作家でごはん!鍛練場
砂丘

さよなら、オパール

(1/3)諸問題の立ち上がり

思えば、いつも若さについて考えていたような気がする。
幼い頃は休日に父の田舎の病院についていくことが多かった。その病院は白い外壁にアーチ形の窓、深緑色の瓦が特徴的なコロニアル様式の古い建物だった。そのため院内はいつも薄暗く、子供の眼にはひどく不気味な場所に見えた。大体は隣の祖母の家にいたが、時折父を呼びに行くために病院の2階にあがることもあった。2階は病棟となっており病室が十数室あった。その病室1つにつきベッドが4床あり、いつも空きは全くなかった。そこに横たわる患者のほとんどが寝たきりの老人だった。一番奥の院長室まで静かな廊下を歩いて行った。 近くには古い区役所があり12時になると正午を知らせる鐘が鳴って、それが一人で廊下を歩く自分をより感傷的な気分にさせた。
何度か父の回診ついでに病室に入り、彼らと話すことがあった。彼らは長いことその部屋にいるらしくいつもカーテンを開けて中庭を見せるようせがんだ。病室に満たされた木を焼いたような独特な匂い(どうやらそれはとある薬を飲み続けていることが原因であるようだった)、しゃがれた声と節の太く渇いた指が強く印象に残った。中学に上がる頃にはその病院に行くことはほとんどなくなっていたが、その匂いはよく覚えていた。若さについて考えだしたのは、このように老いが身近であったのがきっかけであったのかもしれない。とにかく若さというのはそれだけで価値の高いものであることに誰から教わることなく気づいていた。

それから若い時間は短く、その終わりは誰にでもそれこそ犬にさえ等しくやってくるということに気づくまで時間はかからなかった。年老いてからあれをすれば良かった、こうしていれば良かったと後悔するのでは遅すぎるのだ。無駄に時間を浪費する前に何かを成し遂げなければという焦りがあった。休日に勉強をしに図書館に行けば人気の無い書架の間で本の背表紙を眺めて自分の人生に何か有益なものがないかどうかを閉館まで探すことが多くなった。その焦りは原油のように黒々としてとめどなく溢れた。やがてそれは胸の窪みに溜まりブラック・オパールのような球体となって、絶えず心臓を圧迫した。それは大学生になるまで続いたが、大学で出会った仲間たちに囲まれて生活する中で次第に薄れていった。

彼らはまるで若さが永遠であるかのように振る舞った。バイトの給料のほとんどが服や香水、指輪などのアクセサリーに消えていった。休日は頻繁に地下鉄で1時間乗った先にある街に出てデパート、ファッションビル、古着屋を巡った。秋空の下で両脇にいくつものブランドの紙袋を抱えて歩いたこともあった。時には狭いワンルームで映画を数本観たあとにUNOをしながら夜通し飲んではしゃいだ。そうして夜がいかに長いかを知ったのだった。平日の午前中からビリヤードをしたり、喫茶店で小説や漫画を読んだりして大学を休むこともしばしばあった。先のことなんて一切考えないで、大学生としての自由をこれでもかと享受していた。
それは特にアンに当てはまった。彼女はそんな時ひどく嬉しそうで、あの甘ったるい声でこんな楽しい大学生活がまだこんなにたくさんあるなんて幸せ、と呟くのだった。そして僕はそれをいつも羨ましく思っていた。

そんな生活が2年も続いた頃、状況は突然変わった。大学2年の1月(今が大学4年の8月だから1年半前のことになる)の後期試験が終わった頃だったと思う。海沿いのイタリアンレストランに行く予定だったが、リョウとリンが急用でいけなくなってしまったのでアンと2人で電車に乗って行った。海岸線に沿って東へ進む電車からは、カモメが数羽列を成して曇った寒空を飛んでいるのが見えた。
堤防と細い道をひとつ挟んだこじんまりとした店だった。入り口の隣にはマツダのファミリアが停まっていた。店内はもはや閉塞感まで感じるほどまとまっていた。狭い店内に白いテーブルクロスの掛けられたテーブルとイスが所狭しと並べられており、それぞれの間は50cmも無いように見えた。棚にオリーブオイルやワインの瓶が無造作に並べられていた。他に客のいない店内で初めてアンと2人きりになった。彼女はFERRAGAMOの小さな丸い真珠のピアスを人差し指で撫でて、緊張してるように見える?とささやいた。僕が、いいや、と返すと、嬉しいんだよ今までこんなに仲良くした子いなかったから、と笑った。
それから料理が来るまで彼女の話を聞いた。彼女の親は過干渉でこの街で一人暮らしを始めるまで一切の自由がなかったことや、その彼女の故郷が海沿いの港町であることを知った。
パスタが運ばれてきたところで話は終わって今度は僕が話す番だった。父の病院について、院内のベッドで寝たきりであったあの老人たちのことについて話した。話をしながら、実に数年ぶりに彼らについて思い出した。彼らは家族が面会に来る時以外は孤独で、たいてい食堂から聴こえるラジオに耳を澄ませていた。それは幼い子供の目にはひどく寂しく見えた。
彼女はスプーンを添えてフォークに音を立てないように器用にくるくると巻きつけた。時折上目遣いでこちらを見つめて、目にかかる前髪を指で分けた。

ひとしきり話し終えたところで突然、若い頃に誰かを愛し愛されなければこの後誰からも愛されないのではないかという考えが浮かんだ。このままでは、あの老人たちのように人と触れあう事なく老いていくのではないかと恐ろしくなった。そこから口に運ぶだけで味はほとんど頭に入ってこなくなった。最後にデザートを食べながら外の景色を眺めた。海しか見えなかった上に曇りで変わり映えしない景色だった。
ふとアンの横顔が目に入った。彼女も海を眺めていた。見慣れたはずの彼女が、その寂れたレストランの中でただ一つ若さを持っている彼女がいつも以上に美しく見えた。誰かに愛されるために誰かを愛さなくてはいけないと思うほどに、彼女のきめ細かい肌と色素の薄い瞳は彼女の着るVivienneの暗赤色のセーターも相まってより一層眩しく見えた。
それからというもの、そのイタリアンレストランの情景が頭から離れなくなった。そしてアンのことを考えれば考えるほど胸のオパールは原石のように純粋な光を讃えたまま身勝手に膨らんでいった。

          *

そうして4人で夜を明かすのは大学4年になっても続いた。その日はちょうど医学科の前期試験が終わった8月のはじめで、リョウの部屋で飲んでいた。
大抵部屋で飲むとなると彼の部屋に行くことが多かったが、なぜそれが彼の部屋であったのかについて話せば、そもそも自習室で別々に勉強していた僕らを彼が誘ったからだ、としか言いようがなかった。自習室といっても構内の端にある50人ほどしか入らない小さな階段教室であまり勉強している人はいなかったと思う。居たとしても僕らと同じ医学生くらいなものだった。話す話題がすぐに尽きてしまいいつも困ってしまっていた僕らを引っ張ってくれたのは彼だった。そんな彼に甘えていくうちに、自然と4人は共同体としての基礎を築いていった。特にサークルに入っているのは彼だけだったから、他の3人にとってこの半径10メートル以内の小世界が生活の全てとなった。それからそれぞれの友人が増えても定期的に集まるようになっていた。

時計を見ると既に23時を回っていた。アンとリンは追加のお酒を買うために近所のコンビニまで行っていた。テーブルにはビールの空き缶やアブサンの瓶が並べられていた。リョウは冷蔵庫の上からブラックニッカの黒い瓶を出して、ナイトテーブルの白いあかりを頼りにこちらまで持ってきた。いつからか僕らは部屋を薄暗くして飲むようになっていた。緩やかな眠気に誘われて心地よく酔うことのできるような気がしたのだ。彼は戸棚から取り出した4人分のDaVinciのロックグラスにロックアイスを落とした。僕は部屋の隅でブランケットに包まっていてちょうど互いの表情がわからない距離だった。
「アンのことが、好きなんだ。」
リョウは急にそう言った。彼の切り出し方がいかにも彼らしかったから、すんなりと飲み込めた。曲がったことが嫌いな性格で、だからこそ変に言葉を濁すのを嫌がったんだろう。けれどそう言われるまで全く気がつかなかったから、中途半端な返事しかできなかった。
「そうか、全く気づかなかったよ。どうしてそれを今?」
彼は恥ずかしそうに人差し指の腹で整った眉を触った。
「いや、別にヨウには話しておくべきかなって思ってただけで、」
リョウはスプーンで氷を軽く混ぜた。その長い指には馬蹄のモチーフを象ったシグネット・リングがはまっていた。彼は他にもさまざまなリングを持っていた。
「ヨウは恋愛には興味がないかい?」
「そんなことないよ。まだ好きな人がいないだけだよ」
僕はそんな彼から目を逸らしたくなって、横の本棚から天使像の置き物を取ってゆっくりと撫でた。それは目を瞑ったまま胸の前で祈るように手を合わせた少女像で、前にリンが落として割ってしまって、リョウがアロンアルファで繋げたものだった。
「リンなんて可愛いじゃないか」
「リンは、恋愛に興味ないと思うよ」
不思議と彼とアンを取り合おうとは思わなかった。彼が僕の中であまりにも完璧で、僕自身が心酔していたからかもしれない。天使像を本棚に戻すと彼はまっすぐ僕を見つめていて、その動揺を隠すように控えめにタバコの箱を手でいじった。
「最近リンが車買っただろう? 慣らしも兼ねて次の土曜に砂丘に行くのはどうだ? ヨウ、行きたいってずっと言ってたじゃないか」
「いいね」

砂丘に行くのは夕方に決まった。僕の車にリョウが乗って、リンの車にアンが乗って行くことになった。リョウはFred Perryの黒のポロシャツを着ていた。彼が案内してくれた抜け道を通ったこともあり僕らの方は予定より早くついてしまって、砂丘の入口の横にある堤防の上に座って海を眺めた。ぬるい風は時折吹くが、西陽が強くまだ暑かった。サーファーが数人波打ち際でしゃがんで談笑している。波の音と彼らの声だけが聞こえた。
「リョウはここに来たことがあるんだっけ?」
「ちょうど17歳になる数日前に自転車で日の出を見に行ったことがあった。2月の風の強い日だったから寒かったな」
「何をしたんだい?」
「とりあえず砂丘の端まで歩いていったんだ。でも、その時よりも今は随分綺麗に見えるよ」
彼は海の照り返しに目を細めた。その後しばらく堤防沿いの道を眺めていると遠くからリンとアンが歩いてくるのが見えた。アンが大袈裟に手を振った。

それから僕らは大学のことなどいろいろな話をしながら、砂丘の終わりまで歩いていった。解剖の教授が試験監督中に寝てたんだと行って笑い合った。一日中、日に焼かれて熱くなった砂が足の指の隙間に入っていった。アンはそれが気に入らないようで途中からDr.Martensのサンダルを脱いで裸足で歩いていた。強くなる西陽と対照的に海は暗い色をしていた。遠浅の海岸であることもあり、波はパレットの上で緑と白をざっくり混ぜて作ったばかりの深いエメラルドグリーンようなそんな形容し難い色をしていた。渚にはいくつかの流木が転がっていた。振り返って砂丘の入口が遠くに見える頃には潮の匂いには慣れていた。そのまま15分ほど横並びで歩いていった。
砂丘の端は市内を通る川の河口となっていた。対岸は車の廃棄場のようで錆びた車がいくつも並べられていた。リョウはこの河から流れた砂が溜まってこの砂丘が出来ているんだと言った。すごい長い時間がかかったんだね、とアンはいつもより楽しそうだった。その子供っぽさの残る、はにかみ笑いが彼女のチャームポイントの一つであった。

月曜の朝、車のエンジンをかけると効きが悪くなっていてエンジンがつかなかった。(その後エンジンが故障していることがわかり、修理に出している間の数ヶ月はバスで大学に行く羽目になった。)ちょうど通学に僕のアパートの前の道を使うリンに迎えにきてもらった。
「ヨウの車、アコードだっけ、そんな古かったんだ」
「長く父親のセカンドカーだったからね」
「あんなに綺麗な白なのにね」
「あれは一回塗り直してるんだ」
話は自然とリョウのことになった。
「リョウって本当、かっこいいよな」
「ね、私たちをいつも引っ張ってくれて。博識だしね」
リンはハンドルを握る方と逆の手で鼻筋を触りながらそう言った。
「それこそ私、看護科の子がリョウのこと気になってるって聞いた気がする」
「そりゃあリョウ、喜ぶんじゃないか」
「リンは好きな人、いないの?」
ちょうど左折するタイミングで彼女の返事が返ってくるまで5秒ほどあった。
「私は全然。」
そして彼女は小さく吹き出した。
「どうしたの? 急に。ヨウらしくない」

その日は 1 ヶ月半の長期休み前最後の授業日だった。研究棟の隅の生理学研究室での実験実習の日で駐車場に着くと、リンと研究棟まで早足で歩いていった。白衣を来た学生たちには1人1匹ラットが与えられて、注射器を使ってそれらの腹腔内にさまざまな薬品を入れて行動や反応の変化を観察した。僕のラットはハロペリドールを入れられた。入れてしばらくはダンボールのしきりの中で動き回っていたが、5分ほどするとしきりの角でうずくまって動かなくなった。
その後の教授の説明によると、この実験の後そのラットたちを奥の部屋に置かれた犬のケージほどのガス室に入れて安楽死させるようだった。その話を聞きながら動かなくなったそれを手のひらに乗せて指で包むと温かく、心臓の拍動が感じられた。あと短い命が少しでも温もりを感じられるよう、そしてそれが安らぎに変わることを願った。遠くの席で相変わらずアンが寝ているのが見えた。

