清らかな罪
序章・ターニングポイント
あの日、私の人生は、破滅へと舵を切った。
午前五時三十分。署の駐車場はまだ冷気に包まれていた。私たち捜査員は、当直員にさえ気づかれないよう、ひっそりと署を出発した。密告を警戒してのことだ。
私が捜査用車を運転し、助手席に先輩の巡査部長、後部座席に係長(警部補)ともう一人の巡査部長が乗り込んだ。
湾岸道路から望む景色が美しかった。空は青く澄み渡り、海が朝日に輝いていた。
しかし、私の心はどんよりと曇っていた。この任務は正義に反しないかという疑念が渦巻いていたのだ。
バックミラーに係長の顔が映ると、ついに我慢しきれなくなった。
「係長、どう考えても変ですよ。この程度の選挙違反で逮捕なんて」
「余計なことを考えるな。運転に集中しろ」
「でも」
「いい加減にしろ! 命令なんだから仕方ないだろ!」
助手席の先輩は咳払いをすると、腕を組んで窓の外を眺めた。抑えろと言っているのだ。
どこにでもある些細な選挙違反だった。しかし捜査本部では、どんな微罪でも立件する方針が固まっていた。
刑事という連中は、些細な噂話にも聞き耳を立てている。その逮捕の真の目的は、すべての刑事が知るところだった。
警察本部のキャリアの偉いさんが、天下り先の意向を忖度し、オヤジ(署長)に指示をしたのだ。
天下り先の会長の息子の対立候補にジャブをお見舞いし、その息子を当選させることが目的だった。
私は刑事ドラマに憧れて警察官になり、初任科を卒業後、四年の交番勤務を経て刑事課に配属された。
しかし、刑事という仕事はドラマとは違った。刑事でやっていくには、ときに良心に背かなければならなかった。
被疑者の家は閑静な住宅街にあった。
私は捜査用車を家の塀の横にとめると、駐車禁止除外車証をダッシュボードに置いた。
係長が「行くぞ」と言うと全員が車から降り立ち、革靴の音を響かせながら玄関に向かった。
係長が主任に指示した。
「お前は裏に回れ」
私が玄関の呼び鈴を鳴らしても全く応答がない。
「どこかに出掛けたんですかね?」
「なに寝ぼけたこと言ってんだ」
係長は拳でドアを叩いた。まるでヤクザの事務所へのガサ入れだ。
「どなたですか?」と女の子の声が聞こえた。
「警察です。お父さんはいますか?」
「ちょっと待ってください」
しばらくするとドアが開き、パジャマ姿の被疑者が顔を出した。
「なんの御用ですか?」
「あなたを逮捕します」
「私が何をしたと言うのですか!」
係長は逮捕令状を突きつけた。
被疑者に罪の意識はなかった。当たり前だ。たかがティッシュを配ったり、ポスターの位置が少しずれていただけで、誰が罪だなんて思うだろうか。
私が被疑者の腕を掴むと、彼の娘が私の脚にすがりついて泣きじゃくった。
「パパを連れていかないで!」
茫然自失となった妻は玄関にしゃがみ込み、その様子を近所の住民が窓越しに見ていた。
脚にすがりつく娘に、「パパはすぐ戻るから」と言うと、彼女は「本当に?」と言って私の目を見つめた。私がうなずくと、彼女は涙をふいて離してくれた。
「なに言ってんだ! 早く車に乗せろ!」と係長が怒鳴ると、私は被疑者を先輩に預けて運転席に乗り込んだ。
その年の年末、その先輩と署で当直をしていた。
朝から雪が降り続き、とても静かな夜であった。
古びた石油ストーブがヤカンを沸騰させていた。私たちはカップラーメンを食べながら愚痴をこぼしていたのだ。
先輩は残り汁を飲むと、ふうと息を吐き、私に言った。
「イブに当直なんてついてないぜ。どうせ若い奴らは、彼女と晩飯でも食ってんだろ。こっちはカップラーメンだってのによ」
「自分は彼女がいないから、へっちゃらですよ」
「お前、何歳になったんだ?」
「二十八ですけど、なんでですか?」
「結婚する気あんのか?」
「ありますよ! でも彼女ができなくて」
「まあ、結婚すりゃ幸せになるってわけでもないけどな」
「そうですか?」
「ところで、知っているか? あの綺麗な奥さん、睡眠薬を飲んで搬送されたそうだ。命に別状はなかったそうだけどな」
「綺麗な奥さん?」
「選挙違反の被疑者の奥さんだよ」
