千年祭にて
ぼくが古里の星宿村に帰ると、幼なじみの町屋冬倖が待っていた。
翻って、ぼく、寺田真春と、冬倖が死に別れて、二年が経っている。
つまり、冬倖は「甦生」したのだ。
比喩でも何でも無いリアルだった。
でなければ、両親もほとんど帰ってこない寺田宅の前に、白いワンピースに麦藁帽子をかぶって立っているなんて、信じられない。
「……ふ、ふゆ、き、なの……?」
現在、ぼくは十八歳。今年で十九の代。冬倖は一つ下にあたるから――そんな事は今さらどうだっていい。
向こう、冬倖は別れたあの日から成長しており、元々お淑やかかつ端正だった雰囲気に磨きがかかっている。
でも、冬倖だ。冬倖の面影しかない。
「おかえり、でしょう。せっかく帰って……ううん、還ってきたんだから」
にこり、完璧な笑顔で。
「『向こう』から、ね」
その清楚な中に蠱惑的なものを感じ取って、どきり、鼓動が撥ねる。
「ちょ、ちょっと待って」
慌てて、スマホで確認しても日付は思ったとおり。
「まだ、じゃない? 『千年祭』ははじまってないよ」
千年祭は三日後だ。
大体、とぼくは生唾を呑み込み、
「十日前なのに、どうやって、甦生したのさ?」
「うふふ。お・し・え・な・い」
冬倖は悪戯っぽく、顔の前で立てた人差し指を振って、
「暑いから早く家に入りましょう。私の家、引き払われたみたいだし」
「っ」
そうだ。
町屋さんの家は、冬倖が亡くなってすぐ、この星宿から出ていった。
まだ、十五歳だった愛娘を亡くしたのだから、それは当然で……
「ねぇねぇ、真春くん」
ぼんやり、一つの景色として冬倖を見つめていたら、いつの間にか、彼女は我が家のドアの把手に手をかけている。早く中に入れてという事だ。
「分かった。今から開け――」
「マハル?」
直前、背後から呼びかけ。
振り返れば、冬倖とは対照的に野球帽と半袖にホットパンツ姿の、ボーイッシュな女の子が、
「隣にいるのは、フユキ?」
どうして、と繰り返しながら、わなわな震え出す。
「フユキはあの時、死んだ。それに千年祭もまだ。なのにどうして、フユキが生き返ってるんだよ……?」
「夏南。ぼくにも分からないんだ。帰ってきたら、いきなり冬倖が家の前にいたんだよ。お願い。信じて」
「し、信じるも、何も」
彼女、山川夏南は喉を鳴らし、一歩後ずさり、
「こんな事、聞いたことねぇぞ。三日も前に甦生するなんて。オレたちが『星墜とし』もしてねぇのに。分からねぇ。分からねぇ。分からねぇよぉ――!」
動揺を隠せず、もう二、三歩と下がり、
「いいかい。絶ッ対にソイツを元のフユキだと思うなよ。家に上げるのも待て。オレ、一応、長老に話聞いてくるから!」
最後は踵を返し、走り去った。
「――という事らしいので」
己が「事」の中心にいるという自覚が無いのか。あるいは意図的なのか。
いずれにせよ、冬倖は夏真っ盛りであるにも拘わらず、ひんやりと冷たい手でこちらの手首を掴んで、
「ずいぶん久しぶりだから、村を回ろうかしら」
「……な。ちょ、待って、えぇぇ――!」
細い体のどこから力が湧いてくるのか。力づくで、ぼくは冬倖に連れ出された。
目に飛び込んでくる入道雲と、果てしない青い色が行く末を知っているかの如く、空から見下ろしている。
「――ほら、言ったとおりだったでしょう」
「…………認めたくないけど」
ぐるり、周囲を見回したぼくは、一つ、溜息を吐く。
村役場の前に来ていた。そこは星宿村に点在する集会所の中で最も大きなそれがあり、
「あら。真春君に冬倖ちゃんじゃない」
「まぁまぁ。相変わらずお似合いねぇ」
「式はこぢんまりでいいわよ。がはは」
口々に勝手な言葉を投げかけてくるお婆さんたち。物心ついた頃からあまり変わらない彼女たち。さすがに何人かはお亡くなりになっているけど、狭い村なので、こちらの事情も筒抜けである。
ともあれ、だ。
肝心の問いかけを、日陰のベンチで休んでいた一人にする。
「あのぅ」
「なんじゃい」