休みが始まって数日経った日に、リンから18時にダリで待ってる、と連絡があった。ちょうどシャワーから出た時に気づいたので返信をして棚からヘア・アイロンとワックス缶、ムスクの瓶を取り出した。iPhoneでTito FontanaのTema Di Un Poetaをかける。この曲を聴きながらアンのことを考えているうちに、アンについて考えるだけで自然とこの曲を思い出すようになった。まるでパブロフの犬のようだった。電球の切れた洗面所は湯気と夕方の光に包まれていて、鏡の水滴をバスタオルで拭くと痩せた貧相な裸体がぼんやりと映った。

予定の時間より少し早めに着いたがリンは既に来ていた。文庫本を読んでいて、何かと聞くとサリンジャーの『フラニーとズーイ』だと言った。その喫茶店『ダリ』は店内は狭く寂れていて客もまばらであったが、まだ喫煙可であったため2人はあしげく通った。壁にはベラスケスのラス・メニーナスなどいくつかの絵画が金のアンティーク調の額縁に入れられて飾ってあった。いつもバーガンディのソファーチェアにもたれてタバコを吸いながらこれまでの生活、過去の友人達、家のことなどさまざまなことを語った。僕は兄から勧められたことでマルボロを吸い、リンは父親の寝室から盗んで吸ったことがきっかけでショートホープが好きだった。 2人とも共通点が多く滅多に話題が尽きることはなかった。2人とも実家の裕福さをひどく嫌っていて、むしろこの6年間でどれだけ緩やかに陳腐になれるかを密かに挑戦しているようだった。リョウはタバコなんて吸いたくないと言って来なかった。アンにはこの店の存在すら話したことがなかった。
「アン、また試験落ちちゃうとキツいよね」
「そうだね、明後日結果が帰ってくるから落ちちゃったら再試験までの2週間、また勉強教えようか」
リンはアルミの灰皿に灰を落とす。
「あんなの教授が悪いのよ。1年のときなんて20人も留年したじゃない! そんな低学年で大量に落として何になるのよ」
切れ長の目、すっと通った鼻筋が特徴的な顔そのままの、はっきりとした物言いが彼女の魅力だった。ニヒルな印象の中に小さな熱があるのだった。

「ねぇ、僕はアンのことが好きなのかもしれない」
彼女は吸いかけのタバコを灰皿に落として目を丸くしていた。そしてその動揺を僕に気づかれるのを嫌がるように窓の方に目を逸らした。小さく息を吸っていつものようにあの落ち着いた調子で口を開いた。
「唐突ね、」
「だけど、まあ、それが叶いそうにないんだ、詳しくは言えないんだけど。よくわかんなくなったんだ」
彼女はコーヒーカップに手を伸ばして、少し口に含んだ。
「どういうこと? アンに好きな人がいるってこと?」
僕は言葉に詰まって何も言えなくなって、そのまま2人は黙ってしまった。先に沈黙を破ったのは彼女だった。
「ねぇ、答えになってないかもだけど私は誰かのために生きたいの。それだけを目標にしてるの。ヨウもそうすればいいじゃない?」

2日後の夜、アンから2つの試験を落としたと連絡があった。いつも何かしらの試験を落とすアンを再試験までの期間は、他の3人が交代で教えるようになっていた。再試験は9月の初週で、まだちょうど3週間あった。またみんなで勉強を教えようという話をした。

リョウから、いつもヨウとリンの行っている喫茶店に行きたいと連絡があった。はじめてのことだった。少し早く着いて彼が来るまで薄いコーヒーを飲みながら窓の外を眺めた。タバコをポケットから取り出そうとしたところで、黒のビートルが駐車場に入ってくるのが見えた。
「いつもここで吸ってるんだろう? 別に俺は構わないよ」
彼はテーブルの向かいのソファーチェアに座って僕のジーンズを指差した。
「いや、いいんだ」
彼は遠慮すんなよ、と笑ってmargielaの財布を机に置いた。親から貰ったものらしくひどく日に焼けていて、リサイクルショップで売ったとしても値がつかないのではないかと思うほどだった。それからいつもここでリンと何をしてるのかなどを話していたが、アンにいつ告白するのか、という話になった。タイミングが難しいんだ、と彼は苦笑いをした。
「すぐ告白すればいいじゃない」
付き合うよう、口をついて出ていた。
「アンのこと、好きなんだろう?」
リョウは下を向いたまま、リングをいじった。
「なぁ、いい日があって悪い日があるんじゃなくて、ずっと中途半端な優しさに包まれた日々が続けばいいのにな」
リョウはちょうど今間違ったことを言ったかのように苦い顔をした。そして、少し身を乗り出して言い足した。
「でも、ヨウ含めてこの4人は大切に思ってるし、付き合っても俺らは変わらないからな」

1990年着工の大学の医学研究棟は白い壁に焦茶色の塗り床や扉が特徴的なアール・デコ調の造りで、当時の有名な建築家がデザインしたものだった。前の小径を取り囲むように軽く湾曲していた。そこに解剖学室や寄生虫学室などの大小さまざまな研究室が敷き詰められているものだから、迷路のように入り組んだ構造になっていた。
その日は1階のロビーの来客用のソファで、アンとリンが教授室に質問に行っているのを待った。サークルの集まりが午前で終わるリョウと合流して、昼食を食べに行く予定だった。
ソファに座ったままあたりを見回した。窓の外の木々の影が無機質なフロアの壁や床に写ってさまざまな形の模様を作っていた。内は基本的に一日中薄暗いが、建物の周囲が日陰になっている分8月にもかかわらず涼しかった。部屋の前には黒いガラス板に白字のゴシック体で各教室の名称が書かれている教室札が掛けられており、それが落ち着いた雰囲気をもたらす事に成功していた。学生が本館から実習目的で来る時や教授に用がある時以外は人の往来は少なく、常に埃っぽく渇いた匂いに包まれていた。午後が休講になった日はよくここで文庫本を読んでいたものだった。

あいにくその日は何も持ち合わせていなかったので、暇になって館内を散策することにした。鍵のかかっていない防火扉を開けて、幅1mもない狭い階段を上っていった。2階の端に見慣れない通路を見つけて、進んでいくとその通路は別棟への連絡通路となっていた。別棟には1階へと吹き抜けになっている広間があり、その天井には丸く大きな天窓があった。そこから焦茶色の床に溢れんばかりの光が差しこんでいた。それは今にも天窓が割れ天使が降りてくるんじゃないかと妄想するほどに美しく、ここだけ永遠と時が止まっているかのように見えた。ここにアンが居て写真でも撮れたらどんなに良いだろうと思った。きっと彼女は満更でもないような表情で上を見上げながらいい場所ね、と笑うのだろうと思った。

リンは、夜に知らない道を走る時にだけ両手でハンドルを握った。それ以外は片手でハンドルを握って、空いた手で鼻や頬を撫でながら気怠げな風にしていた。その日はリンに夜景を見に行かないかと誘われ、夕食後に彼女の運転する車に乗ったのだった。リンはChillfarの白のトラックジャケットを着て袖を軽く捲っていた。照明灯の灯る環状線を抜けてしばらくすると展望台へと続く峠道に出た。緩やかなカーブを何度も曲がりゆっくりと登って行った。リンの車は中古のフィアット500で、イタリア車特有のエンジンの振動が心地よかった。おまけにリンの運転は上手で、そう伝えると、こんなの、走ればすぐ上手くなるよ、と得意げに言った。それから、父親がミニバンに乗っていていつも後部座席の彼女に怒ったものだからなるべく小さい車が良かったのだと笑った。窓を開けると風が心なしか冷たくなっていた。気づけば僕らの街はひどく小さく見えた。
到着すると展望台とは名ばかりで、峠の途中の少し開けたところに自販機と10台ほど停まれる駐車場があるだけだった。僕ら以外は誰もいなかった。車から降りて黙ったまましばらく景色を眺めた。大学周りは森になっていることもあり何も見えず、僕らの住む街は地下鉄の終点がありそれに比べれば多少あかりがついていた。その代わりいつも地下鉄に乗って遊びにいく近くの都会の夜景は眩しく、息を呑むほど綺麗だった。

しばらく眺めた後、少し離れた自販機に2人分の水を買いに行った。自販機の側には黄色街灯があり虫がぶつかり続けていた。戻ってきて彼女に差し出すと、受け取る代わりに夜景の方を向いたまま小さく聞いた。
「ねぇ、前にアンのことが好きだって言ってたじゃない?」
彼女は顎を引いて軽く唇を噛み、恥ずかしそうにした。
「ああ、」
「何かしら理由があって、告白しづらいのはわかるわ。でも、」
そこで思い切ったように、こちらを向いた。潤んだ目を拭おうともしないで、困ったような泣き顔のような表情をしていた。
「告白すればいいじゃない。でも、私は無理なら誰かと付き合えばいいと思うの!」
瞬きができず時間が止まったような気がした。
彼女は手を肘に添えるようにしてお腹の前で組んでじっと動かさなかった。
「なんで私、早くヨウに告白しなかったのかしらね」
彼女の瞳は夜景が反射し涙でコーティングされ宝石のように潤んでいた。それが彼女の打たれ弱く、それでいて真の強い性格を表していた。
「大学生活ってどれだけ短いんだろうっていつも思うの。私はみんなと違って父さんの病院を継ぐために3年後には地元に帰んなくちゃいけないから。だから、前にヨウがアンのことが好きって聞いてこれを言うか本当に迷った」
彼女は言葉を選びながらも押し出すように声を出していた。そこではじめてリンもこの大学の6年間に対して自分と似たような考えを持っていたことを知った。
「私は、好きな人と少しの間だけでも一緒にいられたらっていつも思ってた!」
そこまで聞いて僕はしゃがんだ。呆然としてしまって、買ったばかりのジーンズが砂で汚れることなどどうでも良かった。彼女もタバコに火をつけてゆっくりと腰掛けた。勢いよく吸い込みすぎて、吸い込んだ途端にむせた。しばらく彼女の咳き込む音だけが響いた。
「ごめん、ややこしくなっちゃったね」
「いいや、中途半端に喋った僕が悪いよ」
彼女は俯いたまましばらく顔をあげなかった。

帰りは行きと違って黙ったままだった。僕はエンジンの振動を感じながら窓の方を見て、何かを考えるかように頬杖をついていた。彼女は駅前の長い交差点で停まった時にやっと口を開けた。
「ねぇ、返事はヨウの中で整理がついてからで良いからね」
時刻は既に0時を回っていて街を歩く人も車すらも見かけなかった。
「私は若い時間が簡単に終わってしまうって誰よりもわかってると思うの。他の人が嫉妬するくらい美しい生き方をしたいの。だからこそうんと魅力的な人間にならなきゃいけないのよ。外見も、内面も」
信号が変わって彼女はアクセルを踏んだ。それと同時に小さくこちらに聞こえるかどうかすら怪しいほどの声量で呟いた。
「美しくならなきゃ」
その消え入りそうな声がいつまでも耳の奥深くに残り続けた。

家に帰ってからしばらく全く寝られなかったのもあって次の日に目覚めたのは正午だった。パスタを茹でながら、タイマー代わりにiPhoneで4人の録音を流した。いつからか次は同じことをするとは限らないからなるべく4人で何かをする時は動画や音で記録することにしていたのだった。耳をすませていると、ちょうどろうそくを探しているようでどうやら去年のリンの誕生日の時のものだとわかった。
『リン、誕生日おめでとう!』
『俺たち3人から、安物だけどプレゼントがあるんだ』
『なんだろう』
丁寧に包み紙を開けているのだろう、数秒間何も聞こえなかった。
『えっ、指輪!?』
『そう、ヨウがいつも何もつけてないしこれがいいんじゃないって。リョウのいつもつけてるやつとほとんど一緒だけど』
『ありがとう。でも、なんで私の指の大きさ知ってるの?』
『ほら、リンっていつも飲むと寝ちゃうじゃない? あとはこれがあればね』
そうしてアンは脱獄囚が看守に盗んだ鍵束を見せるように、リングゲージを指にかけて得意げに見せてみせたのだった。たった1年前のことなのにひどく昔のように思えた。

そして気づけばアンの部屋で勉強を教える日になっていた。朝の閑静な住宅街をしばらく歩くと見えてくるアンのスウェーデンハウス風のアパートは、半年前に来た時よりも汚れて見えた。おまけにアンの部屋も以前よりも散らかっていた。洋服棚の上には畳んでいない服が山積みになっており、汚れたシンクの中は多くのマグカップで埋め尽くされていた。アンは僕がその掃除をしている横で勉強していた。一人で使うには大きすぎるテーブルの上はコーヒーの空き缶、先輩からの資料、いくつかの医学書でいっぱいになっており、彼女は椅子代わりのソファに座ってそれらに埋もれるようにして机に向かっていた。
教えると言ってもそれは大抵リンとリョウが来た時のみで、アンと2人きりの場合は掃除をしたり彼女と向かい合って本を読んだりして時間を潰した。誰かがいるだけで集中できるからいいの、と彼女は言った。それは単に自分がアンとそんなに成績が変わらないために、教えると余計に時間が掛かるからかもしれなかった。そのまま3時間ほど疾患についてまとめ続けていた。
アンはいい意味でも、悪い意味でもスローペースであった。それは、彼女の存在が僕らの緩衝材となることもあれば彼女自身への甘えになることもあるからであった。だから何を教えるにも時間がかかるのだ、と前にリンが不満をこぼしていた。途中、水と氷をもらうために冷凍庫を開けると、差し入れのレディーボーデンがたくさん入っていた。なんだかんだ言いつつ一番真面目に教える、世話焼きなリンが買ってきたんだろうと思った。

