『道先』 『駅前の時計台』
『道先』
夜の公園は静寂に包まれていた。街灯がぼんやりと長く冷たい影を地面に落としている。遠く、木々の間を風が静かに通り抜け、その音だけが響いていた。空気はひどく澄み渡り、時間が止まったかのようだった。夜空に散らばる星々は、はるか昔の光を受け継ぎながら、今も消えずに瞬いている。
少年は公園のベンチに座っていた。その理由を、彼自身もうまく説明できなかった。ただ、目の前に広がる道がどこへ続くのか、分からず確信を持てないまま、座り込んでいた。何かを考えようとすればするほど、思考は霧の中に迷い込み、答えにたどり着けないまま宙を漂っている。
「こんな夜の公園に人がいるのは珍しいな」
不意にかかった声に、少年は振り返った。そこに立っていたのは白髪の老人だった。ゆっくりとした足取りで、だが確かな意志を持って歩いてくる。彼の目は、少年には見えない何かを見通しているようだった。
「あなたも、ここで考え事ですか?」
少年はどこか無機質な調子で尋ねた。老人はにっこりとほほ笑み、ベンチに腰を下ろした。その表情には、長い歳月を生きてきた者だけが持つ深い味わいがにじんでいた。
「考え事だよ。夜が深くなると、人はつい物思いにふけるものさ。でも、考えを言葉にしてみると、時に自分を縛ることにもなる」
老人の言葉の意味を、少年はすぐには理解できなかった。ただ、その響きが妙に心に引っかかり、すぐに消えることはなかった。
しばらくの沈黙が訪れた。夜風が二人の間を通り抜け、葉擦れの音はかすかに聞こえる。その静寂の中で、少年はふと、自分が何を求めてここにいるのかを考えた。
「僕は、何を夢見ればいいのか分からないんです」
ぽつりと漏れた言葉に、老人はゆっくりうなずいた。その視線は、少年をじっと見据えていた。そして、やがて老人は低い声で語り始めた。
「昔、私はある場所に迷い込んだことがある」
唐突な老人の言葉に、少年は耳を傾けた。老人は少し間を置き、続ける。
「その場所には、二つの道が交差していた。一つは、見通しの良い道。どこまでも続いているように思えた。もう一方は、先に壁が見えている道。しかし、私は道を前にしてそのどちらにも足を踏み入れなかった」
少年はその話に、微かな驚きを覚えた。
「どうして選ばなかったんですか?」
「どちらを選んでも、たどり着く場所は同じだったからさ」
少年はその言葉を胸にしまい込み、しばらく黙っていた。老人の言葉は、遠くの音楽のように響いていたが、その全てを理解するにはまだ彼は若すぎた。だが、心の中で何かが変わり始めていることは確かだった。
「道というのは、選ぶものではなく、気づけば歩いているものなんだよ」
少年は、これまでの老人の言葉を理解することはできなかったが、その言葉だけは静かに少年の胸に落ちた。
「でも、選ばずにいることは不安ではありませんか?」
少年は思わず口を開いた。老人はその問いに、静かに笑った。その笑みには、どこか懐かしさと諦念が入り混じっていた。
「不安こそが、生きるということさ。迷いながら、それでも歩く。それが大事なんだよ」
少年は何も言わず、その言葉を胸にしまい込んだ。老人はゆっくり立ち上がり、歩き出した。
「それじゃあね」
夜の静寂の中に、その言葉だけが溶けていった。
──翌朝。
少年は何気なく街を歩いていた。そのとき、近所の婦人たちの会話が耳に入った。
「昨日、隣町の老人が息を引き取ったんですって」
少年は足を止めた。胸の奥に、何かが込み上げる。しかし、それが悲しみなのか、喪失感なのか、はっきりとは分からなかった。ただ、昨夜の言葉が、遠くの灯りのように心の中にともっていた。
その日の夕方、少年は公園に足を運んだ。いつものベンチに、老人の帽子は置かれていた。誰が置いたのかは分からない。だが、それは老人がまだそこにいるかのように、静かにたたずんでいた。
少年はそっと帽子を手に取る。そして、ゆっくりと公園の出口へ向かって歩き出す。
道は続いている。その先に何があるのかは分からない。けれど、いつか自分の歩むべき道が明確になり、その先に光が見えることを、彼は確信してた。
〈了〉
『駅前の時計台』
駅前の広場には、ひときわ目を引く時計台がそびえていた。昼は時間を告げる鐘が鳴り、夜には沈黙し、街の風景に溶け込む。
駅を利用する人々は、その音に耳を傾け、時刻を確かめながら足を進める。彼らは意識していないようでいて、時計台に支配されていた。
