作家でごはん!鍛練場
綺麗の綺

神の残骸

 
 私は、神の残骸を見つけた。

 それは、旅の途中だった。もっとも、私は信心深い旅人ではないし、霊感に恵まれた博物学者でもない。要するに、暇に任せて地方を巡っていた退職教授の一人に過ぎないのだが、そんな私のような者でも、ときに妙なものを見つけることがある。

 それは、ある村のはずれの丘の上にあった。人気のない草原、あたり一面に風の音しかない。どこか見覚えのある風景だったが、記憶を辿るほどの価値もないと考え、私は歩を進めた。

 その中央に、石があった。高さは二メートルほど、ざらついた灰色、ひび割れと風化。形が妙で、中央が盛り上がり、周囲に向かって扇のように広がっている。誰かが「翼の形」と言ったら、ああそうかと頷いてしまいそうな、そんな形である。

 私はしばらくそれを眺めていた。言葉では説明しがたいが、なにやら「沈黙」が濃縮されたような雰囲気を持っていた。こういうとき、人はしばしば非論理的になる。そして私もまた、こう呟いてしまったのだ。

 「……神の残骸だな」

 「先生?」
 後ろから声がした。田中である。三十代そこそこの哲学者で、大学ではニーチェとカントを教えている。私の旅に同行するという奇特な人物で、彼の妻からは訝しがられていた。

 「神の残骸に見えるか?」と私が訊くと、田中は肩をすくめた。
 「ただの石ですよ、先生。形は変ですが」

 私はそれを否定しなかった。年を取ると、否定よりも曖昧のほうが楽になる。
 「田中君。君は神を信じるかね?」
 「哲学者ですから。私は、神の実在を前提に議論はしません」

 なるほど、と私は頷いた。私自身、かつて神について何か書いたような記憶もある。学生時代には「人は神を創造し、やがてその神に裏切られる」などと得意げに語ったこともある。懐かしい話だ。

 「……だがな。もしこれがかつて誰かにとって“神”だったら、どうだろう」
 田中は笑った。知性が笑うとき、人はだいたい物語を終わらせる。

 「先生、それは比喩ですよ」
 「もちろんだ。だが、比喩がなければ哲学も宗教も小説も生まれないだろう?」

 そう言って私は石に近づいた。手で触れてみると、ひんやりしていた。だが、どこかしら湿り気を帯びた感触もあった。生きているものの皮膚のような。もちろん、錯覚だ。

 私はポケットからナイフを取り出し、石の表面を軽く削った。
 白い粉が風に舞った。それだけのことである。

 「神の肉を削ってみた」
 「ずいぶん野蛮な信仰ですね」
 田中が笑ったが、私は笑い返さなかった。

 「田中君。無神論者でも、神を求めることはあるのか?」
 彼は一瞬黙って、それから静かに言った。
 「あります。救いが必要なとき、世界が無意味に見えるとき――神がいてくれたらと」

 私は満足げに頷いた。
 「それが、神の在り方かもしれん」

 しばし風が止んだ。奇妙に重い沈黙が流れた。沈黙というのは、思考の余白である。いや、むしろそれ自体が一種の思考かもしれない。

 「先生」
 「なんだ」
 「もし、この石が本当に神の残骸だったら」
 「……そのとき、我々は信仰の墓場に立っているのだろう」

 私は再びナイフを石に当てた。こん、と音がした。その音は不思議に、少し遅れて返ってきたような気がした。まるで、どこか深い井戸の底から応答があるような。

 「先生、今の音……」
 「錯覚だろう」
 「……ですが」

 田中の声が揺れていた。
 私はナイフを引き抜き、小さく笑った。

 「田中君。我々がこうして神を話題にする限り、神は案外、元気にしているのかもしれんな」

 田中はそれに答えなかった。

 帰り道、丘を降りながら私は振り返った。石は相変わらず、ただそこにあった。

 「先生」
 「ん?」
 「先生は、本当に神がいると思っているんですか」
 「神がいないと困るときには、まあ、いてくれてもいいかと思う程度だ」
 田中はそれを不満そうに聞いていたが、反論はしなかった。