13時になったのでアンと近所の新しくできた喫茶店に行くことにした。静かな店内でブラウン管テレビで無声映画を流していた。アンは他の喫茶店と差別化を図っているようでいいね、とそれを褒めた。僕らの街は喫茶店の多い地域でレストランが潰れたと思えばその跡地に建つのは、決まって喫茶店かドラッグストアのどちらかだった。
何か2人で話しているうちに次に4人で観る映画の話になった。アイスクリーム・トーストをナイフで切りながら彼女は次はローマの休日を観たいと言った。ジャムが彼女の唇について、それをついたままにしていた。途中で彼女はそれに気づいて、なんで早く指摘してくれなかったのかと怒った。再試験に慣れている彼女はまだ切羽詰まってない様子だった。それから食後のコーヒーをゆっくり冷ましながら飲んだ。
「おかしいよね、私しっかり今まで勉強してきたはずなのに。どうも医学となると頭に入ってこないの」
「誰にでも得意不得意はあるさ」
「ねぇ、私の話をしていい?」
頷くと彼女は高校の頃の話を始めた。
「私の親が、母親も父親もなんだけどね、厳しくってほとんど娯楽なんてなかったの。スマホは持ってなかったし、高校生の頃はYouTubeも親のパソコンでみんなが起きてくる前の早朝にたまにしか見なかった。友達が休み時間に話をしててもほとんどついていけなくて、愛想笑いをするだけだった」
彼女はそう一息で話して涙目になった。悲しかったからというよりは、自分の過去を人に話すのに慣れていない様子だった。
「だから、楽しいことなんてないって諦めてたの。それが、この街にきて楽しいことはあったんだって気づいたの。リンに教えてもらってネットを使えるようになったし、夜更かしして遊ぶこともできるようになった。本当にみんなのおかげ」
通りからクラクションの音がして、彼女は小さく首をすくめた。
「ねぇ、なんかヨウも何か話してよ。私ばっかり照れ臭いじゃない」
僕は父の話をした。彼が自分とは違って叩き上げの人であること、自分がいかに不真面目に生きてきたかを話した(高校生の頃に家出をしたことまで。それは今思えば慣れない話をしてくれた彼女へのお返しのつもりだったのかもしれない)。アンはその間静かに聞いていた。あのイタリアンレストランぶりに彼女を独占することができて、カップを持つ手が震えて仕方がなかった。

それから1日ごとに3人で交代で教えあって何度かアンの部屋に行った。彼女の部屋に行くごとにテーブルの上のコーヒーの空き缶は増えていった。アンは時折ソファに寝転がって天井を見上げ、リョウは丁寧すぎて中々進まないしリンはスパルタで大変、と冗談めいた調子で愚痴をこぼした。その様子が容易に想像できておかしかった。
再試験の近づいてきたある日彼女が試験問題の過去問を解いている間、ふと思い立って大学ノートにあの2年前に訪れたイタリアンレストランの間取りを描いた。テーブルの配置から、厨房のワインボトル、家具の一つ一つまで意外にも鮮明に思い出せたことに驚いた。あの時一緒に行ったアンが向かいにいて、きっとあの場所にここまで思入れがあるのは僕だけなのだろうと思うと、妙にくすぐったくなった。

それから1週間が経って、再試験が終わった。試験の終わる時刻にアンからすぐ、2つとも受かったと思うと連絡が来て、みんなグループラインでわざとらしいくらいにオーバーに祝福した。それに丁寧にスタンプを送るアンはひどく嬉しそうだった。その後彼女からひさしぶりに映画見に行かないか、と提案があって早速翌週に予定が決まった。

ちょうどゴッド・ファーザーの再上映が都会の映画館でやっていることを知り、地下鉄で街の方まで向かうことにした。レイトショーで時間帯が遅いこともあって電車の中は人がまばらだった。空調が効いていて、次第に汗ばんだ肌は渇いていった。リンとアンが座ってその対面に僕ら2人が吊り革を掴んで立った。思えばリョウはいつも席が空いていても1人で立っていることが多かった。
リンが試験はどうだったの?と聞くとアンはリンが教えてくれたところがちょうど出て解けたんだよ、と返した。再試験は教授の温情で例年よりも簡単になったようだった。都会の駅に近づくにつれだんだんと乗客は増えてきて、最終的にはリンとアンは横から押され抱きあうような形になった。その状態でアンはみんなのおかげで乗り越えれたんだよ、と小さく言うものだから、おかしくて他の3人で吹き出した。みんなで話しているけれど、まるでアンを中心として回っているようで、前と違ってぎこちなく感じた。

上映後、映画館の廊下でリンとリョウがトイレに行っているのを待った。荷物を横に放って壁にもたれかかった。映画館内は人はほとんど居なくなっていて照明の明るさをダウンライトに落としてあったため薄暗く、ゴミ袋を広げた清掃員が数人シアタールームに入っていくのが見えた。上映時間は3時間と長かったためLサイズのポップコーンを買ったがその大半が余ってしまって、アンが大事そうに抱えていた。あたりにはキャラメル・ポップコーンの甘い匂いがずっとしていた。
「ヨウはどこが印象に残った?」
「巨大な権力には責任が伴うってアル・パチーノが言ったところかな」
「そんなところなの?」
彼女は愉快そうに、周りの静けさを気にして控えめに笑った。
「私はやっぱりマイケルがタッタリアを撃つシーンと最後の悲しそうな奥さんのシーンだったなあ」

それから2人と合流して、駅前のベンチで残りを食べた。遅い時間であるにもかかわらず人が多くいて、アン以外は人混みに辟易としていたこともあり、アンだけが上機嫌だった。
「こんなに人といたこと、初めてなの」
終電が近かったので少し早足でホームに向かった。リョウの革靴、リンのパンプスとアンのブーツの靴裏がタイルに当たって鳴る渇いた音が心地よかった。彼らは着飾って、背筋を伸ばして歩いた。そんな彼らをいつも後ろから眺めたものだった。前を歩く3人を見て、この時間が永遠に続けばどんなにいいだろうと思った。

(2/3)内向的な当事者たちの祈り

休日の大学の自習室にはまだ再試験も終わったばかりなのもあり、昼過ぎになっても誰も入ってくることはなかった。おまけに構内の端には滅多に人が来ず一日中静かであるため、誰かの足音すら聞こえてこなかった。その日は階段教室のちょうど真ん中の席でも窓からの木漏れ日だけで十分手元が見えるくらいよく晴れた日だった。電気をつけずに薄暗い中であの大学ノートに途中まで描いたイタリアンレストランのスケッチを、数日前に買ったスケッチブックに書き写していった。3時間ほど経って誰かが近づいてくる音がして、講義室の前のドアが勢いよく開いてリョウが入ってきた。彼は人がいると思ってなかったようで驚いた顔をしていた。通路の階段を上がってボストンバックを放り、僕から2段下の机にこちらを見上げるようにして腰掛けた。彼はそのまましばらく後ろの壁を見つめて、時折ブラインドカーテンが風に揺られて窓枠にぶつかり音を立てるのに耳をすませているようだった。
「ヨウが勉強しに来てるなんて珍しいな」
「まあね、家じゃ集中できないから来ただけだよ」
「なあ、話していいか」
いいよ、と答えてスケッチブックを閉じた。
「昨日アンに告白して、好きだけど考えさせてって言われたんだ」
彼は神経質そうに指のリングを触った。彼の手癖は時に彼の言葉より雄弁で、リングをいじるのは彼自身何も言葉が浮かんでこないことの表れだった。
「良いじゃない。きっと突然言われたから、戸惑ってるんだよ」
そう伝えてもまだ彼は押し黙ったままだった。

シャワーを浴びて髪を乾かしているとiPhoneの着信音が鳴った。それはアンからの着信だった。ドライヤーを切り壁にもたれかかるようにしてしゃがんだ。
「今電話いい?」
「かまわないよ」
「数日前にリョウに告白されたの。びっくりしちゃって返事できてないんだけど」
いつもよりもアンの声は小さく震えていた。
「まだ戸惑ってるんだよね」
「うん。それもあるけど、」
それから少し間があった。
「やっぱり付き合うのやめようと思って。私、好きってどういうことかわからないの。ヨウ、私はどうしたらいいと思う?」
電話口に何かが擦れる音が聞こえる。彼女が髪を指に巻き付けてそれを解いて、いじってるんだろうと思った。
「ねぇ、少し質問してもいい?」
「うん」
「リョウって正直いいやつじゃん」
「うん」
「博識で話も面白くて。おまけに気も利く」
「うん」
「付き合ってしまえばいいじゃない」
彼女は黙ったままだった。
「アンはエーリッヒ・フロムの『愛するということ』って知ってるかい?」
「いいえ」
「彼はその本の中で、愛ってのは基本的に与えるものだと主張しているんだ。誰かが誰かを好きになることなんて理屈じゃないからどうしても一方的なものになりがちになるだろう。だからアンがリョウのことを、リョウがアンに向ける気持ちほど好きではなくても自然なことなんだよ」
「それに加えてね、僕は少なくとも与えられる側はそれを受け取る姿勢を取らなきゃならないと思うんだ。もちろん、あとはアンの気持ち次第だけどね」

それから数分話して通話を切った。アンの気持ちの整理がついてくれればと思うと同時に、リョウの思いが叶ってほしいと願った。浴室に静寂が降りる。気づけばさっきまで曇っていた鏡もすっかり曇りが取れていた。それから録音フォルダを開いて海に行った時の録音を聴いた。風と波音が強くてよく聞こえなかったが、録音の最後にアンが波打ち際の方に行ったのか『海ってこんなにグリーンで、綺麗だったっけ?』という声がかすかに波音と重なって聞こえた。

9月半ばになって長期休暇が終わり、講義が始まった。あまりに退屈で、2限だけ受けて出席簿に残りの授業分も記名してから講義室を抜け出した。それから誰もいないカフェテリアでスケッチブックを取り出して続きを描いた。久しく開いていなかったが、まだ鮮明に情景を思い出すことができた。描き進めながら、元々忘れやすい性格だったが、変な場面ばかりよく覚えていることに気がついた。それは決まって若さについて考えている時だった。例えば、15歳の秋には大して好きでもなかった初めての恋人と別れ、16歳の冬に高校の図書室で読んだ本でモラトリアム人間という言葉を知った。その2つの事実だけが自分という人間を臆病にしているような気がして仕方が無かった。

帰りはいつものようにバスで帰るつもりだったが、雨が降りそうだったこともあり、リンに送ってもらうことになった。運転席と助手席の間の小さな収納には、タバコの空箱が折り畳まれて几帳面に詰められていた。信号で停止すると彼女はトランプのようにそれらを両手で広げてみせた。ウィンストン、ラークなど赤色の系統で集めているようだった。
「こうすれば月に何本吸ってるか、わかりやすいでしょう?」
彼女は得意げにそう言った。それからアンについて話した。その日はひさびさの講義だったこともあり、アンが珍しく起きてノートを取っていたようだった。その状態がずっと続いてくれたらいい、と言うとリンは前を向いたまま頷いた。
「ねぇ、こんなこと言いたくなかったけれど、なんでまだアンに告白しないの?」
その言葉には明らかに私をいつまで待たせるつもりなの、というニュアンスが含まれていた。彼女はハンドルの表面を爪で掻いて少し苛立っているように見せた。
「わかってるさ」
僕はそう返して少し語気が強くなったことを後悔した。
「別に怒ってるわけじゃないわ」
彼女は小さくため息をついてこぼした。
「ヨウは傷つくのが怖いのよ」
それから彼女はタバコをボックスから片手で器用に取り出して咥え、グローブボックスに入っている100円ライターを取って欲しいと頼んだ。それを渡して窓の外に目をやると、遠くに給水塔が見えた。

その夜、自分の部屋で寝る前に映画を観た。古いイタリア映画だった。インクラビリ(療養所というより収容所に近い物だった)に住む元高級娼婦(コルティジャーナ)たちの話だった。しばらく観て、須賀敦子の小説に似たようなものがあったことを思い出した。彼女らは梅毒に犯されておりゴム腫が額や首元にいくつも出来ていて、後数年と持たないように見えた。映像として観ている分、小説よりもその暮らしの質素さが伝わってきた。時々南の修道院から少年が世話の手伝いに来た。線の細い10歳ほどの少年だった。彼女らは金持ち相手に着飾って過ごした頃を引き合いに出し、彼に若い時は一瞬で過ぎてしまうのだとしきりに語った。彼は彼女たちの話し相手になるのを繰り返していく内に平民として生きることの難しさを知るのだった。対照的にシチリアの白い街並みが綺麗だった。今の自分は彼女らのようになりたくないと思いつつも、同じようになってしまう運命に置かれているのかとさえ思えた。エンドロールが流れはじめテレビを切ると、液晶に虚な目が浮かび上がった。次は天使にラブソングを、を観ようと静かに心に誓った。

コルティジャーナを取り巻く当時の状況について知るために、数年ぶりに図書館に向かった。大学近くの市営の図書館は、初めて来る場所であるにもかかわらず懐かしく感じた。1階のイタリアの文化、風俗の棚でそれらしき本を捲ってみても記述は見つからなかった。近くで司書の女性が台車に積まれた本を戻していた。彼女に他の棚にイタリア関連の本は無いかと聞くと、3階の一番奥の棚にあるかもしれないと言った。階段を上がり人気のない中を10分ほど探した。書架の奥の方は誰もおらず電球が切れていて暗かった。そこでやっとヴェネチアのコルティジャーナの成り立ち、生活に関する本を見つけることが出来た。書架の隙間に置いてあるソファでそれを時間をかけて読んだ。朝の水路で木桶を使って水を汲む娼婦の様子をありありと想像することができた。読み終えたあたりでリョウからまた部屋で飲まないかと連絡があった。

