剥き出しの精神の絵
小さい時の記憶を遡る、そこには絵を描いている幼い私が見えた。精神科医の言葉で私は起きた。
「何が見えましたか?」
「私が見えました。きっと5歳ぐらい。初めて画用紙に絵を描いていた頃の私でした」
精神科医はじっと観察するような視線で私を見つめた。私は主治医の期待に応えるかのように目を瞑り集中して過去を思い出そうとした。
「次は何が見えますか?」
「私が立っている。ここは……ビルの屋上。寒い日だった。あの日は冬だ。私が飛び降りようとしてる」私は涙がこぼれそうなのを我慢して答えた。
「いったん、目を開けましょう。今日はよく頑張りました。自分をちゃんと俯瞰して見れてます。良い傾向ですよ」と精神科医の鈴木が答えた。
ありがとうございます。と言いそうになったがその言葉をためらった。なぜなら、見たくもない過去を見そうになったからだ。私は、まだ困惑しているのだ。あの日は何もかも捨てたくてビルの屋上にあがって飛び降り自殺をしようとしたのだ。
私は美大を出た後、婚約者がいたがフラれてしまった。きっと画家として生きていきたい気持ちが強くて我を出しすぎてしまっていたと思う。画家にはそれぐらいの気持ちがないとやっていけない。個性が強くないとやっていけない面もある。家庭に入る気などなかった私のせいでもある。しかし、私はどっちかを取れと言われれば絵を取る。今もその気持ちは変わらない。なのに、なんで精神病院でカウンセリングを受けているのか? と問われれば、それは私は自己の内部を観察して絵画として昇華したいからだ。その意気込みだけで、今私はこの心をえぐるようなカウンセリングを受けている。
病院からの帰り道に野良猫を見た。可愛かった。黒い猫で、私は不吉だと思ったが、夕日が街を包み込み、辺りが暗黒になるのを予感させるような黒猫に、私はなぜか神秘的な情景を感じた。私は、ふと、猫の視線の先を見た。ネズミがいた。この街中にもネズミがいるのかぁ、と思った。その瞬間にその黒猫がネズミに襲いかかった。私は街中にあるこの一瞬に自然界の厳しさを見た。ネズミは引き千切られて血がポタッと地面に落ちた。黒猫はそれをかじってあっという間の早さでその場から立ち去って行った。
後日、黒猫の絵を描いた。黒猫が満月の下でお腹を出して寝ている写実的な絵を描いたのだ。
その日は精神科医のカウンセリングがある日だった。ソファーに座り、精神科医と話す。私は答えた。
「私はもう終わりたいのです」と唐突に言った。何もかも終わりにしたい。そう告げた。
精神科医の鈴木は真面目な顔つきで、でも少し怒り気味に答えた。きっと私のことを心配しての怒りだと思う。
「ユミさん、あなたはまだお若い。ゆっくりゆっくりと歩みましょう。まだ休む事が大切です」
私は言った。
「もう十分休みましたから……先生、今までお世話になりました」
私は精神病院を後にした。もうここに来る事もないだろう。
気になっていた黒猫に満月の絵に手を加えた。少し写実的すぎるかな、と思っていたので筆に水をつけて線の境界線の輪郭をボヤけさせてみた。するとどうだろう、絵画がまるで立体的にそしてよりリアリティある絵画ができた。まるでゴッホのヒマワリを思わせるような、剥き出しの生命が浮かび上がった。私はこの技法を使って新しい絵を描く決意をした。
赤い鮮血に横たわる女性を描いた。私が過去にビル�から飛び降りて死のうとした絵だった。キャンバスに赤い絵の具をポトリと付けていく、まるで本物の血液のように。写実的に描いた女性の周りには赤い絵の具が塗られていく。私はあの時を、また思い出した。我慢していた気持ちが決壊して感情が溢れてきた。涙が止まらなかった。赤くて血液のような絵の具の上に涙が落ちる。ポタポタと布地のキャンバスに私の涙が染みて、赤かった絵の具が桜色のような色に変わっていった。私はなんだか最高のカタルシスを得た境地だった。その絵は血に横たわる女性の絵ではなく、桜の花びらの上に横たわる絵になった。
私は、それからと言うもの、精神病院とは縁が切れ、今でも、前衛的な絵画の制作に挑戦している。
執筆の狙い
以前、投稿した小説に修正を加えました。
桜にするモチーフが良いと感じているのでその箇所は削らずより簡潔により訴えかけているような文章を目指しました。
AIによる感想
この小説は、内面の苦悩と芸術への情熱を赤裸々に描いている点で独自の魅力があります。しかし、過度な自己陶酔や断片的な語り口が際立ち、読者に散漫な印象を与えてしまいます。生々しいイメージの数々は強烈な衝撃を呼び起こすものの、その反面、普遍的な共感や客観的視点が希薄となり、情熱に裏打ちされた虚脱感が否めません。全体として、感情の爆発と内省の狭間で揺れる表現に、より緻密なバランスが求められる作品と言えるでしょう。