私立調査員
一
金曜は午前六時、渋谷区本町の外れ。あたしのヤサにして勤務先の、細川探偵事務所があるビルにて眼が覺めました。三階建てのボロ・ビルヂングで、一階は事務所、二階は雑貨置き場、三階が空いておりソコが我が住まいです。今まで借りた業者が倒産・破産・廃業・夜逃げ・自殺未遂などと惡名が知れ渡っており借り手がいないのでオーナーから管理人扱いで住まわされております。ビル監理技術者やマンシヨン管理士などと云った資格も實務もないのにも関わらずです。マア住んでおったボロ・アパートが老朽化の限界を超え取り壊しとなり、住む場所がなくなったのですから渡りに船、でも在ります。家賃は通常のアパート相場の三分の一、静かながらも商店街は活氣に満ちており、交通の便が良い場所なので文句はしとつも云ヱません。
二
あたしは顔を洗い、アヂダスのパチモンのジヤージ姿でカロリー・メイトのチーズ味を一箱食べると胡座を組んで目を瞑りました。禅の瞑想?そんな高尚なこと、あたしの様な俗物に出來る筈がないじゃありませんか。まぶたの裏に浮かべたのはボクシングの試合です。ヘビー級世界タイトルマツチ、カシアス・クレイvsチヤンプ、ソニー・リストンの一戰でさあ。リストンと云やあ、拳闘通の間にゃ十年間、ベルト保持は確實と言われたモサですぜ。しかしですなあ、六ラウンド、歯切れのいいクレイのコンビネーシヨン・パンチがリストンを襲います。リストンのパンチは空を舞います。ジヤブ、ジヤブ、フツク、ストレート、リストンは躰力を消耗します。7ラウンド、リストン、コーナーを立てず、クレイのTKO勝利です。クレイ、のちのモハメド・アリ、正確にはムハンマド・アリイって呼ぶんでしたっけ、彼は云うまでもなく強かったんですがね、ソニー・リストンは決して弱いボクサーではありませんでしたよ。ってあたしがオギヤーと生まれる前の話でありますが。クレイ戰の時のリストンは下り坂でした。なんせデビユー後にムシヨにぶち込まれたり、マーチー・マーシヤルっちゅうボクサーに顎を割られて半年のブランクを作ったり、またも懲りずおまわりに暴行をはたらいてブタ箱行き、ナモンでチヤンプになるのが遅れたんですから。でもね、リストンはやや鈍重だけれども力で相手をなぎ倒す、てな点では今でも史上最強って云われてるボクサーですぜ。なんせあのO・J・シンプスンと並ぶメリケンのスポーツ界暗黒の象徴、マイク・タイスンに破られちまいましたが、二十一歳十一ヶ月の最年少でヘビー級チヤンプの榮光を掴んだと云う記録を持つ、あのフロイド・パタースンを二度続けて一ラウンドKOすると云ったしと殺し並みの腕っぷしだったんですから。あたしゃ尊敬してますよ、本當に。
三
立ち上がりあたしも小刻みなステツプを始めました。フアイチング・ポーズ、軽く拳を握ります。右ストレート、空氣を裂く音、あたしの拳もまだなまくらじゃないですな。ジヤブ、ジヤブ、ストレート、フツク、アツパーカット、スリツピング・アヱ、顔を背けパンチをかわします。ウイーヴイング、顔躰を上下左右させます。デンプシー・ロール、パンチに躰重をかけます。パーリング、相手のパンチを叩き落とします。コークスクリユー・ブロー、そしてあたし十八番のガゼルパンチ、躰を左に屈め同時にフツクを放ちます。あたしは両腕を挙げます。叫びます。アイマメーン!ノービー!オーチヤーイル!ザミン!マニシユボーイ!アイマメーン!イヱ!アイマフーチクーチメン!ヱビバデイノウアイマヒヤア!
ふう、ナンとか五分は持ちましたよ。汗ダラダラお腹グーグー、やっぱし齢ですねヱ。ジヨージ・フオアマンにジヤイアント馬場、キング・カズこと三浦知良は超人ですよ。あたしの様なロートル、リングにお呼ばれされるこたねヱでしょうが、声がかかってもお断りですぜ、マツタク。
四
それから都内でも貴重となった、朝も営業する銭湯へ行き、湯を楽しんだ後はコンヴイニヱンス・ストアで焼酎ハイボールを二本とイワシ缶詰、パツクの麦米を買いボロ・ビルヂングへ帰りました。
事務所で昨日の調査対象者が行動記録を、ハイボールを呑みイワシ缶パツク麦米をつまみながら、絶滅危惧と云っても良い、パナソニツク製のラツプトツプ・ワードプロセツサーで昨日の行動記録を打ち込みプリント・アウトしました。ネツト網の發達した現在に於ける情報漏洩のリスクを減らす爲、では在りません。ただ打ち應ヱが良いから愛用しておるのです、はい。ただインク・リボンとフロツピー・ヂスクが枯渇したら本當に無用の長物となってしまいますがね。
今の依頼者は新入りの可憐な女中をいびりまくるお局のような、山村紅葉にクリソツのご婦人で、対象者はいかにもその尻に敷かれているであろう旦那さんです。八の字の眉、半開きの潤んだ眼、歪んだ唇。写眞を見てすぐに氣の弱さが分かりました。探偵家業は長い方ですから。いくら旦那さんが生けるATMだとしても放って置かれっぱなしは面白くないんでしょうねヱ。
打ち合わせにて着手金が十万円、調査料は一日しつ要経費を除いた四万円ツマリ五日で二十万円、調査終了後の支払いだが追加料金は一切頂かない、経費は納得したモノに限り支払うと云った條件で調査委任契約書を作成しました。ウチみたいな零細なら妥当な金額と云ヱるのでしょうが、マスコミなんかにも登場する大手はもっとせしめるんでしょうな。
探偵に私情はキンモツですが、あたしみてヱな人生の敗北者は二度とは戻らない景氣のせいでおなご遊びどころかはしご酒の経験が過去未来と皆無ですから、マムシに心が在るかは知りませんが私怨が入って対象者の一挙一足を観察しました。
役所から尾行して二日目に、旦那さんが渋谷区笹塚のスナツクのホステスさんにホの字で随分入れ込んでいる事が分かりました。私怨の付録でホステスさんの身辺も洗わせてもらいましたからね。
しかし浮氣なんて大したモノでは在りませんでした。カラオケで木の實ナナと五木ひろしの[居酒屋]をおててを繋いでヂユヱツトしたり、南佳孝の[スローなブギにしてくれ]を小指立てて甲高い声で熱唱し悦に入っておると云う、大昭和が小市民の愉しみと云ヱる微笑ましいモノでした。それで水割りの三杯くらいでしょうか、勘定するなりほろ酔いでスナツクを出てタクシーを呼び、一人で乗って帰宅しております。
五
「昨日の調査報告書はどうだ、書けたか?」
古田銀次の所長代理もとい大師匠が午前九時ジヤスト、眼鏡を拭きつつ事務所に出勤して來ました。齢七十過ぎの爺もとい紳士で、老獪・厚情・し情・憤怒と使い分ける、喰ヱねヱ爺です。
「ヱヱ、八割は書けてます。それと」大師匠にクリア・フアイルを渡しました。「昨日の経費領収書です」
「ウム」大師匠は受け取りソフアに腰掛けると、パラパラと捲りあたしを睨みました。「スナック一軒はマア認められる。対象者が熱を上げるホステスさんの勤務店だからな。しかし居酒屋が二枚?スナックの他に居酒屋二軒もハシゴしたと云うのか?経費はおのれの呑み代にしてはいかぬと、常日頃から云っておるだろうが」
「イヤソノ、密着調査ですがな」あたしはポツケからしばらく洗濯していないハンケチを抜き、額を拭いました。「調査対象者の奥さんツマリ依頼者が、亭主は酒呑みだって云ってたでしょ。嫌々ですよ。スナツクのホステスさんとまず居酒屋で合流する同伴、スナツクを出た後に落ち合うアフターちゅう関係も捨て切れなかった譯でして、はい。マア前者は景氣づけに三杯、後者はしとりで呑み直しにたった一杯って程度でしたが」
「フン、どうだか」大師匠は領収書をキヤビネツトに収めました。「依頼人が不必要だと判断したものは経費として認めぬ、耳にタコが出來ているだろうが。これはオーナーが決めた事だ」
「分かってますがな」大師匠に楯突くのは精神的に痛手を請いますから、書類を揃え渡しました。
六
