破軍
【五人組】
「おう市之助、ちゃんと年貢は用意できたか?」
半開きの板戸をガラリと開き向かいに住む新八郎がぶっきらぼうに言う。
「ああ、ここんとこお袋も俺も満足に食っちゃいねぇが、なんとかお上に納める分だけは確保したさ。そういうお前はどうなんだ?」
市之助は空腹を紛らわすため茶碗の水を一気に飲んだ。
「俺も似たようなもんさ、女房も乳の出が悪くてな。赤ん坊も腹ぁすかせて泣いてばかりだ」
「藩主様は身の丈に合わない城であぐらをかいてるってのにな」
「市之助、言葉に気をつけろよ。どこで見回り組が聞き耳立ててるかわかりゃしねぇ。特にお前はなおさらな」
その言葉に市之助は息を飲む。視線を落とし、ゆっくりと茶碗をおいた。
「悪い、口が滑った」
「気にするな。俺たちは一心同体の五人組。皆にはすまないと思ってる」
「よせよ、俺たちはお前を信じてる。だがな、他の組の奴らはわかったもんじゃねぇ。証拠なんざ関係ねぇ、密告があればたちまちお縄だ」
新八郎は両手首を縛られたような身振りをした。
時は寛永元年、豊臣秀吉により制定され徳川幕府に受け継がれた五人組制度。それは農村の五世帯を一つの組にまとめ、お互いを監視するためのものである。年貢を払えないものが組の中にいれば他の世帯全員で補填しなければならない。さらにその制度はキリシタン撲滅の目的もあった。神の前では皆平等という教えは、幕府にとって封建制度を揺るがしかねない危険思想なのだ。だが圧政に苦しむ市之助にとってはまさに神の言葉そのものだった。市之助だけではない、教えに希望を持つ者は少なからずいた。しかし発覚すれば棄教を迫られ、従わなければ厳しい処罰が与えられる。市之助は棄教する道を選んだ。信仰を捨てても「転びキリシタン」と呼び蔑む者もいる。もしまだ密かに信仰を続けているのであれば五人組全員がその責を負うことになる。新八郎の不安も無理からぬものだ。
市之助はおもむろに立ち上がり升に入れてあった麦を包むと新八郎に手渡した。
「女房に食わせてやれ」
「いいのか? お前だって食うの困ってんだろ?」
「草の根でも齧るさ。子供はいずれ貴重な労働力になる。今は俺が支える時だ」
「恩にきる。お前も早く身を固めろ。志乃に惚れてんだろ?」
「うるせぇ、用が済んだならとっとと失せろ!」
新八郎は笑い声を上げると足早に帰っていった。
【二年前】
「市之助、お袋さんの具合はどうだ?」
田植え帰りにばったり出会った勘兵衛が尋ねる。
「相変わらずだ。咳が止まらずに寝るにも難義してる」
「なぁ、これを試してみろ」勘兵衛は袖口から小さな包みを取り出して市之助に手渡した。
「なんだこれ?」
「ラウダナムという南蛮の薬だ」
「南蛮の薬って、お前まさか切支丹《キリシタン》か?」
市之助は眉間に皺を寄せて勘兵衛を睨む。
「声がでかい気をつけろ。ああ、だが確かに俺は南蛮宗の教えに従っている」
「悪いな関わりたくない。安心しろ密告したりはしない。もしお前や他の五人組が処刑されるようなことになれば村全体の年貢があげられるからな」
「待て待て」足早に立ち去ろうとする市之助の肩を掴み勘兵衛は強引に振り向かせた。
「考えてもみろ! 仏が俺たちを救ってくれたか? 俺たちに何をしてくれた?」
返す言葉が見つからず黙り込む市之助をよそに勘兵衛は続ける。
「宣教師のマヌエル様は皆が平等に暮らせる世の中を説いておられる。お袋さんに薬を飲ませてみろ。もし効果があったなら……その時は俺の話に耳を貸してくれ」
躊躇う市之助の手に半ば強引に薬を握らせると勘兵衛は走り去っていく。
去り際に勘兵衛が残した「お袋さんを救ってやれ」という言葉が頭にこだました。