その夜、変に目が冴えて眠れなかった。布団に潜って目を瞑るとリンとアンの声がすぐ近くで聞こえるような気がした。それは朝まで続き、午前5時を回ってもまだ胸の鈍い痛みに悶々としていた。そうして、高校生の頃に図書館の生物棚で見つけた真珠についての本を思い出していた。世の中に流通している真珠のほとんどが人によって貝の体内に入れられたアルミ玉で、貝の防御反応によってその表面にあの綺麗な膜が作られるのだという。白くなる早朝の空をカーテンの隙間から覗くと本当に真珠貝になってしまったのかと錯覚した。そこで焦っているのは今も変わらないと気づいた。アンと出会って焦るようになってしまったのだった。

時間通りにリョウの部屋に行くと、テーブルの上にはリッツクラッカー、チーズが用意されていた。ダウンライトの明かりの中でリョウはFMを流していた。僕は壁際の棚に買ってきたスミノフとブラックニッカの瓶を乗せて、彼のベッドを背もたれにして座った。壁には黒のコーデュロイのセットアップが掛けてあって、ラジオを止めた彼に服について聞くと先週買ったものだとわかった。彼はスミノフを開けて、クラッカーにチーズを乗せて一口で食べた。その長く節の太い彼の指にはシルバー925のリングが光っていた。背が高く姿勢の良い彼は尖塔のように見えたが、リングも彼の一部として彼の魅力をより一層引き立てていた。
「アンと付き合い始めたんだ」
「おめでとう」
僕はグラスをテーブルに置いて聞いた。
「ねぇ、アンのどんなところが好きになったんだい?」
彼はグラスの表面についた水滴を指の腹でゆっくりと撫でた。
「なんだろう、うまく言葉に出来ないな。アンってほらマイペースで世間知らずだろう。いつからか守らなきゃなって思ったんだ」

それから彼はいつものように話し始めた。彼は飲むと余計に饒舌になるので、基本はその話に耳を傾けるのだった。
「17歳の冬の朝に海に行った話をしたことあっただろう。朝4時に起きて1時間かけて自転車で砂丘に行ったんだ。砂丘の入り口から海の方を見ても真っ暗で何も見えなかった。持ってきた懐中電灯のあかりを頼りに歩いて行った。砂が運動靴に入って、足を踏み出すたびに重くなっていくのが気持ち悪かったな。砂丘をしばらく歩くと波打ち際に着いた。それで渚から少し離れた砂の盛り上がっていて乾いている場所に腰掛けて、沖の方を見つめて日の出を待ったんだ。時々何やら道具を持った人々が後ろの方から歩いてきては渚の方に消えていった。その日が出てくるまでの30分が永遠に続くかのように感じた。次第に遠くに柱のような影が海岸沿いにたくさん並んでいるのが見えてきて、それが釣りをしている人々だと気づく頃にはすっかり風も出てき始めていた」
彼はそこまで話して、スミノフを呷った。
「海は波が寄るたびに薄く引き延ばされて、深緑色から深いエメラルドグリーンに変わっていった。鳥なんて遠くにしか見えなくてただひたすらに寒く海の照り返しが眩しかった。それから砂丘の終わりまでふらつきながら歩いていった。退屈で、一体自分は海の何が好きだったんだろう? とばかり考えていたんだ」
彼はゆっくりと息を吐いて前髪をかきあげた。
「それから、すっと海に対する熱が冷めてしまった。でも前に行った時に良さに改めて気づいたんだ。みんなといたからだと思うよ」

気づけばリョウは6本目を飲み終わっていて、だいぶ酔いが進んでいるように見えた。瞼をかろうじて開いてるような状態で、ふとしたはずみで一度閉じてしまえば二度と開かないのではないかと思うほどだった。彼は腕を胸のあたりまで持ってきて、時間をかけて指輪を外した。指がむくんでいるようで外すのに苦労していているように見えた。首筋から耳まで赤くなっていた。飲み過ぎなんじゃないか?、と聞くと何いつも通りだよ、と笑ったが、コンロにかけてあるコーヒーケトルの中の水を飲むために立ち上がると、少しふらついて棚にぶつかり倒しそうになった。
こちらに戻ってくるとそのまま僕の後ろのベッドに倒れ込んで深く息を吐いた。上を見上げたまま彼はしばらく黙り込んでいた。僕は立ち上がり、彼に背を向ける形でベッドの縁に腰を下ろした。彼は突然口を開けた。
「なあ、馬鹿みたいな話だったら黙っててほしい。言わなくていいんだと思うんだが、どうも俺の良心が許さないんだ。ヨウも、アンのことが好きだったんじゃないのか?」
喉が強張って数秒ほど声が出なかった。
「いいんだ、もう。」
僕がそっけなくそう返すと、彼は勢いよく上体を起こして後ろから抱きついた。彼の指が僕の鎖骨を動かないよう押さえつけた。僕は彼のするがままにさせて、そのまましばらくじっとしていた。彼の鼓動が大きく感じられ、熱い息が耳にかかった。彼が声を出そうとして強く息を吐くたびにアルコールの香りが鼻腔をくすぐった。ようやく出た彼の声はいつになく弱々しかった。
「どうしたら、俺はヨウに許してもらえると思う?」

彼に合わせて飲みすぎた反動か、時折強い吐き気がしたが、涼しい風と夜の住宅街の静けさがそれをいくぶんかましにしていた。あの後すぐに彼を振り解いてアパートを出たのだった。時刻を確認するとまだ22時だった。バスの終電はもう無かったが、自分のアパートまで1時間掛けて歩いて帰る自信はなかった。そこで近くのリンの部屋まで向かうことにした。前屈みでふらつきながら歩いた。駅前にはまだ人が数人いて、すれ違うとひどく惨めだった。
インターホンを押すと寝巻き姿のリンが入れてくれた。驚いた様子だった。
「ヨウ!どうしたのよ」
「水、もらっていいかい。酔っちゃってどうしようもないんだ」
靴を脱ぎ捨てて玄関でうずくまった。マットレス代わりのペルシャ絨毯に顔を埋めるような姿勢になって、呼吸するたびに埃の粉っぽい匂いがした。その頃になると吐き気というよりも瞼が重く唾液が止まらなくなっていた。彼女がコップに水を注いで持ってきてくれた。それはいつも以上に冷たく感じられた。
「なんでこんなにオパールのようなんだろうね」
「オパール?」
リンは玄関の段差に腰を下ろして隣からこちらを覗き込んだ。
「オパールが胸に埋まってるんだ、それはいつも呼吸を乱してくる。僕自身が正常でいようとするのを邪魔してくるから、砕きたくてたまんないんだ」
胸に手を当てると心臓の拍動だけがやけに大きく感じた。胸に埋まった禍々しいオパールを砕いて取り外してしまいたくてたまらなかった。

朝廊下で目が覚めた。昨日あのまま寝てしまったようだった。頭の下には枕代わりのバスタオルが置かれていた。リビングの方から伸びた光が廊下の壁に何本もの線を作っていて、しばらくそれを眺めていた。
リンと近所の古い喫茶店に行くことにした。二日酔いで瞼が重く身体の節々が痛んだ。彼女は注文を終えると、厨房と店内とを分けるカラフルなダイヤ柄のステンドグラスに強い日差しが差し込んでいるのを見ていた。しばらくそうした後に彼女は水を少し飲んで、話していい? と言った。
「3日前にね、アンと飲みに行ったの。駅前の安いバー。2年前にみんなで行ったところ。水曜の夜だからそんなに混んでなくてね、3時間くらい話し込んでいたわ」
コップの底で光がカージオイド形の線を描いており、それがひどく綺麗に見えた。
「話してて思ったの。アンって抜けてるじゃない? 危機感もないし。だけど、本当に純粋なの。あんな風になれたらいいのにって、心からそう思った。だから、ヨウが好きになる理由もわかる気がしたのよ」
それから彼女はしばらく黙った。伝えたいことはあるけれど、どの言葉で表すべきか迷っている様子だった。そうなれば今度はこちらが話し出す番だった。
「ねぇ、別の話をしていいかい?」
「ええ」
「ブラック・オパールって知ってる?」
「知らない」
「オーストラリアだけで取れる宝石で、それがたまらなく好きなんだ。石の地色はグレーか黒だけど、なかには表面は虹色に輝くものもあってね、」
コーヒーとトーストが運ばれてきた。彼女はまだこちらの意図がわからない様子で、コーヒーカップに口をつけてもまだ眉を八の字にして困っているようだった。
「そいつがさ、胸の中で膨らんでしょうがないんだ」
「…オパールが?」
「ああ。これからきっと僕らは、選ぶ側にも選ばれる側にもなりうる。だから早く選ぶ側になるんだ、と急かして来るんだ。笑えよ、自分でも訳がわからないんだ」
「笑わないわ」
彼女はぴしゃりとそう呟いて、上目遣いでこちらを見つめた。彼女の瞳もテーブルに反射した光によって光っていた。それから2人は黙ってトーストを片付けた。途中で鈍い頭痛を和らげるために窓の外を見たが、あまりに眩しくほとんど何も目に入ってこなかった。
「私といれば、不安も焦りもなくなるんじゃない?」
そう彼女の声が聞こえて正面に向き直すとこちらを真っ直ぐ見つめていて、冗談よ、と付け加えた。
「私と付き合ってよ。後悔させないよ」
彼女はグラスを傾けて、その底の眩しさに目を細めた。

ひさしぶりに父から連絡があった。実家の近くの工場に出していた車の修理が終わったから次の休みに取りに行きがてら実家に顔を出しなさい、ということだった。ほとんど人のいない在来線に4時間ほど揺られて、地元に帰った。実家のコンクリートの壁は以前より煤けているように見えた。家に入ると静かでまだ誰も帰ってきていないようだった。ひさびさのリビングは広すぎて落ち着かなかった。冷蔵庫から出されたままでぬるくなったマスカットが銀のオードブル皿に盛られていた。
2階に上がってひさしぶりに奥の父の書斎に入った。2年前に死んだ飼い犬に使うはずだった赤いクッションが本棚の中でブックレストとして入れられていた。それを車の助手席に置くために抜き取って、代わりに床に積まれた古い医学書の横に隠すように置かれていたガラス瓶を入れた。
工場で車を受け取り家に戻ると、父がリビングのソファに形で横になりタバコを蒸していた。彼はいつでも気難しそうな顔をしており、そのゴッドファーザーのヴィトーのような仕草が懐かしかった。おまけにヴィトーと同じで彼は自分の息子たちがいかに不出来でも一度も文句を言うことはなかった。その点僕自身がマイケルと似たような立場ではあったが、不誠実さと怠惰のためにそのようになりきれていないのが彼との違いであった。
夕食は近所のフレンチレストランだった。メインは鱸のパイだった。パイ生地で魚の形が象られており、その中にスズキの白身と、香草を練り込んだホタテのムースがミルフィーユ状に重ねられていた。兄に何で車が動かなくなったんだっけと聞かれ、野良猫に気を取られてたんだととぼけると笑われた。父はせっかくだから病院に顔を出せと静かに言った。バツが悪くなってトイレに行こうとして、柱の影から下膳するタイミングを伺っているウェイターと目が合った。心底嫌な気分になった。

10年ぶりの父親の病院だった。真っ白だった外壁も綺麗な緑色だった屋根も、実家と同じようにだいぶ黒ずんでいた。エントランスも外来の待合室も何もかもが小さくなったように見えた。軽い挨拶をしてデパートで買った焼き菓子を看護婦に渡すために、1階の外来と2階の看護室に向かった。朝だったこともあり、掃除のために全ての部屋のドアが開いていた。リネン室ではシーツが山積みになっていた。階段の踊り場のフランス窓から見えた中庭の木々は少しずつ紅葉し始めていた。
2階の病室は相変わらず高齢患者で埋まっており、あの独特な匂いで満たされていた。看護婦が窓を開けたままにしている部屋もあり、秋の冷たい空気が寂しさをより強く感じさせた。テレビが置かれている部屋もあった。食堂は小綺麗になっており最近食器が一新されたようだった。変わらないと思っていた状況が変わっていて驚いた。

休日にセミナーのレポートを提出しに研究棟に行った。2階への狭い階段を上ったところでリョウとばったり会った。いくつか付箋の挟まった医学書を抱えていて、今まで教授に質問をしていたようだった。無精髭を生やして、あまり寝られていないのか目の下に濃いくまがあった。こちらが止まると彼もこちらに気づいて、同じように止まった。先に口を開いたのは彼の方だった。
「あの後、大丈夫だったか?」
「ああ、なんとかアパートまで戻ったよ」
彼は安堵の表情を浮かべた。
「僕の方こそ勝手に出てってすまなかった」
「いや、俺も嫌なこと、聞いたな」
彼は目をつぶって後頭部を強く掻いた。
「嫌なことじゃないさ。全部僕が選んだことだよ」

その頃から急に多くの夢を見るようになり、夜中に起きることが増えた。しかしたいていは起きた瞬間に内容を忘れてしまい、何とも言い難い気持ち悪さだけが残るのだった。その夜は汗でシャツが湿っていたのでそのまま風呂に入ることにした。ひさしぶりに熱めの湯に浸かったからか、風呂から出るとすぐに動悸がして、裸のまま脱衣所の床にしゃがみ込んだ。棚に手を伸ばしiPhoneで録音を再生した。前にリョウの部屋で4人で飲みながらUNOをした時のものだった。
『リン、UNOって言ってないでしょ!』
『あははっ』
確かリョウとリンで一騎打ちになったのだ。しばらく二人の言い合いが続いた後、アンの声が聞こえた。彼女はひどく酔っているようで、それが声の甘さを助長させていた。
『こうやって夜遅くまで遊んでるとさ、時間が緩やかに溜まってくみたいじゃない?』

