作家でごはん!鍛練場
DS

失われたボーイミーツガール

プロローグ


 白瀬美帆という幼馴染がいた。彼女は、僕の住む一軒家から少し離れた位置に住んでいて、幼稚園に通っていたときくらいからお互いの存在を認識するようになった。僕の部屋が二階だったから、ぎりぎり白瀬の家を視認できるほどの距離で、西の空に太陽が差し掛かるとちょうど黒い冠瓦の際に赤い光が重なっていたことをよく覚えている。だから、眩しくなってカーテンに手を伸ばすとき、よく美帆の血気盛んな表情が脳裏をよぎった。
 気の強かった彼女は、「男のくせに情けないわ」とよく口にした。たとえば、転んでひざをすりむいて涙目になった僕を見て、手を差し伸べることもなく、振り向きざまに言う。あるいは、一緒にかけっこをしたときに、あんまりにも遅い僕をにらみつけて、そう言い放つこともあった。そんな彼女に僕は、うんと小さくうなずいて、痛い膝を我慢して、あるいは懸命に足を進めて、彼女の背中を追いかけていた。
 僕にとって、美帆は頼れる姉貴分だった。意地の悪い男の子がからかっても、猛然とタックルしたり、強い口調で言い返したりして、かならず負かしていた。とうてい僕にはできないことだと感心し、彼女みたいな強い人間になりたいと願ったものだ。
 僕らは同じ公立小学校に入学した。関係性に変化はなく、お互いに友人を作りながらも、気安い仲のまま卒業を迎えた。中学生になったころから接する機会は少なくなったけれど、疎遠になるということもなかった。
 別々の高校に進学しても交友はつづき、ある日、美帆は言った。
「猫を拾ったの」
 聞くところによると、秦野駅の近くの公園に捨てられていたらしい。パン屋の紙袋に入れられて、逃げ出しもせず丸くなっていたところを発見したとのことだ。
「どうするの?」
「拾うと飼うは同じ意味だわ。手伝って。ね?」
 子供のときから拒否権を剝奪されていたので、うなずくしかなかった。
 美帆の家は、なかなかの豪邸で六〇〇平米もある。数寄屋門をくぐり、玄関に踏み入ると、五十足以上並べられそうな三和土に靴底を置くことになる。美帆の気の強さは父親にも諦められていて、猫を飼う許可をすぐに得ることができた。病院での検査や飼育アイテムの購入(荷物持ちをさせられた)を終えると、美帆の部屋の隅に飼育ケースが設置されることになった。大きな庭で、ホースから水を流して猫をきれいに洗っている間、美帆のお父さんが呆れたような顔をして通り過ぎたが、そんなことお構いなしだった。
「歳は、いくつくらいかしら」
「さあ」
「役に立たないわね。じゃあ一歳ってことにしておくわ」
 ちなみにメスで、三毛猫だった。それから、何度も猫の様子を見に行くことになったが、噛み癖があるようで僕の靴下を何枚も破かれてしまった。いつのまにかチロという名前がつけられ、あっさりと白瀬家に順応していった。
 さらに、同時期にもう一つ変化があった。
「不肖の父が再婚するそうよ」
 美帆の父親――正隆さんは市議会議員だった。代々資産家で、不動産をいくつも保有しており、不労所得もかなり多い。女癖が悪く、不倫が理由で元妻と別れた。夫に愛想が尽きたためか、親権を放棄してどこかに行ってしまい、以来、美帆は父親との二人暮らしだった。
 後妻となった人は、三十半ばくらいの年齢で、かなりきれいな人だった。同様にバツイチであり、連れ子までいた。結果として広い屋敷に、二人と一匹が加わることになった。父親が再婚相手を連れてきたとき、意趣返しとばかりに呆れた顔をする美帆の姿が想像できるようで、つい笑ってしまったことを覚えている。
 僕は、美帆よりもチロに懐かれていたから、二日に一度は美帆の家を訪れた。僕の両親の仲が悪くて、家族間の距離が遠い白瀬家のほうが落ち着くからというのもあった。僕と美帆が付き合っていると誤解されたこともあったが、実際にはそんなことはみじんもなく、小さいころの関係の延長でしかなかった。
 美帆は陸上部に所属していて、僕はバイトに勤しんでいたから、平日に会うときは午後六時とか七時くらい。事前に食事を済ませることがほとんどだが、白瀬家の食卓にお邪魔することもあった。
「最近、家がやたらと騒がしいのよね。あの父はわたしに干渉しないから、たまにあの子に家で話しかけられるとすごく驚くの。わたしにとっては、二人とも赤の他人じゃない? なんだか不思議な感覚があるわ」
 一度、美帆にそんなことを言われた。美帆は、いつも部屋で眼鏡をかけながら本を読んでいた。よく、ケインズやドラッカーの著書がその手に握られていた。
「やっぱり嫌?」
「正直、よくわからないわ。あなたみたいに世話が焼けるんだもの」
「最近は僕のほうが焼いていると思うが……」
「こんな時間までうちにいるくせによく言うわ」
 ぐうの音も出なかった。
 白瀬の家を出て、自分の家に帰るときは憂鬱だった。見慣れた一軒家に灯っている蛍光灯が毒々しく感じられ、出かけるまえは問題のなかった家具が壊れているのを発見すると、脳裏に無数の黒い泡がふくらんでいくような気がした。
 そういう意味では、僕も美帆に助けられていたのかもしれない。
 高校の三年間における記憶のほとんどが、高校の友人や両親よりも美帆たちと一緒に過ごした日々で埋め尽くされている。正隆さんも、なぜか僕の存在を寛容に受け止めていて、お酒まじりに「美帆をもらってくれないか」と迫ってきたこともあった。美帆の容姿はとてもよかったし、人気もあったはずなのだけど、超然とした性格のせいで、周囲から疎まれることもあったのだそうだ。
 受験勉強を本格的に開始した三年の夏は特に入り浸った。夏休みの間、部屋の一室を貸してもらい、わからないことがあると美帆に質問をする毎日だった。懸命に勉強した甲斐あって、美帆と同じく、国内最高難易度の東橋大学に合格することができた。
「意外とやるじゃない。あなたの泣きべそを見たくなかったから、本当によかったわ」
「うれしくて逆に泣きそうだ」
「そのまえにわたしに感謝してほしいわね」
 実際に助けられてばかりだったので、そのとおりだった。
 入学の手続きを終え、入学式を迎えるまでの一か月間は、受験勉強を始めるまえと同様に、バイトをしたり、美帆の家に遊びに行ったりした。冬が終わり、徐々に気温が上がってくるにつれて、葉を落としていた木々も色づくようになってきた。
 一人暮らしを始める予定だったから、バイトで貯めたお金でマンションの賃貸契約を結んだ。奨学金の貸与が入学後であり、入学金の支払いも含めるとお金に余裕がなくなってしまう。少しでも稼ぐべくバイト漬けになっていたが、そんなある日、僕はとある人物に呼び出された。