市之助にとって勘兵衛とは大して親しくもない挨拶を交わす程度の仲だ。心から信用したわけではないが、他に手立てはない。市之助は藁にも縋る思いで母に薬を飲ませた。すると、あれだけ酷かった咳が収まった。穏やかに寝息を立てる母。まさか本当に基督《キリスト》は自分たちを救ってくれるのか? 翌日市之助の足は自然と勘兵衛の元に向かった。
「よく来たな市之助。来てくれると思ってたよ。立ち話もなんだ、上がれよ」勘兵衛はそれまで見せたことのない笑顔で市之助を招き入れる。
「他に信仰しているものははいないのか?」
「大勢いる。だが一気に詰め掛けたらたちまち役人の目に止まるだろ? 時折り上役に呼ばれて出向くとマヌエル様のお言葉を授かる。俺は日をずらして仲間たちを呼び、伝達するって寸法だ」
「なるほど、それならあちこちから借金の取り立てがやってくるのだと言い訳がたつな」
「その通りだ。だからこそお前にも俺の話を聞いてほしいんだ」
勘兵衛は饒舌に語り出した。藩主松倉重政の暴君ぶりは目に余る。
「赤ん坊が生まれりゃ税、生きているだけで税、死んでも死亡税、はては畳にまで税をかけられる始末。そんな不条理な世の中があってたまるか!」
勘兵衛の不満は止まらない。グイッと市之助に顔を近づけて腹の底から搾り出すような声で語りかける。
「わかるだろ? 俺たちは虫けら同然だ。畳の上で死ぬことさえ許されちゃいねぇ」
異論を挟む余地はなかった。これほどの重税を課す藩は他にない。勘兵衛が語る武士や農民が分け隔てなく暮らせる世の中など絵空事に思えた。だが母を助けた薬のこともある。心の底から信じたわけではないが、市之助の中で何かが変わった。
市之助は大きく息を吐き出したあと勘兵衛を見据えると重々しく口を開いた。
「もう一度詳しく聞かせてくれ」
そして市之助は南蛮宗の教えを受け入れた。
【宗門改め】
一年が過ぎる頃、市之助はすっかり宣教師の教えに魅了されていた。封建制度が支配する世の中をキリスト教が変えてくれると信じていた。そんなある日、いつものように勘兵衛の元を訪れた。
「市之助、こんど上役が俺のところで集会を開く。滅多にねぇことだ。きっとありがたい知恵を授けてくれるに違いない。他の奴らも来る。お前も来い」
「一斉に? いくらなんでも怪しまれるぞ」陽気に話す勘兵衛とは対照的に市之助は不安の色を滲ませる。
「大丈夫だ。返済が滞って取り立てが押し寄せたとでも言えばいい」
「しかしだな……」
「心配するな。俺に任せておけ」
市之助の不安は消えぬまま勘兵衛に押し切られ、集会の日がやってきた。
勘兵衛の家に人が溢れる。落ち着かない気分のなか市之助は一番後ろに立ち、上役の話に耳を傾ける。その時だった。
「宗門改めである!」突如雪崩れ込む役人たち。
まるで狙いすましたかのような出入り。内通者による密告なのか? 市之助は考えを巡らすがわかるはずもない。
「こっちです! 早く!」裏に抜け口があるのか、勘兵衛は上役を引き連れ奥へと消えた。
玄関先に立っていたのが災いした。市之助はたちまち捕らえられ、奉行所へと連れていかれた。
奉行所での取り調べは筆舌に尽くしがたいものだった。容赦のない処罰を受けて棄教するよう迫られた。首を縦に振らない者はその場で斬首されるか、後に火あぶりに処せられる。いくらキリスト教の思想に心動かされた市之助といえ、命をかけてまで貫くものではない。何よりこの道に引き込んだ当の勘兵衛は自分を見捨てて逃げた。何故俺がこんな目に遭わなければいけないんだ、全てあいつのせいだと市之助はあっさり棄教を決めた。
【転びキリシタン】