大学の講義の間は、講義室の1番後ろの席でほとんど絵の続きを描いて過ごすようになった。絵心がある方ではなかったが、完成が近づくにつれ集中力も増していった。眠りが浅くなっていたためか、気づいたら机に突っ伏して寝てしまうことも多くなった。途中で起きて前を見渡すと決まって、アンは机に突っ伏して寝ているのだった。リンは眠そうに時折目を押さえていて、部室にこもっているのかリョウはいつもいなかった。

その夜、また夢を見て途中で起きたが、よく内容を覚えていた。夢というのは忙しなく動くくせに音や声が聞こえることは珍しく、無声映画のようなものであることが多い。その日のものも無声映画のようだった。電車の一番後ろの席でアンと座っていた。窓の外は雪が降っているのか異様に眩しく、前に2人でイタリアンに行った時とは季節も空気感も何もかもが違っていた。床にコインが落ちているのに気がついて拾ってアンに渡そうとすると、私のじゃないと首を横に振った。床に戻すとアンが窓の外を見てと言った気がして、顔をあげた。窓の外の眩しさにまるでホワイトアウトが発生したようだった。こんな短い夢にも声のかけ方、仕草に彼女の性質が細かに反映されていた。その一つ一つは本当に些細なものだった。

数日後、講義が終わった後にリンの車で駅から少し離れた古着屋に行った。その店は狭く立地も悪いので、あまり流行っているとは言い難かったが、珍しい雑貨がありリンは時々1人で来ているようだった。小一時間欲しいものがないか眺めていた。アンティークのガラス棚の中に売り物のネックレスや指輪が並べられており、それが彼女のお気に入りだった。その日はその棚の隣で中古のDr.Martensのサンダルが安く売られていた。汚れていたためリンは買うか悩んでいたが洗えばいいか、と話し買った。僕はガラス棚に入れられていた300円の金のネックレスと掌に乗る大きさの天使像を買った。帰り道その店について話しながら数日ぶりに誰かと会ったのだと気づいた。途中、リンは車を路肩につけて自販機でタバコを買った。フロントガラスの内側に汚れがあるのに気づいてティッシュペーパーを取るためにグローブボックスを開けると空箱しかなく、代わりにロラゼパム錠と空のペットボトルが入っていた。

その後リンの部屋で休むことにしたが、リンの部屋に着く頃には暗くなっていた。リンはサンダルを風呂場で磨いた。風呂場の棚にはsabonの瓶が置かれていた。桶に水を張って真っ白な布で丁寧に拭った。拭うたびに桶の中の水は墨汁を垂らしたかのように黒く濁っていった。汚れが落ちるように強く磨くものだから、彼女の薄いシャツにはいくつかシミができていた。その様子を廊下にしゃがんで眺めていた。磨き終わった後サンダルを外に干すためにリンがベランダの窓を開けると、一瞬夜風が廊下の僕の元にも届いた。戻ってくると僕の隣にしゃがみ込んだ。2人の距離は床についた指がちょうど触れあうかどうかくらいだった。
「ねぇ、若さってもう手に入らないかもしれない。他の人にはもっと誰かのことを好きになるチャンスがあるのかもしれないけど、私にとっては最後かもしれない。それがとても不安なのよ」
そう言い終えると僕に向き合うようにして身体を起こした。
「ねぇ、ヨウが今日買ったネックレスつけてみていい?」
「いいよ、」
ポケットから取り出して彼女の首に通した。彼女の細い首筋が一層白く見えた。無意識に体重が彼女の方にかかる。彼女はふふっ、と小さく吹き出して、重いよ、と笑った。つけ終わると彼女はまたしゃがんで壁にもたれた。
「私は、それでも時々自分の幸せを優先させたくなる。それでそんなずるい自分が嫌になる」フェルメールの描く女性たち(トローニー)のように凛として壁を見つめていた。真に見つめているのは、その煤けたクリーム色の壁ではないかのようだった。胸の金のネックレスが白く光っていた。

リョウから連絡があり、週末の夜に初めて4人でダリに集まることになった。その週は特にあまり質の良い睡眠が取れているとは言えず、支度を済ませた後、本棚から出した画集のページを捲って少しぼうとしていたら10分ほど時間に遅れてしまった。ドアを開けると既に3人とも来ていて、ソファや額縁などダリの内装について話していた。
「ヨウ、最近食べてるかい?」
そう聞くリョウもひどく疲れているように見えた。もう10月に入っていたからリョウはニット帽にオーバーサイズのスウェットを着て、アンは灰色のパーカー、リンは薄手のカーディガンを羽織っていた。みんなの前にはアイスコーヒーが置かれていたが、まだ誰も口にはしていないようだった。僕がコーヒーを頼み終えるとリョウが口を開いた。
「俺たち、付き合い始めたんだ」
「本当、全然気づかなかった!」
まず声をあげたのはリンだった。口元を両手で覆い隠して心底驚いているような様子だった。
「でも、おめでとう。ふたりともお似合い」
それから彼女は2人にどんな風に付き合ったのか、どちらから告白したのかと聞いた。自分を納得させるかのように、一つ一つ質問していった。リョウとアンは答えるたびに恥ずかしそうに顔を合わせて控えめに笑った。
「でも、自習室で初めて話した時もそうじゃない? みんな、私の隣にいてくれて。ダメな私を守ってくれた、だから、」
アンは指でテーブルの上の水滴をなぞりながら急にそう言って涙目になった。リンは少し身を乗り出して、その続きを言わせないように、アンの口へ柔らかく指をあてた。
「みんな、少なくとも私は自分がしたいからこうしてるのよ」

途中でリンがタバコを取り出したが灰皿が置いてなかったので、店員に持ってきてもらうよう頼んだ。アンがそれを指差して言った。
「ねぇ、私もタバコ吸ってみていい?」
リンは一本アンに渡して、唇に挟んで咥えるように合図した。彼女はそれからバックの中を漁ったけれどなかなかライターを見つけられないようだったので、僕がライターを近づけて火をつけた。
「そのまま、息を吸ってみせて。はじめてだから軽くで構わないから」
慣れない動作で難しいようで、なかなかうまく火がつかなかったが、何回目かにやっと火が燃え移った。初めてのことをする、アンの緊張した様子が新鮮だった。少し赤面しているように見えた。リョウにも同じように渡すと一人できるさ、と火をつけたが、息を強く吸いすぎてむせてしまいリンが水を渡していた。
「次は試験に落ちる前にみんなで勉強したらいいんじゃない?」
リョウが灰皿に灰を落としてそう言った。
「私は嬉しいけど、みんな、ありがとう」
アンは僕らの顔を見て目を逸らして、タバコを少し深く吸った。
「ねぇ、久しぶりに私の部屋でお酒飲もうよ。みんな勉強見てくれたし私お金出すからさ、」
リンはいいね、と頷いて、僕に小さく目配せをした。
「頭、痛くなっちゃった」
アンがタバコを置いて、リンが空のコップに水を注いだ。いつからか気づけば自然と3人でアンを囲んでいた。不思議と前に感じたぎこちなさは感じなかった。

(3/3)ブラック・オパールの価値

宅飲みをする予定はその一週間後に決まった。講義が終わってから駅前に集まり4人で買い出しをした。閉店1時間前だったからか駅前のスーパーマーケットは空いていて、15分ほどゆっくりと歩き回った。アンはスピリッツの売り場でしゃがみ、酒を探していた。リョウが棚から取ったクライナーのラベルを撫でながら、酒飲み始めたばかりの時はUNOの罰ゲームでこれよく飲んだよな、と懐かしそうに言った。アンが飲みたいと言ったモカリキュールとアマレット、いくつかのつまみに加えて、入口に並んでいたマスカットを2房買った。一度出た後にタバコを買い忘れたとリンが店内に戻って、リョウとアンと3人で入口前の柵に腰掛けて待った。駅前のアーケード街はまだ帰り道のサラリーマンや飲み屋に向かう大学生で溢れていた。
アンは小さくリョウに聞いた。
「前もこういうこと、なかった?」
「あったな、なんかの小テストが終わった日だったな。俺の部屋で初めてウイスキーを開けた日だったはずだよ。よく覚えてる。あの時はヨウが酔いすぎてて大変だったんだ」
僕がよく覚えてないと言うと2人は他人事だと思って、と笑った。スーパーマーケットの前の小道では通り過ぎる人が大半で立ち止まっているのは僕らだけだった。僕らだけがこの空間の持つ緩やかな時間の流れを味わっていた。それがひどく優越感を感じさせた。

それからアンの部屋へ向かった。アンのアパートは駅から10分ほど離れた閑静な住宅街にあったから、僕らの声しか聞こえなかった。アンの部屋は今度は綺麗に片付いていて、アンは着くや否やシンクの下の食器棚から人数分の小さなコピータグラスと深緑色の大皿を出した。チューリップ型で短いステアのついたグラスは実家でいらなくなったもののようで、大皿はこの日のために新調したものらしかった。僕はその大皿に丁寧にサラミやチーズを乗せていった。
準備が終わってしばらくはリンとリョウはアマレットを飲みながらiPhoneでファッションサイトを見ていた。
「アマレットって甘ったるいだけかと思ってたけど、意外とおいしいね」
「そうだな」
リンが突然こちらに振り向いた。
「ヨウ、なんか音楽かけてよ」
アンの部屋には昔福引で当てたという安っぽいラジカセがあった。そのラジカセの側にはCDがいくつも置いてあって、彼女は一人で勉強する時にいつもその中から選んで流しているのだった。既にCDが入っているのがわかったので再生ボタンを押すと数秒経ってゴッドファーザーの愛のテーマが流れた。聞くと映画を見た後、あまりに気に入ったのでTSUTAYAで借りてダビングしたようだった。アンは赤いベルベットの毛布にくるまって、ソファの角でちびちびとロックを飲んでいた。僕はそれを見ながら持ってきていたスケッチブックの見取り図を埋めていった。ひさしぶりにゆっくりとした時間を過ごしたような気がした。小一時間でそれが完成したところで、タバコを吸いに外に出た。少し風が吹いていたからか、いつもより空気が冷たく感じた。台所の窓のサッシに寄りかかるとかすかに彼らの声が聞こえた。戻るとリンが鞄を漁っていた。
「ねぇ、UNO持ってきたの。しようよ」
リンは慣れた手つきでカードをテーブルに広げた。しかし、彼女はゲームが進んであがれそうになると決まってカードの扱いが雑になるものだからおかしかった。ひさしぶりで酔いが回りやすくなっているのを感じた。
「ヨウ、嬉しそうだな」
隣に来たリョウがそうささやいて、それを聞いていたアンが笑った。結局運が良く1番最初にあがってしまって、壁にもたれてアンの赤い毛布にくるまって彼らの手札を眺めた。ベルベットの生地の柔らかさと誰かがいるという安心感が眠気を誘った。その後数ゲームやったのちそのまま寝てしまったようだった。一回ゲームが終わった後にリョウが炭酸水をこぼしてしまって急いでリンが拭いているところまでの記憶は辛うじて残っていた。

目が覚めると外は少し明るくなっており、カーテンの隙間から日が漏れていた。リビングの窓を開けたままにしたようでカーテンがゆらゆらと揺られていた。テーブルにはトランプが無造作に散らばっていて、空のコピータグラスが横に倒れていた。アンとリンはベッドで寝ていて、リョウはクッションを枕にして床で丸くなっていた。彼にベルベットの毛布をかけて、台所で歯を磨きながら、彼らの寝息に耳を澄ませた。カーテンから漏れる眩しい光を見つめ続けても目の裏が痛くならないことで、ひさしぶりに深い眠りにつけたことに気づいた。
次に起きたのはリンだった。彼女はしばらく身体を起こして目を擦っていたが、時計を見あげてもう10時を過ぎていることに気づいて急いでアンとリョウを起こした。ひさしぶりに授業を寝過ごしたことにみんなで笑った。アンはひどく楽しそうだった。
「ねぇ、これから私の家でみんなで暮らすのはどう? 昔やってたことももう一回しようよ」
僕はトランプカードをまとめて、テーブルを濡らした布巾で拭いていった。

その日はセミナーレポートの講評日だった。5限の後にカンファ室で教授が来るのを待った。他に2人の学生もいたが、彼らが同じ学年であるかどうかすらわからなかった。その後よれた白衣を着た教授が慌ただしく扉を開けて入ってきた。彼は僕を含めた3人の生徒を前にしてこんなに相談に来なかった学生は初めてだ、と呆れていた。

アンの部屋で暮らし始める前日、リンから連絡があってダリに呼ばれた。予定の時間ちょうどに着いたがリンは先に来ていた。本を読んでいて何かと聞くと、サガンの『悲しみよ こんにちは』で図書館で借りたのだと言った。彼女は黒い長袖Tシャツ、赤みがかかった焦茶色のロングスカートに金のネックレスをつけていた。ネックレスをつまんで、安物だけどヨウの見てたら欲しくなっちゃって、と笑った。それからあの3人であげた指輪がはまった白い指でタバコに火をつけた。
「ヨウが告白できなかったのって、リョウがアンを好きだったからなのね?」
「そう、」
「少し納得したわ」
彼女は軽く咳をした。喉が痛いのか、少しかすれた声で小さく、風邪じゃないわ、と付け加えた。そこでまだ半分も口につけていないところで僕もタバコを取り出して、コーヒーに飽きてしまったように見せた。リンに残りをあげると、彼女は遠慮しつつも目を閉じてゆっくりと飲んだ。