 秦野駅の北西に、水無川が存在している。三月末から四月の初めにかけて、川沿いに植えられた桜が一斉に咲き誇るようになる。僕はこの桜並木が好きで、たまにここを訪れては、その美しい光景を目に焼きつけていた。
 約束の時間に行くと、桜並木の歩道でその人物が待っていた。
 午後五時半くらい。緑地は大勢の花見客で賑わっている。夕暮れどき、赤く染まった日が照りつけていて、桜の花びらの隙間から眩しい光が見え隠れした。その子は、ソメイヨシノの幹の前に立ち、僕の姿を見つけるや、あわてたようにもたれさせた背中を起きあがらせた。
 ――僕は、この三年間、彼女とよく話をした。
 正隆さんの再婚により、突如、僕の前に現れた人物。連れ子としてやってきて、白瀬家に入り浸るうちに徐々に打ち解けていった。僕や美帆よりも二つ歳下で、今年、高校二年生になったばかりだった。
「急にどうしたんだ、弘香」
 名前を呼ぶと、彼女は小さくうなずいた。
 それから顔を上げて、緊張の面持ちで僕を見た。
 数秒の間をおいて言った。
「好きです」
 すぐには理解できなかった。彼女がもう一度繰り返す。
「あなたのことが、好きです」
 ……あとから思えば、秦野を出ていこうとする僕に伝えられる最後の機会と考えたのではないだろうか。そして、それは別の意味で間違っていなかった。
 そのときの僕は、驚きと喜びで、大きく胸が跳ねるのを感じていた。





























第一章




 頭を太い針で縫いつけられたような激しい痛みが襲った。横たわった体がガタガタと震えて止まらなくなる。これはなんだ。ベッドの柔らかみを背中に感じるけれど、全身を磔にされたのかと思うくらい体の自由が利かない。苦痛に耐えながら、なにが起こっているのかを考える。やがて、混乱しているうちに、頭痛がおさまり、胸のあたりから指先に至るまで、どくどくと脈打つ血流が皮膚を押しあげた。
 目を開くと、視界に明るさが戻ってくる。どうやら、僕は寝ていたらしい。さっきまでの苦痛はなんだろうか。殺される夢でも見ていたのだろうか。
 背中から汗が垂れてくる。と、そこで気づいた。
 見慣れぬ部屋。薄暗く、家具の配置や散らかりかたに覚えがない。
 壁のいたるところにアイドルのポスターが貼りつけられていた。本棚と勉強机が奥に並べられているが、あまり使われている形跡がなかった。ゴミ箱の周囲に、入りきらない紙くずや菓子の包装紙が転がっていた。脱ぎ捨てられた服が床を這っていたし、本来は机のまえにあるべきと思われる四脚の椅子が、ドアをふさぐような形で置かれていた。
 混乱したまま立ち上がろうとして、鼻のあたりにもぞもぞするような感触があった。息を吸うと鼻の粘膜がひりひりして、違和感が鼻の奥を通り抜けたあとに口のなかで爆発する。
「へっくしょん!」
 鼻水が次から次へと垂れてくる。僕は、今までの人生でこれだけ強烈な鼻炎に悩まされたことはない。ティッシュでいくら鼻をかんでも、くしゃみが止まることはなかった。
 鼻が少し落ち着いたところでドアの前の椅子を横にどけて、部屋の外に出た。
 ここはどこだろう。もしかして、知らない誰かにさらわれたのだろうか。
 階段を降りると、すぐ目の前に玄関と思しき場所があった。自分の靴はなかったので、どれを履けばいいかわからない。迷っていると、急に背後で足音がした。
「……え?」
 それは思ったよりも高く、女の声と思われた。振り返る。
 女の子が一人立っている。見覚えのない子だった。顔や身長からして、中学生くらいではないかという気がした。この子が僕を誘拐して、力づくで二階まで運んだと考えるのは難しい。見ず知らずの女の子がなんで僕と同じ空間にいるのだろう。
 くしゃみがまた出そうになり、懸命にそれを抑えた。とめどなくあふれる疑問を整理しきれない。害意を持っている可能性もあるため、女の子から目を離すわけにもいかず、動向を注視していると、徐々に女の子の瞳から柔らかい水滴がこぼれてきた。
 どうして、泣いている?
 困り果てたところで、その女の子が声を発した。
「久しぶり、お兄ちゃん……」
 鼓膜を伝わった瞬間、僕の頭に再び痛みが走った。真空状態に陥ったと錯覚するほどの耳鳴りにも襲われる。台のうえでふらつくやじろべえみたいに視界が左右にぐらつき、平衡感覚すら保てなくなる。僕は、玄関横の壁に手をついて倒れるのを防いだ。
「お兄ちゃん、どうしたの?」
 近づいてくる女の子を手で抑止する。そもそも、お兄ちゃんってなんだ。僕には妹なんていない。わけのわからない事態に、僕の脳がショートを起こしてしまっているようだ。
 さっきよりもすぐに痛みが引いた。僕は言った。
「外に出る。邪魔しないでほしい」
 女の子は、眉の動きすらわかるくらい大きく目を見開いた。どうやら害意はないらしい。
 僕は置いてある靴のうち、一番大きそうな白のスニーカーを選んで足を通した。それでも僕の足のサイズよりは小さくて、かかとがスニーカーのなかにおさまらない。ほかの靴を探すのが面倒で、スニーカーの後ろを踏んづけたままドアを開いた。
 光が眩しい。外はまだ昼のようだ。立ち並ぶ住宅の一つにいたらしく、周囲は日常的な光景に包まれていた。いつもよりも力の入らない足を引きずって進んでいくと、前から自転車を走らせた中年の女性が、ギョッと目を剝いたあと、素知らぬ顔で横を通り過ぎた。
 自分の体を見下ろす。綿のセーターに、黒いスウェットパンツ。ちょっと暑いうえに、外で着る類ではない。額に浮かんだ汗をぬぐったところで、僕は引っかかりを覚えた。髪が、普段よりも長くなっている。前髪が目にかかるし、襟足も首を覆うほどの長さだ。一歩一歩進めていく足の幅、地面を見下ろしたときの目線の高さ、裸眼の視力といったすべての要素が僕の感覚とはまったく異なっている。あごをさすると、無精ひげまで生えていた。僕は、毎朝、電気シェーバーを欠かさず使っていたはずなのに。
 しだいに恐ろしくなってくる。いったいどうしてしまったのだろうか。僕の身に、考えられないような異常事態が起こっているんじゃないだろうか。一刻も早く、この場から離れなければならないという焦燥感があった。
「待って。お兄ちゃん」
 背後から、さっきの女の子の声が聞こえた。追いつかれるまえに逃げたかったけれど、かかとを踏んでいる状態では走ることができない。
「どこに向かっているの?」
 すぐに答えた。
「家」
「家に行きたいなら、早く戻ろう。そっちに家はないよ」
 違う。今の僕を取り巻く奇妙な世界から抜け出して、本当の僕の居場所に戻る。脳裏に吸いつく違和感はいったん放置することにして、とりあえず足を進めなければ。
