作家でごはん!鍛練場
浅野浩二

精神科クリニック・信心深い銀行強盗・地獄の話

精神科クリニック

純は悩んでいた。それで死のうと思った。純の悩みは、彼が死んでも、それは客観的に見ても人が納得するのに十分過ぎる苦しみだった。病気、失恋、人生の挫折、孤独、職無し。それらは相互に作用しあっていたが、病気で働けないため、収入がないのが、一番大きかった。職が無く、無収入なのだから、このままいいけば、アパートの家賃も払えず、やがてホームレスになることはわかりきっていた。彼は今まで何度も精神科クリニックにかかってた事があったが、精神科医なんて、ただ話を聞いて、薬を出すだけで、今まで純は精神科にかかって、治ったことは勿論、気休めになった事も一度もなかった。それで純は精神科医を軽蔑していた。
「あんなやつら、何もわかってないし、理解しようともしない。それで薬だけ、どっさり出す。他人の悩み事を興味本位で聞いて楽しんで、威張ってやがる。治らなくたって責任を取る義務も無い。脳外科医とか心臓外科医とかなら、大変な技術が必要で、手術も重労働だ。なのに、もし万が一ミスしたら訴えられる。それに比べると精神科医なんて、そもそも手術は出来ないし、医学知識もあやしいもんだ。あんなやつら、そもそも医者なんて呼べるのだろうか。そのくせ、世間では人の心理を分析できるインテリなんて思われている。全く鼻持ちならないやつらだ」
純の死ぬ覚悟は十分できていた。
純はビルからの飛び降りで死のうと思っていた。なぜ、飛び降りに決めたかというと、飛び降りなら、新聞の三面には載るだろうと思ったからである。
「自分の人生には何もなかった。このままでは自分がこの世に存在した意味が全くないじゃないか。せめて一度くらい世間に自分が存在したことを知られたい」
純はそう思った。とうとう彼は死を決意した。
そして死を決意した日から、毎日ビルを物色しだした。
ある日のこと、彼は、ちょうど頃合いのビルを見つけた。このビルなら確実に死ねる。高さも十分ある。彼はほっとしたような、気抜けしたような気持ちだった。帰り道にある雑居ビルの三階に、「××精神科クリニック」の看板が純の目にとまった。彼は精神科医を軽蔑していたので、ふん、と不愉快な気持ちになった。看板に、「あなたの悩み、必ず解決します」と書いてある。ほーと純は驚嘆した。
随分と自信満々じゃないか。こんなのは誇大広告だ。開業したてで患者が来ないもんだから、こんな事、書いたんだろう。あるいは、ちょっと頭のおかしい精神科医なんだろう。そう純は思った。実際、精神科医には頭のおかしいのが多いのを純は今までの経験で知っていた。
「じゃあ、死ぬ前に一度かかってみようか。それで遺書に、『無能な××精神科医を怨みつつ』と書いてやろう」
と思った。それでビルに入って三階のクリニックに入った。患者は一人もいなかった。やはり無能だから患者が来ないんだろう。受け付けの女性もいない。純は受け付けの窓口から、
「お願いしまーす」
と大きな声で人を呼んだ。すると、のっそりと一人の中年男が出てきた。白衣を着ている。
「治療を受けたいんですが・・・」
純か言うと、彼は微笑して、
「私が院長です。よくいらっしゃいました。どうぞ」
と答えた。純は診察室に入った。診察室には何もない。レントゲンも無ければ、エコーもない。何も無いのが精神科クリニックである。純は院長と向かい合って座った。純は、どうせここも無能だろうと思いつつ、生きた医者の前に座ると、どうかこの医者ならば多少なりとも生きる勇気と意味を与えてくれはしないか、との一抹の藁にもすがる思いが起こってきた。純がそっと目を上げると、院長の顔は実にやさしそうだった。
「どうしましたか?」
