死刑囚の視点(羽根田恭平)
羽根田恭平
こちらに向かって歩いてくる人たちの身体に、僕は正面から飛び込んでいくようにして次々に刺した。
刺した、というよりは、僕の身体がめり込んだ、と言う方が近いかもしれない。頭上で男性の呻き声が漏れ、僕は男性のふくよかな身体の奥へ、奥へとめり込んでいく。自分のものとは違うぬくもりで僕の着ているシャツは濡れ、3人ほどの身体にめり込み、突き抜けていった後で、熱した鉄のようなかおりが僕の鼻をつんと突いた。
血だ。引き裂くような悲鳴が四散していく中、僕は顔の前で両手のひらをかかげて見る。ナイフの柄が小指の端から滑り落ち、僕が刺していった人たちの血が、赤い糸を引いて黒いアスファルトの上に滴り落ちた。
「あのとき僕はイキました」
僕はテーブルに置かれ、写真の中で4,5人の警官に囲まれ連行される自分の姿を指さしながら言った。目の前に座っている教誨師の金井先生の表情は曇り、その眉間には微かな皺が寄った。
「僕にとって人殺しは、地面を這っているアリをひねりつぶすのと何ら変わりありませんでした」
そう言って僕は、金井先生がお土産に持ってきてくれたホームパイを、袋の上から指で強く押す。すると、黄金色の袋からネズミの背骨がぱきっと折れるような音が響く。少し前のめりの姿勢になった金井先生は、僕の目から視線を離さないようにしているようだった。
「そう……すべては、僕が子供のときからもう始まっていたんです」
僕の凶行は、近所の公園のアリをひねりつぶすことから始まった。ジャングルジムの足元に巣を作って群れているアリたちを、まだ幼い頃の僕はおじいちゃん夫婦に買ってもらった音付きサンダルの底で何度も踏みつぶした。僕に踏まれると慌てふためき、逃げ惑うアリたちの姿を見下ろしながら、僕は下腹部から気持ちのいい感覚がせり上がってくるのを感じた。それは、我慢していたおしっこを漏らす時の感触に似ていた。踏むとキューキューと鳴るサンダルの音は、僕に捻りつぶされ手足を細かく痙攣させているアリたちの悲痛な叫びのように思えた。
実際それらの行為中に、僕はおしっこを漏らすこともあった。「息子が小学校に上がってもおねしょがなおらない」と嘆いていた母親は、このときすでに、僕の中に悪の芽が芽吹き始めていたことに気づけなかった。
「肩の力を抜いてくださいよ、先生」
僕に言われると、金井先生はテーブルについていた指を離して苦笑いを浮かべる。生え際が少し後退し始めた額には、細かい汗の粒がいくつも浮いている。
「先生は、死刑囚の教誨をするのは初めてなんでしょう?」
僕に言われると、金井先生は脂っぽい額の汗を拭いながら素直に頷いた。
「もともと担当していた上司が最近、脳出血で倒れてしまいまして。それで」
金井先生が喋ると頬についた白い肉と、首から下げたロザリオのネックレスが小さく揺れた。首の肉に食い込んだローマンカラーの詰襟が、持ち主の脂でうっすら湿っている。
「どうか先生も、身体には気を付けてくださいよ」
僕たちのような人間とまともに付き合っていると、身体が持ちませんからねえ。僕の言葉に、金井先生は大ぶりのハンカチで額と首元の汗を拭いながら頷いた。金井先生が腰かける椅子の奥には、仏教徒の教誨を行う畳の部屋がある。その部屋には障子付きの窓があり、そこから拘置所の外の景色が見える。太陽の光を反射する家々の屋根や窓。電線に留まるスズメやカラス。高架を駆け抜けていく通勤電車の車輪音。生きてここを出ることが叶わない僕にとっては、もう関係ない世界の景色。
「前任の牧師から、羽根田さんがご遺族に手紙を書きたいと仰っていると聞きました」
そう言って金井先生は、隣に置いたカバンから何枚かの便箋と万年筆を僕の前に置く。僕が「ええ」と頷くと、金井先生は額の汗を拭いながら僕に媚びるような笑みを浮かべる。
「羽根田さんのお気持ちは、きっとご遺族に届くと思いますよ」