 不思議と、僕の足は迷うことなく動いていた。道なりに歩いた先に、鮮やかなピンクが繁っているのが、徐々に網膜に映されていく。
 桜だ。
 何度も、繰り返し、僕の人生とともに彩りを与えてくれた桜が、その姿を変えることなく僕のまえにまっすぐ伸びていた。すぐ横で、砂利道のような緩い下り坂が、きれいに整えられた緑とともに並んでいる。水無川。増水のとき以外、表面に水が流れない川。ここは間違いなく、僕のよく知る秦野だった。弘香に呼び出された僕が、あの言葉を受け取った地点。ほんの数日前の出来事だから、今でもすぐに思い返すことができる。風とともに花弁が、水無川のある方向へと滑っていく。くしゃみがまたこぼれでる。鼻水を強くすする。目がチクチクするので、何度か瞬きを繰り返さなければならなかった。
「二人でここを歩くの、懐かしいね」
 僕を兄と呼ぶ謎の女の子が、少し機嫌よさそうに言った。
「覚えてる? コンクールのあと、こっそり抜け出して二人で音楽を聴いたこと。桜の時期以外は静かだし、ここにいると落ち着いたよね。わたしは、『雨だれ』ばかり聴いていた」
「頭が……」
「え?」
「頭が、ずきずきと痛む」
 女の子の声を聞くたび、脳を締めあげられたかのような鈍い痛みが走る。いつもより長い髪や、ぎこちない体の感覚とともに、心のど真ん中に空洞が広がっていく気配もあった。
 僕が足を再び動かしはじめると、女の子も数歩下がってついてきた。
 カルチャーパークの横を通り過ぎて、住宅地のなかに入っていく。
 やがて、僕はそこにたどり着いた。見慣れた一軒家がそびえている。僕の家だ。
 玄関扉を開けようとしたところで、女の子が腕をつかんだ。
「いけないよ」
 振り払おうと思ったが、女の子の柔らかいまなざしを見て、首を横に振るだけでとどめた。
「いけないことなんかない」
 しかし、鍵がかかっているらしく、開けることができなかった。僕の部屋には、新居に運ぶ荷物が大量に残っている。記憶が確かならば、明日、引っ越し業者が来るはずだ。段ボールに詰めきれていないものもまだいくらかあった。
 いつもであれば、鍵を鞄やズボンのポケットに入れているはずだけど、スウェットパンツのなかには何もなく、肩にはなにもかけられていない。ぺたぺたとスニーカーの靴底をアプローチに押し込みながら、入口付近に戻ってインターホンを押す。しかし、なんの反応もない。
「ここの家に、なにか用があるの?」
「僕の家だから」
「……わかった。でも、いったん戻ろう」
「戻る? どこに?」
「もちろん、さっきまでいた、あの家に」
 そのときに、僕はふと思いついた。後ろを向いて、いつもの方角に視線を運ぶと、そこには見慣れた黒い屋根が空に浮かんでいるのが見えた。あそこだ。また一歩ずつ足を踏み出す。頭のなかはさっきからずっと不安定だ。喉の奥に物が詰まっているのかと思うくらい、呼吸が億劫で、波に揺られた船のうえのように、自分ではなく、地表ごと動いている感覚がある。
 起こっているこの事態が、突然目を覚ましてから今に至るまでの時間で、とてつもなく恐ろしいものであることはうすうす理解していた。それを認めたくなかった。体という容れ物と自分という人格が、かつてない摩擦を発生させている。長年連れ添っていたはずの肉体ではなく異物であると認識している。視界の奥に映る、僕を幾度となく迎え入れてくれたその家屋しか自分の心の拠り所が存在しなかった。
 数分歩いて、立ち止まる。
 僕の記憶となんら変わらない豪邸がそびえている。敷地の前にはヒノキの数寄屋門が建っていて、格子越しに楕円形の池が見える。銀と黒で彩られたインターホンの横に、白瀬と印字された表札が、記憶の通りに並べられていた。
 そうだ。水無川のわきに咲く桜も、僕の家も、白瀬の家も、何一つとして変わっていない。僕の身になにかが起きているわけじゃない。すべては気のせいで、よくわからない部屋で寝ていたのも、お兄ちゃんと呼ぶ女の子がいるのも、なにかの間違いでしかない。
 インターホンをゆっくりと押した。やがて、インターホン越しに声が聞こえた。抑揚が少なくて、小さな声は、間違いなく弘香のものだった。
「……どちら様でしょうか」
「僕だよ。カメラで見えているだろう」
「わかりません。どなたでしょうか」
 隣に立つ女の子は手をもじもじさせて、僕の行動を止めようか逡巡しているようだった。それでも、僕の精神を保つにはこの声にすがるしかなかった。
「……何でそんなことを言うんだ。圭人だ、朝倉圭人」
 自分の名前を告げた途端、後ろから袖を引っ張られた。女の子が首を横に振っている。
 僕はそれでも、インターホンの前から離れなかった。
 初めにインターホンから聞こえたのは、喉からせりあがるような吐息の音、それから、深く吸ったあとのような柔らかい吐息の音だった。やがて、それが言葉に変わる。
「ふざけないでください。到底、許される冗談ではありません」
「それはこっちのセリフだ。僕のことを忘れたわけじゃないだろう」
「帰ってください。話すことなどありません。もし帰らないようであれば、警察を呼びます」
「意味がわからない……。どうしてそんなこと」
 僕の鼻の奥がむずむずして、くしゃみが出た。さっきからずっと目にかゆみがある。目と鼻をおさえていると、背後から女の子が差し込んだ。
「兄が突然すみません。止めたけど、どうも頭が混乱しているようで……。わたしが連れ帰るので。ほんと、すみません……」
 また女の子は涙目になっていた。ようやくくしゃみが止まり、荒れた呼吸を整える。また何か言おうとした矢先、女の子は言った。
「お兄ちゃん、あとで話を聞くから」
 そこで、インターホンからまた弘香の声。
「なんとなく事情は察しますが、あまり巻き込まないでください。それに――」
 間をおいて、小さい声がつづいた。

「――一年前に亡くなった人を名乗られるのは、たいへん不快です」

 インターホンの声はそこで途切れた。今、なんて言われた? その言葉を腹に落とし込むのに時間をかけてしまう。しかし、僕の疑問に対する答えはどこにも転がっていない。
「家で、ゆっくり話そう。わたしは、ちゃんと全部聞くから、ね」
「一年前に亡くなっている?」
「その、あさくらさん、という人のこと、わたしはあまり知らないけど」
「僕はここにいるのに」
「お兄ちゃんはお兄ちゃんだよ」
「僕は僕だ。朝倉圭人だ」
 振り返り、右に曲がった先に、カーブミラーが設置してある。僕はその前に立ち、自分の姿を映した。僕の知る僕の姿が、そこに映っていなければならない。
 焦点を合わせるまえに目をつむる。そんなはずはない。僕は僕でしかない。18年生きてきた歴史が、人生そのものが否定されるなんてこと、起こっていいわけがない。