院長が聞いた。その、やさしい口調は相手の警戒心をなくした。あ、あの、と純は口篭った。
「遠慮しないで何でもお言いなさい。誰にも言いませんし、医者には患者のプライバシーの守秘義務があります。悩みを言う事で気持ちが少しは楽になりますよ。これは精神医学用語でカタルシスというんです」
純は半分、演技しながらも、目に涙を浮かべながら、すがるように口を開いた。
「あ、あの。先生。僕、もう死にたいんです」
純は涙をポロポロ流しながら言った。
「どうして死にたいのですか?」
医者はやさしい口調で聞き返した。
「僕はもう生きていく気がしないんです。生きていく事が死ぬほどつらいんです」
純は精一杯、訴えるように言った。
「どんなことがつらいんですか?」
院長はやさしい口調で聞いた。聞かれて、純は病気の事、収入の無い事、人生に夢の無い事、彼女にふられた事、友達がいない事、などを、正直に話した。院長は黙って聞いていた。そして純が話し終えると、おもむろに口を開いた。
「それはつらいでしょう。死にたいと思うのも無理はないと私も思います」
純は、見えすた口先だけの偽善的な共感に、やっぱり、ヤブだな、と内心、失望した。
「しかし、死にたいと思いつつもあなたは今まで生きてきた。どうして死ななかったのですか?」
「そ、それは・・・」
と純は言いためらった。
「あなたは死にたいと思いつつも、生きたいと思っていたんじゃないんでしょうか?死にたい、というあなたの思いは、何としてでも生きたいという思いに他ならないんじゃないでしょうか?」
「そ、そうです。先生」
言って純は涙を流した。
「あなたは死にたいと思いつつも、死ぬ勇気が持てなかったのでしょう。死ぬには大変な勇気が必要です」
「そ、その通りです。先生。僕は死にたいけど死ぬ勇気が持てなくてズルズル生きてきたんです」
「わかりました。では治療をします。では、こちらの部屋へ来て下さい」
そう言って院長は純を立たせた。
院長は診察室の奥にあった戸を開けた。
「さあ。お入り下さい」
純は言われるまま、その部屋に入った。そこも治療室と同じように何もなかった。ただ部屋の真ん中に何か縦長の器具のついているベッドがあった。等身大の鏡くらいの大きさだがベールで覆われているため何かわからない。
「さあ。この上に仰向けに寝て下さい」
院長に言われて、純はベッドに仰向けに寝た。純は、どうせ、たいして効果の無い森田療法か催眠療法でもやるんだろうと思った。
「もうちょっと頭を前に出して下さい」
純は何をするのか疑問に思ったが、もうどうでもいいや、と思っていたため、言われたように仰向けのまま、首を前に出した。ちょうど器具の所に首が来た時、
「はい。その位置でいいです」
と院長は言った。
「ちょっと手と足を縛らせてもらいます」
そう言って院長は純の両手と両足をベッドの脚に縛りだした。随分、おかしな事をやるものだな、と思いつつも、無気力な純は、されるがままに身を任せた。院長は純の手足をベッドに縛りつけると、サッと縦長の器具を覆っているベールをとった。純はびっくりした。顔の上に鉄の刃が重そうに吊られている。
「な、何ですか?これは?」
純は冷や汗をたらしながら聞いた。院長はおもむろに純の顔を覗き込んだ。
「ふふふ。見てわからないかね。ギロチンだよ」
「こ、こんな物に僕を縛りつけて、どうしようっていうんですか?」
「治療だよ。君は死にたいけど死ぬ勇気が持てない、と言ったね。確かにその通りだよ。死ぬには大変な決断がいる。だから僕はその決断の手助けをしてあげようというんだ」
院長は薄ら笑いしながら言った。
「ウソでしょ。冗談でしょ」
純は真っ青になって言った。