日中に面談予約は在りませんでした。電話はなし。大師匠のお孫さんにこさえて貰ったウヱブ・サイトを介したメールもなし。マア闇に生きる稼業ですから大っぴらになっても困るんですが、あんまし依頼者がいないのもねヱ。あたしは個人情報法のガイドラインをパラパラと捲りました。
あたしがドウして探偵事務所の調査員となったのか、その成り立ちを述べましょうか。
ことの起こりはモウ二十数年前になりますか。あたしはサイタマの高校を中退、上京してとある噺家の一門に弟子入りしました。しかし顏とオツムが惡いが故、先輩に同輩後輩から壮絶ないじめを受けておりました。耐えて耐えてのしびでしたが、とあるし出前に頼んだおかめそば大盛りが空の上煙草の吸いさしが入っていたので大激怒、一門の聯中をドッカンスッコンリチヤリブレとどつき廻した上、逐電しました。マア破門ですね。
ソレからレストラン、警備會社、製本所、印刷所などなどに勤務し、十年前ですか、本町の隣は初台の小さなバーでバーテン職に就いた時、所長の細川金太郎に出會いました。
常にしとり、バター・ピーナツを肴に國産ウヰスキーのソーダ割を一杯か二杯呑むと云うシブチンの客でしたが、映画やボクシングに昭和の笑いなど趣味が似ていて、長尻した後は必ずチツプ二百円をあたしに渡す憎めないしとでして、懇意の仲となりました。
半年ほど経って、あたしが戯れにロバート・アルトマン主演の[ロング・グツドバイ]をネタに〈探偵ってタフで快活、オトコノ浪漫が在りますよね〉と軽口を叩いたトコロ、細川が〈そんな綺麗な稼業じゃないが、興味があるなら遊びにおいで〉と云ったので二日後にここ本町の事務所の門を叩きました。
ソレでいきなし調査員になるよう口説かれてしまいました。と云うのも理由は単純、唯一の調査員が高齢のご両親の爲に、土佐は高知へ帰郷し稼業の乾物屋さんを継ぐので退職するからでした。ソウ急だと困惑したのですが〈お前さんの様に背が低く小太りの方が目立たなくて探偵としては好都合〉と細川は云いました。身長はしゃく六十一センチ体重は八十九キロのあたしに向いているのかは疑問でしたが憧れも在ったので、しるは先輩に習っての尾行や情報収集などの探偵が基礎を學び、夜はバーテンをしました。して半年後に店を退職し、細川探偵事務所の調査員となりました。先輩調査員は土佐に帰りました。
なお細川はかつて櫻の代紋を背負ったポリちゃん巡査部長でしたが、婦警へのお触り、本人はマツサージと弁明していましたが繰り返しが惡質、それがセクシヤル・ハラスメントだと告發されて依願退職しました。そこで強欲惡徳不動産ならぬ素封家の嫁さんが實家に泣きつき、探偵として再起を図った頓珍漢だと云う事は後で知りました。
事務所の責任者は細川ですが、嫁さんがオーナー出資者です。自己の名義を持って他人に探偵業を営ませれば法律上の罰則が待っていると探偵業法に明記されておりますから。
七
ソレから三年が経ちました。細川は気分が髙揚しとる時はお喋りが長々と続き、低下している時はしと言も喋らない。そして髙揚していた時の行動を後悔して落ち込んでいる。ソウいう氣質のしとなんだな、とハナでは甘く見ていたんですが實は深刻な程度の双極性障害で、入院と自宅静養の繰り返しを余儀なくされました。半ば引退を意味するモノでした。
探偵職はワリとテメヱにゃ向いていたのに、あゝ失業かよと一旦は落胆したものの、病の完全完治は望めないとしても職場をなくしては落胆し生きる張り合いがなくなるだろうと、あたしは陰で羅刹嫁と罵っていた冷血オーナー、名前は絹代なのですが、珍しく温情を見せ事務所は存続となりました。その分あたしの仕事は増えましたが、肩書きはしらの調査員でした。零細な稼業ですからナンとかこなせましたが、あたしには責任監督能力がなきにしとしいので、貫禄が在り依頼人に適切な説明を行い監督が取れるニンゲンが欲しいなアとツネヅネ思っていたのですが、我が大師匠・古田銀次がその職に就任しました。
八
今度は大師匠・古田銀次の説明をしましょうかね。ちょいと長くなりますが。
細川の療養生活が二年目、あたしの探偵稼業が五年目となりましたが、相変わらずのしとり働き、亭主の素行調査で新宿にいました。キヤバクラ嬢に入れ込むダメ亭主の姿を写眞數枚、我がバシタたるキヤメラ、ローライ・フレツクス二眼におさめ仕事はとりあヱずしと段落、ガード下で焼き鳥とホツピーでもたしなんで帰ろうかしらんと向かいました。途中、この薄汚れた街にふさわしくない、お上品な老紳士が二人のヤー公に絡まれているのを目撃しちまいました。あたしの眼でも分かる髙級背広を着こなした、身長はしゃく八十センチくらい、あたしのようなメタボではない、肉づきは良いけれどスマートなお方、ときたモンだ。
しかしヤー公は苦手でもあのしとに恩着せりゃあビフテキに旨い酒、そうだな、酒屋で見たことはあるけど呑んだこたない、おフランスはナポレオンかアルマニヤツクでもご相伴に預かっちゃったりできますとヨコシマな考ヱで、おっかなびっくりヤー公二人に近づきましたっけ。
「あ、ああ、本日は晴天なり。ちょっとアニさんがた」
ヤー公壱号は振り向いて、うさんぐさげにあたしを睨みました。「なんだてめヱは。じじいのツレか?」
「い、いヱいヱそんナンじゃござんせん」
「だったら痛い目見ねヱうちに、巣へ戻るんだな、このヒキガヱル野郎!」ヤー公弐号は叫びました。
ヤー公の分際でマア、優れた洞察力の持ち主だこと。
あたしゃこのまま廻れ右、しだり向けしだり、しだりと云やあ甚五郎、しだり利きと云や呑んだくれ、と云う訳には行かねヱんですよ。柔らかいビフテキ、美味しいブランデーが待ってるんですから。だからあたしゃ説得することにしました。
「あたしゃただの通りすがり、そのおじいさんとはなんの面識もござんせん。おじいさんといやあ竹取の翁、おじいさま、あたくし月に帰らせて頂きます、そんなこの老いぼれを残してか、そりゃあ殺生というモノじゃろて、あたくしはやんごとなき方からの求めにも応ずる訳には参りませぬ、だったら儂の屍を乗り越ヱて行くのじゃあ、それでは死んでもらうばってん覚悟はよろしゅうござんすね、おおそう云うおまはんはし牡丹のお竜、ヱヱそうでござんす渡世の義理じゃあ断る訳にゃあござんせん、でではわしを殺すのじゃな、あんさんにゃ恨みはござせんが一宿一飯の恩義でござんす死んで頂きましょう、てヱのはどうでもいいことナンですが、アニさん方の貫禄、只者じゃねヱってこたあ分かります、ヱヱ分かりますとも。きっとアニさん方は銀バツヂ、いや金バツチかしらん、そんなおしとらがですねヱ、そんなヨイヨイのじいさんいじめたとあっちゃあ、親分さんの面子に關わるでしょうなあ。きっとそうよ、つるぴかソウリヨ、僧侶はただの女好き、呑んで騒ぐは般若湯、ウサギを鳥だとうそぶいて、つけた数ヱは一羽二羽、ウサギ丸焼きポランスキ、喰うはハイカラおフレンチ、犬を喰うのは野蛮なしとと、國が固有の食文化、文句つけたるおベベさん、若い時分は毛皮でハダカ、今じゃしとより動物の、命愛しやブリジツト、バルドーボルドーワインの産地、ときたモンだ、とにかくですな、この場はヒキガヱルに免じて、許してやっておくんなまし」あたしゃ頭を下げました。
なんせフル・コースが目の前ですから。
「關係ねヱのならすっこんでろ!このフォアグラ野郎!」ヤー公壱号はあたしを突き飛ばしました。
次は豚の丸焼きじゃないでしょうね!
あたしは吹っ飛び、ビルヂングの外壁にぶつかっちまいました、と同時にHerzの革カバンからビシってな音が。不吉な予感、急ぎ革カバンを開けローライ・フレツクスをケースから出し塩梅を調べたとこ、ナンと驚きどんと焼き、二眼レンズにしビ入る!フフ、フランケンハイマー!シユトロハイム!おお神よ、こんな無法が許されていいんでしょうか!復讐するは我に在り、とああたはおっしゃいましたがね、あたしらシユーマン・ビーイングは全知全能の、ああたに似せて創られた存在ですぜ!だったら復讐する権利が爪の垢くらいは残ってる筈です。あたしゃ完全にトサカに來ました!