 目を開いた。表面張力で膨らんだ水のような形をしたカーブミラーが、僕の姿を小さく映し出していた。無造作に伸びた髪、ダボダボのセーターにスウェットパンツ。そして、目のうえにまでかかった前髪を払うと、そこには全く知らない顔が大きく広がっていた。
 違う。僕じゃない。ここにいるのは、知らない誰かだ。手を動かすと、ミラーの僕も同じタイミングで動き出す。足を一歩下げると、対面の誰かも遠ざかる。
 暗い家のなかで起こったのと同じように再び頭痛が襲った。あまりの鋭い痛みに立っていられなくなり、膝をついて頭を抱えた。お兄ちゃん、しっかりして、と女の子が肩をゆすっている。けれど、平衡感覚の揺らぎのせいで、どこまでが女の子によってもたらされた揺れなのかが理解できない。横隔膜の裏側から熱が広がり、空気を吸い込むたびにさらに熱くなる。開きっぱなしの口からざらついたアスファルトに唾液が垂れている。うすぼんやりとした視界には、握られた見慣れない手と、この偽物の体に縁どられた淡い影があるだけだった。
「――――」
 制御しきれない思いが、僕の口から声となってあふれ出る。耳に触れても、脳に届かない声が、しばらくその場に鳴り響きつづけた。

 目を覚ました部屋に戻された僕は、今、ベッドのうえで膝を抱えている。夢幻でないことを認めざるをえない現実感があった。尻に伝わるマットレスの弾力、ずっとむずがゆい鼻や目の感覚、視界に広がる記憶に全くない光景。そして、僕のまえには例の女の子が座っていた。
 電気をつけていないうえ、カーテンが閉められているから、部屋のなかは暗い。八畳くらいのスペースに物が散らばっていて、この鼻水は部屋の汚さに起因するんじゃないかという気がした。
 気持ちはだいぶ落ち着いていた。女の子に肩を借りる形で、白瀬の屋敷を離れて、ここまでたどり着いた。その間にパニックに陥っていた頭から熱が引いていった。
 めちゃくちゃな事態なのは間違いない。どうやら、僕は赤の他人である男の体に入り込んでしまったらしい。そして、もともと僕だった朝倉圭人はすでに死んでいると聞かされた。
 この体の持ち主の人格は、どこへ行ったのだろう。わからないことだらけだ。
 女の子と目が合ったので、もう大丈夫と示すために小さくうなずいた。
「水のおかわり持ってこようか? ほかになにかしてほしいことある?」
「いや、大丈夫だよ。それよりも、電気をつけてほしい」
「え?」
 すると、女の子は戸惑っていた。もう一度繰り返すと、ようやく女の子が立ち上がり、なぜか窓の外をちらっと見たあとにスイッチを押した。
 天井からまばゆく白い光が放たれる。数秒で目を慣らすと、女の子がスイッチを押したままこっちの様子を観察していることに気がついた。
「本当にいいの?」
「明るいほうがいいに決まっているじゃないか」
 女の子の眉が曲がった。しばらく立ち尽くしていたが、すぐに僕の前に座りなおした。
 部屋が照らされると、空気中を舞う埃がよく見えるようになった。おそらく、この部屋の主の行動範囲はとても狭かったのだろう。ベッドの周囲以外は、あまり使用された形跡がない。だからこそ、少し動いただけで表面にのった埃が散らばってしまう。
 僕は改めて、女の子の姿を眺めた。
 歳はいくつくらいだろう。僕よりも歳下なのは間違いない。中学生くらいじゃないだろうか。髪の左右を縛って、体の前に垂らしている。真面目そうな雰囲気の子だった。
「いろいろ訊きたいことはあるけど、今はやめておくね。体調は悪くない?」
「鼻水が出る以外は」
「お兄ちゃんはひどい花粉症だもんね。お薬持ってこようか?」
「花粉症……。あとで、薬の場所を教えてほしい」
「うん」
 僕は、花粉症と無縁の人生を送ってきたから、どんな感覚なのかを理解していなかった。桜が咲いている以上、スギ花粉も猛威をふるう頃合いだろう。
「喚気したいから、窓を開けてもいい? 花粉が入るかもしれないけど」
「自分で開けるからいいよ」
 窓を開くと冷たい風が流れ込んできた。さっきより息苦しさが解消される。
 日が傾きはじめたらしく、空に赤みが差し込んでいた。僕の家とは異なり、白瀬家の屋根を視界に収めることはできず、代わりに大山の稜線を目にすることができた。幼少期から知っている秦野を見ていると、今の自分の状況を忘れられそうだと思った。
「一回だけ、ピクニックに行ったことあったね」
 どうやら、女の子も同じ方角を眺めていているようだった。
「下りるときに転んで、膝をすりむいたわたしをおぶってくれた。あのころは、まだお父さんもいたし、楽しかったよね」
 あいにくと、僕は肯定も否定もできない。少し考えてから、僕は言った。
「……僕にはその記憶がないんだ」
「え?」
 正直に話すことは憚られた。おそらく、別人格であると告げても信じてもらえない。
 だから、記憶喪失になったのだろうという説明を行った。自分の名前、経歴、家族、年齢といったすべての基本情報がよくわからなくなってしまったのだということにした。先ほど、別の名前を名乗ったことについても、混乱によるものだと言うと女の子はうなずいてくれた。
「ごめんね、気づいてあげられなかった」
「信じてくれるの?」
「もちろん。お兄ちゃんの言うことだから、疑わないよ」
 鼻水が垂れそうになったのでティッシュを探すと、女の子が先に見つけて渡してくれた。
「わたしのこともわからない?」
「そういうことになる」
「だから、お兄ちゃんって呼んだときに不可解な反応をしていたんだね。記憶がごちゃごちゃになって、別の人と思い違いしちゃうこともあるのかも。こういうときにどうしたらいいのかわからないけど、病院に行く? 頭のなかを診てもらったほうがいいと思うから」
「そうだね。ちなみに、僕は何歳?」
「お兄ちゃんは17歳だよ」
 付き添いなしの未成年の診療は、断られることもあるだろう。MRIやCT検査をするとなると親の同意が必要だ。両親はいないのか尋ねると、女の子は頬をひきつらせた。
「お父さんはね、もういないの。お母さんは、たまにしか家に帰ってこない」
 複雑な事情があるのだろうか。僕の両親も頼りにならなかったから共感してしまう。
 同意を得るのに骨が折れそうなので、いったん、頭の検査は見送ることにした。幸いなことに頭痛はだいぶよくなったから、急ぐ必要性をさほど感じなかった。今の自分に起こっている超常現象は、医学で説明できるものじゃないとも思った。
 それから、女の子は僕(というより体の持ち主)に関する情報をいろいろと教えてくれた。
 名前は、日野尚樹。誕生日は六月十日で、血液型はO型。家族三人で暮らしており、兄弟姉妹は、目の前にいる女の子(つむぎという名前らしい)しかいない。あまり口数の多くない男であり、感情を表に出すことも少なかった。
