猫は私を見ていた
猫は私を見ている。
私はぼんやりした頭でゆっくりとソファから立ち上がると、窓際にいる猫がこちらを見ていることに気が付いた。色は黒。名前はまだ決めていない。私達家族にとってペットの名前などどうでもいいのだ。
ふと見ると私が寝ていたソファにはもう一人の私が寝転んでいた。そうか。今日、私は死んだんだ。
私は寝転んでいる私の亡骸を撫でようとするが、その手はすり抜けていく。
時計を見ると朝の4時を指していた。親と兄弟が起床する数時間前である。おそらく現在この家で起きているのはあの猫だけだろう。
私は自分の体が霧のように少しずつ消滅していっていることに気が付いた。それは天国に飛ばされていく希望の「消滅」ではない。巨大な闇に飲み込まれ、押しつぶされていく絶望の「消滅」であった。
そうか。私は家族に最後の挨拶もできずに、ここで無惨にも人生を終えるのか。
私の中で悲しい気持ちが土砂降りのように襲いかかった。でも、不思議と寂しさは無かった。
猫は真っ直ぐに私を見つめている。真剣な眼差しというよりは、不思議なものを見つめているような眼であった。もしかすると幽霊を見るのは初めてなのかもしれない。
どうせなら消える間際に、映画みたいにエンドロールが流れれば少しは気が楽になっただろう。今までお世話になった人達の名前がずらりと並んで下から上へとスクロールされていくのを私は想像する。ところどころで私が赤ちゃんだった頃や、私の中学校の卒業式などの思い出の写真が現れては消えていくのだ。
しかし、現実は非情である。もう私は色を失い、透明なアクリルのような見た目となっていた。おそらくあとものの十数秒で消えてしまうだろう。
猫はそんな私を不思議なものでも見るような眼でずっと見つめている。
私は言う。今まで尻尾を掴んだりしちゃってごめんね。晩御飯の焼き魚を分けてあげなくてごめんね。うっかり部屋に鍵をかけて閉じ込めちゃってごめんね。私は今まであなたに酷いことばかりしてきた駄目な奴だけど、本当はもっとあなたと仲良くしたかったの。
沢山の謝罪の言葉をかけた私はふと自分の亡骸が横たわっているソファに目をやった。
私の頬に思わず雫が伝った。
今日、私を見送るためにずっと一緒にいてくれていたのね。
それが現世で彼女が放った最後の言葉だった。
ソファと彼女の亡骸の服には猫の毛が沢山引っ付いており、お土産の魚が置いてあったという。
執筆の狙い
即席で面白い短編小説を書けるようになりたいと思い、実際に即席で執筆してみた作品です。