青春は罪を弔う。人が飛ぶ。
自由になりたかった。
それは将来の希望なんかじゃない、人生そのものへの不服だ。
――あのとき、たぶん俺は死んだ。
願い焦がれたそれは、遠回しな自殺願望だった。
とびきりの自由と、縛られた時間。
……俺はまるで幽霊だ。
「おいコラ! 泥棒!」
背後から追いかける男の怒声。
緊迫感に顔を歪めるも、余裕ぶって振り返るほど狂気染みてはいない。
「っはぁ、っはぁ……っ!」
出る空気と入る空気がやけに近く感じる。呼吸に呼応して景色が脈打つ。
周囲の人込みからは「なになに~?」と傍観者らしい声。
向けられるスマホを尻目に、俺は息を切らしながら走り続ける。
神妙な雰囲気の夜だった。
退廃的時代の風潮として残ったビルに向かって息を切らして走る。
別にそこに何かあるわけじゃない。狭い視界が偶然そこを見つけた、ただそれだけ。
諸事情により多少のことに構っていられる状況じゃなかった。廃ビルへの行く手を阻む「安全第一」と書かれた腰ほどのバリケードを思いっきり蹴飛ばし、中に入る。
外観から大概だったが、廃墟と化したビルは塗装が剥がれ、ひび割れ、窓ガラスや錆びた鉄扉は不気味に佇んで――今にも崩れそうにしていた。
見捨てられてから相当の時間経ったのだろう。異様に静かな世界にコンクリートを突く音は、まるで波紋のように反響する。
――ネオン街じゃ感じることのない空気感の中、俺は大きく息を零した。
「っはぁー……焦った~」
俺はレジ袋に包まれた缶ビールを眺めながら安堵に浸る。
『ツーアウト』とでも言った所か。――いや、普通に犯罪か。
子供の頃、万引きなんてやる人間は、貧乏でクズな人間だけだと思っていた。
……まぁ、実際そうだけど。やってる人の中にはそれ以上の代え難いあの感覚を目当てにやってる人も多いんじゃないかって思えた。
それは全身に溜まった腐敗物が一気に流れていくような爽快感——生きた心地だ。なぜ俺はこんな感覚に陥ってしまったのか、初めて物を取ったあの日を思い出してもよく分からない。
俺の溜息はここまで来てしまった後悔故なのか、それとも逃げ切れた事による爽快感故なのか……どっちにしたって俺が終わってることには変わらないけど。
どっちにしたってって……何言ってんだろ。
俺は眠るように埃まみれの地面に横たわる。カッターシャツが黒ずむことが分かってのことだ。知ったことかとスマホを眺めては奥に伸びる建物に目をやって――。
「螺旋階段……」
ペンローズの階段のような哲学的、天文的に無限に続く螺旋階段。
廃ビルに聳えるそれを見て、俺は好奇心のまま足を掛けていた。
――ただ、どこか冷静で冷めた自分もいる。
俺はもっと思い切りの悪くて、甘えた性格だったはずだから……。
この一ヶ月を通して身についた好奇心、衝動性とでも言うのだろうか。
それは時に狂気的と思うし、時にクールとも思う。
ただ今回は、自分に落胆したのが一番の原因だろう。自分に軽蔑した。これも何かに縋って、何かに甘えているんだから。
変わり映えのない景色。だからこそか、色んなことを考えて、思い出してしまう。
俺の脳内に浮かぶそれは、中学校から始まった言わば呪いのようなあの日だった。
中学のある日、俺は大多数から放たれた誉め言葉を妄信した。
自分にしかない特別な何かだと信じていた。
それでも、高校に入って現実を知った。
皆否定から入るような、現実主義者だった。
俺は馴染めずに一人になって、その気もないのに輪に溶け込んで――。
たった一言褒められただけ、なのに。俺にとってのそれは呪いのようだった。
ギャップに苛まれた。でも、俺にはもうそれ以外がなかった。
これは俺が悪いのか? アイツらが悪いのか?
「――だいぶ歩いたな」
瓦礫の木漏れ日から見える月は階段を上るごとに大きくなっていた。
俺は壁に手を擦りつけながら上り――ほどなくして上る足を止め、ひたすら続く廃ビルの天井を眺めては、悦に浸り、鬱に侵される。
「……なんでこんな目にあってんだっけ」
「……こんな目って何だ?」
一人尚且つ深夜のせいか、途端に滑稽に思えてくる。
「馬鹿じゃねーの」そう呟くことさえも馬鹿らしく感じた。何もかも無意味に思えた。考えることすら億劫で、頭の中がぐるぐると同じ過去を思い返させる。
「なんか……もう全部が嫌になる」
螺旋的辟易加減。重い頭は延々 と繰り返す。
いや、思考を繰り返すから頭が重いのか……。
まるで悪夢を見ているかのような映像とテンポのトリップ。もう薬中のそれと一緒だ。
ぶつぶつと念仏を唱えるように独り言を呟きながら階段を上って――上った挙句、俺は屋上にたどり着いてしまっていた。
屋上の景色は汚かった。
まぁ、別に期待してたわけじゃないけど……。
誘う風と空。そこはかとない雲と星空を見上げると儚い気持ちがこみ上げてくる。
夏祭りの終わりのような風は寂しさを運び、ビニール袋をくしゃくしゃと鳴らす。俺は思い出したように袋からビールを取り出し、躊躇なく口に運んだ。
舌の上に乗るほろ苦い何か、味覚を刺激する苦味に、吟味する間も無く速攻でビールを吐いてしまう。口に残る苦味と床に垂れるビールだった泥水。もう酔ってしまったか、途方も無く自分が情けなくなる。
昔。今尚引きずった俺を見て、聞いて、アイツはどう思ったのだろう。
……声優になりたかったな……。
馬鹿にされると危惧して隠し続けた夢だった。そんな夢を封じて、燻ぶれて、腐敗した思いだけが、この一ヶ月を暴走している。
――そんな自分が夢を隠す以上に恥ずかしく思えた。
「もう、どうにも出来ないけどさ……」
屋上の端に足を掛ける。奇妙な浮遊感と風の切る音。冷静さは指先を微かに震わせる。
「空」子供の頃から焦がれる一歩だった気がする。翼を生やして――。
「なんでこんな目に会ってんだよ」
声優のことも、それら全てが不快で不安、こんな目がどんな目かも分からなかった。
――思考が止まった。時間の流れが無くなった気がした。
「……声優……」
全身から吐き気がする。
世界が揺れる。
景色が色を変える。
体が傾く。
――俺は屋上に飛び降りた。
「ってぇ……」
カーテンを開けっぱなしで寝ていたのか、太陽の眩しい光で俺は目を覚ます。重い体を起き上がらせ、眠い目を擦り、そして俺は手元に転がったスマホを付けた。
七月一日午前十一時、戻ったか。
「……ガチでどうかしてたかもな」
静寂の中、ズキズキと響く頭を抑えながらも、俺は昨日を思い出す。
それにしても、この頭痛は……寝すぎたからか?