勘兵衛は田畑を放棄し逃散《ちょうさん》したままである。勘兵衛と同じ組の物たちはその穴を埋めなければならない。それが五人組という掟。勘兵衛だけではない、多くのものたちが処刑された。村人が減れば税収も減る。それを補うため年貢はさらに上がって村民を苦しめた。
日々の食事もままならない市之助は、何か食べるものはないかと海辺を散策する。すると打ち捨てられた漁師小屋からうめき声が聞こえてきた。
「誰かいるのか?」
市之助は恐る恐る中を覗くと、腹から血を流して苦しむ勘兵衛を見つけた。
「どうした勘兵衛? 何があった?」
「市之助か、すまん俺はとんでもないことを。ぐっ……」勘兵衛の顔が苦痛に歪む。
市之助にとっては自分を見捨てて逃げた憎むべき相手ではあったが、瀕死の勘兵衛を見捨てることはできないと、その身を抱き起こした。
「話してみろ」
「俺たちは騙されたんだ」乱れる呼吸をどうにか抑えて勘兵衛はゆっくり話しだした。
あの後、勘兵衛たちは宣教師マヌエルと上役たちの集う日野江城へと向った。一国一城制度により原城と共に廃墟となった城である。
「そこで俺は聞いてしまったんだ。奴らの恐るべき計画を。伴天連《バテレン》の目的は布教活動じゃない。戦の駒を集めて倒幕し、この国を支配するつもりなんだ」
市之助は耳を疑った。この国の信者《カテキスタ》を利用して乗っ取るなど考えもしなかったことだ。勘兵衛は傷口を押さえながらことの顛末を語り始めた。
「御主、一体どういうことですか!」
マヌエルは勘兵衛の問いに答えることなくその隣に立つ徳之助に尋ねる。
「まだ彼ニ話シテいないのデスカ?」
「ええ、その前に役人たちに踏み込まれてしまいまして」
バツが悪そうに言う徳之助に勘兵衛はくってかかる。
「あんた最初から知ってたのか? 知っていて俺たちを騙したのか?」
「騙してなどいない。私たちでこの国を変えるんだ。さすれば太平の世が訪れる」徳之助は勘兵衛の訴えなど意に介さず淡々と答えた。
「目ヲ覚ましナサイ。信じる者ハ救わレルのデス」マヌエルはロザリオを勘兵衛の目の前に掲げる。
「冗談じゃない。幕府の支配がポルトガルに変わるだけだ! 俺は抜けさせてもらう。どけ!」勘兵衛は徳之助を押し退け踵を返した。
「神はあなたノ進む道ヲ明るく照らすデショう」
「ああ?」
勘兵衛がその言葉に振り向いた瞬間、マヌエルはロザリオから引き抜いた短剣で勘兵衛の脇腹を刺した。
咄嗟に身を捩り致命傷を免れた勘兵衛は必死に逃げた。
「おや、思ったヨリ浅かったようデスネ」
「追いますか?」
「その必要はありマセン。戻る場所ナドないデショウ。放ってオケバ野垂れ死にマス」
そして、命からがら漁師小屋へとたどり着いたのだ。
「市之助、すまない」
そう言い残して勘兵衛は事切れた。
もし、誰かに目撃されていれば勘兵衛と密会していたと密告される。市之助は奉行所に勘兵衛の死を知らせた。図らずもその働きを認められた市之助は転びキリシタンの中でも信頼のおける者と目されるようになった。
【棄教せず】
思い出したくもない過去が市之助の頭をよぎったのは同じ五人組である幸吉の家を訪れたことがきっかけだ。
仏壇に祈っていた時のあの手の組み方、市之助の存在に気づき咄嗟に崩したが、市之助はそれを見逃さなかった。キリシタンの祈り方だ。
密告して一時の褒賞を手にしたところでその後自分たちの負担が増えるだけ。キリシタンが倒幕するならそれはそれでいい。だがもう巻き込まれるのだけはご免だと胸三寸に留めた。
考えが変わったのは、新八郎からの知らせである。
「聞いたか? 志乃のやつ幸吉といい仲になっているって噂だ。お前、本気なら早くしないと取られちまうぞ」
市之助は矢も盾もたまらず志乃の元へと走る。幸吉はキリシタンだ、一緒になれば志乃の命も危ないと必死に訴えた。