「冬倖はいつからここにいましたか?」
すると、目をしばたいたお婆さんは、
「いつからって。冬倖はずっとおるよ」
さもありなんとばかり。
「で、でも」
ぼくは額をつたう汗を拭いながら、
「冬倖は、二年前に死ん――」
「ちょっといいかしら」
当の彼女が横から何か差し出して来、
「これが目に入らない?」
「……ん」
受け取って、確認する。隣町の高校の生徒証。こんな物、いくらでも偽装できそうだけど。
「ほかにも、ほら」
村の広報誌に、陸上の全国大会に出場する旨が記されている。言うまでもなく、先ほどの校名と町屋冬倖の名が踊っている。
「待てよ」
だとしたら、だ。
ぼくは一つ、思いつく。
そして、彼女に宣言する。
「今から、ぼくと勝負してくれないかな」
もちろん、何かは決まっている。
「陸上、それも冬倖の得意な走りで。ぼくも少しは、脚力に自信がある。きみが本当に陸上部なら、いい勝負ができる筈だ」
「いいわよ。もちろん、手は抜かないから」
冬倖の表情が引きしまる。
結果だけ言えば、ぼくは完敗だった。
千年祭と呼ばれる祭りがある。
それは、千年祭が行われているあいだだけ、すなわち七日間、死者が「何らかの形」で甦るというもの。
もちろん、その名が冠されたように、遥か昔すぎる魂は「欠けら」や「痕跡」さえないため、甦る事はほぼない。
そんな星宿村だからこそ、町屋冬倖の甦生を、想定の範囲から「少しだけ逸脱」したものとして、ぼくは受け止めていた。
元来、星宿は、周辺地域からしても「神聖」な場所であり、一時的にせよ、不可思議な事象が起こっても、村民のあいだでは暗黙の了解として受け容れられている。
しかし、町屋冬倖は、慣例と異なった。
まず、死んだ当時の姿を留めていない。
加えて、村民たちにも「受け容れられ」ている。
一般的な死者は、ある程度の感覚的歪みをもって、村民に溶け込んでいる。
それでいて、冬倖は謂わば、アップデートされていて――そのまま生き続けて、ずっとこの村にいたかの如く、存在していた。
おかしい。
明らかに。
今年の夏は今までとは違う。
感覚ではなく確かな事実として、ぼくは幼なじみの復活に対峙しなければならないと考えるようになっていた。
なぜなら、自分自身、千年祭と密接に関わる「役割」を任されているのだから。
結局、ぼくは行き場の無い冬倖を自宅に入れる事にした。
村民のあいだではどう捉えられているのか分からない。
実際問題、彼女の両親は星宿村を離れ、古くからあった家も取り壊されていた。
「んで、離れに押し込んだのか。フユキを」
「そう。年頃の男女が長く一緒にいる訳にいかない」
夜になり、夕食や入浴などを済ませた後。
ぼくと冬倖が物理的に間隔をおいたのを、こちらからのスマホによるメッセージで知ったもう一人の幼なじみ、山川夏南が話をしに来ていて、
「あれだけアイツを家に入れるなって、オレの忠告を破ったのは、さておき」
盛大な溜息。
「何がどうなってんだぁ? 甦るには三日も早い上に、村の衆の対応もおかしいなんてよぉ」
リビングのソファにどっかり胡座をかいた夏南は、こちらが手渡した麦茶を啜り、
「にしても今年の夏はあっちぃ」
そうか、と夏南はエアコンを示し、
「この部屋にしかないんだったか」
「そうだよ。『御参家』はどこも古い家で、扇風機があれば充分だと思ってる長老たちも多いと思うよ」
御参家というのは、星宿村が形成された悠久の昔からあったとされる三つの家を指す。
内訳は、山川、寺田、町屋。つまりは、
「オレたち幼なじみ三人が三人全員、御参家の唯一の跡取りなんてどんな因果だよ」
夏南はそうつぶやいて、麦茶をまた一口、含んだ。
「でも、どうなんだろう」
ぼくは疑問を呈した。
一縷の望みをかけて。
「もしも、もしもだけど、……冬倖がこのまま完全に甦生したら、って」
だって、
「村の人たちにもしっかり認知されているし、そもそも、千年祭の仕組みにだってどこか孔が空いてるのかもしれないし」