それともまだあのときの痛覚を神経が引きずっているのか……。
「痛ぇ……」ガラガラと萎む声は布団に沈む。
今の俺は五体満足。傷一つない健康体。結局の所、すべての悩みはここに集約されるのかもしれない。変に燻って思い出す過去も、目を背けたくなるような現実も
「俺が一ヶ月を無限に繰り返している、から」
――学校でも行くか。
*
七月一日月曜日午後三時
ループする世界で真面目に過ごしたって何の意味もない。
それは何十、何百回のループで痛感している。
……が、今日、俺は学校へ向かう。
……そんな気分になった。
「そういえば、お前ってどこの大学行くんだっけ?」
久しぶりに遊んだ帰りの駅、アイツは突拍子もなく聞いて来た。
――好機だと思った。
「大阪の、声優の学校」歯がゆい気持ちを堪えてそう口にした。
それで、アイツは……。
アイツは肯定も否定もせず「そぉ」と素っ気なく返事をした。
軟派で一言多いような奴だ、気にしちゃ負けなのかもしれない。そもそもアイツはこのことを覚えてすらないのかもしれない。
――それでも、単純な好奇心だ。昔のアイツの言葉を言及したくなった。
「わざわざ問いただすのってだいぶキモい、よなぁ……」
親友だったアイツに会うのは、俺の中でもアイツの中でも久しぶりと言えるほど、それも近かった縁を遠ざけたのは一方的に俺の方だった。
距離の開いていた相手が突然姿を現し、突拍子もないことを話す。そんな気まずさを押し切れるのも、ループする世界に倦怠した今だからこそだろう。
――会わなくなった。いや、会いたくなくなった一番の理由。
きっと色々あった。
ただ、一つ明確だったのは容姿の差だったろう。
前髪は眉毛より上、耳に掛からない、ツーブロックもダメ。
覚えてる限りでも、そんなめんどくさい規制ばっかり。
高校で浮かれた人間の間に芋男が割り込めるかって話だよ……。
劣等感に苛まれて怖くて会いに行けなかった。それでも今日は――昨日の件があるからか、なんとなく話してみたくなった。
扉の上に掛っている『軽音部』と書かれた室名札を何度も確認する。
放課後の喧騒。管楽器の響く音は遠くからなのに腹に響く。
「才能がないから」なんて、はっきり言われるのかな……。
威勢の良かった俺はどこかに落としてきてしまったらしい。
扉を前に好奇心に高鳴る胸を、息を止めて無理やり抑え込む。
――ただ話すだけだろ……馬鹿らし。
考えれば考えるほど余計に汗が生成される。
頭がボーッとするぐらい熱くて、どこからともなく聞こえるセミの声が脳を焼く。
もう、勢いだよな。
俺は夏なのにやけに冷たいドアノブを捻った。
「やっほ則包《のりかね》。久しぶり」
扉を勢いよく開けるも、控えめな声量で、昔の頃の陽気な自分を演じる。
扉を開けて今更考える時点でもう遅い話だが、もし則包が部室に居なくて別の人がいたら、俺は大恥をかいていたことだろう。幸い、回転椅子に座った後ろ姿は、馴染みある彼そのものだ。
「……え? マジか! 久しぶり! 生きてたのか!」
振り返ると共に捲し立てるような「!」三つの追い打ちはさながら陽キャだった。
「!」もさることながら、ミディアムへアで遊んだ髪型は、制服と眼鏡という短所をむしろ長所に変えている。回転椅子に座り、ベースを膝に納めている姿は同じ高校生とは思えないほどだ。
これは流石に、相手にも問題あるよな……。
「どうしたんだよ急に? あ、今は俺以外誰もいないからゆっくりしてけよな」
「あぁ、ありがと。色々話したいことがあってさ――ってか彼女とか出来たの?」
「いやぁもう三年だし、勉強ばっかたまにベースぐらいだよ。つか、彼女なんて暇潰しだろ? 別にRPGとかの方が楽しいからな、前FF10貸したろ?」
「っはは。そりゃそーかも」
何事もなく話せた、話した満足感に、そのままの和やかな空間を保ちたくなっている。
だって俺は、関係を曇らせるような話を持ち出そうとしてるんだから。
――もう夕方になる。
茜色の教室は、まるで一日の終わりを感じさせ、妙な焦燥感を募らせる。
「何かを伝えたい」そんな気持ちが先行して、脳内で犇めいて――。
「……」喉に言葉が張り付く。
昔から断れない性格だった。顔を伺って生きて来た。……こんな酷かったっけ?