「本当ですか!」
「あんな屁みたいな選挙違反で実刑だぜ。俺たちがカスみたいな余罪をかき集めたからな。俺もあの逮捕には抵抗があった。でも上に逆らえば、昇任も昇給も遅れるから仕方ないよ」
仕方ない? 人の家庭を壊しといて、そんな言い草があるか! いや待て。何を良い子ぶっている。お前も同罪じゃないか。
先輩はつぶやいた。
「あの女の子、今どうしてるのかな……」
当直明けの朝、私は被疑者の家を訪ねた。
塀に「犯罪者」とスプレーで落書きがあり、呼び鈴を押しても反応はなかった。新聞受けはチラシや請求書であふれ、その中には住宅金融公庫からの督促状もあった。
刑事を続ける気が失せた私は、新年早々、交番への配置換えを希望した。普通は春の定期異動で配置換えなのに、私は即日交番勤務を命ぜられた。
第二章・トロッコ電車
配置換えとなった年の秋。私は当番勤務を終えると、その足でとある渓谷に向かった。森林の中にいると心が落ち着くから、非番はよく訪れていたのだ。
そこは紅葉の中を走るトロッコ電車が有名で、土日は大勢の親子連れでにぎわった。
私は老朽化した無人駅でトロッコ電車を待っていた。
五十年前のダム建設の名残である無人駅は、改修工事の真っ最中だったが、その日は休日のため作業はしていなかった。
レールは赤く錆びついていたが、新品のレールが工事現場の隅に高く積まれていた。
駅のホームから渓谷を見渡すと、紅葉が艶やかで、澄んだ空気が心地よかった。
女の子の笑い声が響き渡った。ホームを見渡すと、笑顔で駆けまわる娘を、母親が「危ないわよ!」と叱っていた。
ガタンゴトンが微かに聞こえた。
休日だから親子連れで満員だろうと思いながら遠くを眺め、振り返ると、不思議なことに、先ほどの親子が忽然と消えていた。
「助けてください!」と叫び声が聞こえた。
ホームの下をのぞき込むと、娘が顔面蒼白で線路にしゃがみ込んでいて、母親が彼女を抱き上げようとしていた。
「どうしたんですか!」
「脚が抜けないんです!」
娘の脚が工事中の凹にハマり込み、太ももまで埋まっていた。だが電車の音が刻々と近づいている。
もう時間がない……
ホームから飛び降り、凹の隙間から奥を覗き込むと、ブロックから突き出た針金が、娘のふくらはぎを貫いていた。
やばい! もう電車が見える!
ホームの端に非常停止ボタンがあった。駆け寄って押してみたが反応がない。
「いい加減な工事するな、馬鹿野郎!」
少し離れた場所に赤く錆びついた機械が見えた。ダルマ転轍機と呼ばれる旧式の線路の分岐器が、まだ撤去されていなかったのだ。
駆け寄ってレバーに手を掛けたが南京錠で固定されていた。ただ軽く手で触れると、その金属の塊はポトリと地面に落ちた。
しかし、再びレバーに手を掛けて気づいたのだ。
線路は分岐点から少し行ったところで途切れ、そこから深い峡谷になっていることに。
トロッコ電車はもう間近に迫り、何度も警笛を鳴らした。娘は意識を失っていた。私はもう娘は助からないと思い、母親に叫んだ。
「避難してください! お願いです! 逃げてください!」
母親と視線が重なった。
彼女は泣きながら私に首を振ると、娘を抱きしめて、その場にうずくまった。
これは悪夢だ。俺はもう何もできない。この場から逃げ去りたい……
次の瞬間、私の右腕がレバーを引いた。分岐器は滑らかに駆動し、カシャンと音をたてて線路が切り替わった。
列車の車輪が火花をあげたが、速度は落ちず、車両が次々と谷底に吸い込まれていった。
金属が裂けるような音が響き渡り、崖の縁からのぞくと、列車が大蛇のように横たわっていた。
木の根につかまって崖を下り、谷底に降り立つと、列車は紙箱のようにひしゃげていた。
「誰か! 返事をしてください!」
静寂に包まれた渓谷に、私の声が虚しく響き渡った。
なんてことをしてしまったんだ……
私はがっくりと地面に崩れ落ちた。
すると、「お母さん……」と少年の声が聞こえた。振り向くと、ゆがんだ窓枠から細い腕が出ていた。
つぶれた車両によじ登ってその腕をつかみ、少年を引っ張り上げた。だが、まだその下に大人の男性と小さな男の子が倒れていた。息をしているようには見えなかった。