 ただ、丘の上には石が残った。
 石は、石のままだった。





あとがき

 この物語は、神というものを直接描こうとするものではなく、「神であるかもしれない何か」と対峙したときの、人間の反応を描いたものである。

 神の不在、あるいは死――というテーマは、宗教的というより、むしろ文学的であり哲学的である。だが、結局のところ重要なのは、神がいたかどうかではなく、私たちが神について何を考え、語り、時には笑うかもしれない、というその営みなのだ。

 人は石に神を見出すこともあれば、神をただの石に還元することもある。
 そのどちらにも価値はある。むしろ、その反復の中にこそ、人間の余裕というものがあるのではないだろうか。

神の残骸

執筆の狙い

作者 綺麗の綺
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元ネタは、ニーチェの「神は死んだ」です。
前作の反省から、内容や描写を簡素化してみました。
あとがきにて、内容を補完しています。

コメント

青井水脈
softbank114048058028.bbtec.net

読ませていただきました。
前回で感想は書きませんでしたが、目を通していて。前回よりも一文ずつ簡素になって、読みやすくはなったと思いました。

◯退職した元教授と、彼の旅に同行する若手の哲学者・田中。二人は村外れの丘の上にやってきたが、そこには翼のような形の大きな石があった。教授はそれを「神の残骸」と呼んだ。

それから二人が神や信仰について話をする。内容は、わかったようなわからないような。
>「田中君。我々がこうして神を話題にする限り、神は案外、元気にしているのかもしれんな」
そうかもしれない、と思う感じですね。八百万の神とか言いますし。

綺麗の綺
flh2-133-200-164-97.tky.mesh.ad.jp

コメントありがとうございます。
前回よりも読みやすくなったと感じていただけたのは嬉しいです。文章の密度や構成はずいぶん悩んだので、そこを見ていただけたことが何より励みになります。

「神の残骸」とは何か、あるいは田中と教授がたどり着く結論が何だったのか──そのあたりを明確にしすぎないまま描いたのは、まさにご指摘のような「わかったような、わからないような」余白を残したかったからかもしれません。
私自身も「神」を語ることで、逆説的に「神」の輪郭が浮かび上がるような気がしていて、その曖昧な存在感を「案外、元気にしている」という言葉に込めてみました。

八百万の神のように、かたちも意味も無数にある「神」の在り方を、石の造形や会話の中に、少しでも感じてもらえたならうれしいです。

夜の雨
ai192177.d.west.v6connect.net

綺麗の綺さん「神の残骸」読みました。

 >私は、神の残骸を見つけた。<
から始まる掌編のようなそれでいて奥行きがある物語が面白いです。
この奥行きというのは、神に対するモノの考え方ですが。
結局は神とは人それぞれが信ずるかどうか、と言ったところだと思いますが。
「無神論者」であっても、「救いが必要なとき、世界が無意味に見えるとき――神がいてくれたらと、神を求めることはある」というのが、人間味があります。
結局のところ人は自分の心を安らかにさせるために神を信じるときもあれば、信じないときもあるのでしょう。

御作では大きな石の塊を神に見立てていますが、その石やら周囲を描写することで神を具現化させているようですね。
このあたりが描写とか情景の力といったところでは。
描写やら情景を描くことで背景が見えてくることもあるので。
御作は、それの典型的なものだと思いました。
石にさりげなく魂を表現したといったところかな。
あと哲学者のニーチェとカントが効いていますね。
三十代の哲学者が元教授に同行しているということで。
彼には妻もいるという事で、信頼感があります。
これで元教授の話に説得力が出る。

その神の皮膚をナイフで削るとは。
もちろん石の表面を削っているわけですが。

なかなか、好みのお話でした。

ありがとうございました。

飼い猫ちゃりりん
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綺麗の綺様
前より文章は良くなったけど、最初の一文がまた……
>私は、神の残骸を見つけた。
こんな短い文章で句読点はいりません。
>私は神の残骸を見つけた。
の方がスッキリしてカッコいいでしょ。
さらに、いきなり
「……神の残骸だな」では、変んなおじさんにしか思えない。
だから、事前準備が大切。いきなりぶっ込んじゃうダメ。
例えば、

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