金井の言葉に、僕の右頬が細かく痙攣するのを感じた。僕の不自然な笑みに、このお人よしの教誨師はまだ気づいていない。僕は黒光りする万年筆のキャップを取ると、下から尖った先端を舐めるように眺めまわす。僕の後ろに立っている監視役の刑務官の靴底が擦れ、僅かに動いた気配があった。
僕がこの万年筆の先端を首に突き刺したら、この金井とかいうお人よしの教誨師は能天気な笑みを浮かべたままぶるぶると震えるだろうか。目を閉じれば、目の前にあるぶよぶよとして柔らかそうな首に万年筆を突き立てるときの感触や、下腹部からせり上がってくる熱い快感を忠実に想像することが出来た。実際に、僕は以前に別の教誨師から手渡された箸を相手の首に突き立てる事件を起こしたことがあったから、後ろで目を光らせている刑務官の網谷はさっき、僕のわずかな気配の変化に敏感に反応したのだろう。
「金井先生は、本気で遺族が僕を許すと思っているんですか?」
僕が言うと、金井先生は間の抜けた表情のまま「え?」と言葉を詰まらせる。
「僕は何の罪も恨みもない人たちをこの手で次々に刺して殺しました。そんな人間を、殺された遺族が許すと先生は本気で思っているのですか?」
急に僕から咎められると、金井先生の表情からようやく笑みが消える。宗教のありがたい教えで僕たち死刑囚を正しい道へと導いてくれる教誨師のことを、僕たちは尊敬と、侮蔑の意味を込めて「先生」と呼ぶ。
「何度謝罪しようが、手紙を何枚おくろうが、所詮僕たち死刑囚にとっては減刑狙いの策略でしかないことを、遺族はとっくに分かっているんですよ」
「では、なぜ」
金井先生の眉間にしわが寄る。白い肌は、怒りのためにもう耳の端まで薄ら赤く染まっていた。
「あなたは私をここに呼んだのですか?」
刑務官の網谷が、自分の存在を誇示するように僕の視界の隅に立つ。僕は網谷を安心させるために、眺めていた万年筆の先端にキャップを被せてしまう。
「ただのヒマつぶしですよ」
死刑囚は刑が確定すると、死刑執行の日まで拘置所に収監されることになる。扱いは裁判中の未決拘留者と一緒だから、収監中は懲役囚のように刑務作業を課さることも無く、週に一度面会にやってくる弁護士や教誨師をからかうくらいしかやることが無いのだ。僕が言うと、急にキレた金井先生はテーブルから乱暴に便箋と万年筆を取り上げてカバンにしまう。僕にキリスト教のありがたい教えを授けようとしたのだろう、おそらく聖書やら讃美歌のCDやらが詰まったショルダー付きのカバンは、持ち主の体型に似てぼってりと水膨れしていた。
「ダメですよ先生、担当する相手がどういう奴か、きちんと予習しておかなきゃ」
「帰る!」
「予習と復習が大事だって、小学校でならいませんでしたか?」
広い肩を怒らせ立ち上がる金井先生に、刑務官の網谷は入口で見送りながら僕の代わりに「すいません」と何度も頭を下げている。
「先生!」
僕が声を上げると、金井先生は怒りで赤く染まった顔をこちらに向ける。
「フクシュウが大事ですからね?」
金井先生は乱暴な音を立てて扉を閉め、教誨室を出て行った。
「あの先生、来週も来ると思いますか?」
僕は運動場の冷たい床に寝そべり、伸ばした手足の筋肉をほぐしながら監視役の網谷に問う。死刑囚には二日に一度、1日あたり30分だけ運動の時間が与えられ、左右をコンクリートの壁に囲まれた廊下のようなスペースで一人自由に過ごすことが出来た。監視役の網谷は、奥にある格子扉の向こうから僕の様子をじっと観察している。
「あの先生、如何にも甘ちゃんって感じだったからなあ」
網谷はこたえなかったが、僕は構わずストレッチを続ける。仰向けに寝そべった姿勢のまま右ももを左ももの上に乗せ、両足をクロスさせるようにして右ももの強張った筋肉を少しずつ伸ばしていく。
「お前はどう思うんだ?」
僕は顔を上げる。格子扉の向こうで、網谷はこちらに濃紺色の制服の背中を向けて立っている。