「いいや。医者は、どういう治療をしてもいいという裁量権があるんだ。だから私は、どういう治療をしてもいいんだ。君は死にたいからここに来たんじゃないか。私も君の性格では、ウジウジ悩んで、苦しみながら無意味に生きるだけだと思う。いっそサッパリ死んだ方が君のためだと思う。だから、一瞬にして楽に死なせてあげるよ」
「わ、わかった。そうやって、死ぬ時の恐怖を体験させれば、死ぬのが怖くなると思っているんでしょう。なるほど。少しは考えましたね。でもそんな一時のふざけた体験は、一時的な効果しかありませんよ。どうせ、その鉄の刃は発泡スチロールか何かの作り物なんでしょう」
「本物だよ。じゃあ、証明してあげよう」
と言って院長は近くにあった人参をとってシュッと刃に当てた。人参はスパッと切れて先がポトンと落ちた。
「どうです。本物でしょう」
「ははは。なかなか本格的ですね。しかし、人を殺したら殺人罪ですよ」
「いや。君の意志で君は死ぬのだから、殺人罪ではない。殺人幇助罪だな。しかし、それも、そもそもわからなければ、罪にはならないじゃないか」
「ウソだ。先生も冗談がすぎますよ」
純は恐怖心を隠すように平静な態度を装って言った。
「冗談ではないのだ。事実を知らないまま死ぬのは、かわいそうだから死ぬ前に本当の事を言っておこう。私も最初はきれいごとを言う一応、真面目な精神科医だった。しかし、うつ病患者を長く診ていると、いつまでも、どっちつかずで、苦しんでいるだけだ。彼らにとってこの世は生き地獄なんだ。ならいっそ、死なせてやった方がいいと思うようになってね。それに、死にたいなどとウジウジ言ってるような弱虫が私は生理的に嫌いでね。彼らのグチを聞くのも、もうウンザリだ。勿論、私だって初めは抵抗があったが、慣れてくると何でもなくなってしまうんだよ。医者はみんなそうだ。いつも人の死を診ているから、死に対して感覚が麻痺してしまうんだよ。それに私はカ二バリズムの趣味があってね。人肉を一度、食ったらもう、やめられなくなるんだよ。さあ、私の言ってる事が本当だとわかっただろう」
純は背筋がぞっとした。
「や、やめてください」
純は大声で叫んだ。
だが院長はニヤニヤ笑っている。純は必死に身を捩って暴れた。
「ふふふ。私にはサディズムの趣味もあってね。人間を殺すのが、この上なく楽しいんだよ」
純はタラリと冷や汗が出た。
『落ち着け』
と純は自分に言い聞かせた。純は忍術に関心があって、縄から抜ける練習をしてみたことがあった。何回か成功した事もあった。純は院長に気づかれないように、院長に見えない方の片方の手の縄抜けを試みた。やっとのことで何とか成功した。
「先生。わかりました。ちょっと来て下さい。死ぬ前に僕の遺言を聞いて下さい」
「ん。何だね」
と言って院長は純に顔を近づけた。院長が顔を近づけたので、純は思い切り院長の顔を殴りつけた。サディストのほとんどが、そうであるように院長は弱々しく、一撃でふっとばされて転んだ。純は急いで自由になった片手で反対側の手の縄を解き、両方の足の縛めも解いた。院長がムクッと起き上がって近づいてきたので、純は院長を突き飛ばした。必死になってる人間の火事場のバガ力は強い。純は自由になると、一目散に逃げだした。走りに走った。後ろを振り返ると院長が、
「待てー」
と叫びながら追いかけてくる。純は走りに走った。
ようやく、コンビニが見えてきたので純は入った。
「いらっしゃいませー」
髪を茶色に染めた、かわいい女の店員がいた。
『ああ。人間がいる。俺はまだ生きている』
純は、その当たり前の事に感動した。
『生きよう。何としても生きよう』
そう純は誓うように思った。
結果として、純の、うつ病は、その一回の、体験で、きれいさっぱり、治った。
院長が、本当に、狂人だったのか、それとも、あれは、患者の、うつ病を治すための、芝居だったのか、それはわからない。