 また、女の子――つむぎは、もう一つ大事なことを教えてくれた。
「お兄ちゃんは、ずっとこの部屋に引きこもっていたの」
 日野尚樹は高校生だが、半年くらい前から学校に通っていないらしい。ドアの前に食事を置かせて、部屋のなかには誰も入れなかった。また、部屋から外に出るのはトイレやシャワーのときだけであり、昼夜逆転の生活をしていたためか、つむぎと遭遇することもなかった。
「だから、お兄ちゃんの顔を見たのは、すごく久しぶりだったよ」
 僕は、部屋から出たときに見たつむぎの表情を思い出す。図らずも、半年もの間に作られていた壁を打ち破っていたみたいだ。そういえば、部屋のドアをふさぐ形で椅子が置かれていた。あの椅子は侵入者を防ぐバリケードだったのだろう。
 つむぎは、僕をまっすぐ見据えながら微笑んでいる。僕とコミュニケーションが取れることに安堵している様子だった。
「記憶を失っているから、こんなに穏やかに話せるのかな。同じ家に住んでいるのにまったく顔を合わせないのは本当につらかったの。ご飯はいつも一人で食べていたし、話し相手をしてくれる人なんて一人もいなかった」
「それはひどい話だ」
「うん、本当にひどい話。バカみたい。いつも静かで、たまにお兄ちゃんがいることを忘れそうになることもあった。こんなことを言っても仕方ないんだろうけど」
「じゃあ、僕がいきなり外に出て驚いたわけだ」
「当たり前だよ。部屋から出てくることさえなかったのに、外に出るなんて想像できなかった」
 引きこもってから散髪もしていなかったのだろう。自分の体をかいでみると、明らかに臭くなっていることがわかった。シャワーの頻度も少なかったんじゃないかという気がする。
「僕のことが怖くはないの?」
「どういうこと?」
「だって、ろくでもない生活をして記憶喪失になった挙句、半狂乱した姿を見せてしまった。兄とはいえ、近寄りたくない人間なんじゃないかと思った」
「ううん、お兄ちゃんはお兄ちゃんだよ」
 はたして、この兄妹はいったいどういう仲だったのだろうか。通常の兄妹よりも、強い絆を感じさせられた。
 僕は、いったんシャワーを浴びることにした。家の掃除はすべてつむぎが行っていたようで、洗面所も浴室もあまり汚れていない。べとついた髪を洗い、体をタオルで拭い、新しい服に着替えるとだいぶ臭いはなくなった。すでに日が沈んでいて、リビングルームの時計は午後6時を指している。体を洗っている間に料理を作っていたらしく、キッチンから肉や野菜の焼ける匂いが漂ってきた。
「もうすぐできるから、ちょっと待って」
 だいぶ手慣れている様子だから、料理も自分でしていたのかもしれない。髪を乾かしている間に終わったようで、いくつもの料理がテーブルに並べられた。肉野菜炒めや鮭の塩焼きが、二人分用意されている。そこでようやく、お腹が空いていることに気がついた。
 男物の茶碗が置かれた席に腰かける。自分のことでいっぱいいっぱいだったが、改めて自分が異物であることを再認識させられる。本当に僕はここにいていいのだろうか。この体の持ち主である日野尚樹という男はどこにいるのだろう。妹であるつむぎという少女をだましつづけていいのだろうか。
「美味しい?」
「うん」
「よかった。おかわりもあるから、好きなだけ食べてね。痩せすぎだし、太らないと」
「その……つむぎは、たぶん中学生くらいだよね。ずいぶんとしっかりしてる」
 つむぎは、箸を止めて首を振った。
「そんなことないよ。わたしも、結構今の状況に戸惑っているもの」
 歳上なのかと思うほど甲斐甲斐しい。記憶喪失と説明した僕の状況を受け入れて、するべきことを実行してくれる。今、自分が冷静でいられるのは、間違いなくつむぎのおかげだった。
 僕とつむぎは初対面である。話したことなどないし、お互いに存在すら知らなかった。だから、僕が「朝倉圭人」という名前を発したときも無反応だった。にもかかわらず、日野尚樹という男の姿になってしまったがために、こうやって向かい合って食事をしている。
 静かだった。記憶喪失であったとしても、別人格と会話するようなものだ。僕に対してどう接すればいいのか本当はわかっていないのかもしれない。なにかして刺激するよりも、当たり障りなくやり過ごしたいということかもしれない。
「あのさ……」
 僕が小さく声を発すると、つむぎは首を傾げた。
「つむぎは、学校に行っているの?」
「もちろん。今年、高校受験なんだ」
 人生の岐路の一つと言っていい、重要な局面だ。なおさら申し訳なくなる。
「自分のことは自分でやるようにするよ。あまり、負担をかけないようにする。無理のない範囲で大丈夫。これからは、料理や掃除も僕がするよ」
「……どうして?」
「僕としては、急にこの家に降って湧いたような感覚だ。いろいろやってもらうことに罪悪感がある。仮に引きこもりつづけるとすると、僕は迷惑をかけるだけの存在になる。少しでも、罪悪感を解消したい」
 未来の可能性として考えられることの一つが、今の状況が突然解消されることだ。原因が不明である以上、なにが起こってもおかしくない。部外者の僕が他人に影響を与えないようにしながら、その日を待つだけでいいかもしれない。
「料理できるの?」
「今の時代、ネットを見ればなんでもできる」
 もともと僕も料理をよくしていたので知識がある。できないことについてできるふりをするのは大変だけど、できることについてできないふりをするのは簡単だ。
「あまり寄りかからないようにする。それがお互いのためになると思う。僕は僕で、自分のありかたをよく考えたい。つむぎはつむぎで、自分のことを考えてくれればいい」
 しかし、つむぎは眉間にしわを寄せた。鮭の身をほぐして、小骨を隅に移している。目線を下げて、僕のほうを見ようとしなかった。
 向こうが僕を兄ととらえても、僕が兄として接することは難しい。誰よりも自分が朝倉圭人という人間であると理解していて、他の誰とも考えられない。自分のこの意識以外、朝倉圭人という人間を証明できるものはないのだから、他人に成り代わることに抵抗があった。
 やがて、ぎりぎり聞こえるレベルの小さな声が耳に届いた。
「わたしは、いつも一人なの」
「……引きこもりの兄と、なかなか帰ってこない母親?」
「そう。どんどんみんな遠ざかっていく。どうして、一緒にいてくれないの?」
「つむぎが一緒にいてほしい人と、僕は違う人格だから」
「よくわからない。今、普通に話せているじゃない。それじゃダメなの?」
「僕は、おそらくそのうち消える。そういう存在だと思う」