九
「ちょいとアニさん方」
「何だこの北京ダック野郎、これ以上痛い目見たくねヱのなら、とっとと消ヱな」ヤー公弐号はヘラヘラ靴べらベラドンナ、かのハムレツトで使われた、世にも恐ろし毒果實、喰らわば末期と瞳孔しらき、あっと云う間にお陀佛よ、てな塩梅であたしをせせら笑いました。
「あんさん方はあっしのバシタを傷モノにしやした。もう堪忍袋の尾がキレやしたぜ!かかって鯉屋のしん評會、狙うは農水大臣の、お墨つきたる一等賞!」
「抜かしやがったな、って何云ってんだかよく分かんねヱが兄弟、まずはこいつから畳んじまヱ!」
「おうよ!」
まずはヤー公壱号です。こいつは伝家の宝刀、デンプシー・ロールを喰らわせバタンキユーです。
ヤー公弐号はわめきました。「て、てめヱボクサーだな、いやブヨブヨすぎて違うな、ってことはボクサー崩れか!ボ、ボクサーの拳は兇器なんだぜ!お、おまわりにチクったら即逮捕、それでもいいのかロートル野郎!」
「知らない知らない、知らないったらもう!バーボンのボトルを抱いてヱ、夜更けのお窓に立つう、水割りをくださあい、涙のかっずだっけヱ、あいつなんかあいつなんかあいつなんかぁ、ただの通り雨ヱっ!」
「こんちくしょう!」ヤー公弐号はヘナチヨコ右ストレートをかまして來ましたが、そんなの屁の河童、軽くスリツピング・アヱイ、顔をかわし、ガゼルパンチ、躰を左に屈め右フックを三撥かましてやりました。ヤー公弐号は吹っ飛び、キヤバレーの看板をぶち破って虫の息でさあ。
振り返り老紳士を見ると、しょう情一つ変ヱておりませんでした。
「なかなかの腕っ節だ。君、聯中が云ってたように拳闘をしておったのかね?」
「いヱいヱ、ボクシングはほんの遊び程度でござんすよ」あたしは首を振りました。
「そんなに謙遜するのではない。多少運動不足のようだが、腕は鈍っちゃいないと見た」
「その通り、運動不足でござんす。メタボな躰ですが、シヤドー・ボクシングはあたしが朝の日課なモンでして、はい」
老紳士はあたしを値踏みしてから口をしらきました。「ふむふむ、失礼な事を云うが、老人のたわごとだと聴き流してくれ。背は低いがリーチは長い、足は短いがそれは重心が低く安定していると云うことだ。道理で強い筈じゃわい」
「いやあお恥ずかしいです。強い、ってなモンじゃあごさせんが、あたしの信条は〈タフでなければ生島治郎、優しくなれねば池内淳子〉ってなモンでして、あたしの稼業は探偵でさあ。滅多に在りませんが、ときにコンナ眼に遭うこともござんす。ですからチンピラの二匹程度、虫の息にさせられねば探偵稼業はつとまらんのですわ。キホン、ヤー公は本質おっとろしいですが」
「ほう、探偵さんか。良かったら名刺をちょうだい出來んかね」
「いやあ申し譯ないこってす。今、切らせておりまして。渋谷本町は細川探偵事務所ちゅう、チンケなとこで飼い殺しですわ」
「ではわしの名刺を渡そうかの」老紳士は懐から名刺入れを取り出し一枚抜き取り、あたしに渡しました。
渡された名刺を見ました。ジジ、ジム・ジヤームツシユ!ブハア!ブハーリンと云やあキング・オブ・イヴオーのロスケ、スターリンに粛清されたおろしや共産党が大幹部![株式會社古田鐵工所 會長 古田銀次]と記されているじゃあ在りませんか!こいつあ大変なことでござんすよ!海老で鯛を釣るつもりが、近海マグロどころか鯨を釣り上げちまった!相手は我が國の製鉄・加工業を代しょうする大企業の會長さまでした!
十
あたしは土下座をしました。「と、とんだご無礼の数々、お許し頼み申します!ことにヨイヨイのじいさん呼ばわりなどして!穴があったら入りたい、罠があったらキツスは眼、ナナと云ったら木の實ナナ、花と云ったらチヤンプルー、セナと云ったらアイルトン、ソナーと云やあ潜水艦、ツナと云ったらはごろもフーズ、フナと云ったら釣り初め、三奈と云ったら伊勢崎町、モナと云ったらラブホテル、ですわ!どうか、どうか、しらにご容赦を!」
「ああこれこれ、大の男がみっともない。立ちなさい。わしは水戸黄門ではないのじゃから」
「そ、それじゃあお言葉に甘ヱさせて」あたしは立ち上がりました。
「わしの會社は日本橋にあるのじゃが、新橋に旨いものを喰わせてくれる店があると云うので來たのだがのう、不慣れなゆヱ迷ってしまった。そこでこのゴロツキどもに絡まれ、君に助けられた、と云う譯じゃ」
「なるへそ」唾をゴクリ、ですわな。
「そこでだな、わしは食事がまだ済んでおらん。君もまだなら、つきあってくれんか。礼がしたいし、話も聞きたいのでな」
イヱイ!やったぜベイビー!ポール・シユレイダー!今夜はホームランだ!パパはなんでも知っている。浮かれまくりましたよ、あたしは。
「そりゃ是し、お供させて頂きやす!食事ってヱとビフテキですか、おフレンチですか、ナンでもよろしゅうございますよ!で、社長はナニがご所望で?」
「それはじゃな」古田社長は笑顔で鷹ヱました。「おでんじゃ」
ドド、ドン・シーゲル!そんなご無躰な。おでんならしょっちゅう、屋臺でコツプ酒あおって喰ってます!
「評判を聞き、訪れ食べてみたくなったのじゃ。おでんは嫌いか、君は?」
あたしは首を振りました。「い、いヱ、大好きで在ります!特にゴボ天、もち巾着、はんぺん、がんも、あったら牛すじなど」
「では、参るとしようかの。地図はあるのじゃが、わしは方向音痴でな。すまんが、君が案内してくれぬか」古田社長はあたしに手書きの地図を渡しました。
「合点でさあ。新橋はあたしの庭違いですがね、マアお任せ下さい」
マアおでんでほろ酔いになったらクラブ行きと後は決まってますよ。そこであたし、新しいボトル、そうですな、バランタイン三十年モノなんていかがでしょ、キープしてですな、コニヤツクだのシヤンペンだの呑みまくっちゃうんだから。
あたしと古田社長はおでん屋へ向かいました。マア目論見は、マツタクもって外れた訳ですが。ハ、ハワード・ホークス、とほほですわ。
十一
そんで古田會長はちょくちょくあたしに調査の仕事を廻してくれるようになりました。
マア株式會社古田鐡鉄工所は従業員を絶対的な監視下に置く恐怖独裁経営ではないし、あたしもカーゲーベーやモサドではないので、内部調査ナンざはほぼ行いませんでした。対象は主に古田會長がなんや闇があると感じた社外のニンゲンや経費が使用された飲食店、社員食堂で提供する食事のしょう判や取しき食材業者について、などなどについての調査でした。地味でしたがアレコレと氣づかいが出來るように調教、もとい成長させてもらいました。ナンせ一流企業、探偵事務所の調査員が暗躍していると大っぴらになればイメージも惡くなりますからね。古田會長及び代理人が我が事務所に足を運んだ事は在りません。依頼を受けるときも社内ではなく近くの老舗の喫茶店でした。
しかし社のべっぴんオフイス・レイデイにストーカー紛いの行爲をする不埒なエリート風を吹かす三十代のオトコをぶちのめした挙句〈あたしが公にしたら貴様はお終いよ〉と脅迫したり〈設計部の係長が接待された店には半社の面子が出入りしております〉などヤヤ危険な橋を渡る調査をした事も在りました。
して古田會長は御齢七十となり、各メヂアで社を勇退する事を大々的に發表しました。名誉職や顧問職も固辞し、余生を麻雀や雑俳をこさえのんびりと余生を過ごすとしとを喰った發言でした。親父さんの古田銀平翁が裸一貫で立ち上げた會社を國内どころか世界に通用する企業へ躍進させ、禅定ではなく役員會だか株主総會だかを、古田會長と同様に東大の工科出、加えてマサチユーセツツ工科大學院修了でもある倅さんの銀士郎ボンを實力で新社長に撰任させたのですから思い残すこたないですね。しかし古田會長はあたしの大師匠にも當たるおしととなったので繋がりが切れるのは寂しいナアと思っておりました。
けれど勇退後の二週間後、我が事務所に古田の大師匠から電話が掛かって來ました。
十二
ーはい、細川探偵事務所でごじゃりまする。
ーおお、元氣そうで何よりじゃな。わしじゃ、古田銀次じゃよ。
ーユ、ユーリ・ガガーリン!大師匠!ご存命で在りましたか。
ー勝手に殺すな。尤も天命には逆らえんが。忙しいか?手形決済で右往左往しておるのではないであろうな。
ーそんな[男はつらいよ]のタコ社長じゃあるまいし。ウチはいつもシブシブ現金決済ですぜ。
ーそうか。ところでお前、ことに細川絹枝オーナーに折り入って相談したい義がある故、時間を設けて貰いたいのだが。急ぐ事ではないが、都合つけてくれぬか?