平成21年4月13日(月)擱筆


信心深い銀行強盗

ある所に、信心深い、銀行強盗、が、いました。
男は、キリスト教を信仰していましたが、非常に信仰心が強く、若い頃、洗礼を受け、クリスチャンとなっていました。
大人になっても、男は、強い信仰心を持ち続け、日曜日には、かかさず、教会に行っていました。
そして、三度の食事の前には、必ず、「主の祈り」、をしていました。
男の信仰心は、それはそれは、強く、聖書を完全に暗記していました。
男の仕事は銀行強盗でした。
明日は、犯行の決行の日でした。
男は、手を組み、神に祈りました。
「神さま。どうか、明日の銀行強盗が成功しますように。アーメン」
翌日の銀行強盗は、成功しました。
幸運なことに、その日、ちょうと、隣りの街で、別の銀行強盗が起こって、犯人は犯行に成功して、逃亡して、警察官が、ほとんど駆り出されていたので、警察官の人数が、手薄、になっていたので、逃亡に成功したのです。
それでも、一台、パトカーが、逃亡する、彼の車を追いかけてきました。
男は、猛スピードで逃げました。
ちょうど、先に踏み切り、が、見えてきました。
電車が、近づいてきて、カンカンカン、と、音が鳴り、踏切りの、遮断機が、降り始めました。
男は、猛スピードで、降り始めている、遮断機を、突破しました。
しかし、追跡していたパトカーが、踏切り、の手前に来た時には、遮断機は、完全に降りてしまっていたので、パトカーの警察官は、「チッ」、と、舌打ちしましたが、止まるしかありませんでした。
こうして、男は、パトカーを振り切って、逃亡することに、成功しました。
男は、その夜、祈りました。
「神さま。銀行強盗を成功させて下さりまして、有難うございます。アーメン」
しかし、銀行員の証言から、そして、防犯カメラの映像から、彼の容貌が、犯人に似ている、と、警察に通報されました。
それで、男は、参考人として、警察に呼ばれました。
男は、前の晩、神に祈りました。
「神さま。どうか、私をお守りください。アーメン」
翌日、男は、警察官の取り調べ、を、受けました。
警察官は、眉を寄せながら、男を見ました。
「あなたは、どういう人が、ということを、近所の人に聞きました。みな、あなたは、礼儀正しく、日曜には、かかさず、教会に行く、と言って、とても、銀行強盗をするような、人間ではない、との発言ばかりだ」
そして警察官は続けて言いました。
「しかし、人が良くて、教会に行っているからといって、犯罪を犯さない、とは、言いきれない。教会に行くことによって、周りの人に、善人を装っている、可能性もあるからな。そこでだ。お前が、本当に、クリスチャンだというのなら、聖書を暗唱してみろ」
警察官は、聖書を開いて、聖書のあらゆるヵ所を、ランダムに、男に聞きました。
「マタイ伝3章24節を言ってみろ」
「ヨハネ伝4章21節を言ってみろ」
「コロサイ書3章11節を言ってみろ」
「イザヤ書5章31節を言ってみろ」
男は、それに、全て、正確に答えました。
警察官は、うーん、と唸りました。
「嫌疑不十分」
ということで、男は、釈放されました。
その晩、男は神に祈りました。
「神さま。私を守って下さって、有難うございます。アーメン」
こうして男は、銀行強盗を続けました。
犯行は、はれずに、男は、80歳まで、長生きし、家族に見守られながら、安らかに死んでいきました。

平成30年5月3日(木)擱筆


地獄の話

カンダタは、地獄に落ちました。無理もありません。カンダタは、生きている時、泥棒、強盗、窃盗、強姦、など、さんざん、悪事を働いたからです。
地獄に、落ちたカンダタは、閻魔大王の前に、二匹の地獄の鬼に、両側から、両腕をつかまれて、連れていかれました。