「ごめんなさい市之助さん、私はもう戻れません」
今なら間に合う考え直せと迫るも志乃は静かに首を横に振る。
「私も御主の教えに従う身。この子の為にもこの国を変えなければいけないのです」
志乃はお腹に手を添えながら伏し目がちにそれだけ言うと市之助の元を去った。
程なく、幸吉と志乃は祝言を上げた。孕っていた子は流産したとの報が市之助の耳に入る。志乃への想いが憎しみに変わりつのっていく。そんな折に、母が逝去した。もう市之助に守るべき者などいない。
「俺は一体何のために尽くし、生きてきたんだ」絶望に打ちひしがれ、市之助は力無く呟く。
なにもかもどうでもよくなり、捨て鉢になった市之助は奉行所へと向かう。
「幸吉と志乃は切支丹です」
証拠よりも証言が優先される時代。それも転びキリシタンの市之助の密告は役人を動かすのに十分だった。
志乃は棄教するだろう。そうなれば幸吉から取り戻せると、市之助の狂気が暴走したのだ。
「私たちは決して棄教などいたしません」それが二人の最後の言葉だった。
怒り狂った役人は二人を火あぶりの刑に処した。
「そんな、……馬鹿な」
炎の中で志乃が黒く、黒く、焼け焦げていく。鼻をつく臭いにたまらず嘔吐した。
「俺は、俺は一体何をした?」
志乃の死が市之助の良心を揺さぶる。空き家となった幸吉の家で、市之助は自責の念にかられ立ち尽くす。
ガタンッ
「なんだ?」床下から聞こえた音を不審に思い床板をめくる。
「うわーん」
そこにいたのは幼い女児。市之助はすぐさま状況を理解した。幸吉と志乃は子供を守るため、流産したと嘘をつきその存在を消したんだと。
市之助は、お千という名の女児を、親を失った遠縁の子として引き取り育てることにした。それが自分にできるただ一つの罪滅ぼしだとして。
【復讐】
圧政の中ではあったが、お千は市之助にもよく懐き、健やかに育っていった。年を重ねるごとに志乃に似ていくお千。彼女の成長は市之助にとって嬉しいものでもあり、消え去ることのない罪をまざまざと見せつけられるものでもあった。
寛永八年、暴君と呼ばれた松倉重政から藩主の座がその息子勝家へと移る。これで重税もいくらか緩和されるのではないかと期待する者もいたが、税の取り立てはさらに厳しさを増していく。払えない者は拷問にかけられ、その中で命を落とすことも珍しいことではなかった。
「こんな中で、どうやって生きていけばいいんだ?」
市之助は勘兵衛の話を思いだした。いっそポルトガルに支配された方が良いのではないかと、そんな想いが頭の中を駆け巡った。
そんな中、さらなる災難が市之助を襲う。市之助の住まいが火事に見舞われた。混濁する意識の中、お千の声が聞こえてくる。
「おっ父、おっ父! 起きて!」
煙に咳き込みながら市之助は、お千の肩を借りて倒壊寸前の家屋から逃げ出した。くべる薪すらない暮らし、付け火であることは明白だ。
「くそ、一体誰がこんなことを……」燃え盛る炎を呆然と見つめながら市之助は怒りに震える。その言葉に反して市之助には思い当たる節があった。密告が発覚しキリシタンに報復されたのだと。
だが、次の瞬間市之助は信じられない言葉を耳にする。
「あたいだよ」
「お……千? お前、何を言ってるんだ!」
お千は静かに語り出した。幸吉と志乃が捕らえられる前から、お千はキリシタンの一員であった。幸吉と志乃の処遇に世間の注目が集まるなか人目を忍び、お千の元へとやってきたカテキスタたちから全てを聞かされた。両親が捕まったのは密告であったこと、そしてその密告者は市之助であるということを……。
「お前、それを知っていてずっと……?