「な訳あるか」
一蹴される。
力強くコップを置いた彼女の眼差しはいつにも増して鋭く光っていて、
「千年祭の永い歴史の中で、完全にこっちの世界に戻ってきた人間はいないんだ。みんな、一瞬で還っていかないと、こっちの世界に悪影響を及ぼす」
「っっっ。だ、だよ、ね。ごめん。変な事こぼして」
「まっ、オレも少しだけ思ったのは嘘じゃない、がな」
え、とぼくがその先の言葉を接ごうとする前に、むこうは立ち上がり、リビングを出ていこうとし、
「そうだ」
くるり、こちらに歩み寄り、息も交わりそうな距離から、
「今後、フユキにはオレの事を含めて余計な告げ口をするな。いいか?」
「? りょ、了解」
どうしてかまで訊きたかったけど、夏南は呼びかける前にいなくなってしまい、独り、残されたぼくは大きく肩を落とした。
眼前には「夜」が拡がっている。
一言で表しても、普段見ているそれとは明らかに黒く淀んでいて暗い。
星や月が無いからだ。
ぼくはただ一人、明かりの消えた夜空を見上げている――。
刹那、遥か遠く、視界の右斜め上から左斜め下に懸けて、降りてくるものがあった。
「流れ星」だ。
これもまた、よく目にする煌めきとは異なる。
緩慢かつ蛇行しながら落ちてきている。
通常、あり得ない動きにぼくは深呼吸。
「想いの照準」を定める。
想いは、流れ星に対してぶつけるイメージ。
照準は、流れ星の落ち方に規則性を見出す。
想いの絶頂と照準が合う――「ヒット」する感覚。
「う」
お、と声を吐き出して、ぼくは解き放つ。
自身の内側から飛び出した七色の線は、正確無比に、まっすぐ流れ星を射貫いてみせた。
瞬間、すべてが彩られる。
濃淡の無い闇一色だった空は、あっという間に突き抜ける青と化して。
弾けた流れ星の欠けらが降り注いだ地平に、彼方まで花が咲き乱れる。
無の地獄から極楽へと表情を変えたような世界の真ん中に。
取り残されている――いや、今まさに産み落とされた幼子が、独り、泣いている。
母親を求めているのか。はたまた、色を変えた世界への祝福か。
いずれにせよ、ぼくはその子供に近づいていく。踏みしめれば散る花がふわりと膨張して舞い、溶け消えていく。
「淋しかったよね。独りじゃないから、安心してほしいな。少しのあいだは」
抱き上げた子に重みは一切感じず、においや感触も無く。
強いて挙げれば、大きすぎる生命の鼓動だけが、あった。
青空に向かって、叫ぶ。
「夏南! 終わったよ!」
「りょーかい」
ふわり。
ぼくの体は浮き上がっていき、空の向こうまで達し――
――夏南の目の前に降り立った。
「お疲れさん。だんだん慣れてきたみたいだな」
「うん。コツが掴めてきた」
言って、辺りに目を動かす。
古い民家だ。畳敷きの部屋で、中央には布団にくるまっているお爺さんがいて。傍ら、心配そうに見下ろし正座しているお婆さんは、
「! 目ぇ、覚ましたみてぇだ」
お爺さんが起き上がれば、ひしと抱きしめる。
一方、お爺さんは小首を傾げて、
「わ、儂は、雪下ろしをしていたんだが……?」
「馬鹿垂れ。お前さん、屋根から落っこちて、そのまま逝っちまった」
そんで、とこちらにお婆さんは視線を向け、
「星墜としを『星留』のお二人にしてもらったから、お祭りの今だけ、こっちに戻ってこれたんだわい」
「! わ、儂は、死んだ、んか」
お爺さんは少しのあいだ、己の体を見回して、
「挨拶もせんと、お前に叱られるな。あ、あはは」
口を開けて笑っていたけれど、目元には雫が光っている。
「……行こうぜ」
「……分かった」
ぼくと夏南は一礼して、その家を出る。
引き戸を閉めても、うれしさとつらさが綯い交ぜになった声が漏れ聞こえた。
語弊を生む表現であったとしても、命には明確な「差」がある。
何も、価値の評価ではなく、存在する限り、どれだけ世界に「存在感」を発揮していたかによって、だ。
存在感は、千年祭の最後を飾る星墜としと密接に関わってくる。