閻魔大王は、閻魔帳を見ながら、おもむろに、
「カンダタよ。お前は、地獄、行きだ」
と裁判官のように、言いました。カンダタは、存外、素直に、
「わかりました」
と言いました。
しかし、カンダタは、口元に、ニヤッと、不敵な、笑いを浮かべました。
カンダタは、地獄の鬼に、連れられて、血の池に、連れていかれました。
右側でカンダタをつかんでいる鬼が、カンダタに聞きました。
「お前は、これから、永遠に地獄の責めに、あうのだぞ。どうして、そんなに、冷静でいられるのだ?」
と聞きました。カンダタは、自信ありげな表情で、
「それは、私は、地獄から、極楽へ、行く自信があるからです」
と言いました。
鬼は、ニヤッと、笑って、
「さあて。そう、上手くいくかな?」
とカンダタに、言いました。
血の池に、着くと、地獄の鬼は、
「さあ。入れ」
と、カンダタに命じました。
カンダタは、鬼に、言われて、素直に、血の池に、入りました。
地獄の血の池は、かなり熱く、カンダタは、
「あちちちちっ」
と、叫び声を上げました。
カンダタは、地獄のはるか上の方を見上げました。
そして、地獄の、はるか上空に向かって、
「おーい。お釈迦様。オレは、生きている時に、蜘蛛を、踏み殺さずに、助けたことがあるぞ。蜘蛛の糸を、垂らしてくれー」
と、大声で、叫びました。
しかし、地獄の上方からは、何の返事も、ありません。
カンダタは、同じ訴えを、何度も、叫びました。
「無駄だ。お前はバカだ」
と、カンダタの、隣りにいた、地獄の亡者が言いました。
「どうしてだ?」
とカンダタが、聞くと、地獄の亡者は、
「お前も、オレと同じ口なのだ」
と、一言、言ったきり、黙ってしまいました。
カンダタは、わけが、わからなくなって、夢中で、何度も、上空に向かって、
「おーい。お釈迦様。オレは、生きている時に、蜘蛛を、踏み殺さずに、助けたことがあるぞー。蜘蛛の糸を、垂らしてくれー」
と、大声で、叫び続けました。
あまり、カンダタが、しつこく、叫ぶので、とうとう、地獄の天上の方から、厳かな声が聞こえてきました。
お釈迦様の声でしょう。
「カンダタよ。お前は、愚か者だ。お前は、芥川龍之介の、蜘蛛の糸、の話を、保険にして、生きている間に、さんざん、悪事を働いても、地獄から、脱出できると、思ったのだろう。あれは、芥川龍之介の、創作だ。私は、たかが、蜘蛛一匹を、助けただけで、お前の犯してきた無数の罪を、帳消しにしてやろう、などとは、毛頭、考えていない。それでも、確かに、本当の慈悲の心から、蜘蛛を助けたのなら、ともかく。それを、逆手にとって、極楽に行こう、などと考える者に、地獄から、極楽へ行けるチャンスを、与える気など、毛頭ない。芥川龍之介の、蜘蛛の糸、の話は、極めて迷惑だ。あんな話を、作ったために、お前と同じように、蜘蛛を一匹、助けておいて、それで、極楽へ、行こうと、思ってしまった者が、あとを絶たない。お前の、回りにいる、亡者どもは、みな、お前と同じ魂胆の者だ。そして、そんな話を、作った、芥川龍之介も、懲らしめのために、地獄に落とした。のだ。しかし、まあ、芥川龍之介は、悪意があって、蜘蛛の糸、の話を書いたわけではないから、一ヶ月後には、極楽に送ってやる予定だ」
と、お釈迦様の声が聞こえてきました。
カンダタは、そうだったのか。しまった、と、嘆き、歯がみしましたが、もう、後の祭りでした。
カンダタが、ふと、視線を変えると、餓鬼道に、芥川龍之介が、紛れもなくいました。
芥川は、素早い動作で、鬼どもの、飯を掠めとっていました。
しかし、芥川は、何か、地獄の責めを楽しんでいる様子です。
無理もありません。
芥川龍之介は、「侏儒の言葉」で、こんなことを書いていましたから。

「・・・人生は地獄よりも地獄的である。地獄の与える苦しみは一定の法則を破ったことはない。たとえば餓鬼道の苦しみは目前の飯を食おうとすれば飯の上に火の燃えるたぐいである。しかし人生の与える苦しみは不幸にもそれほど単純ではない。目前の飯を食おうとすれば、火の燃えることもあると同時に、又存外楽楽と食い得ることもあるのである。のみならず楽楽と食い得た後さえ、腸加太児カタルの起ることもあると同時に、又存外楽楽と消化し得ることもあるのである。こう云う無法則の世界に順応するのは何びとにも容易に出来るものではない。もし地獄に堕おちたとすれば、わたしは必ず咄嗟とっさの間に餓鬼道の飯も掠かすめ得るであろう。況いわんや針の山や血の池などは二三年其処に住み慣れさえすれば格別跋渉の苦しみを感じないようになってしまう筈はずである」

