作家でごはん!鍛練場
ヘツポツ斎(=佐藤)

単に山下達郎を翻案しただけというアレ

 小説家、扇端卓郎(本名池田よし夫)にとり、今年のクリスマスは特別なものになる、予定である。哀しいかな、現状予定は未定である。腕時計に目を落とす。二十時四十八分。同時に視界に飛び込む、仕立ての整ったスーツの袖口と、よれよれになったコートとのコントラストに嘆ぜざるを得ない。ジャケットにばかり気を配りすぎ、アウターに無頓着でありすぎた。合わせればどうにかなるだろうと楽観していたのだ。どうにもならなかった。
 顔を上げ、町の様子を眺める。眺める、としか言いようがない。町のさなかに居ながらにして、テレビの向こうの景色であるようにしか思えない。きらびやかなツリーが、ショウウィンドウを飾るリースが、街頭のスピーカーから流れている山下達郎が、そして何より町を彩る、クソッタレな笑顔に充ち満ちた他人どもが、扇端――作者としてはこの虚飾に満ちた名を用いるのはあまり本意ではないのだが、しかし彼の置かれている現状と、放り込まれているロケーションとのギャップを踏まえれば、せめて少しでも現実から遊離させてやるよう計らってやらねば、あまりにも哀れでならない――を解放された独房、その奥へと容赦なく押しやってゆく。
 十年後の今日、二十一時。また、日吉で会いましょう。もし、あなたがペンで大成したならば。
 そう言って、地味だが小綺麗な包装の中島敦・山月記をテーブルづてに差し出し、波濤ヶ原ゴメス子――信じられないだろうが、本当にこのペンネームだったのである。作風については名が示すとおり。万感を込めて一言にまとめるとプログレッシヴと称するのが相応しい。さすがに現在は一般企業に勤めているため、本名については言及しないよう配慮させていただく――は、扇端の前から姿を消した。
 ありふれた出会いであった。大学の文芸サークル、同学年であったゴメス子の小説を読んだ瞬間、扇端は己と相通ずるものを感じ取った。瞬く間に意気投合し、作風はおろか、その没交流的な性向までもが噛み合ったため、二人は闊達な文学論の交わされるサロンより孤立していった。それでも構わなかった。扇端にはゴメス子がおればよく、そしておそらく、それはゴメス子とて同様であったはずだ。交わすのが言葉だけでなくなるのにさして時間は要しなかった。幾百幾千もの文字と体液を与え、摂取し、扇端の文学は深化を遂げた。深化の確信、それはともすれば万能感と呼んでも差し支えあるまい。若さ特有の愚かしさであるか、否、否、断じて否。ゴメス子という客観に、扇端は全幅の信頼を置いていた。
 蜜月はあえなく破綻した。サークルの後輩が公募にて見事入賞を果たしたのである。それは扇端が、ゴメス子が幾度となく挑み、敗れ去った賞でもあった。一定の距離を保ちつつも繋がりを残しておいたサークルは、扇端にとっては薄汚れた豚小屋に等しく、心ささくれた時に匹夫の足掻きをせせら笑うことでペンのインクを満たす、斯様な場であったはずだった。豚に羽根が生え、飛んだ。有りうべからざる事態を目の当たりとし、ゴメス子と二人、懊悩を積もらせる日々が続いた。
 私たちは、私たちにばかり向き合いすぎていたのかしら。
 ある日、ゴメス子がぽつりと洩らした。その言葉は啓示であった。ゴメス子の手を取り、快哉を叫んだ。その夜は珍しく三回戦にまで及んだ。そう、扇端は、そしてゴメス子は、気付かぬうちに高みに辿り着きすぎてしまっていたのだ。くだんの賞の尺度などでは、到底測りきれぬ境地である。悟りを得た扇端のペンは、更なる冴えを見せる。だが、いっぽうでゴメス子のそれは、目に見えて鈍っていった。悲しみがなかったかと言えば、嘘になる。我が半身を担いうるとも目していた筆客も、ひとたび自分が覚醒を果たせば、やはりその重きを負うには足りなかったのだ。やむを得ぬ事ではあった。だが、進まねばならぬ。それこそが文士たるに課せられた業なのだ。
 来たるべき時が来たのが、大学四回生時のクリスマス。中島敦など、あまりにも今更ではないか。隴西の李徴は博学才穎、なるほど、若書きとも思えぬ格調高き書き出しである。だが、それがなんだというのか。漢詩漢文の持つ語彙、文調を口語文に交えるなど、最早タネの割れた手品でしかない。ただ、失望があった。ゴメス子も中島を見上げるところで止まってしまったのだ。掛ける言葉は、最早なかった。扇端が持つつもりでいた店の伝票はゴメス子に押し付けた。連絡先は、携帯から消した。
 ゴメス子は就職した。扇端は留年した。これ以上学費を持つことは出来ない、と親に言われたので退学した。以降親とは疎遠になっている。食うためにアルバイトを転々とし、残りを書く時間に充てるようになった。扇端を見出す炯眼は、しばらくの間現れなかった。
 二十時五十三分。見上げると、しずと雨が降り始めている。
 十年。顧みるだに、光陰、としか言いようがない。焦らなかったか、と言われれば嘘になる。しかし今更凡夫の愚にもつかぬ、的外れなさえずりに一喜一憂して何になろう。求むるは言葉と心、両者の織り成す真なる交歓である。ゴメス子と過ごした時間のごとき鮮烈な輝きは、そう容易く見出すことができなかった。また扇端とて男の端くれ、交歓の正体を求め、親不孝通りに足を運んだこともあった。けれども、いけない。あそこの女どもには、交歓の対手として求むべき知性が著しく欠落している。なのでみるくちゃんとは五回きりで縁を切った。ゴメス子との交歓の日々を思い出し、手淫に耽るに及び、胸部のサイズがしばしみるくちゃんとの混同を起こすようになったが、これは目的達成の上ではむしろ利に資した、と言ってよい。
 思い出すだけで、丹田付近から熱く昂勃するものがあった。ぼろぼろの財布から、レストラン、そしてホテルの予約票を取り出す。時間を確認する。なにぶん相手はひどく時間にルーズなゴメス子である。予約時間にも当然インデントは設けてある。これもデキる書き手のなせる技、というものだ。
 二ヶ月前、手慰みで書いた端切れに過ぎぬ投稿作が編集社の目に留まった。あのような小者ごときに阿られても仕方ないのだが、手に入れられるものであれば手に入れてしまうに越したこともない。賞金は三十万。日々をアルバイトで過ごす扇端にはなかなか見れぬ大金である。これを、今日この日のために全て費やした。まずは店を予約し、髪を切り、服を買い、靴を買った。口臭スプレーと、コンドームも三箱買った。
 扇端の文才を、誰よりもよく知るゴメス子のことである。日々検索に勤しんでいたことであろう。その懐かしく、輝かしい名がディスプレイ上に躍り出た時、果たしてどのような感動を抱いたことであろうか。不明も、愚昧も、すべて許そうと思っている。それが高みにたどり着いたものの務めなのだから。
 二十一時二十五分。雨に、霰が混じり始めた。
 きらびやかなツリーが、ショウウィンドウを飾るリースが、街頭のスピーカーから流れている山下達郎が、そして町ゆく凡愚どもが、扇端を祝福しているような気がした。