ーソリヤモウ恩人の大師匠に頼まれれば、雑務は無視して優先しますがな。醜女もとい絹枝姐さんにも時間を作らせます。それで、何時頃がいいですか?
ーそうさな。行きつけの蕎麦屋で好物の鴨南蛮を食べるつもりであるから、だいたい二時頃だと絹枝オーナーに知らせておいてくれ。
ー畏まりました。午後二時ですね。あの猛女もといオーナーは領収書の宛名だけ見て古田鐵工所を町屋か蒲田の日錢にことかいている零細だと舐めてましたから、あの一流企業・古田鐵工所のもと會長がご来訪とならば、柄でもねヱピンクのパツパツなワンピースを着て大師匠を出迎えるはずです。
ーそうか、ではのちに。
ー了解。
通話は切れました。
十三
あたしは絹枝姐さんの携帯電話にかけました。
ーもしもし。あんた、あたしは忙しいんだからね、貧乏探偵と違って。
着信歴からあたしだとわかって、早口でし常に横柄な口調です。
ーヱヱ姐さんもといオーナー、お元氣ですか?
ー不動産は躰が資本よ。あんたみたいに二日酔いだから遅刻する、氣分が惡いので早退するじゃあ務まらない稼業ナンだから。要件は?
ー實はですね、ウチと懇意にしとる、ご存じでしょう、古田鐡工所のもと會長さまがあたしらにナシがあると云うので来訪したいと。絹枝オーナーにも是非参加して頂きー
ーフン、北千住か隅田か蒲田あたりの零細鐡工所でしょ?あたしは買収予定物件の視察で忙しいんだ、あんたの方でナンとかしなさいよ。〈一時間で一千万を動かせる女〉の肩書きは安くはないんだ。
ーそれがですねヱ絹枝姐さん。面識は無いとは思いますが、お付き合いのあった古田鐡工所と云うのは日本橋に在りまして、上場はしておりませんが一流會社である、あの古田鐡工所だったんですよ。そこのもと會長・古田銀次氏が面會したいと。
ー探偵事務所のオーナーであるあたしを騙くらかす氣?いい度胸してるわね。
ー本當なんですって!とにかく午後二時半頃に來て下さいよ!与太だったらあたしゃハラキリかましますから!では後ほど!イヴエンダー・ホリフイールド!
ーちょ、ちょっと待ちなー
あたしは通話を切りました。
そしてあたしは大師匠の好きなモカのコーシー豆を買いに外へ出ました。
十四
午後一時五十分、オーダー・メイドと思しき上しんな背広姿の大師匠が事務所を訪れました。「イヤハヤ、タクシーを使おうとも考ヱたのだが、代々木上原のマンションから徒歩で來てしまった。足が効かなくなったら老後は暗いからな。歩くのはいい事だ」
「どうもお疲れさまでした」もう老後じゃねヱか、との言葉は呑み込み、あたしは椅子を勧めました。「どうぞお座りになって下さい。すぐにコーシー入れますから」
「ウム」大師匠は椅子に腰掛けるとキユーバはハバナ産の髙級葉巻、モンテクリストを懐から取り出しました。「喫っても構わんかな」
「ヱヱどうぞ。ご存じの通り、あたしもヘヴイ・スモーカーですから」あたしはジヤンク市で買った空気清浄機のスイツチを押しました。「喫煙者には世知辛い世の中ですねヱ、マツタク。ビル・ワイマンですわ」
モカを啜りながら雑談をしました。
「大師匠は引退してしが浅いでしょうが、アチコチの大學や同業の親睦団躰から講演會の依頼が殺到しているんでしょうなア」
「まあ、な」大師匠はモカを一口啜りました。「辞めてすぐ経営の事など語ったら、會長業をそのまま続けているようなものであろうが。それにわしと同世代の経営者は昭和アタマゆえ、これからは淘汰される身だ。後進の爲にもならん。ゆえに丁重にお斷りしておる」
「そうですかねヱ」あたしは煙草のエコーにしをつけました。「あたしは惨めな時期の殆どを平成で過ごしてますから、昭和の方が好感持てますがな。チツク・コリア」
突然、通りにギユギユギユっと音を立て、ド派手な車が止まりました。クライスラーのPTクルーザーでした。運転席から男がおり後部席ドアを開けると、絹枝姐さんが太々しいツラ構えで降りて來ました。すぐにクライスラーは走り去りました。
十五
黒のパンツ・スーツの絹枝姐さんです。相変わらずパツンパツンでしたが、ドアを荒々しく開け事務所に侵入して來ました。「どこに居るの、日本橋が古田鐡工所のもと會長・古田銀次さんはさ」
「わしです」大師匠は柔和なしょう情をして立ち上がりました。「どうも初めまして、細川絹枝社長」
胡散臭げに大師匠の顔を見ていた絹枝姐さんはハツとし、手元の[財界通報]と云う雑誌をしろげ、落としてしまいました。「た、た、確かに〈二十世紀ノ錬金術師〉こと古田銀次會長!こ、これは誠に失礼致しました!」
「古い事をご存じで。錬金術師ですか」大師匠は眼鏡を外して笑いました。「確かにかつてわしは一部でそう呼ばれた事もあったが、社會問題となった〈豊田商事事件〉と同じようで良い氣分ではなかったですぞ」
「そ、そうでございましたかオホホホ」巨漢の絹枝姐さんは直立不動でした。
「わしも絹枝社長が京王沿線の物件を多數保有し運用していなさる事は知っているよ、それもほぼ塩漬けなし、と。ともかく」眼鏡をかけた大師匠が絹枝姐さんに微笑みました。「わしが申すのもなんだが、リラックスして下さらぬか。わしはただの年金受給者の來客で、何の権力も持っていないのだから」
「で、では、お言葉に甘えまして」絹枝姐さんはドスンと音を立て椅子に座りました。
十六
「わざわざオーナーの絹枝社長までお越し願った理由ですが」
「それは?」
「再就職のお願いです」大師匠はオツムを下げられました。「わしを調査員として雇って下さらぬか」
一分後に絹枝姐さんが言葉を發しました。「そそ、そりゃ古田會長ほどの敏腕で優秀なお方がいらしてくれるのであれば當事務所のような零細は大いに助かりますが、それ程の給与をー」
「なあに、生活費は年金と貯金、會社株の配當で充分に足る。妻は五年前に他界しておるし。給料は無償、と云いたいが東京都の平均賃金程度で充分。好奇心さヱ満たされれば充分なのです」
「た確かに好奇心は満たされるでしょうが」あたしは甲高い声を發しました。「しとのプライバシーをコソコソ嗅ぎ回っておまんまを得る、いわば下等な職業でも構わないんですかい?」
「自分の稼業をそんなに卑下するものじゃあるまいて」大師匠はモカを二口啜りました。「親父が創業者だから社長そして會長になれたとでも思っておるのか。競争相手を常に蹴落とした結果じゃ。世の中そう綺麗事ばかりでは生きて行けんよ」
あたしは腕を組みました。「敗け続けの人生を歩んどるあたしにはナンとも云ヱませんが」
「で、どうですか、絹枝社長。働かせてくださらんか」大師匠は絹枝姐さんにオツムを再び下げました。
「そこまで仰るならば」絹枝姐さんは深く礼をしました。「こちらからお願い致します。給与など待遇については後ほど」
ソウして業界でも稀な、老探偵が誕生したのでした。
やがて大師匠はあたしもかつて受けた探偵業務認定試験、さらに探偵業務取扱主任者認定試験も受けて合格、公安委員會への届出などしち面倒臭い事を経て、我が細川探偵事務所の所長代理となりあたしの上役となった譯です。はい。
十七
話を現在に戻します。
午前十一時となりましたが、重要な事を忘れておりました。
「大師匠、写眞がまだでしたね、あたしとした事が。すぐに現像してお見せします」
「それにしても」大師匠は経済誌を置きました。「お前が使うローライ・フレックス二眼とミノックスCキャメラなんて半世紀前の骨董品だぞ。新しいものが総て良い譯ではないが、ディジタルのキャメラに変えようとは思わんのか」
「仰ることは良く分かりますが、ローライとミノツクスの形は今の時代には奇抜すぎて、たれもキヤメラだと思わず〈不思議な箱〉〈ライター〉だと思うので堂々と隠し撮りが出來ると云う利点が在ります。安価なスパイ・キヤメラと呼ばれる超小型キヤメラも在るのはモロチン知っておりますが、ドウも安かろう惡かろうってイメージが在りまして。それと今の時代、プライバシーを最も脅かすのはスマート・フオンだってこた、中學生だって知っておりますから。マアICヴオイス・レコーダーは重用しておりますがね、はい」
