過ぎなかった。
 その時、僕らは家の一階リビングに付属したテラスにいた。少々奮発してつけてみたものだ。妻は秋の柔らかい日差しを浴びて、アームチェアーに腰掛けて娘を抱いていた。僕はその傍に立って二人を見降ろしていたんだけど、その僕の太腿の裏側を、後ろからチョンチョンとつついてくる物がいる。
「えっ?」ってなった僕の頭に浮かんだのは、お隣さんが飼っているトイプードルが逃げ出して僕の足にじゃれついて来たのかな。ということだった。だけど、もちろんそんなことはなかった。振り向くと、後ろにいたのは見慣れた奇妙なシルエットだったんだ。
 お世辞にも可愛らしいとは言い難い、歪んだような間が抜けたようなフォルム。胴体に生えた脚と長い棘の列。胴の端のキウイのように膨らんだ部分を僕の足にぶつけてきていた。彼らは身体の特徴で個体を識別するのは難しかったけど、見た中で一番大きなそのサイズでもって誰なのかが分かった。
「ハルッ」
 僕は思わず大きな声で、そいつの名前を呼ばずにはいられなかったんだ。
 僕は嬉しかった。何故かと言うと、ここに出てきてくれたっていうことは、彼らも僕らを気に入っていてくれたっていう事実が証明されたようなものだからだ。
 妻は暖かい日差しのようにハルを眺めていた。
 その後に、僕らの新居に現れるようになったのは、ハルだけじゃないってことが分かった。家の中に入ってみると、二階まで吹き抜けになったリビングに、さらに二体のハルキゲニアがいたんだ。僕のアパートに出現していた中で二番目に大きなハルキゲニアと三番目に大きなハルキゲニアに間違いない。でも結局現れたのはその三体だけで、他の小型のやつはこちらに移動してくることはなかった。物理的に出来なかったのか、あるいは大型の三体だけが僕らに親しみを感じてくれていたのか。分からないけれど、それは僕ら夫婦にとっては好都合だった。あんまりたくさんいられても困ってしまうからね。三体くらいが丁度いいというものだろう。
 僕らはハルの例に習ってその三体に、大きい順からそれぞれ「ハル」「キゲ」「ニア」と名をつけた。「ニア」はいいとして「キゲ」はいかがなものかと思わないでもなかったけど、慣れてしまうとその名前は僕らのお気に入りになった。キゲっていう変な語感は、彼らの特徴に似合っている。
 それから二年後に産まれた二番目の子、長男はそのキゲと仲良しになった。理由なくその辺を駆けまわったりする年頃になったら、キゲと一緒に走ったり、持ち上げて運んだり、芝生の上に転がってじゃれ合ったりしている。
 一方、長女のお気に入りはニアだ。お姉さんらしく落ち着いて、一回り小さくて大人しいニアを横に座らせて、おままごとなどをやったりしている。ニアは何をやっているのか分からないようすだけど、とりあえずはじっとしているのが自分の役目と心得ているようだ。
 僕ら家族は順風満帆で、何の憂いも無いようだった。
 ご近所さんたちも少しづつハルたちに慣れて、彼らに声をかけたりもしてくれるようになってきた。やっぱり何事も、積み重ねっていうのは大事なんだね。
 あと他に、話すべきことは何があるかな……。
 ああそうだ。以前ハルキゲニアのいるアパートを訪れてきた高校時代の友人中山と二十年ぶりに連絡が取れたことを最後に報告しておこうか。
 ひょっこりと突然に、やつから僕のメールアドレスに連絡が入ったんだ。ちょっと意外だったけど、よく考えてみればこれまで連絡が来なかったことの方が変だ。僕は手違いでやつの連絡先データを失くしてしまったんだけど、向こうも僕のデータを失くしているっていう証拠などはないんだから。実際に、それは消えてはいなかったらしい。
 中山はまるで長い時間の流れが無かったかのように「最近はどうしてる?」って訊いてきた。「俺は今ロンドンにいて金融関係の仕事をしているんだが中々大変だ。ところで前に君のアパートへ行った時にいた変な生き物はどうなった? ちょっと思い出したら気になってしまってね」
 二十年も経ってるのに「気になってしまってね」も無いもんだ。僕は呆れるやら苦笑するやらで、返信するのが少し遅れた。
 でも、まあ大体こんな感じの返事をしようかと思ってる。
 まずは簡単な挨拶をして、次に近況を報告する文。そしてその下に、僕ら家族四人がマイホームの前に並んで立っているところを撮った写真を貼り付ける。
 そこに映った子供たちは、キゲとニアを胸に抱いて満面笑みを見せているはずだ。多分僕と妻の足もとにはハルがいるかな。
 そしてその写真の上には白くて太いペン文字で、「ハルキゲニアともども、家族みんなで幸せに暮らしているよ」というメッセージを付け加えるつもりだ。
                   
      了

 