数ヶ月ぶりに4人で街に買い物に行く日で、準備のために4人とも休日の朝から早起きをしていた。洗面台の電気は切れておりリビングからの光を頼りに棚からヘアアイロン、黒いワックス缶、ムスクの瓶を取り出しているとアンが洗面台下の戸棚にコットンを取りに来た。
「ねぇ、さっき気になってヨウのスケッチブックを開いたら部屋の見取り図みたいなのが描いてあってね。思い出せそうでわかんなかったんだけど、どこのレストランを描いてるの?」
「2人で2年前に行った海沿いのレストランの絵を描いてるんだ」
「ああ! 急にリョウとリンが行けなくなっちゃったやつね。確かにあんな感じだったかも」
彼女はコットンを2.3枚箱から取り出して立ち上がった。
「色は塗らないの?」
「塗らないつもりだよ。絵が下手だからきっと塗り始めたら失敗するだろうし、こういうイラストは色を塗る前の線画のままの方が綺麗だったりするからね」
「なるほどね」
彼女はバレリーナのように踵を軸にして、その場で上機嫌にくるっと回ってみせた。
「あの場所そんなに好きだった? 私あんまり内装とか覚えてなくって。さっきもそんなところにボトルたくさん置いてあったっけ?ってなったもの」
なんか覚えてるんだよ、と返しながらもアンがあまり覚えてないことに愕然とした。それは彼女からすれば2年前に1回行っただけの場所であったわけだから、当然のことだった。ただ僕だけがあのイタリアンレストランから抜け出せていないという事実が目の前に濃い影を落とした。

それから地下鉄に乗って街に向かった。地下鉄のホームにはモンドリアンの原画展のポスターが貼ってあった。1月から県の美術館で開かれるようだった。休日ではあったが、まだ朝の早い時間であったからか車内は人がまばらだった。
その日はファッションビル、古着屋、デパートの順で回った。もう冬物が売られはじめていて、3人は予想以上に買いたいものが多く見つかったようで、昼食も食べずに歩き回った。リョウはCOLEHAANの革靴、アンはZARAのダウンジャケット、リンはATONの厚手の黒いタートルニット、僕は中古のZIPPOのライターを買った。
そのネオ・ルネサンス様式の5階建てのデパートは、パンテオンのような古代ローマの神殿を想起させる外観だった。特にアカンサスの装飾が施された列柱が花崗岩の外壁を取り囲んでおり、それが建物全体に荘厳な印象を与えることに成功していた。建物の中の柱や床には惜しみなく大理石が使われていた。僕らはその荘厳さをひどく気に入っていて、いつも休憩がてら入口の大きな扉から歩道にまで続いていている大階段の途中に腰掛けて、それらの装飾を見上げたものだった。その日は、そうしてはじめて空が高くなっていることに気がついた。
それから帰りにドーナツを買って食べようと話しながら、前と同じように紙袋を持って歩いた。僕が朝に見た原画展に行きたいと言うと、またせっかくだから今日買った服を着て見に行けたらいい、とリョウは笑った。

そのまま2週間ほど過ごした。することと言えば喫茶店に行ったり、部屋で飲んだりするだけだったが僕らは満足だった。アンとリョウはこの頃から頻繁にタバコを吸うようになっていた。僕とリンは夜通し本を読むことが増えた。アンの部屋の本棚はそれぞれが持ってきた、文庫本、医学書、画集、CDで埋まっていき、入らなくなったものから横に積まれていった。

寝坊して起きると昼前で、もうみんな学校に行っていた。シンクには油のついたままの洗い物が、廊下の麻のカゴにはバスタオルや洋服が山詰みになっていた。カゴの1番下には彼女たちの下着が入っていた。Calvin KleinとAubadeのものだった。皿を洗おうとしたところで、リンから電話がかかってきた。
「来ないから起きてるか心配になって、授業抜け出してカフェテリアからかけてるの」
「今日はもう部屋にいることにするよ」
「そう…」
通話をスピーカー機能に切り替えて、泡立てたスポンジで食器に洗剤をつけていった。
「ねぇ、ヨウは最近体調はいい?」
リンは小さな声でそう聞いた。
「なんでこんなこと聞くかって言うとね、私がヨウの立場だったらどう思うんだろうって考えると、なんか心配なのよ。」
「そんな何も心配することなんて、」
そう返した声に被せるようにして彼女は続けた。
「ねぇ、これだけは覚えておいて。まだ若いのに私もヨウも進んでるのよ! これが最高の形だったのよ」
それから互いに黙ってしまった。言いたいことはあるがうまく形になって喉を通って行かなかった。いつもよりドラム式の洗濯機が回る音が大きく聞こえた。
「ねぇ、聞こえてる?」
「ん、ああ。ごめん。聞こえてるよ」
アンは僕の方なんて見てないはずだから、と喉のすぐそこまで出かかって、スポンジを握りしめた。途端に全てがどうでも良くなるような気分になった。

次の週に迫った中間テストに向けてしばらく勉強をする日々が続いた。アンのテーブルはまたコーヒーの空き缶、試験資料、いくつかの医学書でいっぱいになった。リンは進みが早く、リョウはゆっくりだが一つ一つを確実に理解していった。僕とアンは明らかに2人よりも理解に時間がかかっていた。それを見かねたリンが覚えるべき事柄のみまとめて教えてくれた。試験前というのは誰でも焦るものだが、みんなで話し合いながら理解していくのは思いの外楽しい作業だった。一段落つくと、リョウが休憩する時のために買ったハーゲンダッツを冷蔵庫から取り出した。リンはそれを嬉しそうにスプーンで掬った。その様子を見ながらアンのベッドに腰掛けて、本を読んだ。背表紙の焼けた須賀敦子の『コルシア書店の仲間たち』で、前に古本屋で100円で買ったものだった。

試験が終わった日の夜、夕食の片付けをリョウに任せて背の低いピラーキャンドルの準備をしていた。包み紙を破って貼り付いているビニールを丁寧に剥がして、それを4つほど用意して火をつけた。炎がゆっくりと立ち上がって、グラスを取り出してきたリンが、綺麗ねと言った。アンはタバコとロックアイスを買いに外に出ていた。彼女が帰ってくるまでの間であらかた準備は終わっていた。彼女は部屋に入るや否やベッドに足を垂れて寝転がった。
リョウが電気を消してリビングに来ると、アンはシガー・キスがしたいと言った。アンはキャメルを2本取り出して、1本咥え1本リンに渡した。そしてアンは僕の差し出すライターに顔を近づけた。
「2人とも同時に息を吸い込むんだ。本当は同じ銘柄にすると、やりやすいみたいなんだけどね」
彼女たちはまるでキスをするように向かい合った。みんなアンの火を見つめていた。そして息を吸い込むのと同時にリンのタバコの先端も燃え出した。安定して葉が燃えるようになってからリンはそれをリョウに火を移してあげて、僕は最後にその彼から火をもらった。その時にうまく行かずに火が消えてしまったので、彼の手にライターを持たせてそれで火をつけた。薄暗い中で僕らの顔が浮かび上がって、ジプシーが焚き火を囲んで行う儀式のようだった。何かこんな絵画なかったかしらと思って、本棚の下段にある画集を取ってページを捲るとラ・トゥールのマグダラのマリアだとわかった。
「こうやって時間を過ごしてると、時間がゆっくり過ぎるように感じるね」
アラベスク模様の彫られた厚みのあるガラスの灰皿に短くなったタバコを擦り付けてアンはそう呟いた。

平日の午前に学校を休んでビリヤード場に行くことになった。9ヶ月ぶりだった。リョウの黒のコーデュロイのセットアップを借りることになった。彼の方が10cmも背が高いからサイズは大きすぎるけれど、適度な重みがあって着ている分には心地よかった。タグを見るとABAHOUSEのものだった。街のはずれにあるビリヤード場は平日ということもあり空いていた。休日になると近くの大学の学生が来て騒がしくなるので、滅多に休日には行かなかった。そこは安い代わりにあらゆる設備が古く、その一つ一つに埃っぽい匂いが染み付いていた。床にはジュースのシミがそのまま放置されており、踏むと固まった砂糖でベタついた。
いつもボールは壁に備え付けられている半円のテーブルの上に並べられていた。隣の椅子はまだ裏のフェルトが外れており、座るたびにがたがたと揺れるのが妙に懐かしかった。ゲームを進めるうちに4人ともやり方を思い出していった。
「身につけた技とか身体の動きって意外と忘れないもんだな。こうやって思い出を作っていくんだよな」
リョウは2つのボールを同時に落としてそう言った。心地いいボールのぶつかる音がホールに響いた。通い始めた頃はテンボールルールで遊んでいたが、僕らはより単純で運の絡むナインボールルールの方が好きだった。特にリンとリョウは2人とも手先が器用で覚えが早かった。だから初めてビリヤードに来た時に彼らのうまさに驚いたのを思い出した。(そしてそれは試験勉強は勿論、テーブルゲームでも何にでも当てはまった。)その日のゲームではアンが1回だけ1着で終わることができた。記憶の中では初めてだったと思う。アンは得意げに肘をテーブルにつけてタバコを吸った。彼女のお気に入りのVivienneの暗赤色のセーターが、台の濃緑色によく映えた。

数ゲーム遊んだ後、アンとリンがジュースを注ぎにビリヤードホールを出て受付横のドリンクコーナーに行っていた。そのついでに店長と話してくると言っていたのでしばらく時間がかかりそうだった。リョウは角度のないところからのキックショットを練習していて、僕はその横でビリヤード台にもたれかかっていた。
「そうだ、前に買ったけどしばらく使ってなかった指輪を家で見つけてさ。ヨウにあげようと思って」
彼はキューを台に立てかけて、ポケットから指輪と細いチェーンを繋げたネックレスを取り出した。
「リョウみたいにデカくないから、すぐ抜けちゃうよ」
そう思ってチェーン買っといたんだ、と小さく言って後ろから僕の首に手を回した。僕がされるがままにしていると、みんなでいるのは楽しいかい? と耳元でそうささやいた。
「リョウはさ、進んでる感覚ある?」
それに答える代わりに彼にそう聞いた。もちろんあるさ、と返事をする彼の熱い手は軽く震えていた。彼は留め具をつけ終わると僕を後ろから強く抱きしめた。
「ヨウを1人だけ置いていったりなんてしないよ。このまま4人で暮らすんだ」

夜中に風呂から出ようとして風呂の扉を開けたところで、リンと鉢合わせた。棚のバスタオルを取って急いで扉を閉めると、外で吸ってきてたの、全然扉開けたままでも大丈夫だよ、と扉の向こうで声がした。リビングではアンとリョウが何かの映画を見ているようで騒がしかった。リンは映画を見ないのかい?と聞いても、ホーム・アローン観てて面白くなさそうだからいいの、と言った。来月のアンの誕生日プレゼントを何にするかを話した。彼女はアンがいつもつけてないからとネックレスを提案した。
それから身体中を拭いて服を取ろうと扉を開けた。リンがこちらに向き合うようにして立っていて、その瞬間に彼女に抱きしめられた。そのまま彼女はぴったりとお腹を突き出すようにして身体を密着させた。咄嗟のことで声も出なかった。
「ねぇ、僕らがずっと後になって、今の僕らの生活を思い出すようなことがあったら、どんなに美しいだろうね」
そう彼女の意図に気づいていないかのように言って、彼女の頭を撫でた。リンは首を振って頬擦りをして、彼女の頬の熱さが伝わってきた。頭を撫でながらしばらくそのままにしていた。手に持っていたバスタオルを床に落として、それを拾うためかのように彼女の肩を持ってゆっくりと引き剥がした。彼女は素直にそれに従って、涙がこぼれ落ちそうなほど潤んだ瞳で僕の胸を見つめていた。ごめん、と小さく謝って、きびすを返してリビングに戻っていった。風呂場の壁に背中をつけてその場に座り込んだ。背中は冷たいタイルにつけたところから感覚が無くなっていき、壁に同化していくような感覚に襲われた。その冷たさがもはや痛みも伴ってきていた。

ある休日の昼過ぎに地下鉄に乗って街のSWAROVSKIにネックレスを買いに行った。あの後リョウにアンのプレゼントの話をすると買い物を頼まれたのだった。他の3人はバイトがある日だったから、1人だった。帰りに寄った花屋で花束でもあげるんならうんと白の清楚なやつがいいのかしらなどと考えていた。店を出ると、部屋に飾るための1000円ほどの小さな花束を抱えて街を歩きながら、ビリヤード場でのリョウの言葉を口の中で何度も繰り返していた。ふと彼らと出会わなかったらきっとこういう生活をしていたんだろうと気づいて、みんなから離れて普段の生活に戻ることなんて考えられなくなっていた。

講義に出た帰りに大学横の側道で歩くアンを見かけて、車を停めて乗せた。特に予定があるわけでもなく暇だと言うと、彼女はタバコ屋に行ってみたいと言った。アンの気になっていたのは競馬場前の交差点の角にあるタバコ屋だった。外から見ると店内は薄暗く見えた。店の入口の上に張られた赤いオーニングテントは黒ずんでいた。狭い店内の棚には見たこともないような銘柄のたばこが並んでいた。店長と思われる男が奥にいて、アンが話しかけると棚の輸入品について一つ一つ教えてくれた。アンは上機嫌ではしゃいでいて、たばこをアクセサリーとして選ぶのもいいね、と笑った。アンはアークローヤル、僕はハイライト・メンソールを選んだ。彼女は帰りの車でクッションを膝に置きテーブル代わりにしてタバコの箱を開けた。煙を吐いて少し舌がピリピリするけどバニラみたいで甘いね、と呟いた。車の中が甘い煙に包まれていた。