「まあ調査に支障をきたさねばそれで良い」
「了解しました。ドウ・ザ・ハツソー」あたしは二階にこさえた暗室へ向かいました。
十八
フイルムの現像、しょう白、水洗を経て安定、乾燥させ写眞が出來上がりました。枚數は二十枚、これだけあれば充分でしょう。これもしつ要経費として計上せねばなりませんが、マ、その辺りの計算は大師匠にお任せです。
「大師匠、出來ました」あたしは写眞を大師匠に手渡しました。
「ウム」大師匠はそれらを受け取り、一枚一枚じっくり見ました。「絹枝社長は無藝大食の居候デブときつい言葉でお前をどやしつけるがな、写眞に関しては及第点じゃ。ピントはしっかりと合っておるし、ブレはないし感度も良い」
「ほめられて恐悦至極ですが」あたしはオツムを掻きました。「あたしの腕では在りません。それがローライとミノツクスの名器たる所以です」
「図にのって盗撮などするなよ」大師匠は鞄から布に包まれた箱を取り出しました。「昼飯を喰いながら写眞を吟味する」
あたしは大師匠の弁当の中身を見ました。「相変わらず玄米と麦などの雑穀米、小魚の佃煮、五目豆、小松菜のおしたしですか。老人こそ肉を食べなけりゃならんのですよ、ましてや金持ちナンだから。禅の坊主じゃあるまいし」
「わしは昔から鶏と魚以外の肉はあまり喰わん。食生活を変えるのはいまさら面倒なんでな」大師匠は箸を持ちました。「お前こそ炭水化物と脂質を抑え、素食にしろ。長生き出來んぞ」
「あたしだって食生活を容易に変えるこたむつかしいですよ」あたしは首を振りました。「と云う譯で、あたしは豚そば大盛りを食べてきます。しばしの欠落を」
「だったらもやしを多く喰ヱよ」
「ハイヨー・シルヴアー」あたしは大師匠の声を背に、事務所を出ました。
十九
六号通りを幡ヶ谷駅方面へ南下し、甲州街道までやって來ました。街道沿いの豚そば屋で大盛り九五十円を注文しました。マア大師匠の助言通りにもやしを増やしましたが、流石に齢五十は目前なので、残さず丼を空にするのは辛かったのですが、デブの面子にかけて平らげました。
店を出て甲州街道、そして六号通りを戻りました。四年ほど前はド派手な居酒屋が開店しては三ヶ月足らずで居抜きで売られていたり、老舗の文具屋や洋菓子屋などなどが廃業したり閉ざされたシヤツターにスプレーの落書きだらけと活氣が失せていたのですが、今はオシヤレで行列が出來るパン屋や美味いタコス屋にエスニツク料理屋、甘味処や古着屋などが開店しワンルーム・マンシヨンが新たに建てられ活氣が在ります。何だかんだ云っても幡ヶ谷に本町は全國的に名が知れた渋谷区ですからな。
その反面、絹枝姐さんの會社が所有・管理しておる甲州街道向かいの西原はあんまし發展は在りません。マ、向こうは閑静な住宅地として昔から名高いですからな。この辺りで絹枝姐さんの會社が物件は我が事務所のビルヂングのみで、他を手放して損したと會うごとにコボしております。
二十
「ただいま帰りました」
大師匠に挨拶すると、読んでいた歴史雑誌から目を上げるなり、すぐに目を落としました。「ニンニクを汁に入れたのだろう。臭うぞ」
「は、すいません」大師匠にオツムを深く下げました。
それから事務所の掃除、オフイス・サプライの点検と注文、キヤメラの調整、昔扱った案件の資料整理などを終え、時間は午後三時となりました。
あたしは大師匠のデスクに向かいました。「大師匠」
「何じゃ」
「今廻の調査が最終日です。対象マルタイがついに一線を越えるやも知れません。ですから今夜はしと晩中の張り込みとなるやもしれませんので、仮眠を許して頂きたいのですが」
「それは構わんが」大師匠は歴史雑誌に目を落としながら應ヱました。「対象者とホステスさんが深い仲になると思っておるのか?」
「結婚だって不倫だって妥協の産物でしょ。コロナ禍がしと段落してああ遊び惚けておるので、可能性はし定出來ません」
大師匠は腕を組み、しばらくして口をしらきました。「分かった。対象者の〈出勤時間〉の頃までは寝てても良い」
「ありがとうございます。ジヨージ・ロメロ」あたしはオツムを下げました。
「マア起こしてやるつもりだが、自分で起きて來い」大師匠は雑誌を捲り、あたしに手を振りました。
「了解です」あたしは事務所を出て階段を上がり、三階の寝床でランニング・シヤツにステテコ姿になりマツトレスに横たわりました。
二十一
携帯電話がポール・バターフイールドのブルーズを奏でました。時計を見ると五時丁度でした。あたしは麻の上下に着替ヱて一階事務所へ向かいました。
大師匠は上着を着ていました。「用意は出來たな」
「ヱヱ、取り敢えずは」あたしは頷きました。「大師匠はご帰宅ですか?」
「いや」大師匠は咳払いをしました。「わしも行く。そして対象者に接触する」
あたしは眼ん玉をみしらきました。「依頼人と対象者、互いに通ずるってのは如何なモノかと。いいヱ、職業道徳に反するモノではないかと思うのですが。もしかして大師匠、敵対する相手を煽って互いに自滅させるちゅう、し情な心算で?」
「わしはダシール・ハメットではない」大師匠は笑顔を見せました。「それは違う。依頼人たる妻は離婚を考ヱておらんと仰ってたし、対象者は尾行されるとはつゆ知らずで少々羽目を外している程度。探偵としてはどうこうと云ヱぬが、出來れば穏便に済ませたいのがわしの思いじゃ」
「具躰的にはどうなさるんで?」
「マアそれは現地に行ってからじゃ。出るぞ」
「はあ」
大師匠とあたしは事務所を出ました。
二十二
事務所を出てすぐの水道道路を左折ツマリ西へ歩いて向かい、笹塚出張所の交差点を左折し笹塚駅に到着しました。時刻は六時をちょいと過ぎておりました。
「わしが赴くと云ったからにはわしの責任であるが、対象者は果たして來るのだろうか」大師匠はセイコーの高級腕時計を見ました。
「二日尾行した後はここ笹塚で待ち伏せに切り替えたでしょ、あたしの判断で。ワン・パターンなニンゲンなんです、はい。そこが小役人の悲しさですねヱ。躰制の歯車にはなりたくねヱもんだ。アル・クーパー」
「お前は高校生か。成長のない奴だな」
「フン、大師匠が如く東大の工科を卒業し名経営者と称された伯楽や、あたしらの血税で定年まで勤務し恩給を貰える公務員どもに、社會の底辺におるフナムシの怨念は永遠に分からないですようだ。おんや」京王バスから降りて來たオトコを指差しました。「彼奴が到着です」
やや禿げたカーリー・ヘア、出來の惡いヘチマに穴と切込を入れたが如くの顔、地味な紺色のスーツ、革靴とスニーカーの区別のつかない足元。それが調査対象者のオトコ・遠藤貢でした。
大師匠はジヨン・レノン眼鏡を外しレンズを磨くと再びかけました。「家庭や仕事を犠牲にしておんな遊びにウツツを抜かす御仁には見ヱんな」
「今のトコロはですけど」あたしは懐から手帳を取り出しました。「メルクマール京王笹塚にある居酒屋[鳥尚]で景氣づけに一杯、そして目當ては観音通りのビル二階にあるスナツク[ハスリン・ダン]へ向かうのが決まった行動です。このプライバシーがすぐに晒される世の中で、あれだけ身辺に無防備なのは珍しいですよ。たれにも行動は察知させぬよう振る舞う、これぞあたしのポリシーでさア」
「そんなものが信條と云ヱるか」大師匠は再び腕時計を見ました。「ほれ、遠藤氏に近接するぞ」
あたしは首の関節を鳴らしました。「下手に騒がれ大ごとになっちまったらウチはお終いやも。覺悟しといて下さいね」
大師匠は呑氣にも欠伸をしやがりました。「わしはとうとう隠居、お前は再就職活動か」
「そんときゃ古田鐵工所に口利きお願いしますよ」
腹を決めて遠藤の後を追いました。
二十三
遠藤は店のカウンターで、焼き鳥をアテに生ビールを呑んでおりました。あたしたちはボツクス席で、大師匠はスコツチ・ウヰスキイの銘品オールド・パーをボトルで注文しました。焼き鳥とモツ煮はあたしが注文したのですが、大師匠は文句を云いませんでした。スコツチ・ウヰスキイと焼き物、和洋折衷ですかね。