「俺、七月をずっとループしてんだ!」
叫ぶように、怒りをぶつけるように言った。自分でも何を言っているか分からなかった。
静寂。
その言葉を最後に、和やかな空気は一瞬で凍り付く。
垂れる汗がくっきりと分かる。
なぜこの話題に逃げてしまったのか、凍り付いた刹那、後悔が走馬灯のように駆け巡る。大前提としてループの話題は声優の話題以上だった。
一人焦る俺とは違い、則包は冷静に、ゆっくりと口を開く。
「昼休憩、非通知で電話が来たんだ。成人した男の声でさ、「伝えてくれ、ループする君と話がしたい」って。それ、お前のことだったらしいな」
「……え、なにそれ?」
「さぁ? それこそ俺が聞きたかったけどー……今繋がったっぽい?」
則包は当てのないピースが繋がった事に動揺を見せながらも、冗談交じりに浅く笑う。
俺はそれ以上の収穫に動揺以上のパニック、頭が真っ白になっていた。
「で、ループってなんなんだ? SFの住人」
「正直、俺も被害者の立場でそう言うのは全然分かんねぇ。ただ、七月三十一日が終わったら一日に勝手に戻されて……ってのを無限に繰り返してんだよ」
「やっば、軽い地獄じゃん。っなら俺が明日何するかとか分かんの?」
「……会うの今日が初めて」
「マジか、じゃあ紗代《さよ》とかは?」
「……ループ後は良く記憶が飛ぶんだ」
「……へぇー」
不服そうな声。自分でも結構な都合の良さを感じざる終えなかった。
運が良いのか悪いのか、掛かった電話は非通知。嘘と思われれば挽回のしようが無い。
「いや、マジで……嘘じゃないんだぜ?」
電話一本の根拠も何もない、信じるにはファンタジー過ぎる話は、風船のように萎む。則包もそんな話に愛想尽きたのかスマホをいじり始めている。
そりゃそうだよな……。
俺はこんな結果に立ち尽くすことしかできなかった。
いくらループするとは言え、俺の精神はこの長い一ヶ月を通して形づいている。何度もループして記憶が薄れても、傷ついた記憶はそう簡単に癒えない。
……ここにいるだけで自分、ってか全部にイライラする。ダメだな。
「お前はこんな風に人を馬鹿にする奴じゃないって俺は知ってる」
則包は適当な付箋に文字を書きながらそういう。
「え……?」
「非通知で電話して来た奴の番号と場所だ」
何をどうやったのか分からんが則包は番号と場所を書いた紙を俺に渡してくれた。
俺を……信じてくれたらしい。
「……良い奴だな、お前」
一方的な僻みだ。偏見と妄想が嫌な部分を極端にイメージして「それがソイツ」と自分の中で身勝手に定着付けていた。
なのに、則包は久々に会ったこの状況を素直に喜んで、俺に親切にしてくれた。
「信じてくれるって思ってなかったわ。ありがとう」
「ファンタジー展開は予習済みだからな、久々お前の顔見れて良かったわ」
「良かった」か。本当に良い奴だ、幸福だ。
「——そういえば知ってるか?」
回転椅子の背もたれが後ろに垂れる。
「隣町に天使が出たらしいぜ? アングラな界隈で密かに話題になってるみたいだけど」
「馬鹿言うなよ、同類じゃねーから」
*
七月二日火曜日午前十時十分
誰もいない平日の昼、俺は駅のホームに立つ。
目の前を止まる電車。知ってる顔、というか人すら少ない。
目的は福田駅《ふくだえき》。これと言った観光名所の無い、ちょい都会程度の町だ。
この先に、ループを知っている誰かがいる。
則包との兼ね合いもあって、今の俺はやる気に満ち満ちていた。
それに、ループに関する誰かともなると――。
長い暗がりに差し込んだ一筋の光だ。簡単に見放すわけには行かない。
――ただ、その目的地が福田っていうのが少し引っかかる。
もし顔見知りにでも会ったら……。
なんて、一方的な嫌悪感を胸に俺は電車の扉を跨ぎ、窓の外の景色を眺めた。
電車。過ぎていく景色と、新しく見えてくる景色。
……あぁ、やっぱりこの町はダメだ。
見覚えのある建物、道路を見るだけでも、胃が宙を舞ったような違和感を感じる。降りた後、その町を歩く事を想像するだけで嫌悪感が尋常じゃない。
相手がこの町に俺を呼んだのは、その因果関係があってのことだろうか。
だとしたら……もう大っ嫌いだな。
ムズムズする胃をなだめながらも電車は目的地に到着した。いや、してしまった。過去の忌々しい記憶とシャツにへばり付く暑さは、ここから先の道を億劫にする。
幸いな事に人の行き来は少ない。時間指定がなかったことは唯一の救いと言っていいだろう。
駅を出ると、俺は則包に書いてもらった住所をスマホの地図アプリで検索する。
――結構近いな? このぐらいだったら見なくても行けるか。
そうして着いた先は、駅通りにある商店街の路地裏のような薄気味悪い場所だった。申し訳程度のアスファルトで舗装された道は、室外機の影響で常に湿っている。
……流石に初めましてだな。合ってるよね?
地図に訴えてみるが赤いピンはこの場所で直立不動を保っている。
相手は人に見られたくない事情でもあるのか、だとしてもなんでこんな不良がうろつき回りそうな場所で電話をしたのか……本当にどうやって特定したんだよ。
疑わしい気持ちも去ることながら、そのまま奥へ奥へと歩く。
ある程度歩いた先にそれらしき人物はいた。
金髪に細々とした体型のおっさんは、足を組んでベンチに座っている。顎に生えたちょび髭を中指と薬指の間で挟んでは、したり顔でこちらを見ている。しなびたアロハシャツに、短パンというだらしない恰好は正に自由人を体現していた。
某キャラに似てるのが鼻に付くけど。
「ここに来れたってことは良い具合に告白出来たんだな」
地方じゃ浮くその姿と突拍子もない発言を鑑みるにこいつが則包に電話した奴に他ならないだろう。日常とはかけ離れた場所と人に違和感を感じざるを得ない。
「顔青いね、大丈夫?」
「あ、まぁ。……場所に酔って」
言葉を選び、悩んだ挙句正直に言ってしまった。
なんだよ場所に酔ってって、恥ずかし。
「――地元じゃないの?」
「い、嫌な思い出があるんすよ」
「へぇ~。まぁ人間嫌な思い出の一つや二つあるさ」
励まし? 小馬鹿にするようなおっさんの態度。いや、実際小馬鹿にさせるような発言だ。上から目線な態度に不快感の混じった違和感を感じる。
「えっと、一つ気になるんスけど、なんで俺じゃなくて則包に電話を?」
その発言におっさんは待ってましたと言わんばかりにしたり顔を加速させる。
「思いの強さは意志の強さだろ? ループにせよ何にせよ、君の意志の強さを試したかったんだ。相談をするなら彼と知っていたからね」
ループにせよ何にせよって、ループを出ることに意思の強さが必要だと? 俺の精神力の程度で変わるってのか? ……理論的な問題じゃないのかよ?