なぜならば千年祭の目的は、ぼくと夏南という星留が、この星宿村に伝わる「星の神」を一年おきに復活させ、その間、村を護るためにあるのだから。
星宿村は確実に少子高齢化が進んではいるけれど、千年祭の時だけ、甦生によって人口が増え、一時的でも活気が戻る。その死者たちが村を護ってくれるのだろう。千年祭のあいだは誰も死なず、村自体にも災いは降りかからない。
そして、星の神の星墜としをする際、絶対にミスは許されないため、六日間は「感覚」を取り戻すためもあって、星留は民家を回って村民の星墜としをし、その魂を現世に呼び戻している。
星留ができる年齢はほどよい若年層と決まっており、ちょうど十代半ばから後半がよいとされている。
でも、決して簡単な任務ではない。
実際、ここに至るまで、十歳になってから五年間、御参家の長老たちから厳しい指導を受け、何とかものになったと言える。
千年祭の最終日、七日目を迎えるまで、ぼくと夏南は陽が昇り、落ちるまではたらき続ける。
さなか、違和感は突然やってきた。
星墜としをした村民全員が漏れなく、復活しているのだ。
「夏南も、おかしいと思うよね……?」
甦生するのは何らおかしくない。大体、それが目的なのだから。
でも、問題は「範囲」である。
千年祭と銘打たれているように、大体千年前の人間までしか甦生はできず、こちらも意図的に「取捨選択」している。
かと言って、彼ら全員がしっかり存命だった頃のまま甦生するのかと言えば、NOである。
人間の魂には「耐用年数」があり、存命中にすり減らした場合も、のちに甦生する際、影響してくる。
ゆえに、不完全な形で甦ってくる村民も例年ならいる――筈なのだけど。
「今年はほとんど『原型』を留めて甦生されてる」
夏南は不可解を額に皺として刻みながらつぶやく。
作戦会議という名の夜会が、今宵もぼくの家で行われていた。
「それをいい事に、どっからか聞きつけてきて、先祖に会いたいと言って、例年以上に星墜としを申し込んでくる輩も多い」
星墜としの対象はその度に変わるのだけど、長老に「賄賂」を送って割り込む者もいる。
「困ったものだよね……。長老たちは何か言ってない?」
「半分以上、意識の無い奴らの言うとおりに動いてもな」
コップを傾けながら夏南は毒づいた。
「御参家も実質、『御双家』に数を減らして、力も落ちてきているくらいだ。今さら、爺や婆の言う事を聞く耳を持つ奴の方がめずらし……!」
ばっと、彼女を振り向いた先、いつの間にか開いていたドアの前に。
「久しぶりね、夏南ちゃん」
離れにいる筈の少女がパジャマ姿で立っていた。
「! ふ、冬倖。どうして出てきて――」
「わたしがこう見えて嫉妬深いって事くらい、十五年も付き合ってたんだから知ってるでしょう?」
ふふふ、と冬倖は笑いながら、夏南の隣に腰を落ち着かせ、
「真春くんも、夏南ちゃんもひどいわよぉ。わたしだって、甦生したんだから昔みたいに仲間に入れてくれてもいいじゃないの」
「そうは言っても……」
と夏南が渋る中で、
「いいよ。逆に今まで理由が分からないからって遠ざけてて、ごめんね」
ぼくは素直に頭を下げ、もう一人の幼なじみを受け容れる事に決めた。
「いいのか。このフユキがオレたちの知ってるフユキだって限らねぇんだぞ」
「でもさぁ、そんな事を言ってたら、何も進展しないまま七日目を迎えるかもしれない」
だから、とぼくはゆっくりと言葉を接ぐ。
「冬倖にも、協力をお願いしたい。たぶん、星墜としもできる、よね? だとしたら大助かりなんだけど」
「ええ。できる限り、二人をサポートするわ」
「だってさ。夏南」
「……――あー。分かった、分かったー」
相も変わらずの半袖Tシャツにホットパンンツな少女は、ソファに一度寝転がって、がばっと起き上がり、
「いいぜ。ただし、フユキに異変があったらすぐに離脱してもらうからな」
「はい。これで決まり。――ほら」
「ん」
「わ」
ぼくは何と無く、二人の手を引き寄せて輪をつくり、