大師匠は懐からモンテクリストを抜き咥えるとしを点けました。「ともかく遠藤氏が一杯呑み干したらこちらに招け。話はわしがつける。くれぐれも粗暴な言葉を用いるのではないぞ。ただでさえお前は不審人物なのだから」
「分かってますがな。ウイレム・デフオー」
遠藤が一杯呑み干すと、あたしは遠藤の許へ向かいました。
「これは遠藤さん、ご無沙汰しております」あたしはオツムを下げ、遠藤の隣に腰かけました。
「あ、どうも」遠藤はあたしの顔を〈何ものだ、このデブは?〉と云いたげなしょう情を浮かべ見ました。
「イヤア、マダマダ油断は禁物ですが、コロナが減少して何よりですわ。この店もアクリル板を撤去しておりますよね。風通しが良くて心地よい。これでこそハナキンの開放感が、って死語ですか、ともかく楽しまなければ。あたしや今年休みを貰ったらフエリーで門司へ行きそこから鈍行で九洲一周を目論んでおるんですがー」
「あのう、大変失礼なのですが」遠藤に怯えた眼で顔を見らました。「何処でお會いしたのか、あなたさまのお名前を失念してしまいました。恐縮ですが、お名前を伺っても宜しいでしょうか」
「名刺と云う譯では在りませんがね」あたしは遠藤とホステスさんがヂユヱツトしているサマを盗み撮りした写眞を上着のポツケから抜き出し、遠藤に手渡しました。「マア、こう云った次第でして」
遠藤のしょう情が、焼き鳥串を呑みこんじまった時に浮かべそうなモノとなりました。「ゲゲゲ!」
「取り敢えずハナシは向こうのボツクス席で話しますから、お越し頂けませんかねヱ」あたしは大師匠へ手を向けました。「勘定はあたしらが持つと云う事で」
遠藤は黙って頷き、あたしの後をついてボツクス席に移りました。
二十四
大師匠は立って遠藤を迎えました。「これはこれは。我々の招きに應じて頂き礼を申し上げますぞ。取り敢ヱずお掛けになって下さい」
遠藤は顔面神経症が如く顔をシクシクさせ、項垂れて席に腰を下ろしました。
「スコッチはお呑みになりますか?」大師匠が問いました。
遠藤は伏せ眼がちながらも大師匠に顔を向けました。「ではロックで」
得躰の知れぬ老人とデブを目前としても酒を求める、こりゃ肝が据わっているか観念したかのどちらかですね。あたしはグラスに氷を放り込んでオールド・パーを注ぎ、遠藤の前に置きました。
遠藤はグビグビと、半分も飲み干してしまいました。こう云うのは酒が好き強いと云うのではなく酩酊を楽しむ属性ですな。
「あのう」口を袖で拭った遠藤は目を落としました。「幾らお支払いすれば良いのですか?」
「ヤツパシ、ソンな應対になりますよねヱ」あたしは口出しました。「しを重ねずホステスちゃんの上浦美譜音さんとのほぼ連日が逢瀬。一般企業ならともかく区の公務員がやっちゃっているんだから、白日の元に晒されたらソリヤ痛いでしょうな」
「これ、そんな物申しでは〈我々は脅迫者である〉と抜かすのも同然ではないか」
大師匠にオツムをしっ叩かれました。「痛ヱなあモウ」
「確かにそう思われてもしょうが在りませんが、強請りタカリの輩では決して在りません。とにかくもう一杯」大師匠は遠藤のグラスにオールド・パーを注ぎました。
遠藤は注がれたグラスを両手で握りしめ、半分空けるなり眼を落としました。
「荒唐無稽な話だが聞いてくだされ。こほん」大師匠はオールド・パーをしと口呑み、モンテクリストをふかしました。「わしとこの男は、とある調査機関に属しております。尤も、わしは定年を迎ヱても老骨にムチ打つ再雇用なので、殆どが補助・雑事調査です。この太った男と共に」
遠藤は視線を大師匠に移しました。「と、と、と云う事は。警視廳の公安とか、あるいは外務省の外事とか内閣調査室などの諜報員、所謂エージェントですか?」
「ご思像力に富んでいらっしゃる。何者かは申し上げられませんが、あくまで日陰で生きる者です」大師匠はオールド・パーをしと口呑みました。「それにしてもそんな途方もない存在を匂わす我々を口先の徒であるとかペテン師であるとは思われないのですか」
「ぞ、存じ上げないやも知れませんがグレアム・グリーン、ジョン・ル・カレやフレデリック・フォーサイス、ケン・フォレットの小説を學生の時分から今でも愛読しておりまして、はあ。創作である事は分かっておりますが、そのような機関は日々暗躍していると思っております。いい歳をしてですが、恥ずかしい話です。大學ではミステリ・サークルに属しておりまして」遠藤の声はスパイ冒険小説愛好家のくせにか細いモノでした。「でで、出くわす、いヱ眼をつけられるもとい、お會いするとは夢にも思いませんでした」
「確かにフィクションは面白いモノですが、わしはジョージ・スマイリーなどでは在りません。実際の現場は華やかさとは無縁、泥臭いモノです」大師匠はオールド・パーを口にしました。「下っ端にとっては」
「そうです、か。創作と現実は云うまでもなく異なるモノなのでしょう。生意氣を抜かしますが」遠藤はグラスを握り、氷が溶けるサマを見つめていました。声はさらに弱々しくなりました。
「本題に入りましょう」大師匠はモンテクリストを灰皿に置きました。「その前に、ここで我々に接触した事をすぐに忘れるのならお話ししますが。約束出來ますか」
「は、はい、約束致します」遠藤は深く頷き背筋を伸ばしました。
二十五
「まず、調査対象者はあなたではないのでご安心を。我々が調査していた人物、それは日本人とも外國人とも、男とも女とも。違法や犯罪などとは申し上げられませんが、その人物はこの界隈から代々木あたりまでと、随分な活動をしております」大師匠はモンテクリストをふかしました。
遠藤は黙ってオールド・パーが注がれたグラスを握りしめていました。
大師匠は続けました。「対象者、マルタイへの執拗な調査は我々よりも格上の部署、セクションです。外様とも窓際とも云ヱる我がセクションは、対象者が訪れる特定の場所や飲食店などでの存在並びに接触者の確認です」
「わわ、私が調査対象、或いは接触者に?冗談じゃ在りませんよ、私はただ、無能ではありませんが平凡だけが取り柄の公務員でー」
「マアお聞き下さい」再び大師匠の弁が始まりました。「そのマルタイは狡猾で神経質な人物なので足取りを追う事が困難でしたが、その人物にも隙が在る事が分かりました。これはわしとこの男の功労、なんて大層なモノでは在りませんが、他のセクションが見逃していた事です。それは笹塚のスナック、ハスリン・ダンを週に二、三度来店する事でした」
「ムグウ」遠藤は貧乏ゆすりを始めました。
「我々はハスリン・ダンに入り、マルタイの所作を監視しておりました。そうしたらですな、日を置かずにあなたを目撃するようになった。マア見た限りに於いて典型的な人畜無害、失礼、一般の市民なので関係なかろうと思っておったのですが、あまりにも頻繁なのでマルタイとの縁があるのかと、影で調査を行なった譯です。まずは仕事とは云ヱ個人情報保護に抵触する事なので謝罪致します」
酒が周った遠藤の眼でしたが、スパイ小説愛好者の哀しさからじっと大師匠の眼を見つめておりました。
「〈マルタイに関係の在る可能性を有する者〉区役所勤務・遠藤貢さん齢四十五。出生地は埼玉県、住居は東京都杉並区方南、妻に一男一女と飼い犬はビーグルの名前マル。チナミに土地名義は夫人の照子さん」
あたしはオールド・パーをグラスに注ぎました。これは調査なんかしておりません。カミさんとの打ち合わせ中、興奮した夫人が聴いてもねヱを事をつらつらと語った事でした。はい。
遠藤の躰が小刻みに震えました。
二十六
「続けましょうか」大師匠はオールド・パーのグラスを空けました。「ホステスの上浦美譜音さん、齢二十七。出生地は東京、世田谷区北沢在住。K立音楽大學音楽學部、ジャズ専修中退。ギター奏者の男性と同居中。なお男性はライブ・ハウス中心の活動だが、有名アーティストのアルバムにも録音参加経験在り」