ひとしきり飲んだ後アンとソファに腰掛けて映画を見た。少し肌寒い夜だったから毛布を肩にかけていた。リンとリョウは潰れてしまって寝ていたから、ダウンライトの照明だけつけていた。部屋はタバコの匂いで充満していて空気が重たかった。観ていたのはアンがいつか観たいと言っていたローマの休日だった。観る前までは王女が一日だけローマの街で自由を謳歌する話としか知らなかったが、真実の口で慌てて叫び声を上げるピュアなオードリー・ヘプバーンの姿はどこかアンに似ていて、彼女がこれを観たいと言っていた意味がわかった気がした。あくびもせず毛布にくるまって画面を見つめていたが、エンドロールが流れはじめると途端に眠くなってきていた。
「ねぇ、数日前にリンに抱きつかれたんだ」
エンドロールがしばらく続いた後にそう自然に口から出ていた。それじゃあ、きっとリン、ヨウのことが好きなんだよ、とアンが一呼吸おいてどことなく嬉しそうに言った。
「ねぇ、ヨウはみんながどうして誰かを好きになるんだと思う?」
「僕は好きだってことに理由なんてないと思ってるよ」
画面を見つめたままそう返した。
「前にヨウは私に、愛するっていうことは与えることだって言ったじゃない? 私、じゃあ具体的に何を与えるんだろう? みんな何が欲しいんだろう? って考えたの」
彼女はそう言い終えるとテレビの電源を消して腰を浮かせてこちらに身体を寄せた。
「それはね、熱だと思うの。私は、誰かの体温が、温もりが欲しいだけなんだよ、やっぱり」
そう言ってこちらに体重を預けるようにして倒れた。彼女の頬に掌で触れるとだいぶ熱っぽくなっていて、テーブルのブラックニッカの瓶を見ると今朝よりもだいぶかさが減っていた。彼女はそのまま小さく寝息を立てて眠り始めた。彼女が概念的なことを語るのは、特に恋愛について語るのは珍しいことだった。

その後一旦荷物の整理も兼ねてそれぞれの部屋に戻ることになった。その間不思議と誰からも連絡は来なかった。ある日の夕食後に本を読んでいる時に、不意にどうしようもないくらい大きな不安感に襲われた。急に胸が苦しくなって本を戻そうと本棚に手を伸ばしたところで、前にリンと買った天使像の置き物をカーペットの上に落として4つに割ってしまった。それからゆっくりと時間をかけてアロンアルファでくっつけた。直し終える頃にはすっかり明るくなり始めていた。カーテンの隙間から伸びる朝の光に天使像を透かすと、割れた跡が金継ぎのように輝いて見えた。

2週間が経って11月に入った。大学を休んでダリで、今度はスケッチブックにダリの見取り図を描いていった。今まで何気なく眺めていた絵画の額縁や家具でもいざ意識して観察すると、形の奇抜さやそこに置いてある意味に気がつくことができた。全てのものが新鮮に映った。この前までリンと2人で過ごしていたのが嘘のようで、ずっと1人だったんじゃないかと思えてくるほどだった。
ドアが開くとともにドアベルの鳴る音がして顔を上げるとリョウが入ってきた。窓の外を見ても彼のビートルはなかった。
「ここにいるんじゃないかと思って、大学から歩いてきたんだ」
彼はコーヒーを頼んで、タバコを取り出した。この間にピアッサーで開けたのか、彼の耳にはイヤリングがはまっていた。
「最近ヨウにならって小説を読み始めたんだ。時間の無駄だと思っていたけれど、案外面白いもんだな」
それは良かった、と返して何気なしに顔をあげると彼は意外にも神妙な顔でこちらを見つめていて、少しの動揺を隠すようにペンを置いた。
「なあ、話していいかい」
僕はいいよ、と答えてスケッチブックを閉じた。
「この2週間で、3日だけアンと2人で過ごしてね。朝にふと、ヨウが買ってくれた花が枯れ始めていることに気がついて新聞紙に包んで捨てたんだ。その後街にアップルパイを食べに行って、帰ってきた後は飲みながら部屋で映画を観た。その間、気づけばあの花のことが頭から離れなかった。ヨウは今何をしているだろう、とヨウのことばかり考えていた」
彼はタバコを灰皿に置いて、祈るように軽く胸の前で指を組んで続けた。彼の指にはあの馬蹄のモチーフを象ったシグネット・リングがはまっていた。彼の小指の付け根にはまだ治りかけの切り傷があって、傷に沿って血が固まっていた。
「この4ヶ月で、つまり俺がヨウよりも先に告白しようと決めてから、俺なんて消えてしまえばいいと何度考えたかわからない。俺がいなかったらヨウはどれだけ楽なんだろうという考えが、何をしていても頭から離れなかった。だからこの先俺が例えアンと別れても、4人が離れ離れになっても、この苦しさは永遠と無くならないと思うんだ」
彼は言葉を選びながら押し出すように声を出していた。そして小さく言い足した。
「アンと話をしてくれないか」
「わかった。連絡取ってみるよ」
そう伝えると、彼は肩を撫で下ろした。

アンを2人で峠のレストラン行こうと誘うと次の日の夜に行くことに決まった。彼女を迎えに行って、前に行った展望台までの峠道の途中にあるイタリアンレストランまで車を走らせた。彼女はあのFERRAGAMOの小さな丸い真珠のピアスをつけていた。慣れない環状線に合流してアクセルを踏み込んだ。峠のレストランに着いて車から降りると後ろに夜景が見えた。山の斜面から峠道に沿って冷たい風が下の街へと流れていった。僕らはしばらく峠道を通り過ぎていく車のすぐ脇に立って街の方を眺めていた。眼下には僕らの街が3か月前とほぼ同じように見えたが、レストランが展望台よりも麓にある分一つ一つの光がより大きく輝いているような気がした。彼女はそれを眺めながら、綺麗ね、と笑った。

店内は外観から想像するよりも広く、まだ客はまばらだった。席に案内されると、アンはダウンジャケットを脱いでハンガーにかけた。下には黒のVネックワンピースを着ていた。
「ヨウとご飯来るの、ひさしぶりだね」
「いつぶりだっけ?」
「1年半ぶりだよ」
「すごい前ね」
2人ともパスタを頼んだ。アンは慣れた手つきでナフキンを腿に広げた。
「この間は何して過ごしてたの?」
「買い物したり、一人で過ごしてたよ」
「アンは?」
「私はリョウと出かけたりしてたの」
それから、彼女は車を親に買ってもらえるようになったこと、それがマツダのアクセラセダンであることを話した。僕はしばらく黙って彼女の話に耳を傾けていた。彼女は涙目になっているように見えた。これからはやっと私が運転して4人で出掛けることができるんだよ、と嬉しそうに言った。
「ねぇ、4人でこの先も過ごそうって話してたけどやめようと思うんだ」
その時彼女の話を遮るように、そう口をついて出ていた。その瞬間彼女と目が合って、その動揺している様子が見ていられなくなって、目を逸らして窓の外の夜景を眺めた。

「ねぇ、ヨウは自分の気持ちを押し殺してたんでしょう?」
彼女の声が急にして、窓から正面に目を移すとアンはこちらをまっすぐ見つめていた。潤んだ瞳のまま拭おうともしないで、これを伝えた結果今までの関係が壊れたって構わないというような強い意志を持った目だった。
「ヨウはいつも胸にしこりがあるような態度だった。私は君の気持ちに気づいてたよ」
おっとりしてるように見えたアンは実は僕の気持ちについて考えてくれていたのだった。しかし、それを気づかないふりをしていた彼女の真意まではわからなかった。
「どうして、また、」
「私、この4人がみんなどうやったら幸せになれるか考えてたの」
それから彼女はその理由について語り始めた。用意してきた言葉を思い出すように、一つ一つ伝え漏れがないように確かめながら話した。
「前に楽しいことはあったんだって大学に入って気づいたって言ったじゃない? でも私の今までの人生は、こんなに楽しくなかった。だからいつからか、今楽しいってことはこの先楽しいことがないかもしれないってことの裏返しだって気づいたの。それは年が若いとか、若くないとか関係ないわ。もっと広い意味で、ね」
そこで少し咳をして水を飲んだ。
「少なくとも私はこうも楽しい時が永遠に続かないことを知っている。そしてそれはみんなリンもリョウもみんな感じてるんじゃないかって思うの」
テーブルに目を落として、細い指でテーブルのカトラリーに触れてその少しのずれを直した。
「だからこそ、好きな人と少しでも一緒にいれたって言うことは、それだけでこれからのとてつもなく長い、もしかしたら今より楽しくないかもしれない人生の限りない財産になると思うの。たとえ一緒にいられた時間がほんの少しの間だけだとしても」
唇がスローモーションに動いているように見えた。
「私はリョウと触れてみて、愛されるっていいなあって心から思った」
そう言いながら視線を外して恥ずかしそうにしたが、すぐにこちらに向き直した。彼女の瞳は宝石のように純粋な光を讃えていた。
「ねぇ、リンと付き合ってみてくれない?」
彼女がそう言った時にちょうどパスタが運ばれてきた。

帰りは車通りも少なくなったこともあり環状線でもゆっくりと車を走らせることができた。
「ねぇ、今から馬鹿なことを言うけれど聞いてくれるかい?」
彼女はちょうど取り出しかけたタバコを箱に戻して、ダッシュボードの上に放った。
「オパールが胸の中に埋まってるんだ。それは若いうちに何かを成し遂げなければって焦らせてくる。アンのことを考えるとそれが胸を締め付けていった。つまり、アンと一緒になることでその焦りも無くなると思ってたんだ」
恥ずかしく、隣の彼女の顔が見られなかった。
「それがオパールだ、って本当に言えるの?」
彼女はそう小さな声で聞いた。そして僕の返事を待たずに続けた。
「つまりね、リンとリョウの2人の願いよりも大切な価値高いものなら、2人を捨てて私と2人きりになることだってできた。でもヨウはそうしなかったでしょう? ということは4人でいることがそれと同じくらい大事なことだったんじゃない?」
そして間違ったことを言ったかのようにしばらく黙った。その間も環状線の照明灯が前から後ろへと絶え間なく流れていった。
「リンに触れて熱を感じ続ければ、そんなこときっと気にならなくなるよ。きっとそうやって私たちは若さを消費して、老いていくから」
それからアンは窓を少し開けて、器用に口笛を吹いた。それはAlessandra RanieriのI wish I need youだった。
アパートに着いてアンが車から降りると窓を叩いてきた。開けるとドアを掴むようにして窓の縁に指をかけた。
「ねぇ、別に大学を卒業したって同じ病院で働けばいいじゃない? また、4人が2人ずつになっても、4人で暮らしていろんなとこに行こうよ」
「ああ、」
「またね」
アンは満足そうに笑って手を振った。その笑顔をいつまでも忘れないだろうと思った。

その週末にリンを前に行った砂丘に行こうと誘った。SWAROVSKIのネックレスと2000円の白いラナンキュラスの花束を準備して後ろのシートに置いた。昼過ぎにアパートまで迎えに行くと、彼女はこの前に買った厚手の黒いタートルニットを着ていて、それ以外アクセサリーなどは何も着けていなかった。その代わり珍しく髪を軽く巻いていた。その訳を聞くと一瞬言葉に詰まって、そしてその動揺を僕に気づかれるのを嫌がるように前を見つめたまま、あの落ち着いた調子で口を開いた。
「この間で今までの4年間について振り返ってみたの。それで、私にはこんなの要らないって気づいたの。着飾っても何も解決しなかったから」
彼女は軽く乾いた咳をして、収納に入れたペットボトルを取った。
「タバコも、もう来月からやめようと思うの」
「それがいいよ」
それからリンはペットボトルの水をゆっくりと飲んで、ショートホープを1本取り出して火をつけた。

砂丘に着いて、その入り口で車を停めた。もう夕方で周りには誰もいなかったから、多少路駐しても問題はなさそうだった。単に凪の時間帯だったからかもしれないが、風の全くない日だった。前に来た時に比べて空気がひどく冷たくなっていたが、その空気に晒された砂は相変わらず乾ききっていた。僕は3人について途切れ途切れに語りながら砂丘を越えていった。リンは僕の少し前を歩いていった。
「小さい頃は父の田舎の病院についていくことが多かった。入院しているのはほとんど寝たきりの老人で、彼らはいつも孤独だった。僕は何も成すことのないまま、彼らみたいに一人きりで最後を迎えるんじゃないかって漠然と不安になっていた。だからこそ、若い時間を無駄にしないで、早くこの不安を取り除きたいと思っていた」
話し始めても、リンは歩く速さを緩めることなく振り向こうともしなかった。彼女は黒のフラットパンプスを履いていて、砂丘を登り砂を踏み締めるたびに、それと足の隙間に砂が入っていた。僕の靴にも同じように冷たい砂が入っていった。
「そんな時にリン、リョウ、アンに出会ったんだ。4人で過ごす中で、その不安は徐々に薄れていった。誰かと過ごすことがこんなにも心地良いものだと知らなかった」
砂丘を2.3越えるとようやく波打ち際が見えてきた。次第に2人とも息があがって、口の中が渇いていった。
「でも、アンを好きになって、アンが僕の中でリンとリョウよりも大きな存在になった。今まで通りに4人で生きていくだけでは満足できなくなったんだ。もしアンから拒絶されれば、このまま誰かを愛することのないまま、生きることになってしまう。また一人でその不安を抱えて生きていくのだと思っていた」