私は少年に呼びかけた。
「しっかりしろ!」
「お母さん……」
少年は息絶えた。
「頼む! 死なないでくれ!」
私は少年を抱きしめ、狂ったように泣き叫んだ。
やがてプロペラの音が響き、見上げると赤いヘリが頭上を旋回していた。
最終章・希望
【刑法第三十七条・緊急避難】
やむを得ずにした行為は、これによって生じた害が、避けようとした害の程度を超えなかった場合に限り罰しない。
法廷は異様な空気に包まれていた。私は遺族の視線を背中に感じ、すすり泣く声に心を揺さぶられた。
裁判長による人定質問、検察官による一連の冒頭陳述が行われ、それが終わると検察官が私への質問を始めた。
「あなたには刑事の経験がありますね?」
「はい」
「あなたは警察官として、いや一人の人間として、命の重さについて、普段どのように考えてますか?」
「人命は何よりも尊い。いつもそう考えています」
「あなたは精神疾患を持っていますか?」
「職務に疑問を感じ、悩んでいました」
「精神疾患を聞いている!」
「ありません」
「では2と166では、どちらが大きいですか?」
「166です」
「そうですね。では、2人の命と166人の命では、どちらが重いですか?」
あのときの光景が脳裏に蘇った。迫り来る列車。切り裂くような警笛の音。線路にうずくまる母と娘……
「答えて下さい!」
「166人です」
「そうです。列車には無辜の166人が乗っていました。あなたは多くの乗客が乗っていることを予見できましたか?」
「はい。休日なので」
「状況を理解しているのに、なぜ列車の進路を変えたのですか?」
「親子を助けたくて」
「あなたは緊急避難の意味を知っていますか?」
「はい」
「当然です。刑事だった人が知らないはずがない。つまり、あなたは被害を最小にするべきだった。なのに被害を最大にした。それも故意に」
法廷に遺族の怒号が響き渡り、検察官は語気を強めた。
「被告人は沢山の家族が乗っていることを知っていた。なのに無責任な判断で、166人もの命を奪ったのです!」
検察官はどうだと言わんばかりに法廷を見渡した。
「情状酌量の余地はあるでしょう。ヘリが到着したとき、被告人は少年の遺体を抱いて泣いていた。しかし、一見美しく見える行為も、他の被害者の救助を怠ったのだから、冷酷な所業と言うしかない。よって、被告人に厳罰を科すは当然のことなのです」
すると弁護人が声を上げた。
「異議あり! パニック状態にあった被告人が、正常な判断をくだすことは不可能だった!」
検察官は証人への質問を要求し、裁判長が許可すると、若い警察官が証言台に立った。
検察官は彼に質問をした。
「あなたは被告人と同じ課で勤務していましたね?」
「はい」
確かに彼とは同じ課で勤務をしていた。だが彼は別の係の新米刑事で、ほとんど喋ったこともなかった。本来なら、私と同じ係の者が証言台に立つべきだ。
検察官は若者に質問を続けた。
「被告人の勤務態度について聞かせてください」
「はい。被告人は自分の意見を優先するあまり、チームワークを乱すことがよくありました」
取り調べの経験から分かるのだ。それは言わされている喋り方だった。彼は退室する際も私と目を合わさないようにしていた。
検察官は続けた。
「彼の証言を裏付ける資料があります」
検察官はA4の冊子を高く掲げた。
「これは被告人の人事記録の写しです。ここには、被告人は自分勝手な正義感を優先するあまり、組織に迷惑を掛けることが度々あったと記載されています。つまり被告人は、常習的に自分勝手な正義感に酔い、全体の利益を踏みにじっていたのです」
また法廷に怒号が響いた。
「あの子を返して!」
「妻と娘を返せ!」
「人殺し!」
裁判長が「静粛に!」と制すると、女性のすすり泣く声が聞こえた。
振り返ると、私が助けた親子が座っていた。母が娘を抱きしめて泣いていたのだ。あのときのように。
列車から娘を守ろうとする姿が目に浮かび、ある疑問が浮かび上がった。
もし、あの瞬間に戻れるとしたら、俺は、あの親子を見捨てることが出来るだろうか?