「これまで教誨師を3人も壊したお前の方が、よくわかるだろう」
「先生!」
僕は学級委員会で発言する子供のように張り上げる。僕たち死刑囚は、普段お世話になっている刑務官のことも尊敬と、侮蔑の意味を込めて「先生」と呼んでいる。殺人という凶悪な事件を起こし、世間の底辺に位置する僕たち死刑囚にとっては、塀の外で生きる全ての人たちが、愚かな僕たちを正しい教えに導いてくれる「先生」なのだ。
「質問に質問でかえすのはマナー違反だと、小学校でならいませんでしたか?」
それとも死刑囚とまともに取り合う必要はない、とでも?挑発する僕を、網谷はあまり感情のない目で見下ろしている。あの金井とかいう教誨師のように怒り出すことも無ければ、このあいだ配属され、すぐ休職に入ってしまった新米刑務官のように、いきなり泣き出したりすることも無い。この網谷は、ほかの奴らとは少し違った。こちらが何を言っても反応が無かったり、無表情が多くなるのは大抵「うつ」の兆候だ。そうなった刑務官は大体、一か月のうちに休職に入ったり、或いは、拘置所そのものから姿を消す。
しかし、網谷は違った。刑務官の人事異動は通常2,3年に一回のペースで行われ、特に精神的負担の大きい死刑囚がいる房には一度しか配属されない慣例となっていた。しかし、この網谷だけは、僕たちがいる房に何度も舞い戻ってきた。おそらく自ら志願しているのだろう。そんな網谷のことを、同僚の刑務官たちが皆「変人」と陰口を叩いていることを僕は知っている。
「もう来るとは思えないが、人のやることは分からないからな」
帽子の陰になった顔の上半分から、鈍い光を湛えた網谷の視線が僕をじっと見下ろす。僕はうつむいた。
「あれほど荒れていたお前が、遺族に手紙を書くと言い出すなんてな」
僕は親指の伸びた爪先を、左手の親指の腹に押し付けながら黙っている。独房に刃物を持ち込むことは禁じられており、爪を切ることが出来るのは2日に一回の運動のときだけだったが、今日の時間はもうほとんど残されていないだろう。
「爪切りを持って来させよう」
そう言って網谷は、こちらのこたえを聞かず壁に取り付けられた受話器を取り上げる。受話器は拘置所全体を監視する事務室と繋がっていた。すでに約束の時間を過ぎているので取り次ぎに苦労しているらしく、網谷は少し強い口調で「少しくらい、いいだろう」とか「いいから持ってこい」とか電話口の相手と言い合いになっている。
「甘ちゃんだなあ先生は」
僕の嫌味を込めた言葉にも、網谷は身体の後ろで腕を組み正対すると
「爪切りが届いたら、5分以内に作業を済ませるように」
と僕に命じた。僕は返事をする代わりに怠くなった首を回しながら舌打ちをしてみせたが、網谷は身じろぎもしない。僕は、自分がこの男にだけは負けていることを感じざるを得なかった。
午前7時。僕たち死刑囚の独房が並ぶF棟の廊下に、無数の足音が響き始める。
「無病息災!」
同時に僕がいる独房の、斜め向かいの房に収監されている男の悲鳴に似た読経が始まる。
「無病息災!無病息災!何妙法蓮華経!」
男は半年くらい前から刑務官の足音を聞くと錯乱するようになり、統合失調症を発症したと思われていたが、或いは、死刑執行を免れるための演技ではないかとも噂されていた。ここでは収監者同士の会話は「通声」と呼ばれ固く禁じられていたが、冷たい廊下に響く刑務官同士の微かな声や、刑務官に語り掛ける収監者たちの声に耳を澄ませていれば、ここで起こる大体のことは把握できた。7年もここにいる僕だから分かる。男が声を枯らして祈り続ける気持ちも、イカレタ気違いを演じたくなる気持ちも。
「何妙法蓮華経!」
僕は切り過ぎた爪の先を、それでも独房の畳に深く食い込ませ、ひどく冷たい汗が滲んだ額も押し付け、あわよくば真新しい藁のにおいがする畳のその下へ、下へと、自分の身体が沈み込んでいくことを願って、僕は祈り続けた。