「あと六日間、頑張って乗り切るぞー! せーのー」
目で合図し、おおー、と一拍遅れて三人で声を合わせるのだった。
千年祭はその名のとおり、祭りである。
つまり、祝いや盛りの場でもあるのだ。
そのため、夜になればどこからともなく屋台が並び、御輿が担がれ、やがて村民が集まる仕組みになっていた。
「……こ、これで、どう、だ……?」
普段着のぼくとは異なり、夏南は淡い水色の浴衣姿で、
「ちょっと、気を張りすぎたかしら」
冬倖もまた、桃色と緑色のそれで、二人共、髪に簪を刺していた。
「う、うん。いい。いいよ、本当に」
控えめに言って、幼なじみたちはタイプこそ違うけど、整った顔をしていてスポーティーなため、浴衣が似合っている。現に、道行く村民たちも目をやってくるのが分かった。
「な、何だよ、そんなテキトーな感想」
「もっと褒めてくれてもいいのよー?」
照れくさそうにおのおの、頬を押さえたり、視線をさまよわせる。
こちらもこちらで、いや、とか、その、とか口ごもってしまう。
「あ~! もう焦れってぇなぁ!!」
業を煮やした夏南が、冬倖とぼくの手を取って駆け出しながら、
「せっかくの祭りだ。とことん楽しもうぜ」
そう言ってくれたおかげで、ぼくたちのあいだに走った緊張は失せていき、いつしか忘れしまうのだった。
「え~! ではでは続きまして、御年九十八歳の歌唱です! どうぞ!」
祭りのフィナーレに近づき、のど自慢が行われていた。
「楽しかったね。たくさんお店も回ったし」
ぼくは笑顔を意識する事無く、自然体でいる。
「おう。大満足だぜ。射的が一番面白かった」
「わたしも。たこ焼き、おいしかったなぁ~」
それぞれああだこうだ感想を述べていれば。
「あれ、月が赤く光ってる……?」
ぽつり、どこかの誰かがつぶやいた。
「ん」
つられて見上げたそこには、確かに夜空の真ん中、真っ赤な円いものが鎮座していた。
――いや、月にしては光が強くて、目がチカチカするような――?
まぁいいか。
結局、ほかに注目する人もいなかった。
ぼく自身も、あっという間に忘れた。
そんな些細な事より、今この瞬間を、三人で共有している方がうれしくて、堪らなく愛おしかった。
異変は目に見える形ではっきりと現れた。
星留の役割を果たすため、ぼくは村民の家を訪れ、いつもどおり、星墜としに入った。
余談だけど、星墜としには体力と気力的にも限界があり、一日ないし半日でもいいから故人と時間を共にしたいと願う人がいるため、千年祭が終わるギリギリまで、予定は組まれている。
でも、そこで待っていたのは、見慣れた夜空ではなく。
「……夕空……?」
一面、茜色に染まった場所にぼくは立っていた。
さらには見上げた紅色の頭上に、幾度も流れ星がながれては戻ってくる。
巻き戻しと早送りを繰り返しているかのような、不可解かつ奇妙な光景。
「ッ」
ぼくはこのままじゃ埒が明かないと思い、現実に意識を浮上させようとして。
いつもならそのまま帰る筈が、まったく、その気配が無かった。
「な、何で」
一体全体、何が起きているのか分からなかった。
状況すら掴めず、いたずらに時間だけが過ぎる。
やがて、夕空は血のようにその色を強調していって。
すぅ、と流れ星までが景色の中に溶け込んでいった。
「!?」
驚いているだけのこちらに、夕空は刻々と「迫って」くる。
すでに空と地平の区別がつかなくなっている。
こちらの足下につながっている地面まで、達するのも時間の問題。
「く、くそっ!」
ぼくは後ずさり、背中を見せて一目散に逃げ出した。
逃げる場所が無いのは意識で分かっていた。
それ以上に「アレ」に呑み込まれたら最後だと強く認識していた。
息も絶え絶えに、時折振り返るそこ、夕空が確実に彼我の距離を縮めていて――。
「う、うわぁああああああああああああああああああああああああああ!!」
踏み出した足がもつれ、無様に顔から地面に転げ伏した。
立ち上がろうと焦れば、再度バランスを崩して体が回る。
