転校生からの贈り物
わが友よ、己が夢を解き明かし、書きしるすこそ詩人の業(わざ)。疑うなかれ、人の子の真なる幻影は夢に現れる。すべての詩歌、文芸は、真なる夢を解き明かすことに外ならぬ。
(ワーグナー作、『ニュルンベルクのマイスタージンガー』第3幕より)
その夜、妻の麗子は、水月(みづき)の十四歳の誕生日を祝うため、秋の味覚をふんだんに使った手料理を並べた。
「栗ご飯、上手く炊けてる?」
「うん、まあまあ」
娘はケーキの上の苺をつまみ、口に含んだ。その指の動きと、薄紅色の唇が妙に大人びて見えた。
「水月、行儀が悪いぞ」
「あなた、今日は怒らないで」
「口紅をつけているのか?」
「別にいいじゃない。それより、水月に友達ができたのよ」
娘は集団を嫌い、一切友達を作ろうとしなかった。担任からはクラスで浮いていると聞かされ、私はずっと心配していたのだ。
「水月、その子、どんな子なんだ?」
「知らない」
「知らないってなんだ」
「あなた、もうやめて」
娘はティッシュで口を拭くと、面倒くさそうに言った。
「先週、転校してきた子」
娘はクラスメイトなど相手にもせず、家でピアノばかり弾いていたのに、その転校生とは初対面で打ち解けたと言うのだ。
「水月、一体どんな子なんだ?」
「その子もピアノが好きみたい」
「それだけか?」
「そうよ。あたし、ピアノの練習するから」
「待ちなさい!」
階段を駆け上がる足音がして、木のドアが閉まる音が響いた。
「あなた、怒ってばかりいないで、ワインでも飲んで」
妻は高級な赤ワインを私のグラスに注いだ。
妻はお嬢様育ちで、お金の使い方を知らない。それがまた私をイラつかせる。
「君がピアノなんて買い与えるからいけないんだ。それも、あんな高価なものを」
「いいじゃない。楽しいんだから」
二階から、いつもの曲が響いてきた。モーツァルトの幻想曲ニ短調(K.397)だ。
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト。私は、この希代の変わり者の音楽に、娘が影響され過ぎないかと心配していた。
「あの子は天才よ」と妻は言うが、音楽で成功するなんて並大抵のことじゃない。なのに妻は、「あの子は一流のピアニストになるわ」などと言って喜んでいるのだ。
私は注がれたワインを飲み干すと、自分で二杯目を注いだ。
それにしても、なぜ水月は、その転校生に心を開いたんだ? クラスメイトを歯牙にも掛けない娘が、初対面で打ち解けるなんて、どう考えてもおかしい。
娘は贈り物を受け取っていた。古い映画を録画したディスクだ。
『ノストラダムスの大予言』
就寝前にその映画のことを調べたら意外な事実が判明した。世界の終末を描いたその映画は、被爆者への差別的な描写が問題視され、発禁となっていたのだ。
それを伝えようと娘の部屋へ行くと姿がなく、私は階下へ降りて行った。
居間の明かりが消えていた。そっと中に入ると、娘が暗闇の中で、その映画を食い入るように見ていた。
私は大画面に映る映像に目を奪われ、その場に立ち尽くした。
乳白色に濁った川。空を覆う光化学スモッグ。巨大なナメクジの大群。喜んで投身自殺をする若者たち。カニバリズム。暴動、殺戮、核戦争。
放射能の影響で奇形化した人類は、巨大なミミズを奪い合って食べていた。
おどろおどろしい映像に頭がくらくらし、思わず「そんなものを見るな!」と声を上げた。だが娘は振り向きもせず、じっと画面を見つめていた。
翌朝、私は急な発熱に襲われた。だが、重要な会議があるため、休むわけにはいかなかった。
居間で妻と一緒に市販の薬を探していると、娘が扉の横に立っていた。
「お父さん。この薬、よく効くわよ」
私は製薬会社に勤めているので薬には詳しい。しかし、それは初めて見る小瓶で、十個ほどの白いカプセルがガラス越しに見えた。
妻が娘に聞いた。
「どうしたの? その薬」
「頭痛がするって言ったら、友達がくれたの」
「転校してきた子?」
「うん」
一抹の不安がよぎったが、高熱でラベルを読む気力さえなく、よく考えずに一個だけ水で流し込んだ。すると急に体が楽になったのだ。
会議は午後一時から十八階の会議室で始まった。
我が社は七年前から遺伝子製剤の開発に取り組み、一年前に画期的な薬の開発に成功した。
企業秘密だから詳細は言えないが、遺伝子に働きかけ、免疫を強化する飲み薬だ。