単に山下達郎を翻案しただけというアレ

執筆の狙い

作者 ヘツポツ斎(=佐藤)
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2018年のクリスマスに合わせて発表した作品です。山下達郎と山月記が悪魔的なマッシュアップを起こして嫌な笑いを浮かべながらかけたことを覚えています。

コメント

金木犀
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文章はすらすら読めましたし、途中途中の心理描写も読者が飽きない程度にはテンションの上り下がりがあり、読んでいてブラウザバックしようとは思わなかったです。

ただ、内容の方が全然頭に入ってこなかったです。あまりこんなことを言うと普段のやりとりでどうこう思われてしまうかもな、と不安になりながらこの指摘をしています。が、あまりにも、物語の核心となる部分が描かれていない。いや確かにゴメス子とのなれそめやその顛末はある程度描かれているし、『約束の場所にこなかった』という雰囲気は感じる作品なのですが、山下達郎の歌詞とその雰囲気を読者が知らなければ『ふーんそうなんだ』で終わっちゃう感じかなあと思いました。

でも文章の雰囲気はちゃんとあるし、クリスマスイブという歌を聞いたあとこの作品を読めばある程度はなんでこんな作品になったかはわかる気がしています。
ただ山下達郎の歌を聞いたあと、この作品を読んで、果たしてこのストーリーがかえって邪魔しないかという懸念はありました。私だけが感じた違和感かもしれませんが。
もうちょっと歌詞の情景を意識して、雰囲気に浸れたら良かったなあと思いました