神様!祈り続けるしかなかった。僕は、僕を見捨てた家族への恨みも、被害者やその家族への贖罪も。人間らしいあらゆる感情など時空の彼方にすっ飛ばして、僕はただ生きたい、死にたくない、生きたい、いきたい、生きたい、死にたくない。逝きたくない!自分の汗と、涙と、涎にまみれ溺れそうになりながら僕は祈り続けた。刑務官たちが僕の独房の前で歩みを止めたら最期。僕の番だ。僕は吊るされる。僕は吊るされる。
「こちらです」
ヒラ刑務官が幹部を案内する声が聞こえ、僕の喉で吐く息と、痰が絡んで豚の鳴き声のような情けない音が響く。生暖かい感触が、僕のひざ下をじっとり濡らした。
足音が止む。鍵が回り、蝶番が、悲鳴のような声を上げながら、独房の、重い扉が、ゆっくりと、開かれる。
ワシですか……そうですか。選ばれた男のボソボソとした声も、地の底のように静まり返ったF棟の廊下ではくっきりと聞こえた。いつも思うがそれは、不思議な感覚だった。まるで僕の身体は無音の宇宙空間にぽっかりと浮かんでいて、宇宙服に内蔵されている通信機器を使ってその男と会話を交わしているような、そんな感じ。
今日、僕は選ばれなかった。
「羽根田さんの第二次再審請求の準備は順調に進んでいます」
弁護士の牧野は、若く艶のある肌のわりに広くなった額をアクリル板越しに近づけながら、力強くそう語った。
「だから、羽根田さん。どうか気を強く持ってください」
しかし、今の僕はそんなことよりも汗と尿で汚れた身体を洗いたくて仕方が無かった。拘置所では、風呂は夏は基本二日に1回、冬は三日に1回しか入ることが許されていない。さっき面会の呼出のために網谷が僕の独房を訪れた際、身体を拭くためのタオルと新しい服を持ってきてくれたが、着替えたばかりのシャツからはもう汗というか、アンモニアのようなキツイにおいが漂っている感じがした。
「ご遺族へ書く手紙の準備は進んでいますか?」
そんなことよりも僕は、牧野弁護士のやけに広くなった額の方が気になった。若いわりにハゲているのか、それとも、艶のある肌のおかげで年齢よりも若く見える人なのか。自分も事件を起こした時はまだ20代だったが、今は30代になり、毎朝フィルム状の鏡に向かって自分の姿を見つめる時、やはり20代の頃より広くなった額や、髪に半分以上混じった白髪や、目じりに刻まれたシミや皺が気になるようになった。
「断りました」
僕の言葉に一瞬、牧野弁護士の表情が歪む。
「気が変わったんです」
被害者遺族への手紙は、死刑囚にとっては情状酌量の要素となり得る。上手くいけば、遺族から減刑嘆願書が裁判所に提出されるケースもある。
「一体、どんな風に変わったんですか?」
牧野弁護士の低い声には、僕に対する苛立ちが込められているようだった。僕は口をつぐむ。
「羽根田さん、いいですか?」
牧野弁護士は口の両端だけを吊り上げて笑顔を作る。他のパーツは一切、動いていない。目が笑っていない笑顔とはこういうものかと、僕はこの男と会うたびにいつも思った。
「私一人の力では、あなたの死刑を回避することはできません」
「もう逃げるつもりはありませんから」
僕はこの人権派弁護士の自尊心を傷つけ、その表情をもう一度ゆがめてみたいと思った。が、隣で僕たちの会話を記録している網谷の姿が視界に入って、我に返る。面会時間は30分と決まっていたが、立ち会う刑務官の裁量である程度長くも、短くもできた。
僕の脳裏に、先ほどタオルと着替えのシャツをもらったときの光景が蘇った。刑務官3人に囲まれながら僕は汚れたシャツとズボンを脱ぎ、汗と尿で汚れた全身を拭いている時、股間にぶら下がった惨めな己のブツが目に入った。決して世に放たれることの無い種を溜め、力なくたゆたう性器。全身を拭き終え、拘置所から支給されたブリーフに足先を通した時、ふと、目の端から熱い涙がこぼれてきた。