俺を憎んでいながらなぜ今まで?」
人を呪わば穴二つ。市之助はお千になら殺されても仕方ないと思っていた。だがお千は自分を助けた。何故だ? 市之助はお千の行動に理解が追いつかない。
お千は火あぶりになって処刑された両親の無念を晴らそうと、いずれ復讐しようと計画していた。そして今日がその時だと。
「でも、できなかった。もうお父んもあたいの中でかけがえのない人になってたんだ……」
不器用ながら男手一つで育ててきた市之助の愛情が、お千の心をすんでのところで乱したのだ。
「もうお父うへの復讐はおしまい。どうか達者に暮らしておくれ」お千の頬を一筋の涙が伝った。
「お千! お前はどうするつもりだ! やめろ! 馬鹿な真似はするな!」
お千がこのままキリシタンの道を歩むのであれば、いずれ奉行所に捕らえられる。市之助は必死に呼びかけた。
「ごめん。あたいはもう戻れないんだ」
あの時の志乃と同じだ。やめろと何度も叫ぼうとするがもう煙と熱に喉がやられかすれた声だけが虚しく漏れる。
「あたいたちには希望がある。時貞様が正しい道に導いてくれるんだ!」
初めて聞く時貞という名。市之助はそれがカテキスタの主導者だと悟った。
「あたいは何としても時貞様を守る。この命に変えても!」
もう市之助は声が出せず体も自由がきかない。必死に手を伸ばす市之助をしばし見つめた後、お千は闇の中へと消えていった。
【代官所襲撃】
市之助の住まいは全焼したが、キリシタンの密偵として藩主から一目置かれていたため、すぐさま幸吉の家があてがわれた。
寛永十四年十月。歴史が大きく揺らいだ。藩主松倉勝家の独裁政治に村民の我慢はとうに限界を超えていた。そこに一揆を扇動する者が現れる。その名を時貞。
時貞は仲間のキリシタンに村民を加え、林兵左衛門の代官所へと向かう。頑丈な門が立ちはだかるが、もはや時貞たちには意味をなさない。丸太を抱え鐘をつくように何度も打ちつけると、かんぬきは真っ二つに砕け門は破れた。その轟音は聞いた林兵左衛門の顔から血の気が引いた。すぐさま衛兵をさし向けると自身は身を隠す場所を探そうとあたりを見回す。暴徒と化した一揆軍はもはや止まることを知らない。襲撃されるとは夢にも思っていなかった役人たちはなす術もなく次々と打ち倒されていく。時貞は障子戸を踏み倒し、ついに代官林兵左衛門へと迫る。
「わ、儂が悪かった! どうか、どうか命だけは助けてくれ! 儂も勝家様の命令に逆らえなかったんだ。金か? 米か? いくらでも持って行くがいい、だから……」
「己が罪、あの世で悔いるがいい!」時貞は躊躇することなく白刃を振り下ろす。白い障子が紅く染まった。
代官林兵左衛門殺害。生き残りの証言によると、この事件の首謀者は益田時貞。キリシタンの神童と呼ばれる男。その名はたちまち藩に知れ渡り市之助の知るところとなった。
市之助はあの時お千の言っていた名をこのような形で再び耳にするとは全く予期していなかった。背筋が凍りつく。果たしてお千は関与しているのかとその身を案じた。仏でもキリストでもいい、どうかお千を救ってくれと心から祈った。これだけのことをすれば幕府の面目は丸潰れである。黙っているはずなどない。市之助の懸念はそのまま現実となる。報告を受けた幕府の老中たちは、捨ておけぬ由々しき事態であると、重い腰を上げた。
そして、この一揆はのちに日本史に残る大事件へと発展する。
【籠城】
寛永十四年十二月