遺族の代表である女性が意見陳述を始めた。彼女の悲しみは計り知れず、私はその全てを受け止めねばならなかった。
「私の家族は、あの男に殺されました。彼は二人の命のためと言ってますが、私の息子たちと夫の命は、あの親子の命より軽いと言うのですか。私と同じように苦しんでいる人が大勢います。みんな、あの男のせいです。裁判官並びに裁判員の方々に申し上げます。私たち遺族は、厳罰を強く望んでいます」
彼女が席に戻ると、私が救助した母親が証言台に呼ばれた。
彼女の足取りは重く、その姿は、処罰を受けにゆく罪人のようだった。彼女は証言台に立っても、しばらく言葉を失っていた。目を閉じて息を繰り返し、震える声で話し始めた。
「私の娘のために、多くの人を犠牲にして良いとは思いません。でも私は、娘に生きていて欲しかった。娘がまだ私のお腹にいるとき、夫を交通事故で亡くしました。だから娘には、人生を全うして欲しかったのです」
すると遺族たちが声を上げた。
「なら、あたしの娘は、死んでもいいって言うの!」
「私だって、子供に生きていて欲しかった!」
「自分勝手なことを言うな!」
「静粛に!」と裁判長が制した。
証言台に立つ彼女は、一瞬私のほうに顔を向け、再び前を向いて話し始めた。
「彼が私に避難を呼びかけると、私は娘を抱きしめたまま、目で訴えました。娘を助けて欲しいと…… すべて私のせいです。罰は私が受けるべきなのです」
彼女はその場で泣き崩れ、体を支えられて証言台を降りた。
「被告人は何か述べることがありますか?」と裁判長が言うと、また法廷に怒号が響いた。
「遺族に謝罪しろ!」
「こっちを向け!」
「頭を下げろ!」
私は後ろを向き、遺族たちに深々と頭を下げた。そして向き直ると、裁判長に言った。
「裁判長。私は……」
「なんですか?」
「私は、もしあの瞬間に戻れたとしても、またあの親子を救います」
法廷がしんと静まり返った。
「被告人。自分が何を言っているか分かっていますか?」
すると弁護人が声を上げた。
「裁判長! 彼は正常な精神状態ではありません!」
裁判長は私に問うた。
「被告人は、二度とあのような事件を起こさないと約束できますか?」
「………」
「被告人。答えてください」
私は裁判長の目を見つめた。
「私は、もしあの瞬間に戻れたとしても、またあの親子を救います。この思いが変わることは、決してありません」
懲役五年の実刑判決が下された。
そして今日が、刑務所で迎える最後のクリスマスだ。午後一時から教誨師の説教が始まり、それが終わると、多くの囚人が家族と面会をする。
私にも面会の予定がある。彼女たちは以前から面会の数を増やしたいと言っていたが、生命犯は面会を少なく制限されている。
私は手紙で十分だと伝えていたが、彼女たちは、クリスマスは必ず会いに行くと言って聞かなかった。
「865番。面会の時間だ」
「はい」
面会室に入ると、アクリル板の向こうに彼女たちがいた。
「ふたりとも元気そうだね」
「あなたも体に気をつけてくださいね。風邪が流行ってますから」
「おじさん。あと少しだから頑張ってね。ここを出たら三人で暮らそうね」
「お母さんたち婚約してるんだから、お父さんでいいのよ」
「本当に自分でいいの?」
「きっと、あの人も天国で喜んでいるわ」
「おじさんなら、お父さんも絶対にいいって言うから」
「この子ったら、またおじさんなんて言って」
私たちは声を出して笑った。
「ところで今の学校はどう?」
「心配ないわ。何人か友達もできたみたいだから」
「あたし部活に入ったのよ」
彼女は前の学校で、「お前のせいで人が大勢死んだ」と言われ、転校を余儀なくされたのだ。
「君のほうは大丈夫?」
「ええ。今のところは」
彼女も行く先々で嫌がらせに遭い、職を転々としていた。
アクリル板越しに、ふたりと手を合わせた。彼女たちの温もりが微かに感じられ、少しだけ幸せな気持ちになれた。
「865番。そろそろ時間だ」
「あなた。くれぐれも体に気をつけて下さいね」
「ここを出たら三人で暮らそうね」
「うん。ありがとう」
彼女たちは面会室を後にした。
明るい未来など考えられないし、考えてはならない。
私たちには茨(いばら)の道しかないだろう。それでも、三人で手をたずさえて歩き続ける。それが私たちに残された幸せだから。
終わり
執筆の狙い
以前投稿した『分岐点』をかなり推敲しました。
トロッコ問題にはさほど興味がないけど、トロッコ問題の問題には多少興味があります。
約7000字の作品です。よろしくお願いします。