広場に立ち、何気なく周囲を見渡すと、目に入るのは、いつものように腰をおろしている老人だった。名前も知らないその男は、毎日同じ場所で同じ格好をしている。ぼろぼろのスーツに、ゆるんだネクタイ、そして焦げ茶色の帽子。それが彼の特徴だ。
彼の横には、今日もまた古びたリュックサックが転がっている。その中には何か重いものが詰まっているのだろう。彼にとっては、何の価値もないもののようだが、側から見れば唯一の財産のように映る。通り過ぎる人々は彼を見ても、無視して立ち去るのが常だった。
その日も、老人は時折うなだれながら煙草を吸い、空を見上げていた。煙が空に舞い上がると、時折風がその煙を吸い込み、街の片隅に消えていく。
「君、少しだけ話をしないか?」
突然の声に立ち止まったのは、一人の若い男だった。顔には疲れの色がにじみ、歩き方にもどこか力がない。
「君が話したいことがあれば、聞くよ。」
男は少し立ち止まり、考え込んだ様子を見せた。やがて、老人の横に腰を下ろしたが何を話せばいいのかわからないようだった。
時計台の鐘が鳴る。人々は足早に通り過ぎ、誰も二人には目を向けない。
老人はゆっくり煙草をくゆらせ、男の様子を見つめていた。しばらくの沈黙の後、男が口を開きかけたとき、老人がぽつりと言った。
「お前は、何がしたいんだ?」
男は開きかけた口を閉じ、それからしばらく考え、答えた。
「僕は、どうしても自分の人生に意味を見つけられなくてね。」
老人は驚いた様子もなく、ただゆっくりと煙草の火をくわえなおした。
「それは不思議なことじゃない。誰だってそうだ。ただ、問題はその『意味』を探し続けることに意味があるかどうかだ。」
男はその言葉に何も言わず、前を見つめた。老いた男の目は、どこか遠くを見つめているかのようだった。
「君の人生に意味があるとすれば、それはどこで見つけるものだと思う?」
男の答えは簡単だった。
「まあ、どこでもいいさ。僕はただ、何かを見つけたいだけなんだ。」
老人はにやりと笑い、煙を一息に吐き出す。
「君が求めているものは、結局、君自身の中にあるものだ。だが、どうしてもそれに気づけないのは、きっとその答えが君にとって重すぎるからだろう。」
男はその言葉を呑み込むように静かにうなずいた。そのとき、時計台が鳴る音が広場に響いた。老人もその音に耳を傾け、目を細めた。
「お前、時間に縛られていることに気づいてるか?」
男は驚いたように顔を上げた。
「いや、そう言われても…時間に縛られるってどういうことですか?」
老人は、しばらく黙った後、ふっと笑った。
「この広場にいる限り、君は永遠に時間の奴隷だ。ただし、君の時間がどう使われようと、それを誰も評価しないし、見ていない。だからこそ、お前の『意味』を見つけようとするその行為が、実はすべて無駄だということに気づかないんだ。」
その言葉に男は驚き、次第に沈黙が流れた。
しかし、老人は続けた。
「君が求める『意味』というのは、結局のところ誰かが作り上げたものにすぎない。自分自身が求めた意味を見つけることこそ、逆に言えば『それを求めること』が一番無意味なことだと分かる時が来る。それが人間だ。」
男は考え込んだまま、やがて時計台を見上げた。
「さて、君にはもう十分だろう。この意味が分かったら、もう行け。」
男はただ一言「ありがとうございました。」とつぶやき、立ち上がった。足早に歩き出し、もう振り返ることはなかった。
老人はその背中を見送りながら、再び煙を一息に吸い込んだ。やがて、煙がふわりと風に乗って広場の隅に消え去り、時計台の鐘の音が静かに鳴り響いた。
それが最後に響いた時、老人はついにそのリュックサックを開けた。中身は予想外にも、たくさんの紙切れが積まれていた。その一枚一枚には、かつては意味があると思い込んでいた「価値」が書かれていた。だが、それは今はただの文字の羅列になっている。
老人はその紙をゆっくりと引き抜き、風に乗せるように撒き散らした。
時計台の鐘が最後になる時、その紙切れはひらひらと舞い、広場の隅へと消えていった。
「これが、人生だ。」
老人はそう呟き、静かに目を閉じた。
〈了〉
執筆の狙い
伝えたいことを全面に出し過ぎて、哲学的になってしまった作品たちです。
どちらが興味深かったについても、教えていただけると幸いです。