しかし重い副作用があり、多数の推進派と、少数の反対派で意見が割れた。
副作用とは、長期に及ぶ激しい幻覚のこと。人での治験において、様々な異常行動が確認された。
私は反対派である。商品化できる段階じゃないことは明らかだ。
しかし、社長の第一声に驚いた。
「みんな喜んでくれ。やっと市販することが出来たんだ」
反対派は驚愕した。
「いつ認可されたんですか?」
「三ヶ月ほど前だ」
「なぜ言ってくれなかったのですか?」
すると営業部長が口を挟んだ。
「反対するだけじゃ物事は進まん」
「人での治験は終わってませんよ」
「国が認可したんだから問題はない」
天下りを利用して根回しをしたのだろう。つまり裏工作だ。
「薬害が発生したら、どうするんですか?」
「それは認可した国の問題だろ」
「そんな無責任な!」
反対派は販売の即時中止と商品回収を訴えたが、推進派は問題はないと言って譲らなかった。
会議は紛糾したが、私は熱がぶり返して意識が朦朧とし、話について行けなかった。
娘がくれた薬を飲もうとポケットから小瓶を出すと、いつの間にか空になっていた。
もう何も考えられず、ぼんやりと窓の外を眺めていると、隣にいる部下から声を掛けられた。
「凄い汗ですよ。大丈夫ですか?」
「ああ、いや、大丈夫だ」
再び窓の外を見ると、手前のビルの屋上に、セーラー服姿の少女が立っていた。
彼女は風に髪をなびかせ、じっと私の方を見ていた。間違いなく見覚えのある顔なのに、いつ、どこで会ったのか思い出せない。
彼女はゆっくりと前に歩き出し、コンクリートの縁に立つと、にっこりと私に微笑んだ。
私は窓に駆け寄り、分厚い強化ガラスを狂ったように叩いた。
「よせ! やめろ!」
彼女はゆらりと大気に身を任せ、体を回転させながら落ちていった。まるで、フィギュアがワルツを踊っているかのようだった。
会社の診療所で目を覚ますと、ベッドのそばの椅子に妻が座っていた。会社から連絡を受け、車で迎えに来てくれたのだ。
「心配をかけてすまない」
「あなた、どうしたの?」
妻に少女の投身自殺のことを話すと、そんな事件は聞いていないし、私が突然奇声を上げて倒れたと聞いている、と妻は言うのだ。
うっかり薬を飲み過ぎて、幻覚を見たのだろう。
妻は近道となる堤防道路を走って自宅へと向かった。私たちはその道を、ドライブついでによく使っていた。
私は助手席の窓を開け、風を浴びながら堤防沿いを眺めていた。川は黄昏の光を反射させ、モスグリーンの芝生が美しい。心休まる夕暮れ時の景色であった。
堤防沿いの広場では、子供たちがサッカーをし、犬を連れた人たちが散歩をしていた。
モネの絵画のような秋の風景が、私を幻想へと誘った。
時は過ぎゆき、人はただ生き終えるだけ。それでいいのだ……
そのとき、フラッシュを焚いたように一瞬景色が真っ白になった。
「今のなんだ? 雷かな? それとも隕石か? 麗子、車を止めて」
ふたりで堤防道路の側道に立つと、オレンジ色の夕陽が河口堰の向こうに見えた。
「綺麗な夕陽だなあ」
「違う。あれは夕日じゃないわ。どんどん大きくなっている」
その巨大な球体は、溶鉱炉のように眩しく輝き、溶鉄が今にも溢れ出しそうだった。それは膨張を続け、ついに閃光を放って炸裂した。
私は衝撃波に吹き飛ばされて気を失い、意識が戻ると、モネの絵画は地獄絵図と化していた。
車が横転して炎上し、付近の家屋も炎に包まれていた。
妻がいなかった。堤防を歩いて探していると、異様な臭気が漂ってきた。あたりを見渡すと、川が乳白色に濁っていて、魚の死骸と人の死体が浮遊していた。サッカーをしていた子供らも、芝生の上で焼け死んでいた。
「麗子! どこにいるんだ!」
妻はどこにもいなかった。
「頼む、顔を見せてくれ……」
私は、彼女が娘の救助へ向かった可能性を信じ、自宅へと急いだ。
道中には赤茶色に焼けた車や、炭化した黒い遺体が散乱し、生温かい風が吹き荒れていた。
しばらくすると、遠くから延々と続く人の列に遭遇した。そばに駆け寄り、彼らの姿を見た瞬間、吐き気を催した。
彼らは人間というより、ケロイドの塊で、生きていることが信じられない。全身に火傷を負い、傷口から黄色い膿が噴き出していた。
ケロイドの割れ目と化した口が、何かをつぶやいていた。
「めぐぁみよ。ひがりをぐれ……」
女神よ。光をくれ…… どういうことだ?