長年虐げられてきた民衆の不満は代官所一つ潰しただけでは収まらない。藩主松倉勝家は反乱軍鎮圧に向けて討伐軍を送り込むが、時貞率いる軍勢とはそもそもの士気が異なる。荒ぶる反乱軍を抑え込むことが出来ず、籠城戦を余儀なくされた。時貞は城下町に火を放つ。その光景はまさに地獄絵図。時貞の名は藩の内外に轟いた。
市之助の胸がざわつく。お千と別れたあの日の光景がありありと甦る。燃え盛る炎、そこに佇むお千、頬を伝う一筋の涙……。
「ごめん、あたいはもう戻れないんだ」
悲しそうな笑顔を浮かべ、お千は炎の中へと消えて行く。
「お千!」
市之助は汗にびっしょり濡れて飛び起きた。夢かと、胸を撫で下ろすが早鐘のように高鳴る胸の鼓動は鎮まらない。
反乱軍は松倉勝家の居城に攻撃を仕掛けるが守りは固く攻め落とすことができない。時貞は更に富岡城への攻撃を指示するも事前に備えていた城代鈴木重成の籠城戦を崩すことができなかった。
長引く一揆を鎮静化しようと、ついに諸藩大名も立ち上がり反乱軍と衝突する。時貞の命により反乱軍は廃城、原城に集結する。その数三万を超える。今度は反乱軍が籠城戦を強いられた。
依然戦いに終わりは見えない。その三万の軍勢の中でお千も戦っているのだろうかと市之助の不安は日々膨らんでいく。できることなら連れ戻したい。だが市之助にできることなど何もない。己の無力を噛み締め、市之助は拳を握った。
反乱軍はありったけの武器に兵糧を運び込み万全の体制を整える。戦況を打破するため、幕府は次々に討伐上使を送りこみ白兵戦を仕掛けるが、原城は三方が海という天然の要害に囲まれ、容易に攻め落とすことはできない。反乱軍の火縄銃が火を吹く。ポルトガル人から調達したものだけでなく、代官所襲撃の際に手に入れた武器を手にした軍勢の前に百戦錬磨の大名たちも攻め入ることができない。
大規模といっても所詮は一揆と甘く見ていたがもう幕府も認めるしかなかった。齢十六たらずという時貞の統率力を。
痺れを切らした奉行の山田右衛門作は最期の手段に打ってでる。オランダ軍の助けを借り、海上から原城めがけて大砲を打ち込む。原城の海抜は低い。軍艦の射程に充分収まった。
砲弾が天守を貫く。砕けて崩れ落ちる瓦、城が激しく揺れる。
その音は雷鳴のように遠く市之助の耳まで届いた。空気が震え、大地すら揺れているようだ。一揆の鎮圧に軍艦が出てくるなど聞いたことがない。市之助はたまらず原城へと向かう。分かっている、行ったところでお千を連れ戻すことなどできるはずもないと。だが、あの戦火の中にお千がいるのだと考えたら、もうじっとはしていられなかったのだ、
海に囲まれた立地が災いした。陸は討伐軍に塞がれ、海上からは砲撃。兵糧を補給することができない。もはや勝敗は決した。いずれ反乱軍の兵糧は尽きる。討伐軍はそれまで包囲すれば良いだけだ。
【投降】
砲撃が止み、あたりが静けさを取り戻す。戦いが終わったのだと市之助にも分かった。身を切る寒さも忘れ市之助は原城へと走った。
反乱軍投降
その話を市之助が町民から聞いたのは原城まであと三里の所だった。
「反乱軍は? 反乱軍はどうなった?」市之助はたまらず町民の両肩を掴み問いただす。
「時貞の首を献上して投降したんだが女子供問わず皆殺しになったそうだ。全く酷い話だ。それで時貞の首は原城に晒されているってよ」町民の男はやりきれない表情で答えた。
み……な殺し?