何もかも分からない。上手いように丸め込まれた気分だ。
有り余る疑問を前に、おっさんは「あ、そうだ」思い出したように話を続けた。
「声優のことは言えたのかい?」
くたびれたその声に戦慄した。
「声優」その発言一つに俺の心臓は強く揺さぶられる。
「……なんで知って」
「言えたのか?」
俺の投げかける疑問は返答のないまま覆い被される。それはまるで教師の機嫌を取るあの日のよう、逃げ場なんてないあの日のようで……。
簡潔に述べられた疑問は、怒りに直結する不機嫌な感情を看取する。
俺は焦燥感に煽られ言い訳も出てこないまま――口を開けてしまった。
「……言えなかった、です」
「なら、この世界を受け入れた方が良いかもな。気分と理想だけじゃループする前と同じ結果になる。八月九月にいる自分を考えたことないだろ? 自分が変わらないと」
諭されるような上から目線の発言。違和感の正体が分かった。
コイツの立ち振る舞いは教師そのものだ。
自分勝手に指図して、怒鳴って、怒鳴って、怒鳴って。
蘇る記憶。萎縮する気持ちに相反して――俺は信じられないほど腹が立った。
「ふざけんな!」
俺は男に向かって腕を振りかざす。
多分、俺は涙を流していたと思う。自分が情けなくなって、何もかも馬鹿にされた気がして許せなくなった。目が霞んで、潤んで、見えなくなって――。
「暴力に走るなんてね、君は本質を分かっていない」
気付くと俺は、顔を壁に押し付けられていた。
細くて弱弱しい体からは想像できないほどの威力だった。
「頭冷やせ、お前はこの世界から出る器じゃない。暇だからって出たいだけだろ?」
おっさんは手をどかすと、腰の位置に手を置き、余裕しゃくしゃくな態度をとる。
「帰れ。世間話ぐらいなら聞いてやる、それでお前は満足するんだからな」
俺はループから出れなかった。
そして思い知らされた気がした。自分の意思の弱さを。
路地裏を後に、トボトボと駅までの道を歩く。
残る不満が体に詰まって、心にぼっかりと穴が開いてしまったようだ。
意志の強さ。
「ループから出たい」「声優になりたい」その一言さえあれば、意志の強ささえ証明出来ていれば……あの状況だろうと答えが変わっていたのかもしれない。
いや、そもそも俺、なんでループから出たかったんだろ。
……自信が持てないんだから、仕方ないだろ。
俺は駅までの道を戻る。人ごみに埋まる。俺の気持ちも、一感情として埋もれていく。地面を突く音、ありふれた会話、人の波に流されていく。
――にしても人多いな。
福田市は地方のこじんまりとした、ちょい都市程度な街だ。それなのに、人が稚魚の群れのようにワラワラと、どこからか列をなしている。
出勤時間から外れてだいぶマシだろうと思ったのに……何も上手くいかんな。
思わず溜め息が零れる。今日はもうさっさと帰ろう。
「アイツはさ、お前を成長させたいらしいんだよ、おせっかいな奴だよな」
喧噪に紛れて、気の強そうな女の声が俺の後ろから聞こえる。それは、鬱屈とした日常とは違った、あのおっさんと同じような違和感。
「単純な好奇心ってやつかな?」
神経は瞬時に反応し「え!?」と声を上げると同時に、急ピッチで視線を走らせる。 が、後ろの女はそれよりも早く振り向き、俺の頬に爪を立てた。
「痛って!」
驚きと戸惑と頬に残るジンジン熱を持った痛み。
大迷惑なことに、俺の足は歩道の真ん中で止まっていた。
「振り返るなよ。耳だけを傾けておくんだ」
後ろの女は片足を絡めては、耳元を囁く女の低い声。
――ほくそ笑むようなそんな声に、俺は虫唾を走らせていた。
「誰だ? 何の用?」
「君次第で回答は変わるな。ちょっと励ましてあげようと思っただけだから」
うっざ。
「ループの話ならもうやめろ。もう、出る気無くしたから」
「は」と言葉を詰まらせる後ろの女。表情を見ることもなく、面食らったのをなんとなく理解できた。
「……手を貸そうと思った」
「別に気分で言った訳じゃねーから」
『手を貸す』その言葉に違和感を覚えたが、すぐさまおっさんの発言が俺の脳裏によぎって、その違和感をうやむやに掻き消した。
俺は現実を見れてなかったんだ。暇つぶしができて、理想を追えるのはループのおかげだった。きっと、ループから出た次の日には俺はこの世界に帰りたくなってる。
――もの酷く単純な話。
何十年もの当たり前がこの世界の心地良さを忘れさせていた。
何十年もの当たり前が現実の孤独さを忘れさせていたんだ。
「ただの興味だったんだ。このまま夢を見ている方が幸せなんだよ」
「……アイツの話なんて真に受けるなよ」
「……」
「あ、やっぱそうだ!」
その瞬間、背後を颯爽と駆ける自転車の音と共に馴染みある温かい声が聞こえた。
駅のホームで考えていた俺の「もし」はあっけなく叶ってしまったらしい。
……大っ嫌いだな。
押し寄せる人の波をどうやって避けたか、急ブレーキ音が、真横から響く。慣性の法則で漂う長い髪は、制服というアドバンテージを遺憾なく発揮していた。
「紗代《さよ》、久しぶり」
最悪な事に目の前には中学の頃からの友達がいた。俺は疲労で引きつった顔に無理矢理の笑顔を作る。
俺といたときよりも肌が焦げたな……。
明らかな陽キャ具合に笑みも枯れ死ぬ。
「ほんと、二年ぶりくらいだよね、何突っ立ってんの?」
「……別に」
「じゃあどっか寄ろうぜ~? 私カラオケ行きたい」
「あー……うん」
俺は後ろを振り返ることなく、紗代の自転車の荷台に乗る。「これでよかったのだろうか」そんな気持ちに苛まれながら、俺は彼女から逃げた。
紗代は中学からの友達だった。
席が近いだけで、特に趣味が同じというわけでもなかったのに、中学の頃は飽きずに馬鹿やって、愚痴を吐き合える中で、高校に入ってからも四月頃は良く遊んでた。
まぁ今は、結構気まずいけど……。
「ねぇ。今年は一緒にお祭りいこーよ」
はにかんだような声で紗代は提案する。
ただ……どうも胸につっかかる。
そもそも大体二年半も顔を合わせてない奴を良く誘える。
「それって去年も誘ってくれたやつ?」
「アンタから掘り返すんだ。アレ結構ショックだったんだけど」
紗代と会うのは四月頃に遊んで以来だった。連絡を取ったのも今日のような七月のはじめ。それも最後に来たメールは今のような祭りの誘いだった。
メールを貰ったとき、俺は則包と同じ理由で断った。もし、会った紗代が人生を謳歌してるような奴になっていたら――そう思うだけで、自分という存在に劣等感を抱いて腹が立ったから。そしてその気持ちは……今も変わっていない。
そもそも祭りって場がから終わってんだよ……。
「ねぇ、学校行ってんの~?」
返答の無いまま時間が過ぎたからか、あからさまに話をすり替えてくれた。遊んでたときは高校の文句ばっか言ってたし、つか行ってなかったしな……。
「一年のときよりは行ってる、単位とか気にしないとだし。そっちは? 進路とか」
「東京か香川の国立かな~今の所は」
「俺は、大阪。いっそ疎遠になるな」
「やっぱ最後くらい思い出欲しいって。——あ、あれ山吹《やまぶき》じゃない?」
不意に紗代の口から出た人名、俺は紗代の目線が向く方向を急いで追った。