ハルキゲニアンスープ

執筆の狙い

作者 中村ノリオ
flh2-122-130-109-65.tky.mesh.ad.jp

訳の分からぬものを書いてしまいました。
先入観なしに読んでもらった方がいい作品のような気がするので内容の説明はなしにします。
1万8千字程度。

コメント

ぷりも
softbank114051120086.bbtec.net

拝読しました。
文章の読みやすさ、得体の知れないハルキゲニアと主人公たちの関係性にシュールなユーモアがあったのでは。

内容的にはもうちょっと短くできたかなと。
ごはんではなかなか読まれない文字数。一気読みする人も少数派だと思うので、どこまで読んだか判断しやすいようチャプターわけすると良いのでは。

あと、結局得体の知れないまま終わってしまったのが気になりました。

しまるこ
133.106.249.151

わけのわからないものを書くのはいいと思うのですが、作者さんがはっきりしない立ち位置で書いているためか、キャラクターたちも全員同じような反応になっている感じがしました。荒唐無稽の話でも、キャラクターたちが内実から溢れる真を持って行動するならば、また違ってくるとは思うのですが。不思議テイストを描こうとして、不思議なものが描かれているけど、それを作り終えて終わった印象ですかね。

中村ノリオ
flh2-122-130-109-65.tky.mesh.ad.jp

ぷりも様。コメントありがとうございます。

どのように読まれるか不安な作品ではあったのですが、作意であるシュールなユーモアを汲み取って頂けたのは有難かったです。

最後がそのまんまな終わり方になっているのは、いつもはオチをつけることが多いので「たまにはこういうのもいいかな」と思ったのと、下手にオチをつけると変てこな可笑しみが減ってしまう気がしたから。

元々この作品は絵本的な寓話感のあるテイストを考えていて、だからオチをつけるつもりも無かったんですが、書いてみたら「あれあれ長くなっちゃったぞ」と。
結果的にオチが無いと物足りないボリュームになってしまっているのかもしれません。

チャプター分けとかは……すいません。そういう方面には詳しくないので分からないです。

中村ノリオ
flh2-122-130-109-65.tky.mesh.ad.jp

しまるこ様コメントありがとうございます。

〉キャラクターたちも全員同じような反応になっている感じがしました。〈

というのは耳に痛い指摘ですね。
全員かどうかはともかくとして、主要な三人は「まあ確かに」という感じなので、もうちょっとしっかり描き分けなかったのは私の力不足なのかなあ……と考えさせられました。

キャラ内実による行動の少なさについては……うーん、どうなんでしょう。私自身は「こういうのもありかな」と思っているのですが、

〉不思議テイストを描こうとして、不思議なものが描かれているけど、それを作り終えて終わった印象ですかね。〈

と言われればその通りでもありますし。

何だか歯切れの悪い返答になってしまいました。


〉作者さんがはっきりしない〈

とまた言われてしまいそうですね。

HC
p7606195-ipoefx.ipoe.ocn.ne.jp

・以下、気付いた誤字です。
 ウーバールーパー → ウーパールーパー
 長―く → 伸ばし棒が―(だっしゅ)となってる
 その場から逃げ出すをこらえているようにも見える。 → 「の」が抜けている
 塔から飛び降りたアクション俳優が窓から跳び出た幌にに何度もバウンドすることによって怪我をしないで地面に到達するように。 → 「に」が一つ多い
 大家は仲直りをアッピールすると、 → アピール



 ハルキゲニアという古代生物を知ったのは進撃の巨人からでした。全ての元凶のイメージがあったので、話しはバッドエンドになるのかなと思ってましたが、意外にもハッピーエンドでしたね。いつか妻子をボリボリと捕食する時が来るのではないかという怖さがなきしにもあらず……。
 一人称での語り口調もあってすらすらと読み進められ、読んでいる中で主人公を親身に感じられました。