市之助は乱暴に男を突き放し再び原城へと走る。
「痛てぇな、何しやがる!」尻餅をついた男の怒鳴り声などまるで聞こえないように、市之助は走り続ける。
もうお千の生存は絶望的だ。三万の骸の中から骨を拾ってやることすらできないだろう。だが、それでも市之助は足を止めない。それにお千を戦いに巻き込んだ時貞という男の首をどうしても一目見ておきたかった。
「どいてくれ!」
原城は厳重に塀がかけられて近づくことができない。さらし首に群がる群衆をかき分け、ついに市之助は時貞と対面する。
代官所の生き残りの面通しもある、それは確かに時貞の首に相違ない。だが、市之助は目の前の光景が信じられなかった。市之助の中で何かが音を立てて崩れていく。
「そ……んな」市之助はその場で膝をついた。
市之助がその顔を見間違うはずはない。
「お千!」
絶望に打ちひしがれる市之助の耳に、町民たちの会話が聞こえてきた。
「ひでぇもんだな、反乱軍も最後は大将の首差し出して命乞いだ。結局それでも殺されちまったんだから世話がねぇ」
「でもよ、投降した奴らもみんな笑って殺されたっていうぜ」
「気がふれちまったんだろ。噂には聞いちゃいたが、本当に女みてぇな顔してやがる。こいつの首を落としたやつもどんな気分だったんだろうな」
その言葉に市之助の理性が崩壊した。立ち上がるなり男の顔を殴った。
「この野郎!」市之助は反撃にあい、その場に倒れ込む。
容赦のない蹴りの嵐に激痛が走る。視界が揺らぐが頭はしっかりしている。途切れとぎれだった糸が次第によりあわさっていく。
時貞は女性のような風貌を持つ十六才の男。お千が心酔したカテキスタの主導者だ。お千が時貞のはずはない。あの日のお千の言葉が脳裏に浮かぶ。
「あたいは何としても時貞様を守る。この命に変えても!」
お千は時貞の影武者だったんだ! 代官所襲撃の際に、我こそは時貞であると役人たちに知らしめた。
そして本物の時貞を逃がす為にその首を自ら差し出した。投降した者たちもまた、命乞いが目的ではない、時貞は死んだのだと幕府を欺く為にその身を捧げたのだ。
「お千……何で?」市之助は溢れる涙を止めることができず空に向かって問いかける。
「お父う、ごめん」
市之助の頭にお千の声が静かに響いた。
【納め口上】
長崎だけでなく幕府を震撼させた空前絶後の大一揆、島原の乱。その首謀者である益田四郎時貞は、のちに天草四郎の名で語り継がれた。
これを機にキリシタン弾圧は更に強まり、ポルトガル人宣教師も処刑された。ポルトガルはスペインに支配され、もはや幕府と戦う力はなく、急速にその力を失っていく。
島原の乱の引き金となった島原藩藩主、松倉勝家はその責を問われ、切腹すら許されない罪人として斬首された。
了
執筆の狙い
大の歴史苦手な私がChatGPTを監修に迎えてGOAT2用に書いたものです。
規定文字数2000字以上超えてるのでこっちに投稿してみる。
史実の辻褄があうようにした創作です。
多分8000字強。