山吹……。
太い道路に掛かる横断歩道の先にその姿はあった。センターパートに眼鏡を外した姿、中三から変におしゃれし始めた気がする。
横断歩道の反対側に立つ、その男子高校生らしい姿。反対側にいる山吹は、俺達に気付くことなくずっとスマホを見ている。
「山吹君と仲良かったよね」
「うるさい」
今までは劣等感で会いたくないという気持ちが大きかったが今回は違う。
それ以上だ。俺が山吹に向ける感情は罪悪感だった。
山吹は中学の頃の、俺の被害者だ。
山吹は親友だった、好きな人を言えば将来の夢なんて話もした。それに絵が上手で――中学の頃は気に入らなかった。
色んな人に賞賛されて羨ましかった、だから一方的に別れたんだ。そしてそのまま連絡を取らないまま時間が過ぎて――。
自分勝手に妬んで、イジワルな事もして……きっと相手は俺の顔すら見たくない。俺もそんな中学校の酷い思い出と会える勇気もない。
結局、全部コンプレックスなんだよな。
「そういえば、中学の同窓会あるらしいけど来るの?」
「LINEは追加されたけど無視してる、コンプ出るから」
「そぉ? 別にじゃね?」
「別にじゃない」
「そっ……かー」
肯定も否定でもない返答を最後に信号は緑に変わる。
紗代はペダルを漕いで、数人の歩行者と横断歩道の上で交差する。
当然、山吹もこちらに向かって来る。
もし目が会ったときどんな顔をすればいいのか、今の俺を見てどう思うのか。例の如く思考はその瞬間まで錯綜する、だが確実に山吹との距離は縮んでいっている。
思考が喉の根本まで詰まる。
わずか数秒、俺は山吹とすれ違った。
山吹は俺の存在なんて気にもせず正面を見て――まるで眼中にない。
どこを見ているのかと思えば、前から清楚っ気な女が山吹の横を歩き始めて――。
あぁ、山吹彼女出来たのか……。
中学から二年半も月日が経ったんだ、彼女なんて作ってるだろうに。
山吹はとっくに俺との間にできた障壁を乗り越えて、幸せに向かってひた向き走っているような気がした。二年という月日は格差を生むには十分な月日だったらしい。
――楽しそうな顔で隣の女と会話をする山吹。その姿を見ていると、ひた向きに走っていた時期ですら過去のことのように感じてしまう。
そもそも俺との障壁を気にも留めていないようで――俺の心はヤケにざわつく。
「紗代、今何時?」
「だいたい四時半、予定あった?」
「——どした?」
「いや。時間が進んでんだよ」
突然何を口走ったか、自分でも良く分からなかった。
分かっているはずなのに……もう止まれない。
「なぁ、山吹っていつから彼女いるんだ?」
「え、さぁ? 結構前に彼女出来たってインスタで言ってた気がするけど~……」
「……終わってるわ」
俺は髪を搔きむしる。本当にイライラする。
ループなんて関係ない、不幸な人生を送る自分にイライラする!
「——アンタ、本当に学校行ってる?」
無駄に察しが――いや、こんな態度みりゃ同然か。
「……行ってねぇよ! ――用事!」
すぐさま俺は自転車から降り、足を付けると体を反転させる。溜まった鬱憤を、止まった世界で嫉妬する孤独な自分を抑えながら――俺は路地裏までの道を走る。
せっかく時間ずらしてまで来てやったのに!
こんなことが出来るのはあのおっさんしかいない! 以外見当が付かない! というか誰かのせいにしないと十何年の後悔と罪悪感が浮かばれない!
全部俺のせいだ。俺が調子に乗って生きて来たからこうなったんだ。……だからって。
嫉妬に視界が揺れる。震える。
悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい!!
「っ分っかんねぇ! 分っかんねぇ!!」
行き場の無い苛立ちに押し殺すように呟くことしか出来ない。そんな自分にも余計に腹が立つ。山吹は確実に前に進んでるのに、俺は何も変わっていない。それどころか……。
走っていた足はトボトボと。声優以前の問題だ、自分の性格が嫌になる。
「嫉妬ぐらい誰でもするよ、それが人間さ」
「……さっきの?」
「手を貸そうか? 元よりそのつもりだが」
「……やっぱ、出たいわ……」
*
中学のある朝の授業。
きっかけは多分、道徳の授業だった。
先生が道徳ある文章を読み終わり、どういう流れだったか「~だろうか?」が語尾に付く補足のような欄を先生の指名した人が音読することになった。
引っ込み思案な俺はその様子を眠い目を擦りながら観察していると、いつの間にか出来ていたクラスの流れが俺に指を差していた。
当時の俺は酷く混乱した。
周りのニタニタとした顔が俺の視界を埋め尽くしていて、ガヤガヤと囃し立てる声は「あれやれよ!」「イケボ!」なんて頬を染めるような単語で飛び交っている。
イケボで話す遊びなんてのは、仲の良いメンバーでしかやらないような身内芸だ。普通にはずいし何より教室全体でやるとなると流石に話が変わってくる!
……でも、もう水差させれる雰囲気じゃねぇしな……。
弱い立場の俺は、こうなってしまった状況を止めることはできず、むしろどうやったら恥をかかずにこの場を収められるか、考えるばかりだった。
考えた末、すがるように紗代の方を見ると紗代は行けと言わんばかりにサムズアップする。則包も山吹も「うぇーい」とむしろあっち側だった。
そうして悩み焦る俺は――むしろ意気揚々に声を披露してやった。
たった四行もない文章を低音聞かせた声で読む。
ただひたすら耳を真っ赤にして――。
幸いな事に一行も読んでないのに教室は笑いに包まれた。真っ白になった頭は流れるまま次の文を読み続ける。
今思い返すと、中学生特有のノリに脳が押しつぶされそうになる。けど、このときほど後悔の無い時間はなかった。
全身からアドレナリンがどばどば溢れて――。
この瞬間に何もなかった俺に色が付いたんだ。クラスの皆が、俺の実力を買ってくれたんだ。
「これが俺が声優を目指した理由で、俺が調子に乗り始めた理由。そこから演劇部に転部したり、生徒会なんかに入ったりして……調子乗ってたんだよ」
恥ずかしい話、自分を主人公だと思い込んでいた。
だからこそ、高校に入ったときのギャップは酷かった。友達も作れなくて、中学とは勝手が違って、一人性格が歪んで、ループして……。
高校の進路を決めたあの日。三者面談でバカ丸出しのノリを持ち込んだ浅はかさと家族にさえ言えなかった夢を、仕方ないと割り切ってしまった。
俺は、ループするその前から救いようがなかったんだ。
例の路地裏、俺は後ろの誰かにそんな短い人生のピークを語る。それが意思の強さ、逃げ出した分の証明になると思って。
「馬鹿だよな、結局自業自得なんだよ」
思わず自分でも笑ってしまうほどの因果応報具合。
「―—そうだな」
後ろの女は、凛と色のない返事を返す。
「……」
表情が見えないのは結構厄介な話で――。
「ほぉ?」やら「はぁ」やら高圧的で不機嫌そうな相槌をされると、何か気に障ったのかと、よからぬ妄想が働いて心が折れそうになる。
それに口も聞かないときた。まぁ、バカにされるような話をしている自覚は重々あるけどさ……。