もう、夕空は足首まで掴もうとしている。
「あ、あ、あ」
もう駄目だと思った。
直後。
「マハル!」
「真春くん!」
一瞬にして意識が現実に帰った。
「はぁ、はぁ、はぁ……!?」
荒い呼吸をしながら周囲を見回せば、すぐ傍、心配そうに夏南と冬倖が見つめてきていて、
「どうしたんだよ。なかなか上がってこないし。何かあったんじゃないと思ったぞ」
「ほ、星墜としは」
ごくん、とほとんど乾いた唾を呑んで、
「星墜としは、どうなった?」
「……んなの」
夏南は黙ったまま。
「見てみて」
冬倖が指し示す先。
ぼくがゆっくり首を向ければ。
誰もいない。
ましてや、潜る前にいた筈の住人さえも。
「ど、どうして……?」
「さぁな。オレが目を離した一瞬で消えやがった」
夏南にも理由が分からないらしい。
「それ」が訪れた家々でたびたび続くようになる。
午後七時を回った。
太陽はまだ空にあった。
少しも傾かず、空の頂点に。
でも、そんな超常的な現象下において。
村民たちは、誰一人として不思議がらずにいた。
そればかりか、今日も行われた祭りに際して、踊っている。
まるでこの世の終焉を、せめて明るく迎えようとするかのように。
あるいは、景色など意識の外で、甦った死者との時間を惜しむかの如く。
さすがにこの異常事態に、ぼくたちは御参家の長老を訪ねた。
一方で、返ってきた答えは「気にするな」の一点張りだった。
むしろ、村民が死者に近づいている今こそ、千年祭を締めくくる時に相応しい、と。
このまま村民を狂気の渦中に容れたまま、その想いと死者たちの存在を慣例より早めて「昇華」する事で、より星宿村に益が齎される、とも。
狂っている。
やがて、ぼくたちは反論する気力すら無くなり、誰かに頼るのをやめた。
導き出した答えは。
「ぼくたち三人で、今年最後の星墜としをして、星の神にも還ってもらおう」
もうすでに選択肢の無い行動指針だった。
星墜としの最後を飾る場所は文字どおり、満天の夜空の下で、だった。
千年祭が行われる年だけはその瞬間だけでも快晴になるのが常である。
「あのさ」
星の神に「向こう」へと還ってもらう儀式の場となる、星宿村で一番高い山、星居の頂上に辿り着くと、沈痛な面もちで、夏南は言った。
「オレ、マハルに……いいや、フユキにも黙っていた事があって」
ややあってから、普段の彼女からは想像できない幽かな声で、
「……オレ、フユキの事を、勝手に甦生させようとしたんだ。だから、たぶん、フユキが早くこっちに還ってきたんだと、思う……」
ぼくと冬倖は黙って顔を見合わせた。
はっとなる。
星墜としには、故人に関わる物やその血縁者が必要だ。
という事は、だ。
「どうして、夏南は、手ぶらで来ているの……?」
「それは」
拡げた両の手のひらに目線を落とした彼女は、ふっと笑い、
「オレが、オレの一部と引き換えにして、フユキをこの世に少しだけ、留まらせたから」
だから、
「フユキは完全には、あの世に連れていかれなかったんだ。まぁ、余計なお世話だったかもしれんけど」
「ど、どうして」
ぼくは一呼吸を挿んで、問いかけた。
「どうして、そこまで夏南が、冬倖を必要としたんだ? 単に友情? それとも、幼なじみだったから――」
「いいや。違う」
夏南ははっきりした口調で断言する。
「フユキとオレは、腹違いの姉妹。最終的に、長老たちの手で『処分』される運命にも拘わらず、生まれた」
「――!?」
あまりにも突然の告白に、何も知らず、のほほんと生きてきた自分を殴りたくなる。
「禁忌、とされているのは分かるよな? 御参家の人間同士が交わるのは。生まれてくる子供の『ちから』が強くなりすぎて、村内のパワーバランスが狂うからな」
「う、うん」
「だけど、オレの親父と、出ていったフユキの母親は互いに惹かれ合ってた。それが引き裂かれた後、……抑えていた気持ちが爆発した」
結果、と夏南は言って、じっと身じろぎもせず、虚空を見つめている冬倖に一瞬目配せして、
