海の名無し
あの時、海は僕らの居場所だった。
煌々と照り輝く太陽と潮の匂い、揺れる水面は美しいと小学生ながら僕でもはっきりわかった。
サーッ
細波の成す音がが耳を心地よく撫でる。
「なぁタクヤ、お前中学になったら引っ越すんやろ?」
同じクラスのコウジはそう言った。
「せやな、引っ越し準備はもう始まってるわ」
コウジは少し寂しそうな顔をして
「まぁ別れの季節だからね、しょうがないね」
と急によそよそしく言う。
こうやって海を眺めながら過ごせるのもあと数ヶ月。そう考えると少し寂しくなるような気持ちもあった。
「タクヤ、泳ごうぜ」
コウジとは2年生の頃からずっと同じクラスだった。それなりに長く付き合ってきて色々言い合ったりもした仲だ。だから急に突拍子もないことを言う性格だっていうのも理解してるつもりだった。
「あのさぁ…水着持ってきてないよ…」
少し言い淀んだ。なにせコウジは自分の気に食わないとすぐにキレる性格だったからだ。暴れるなよ…と心の中で唱える。
「ふーん、じゃあ今度な」
コウジにしては珍しくすぐに引き下がった。体調でも悪いのかと言いかけたが飲み込んだ。
「まぁ急に言ったもんな、そっちの事情も考えないとな」
今日のコウジはなんだかいつものコウジじゃなかった。
「明日は水着持ってこいよ」
「いいよ」
そう言って僕らは家に帰った。夕方、ちょうどひぐらしゼミが鳴いていた。あの海から少しずつ遠ざかっていく。
僕らはあの海の名前を知らなかった。いつも僕ら以外の誰もいない海。不思議な場所だった。あの海は透き通っていて、魚もちらほら見ることができた。多分魚の種類は何でもいるんだ。小学生並みの感想だけど、本当にそんな気がするような、不思議な場所だった。
「ただいま〜」
「遅いじゃない、もう8時10分よ」
門限を10分過ぎたことに母は怒る。
「たった10分じゃん」
そう言いながら僕はカバンを下ろした。
「されど10分よ、悔い改めて」
母は睨みつけながらそう言った。
「ねぇお母さんがまた怒ってる」
「おっ…そうだな…」
テレビで放送されてる野球に夢中な父は適当に流した。引っ越しまでもうわずかだというのに、我が家ではいつも通りに過ごしていた。
「おう、打ってこい打ってこい…あ、おい…待てぃ…あぁ!!」
相手チームがホームランを打った。
「うわぁ…今年は無理か…」
落胆したように父は言った。金がかかってるというわけでもないのに必死になるのは心底楽しんでるということだろう。
「ほらあなた、晩ご飯の用意手伝って」
「かしこまり…」
母に言われると父は途端に萎縮する。
「今日はビール冷やしてあるから」
「ああ〜いいっすね〜!」
軽い口調で父は言う。
「ねぇジュースは冷やしてる?」
「もちろんよ」
母は笑顔でそう答えた。今日の晩ご飯はカツカレー。我が家では定番のご馳走だった。
いつもならテンションが上がるのだが、今日は少し違った。
コウジのことがずっと心に引っかかる。なんであんなにも様子がおかしかったのだろうか。
「タクヤ、早く食べちゃいなさい」
母にそう言われ、急いで椅子に座った。
真夏の夜は蒸し暑く、簡単に眠ることはできなかった。クーラーも壊れてしまったからどうしようもない。
「うー…うー…」
隣でうめくようにイビキをかく父の声がする。暑さでうなされているのだろうか。
することもなく、コウジのことを考える。今日のコウジはずっと悲しそうな顔をしていた。大丈夫か聞くべきだったろうか。もう会える日が少ないからって何か体調が悪くて無理をさせてたとかじゃないのだろうか。結局いろいろ考えたとしてもわかるわけがなかった。そんなことをしているうちに次第にまどろんでいった。
「なぁおい、水着持ってきたか?」
「えっと…もう引っ越しの荷物に詰めちゃってて…」
気まずそうに僕は答える。
「何だお前」
コウジは顔を赤くさせながら声を荒げた。が、すぐに落ち着きを取り戻した。
「まぁ…仕方ないよな…」
やはりコウジの様子は変だった。いつもなら殴りかかるような勢いで怒るのに。
「なぁコウジ、なんかあったのか?」
我慢できず、ついに聞いてしまった。これがコウジとの最後の会話になったんだ。
「いや何もないよ」
「嘘つくなって」
柄にもなく声を荒げて言った。
「いつもならもっと怒ったりしてるだろ、嘘つくな」
繰り返しそう言うと、コウジは顔を真っ赤にして泣き出した。
「お…俺…俺…お前のこと好きだったんだよ!」
「は?」
俺は呆然とした。そんな気は今まで全くなかったのに。コウジは俺のことをそんなふうに思っていたのだ。
「キモ」
溢れ出てきた感情はこうだった。今考えてみると酷いことを言ってしまった。泣きじゃくるコウジを置いて家へと走った。
それからもう、僕は海へと行かなかった。
あの場所はもう、僕の居場所じゃなくなったんだ。
執筆の狙い
サクッと読めるように書きました。
至らぬところは多いと思います。
たくさん指摘してください。