そんなことを考えていると――背後から浅く息を吸う音が聞こえた。
「周りの奴らが本気でお前を称えてたと思うか?」
「いや、皆に馬鹿にされてるとは思わなかったのか?」
沈黙を破ったと思えば。女の口から火の玉のようなストレートが放たれる。
「どこにでもいるような陰キャにそんな仕打ちするかよ?」
反射的にした否定も、何十年の人生がその楽観的な発言に違和感を感じさせた。
「いや、皆が煽てて言ってくれてたなら相当痛いな」
水月は俺の捻くれた性格を多少は理解したのだろう。唾をのみ込む音が耳元に聞こえると、小さく呟く。
「だったら尚更、君にとってこの世界は悪い世界に思えないな……」
「いや―—」
出しかけた言葉が詰まってしまう。
そりゃそうだった。
それでも俺がここに戻って来たのは、楽しそうな顔をした山吹と、それに比べて一ヶ月しか続かない世界で一人廃れる俺がただただ惨めだったからで……。
「お前と最初会ったときはずっとこの世界でも良いって思ってた。けど、友達に会ってネチネチ脳内で愚痴って因縁付けてるのって馬鹿らしいなって思って、出たいよ」
「……おっさんに言うつもりだったセリフか?」
「いや、まぁ。意思の強さを……」
ポクポクと、自分で言って恥ずかしくなる。
「それは意思の強さじゃない、ただのハッタリだ。「声優に成りたい」言葉の重みとしては同じ意味だろうな。成った奴がその言葉に説得力を持たせる」
人前で言えない理由。余計に返す言葉が見つからなかった。
「——まぁ、それを私は手伝うって言ってるんだからな。振り返ろ」
今までなんで隠していたのか不思議に思ってたくらいだ。俺は遠慮も無しにスッと後ろを振り返る。――そこにいたのは、俺と同い年くらいの女子だった。
引き締まった顔立ちに鋭い眼差し、ブルーベースの柄シャツに白がかった姫カットの髪型は、あのおっさんほどじゃないが、地方で浮く姿をしていた。
「浮いてるって言うかヤンキーって言うか、正直そういう服着てみたいけどさ」
「驚くのはここじゃない」
彼女は意気揚々にそう言うと、柄のシャツを脱ぎ始め、ボロボロの白いインナーが露わになった状態で、親指を自分の背中に向ける。
路地裏というのも相まって鼻の下を伸ばしたくなるような展開だが、目を瞑る彼女の表情からは羞恥やらのそういう雰囲気を思わせない覚悟を感じた。
そして実感する。俺の止まっていた時は確実に動き出すんだと。
「つまらん反応をするんじゃないぞ?」クールに微笑む彼女。
俯いたその瞬間、その刹那。彼女の背中から鳥のような純白の翼が生えた。狭い裏路地を埋め尽くすように広がれば、路地の幅いっぱいに張り付く。
非日常。ループとは比べものにならなかった。
別次元の存在に開いた口が塞がらない。夏の暑さに侵されたとすら思えた。神聖で脅威的なその翼は俺の視界いっぱいに広がる光景――全部がどうかしてる。
「なに……それ……」
「路地で見せるもんじゃなかったな、息苦しい」
何メートルもある翼は、見る見るうちに小さくなり彼女の背中に収まっていく。翼が這った壁には、刃物で切ったような形がくっきりと残って――。
思わず断面を眺める数秒。「横に広げればいいだろ」なんてポッと出るようなツッコミでさえ頭に浮かぶまで時間がかかった。
ジリジリ頭を焦がす太陽。俺の頭が正常かさえ憚られる。
「……マジで人間じゃないの?」
「人間が人間である所以は、緻密な思考と公平に話し合える心だと私は思っている。お前の友達だって家では龍の姿をしているかもしれないだろ?」
ただでさえ混乱してんのに……。
「本命はこの力でアイツを倒せって話だよ」
「倒す? 無茶苦茶な」
「残念ながら、あのおっさんは人間じゃない、一方的な思想を押し付けてくる怪物だ。……分かるだろ? 今日と同じ結果になると思わないか?」
無茶苦茶な話。でも、もう逃げる理由はない。
あのとき、あの瞬間にも俺はこの高揚感に心を動かされていたんだ。
「だから、倒すのか、その力で。……仲間なのにいいのか?」
「気にするな。またループすることがあれば、それもチャラだ」
*
七月二日火曜日午後四時四十五分
福田を出る電車が止まる。
ホームに蔓延る学生服に身を縮ませながらも、俺はその列の後ろに並ぶ。
そこはかとなく盛り上がる男子高校生達。『過去のトラウマ』なんてカッコ付けた言い方はしたくないが、その学生服を見ただけでも胸がざわつく。
それに加えてギャーギャー叫び出したら……イライラする。
これ以上時間を要すると、狭っちいこの町じゃ紗代や山吹以上に会いたくない人間と出くわすことになるかもしれない。
そんな関係の人間に話しかけられるとは到底思えないが、それでも可能性に胸を締め付けられるぐらいなら早く帰りたい。
というかそもそもこの町で学生の姿すら見たくない。
車両内に学生が多いのは気がかりだが……数分の辛抱だ。
俺は列に流れて電車に足を踏み入れる。
――が、それに異議を立てる女が一人。
例の女は俺の裾を掴み、車両への大切な一歩を阻む。
「どこに行くんだ? 家に帰らないのか?」
「え、ついてくんの?」
「力を与えるんだ、それくらいのお節介は焼いてもらいたい」
「……当てがあるんだよ」
俺達は福田の五駅先にある海沿いの駅に足を踏み入れる。名は美浜《みはま》、浜辺と三方を山々に囲まれた田舎の町だ。
それなりの観光名所で、昼間の駅のホームから見える水平線はまるで青春その物の景色なのだが――五時三十分の景色は黄昏時なのも相まって少し不気味だった。
「意外と遠かったな、翼を使えば一瞬だったぞ?」
「そっか、じゃあコツでも聞いておくんだった」
あのとき、俺は「まだ考えたい」と翼の力を貰うことを拒んだ。俺だって、超常的力を手に入れたら好奇心のまま使いまくってるさ。――でも、多分違うんだよ。
殴って従わせたって、結局は俺の精神力の問題なんだ。人から貰った力でおっさんを説得した所で散々に煽られるのは明白。
結局ループ後を生きていくのは俺だ、俺自身の覚悟でなんとかしなくちゃ相手も俺のプライドも納得してくれそうにない。
理想だけじゃループする前と同じ結果。図星すぎて勝てそうにないけど……。
「で? ここからどうするんだ? 本当に当てはあるんだろうな?」
思い出しては更にへこんでいると、姫カットから出る明らかな不満と不安。
電車を降りた先がこんな真っ暗だったら都会人はビビるだろうけど――。
「あれ、そういえばお前ってどこ住んでんの? ギリ学生だよな?」
髪やら服の偏見で、実際に聞いていなかったことに気付く。
年齢的に学生をやってそうではあるが、翼が生えてループを知っているような人間が普通に生活しているわけがない。
「てか年上? 年下?」
「私達は他とは違うからな戸籍も年齢もない、言うなれば概念に近いんだよ」
どこか誇らしげに言い放つ彼女、ただ俺にはまったくピンときていない。
「——へぇー……なるほど?」
詰まった空気に、思わず適当に相槌を打って場を往なした。
会って間もない相手に失礼な態度だとは思うがこれは仕方ない。
答えになっていない電波な発言に何を突っ込めばいいのかも分からないし……。
……もしやツッコむべきだった?