 この言葉は、記憶喪失でも意味が通じるはずだ。つむぎは、それ以上なにかを要求することはなかった。ゆっくりと箸を進めるつむぎに、僕もあわせてのんびりご飯を口に運んだ。

 どうして、こういうときに過去のことが思い出されるんだろう。日野尚樹の部屋に戻った僕は、椅子に腰かけながら天井を見あげていた。白い光に目を刺される感覚が、現実離れしたこの現実を和らげてくれるようだった。他人のものであるはずの脳から、鮮明な記憶がいくつも蘇ってくる。
(わたしに近づかないでください)
(あなたの言葉に興味はありません。話しかけても無駄です)
 白瀬の家で、弘香に会ったばかりの光景。畳敷きの広い部屋の角で、膝を抱えながら僕をにらみつけていた。四角いシーリングライトから放たれる薄く黄ばんだ光にざらざらした空気が照らされていて、目の前がちかちかと瞬いていたことを覚えている。
(わたしは一人がいい。一人であれば、わたしが傷つけられることはないのですから)
 三年の月日のなかで、いろいろなことがあった。少しずつ僕らは近づいて、気づけばお互いにとってかけがえのない存在になった。笑った顔も、怒った顔も、泣いている顔も、恥ずかしそうな顔も、いろんな表情を目に映してきた。光として形作られたすべての事象が、脳のしわの一つ一つに埋められている。
(あなたのことが、好きです)
 その言葉が蘇った瞬間、心臓がどくりと大きく跳ねた。ほんの数日前に起こったことのはずだ。あのとき、僕の脳裏を駆け巡った過去と至った現在とを比較して、感慨深い気持ちになった。けれど、今ある現実は、また大きく変わってしまっている。
(あまり巻き込まないでください)
(一年前に亡くなった人を名乗られるのは、たいへん不快です)
 僕は、光から目をそらして前に体を倒した。まぶたを下ろすと視界が闇に閉ざされる。薄い暗闇のなかで、僕は直近の記憶を思い返すことにした。
 僕は、予定通り大学進学に向けて引っ越しの準備を進めていた。持っていく必要のある荷物を段ボールに詰めて、新しく借りる部屋の契約も済ませていた。翌日に入学式を控えていて、そのさらに翌日には引っ越し業者が家を訪れる算段となっていた。高校時代にお世話になったバイト先をやめたから、手持ち無沙汰になった僕は白瀬家に訪れた。
 告白の返事をその日にする予定だった。けれど、白瀬はたまたま家にいなかったから、仕方なく引き返して、なんとなく水無川の付近をのんびり歩いていた。
 そこで、僕はその先を思い出せなくなっていることに気がつく。
 桜が咲いていた。さっき見た光景と同じように、薄いピンク色の花びらが足元に散らばっていた。まだ寒いな、なんて心のなかでぼやきながら、襟を閉めて、水無川の付近で花見をする人たちをぼんやり眺めながら足を進めた。だけど、覚えているのはそこまでだった。いつものように、水無川には大小様々な石が積みあがっていて、水が引いたあとのプールみたいに細長い穴ぼこと化していたこと、空が晴れ渡っていたこと、子供たちの笑い声が響いていたことは記憶していても、肝心の僕がどうなったかについてはまったく記憶していない。
 思い出せないというより、記憶そのものがないかのような感覚だった。連続した出来事はそこで切れて、今日この部屋で目覚めた瞬間に移ってしまう。僕にとっては昨日の出来事という感じなのに、驚くほどなにも浮かんでこない。戸惑う。なんでわからないんだ。僕は本当に、元の自分に戻ることができるんだろうか。
 もしも、今持っている朝倉圭人としての記憶が消えてしまったらと思うと怖かった。立ち上がって、埃のかぶった学習机のまえに椅子を運んで、そこに腰を下ろす。隅に小さなプリンタが設置してあり、そのなかに大量のコピー用紙が入っていた。拾ったボールペンとコピー用紙数枚を置いた。
 ――僕は朝倉圭人
 ひとまずそんなことを書きなぐった。名前だけでなく、生年月日や住所、年齢、通っていた高校や合格した大学、バイト先、考えつく限りの情報を書いた。だけど、書いてすぐに思った。こんなことは、どこかに記録されて残されるような情報だ。それでは意味がない。もっと自分個人しか知らないようなことを記録しておかなければならない。
 もう一枚のコピー用紙にペンを移す。僕個人しか知らないこと、それは、自分の心の奥底にあるものや細かい出来事なのだろう。僕は、自分にある最も古い記憶から順番に掘り起こして、そこに潜んでいたものを文字に起こした。
 幼少期の記憶。両親の仲がまだよかったころ。遊園地に行ったこと。映画の予告が怖くて、泣いてしまったこと。幼稚園で白瀬美帆に出会ったこと。いじわるする男の子にかみついて追い払い、口元をぬぐった美帆の姿をかっこいいと思っていたこと。小学生になり、初めて遠足に行ったこと。掃除用ロッカーにある雑巾から牛乳の臭いがしていたこと。ドッジボールが苦手だったこと。四年生の時の担任が嫌いだったこと。小学校の高学年くらいから徐々に両親の仲が悪くなりはじめたこと。中学生になった美帆について、その容姿を周囲の男子が噂していたこと。図書室から、力強く走る美帆の姿がよく見えていたこと。高校受験で、美帆が偏差値の高い高校に進学し、初めて学校が別になったこと。そして、三毛猫のチロを拾った日から、美帆の家に入り浸るようになったこと。
 そこから先にも、たくさんのことがあった。高校における三年間が、僕の人生でもっとも濃くて、不思議で、楽しくて、にぎやかだった。尽きることなく脳裏に湧いてきて、書かなければという使命感とともに、愕然とした気持ちも襲ってきた。
 もしかして、僕は、これらの積み上げてきたものすべて、失ったのだろうか。
 無為に帰して、この紙に記されたまま忘れ去られるのだろうか。
 ペンを置いて、掌を広げた。
 皺の一つ一つ、大きさや血管、右手の人差し指にあったペンだこ、なにもかもが自分の知っているものとは違っていた。胸に感じる心臓の鼓動や指に空気が触れる感覚は間違いなく現実のものなのに。
 僕の右手がかすかに震える。そんなわけはないと自分に言い聞かせる。失ったなんてありえない。僕はここにいる。それだけは間違いようのない事実だ。今できることは、自分の心に湧き出るものをひたすらに書き連ねることだけだ。



 急に腕のしびれを感じて、体が跳ねた。頭の芯からじんわりと熱が広がっていくのがわかる。
 視界が開けて、自分の体が机のうえに寄りかかっていることに気がついた。体を回転させて、昨日目が覚めたときと同じようにアイドルのポスターが壁に貼られているのを目にした。どうやら、夢ではなく現実に起きたことだったらしい。ペン先を出しっぱなしにしたボールペンが、転がっていた。下敷きにしていた紙の角が曲がってしまっている。