その行列は、雑居ビルのような建物まで続いていた。
一階は網目のシャッターが下りていたが、彼らは蟻の大群のように外壁をよじ登り、力尽きて人山を転げ落ちれば、また上を目指して登り始めた。
建物を見上げると、屋上の縁に白い靄(もや)が掛かっていた。
暗くてよく見えなかったが、雷が落ちた瞬間、その姿がはっきりと見えた。靄(もや)の正体は、白いドレスを着た少女だった。
彼女は地獄と化した下界には目もくれず、稲妻の走る空を見つめていた。
私は、超然と空を見上げる少女に恐怖を覚え、後ずさりし、その場から走って逃げた。
しばらく歩くと、漆黒の闇の中に明かりが見えた。
道中の家屋はすべて倒壊し、街は焦土と化していた。それなのに、我が家だけは無傷で、灯台のように明かりを灯していた。
玄関の鍵を開けて家に入り、リビングのドアを開けると、そこには「日常」があった。
妻は白菜を切る手を止めると、「お帰りなさい」といつもの笑顔で言った。
「君、大丈夫なの? 怪我はないの?」
「何かありましたか?」
さっぱり状況が理解できないが、とにかく娘の安否を確かめなければならない。
「水月はどこ?」
「友達と部屋で遊んでいるわ」
二階からモーツァルトの幻想曲が響いてきた。
階段を駆け上がり、娘の部屋に飛び込むと、白いドレスを着た少女がピアノを弾いていた。
神がかり的な演奏だった。低音と高音が妥協なき均衡を保ち、重奏的な旋律を織りなしていた。まるで異世界の調べを聞くかのようだった。
その神秘的な旋律と、透き通るような白い肌が、彼女が超越的な存在であることを物語っていた。
彼女は演奏をやめると、私に向かって微笑んだ。
間違いなく見覚えのある顔だ。なのに、いつ、どこで会ったのか、どうしても思い出せない。
「君は誰なの?」
「あたしは光。あなた達の希望」
「君が世界を焼いたの?」
「そう」
「なぜ希望が世界を焼くの?」
「あなた達が望んだから」
「破滅など望んでない!」
「いいえ。いつも望んでいるわ」
「世界は死んだの?」
「光が影を消しただけ」
「娘はどこにいるの?」
「あなたのそばに」
まわりを見ても娘はいない。
「娘は生きているの?」
「あの子はフィギュア」
「なにを言っている? 娘は今、なにをしている?」
「きっとワルツでも踊っているわ」
まさか、ビルから飛び降りたのは……
「水月は死んだのか? もう会えないのか?」
「いいえ、会えるわ」
「どうすれば!」
「光を消せば」
少女に歩み寄り、その首に両手を添えると、彼女は顔を上げて妖しく微笑んでみせた。
渾身の力でその首を絞めると、手の中で何かが砕け、彼女の口から鮮血があふれた。
そのとき記憶が蘇った。
嘘だろ……
体が震え、汗が噴き出し、激しく嘔吐した。その少女が娘だったのだ。
あり得ない…… これは夢だ。夢を見ているんだ!
自分の叫び声で目を覚ました。
カーテンが揺れ、朝の光が部屋に差し込んでいた。窓を開けると、澄み渡った青空が広がり、小鳥のさえずりが聞こえた。遠くの山々を眺めると、ふと溜め息がもれた。
すると、どこからかモーツァルトの幻想曲が流れてきた。
娘の演奏だとすぐ分かった。
美しい調べだった。しかし、なぜか音が重なり合って聞こえた。まさか、二人で弾いているのか。
娘の部屋の前に立ち、そっとドアに耳を当てた。
「すごく良かった。素晴らしいわ」
「お母さん、少し静かにしてよ」
「いいじゃない。意地悪な子ね」
少しドアを開けて中を覗くと、妻と娘がピアノの前に並んで座っていた。
「もう一度ふたりで弾くわよ」
「また?」
「いいじゃない。早く」
ふたりは鍵盤に両手を添え、そっと目を閉じた。一転して真剣な横顔である。
彼女たちがモーツァルトの幻想曲を奏でると、美しく厳かな旋律が重なり合い、あたりは崇高な静けさに包まれた。
麗子と水月。その姿は、音楽の神に愛される妖精のようだ。
終わり
執筆の狙い
原稿用紙13枚。約5200字の作品です。よろしくお願いします。