「僕はこの手で多くの人を傷つけ、3人もの命を奪いました。いくら再審請求を繰り返しても無駄でしょう」
「羽根田さん!」
アクリル板を叩いて僕の注意を引き付けようとする牧野弁護士を、隣から網谷が立ち上がり「やめてください」と警告を与える。
「私は必ずあなたをそこから救い出します」
「もういいです」
「この国の司法は間違っている」
アクリル板の中心が牧野の吐く息で曇り、表面に小さい水滴がつきはじめている。
「この国では、ある裁判では『1人殺して死刑』また、ある裁判では『3人殺して無期懲役』などという判決が平然とまかり通っている。そんな曖昧で、矛盾だらけの司法にあなたの命が奪われようとしている!あなたは、本当にそれで良いと思っているんですか?」
高揚した牧野弁護士の表情を、僕は身じろぎせずに見上げていた。この弁護士は、自分の考えを一方的に押し付けてくるキライがあった。まだ公判中の頃、僕のためになると養子縁組を勧めてきた人権派団体の代表も、「死刑廃止」の是非を問うアンケートをしつこく送り付けてきた左翼系政党の女性議員もそうだった。彼らはみな餌を求めるヒナのように狭い巣の中で大口を開け、こちらがうんざりする声でわめきたてる。そんな奴らの圧力に、僕はもう辟易としていた。
「再審請求の手続きをすすめます」
牧野は椅子から立ち上がると昂然と言い放ち、僕はうなだれたまま何も言えない。きっぱり断ることが出来ない自分が、今はひどく情けなく思えた。
助けてと声を上げることもできない。被害者の冥福を祈り、遺族に謝罪するわけでもない。かといって、悪に染まり切ることも無い。誰かに執行が告げられる朝には、全身を震わせながら自分のためにだけ祈り、その日は生きながらえると、今度は救ってくれた神に感謝の言葉を述べる。独房の扉に取り付けられた受取口から昼食の盆が差し込まれ、デザートに用意されたショートケーキを見て、今日がクリスマスだったことを僕は知る。白いクリームの上にのったイチゴを一かじり。口の中に、イチゴの酸っぱい味が広がった。
僕は昼食がのった盆をひっくり返し、味噌汁と麦入りご飯がこびりついた扉や壁をめちゃくちゃに叩いた。さらに自分の額を、洗面台の角に何度もぶち当てた。頭がクラクラとし、頭上でけたたましい警報音が鳴り響いたが、僕は止めなかった。独房に駆けつけた刑務官の腹に頭突きし、僕の顔を掴んだ指に噛みつき、引きはがすために僕は屈強な刑務官たちに全身を激しくぶたれた。「この野郎!」「キチガイめ!」まだ若い刑務官が何度も叫びながら僕の脇腹を固いつま先で二度、三度と蹴り上げた時、二本の指が伸びてきてそっと、僕の鼻をつまんだ。僕はたちまち息を吸えなくなり、新鮮な空気を求めて思わず口を開く。指を食いちぎられそうになった刑務官が「ひやあっ」と情けない声を上げながら背後の床に尻餅をつく。引きはがされた僕は、身体と顔を冷たい床に押し付けられ、警棒で何度も殴られながら頭上では「確保!確保!」という勇ましい声が木霊していた。
「遺族に手紙を書こうと思うんです」
医務室に網谷がやってくると、僕は手足をベッドに固定されているので首だけで網谷の方を振り向いて言った。
「金井先生を呼んでもらえますか?」
自分でもなぜか分からないが、僕は、僕にちょっとからかわれただけで憤慨していた牧師の金井を呼んでほしいと頼んだ。網谷は、相変わらず無表情のまま僕をじっと見下ろしている。少し考えてから「ほかの教誨師はどうだ?」と言った。
「僕は拒否されたんですね」
僕の言葉に、網谷は何も言わなかったが、長いまつ毛を二度、瞬いた。僕は、この男だけは信じられると思った。
「紙とペンを持ってきてください」
僕が言うと、網谷は僕の顔から、僕の手足を拘束している太いバンドに視線をやった。
「今すぐ書きたいんです」
僕は自分の決意を示すように、長い拘置所生活のためにやせ細った身体を目一杯逸らせ、もう一度、網谷の方を振り返る。