駅から海に沿って伸びる街灯も少ない田舎道を歩くばかり。
無言の圧力と後ろからの視線には冷たい汗が垂れる。
今気付いたってもう遅いよな……相性わっる。
駅から出て二~三分は経っただろうか、俺は目的の宿泊施設に到着した。そこは瓦屋根の民家、周りには古典的なガチャガチャと冷凍ショーケースが鎮座している。
「おぉ、駄菓子屋。ノスタルジックだな」
彼女は冷凍ショーケースを目を輝かせて見つめている。その表情は今まで見たことがなかった人間味のある顔。
高次元な内容と電波な態度で、なかなか掴めない奴だと思ったが、翼に目を瞑ると意外と等身大の人間のように普通に過ごしているのかもしれない。
そう思うと中々……。
「ただ興味を持っただけだ、たったそれだけで私の人格をどうこう言うな」
「……なんで記憶読めてんだよ」
「翼にも同じように理論を問うか?」
翼が生えてるなら心を読めてもなんらおかしくない。ってか?
「なんでも出来るんだな……じゃあ、お前の仲間に時間を操る能力もいたりするのか?」
「さぁ? 同胞が私のように力を持っているかすら私は知らない」
――勘違いで怒鳴ってたら最悪だったな。
「時間を操る誰かがいるとして、ループは私達が要因ではないぞ?」
「……でもきっと時関係はいると思う。じゃないと説明つかねーし」
俺は吐き捨てると先陣を切り、全面ガラスの引き戸で開け放たれた店内に入った。
店内は相変わらずで駄菓子や玩具が所狭しと並んでいる。搔い潜った先には木製のボロッちいカウンター。
その上には居眠る前下がりワンレンボブが見える。
女子大生というブランドを持ってながら不用心すぎるな。
俺は眠る体を揺らし彼女を夢から覚ます。
「アサミさ~ん。今日も泊ってもいいですか?」
「んぇ? ……っあ~」
野太いあくびは女子大生ブランドを物ともしない。それどころか女としての品性やらが疑われるが――やはり顔は全てを解決するらしい。
「今日はどこほっつき歩いてん――誰そこの子?」
アサミさんは俺の後ろにいる珍妙な存在に驚く。翼が生えてなかろうと、柄シャツに白が入った髪だ。田舎に似合わない姿にそりゃ驚く。
「いちよう、友達っス」
「へぇーおしゃれさんだ。名前は?」
やべ、そういや名前聞いてなかった。
……いや、コイツ概念だしそもそも無いんじゃ……。
もし電波発言加えに翼ドーンなんてされちゃ今夜中に話が付かない、なにより俺のループも声優の事を言わないといけなくなったらもう終わりだ……。
「……水月。よろしく」
「え、名前——」
突然のお名前判明に思わず目を丸くして振り返ってしまう。
「え、よろしくって? この子も泊まるの?」
「えっと……スマセン! お願いします!」
咄嗟に頼み込むとアサミさんはOKを出してくれた。なんかズルい気もしたし申し訳ない気持ちもあるけど――結局ループする世界だしな。
まぁ、それでいいとは思えないけど……。
「なんでアサミは泊めてくれるんだ?」
許可をもらった数時間後、アサミさんの髪を染めるのを手伝っていた改め水月は、腕を捲ったまま、廊下に俺を呼び出しわざわざそう聞いてきた。
ある程度の察しは付いているのだろう。彼女の鋭い目は温もりを帯びていた。
「アイツは女子大生だろ? 一人駄菓子屋を切り盛りしてるなんてな……。変な冗談で気を悪くさせる前に色々聞いておきたい」
なんだそれ。
「——ばあちゃんが死んで寂しいからってさ」
「祖父は?」
「聞いたことないな」
アサミさんとはループする世界で出来た友達だ。
初めて会うときは福田駅にある像周辺の待ち合わせスポット。彼女が落とした茶封筒を拾って俺達は仲良くなる。ただ、相性が良いってだけでそれ以外は何も知らないし、知りたいとも思わない。
一ヶ月で築ける友好関係は流石に限度がある、中途半端に知るぐらいなら、お互い遠慮無しに話せる赤の他人の方が良い、というのが俺の考えだ。
「まぁ、結局は、自分の話をしたくないから相手のことも聞かないだけなんだけど」
「いいんじゃないか? それがアサミとの仲を取り留めていると私は思うよ」
「お互いに拭い切れない不幸が滲み出てるしな」
俺に向けた余計な一言は、本音を隠した虚勢のようだった。敵ながら、俺に手を差し伸べた理由が、なんとなく分かった気がした。
「まぁ不幸具合なら、きっとアサミさんの方が酷いだろうさ」
無言で狭い廊下の壁に寄りかかる水月。長いまつげは目線と共に下に落ちる。
……まるで何を考えてんのか。
「っは~! おかげさまで私も都会人だ~」
髪に泡を付けて出て来たアサミさん。
俺達を見るなりサッパリとした表情から一転怪訝な顔に変わる。
「……喧嘩した?」
*
「じゃ、おやすみ~」
金髪にワンレンボブなんてギャル全開な姿とは裏腹、アサミさんは俺達に気を使うように部屋を去る。残った居間には隣同士で敷かれた敷布団が残って――。
なぜこうなってしまったのか、原因は先刻放った水月の発言が大きく起因する。
「二人きりで寝させてくれ」
アサミさんの髪に泡が残ったまま廊下に出たあの景色。
食卓を囲む頃にはそんな空気も元に戻っていた矢先にあの発言だ。
アサミさんは箸に取ったジャガイモをポロっと落とす、なんて見た目とは裏腹うぶな反応に「な、仲良いんだね~」などと良く分からないフォローを入れる。
もちろん深い意味は無いからと釈明はしたが、俺から言った所でだろう。アサミさん目線じゃ、俺達が微笑ましい集団だと思われていても仕方がない。
慌てる俺を置いて、水月は知ったことかと肉じゃがを食べるばかりだ。
まぁ……もう過ぎた話か。
能天気に敷布団の中に入る水月を見てしまったらそんな考えも消え失せてしまう。
「新手のツンデレだとしても気味が悪ぃし」
「翼を渡すのにアサミは邪魔だったんだ。これなら多少暴れても問題ない」
もっとマシな誘い方があっただろう。
「どうやる、ってかお前のを貰うのか」
「あぁ。それも儀式的でかつ猟奇的――雰囲気が大切なんだ」意気揚々な表情。