おそらく、芥川は、生前の自分の予想が当たったことを、喜んでいるのでしょう。
カンダタは、さらに、別の方を見ました。
すると、何と、文豪の谷崎潤一郎が、鬼に責められていました。
鬼は、金棒で、グリグリと谷崎の体を責めていました。
カンダタは、どうして、谷崎潤一郎が、地獄に落ちたのか、わかりませんでした。
彼は、現世で、悪い事など、していないはずです。
しかし、もしかすると、世間では、知られていない、何か、悪い事をしたのかもしれないと、カンダタは思いました。
それで、カンダタは、閻魔大王に向かって、聞きました。
「閻魔大王。谷崎潤一郎は、どうして、地獄に落ちたのですか?彼は、現世で、何か悪い事をしたのですか?」
閻魔大王は、眉を寄せて、渋面をつくりながら、言いました。
「カンダタよ。谷崎潤一郎は、悪い事はしていない。極楽行きのはずだった。しかし。わしの前に、引き出された時、彼は、地獄で亡者を責めている鬼には、女は、いるか、と聞いてきたのだ。嘘は、言えんから、わしは、鬼には、女の鬼もいる、と正直に答えた。そうしたら、一目、その女の鬼を見せてくれ、と言ってきたのだ。わしは、彼が何を考えているのか、さっぱり、わからなかった。しかし、ともかく、女の鬼に会わせてやった。すると、彼は、極楽には、行きたくない。あの女の鬼に責められたい、と言ってきたのだ。それで、本人の所望とあれば、仕方がなく、彼を地獄に落としたのだ」
と閻魔大王は、厳かに言いました。
カンダタは、谷崎潤一郎を責めている女の鬼を見ました。
よく見ると、それは、確かに、女、の容貌をしていました。
その女の鬼は、「うる星ヤツラ」のラムに、そっくりの、綺麗で、グラマラスなプロポーションで、虎の皮の、ビキニを着ていました。
谷崎潤一郎は、女の鬼に、責められながら、「痛い。痛い。痛いけれど、幸せだ」と、叫んでいました。
閻魔大王は、渋面で、苦虫を噛み潰すような表情で、
「わしも、迂闊だった。わしは、人間の罪状だけは、閻魔帳で、全部、知っているが、それ以外のことまで、全部、知っているわけではない。彼が、マゾヒストで、女に、責められるのを好む、性癖を持っているとは、知らなんだ。地獄は、悪人を責める所で、ああいう、例外は、迷惑なのだ。地獄が地獄でなくなってしまうからな」
と厳かな口調で言いました。

さらに、カンダタは、別の方向を見ました。
すると、何と、極真カラテの、大山倍達がいました。
カンダタは、閻魔大王に向かって聞きました。
「閻魔大王。彼は、どうして、地獄に落ちたのですか。現世で、何か、悪い事をしたのですか?」
カンダタは、疑問に思って聞きました。
閻魔大王は、また、渋面を作って、渋々、言いました。
「彼にも、地獄に落ちる罪はない。極楽行きのはずだった。しかし、彼は、わしの前に、引き出された時、地獄の鬼は、強いか、と、聞いてきたのだ。わしは、もちろん、強い、と答えた。すると、彼は、そいつと、戦わせろ、と言ってきたのだ。地獄の鬼を、なめている、彼の不遜な、言い方、態度に、わしは、怒り、鬼の中でも、最強の鬼と、彼を戦わせてみたのだ。すると、彼は、最強の鬼に、勝ってしまった。こんなことでは、地獄の威厳が失墜してしまう。それで、わしは、地獄の鬼、100人と、彼を、戦わせた。すると、何と、彼は、鬼との100人組手に勝ってしまったのだ。それを、見ていた、地獄の亡者たちは、地獄の鬼とは、案外、弱いものなのだな、と鬼をなめるように、なってしまった。それで、それ以来、亡者たちは、一揆、だの、打ちこわし、だのと言って、全員で、鬼どもに反乱を起こすようになってしまったのだ。数から言えば、地獄の亡者たち、の方が、地獄の鬼ども、より、圧倒的に多い。亡者たちは、それ以来、まとまって、何度も、反乱を起こすようになってしまったのだ。そこで、仕方なく、地獄の鬼どもを、鍛えるために、大山倍達に頼んで、空手の指導をしてもらうことにしたのだ」
閻魔大王は、そう言って、大山倍達の方を、指差しました。
すると、その方向には、地獄の鬼ども、が、「エイシャ。エイシャ」と掛け声を掛けながら、正拳突きの訓練をしていました。
また、汗を流しながら、腕立て伏せ、を、している、鬼どもも、いました。
大山倍達は、鬼どもに、向かって、「気合いを入れろー」と、怒鳴って、鬼どもに、空手の指導をしていました。
閻魔大王は、
「まあ。幸い。彼の指導のおかげで、鬼どもも、強くなり、亡者たちの、一揆も、鎮圧できるようになった」
と厳かな口調で言いました。