「また気持ちが変わってしまう前に、書いてしまいたいんです」
『拝啓
まず、このように手紙が遅れてしまったことを謹んでお詫びいたします。
手紙が遅れた理由についてですが、正直、自分でもうまく説明がつきません。
事件を起こし逮捕されてから今日まで、僕の心は揺れ続けていました。
僕の手で傷つけられ、亡くなった方々の冥福を祈る日々を過ごしておりました……と、口だけで語ることは簡単です。ですが、僕の心中はそんなに単純なものではなく、せっかく手紙を書くのなら、僕が苦しめてしまった〇〇さんに、僕のありのままを知ってもらうのが良いと思い、素直な気持ちをここに書き記すことにしました。
裁判中、傍聴席にいるあなたから投げつけられた言葉の数々は、今も僕の心に鮮明に焼き付いています。思い出すたびに僕はときに胸が苦しくなり、ときに怒りに打ち震え、夜中にハッとして布団から跳ね起きる日々を過ごしておりました。
事件の日、たまたまあの通りを歩いていただけで殺されてしまった、何の罪もないあなたの息子さんのために僕は冥福を祈り、死んで罪を償わなければならないのでしょう。ですが、僕の心中はやはり、そんな単純なものではないのです。
裁判長は、僕の異常な性癖について「そのような性癖を持ってしまった点については同情するし、情状の要素とならないとは言い切れない」とおっしゃっていました。精神鑑定医も言っていましたし、僕はやはり、生まれながらのビョーキなのです。
おそらく近いうちに、僕は天井から吊るされることになります。自分でもよく分からないのですが、そんな予感がするのです。虫の知らせというやつでしょうか?
天井から吊るされた僕の姿を想像してみてください。どうですか?僕は生まれながらのビョーキでした。それでも、僕はこの命でもって、自分が犯した罪を償わなければなりません。どうですか?息子さんの復讐を果たした気分は。
僕は息子さんの冥福を祈りながら逝きたいと思います。執行の日、例え手足がふるえうごかなくなっても。それでも僕は胸を張って逝きたいと思います。僕の中に燃えたぎる黒い炎を打ち消して。僕は、ぼくは、ぼく は……。』
鈍く光る廊下の向こうから、無数の足音が聞こえてくる。僕は真新しいにおいのする畳に顔全体を押し付けながら「いつも通りだ」と、激しく震える自分の胸に言い聞かせる。足音が止む。鍵が回り、蝶番が、悲鳴のような声を上げながら、独房の、重い扉が、ゆっくりと、開かれる。
「羽根田」
僕は冷たい汗で濡れた頭を上げる。
「面会ですか?」
僕は乾いてべとつく口を動かして問うたが、網谷はいつもの仏頂面で、僕を見つめるだけだった。後ろでは、僕を連行するための手錠と、腰縄を手にした屈強な警備隊の男たちが立っている。僕の尿が足元の畳を静かに濡らし、目の前にいる網谷の膝のすぐそばまで広がった。「少し、時間をもらえませんか?」僕は言ったが、
「ダメだ」
網谷はきっぱりと首を振った。
「待ったら、もう立てなくなる」
僕は「まだ手紙が書けていない」と言い返したかったが、網谷の眼差しと視線がぶつかって、言葉を失う。錯乱し、医務室のベッドに拘束されたまま僕が声に出し、網谷が便箋に僕の思いを書き記した。僕が言わずとも、網谷には分かっていた。網谷と、警備隊の男2人が手伝って僕の脇下と腰に手をやり僕を立たせる。僕はもう立ち上がる力を失っていた。
男三人の手で独房から引きずり出されると、初めて見る顔の刑務官が、両手を腹のまえに添えて僕を待っていた。帽子の脇からはみ出た髪は白く、浅黒い肌には幾本も皺が刻まれ、眼の下の皮膚がぷっくりと膨れている。おそらく、今日行う執行の責任者なのだろう。うな垂れていた僕と目が合うと、男は帽子のつばで自分の顔半分を隠した。
網谷が僕の右脇下から顔を出し、左脇下からもう一人が僕を抱え、持ち上げられた僕の身体はつま先立ちのような格好になる。