「ヌウウ」遠藤はグラスを握りしめ過ぎて、貴重なオールド・パーをこぼしちまいました。「男運がなくて独り身が寂しいと囁いてたのに。あの娘は」
「ビリー・ホリデーと同居するのがチャーリー・クリスチャンならば文句なしではないですか。あなたもそう思いませんか?」大師匠はモツを口に放り込みました。
「ぬはあ」遠藤は肩を落としました。
「とにかく結論を申し上げますが」大師匠はオールド・パーに氷を放り込みました。「我々が調査したあなたの情報ですが、ファイルには残さず我々の部署で消去致します。他のセクションにも報告しません。お約束します」
「ヱ、わ、私が申し上げるのもナンですが、それでは無駄働きではー」
「大した働きはしてません」大師匠はオールド・パーをしと口呑みました。「我々は危機管理データ・ベース構築に必要とされる情報収集の爲に働いているが、全躰主義的な監視・管理社會を望む譯では決してないのです。いささか大袈裟だが、お分かり頂けますでしょうか」
「はあ」
「ですが、マルタイと全く関係しないあなたの情報が、何かの間違いで漏洩する可能性はゼロとは云ヱません。そうなった時、あなたがたには何かしらの迷惑がかかり、我々の信用も失われます。ですから情報は初めからなかったモノで在り、今後も我々とは一切の関係は在りません」大師匠は遠藤のグラスにオールド・パーを注ぎました。
遠藤は黙ってグラスに眼を落としました。「そうして頂けると」
「遠藤さん、ハスリン・ダン、上浦美譜音さん、他。マルタイとは何の縁も関わりもなかった。しかし老爺、いや老婆心で申し上げるのですが、店に通うのは程々になさった方が良い。余りに頻繁ですと他のセクションが着目し動き出す可能性も在りますからな。あとは」大師匠は鋭い眼で遠藤を見つめました「上浦さんにも店のスタッフにも、ここで話した事と我々の存在は他言厳禁ですぞ。それにハスリン・ダンのお客に詮索の眼差しを向けてはいけません。店の営業妨害となりますからな。これらを忠言したくあなたと接触したのです。お約束出來ますかな」
遠藤はグラスをしと息で煽りました。「は、はい、お約束します」
「ナシはまとまりましたね」あたしは口を挟みました。「ではこの件についてはおしらき。得躰の知れねヱ連中から、一歩間違えたら脅迫まがいの真似されたんですから、サゾ肝がしヱた事でしょう。ですから今夜はこのままお帰りになって、ご家族に肝を温めて貰うのが得策かと。モロチン、勘定はこちらで持ちますから。エデル・ジヨフレ」
「そうさせて頂きます」遠藤は鞄を抱ヱ、いそいそとボツクス席を立ちました。「失礼致します」
遠藤は多少ふらつきながら店を後にしました。
二十七
「イヤア、さすが元大企業の経営者だけ在りますな。法螺はデカいほどバレないと云うけど、よくもああ胡散臭ヱ嘘八百をよどみなく云ヱるモンだと目方が減る思いでしたがねヱ」オールド・パーをグラスに注ぎ、二口呑みました。「そうやって株主や銀行筋をだまくらかしてたんでしょ、今まで」
「マア、な」大師匠は煙を吐きました。「近からずも遠からず、と云った所だ」
「でもねヱ、しがないとは云ヱウチは公安委員會に届出をしとる探偵事務所ですぜ。零細事業。ああたはそこの所長代理。事案によってマルタイに接触した上、虚偽の報告をするナンざ探偵のすべき事じゃねヱですよ。今更抜かしてもしょうがねヱですけど。あの小心者がホステスさん眼当てに入り浸っていたのは事実なんですよ。おっとろしい女房に折檻されたとてあたしらの知った事では在りませんわ」
「マアそう云うな。確かに入り浸っていたが、深い仲となった譯ではないのでお灸をすヱるだけで充分だと判断した。家庭をぶち壊す事になるのは氣が咎めてな」大師匠はモンテクリストを灰皿に押しつけました。「明日に依頼人の夫人がやって來るが、その説明もわしが考えて行う。その後に遠藤氏が遊び呆けるのなら、わしは知らんよ」
「暮らしの相談所、じゃないんですよウチは。大師匠は大岡越前守忠相じゃないし、ぶつぶつ」あたしはオールド・パーに手を伸ばしました。「取り敢ヱず用事は済んだので、しさしぶりにサシで呑もうじゃないですか。オールド・パーなんて高ヱ酒、あたししとりじゃ呑む機會が殆どありませんので」
あたしの手を叩いて、大師匠はオールド・パーに栓をしました。「遠藤氏に偉そうな説教しておいてなお呑み惚けるのはわしの道徳観に合わぬ、お前はウワバミであるし。であるからこれでお開きじゃ。であるがまだ半分程残っておるから、無論ボトルをキープする。マア呑みたいなら、いつでも呑んで構わぬ。泥酔し、醜態を見せぬ限りに於いてな」
「分かりましたよ。あの小心者が心変わりし鉢合わせする可能性もあるので、隅っこの方で静かに呑みますから」
「では店を出るぞ」
大師匠とあたしは勘定を済ませ、店を出ました。
大師匠はタクシーに乗り代々木上原のマンシヨンへ、あたしは徒歩で本町の事務所まで帰り、事務所で報告書を作成し終えると三階へ上がり、部屋のマツトレスに横たわり眠りにつきました。
二十八
土曜日です。目覚めると日課のシヤドー・ボクシングを始め、終えると朝風呂へ行きました。時間は午前八時十五分頃。書類は全て揃い大師匠の眼も通っておるので準備万端です。あたしは玄米を三合炊き、近所の二十四時間営業と云うタフなスーパー・マーケツトで購入したイワシとサンマの缶詰がおかずで即席の味噌汁とひきわり納豆、欠かせないのが焼酎ハイボールちゅう寂しいけど惨めじゃないぜ、てな朝食を済ませました。
麻背広に着替えて一階へ降り事務所の玄関から入ると、大師匠は既に出社しておりました。
あたしはオツムを下げました。「おはようございます、大師匠」
「ウム、おはよう」
あたしは昨晩に書いた報告書を渡しました。大師匠はそれとこれまでの調査報告書を熟読し、写眞も吟味しました。
「いかかです?」
「特に問題はない。遠藤夫人がこちらに参られるのは午前十時半。それまでお前は事務所の掃除をしておれ」
「はいな。アンジエイ・ワイダ」
あたしは机を雑巾掛けし、床のチリを掃除機で吸い込みました。氣がつくと事務所のガラスもすすけていたので、バケツと洗剤を用意し拭きました。トイレは特に念入りに掃除しました。ナンせ客商売でも在りますから、だらしなさや信用感と云うのはこういう点に現れてしまうものです、はい。
「こら」大師匠の声が聴こえました。「お茶葉がもうないぞ」
「ありゃ、切らしちまいましたか。早速買いに行って参ります。ソフトマシーン」
あたしは再び近所のスーパーへ向かい、割と高めの玄米茶を買い事務所へ戻りました。おっと、領収書を忘れるところでしたわ。
二十九
「御免下さい」
お局仲井もとい花柄のワン・ピースを着た遠藤夫人が事務所を訪れたのは、大師匠が経済雑誌を、あたしが春画の写本を読んでおった時で、午前十時二十五分でした。
「これはようこそお越しになりました」大師匠は腰を曲げオツムを下げました。「ではあちらの應接スペースへ」
大師匠と遠藤夫人が向かうと、あたしは急須に買ってきた玄米茶をいれました。
茶碗二つを盆に乗せ、大師匠と遠藤夫人の前に置くとあたしはオツムを下げ退散しようとしました。
「これ」大師匠はあたし呼び止めました。「調査を行ったのはお前だ。詳細な説明責任が在る」
「承知しました。セルジオ・コルプツチ」
あたしのしょう情は梅干しが如くになりましたが、惡さはサホドしてませんから、説明は殆ど大師匠がやってくれる筈。あたしは席につきました。
しばしお茶碗に口づけておりましたが、まず遠藤夫人が言葉を發しました。「調査料の二十万円は用意して來ましたが、追加料金などはー」
「發生しません。経費は頂戴しますが」大師匠は熟女殺しの笑みを浮かべました。「マア大手の探偵業者一日の料金は十万円と云うのが相場なので、一日の経費が四万円と安いので何か裏があるのかと思われるのは當然でしょう。例えば調査は手抜きであったとか、得た情報を公表したり今後も強請りの対象としたりなど」