執筆お疲れさまでした。

佐藤
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金木犀様

お読みくださり、ありがとうございます。
この話の中心概念は「山月記」が
背負っている、とだけ回答申し上げますね。
お疲れ様でした。

えんがわ
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頻繁に出てくるゴメス子という言葉が話を一気にギャグ(非現実)に持って行って、とても現実味のある作家譚が隠し味になっている。
シャイな人なのかなという気がする。作中人物も作者も、真面目に書き過ぎては恥ずかしいからギャグで隠そうとしているのかなと。ただ「ゴメス子」は強烈なネーミングでした。
キリの良い終わり方ではないですが、その中途半端さが主人公の作家人生を象徴しているようで、「きっと君は来ない」のかな。

佐藤
p1460140-ipoe.ipoe.ocn.ne.jp

えんがわ様

お読みくださり、ありがとうございます!
この手の「ギャグ小説」を好んで書く歪んだ書き手です笑
ゴメス子と言う名前は
あまりにも響きが悪くてお気に入りです。

そうですね、この作品は「きっと君は来ない」
というゴールに、しかし本人は気付いていない、
と言う形式でした。

こうした「認知の歪み」を真っ正面からつかみ取る作品も、
もっと挑戦していきたいな、と思います。
ありがとうございました!

ヘツポツ斎(=佐藤)
sp49-109-154-141.tck02.spmode.ne.jp

「厳し目の評価をお願いします」。


ありがとうございます。では、忖度抜きでストレートに感想・評価を述べます。

総評:自己陶酔と既視感が過剰に交差する、きつい読書体験

この作品は、文体・構造ともにある程度の技量を持った書き手によるものと見受けられます。が、その技量が、作品として読者の興味を引き込む方向に使われていない。むしろ「自分がどう書けるか」「どれだけ達意な表現ができるか」「どれだけ“文学”しているか」を見せびらかす方向にしか使われておらず、ひとことで言えば極めて自己陶酔的で読みにくい。

文体について

よれよれになったコートとのコントラストに嘆ぜざるを得ない
幾百幾千もの文字と体液を与え、摂取し、
親不孝通りに足を運んだこともあった
コンドームも三箱買った
このような「仰々しい文語的言い回し」と「生々しい俗語・下品表現」が同居しているが、その落差が効果的に機能していない。いわゆる“村上春樹+舞城王太郎風”の混合文体を意識しているように見えるが、模倣の域を出ず、パロディにも昇華できていない。文体自体が「作者自身の承認欲求の産物」として立ってしまっており、作品に奉仕していない。

主人公と語りの痛々しさ

扇端というキャラクターに一貫性はあるが、その人物像に付き合うメリットが読者にほぼない。
つまり、こういう自意識過剰で「俺は選ばれし書き手」と信じて疑わない人物に、読者が感情移入する導線が用意されていない。むしろ「そりゃお前は売れんだろ」という反感ばかりが募る。これは戯画的な描写を狙っていたとしても、カタルシスも転倒もないため、ただただ鬱陶しい。

物語の構造と展開

物語の骨子――かつての文学的恋人との再会を夢見る冴えない作家、という点はよくある題材であり、それ自体は問題ない。だが、

ゴメス子のキャラクターが「名前の奇抜さ」以外に何もない
関係の破綻がテンプレート的かつ都合よく処理されている
結末に至るまでの葛藤や変化が全く描かれない
といった点から、内容があまりにも“既視感の強い私小説風”でしかない。タイトルにある通り、**「単に山下達郎を翻案しただけ」**というのは皮肉でも何でもなく事実として正しい。しかも、それをアイロニカルに処理したり、乗り越える構造がないため、ただの劣化オマージュにしかなっていない。

まとめ:読者不在の自慰的作品

要は「自分がこうだった」とか「俺の中ではこういう物語」だけで閉じてしまっており、読者が読む必然性がない。
つまり、作品として成立していない。
書ける人ではあると思うが、「書けること」と「作品が面白いこと」は別問題。今のままでは、技術とセンスを見せつけながら、自分のナルシシズムの中で溺れているだけという印象を拭えない。

必要であれば、改善の方向性も提示します。厳しい言い方をすれば、「このままでは文学ごっこにすぎない」ので、そこから一歩出たいなら、思い切った自己否定と構造転換が必要です。



なるほど、なるほど。

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