「オレとマハルの一つ下として、フユキが生まれて、必死に長老たちに縋りついた事で、一時は命が永らえられた」
「その先はわたしが一番よく分かってる。なぜなら、死んだ要因はわたしの行動だったから」
そう、
「わたしは、長老たちの手が伸びてくる前に、自殺した」
「…………」
冬倖が告げた事実から、ぼくはずっと目を背けていた。でなければ、精神が保たなかった。
「わたしが死にかけていた時、偶然にも、夏南ちゃんが誰もいない家に来て――わたしの一部を引き継ぐから、今度こそ、しっかりお別れをしようと言ってきた」
「それは」
言いたい事を予想して、ぼくは言葉を接いだ。
「ぼくも含めた三人で集まって過ごして、冬倖はこの世に未練を無くしたかった……?」
「そのとおり」
冬倖は首肯して、静かな語調で纏めた。
「最初は、夏南ちゃんの魂の欠けらを使って甦生したから、千年祭の前に還ってこれたんだけど、心配性の夏南ちゃんが何かあると悪いからって、真春くんの家に閉じ込めておきたかったんでしょう。実際はそんな事無かったんだけども」
「その分、『おかしな事』はある程度起きたが、な。まっ、村民も恩恵を多少なりとも受けたんだ。ありがたく思え。がははっ」
乾いた音をこぼして、最後、夏南が締めた。
それから誰からともなく、三人全員で握手を交わす。
相手の顔を見てもほとんど言葉も無く、頷くだけで。
もはや、動き出した世界は待ってくれないのだから。
「大丈夫。もうすぐ、ぜんぶ、終わるから。関係無い」
やがて、その時が訪れる。
夜空の向こうから、流れ星が次々に降り注ぐ。
それらを、ぼくたち三人は一心同体であるかのようにして、迅速に捌いていく。
淡々と。
延々と。
冷静に。
一体感をもって。
微塵も動揺せず。
孤独感も併せて。
そうしていれば、終わりがやってくる。
「あ」
誰のつぶやきだったのか。
見れば、冬倖の姿が薄れていく。
心は凪のように落ち着いている。
この時が来るのをはじめから知っていたとばかり。
ぼくと夏南は頷き合い、そこに冬倖も加わり、
「いくよ」
幾多降り続ける流れ星の中から、特別ではない、それでも確かにほかとは異なる「それ」を見出して。
躊躇無く、撃ち墜とした。
その一瞬、冬倖の方を見やれば。
彼女は、ただただ、前だけ向いて、すべてを受け容れていた。
分かっていた。
星の神は、神としての役割を果たすため、町屋冬倖を連れて帰るだろうと。
それは、本人はもちろん、夏南も同じ。
「――――」
再会した時と同じ、白いワンピースに麦藁帽子をかぶって浮かべる涼しげな微笑みを、生涯忘れられはしないだろう。
「冬倖」
ぼくは有りっ丈の想いを込めて。
「きみと過ごした時間は、忘れないよ」
「ふふふ。できれば見守っていてあげる」
冬倖は最後まで笑顔を崩さず。
ただし、ひとすじ涙を添えて。
「真春くん、夏南ちゃん。わたしの分も強く生きて、ね」
それだけを言い残して、半透明だった冬倖は消滅した。
きらり。
一瞬だけ、遥か彼方遠い夜空の向こうで、星が瞬いたような気がした。
夏南と並んで丘を下りれば、ぼくの家だけがあり、あとは忽然と姿を消していた。
祭りの後という表現では収まらない、茫漠たる平原のみが拡がっている。
そこにあった人も物も想いすら、すべてが喰らい尽くされていた。
「ホントは限界だったんだろうな。かろうじてバランスを保っていられたのも、奇跡的、か」
「……ぜんぶ、冬倖と一緒に星の神に連れていかれたみたいだね」
ここまで村が残っていただけ僥倖だったのだろう。住民たちも、神の導きによってどこかで上手くやっていると思いたい。存在感が溢れた反動で、彼らが一体どこにどう飛ばされたかは知る由も無いけど。
残されたぼくと夏南が荷物を纏めて家を出て、振り返ってみれば、音も無く消え去っている。
空の白と青のコントラストだけが目に灼きついていた。
執筆の狙い
ひと夏の「不思議」を追い求めて書きました。