 遅くまでずっと記憶の掘り出しに時間をかけていた。そのうちに寝てしまったのだと思う。カーテンを透かして光が入っていたので、僕は立ち上がってカーテンを引っ張った。
 朝だ。鳥のさえずりが聞こえる。自転車を走らせる人や、登校途中の学生の姿もあった。
 僕の瞳に映っているのは、よく知っている秦野の光景だ。けれど角度や位置は異なっているので違和感がある。部屋のなかに時間がわかるものがないようなので、部屋を出て、階段を下りた。リビングにはすでに人の姿があった。つむぎが、食事を準備しているところだった。
 体を硬直させている。穴が開くほど僕の様子を観察していた。
「おはよう」
 そう言うと、つむぎの体の力が抜けて、「おはよう、お兄ちゃん」と返してきた。
 テーブルには、僕の分も準備されていたので、しまったと思う。昨日、迷惑をかけないと言ったばかりなのに、また世話になってしまった。朝ごはんを作れなかったことを謝罪すると、つむぎは「そんなこと言ってたね」と苦笑するだけだった。
 リビングの壁には針時計がかかっていて、九時一〇分を指していた。つむぎは私服を着ていて、急ぐ様子もない。椅子に腰かけてから言った。
「学校はないの?」
 納豆をかき混ぜながら、つむぎは首を振った。
「春休みだから。あと一週間くらいで始業式」
 詳しく訊くと、今は四月二日なのだという。昨日が四月一日なので、僕が朝倉圭人としての記憶を失ったときからちょうど一年の月日が空いたことになる。
「ごめんね。どこまで説明すべきかわからなかったから教えられてなかった」
「いや、桜が咲いている時点で、時期の検討はついていたんだ。それを忘れていた」
 昨日と引き続き、鼻がムズムズしている。くしゃみを出さないように注意しながら食事を進める。つむぎにとって、二人分の食事を作ることは習慣となっているんだろう。僕が下りてこなければ、部屋の前に食事を置いていたはずだ。
「お兄ちゃん、体の調子は大丈夫?」
「平気だよ。相変わらず、花粉症はひどいけど。昨日は心配かけて悪かった」
「記憶は?」
「……戻ってくる気配すらない。しばらくはこのままだと思う」
「そう。無理しないでね」
 頭痛はすっかりなくなった。今の状況に順応してしまった証拠かもしれない。
 寝て起きたら元に戻っていることをほのかに期待していた。そうならなかった以上、簡単に戻れるとはとても思えなかった。また、今が自分の生きていた時間よりも未来なのであれば、過去に帰るという意味合いまでプラスされてしまう。
「ねえ、お兄ちゃん。これからは、毎日部屋から出てくるんだよね」
「そのつもりだけど」
 つむぎが僕の来ているセーターに目を向けた。
「新しい服を買ったほうがいいのかも。お兄ちゃんがどういう服を持っているかわからないけど、今の服装だと目立つと思う」
 外に出られないのは不便だ。つむぎの言う通りだと思った。
「情けない話、僕にはお金がないようだけど当てはあるの?」
「お母さん、お金だけは置いてくれるからそこは問題ないよ」
「一応、部屋のなかで最低限まともな服がないか探してみる。いろいろありがとう」
「ちなみに、わたしも付いていくからね」
 昨日のことがあった手前、一人で行かせようと考えられないのだろう。罪悪感があったので、断ることはできなかった。
 食事や片づけを終えたあと、さっそく部屋のなかを探したが、まともな服はあまり見つからなかった。幸い、ベージュのチノパンがあり、セーターと合わせてもそこまで違和感はなかったから、それを着ていくことにした。つむぎは、紺色のチュニックパーカーとデニムを身にまとって、先に玄関で僕を待っていた。
「お兄ちゃんの靴、たぶんこれだった。履けるかどうか試してみて」
 普段使っていなかったから、三和土に置かれていなかったのだろう。足を入れると少しだけきつかったが、かかとを踏まずに済みそうだった。
「お兄ちゃん、スマホは持ってきてる?」
「部屋にあったのをポケットに入れた。ただ、パスワードがかかっていて開けない。古くて、顔認証も指紋認証もついてないからどうしようもない」
「そう」
 花粉対策のためにマスクをつけて外に出た。途中までバスを使ってユニクロまで行く。朝倉圭人としても利用していたから、なじみのある場所だった。あんまり時間をかけたくなかったので、春服や夏服で安くなっているものをカゴにどんどん入れた。ただ、よく考えたらもともとの自分のサイズとは異なる。試着して試すと、朝倉圭人よりも一回り小さいサイズでないと入らないようだった。下着も含めて、全部で三着ずつ購入した。そのうちの一着にさっそく着替えて、ユニクロを出たときにはすでに十二時半くらいになっていた。
「さすがにつむぎに お金を出してもらうのは恥ずかしかった」
「仕方ないでしょ。今のお兄ちゃんにお金を持たせるのは怖いんだもん」
 昼ご飯は、ファミレスでとることにした。格好がマシになったおかげであまりジロジロみられることはなくなった。しかし、長いままの髪の毛はうっとうしかった。
 ミックスグリルを注文した。つむぎは、パスタを頼むようだ。ドリンクバーも合わせて注文したので、つむぎの分も汲んで渡す。
「スマホ、そのまま使えないのは不便だね。初期化すれば一発なんだろうけど」
 ポケットから取り出したスマートフォンは、部屋の床に転がっていた。服を探すついでに発見したものだった。小さめのサイズで、白いカバーがつけられていた。充電がまだ残っていたから、そのまま持ってきた。
「パスワードは、やっぱりわからないよね?」
「わたしが知っているわけないじゃない。生年月日とかいろいろ試すしかないよ」
 ひとまず、つむぎからパスワードになりそうないろんな情報を教えてもらう。しかし、どれを当てはめても解除されなかった。初期化を行うのも抵抗がある。僕が持ち主ではないからだ。なるべく、元の持ち主のものを勝手に消したくなかった。
「記憶の手がかりになるかもしれない。なんとなくそんな気がする」
 そのとき、つけられているハンドストラップが目に入った。白いナイロン製で、そこにはこんな文字が書かれていた。
【BB☆FESTIVALS】
 見覚えがあると思い、記憶をまさぐるとすぐにつながった。日野尚樹の部屋に貼られていたアイドルのポスターに同じ文字列が並んでいた。おそらく、これがそのアイドルグループの名称なのだろう。すぐにつむぎに調べてもらうと、僕の予想が当たっていることが判明した。
 つむぎのスマホの画面に、五人組のアイドルの姿が表示されている。どうやら、二年前から活動していて、ほとんどのメンバーが二十歳前後のようだ。そこまで有名ではないらしく、テレビ等での活動実績は、数えるほどしかないようだった。