「信じてくれ」
僕は、顎のすぐ下で黙っている網谷に向かって呟く。白髪交じりの頭皮からは、微かに、汗のにおいがした。
「僕は後悔していた」
僕が犯した罪を悔い、殺めてしまったヒトたちのために祈りを捧げる日々は、確かに、あった。僕はそう訴えたかったが、喉に大きな痰が絡んでしまい上手く言葉にならない。網谷は黙ったまま、僕が行く廊下の先を見つめていた。地の底のように沈黙した廊下に、再び無数の足音が響き始める。僕を刑場へと連行する行列がゆっくりと、動き出した。
死刑囚が収監されているF棟を出ると、廊下の両脇に置かれた小さな筒のような入れ物から線香のかおりがした。それは、これから逝く僕の冥福を祈るために、刑務官たちが用意してくれたものだった。
執行室の隣の部屋で待っていたのは、仏教徒の法衣を着た教誨師だった。そいつは、僕が初めて見る顔だった。僕は家族だけでなく、これまで関わってきた教誨師たちからも見放されたらしい。教誨師の向かいのソファに僕は座らされ、ここまで僕を引きずってきた屈強な警備隊員たちは、僕が暴れてもすぐ抑えられるように傍で待機していた。網谷が隣に座り、うな垂れる僕の肩をてのひらで掴んで押さえている。部屋の横には紫色のカーテンがかけられており、その向こうには、執行室があった。
教誨師は僕に最期の読経を勧めたが、僕は仏教徒ではないので断った。もう自分一人の力では身体を支えていられないので、テーブルの上に置いた拳に額をこすりつけるようにして首を振った。
「食べ物はどうだ?」
網谷の声がして、僕は岩のように重い頭を上げる。目の前に白い粉をふいた饅頭と、一杯のお茶が出されていた。僕はしばらく悩んだ末に、お茶が入った湯呑を手に取った。僕の全身を覆う振動が薄緑色の水面に波紋となって広がり、生ぬるいお茶は、口の中をぐるぐると回っただけで、僕は飲み干すことが出来ずに吐いてしまった。
「時間だ」
執行の時間を告げたのは、白髪頭の幹部だった。網谷が再び僕の脇下に首を通し、僕に目隠しと、手錠と足縄を嵌めるために警備隊員たちが近づいてくる。
「待ってくれ」
よろよろと立ち上がった僕の身体からは、今日一番の大きな声が出た。おそらく待ってはいけないルールになっているのだろうが、僕の声に、駆け寄ろうとした警備隊員たちが思わず足を止める。僕の脇下に頭を通したまま網谷は黙っている。僕は全身に力を込め空気を吸い込もうとしたが、上手く出来ない。空気が無ければ言葉にできない。僕は薄く開いた唇の隙間から、僅かな空気を吸い込もうと、懸命に呼吸を繰り返す。
僕は、湧き上がる欲望のままに人を殺めた。
それから僕は拘置所で長い長い時間を与えられ、ある日は殺めてしまった人たちへ冥福の祈りを捧げ、またある日は僕を罵倒した遺族たちへの怒りに打ち震える日々を過ごした。助けを求めて手紙を書いた家族から返事はなく、怒りのままに当たり散らした教誨師たちからは見放された。牧野弁護士は、僕をまるで自分の力を示すための作品の一つのように思っているフシがあった。
自分が犯した罪を悔い、清らかな心で逝くことも、怒りに打ち震え、悪に染まり切ることも無かった。遺族に手紙を出すことも叶わなかった。そんな僕の人生は、何だったのだろうか。僕は一体、何者だったのだろうか。
「ありがとう」
僕は最期、眼下で黙っている網谷に向かってようやく呟いた。網谷はやはり黙っていた。頭皮から漂う汗のにおいが強くなっていた。
「時間だ」
幹部がもう一度念を押すように告げ、今度こそ屈強な警備隊員たちが僕のやせ細った身体を取り囲む。両腕を背中に回され、後ろから目隠しをされる。
執筆の狙い
死刑囚の想いを、自分なりの考えに基づいて作品にしました。
今後、複数の死刑囚の作品を書き、完成したら投稿したいと思います。
新人賞への応募も考えているので、アドバイスいただけると嬉しいです。