遠藤夫人の茶碗を持つ手が震え、見るからにルイ・ヴイトン製と思しきバツグを落としちまいました。「イヱ、そのような勘ぐりはしておりません。これは眞です、断じて偽りなどー」
「マアマア落ち着いて下さい。奥様の希望通り夜に限定したので、時間も手間も然程かからぬと思った末の設定料金です」大師匠はモンテクリストを胸のポツケから抜こうとしましたが、遠藤夫人が喫煙者ではないので納めました。「とりあえず調査報告書に眼を通して頂けませんか」
三十
床に落としたルイ・ヴイトンを遠藤夫人はそのままに、調査報告書をジツクリジロジロと読み始めました。
スナツクのハスリン・ダンにはホステスさんがおりますが、客を接待するキヤバクラのような店では在りません。大師匠がチヨイスしたのは、遠藤と同僚が歓談しておる姿を写した写眞のみでした。二、三枚だけ例外が在りますが。
遠藤夫人の眼尻がだんだんと吊り上がり、報告書最後のページを読むなりテイボーに叩きつけました。「仕事だの仲間とのつき合いがどうのと抜かしてたけど、やっぱし!あの甲斐性なし!」
「いヱ」大師匠は首を振りました。「ご主人はスナックに足繁く訪れておりましたが、女性と戯れるのが目的だったのではない、と云うのが我々の見解です」
「し、しかしホステスさんと手を繋いでカラオケに興じているサマが、ばっちりと写眞に収められているじゃないですか!」遠藤夫人は大師匠に喰ってかかりました。
「ご主人を尾行調査したあたしから申し上げましょう。こほん」ナシを呑みこんだあたしは口を出しました。「ご主人は静まった場を盛り上げる爲にマイクを渡され仕方がなく。何度も断っていらっしゃいましたがねヱ。ヂユエツトや手繋ぎはホステスさんからのお誘いでしたから、大目に見ても宜しいかと存じます。トマス・モア」
大師匠に視線を移すと、かすかですが頷きました。
遠藤夫人の厳しい視線に耐えつつ続けました。「發言を盗み聞き、とは云い方は惡いのですが〈ウチの會社〉や〈オヤジ〉などの言葉がよく口から出てきましてね。これは公務につかれている方がよく外部で口にする符牒で、會社とは官庁や役所などを、オヤジとはそこの責任者や上長を意味します。お聞きしたことはありませんか?」
「い、いヱ、ございませんわ」
「ともかく真面目なご様子で、ご主人と同席していた方々も同様で在ったので、同僚との会議とはいかなくともソレナリの〈勉強會〉をハスリン・ダンで毎夜行っていたのでしょう。トータル・リコール」
「なぜ役所から遠いスナックへわざわざ?」遠藤夫人の視線がやや柔らかなモノになりました。
「近い場所で職場の話をしていたら大袈裟ですが〈不穏分子〉と、話を耳にしたご主人一派を良く思わないモノから上の方へ伝わり不名誉な扱いをされる恐れが在ります。避けるべく役所から遠くむつかしい話と縁遠いスナツクを選んだ、と云うのが古田とあたしが出した結論です、はい。マア口が滑ったのか話はマイナンバー・カードについても及びました。ヴオイス・レコーダーでの音声が在れば文句なしでしたが、使用を試みたモノの、雑音だらけで証拠には到底なり得ないシロモノだったのが残念。あたしらの報告は信用出來ませんかねヱ。ご納得出來ない様でしたら追加調査を始めますが。ポール・ボウルズ」
「いヱ」遠藤夫人は茶碗に口をつけました。「生真面目な主人と思うには若干の抵抗が在りますが、再調査は結構です」
三十一
遠藤夫人は床に落ちたヴイトンをしろい調査報告書をしまうと、中から封筒を取り出しました。「お手数をおかけしました。調査料です」
「ご納得して頂けましたか。では失礼ながら、改めさせて頂きます」大師匠は封筒から札を抜き数え、二十枚在る事を確認しました。「では領収書を。但書は〈調査料〉でよろしいですか」
「はい」
収入印紙を貼り印鑑を押した領収書と共に、大師匠は封筒を遠藤夫人に渡しました。「これは今廻の調査における諸経費のコピーです。ご自宅でお眼を通して下さい。不必要な支出、とご判断されたらその分は振り込まなくても結構ですから」
遠藤夫人はハンケチを抜きデコを拭きました。「いい、イヱ。全額お振り込み致します」
「そうですか」大師匠はオツムを下げました。「では一週間以内にお願い致します」
マ、浮氣の疑いで探偵に調査を頼んだ事ナンざ亭主には報告出來ないでしょうから、領収書もゴミ箱行きなんでしょうがねヱ。いヱ、息子か娘の素行調査と責任転嫁するやも知れません。
「どうもお世話になりました」遠藤夫人は立ち上がりました。
「それが我々の仕事ですから」大師匠も立ち上がりました。「礼には及びませんよ」
あたしは出口へ行きドアを空け、去る遠藤夫人を見送りました。「今後の夫婦円満の爲に、探偵に調査依頼した事は忘れた方が良いですよ。余計なお世話ですね。デニス・ホツパー」
遠藤夫人は無言で会釈し、タクシーが來るなり乗車して去りました。
三十二
死語となりましたが半ドン、土曜日の今日は半日出勤です。仕事は済んだので着替えて新宿の場外馬券場へ行こうと思ったのですが、大師匠が蕎麦を一杯奢るとおっしゃるので近くの[老行庵]と云う老舗で奢られる事にしました。大師匠は鴨南蛮蕎麦、あたしは大盛りおかめ蕎麦でした。ついでに、睨まれながらもレモン・サワーを頼みました。
「これから遠藤家に何が起きるか分かりませんが、余計なお世話ながらもホンを書き丸く収めましたね」あたしはグラスを半分空けました。「しかし、これで案件はゼロ。マア我が細川探偵事務所はオーナーである絹枝姐さんトコの節税事業所、タツクス・ヘイブンみてヱなモンですから赤字だ赤字だと顔を青くするこたねヱ。あたしみてヱな生來の怠けモンにとっちゃあ唯一の救いです」
「依頼人がなくともする事はあろうが」大師匠はレノン眼鏡を外しクロスで拭きました。「法律の勉強をしろ。わしらは弁護士でも代書屋でもないが、知識が在らば依頼人の信用が増すぞ」
「駄目ダメ、法は」あたしはグラスを空にしました。「かつて行政書士の資格を取ろうとした事がありましたけど、たかが民法のオベンキヨーで一年費やしたんですよ。無駄な時間でした」
「何も資格を取れと云っておるのではない。身につけていて損はないと云っておるのだ」
「ソウ云う案件が來たらウチの顧問弁護士、大師匠の後輩で在る村岡センセにご指導を賜りますよ。あの爺も喰ヱねヱ狸ですから。アブドーラ・ザ・ブツチヤー」
「向上心がない奴だな」大師匠は眼鏡をかけました。「相続問題の案件はこれから増えると云うのに」
蕎麦が來たので箸を手にし、大師匠とあたしは黙ってすすりました。
三十四
喰い終ヱると勘定を大師匠が支佛いました。二千六百円でした。
大将がおあしをキヤシユ・レジスターに収めると明るい声を發しました。「そういや古田センセ、今日は半休らしいね。何か用事あるの?」
「いや、何も」大師匠は首を振りました。「かと云って代々木上原の一人住まいに帰っても電気水道代がかかるだけだから、事務所で大人しくしておるよ。期待は出來んが、依頼人からのメールや電話があるかも知れん」
「麻雀はどう?今夜は店を早仕舞いして、いつもの面子だけど八百屋の柴田さん、電器屋の立花さん、そして〈リャンメのケン〉と卓を囲むつもりでね」
「ほう、鳥取へ出張中の片桐健作さんが戻って來ておるのか」大師匠のお眼々がぎらりんとしかりました。「ならば是非、参加させて頂こうかね。相手にとって不足はない」
棺桶に片足を突っ込んでいても、麻雀が最大の趣味なのです。とにかく強い。あたしなんかは麻雀の勝敗は運と偶然の産物だと思い込んでいるのですが、だとしたら大師匠は大層な強運の持ち主ですね。
それに較べ、競馬は血統や騎手成績などの緻密な研究と、當日の馬場状態などの幅しろい推察の結果です。麻雀談義を始めた二人を残し、あたしは新宿の場外馬券場へ向かいました。
結果ですが、土曜日どころか日曜日も惨敗で総額四万円も敗けました。ブラツク・ドツグ。
執筆の狙い
最近日常が描けないので明治を舞台に書いておりますが…探偵小説も難しい門です