カンダタは、方向を変えて、別の方を見てみました。
すると、何と、一人の、女が、地獄の亡者たちを、介抱していました。
カンダタは、吃驚して、閻魔大王の方を向いて、聞きました。
「閻魔大王。あれは、一体、何なんですか?」
閻魔大王は、眉を寄せて、口を開きました。
「ああ。あれか。あの女は、ナイチンゲールだ。彼女は、極楽に居たのだが、ある時、釈迦の目を盗んで、地獄に、飛び降りて来たのだ。わしは、ここは、お前の来るところではない。極楽に戻れ、と厳しく、言ったのだが、彼女は、「私の使命は、苦しむ者を介抱することです。たとえ、それが、善人であろうと、悪人であろうと、関係ありません。なので、極楽には、戻りません、と言って聞かんのだ。これには、わしも、ほとほと困ってしまった。これでは、地獄が地獄でなくなってしまうからな」
と閻魔大王は言いました。

カンダタは、方向を変えて、別の方を見てみました。
すると、地獄の鬼たちが、野球をしていました。
しかし、一人、投手だけは、鬼では、ありませんでした。
カンダタは、吃驚して、閻魔大王の方を向いて、聞きました。
「閻魔大王。あれは、一体、何なんですか?」
閻魔大王は、眉を寄せて、口を開きました。
「ああ。あれか。見てわかるだろう。野球だ。あの、投手は、沢村栄二だ。彼は、太平洋戦争で、戦死した。彼も極楽行きのはずだった。しかし、彼は、よほど、野球に未練があったのだろう。わしが、極楽行き、を告げると、彼は、極楽で、野球が出来るか、と聞いてきたのだ。わしが、極楽は、ただ、寝るだけの世界だ。と、言うと、彼は、それなら、極楽には、行かん、と言ったのだ。彼は、鬼どもは、いとも、容易そうに金棒を振っているが、オレの投げた球を、ヤツラじゃ打てん。と不遜なことを言ったのだ。それで、わしは、迂闊にも、お前の球を、鬼どもの内、一人でも、打てたら、特例として、地獄に、置いておいて、やる、と言ってしまったのだ。そうして、彼に、投げさせ、鬼どもに、打たせてみたら、彼の剛速球に、一人も掠ることが出来なかったのだ。仕方がないので、鬼がお前の球を打てるようになるまで、地獄に、置いておいてやる、と言ってしまったのだ。鬼どもも、必死に、野球を練習するように、なったのだが、未だに、彼を、打てるようには、ならんのだ。なので、彼はいまだに、地獄にいるのだ。まあ、野球も腕力を鍛えることになるから、空手と、同じように、地獄としては、不本意だが、認めているのだ」
カンダタが、野球をしている鬼どもの方を見ると、沢村栄二は、
「沖のカモメと、さすらい野球の投手はよー。どこで死ぬやら、果てるやらー。オレが死んだら、三途の河原でよー。鬼を集めて、野球する、ダンチョネー♪」
と歌いながら、剛速球を投げていました。



平成27年6月6日(土)擱筆

精神科クリニック・信心深い銀行強盗・地獄の話

執筆の狙い

作者 浅野浩二
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2021年の4月からここに投稿し出したので4年間、投稿し続けた。今年で5年目である。まだ一度も同じ作品を投稿していない。ストックが豊富なのと小説を書き続けているから。

コメント

コンコルド
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浅野さん、初めまして。
面白い作品をお書きになるんですね。面白くて4回読みました。
作風としては…似てるのは太宰治の短編といった感じですね。
小説に現実を求めるのはバカらしい、というのは分かった上で言うと、強盗が聖書を暗唱できる熱心な信者だからといって、助からないのでは…?まぁそれも含めて神のご加護かもしれませんね。
今後も頑張ってください!

浅野浩二
flh2-133-201-63-160.tky.mesh.ad.jp

コンコルド様
コメントありがとうございます。

ぷーでる
pl19249.ag2525.nttpc.ne.jp

拝読しました、どことなく皮肉めいたストーリーの数々ですね。
クスッと笑えたりもして、面白かったです。
話の内容がすんなり入ってくるので、筆力のある方なんだと思います。

浅野浩二
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ぷーでる様
コメントありがとうございます。

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