「……へぇー。ヤバそ」鼻で透かすような相槌を打つ。
ファンタジー過ぎて想像に困るが、とにかくグロいことは察した、そんな所だ。
水月は不服な顔を浮かべながら、前回より一回り小さい翼を生やす。一枚の羽根を抜き取り、丁寧に羽毛の先まで伸ばして――。
儀式ってやつか、まるで子供の頃に見た歯医者のような何一つ分からない景色が体現されている。俺は何のこっちゃとスマホを適当に開くばかりだ。
なんか、羽根じゃなくて――引っ掛かるんだよな。
「——アサミは良い人だな、飯も美味かった」
水月は羽毛をいじりながらも思い返すように俺に話かけた。
「え、まぁ。だな」
「だからこそ、こんな戦いに関わらせたくない」
さっさと自分家帰れってか。
「——分かってるよ。俺がただ飯食らいの疫病神ってことくらい」
俺から出る言葉はポツポツと生気を失う。
――分かった。違和感だ。違和感が姿を現した。
……こんな会話を、前にも。
衝撃だった。今まで耳障りなほど煩かった虫の音が止んだ気がした。
モヤのかかった脳は、なぜだか少女のシルエットをチラつかせる。畳の上で、水月のように話かける少女のシルエット。
昔、こんな日を同じように過ごしたんだ……誰かと。
フラッシュバックとでも言うのか、心臓がバクバクと高鳴っている。心臓は今までにないほど震えていた。
「——どうした?」深く疑問を浮かべる水月。
「分かんねぇ。昔の、何周か前のことが頭に過ってる」
記憶なんて当てに出来やしないがこんなのは初めてだ。思い出したいのに、思い出せない。脳に詰まった記憶が犇めき合って頭が痛む。
「ループの弊害だな。過去に私と来た、とかか?」
「いや、水月じゃないんだ! だから、すごい引っかかってる」
犇めく脳内は記憶を辿る。痒い、痒い、記憶を掘り起こすように頭を搔き続ける。思えばここに来た頃から、何かを思い出すようにと疼いていた。
なんなんだこの気持ち……誰なんだ?
命の揺さぶられる感覚。血の滴る床と隅で固まる少女のシルエット。
ループを、声優のことを伝えたあの日、あの夜の公園。
混濁を極めた記憶は、少女との思い出を紡いでいく。
それは寂しくて、胸が張り裂けそうな記憶。
願。翼。希望。血。血。血。床。
「ワクワクするな、声優って。お前の隣にいて私は誇らしいよ」
上目遣いで、優しい声だった。
「——大丈夫か?」
水月の伸びる腕、俺はそれを跳ねのける。
「悪い。ちょっと出てくる」落ち着きのない震える声。
脳を渦巻く何か、もう気持ちが収まらなかった。俺はアサミさんのと思われる緑色のジャンバーを羽織る。
「おい、翼はどうするつもりだ?」
「すぐ戻るから。なんか、このままじゃ寝つけそうにもないんだ」
自分勝手だ。俺がこんな今を生きているのもそんな自分勝手が招いた結果だろう。
そんな気持ちが一瞬ばかり脳内を通り過ぎて――。
「ちょっと、福田まで行ってくる」
「おい待て!」
水月の声が聞こえた気がする。それでもこの衝動には叶わなかった。
俺は玄関を飛び出し、駅に向かって走る。
彼女の姿がどこにあるかなんて分からない。ただの夢かもしれない。それでも、この胸の張り裂けるような気持ちから目を背けることは出来なかった。
福田駅、揺れる息を堪えホームを下りて行く。
ここまで来てだ、現実が俺の脳を支配している。
「はぁー……」
祭りの後のような寂しさは在りもしない青春を漂わせる。
ただただ水月に申し訳ない。顔でも思い出せてたらまだあったのに……。
唯一の当て、あの子に会いたい気持ちと……あの公園。駅近くの……だった気がする。
本当か妄想かも分からない。分かった所でその女の子がいるとは思えない。周辺の公園を加味すると、ほんとうに虚無な消去法だ。
でも、いてくれたら嬉しいな。
「——ギター?」
遠くから聞こえるアコースティックギターの音と少女の儚い声。
……思い出した。聞いた瞬間すぐに分かった。運命を今一度信じた。
これだ。
駅。像周辺の待ち合わせスポットで彼女は歌っている。
ハスキーな歌声だった。紡ぐ詩はバットトリップのようだった。
「ありがとうございました」
多少の人だかりから乾いた拍手がそこらから聞こえる。
彼女は軽く頭を下げると、ギターケースに溜まった小銭をかき集める。
「……あ、あの!」
「なん――」
一歩踏んだ綺麗なターン。
声を上げた刹那。ふんわりと赤みがかった髪が揺れた。
ぽすん。
思考を妨げる右肩の重み。
俺の肩には溢れんばかりにゴワゴワした長い髪が納まっている。
「……え?」
「距離を見誤ったな、悪い」
置いた声と共に、視界一杯にある赤みがかった髪は一方後ろに下がる。
ショートヘアの髪が俺の肩から離れ、茶色の目が俺を見上げた。
「良い声だな。思いが先走ったのかも知れない」
取って付けたような褒め方に浅く笑って濁す。
俺は何かセリフを読むように口を動かす。
「進路相談の紙に、なんて書いた?」
「進路相談?」
何の話かと彼女は目を丸くする。
「クラスの端にいる奴が馬鹿にされるような夢書いてさ、危ぶまれるよな?」
カッと、彼女の声が静かに荒ぶる。
「私の話か?」
「お互いの話さ。俺アンタのこと尊敬してんだよ」
「——あ……」
溢れていた。
記憶が溢れた。
「ねぇ——もしかして、例の天使だったりするのかな?」
「……天使?」
例の天使。多分、則包の言っていた噂のことだろう。
ただ一瞬。夜に紛れてまるで心臓を強く握られたようだった。
ループしているのにって。
憧れが彼女を神聖化していた。
「噂も流行る前。放課後、雑踏。見上げた先にそれがいたんだ」
「運命。何かの縁《えにし》。馬鹿みたいだけど疑いもしなかった」
俺の、多分。二人の中学校の教室。
彼女は窓の外から顔を出し、空に向かって息を吐く。
執筆の狙い
賞に出す予定の作品で、まだ完成もしていない途中の作品です。途中で低迷してしまったので、この作品が第三者から見てどうなのか感想が欲しいです。アドバイスなども是非ください。