誰もいない砂浜はその終わりが見えなくなるほど遠くまで広がっていた。潮のきつい匂いが妙に懐かしかった。いくつか流木が転がっていたが、前よりも数が少なくなっていた。渚に着いて、波が届くほんの手前でリンは立ち止まり、海の方を眺めた。僕はその隣に立った。深いエメラルドグリーンの波が引いては戻っていき、その光の粒が弾けては消えていった。それはここだけ他の場所から取り残されているように見えるほど綺麗だったが、いつまで待っても天使なんて現れないことを僕らはもう嫌というほど知っていた。
「でもね、それは4人とも感じてたんだ。みんな自分の中の理想の未来を願っていた。そこで初めて一人じゃなかったんだって思えるようになった」
彼女は手を肘に添えるようにしてお腹の前で組んでじっと動かさなかった。彼女の瞳は潤み、波の色が写っていた。顎を引いて軽く唇を噛みながらも、微動だにしないで水平線をしばらく眺めているように見せた。僕はそんな横顔を見ながら、上着の内ポケットからネックレスを取り出した。
「付き合おう」

彼女は遠くを見るような目をしながらもぱっとこちらに顔を向けて、それからSWAROVSKIのネックレスに気づいた。唇が震え、目からは堪えていた涙が今にもこぼれ落ちそうになっていた。その様子が見ていられなくなって、肩を寄せて強く抱きしめた。
「前に美しく生きることについて話してくれたじゃない? そのことについてしばらく考えていたんだ。夜通し映画観て、お酒も飲んで、喫茶店に通って。休みの日はビリヤード場とか美術館にも行って。たまには贅沢して美味しいものを食べて、タバコだって気が済むまで吸い続ければいい。そうやって今まで通り4人で生きていければ、あとは何も要らなくなると思うんだ」
彼女は黙ったまま僕の胸に顔を埋めて、こちらに体重を預けた。
「僕は時間をあげる。若い時間を全部、何年でもいい。その代わりにリンは熱を頂戴。その熱を感じながら君のために生きたいんだ」

首の後ろに手を回してネックレスを通すと、彼女は嫌がって軽く首を振った。手が震えて留め具をつけるのに随分時間がかかった。つけ終わって離れると彼女は僕の腕を引いて、バランスを崩した僕はリンに覆い被さるような形で砂の上に倒れた。渇いた冷たい砂が掌に付いた。彼女は買ったばかりのニットが砂で汚れることなどどうでも良いようだった。彼女が瞬きをするたびに堪えていた涙が頬を伝っていった。軽く巻いた髪には乾いた砂が付いてしまっていて、僕はゆっくりと髪を指で解いて砂を払った。そして今度は半ば諦めたように僕のするがままにさせて、そのままじっとしていた。

しばらくしてリンは僕の胸を両手で押して僕をどかそうとした。しかし石膏像のように全く身体が動かず、ただ瞬きもせずに彼女を見下ろすばかりだった。僕が覆い被さっていることで彼女の眼には何の光も入って来ず、彼女の瞳はまるで他の色を知らないかのように黒い光で満ちていた。彼女は肋骨の間に指を食い込ませた。僕の身体に埋まったブラック・オパールを砕こうとするかのように、次第にその力は強くなっていった。

さよなら、オパール

執筆の狙い

作者 砂丘
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約4万字です。自分の体験を形にしようと思い書きました。文章がおかしいところが多いですが、読んでいただけると嬉しいです。

コメント

コンコルド
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>「いつも若さについて考えていた気がする。」この文章好きです。
ここからは個人的な感想ですので、気を悪くされない程度に見て下さい。
とにかく長い…読み切るのにだいぶ時間はかかりますが、読み終えた満足感や面白さはひとしお。
文章的には少しゴチャゴチャしてる気がするので、あとはそこを直したらより面白くなると思います。

アン・カルネ
KD059132071224.au-net.ne.jp

狙いに「文章がおかしいところが多いですが」とあったので。それは後から推敲すれば良いのでは? と思いました。

若干、いつの時代の話なんだろうと思わなくもなかったのですが、私自身今のリアルな大学生を知らないので。今どきの大学生も一昔前の大学生と“感性”は似たり寄ったりですよ、と言われたら、そうか、な程度の事ですから気にしないでください。それなら書くな、と言われてしまいそうで、そこはごめんなさい、です。書いてしまったのは、私自身は読みながら思い出を辿るような感覚で読めてしまって、いちいち、ああ、そうね、そういう思いがあったわね、なんて頷いてしまったのですけど、おばさんの私がそう思うという事は、瑞々しさの点ではどうだったのだろう、とちょっと思ってしまったからなのでした。

途中、ちょっとドキドキしてしまったところ。
リョウくん、実はほんとに好きなのはヨウくんなんじゃないかと思ったりして。ヨウくんがアンちゃんを好きだからアンちゃんが好きになっちゃったんじゃないの? と。深読みし過ぎ。
リンちゃんが切なかったですね。

シーンの作り方の中で、効いてるなあと思った台詞。
「ねぇ、答えになってないかもだけど私は誰かのために生きたいの。それだけを目標にしてるの。ヨウもそうすればいいじゃない?」
「なぁ、いい日があって悪い日があるんじゃなくて、ずっと中途半端な優しさに包まれた日々が続けばいいのにな」
「僕は時間をあげる。若い時間を全部、何年でもいい。その代わりにリンは熱を頂戴。その熱を感じながら君のために生きたいんだ」

とても心を衝かれた台詞。
「だからこそ、好きな人と少しでも一緒にいれたって言うことは、それだけでこれからのとてつもなく長い、もしかしたら今より楽しくないかもしれない人生の限りない財産になると思うの。たとえ一緒にいられた時間がほんの少しの間だけだとしても」
これは本当にすごく頷いてしまいました。“人生の一番良い時”はやがて心の聖堂になってゆくものですものね。

良い小説でした。良かったです。

夜の雨
ai224059.d.west.v6connect.net

砂丘さん「さよなら、オパール」の「(1/3)諸問題の立ち上がり」読みました。
御作は「115枚」あるので、そのうちに「39枚」です。

なかなか良いですね、しっかりと青春という時代が描かれています。
物語が結構掘り下げられているので、読んでいて、じんわりと良さが伝わってきます。
どこが掘り下げられているのかというと「命」の時間とかが、「主人公の父が医院長の病院」での「年老いた患者さん」の風景(存在)からも感じられますし、大学でのモルモットの生体実験後の「主人公の掌の中でのぬくもりと心臓の鼓動」そのあとのゲージでの「死」へと。
こういうお話が主人公の青春という世界の中であるのですね。
こういった縦の関係のエピソードと横の関係の友人たちとのエピソード。
とくに「主人公(ヨウ)」とヒロインの「アン」。そこにきて、ふだんは冷静で理知的な「リン」が、主人公へ影響を与えるときは、何やらかわいい存在がよい。リンは主人公のヨウが好きなのですね。
「リョウ」は上の三人のなかでは、登場数がまだ少ないですが、ストレートな性格で仲間をひっぱる存在という事が伝わります。
アンをリョウとヨウでという三角関係。
そこにきてリンがヨウに告白するエピソードが「ぞくぞくする良さ」がありますね。

この『諸問題の立ち上がり』の章は、内容が心に響くものがあります。
ただ読んでいて文章等の流れが悪いのか、読みにくさがあり、読み進めるのに時間がかかります。
このあたりは推敲をしっかりとしていないからなのかと思いますが。

引き続き、ラストまで読みたいと思いますが、時間がかかりそうなので、読了は明日になるかもしれません。


それでは。

砂丘
KD106146077139.au-net.ne.jp

コンコルドさん、素敵な感想ありがとうございます。

堀辰雄の風立ちぬと村上龍の限りなく透明に近いブルーを片手に書いたのですが、本をあまり読まないこともあって、おかしな文章もどう直せば良いかわかりませんでした。もう少し自分なりに推敲してみようと思います。
また次の作品を書くことがあったら、次はもっと沢山本を読んでから書き進めようと思います。

読んでいただきありがとうございました。

砂丘
KD106146078130.au-net.ne.jp

アン・カルネさん、素敵な感想ありがとうございます。

推敲が自分的に一番難しい作業でした。もう少し自分なりに推敲してみようと思います。

今回の作品は、今までの大学での4年間を一緒に過ごしてきた友人たちとの体験を自分なりに形にしたいと思い、書き始めました。
だいぶ脚色していますが、ストーリーの大筋は実話に基づいています。そしてそこに自分が彼らと共有したもの(例えばタバコやトランプ、ビリヤード)を載せました。

古めかしい感じの作品になってしまったのは、僕が2010年代にあったレトロブームに影響を受けた10代を過ごしたのもあって昔のものへの憧れが強く、彼らとすることがビリヤードなどだったからかもしれません。

「リョウ」のモデルとなった男の子は、実際とても博識で曲がったことが嫌いで僕らのリーダーのような存在でした。彼はいつも僕の憧れで、同性として彼のことが好きでした。そして彼も「俺は君の人間臭いところが好きだ」と言ってくれていました。リョウがヨウのことを好きなのかもしれないと思わせたのは、僕が無意識に「彼が僕のことを好きでいてほしい」と願っていたからだと思います。

心の聖堂、とはその通りであると思います。これからの人生の中で、この思い出(と小説)は僕の中で心の聖堂として鎮座し続けると思います。彼らにとってもそうであったらいいなと願うばかりです。

読んでいただきありがとうございました。

夜の雨
ai203021.d.west.v6connect.net

砂丘さん「さよなら、オパール」読みました。

原稿用紙115枚あったわけですが。
ちょっと長いですね。
タイトルになっている「オパール」は、ヨウの内面を象徴しているのですかね。
彼の胸の中で膨らむ「オパール」は、焦燥感、不安、選択の迷いとか。それが物語が進むにつれて成長し変化していくとかですかね。


次々とエピソードを書いて、焦点(オパールの意味)がわかりにくいかなと。
冒頭すぎの大学でのモルモットの心臓の鼓動とか掌の中でのぬくもりとかが、作品の後半でヨウがリンを抱きしめて体温を感じるシーンがありましたが、先のモルモットのエピソードが複線かと驚きました。

あとヨウとリョウとの関係ですが、男同士でも熱い友情があるのだと感じました。
性的な意味合いは「ない」と思いました。

描かれている世界は四人の若い男女の交流が深く掘り下げられていましたが。
御作はエンタメではなくて文学作品なので、読んでいて「これでいいのか」とも思いましたが、構成とかを練りこんで作品の方向性をしっかりと見つめなおした方が良いかな。

登場人物の人物像はそれぞれのキャラクターとして違和感はなかったですが。

ひとつひとつの場面自体はよいのですがね、ラストまで読めましたので。
どうも、構成に問題があるように思います。

文章自体は読ませる力がありました。

ということで、お疲れさまでした。

砂丘
KD106146078106.au-net.ne.jp

夜の雨さん、素敵な感想ありがとうございます。

命の時間については僕が10代の頃から考えていたことでした。そしていつも彼らに語っていたことでした。
「リン」はそのモデルとなった子とほとんど変わらない人物として書きました。そのキュートさと真の強さを全面に出しました。リンがヨウに告白するエピソードは自分自身好きな場面なので嬉しいです。

推敲が自分的に一番難しい作業でした。もう少し自分なりに推敲してみようと思います。次は村上春樹などを読んでみたいです。

2.3章からは少々尻すぼみ感が否めないですが、読んでいただけると嬉しく思います。

ありがとうございました。

夜の雨
ai193114.d.west.v6connect.net

砂丘さんへ。

>2025-04-05 22:58<
上の感想は、御作、読了の時間です。

ラストまで読んでの感想です。

砂丘さんは底力がある方だと思いますので、次回作楽しみにしています。

砂丘
KD106146077168.au-net.ne.jp

夜の雨さん、続きをお読みいただきありがとうございます。

ストーリーとは別に書きたいこと(①命の時間②それを主人公がオパールという具体的なものとして感じていること③熱の存在について)が書き進めていくうちに次々と湧いてきてしまって、それを絞らなかったために長くなってしまいました。今度改めて推敲する時には、熱について掘り下げようと思います。

オパールは、夜の雨さんのおっしゃる通り焦燥感、不安を具現化したものでした。これは僕自身が幼い頃から何か苦しい思いをすると割り箸を口に咥えている感覚に陥っていたことが元になっています。「物語の最後まで結局は壊すことのできない何か」を表現しようとしました。これは限りなく透明に近いブルーのリョウが見た黒い鳥をイメージしました。

熱は、実際に彼らと過ごす中で考えていたことでした。モルモットの話もよく話していたことでした。「結局、熱さえあれば恋愛感情なんて必要ないんじゃないか」というのがこの物語の結論の一つになっています。
その結論をもっと全面に出して、作品の方向性を示す必要がありました。

<御作はエンタメではなくて文学作品なので、読んでいて「これでいいのか」とも思いましたが

書いている時はとにかくごちゃごちゃした小説ににしたいと考えていたのですが、伝えたいことがはっきりしている分物語の根本はシンプルにした方が良かったと思います。

むしろ書いている時は登場人物のキャラクターに違和感があるのではないかと心配でしたが、そこまで問題がなかったと知り安心しました。

夜の雨さんの素敵な感想を通して、小説のプロットへの理解が深まりました。次にまた新しく小説を書くことがあればこれらを意識して書き始めてみようと思います。

深いところまで掘り下げていただき嬉しい気持ちでいっぱいです。お読みいただきありがとうございました。

砂丘
KD106146076018.au-net.ne.jp

夜の雨さん

ページの更新しないまま返信を書いていましたので、返信が前後してしまいました。読みづらくなってしまいすみません💦

あたたかい感想感謝いたします。お読みいただきありがとうございました。

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