久々の男
softbank126059016076.bbtec.net

どうも、中村ノリオさん、超お久しぶりです。久々の男でございます。
さて、最近は別なSNSで本の感想を書いたりしていました。ただ、いつも買っている週刊ヤングマガジンの「ヤニねこ」という漫画で、小説家志望のアマチュアの感想会のネタをやっていたんです。それで久々にこのサイトを思い出し、画面を開いた所、懐かしの中村さんのHNが。それで読んでみた所、こちらも襟を正すような作品で、これは感想を書いてみようと思い立ちました。
ご自身の文体も持っているし、ノリオさん独自の世界観もある。一人の個として独立した表現者であると思います。
今回、読んでみて、いくつかの切り口で述べたいと思います。
【ハルキゲニアという存在】
古代生物で一見すると不気味な存在。何を考えているのか(いや考えている以前の問題?)分からない。そんなハルちゃん。しかし、ボクの読み進めていった時の感触は柔らかく、人間的。ボクは漫画「僕の妻は感情がない」の家事ロボットミーナちゃんを思い出した。彼女もプログラミングに基づいて行動しているはずが、主人公に対してそれ以上の感情を持っているふしがある。
主人公に代わって宅配の際の家の扉を開けるハルちゃん。結婚式の時に移動の際のゲージに素直に入るハルちゃん。かわいい💛
ただ、一つ言えることは村田紗耶香の「世界99」の愛玩用動物ピョコルンとは質的にこのハルちゃんは違うということだ。ピョコルンは外見上の可愛さの裏にとんでもなく恐ろしい設定が潜んでいる。そんな二重性とこのハルちゃんは根本的に違う。牧歌的だ。
【主人公のパーソナリティ】
ずぼらで、鷹揚……と一見見えるが、ハルちゃんを見て変だとか思わない普通とは違う感覚を持っている。この普通の尺度ではないセンスの説明として、ノリオさんは「現実と空想がごっちゃ」とこの主人公を評しているが、これはボクは作者であるノリオさんの実際の人間観を表していると見た。村田紗耶香も「コンビニ人間」で、周囲の「一般」の人間と、主人公の差異をテーマにしたが、この作品の主人公は確かに周囲の人間とは差異があるが、村田とは違うものだ。村田が自分と他者を峻別しているのに対し、ノリオさんは他者との協調の中でその差異を捉えている。対立ではない。
また、主人公がハルちゃんと共同生活をしていくうちに彼らに愛情を持つようになっていくのも、村田作品と違う所だ。
【他の登場人物の位置づけ】
主人公の親友の中山にしても、結婚する嫁にしても、その嫁の祖母にしても、ハルちゃんに対して、宅配人や大家やその他大勢の近隣住民とは違い、好意的。この主人公以外の何人かのキャラクターも主人公と同じ優しさに溢れている所が、ノリオさんのヒューマニティ溢れる所だ。これは主人公が社会的疎外等で孤立していない証拠。個と全体がはっきりと分かれていない。そこには人間的な優しさ、共感がある。
【全体的な世界観】
この作品は例えばカフカの「変身」のような極度の緊迫感はない。「変身」の場合、主人公のザムザは毒虫になり、家族からもだんだんと見放され、生きる鎖を断ち切られる。しかし、ハルちゃんはラストは主人公の家族一家と平和に暮らすようになる。娘、息子からも愛されて。ボクが思い浮べた漫画が天野こずえの「ARIA」。テラフォーミングされた火星で繰り広げられるSFホームドラマ。ヒロインの灯里と、ブタ猫「社長」のまったりした何気ない日常。
――最近、ボクはこの感想で挙げたような実存的な作品ばかり読んでいるのですが、ノリオさんの今回の作品はそんな砂漠を歩いているボクが少し休めるちょっとしたオアシスのような小品でした。かなり充実できた読書体験でした。また縁があればお世話になるかもしれません。今回は素敵な作品ありがとうございました。

中村ノリオ
flh2-122-130-109-65.tky.mesh.ad.jp

HC様コメントありがとうございます。

まず誤字のご指摘に感謝いたします。
本当に、何度も読み直してチェックしているはずなんですが、こんなに沢山ミスが残っている。自分の事務能力の低さに呆れます。

私がこの作品を出すにあたって最も心配したのは「はたしてこの主人公の特異なキャラは読者に受け入れられるのだろうか」ということでした。
なので親身に感じられたと言っていただけてホッとしております。

ハルキゲニアは進撃の巨人にも出てくるんですか。私は漫画もアニメも序盤しか観賞していないので知りませんでした。巨人に負けじと巨大な姿で現れて暴れたりするんですかね。
私は変てこなイメージしか持っていませんでしたが、言われてみればコイツが狂暴さを露わにしたりしたら恐そうですねえ……。

中村ノリオ
flh2-122-130-109-65.tky.mesh.ad.jp

久々の男様コメントありがとうございます。

ノリのいい文に圧倒されました。内容を吟味するより先に「自分もこんなに楽しそうにコメントを書けたらいいのにな」と思ったり。

褒めて下さってありがとうございます。
いくつかの切り口で批評して下さった中で、作者として言及してみたい箇所は、やっぱり「主人公のパーソナリティ」についてでしょうか。
実はこのキャラは自分自身のエキセントリックな部分を抽出して味付けしたものなんです。
夢日記を長い期間つけていたとか、それで変な幻覚めいたものを見るようになったとかいう部分はほぼ実話。ネットで調べればいいものを中々それを思いつかずにズルズルと知らんままになって阿保扱いされるとかもよくあります。
自分でもよく分からない奇妙なハルキゲニアの存在は、それを映すための鏡だったのかも……と久々の男さんの批評を読んでいて思ったりしました。
この作品の主人公は孤立してはいませんが、私は結構孤立しています。なので、ある意味「こうだったらいいのにな」という願いがこもっている部分があるのかもしれません。

ご利用のブラウザの言語モードを「日本語(ja, ja-JP)」に設定して頂くことで書き込みが可能です。

テクニカルサポート

3,000字以内