「確かに、お兄ちゃんが引きこもる前はいろいろ追っていたのかも。あんまり詳しくは覚えていないんだけど」
 注文した料理が運ばれてきたので、僕らはスマホをしまった。パスワードが分からない以上、これより他に情報を集めることはできないだろう。体が変わったとしても、食べ物の味に変化はない。それが、とてもありがたかった。
 店内は客でにぎわっていて、人の声が複数絡み合っている。どんな会話をしていたとしても、いくつも声が重なると同じように聞こえるのはなぜなんだろう。そのなかにフォークやナイフと皿のぶつかる音が紛れている。人のなかに埋没していると、自分の今の状況が大したことではないように感じられる。耳に聞こえる音も、空気に肌が触れる感触も、食べ物の味も匂いも、朝倉圭人の体で得るものと違いがない。視力は元の自分より悪いみたいだし、鼻がムズムズするという差異があるけれど、同じ人間である以上、感覚のほとんどが共通している。
 一番大きな違いは、僕の見た目である。顔や体つき、それに伴う人間関係の変化がある。逆に言えば、そこさえ気にしなければ、自分は自分のままでいられるのではないか。失ったと思えたものも取り戻していけるのではないか。少しずつ、後ろ向きになっていた気持ちが前向きになっていくのを感じた。
「ねえ、つむぎはこのあと予定あるの?」
 つむぎは、なんでそんなことを訊くのかというふうに首をかしげてから、
「特にないよ。ほかに行きたいところがあるの?」
 僕は小さくうなずいた。
「できれば、一人で外をぶらぶらしたいんだ。部屋にいるより気持ちが安定すると思う」
「……でも」
「言いたいことはわかるよ。昨日みたいにならないって約束する。それに、何時間も外をぶらつくつもりはない。一時間くらいしたら満足して戻る」
 僕の提案に難色を示すつむぎに、申し訳ない気持ちが芽生える。引きこもりだった日野尚樹が急に記憶をなくしたと部屋から出てきたばかりなのだ。
「ちなみにどこへ行くつもりなの?」
「明確に決めていない。大丈夫。家の近くを散策するだけだから、迷うこともないよ」
「……そういうことなら」
「ごめん。たぶん、記憶を戻すうえでも役立つ気がする。歩きながらいろいろ考えたい」
 嘘はついていない。ただ、目的ができた。少しでも自分の状況を把握するために情報を整理しなければならない。僕という人間になにがあったのかを把握するうえで、空白の一年を埋める必要がある。その先に、新しい未来が開けるかしれない。

* * *

 バスで近くまで戻ったあと、つむぎと別れて一人で歩く。記憶喪失の設定上、道が分からないということになっているが、実際には勝手知ったる場所であり迷うことはない。僕の足は、自然と水無川に向かった。
 桜は、昨日と変わらず咲きつづけていた。幹には、番号やアルファベットの書かれた札が掲げられている。市が管理するためにつけているのだろう。弘香から告白を受けた幹に書かれていた番号を僕は記憶していた。
 一つずつ辿り、目的の番号を見つけた。あのとき、僕の前に立っていた弘香は、恥ずかしそうに顔を俯かせていた。風が吹くと髪が流れて、アイボリーのスカートもなびいていた。
 僕に言葉を伝えた弘香は、「返事はすぐじゃなくていいです」と告げて走り去った。その顔は赤く染まっていて、その声の震え具合からその本気度がうかがえた。僕はしばらく呆然としていて、待っていたときの弘香がそうしていたように、僕もその桜の幹に寄りかかった。そこで背中に札が当たって、僕はこの番号を見たのだ。
 僕にとって、今から二日前。三月三十一日の出来事。四月一日はエイプリルフールだし、四月二日に引っ越す予定だったから、その言葉を伝えられる最後の日だったのかもしれない。
 スマホの電源をつけると、ロック画面のまえに日付と時間が表示される。そこには、間違いなく、僕の記憶の一年後の日付が刻まれていた。
 本当に、僕は死んでしまったのか。一年の月日が、知らぬ間に流れたのか。
 街で服を買い、ファミレスで食事をするなかで、幾度と目にした今日の日付は、スマホの日付とまったく同じものだった。それでも僕の実感は未だについてこない。一年程度では、街の景色はそう変わらない。あくまで世界の設定がそう変えられたというような感覚であり、そこに横たわる一年の月日の存在を受け止めることができない。
 カルチャーパークを通りすぎて、さらに奥へと向かえば僕の家がある。昨日は入れなかったけれど、今日は誰かいるだろうか。きっと、自分になにがあったかを知ることができる。
 僕が足を踏み出そうとした矢先、急に背後から人の気配を感じた。
 振り返る。
「え……?」
 声が聞こえた。僕の視線がその人物に釘付けになる。
そこには、よく知る弘香の姿。立ち止まり、僕を不思議そうに見上げていた。



 初めて弘香と出会ったのは、僕が高校一年生のときだ。
 美帆がチロを拾い、白瀬家に迎い入れてから、美帆に言われるがまま、数日に一回は白瀬家を訪れるようになった。その日、たまたまバイトがなく、家に帰りたくもなかった僕は、美帆がいないのを承知のうえでインターホンを鳴らした。
 正隆さんがいれば家に上げてもらえる。いなければ図書館にでも寄ろうと思っていたが、しばらくしてインターホン越しに応答の声が聞こえてきた。
(……はい。あの、何用でしょうか)
 女の声だったから、一言目で美帆と間違えそうになったが、声の大きさや声質、話している内容から別人であるとすぐにわかった。
「ええと、僕は美帆の友人です。ほかに誰かいませんか?」
(誰もいません。美帆さんにご用なら出直していただけますか?)
「もしかして……」
 記憶のなかからあることを引っ張り出して、僕は目の前の現実と照合させた。
「正隆さんが、再婚したっていう」
 客人であればインターホンが鳴っても出ることはない。客人でもなく白瀬家に入れる人として思い当たるのがそれしかなかった。しかし、予想もしない言葉が返ってきた。
(ちがいます)
「え?」
(わたしは、その娘です)
 そのとき、僕の背後を滑るように自動車が回り込んだ。シルバーのロールスロイス。正隆さんの車だった。すぐに僕に気づいて、窓から手を振ったあとガレージに駐車する。車から降りてきた正隆さんは、僕を手招きした。正隆さんが来た旨を伝えて、インターホン越しの会話を終わらせると、すぐに車の近くまで走った。 
 どうやら買い物を終えたあとだったようで、トランクに大量の荷物が入っていた。運ぶのを手伝ってほしいということだった。特に問題はなかったのですぐに了承したが、それよりも気になっていることを質問してみた。
「……さっき、再婚相手の娘という子が出たんですが」
「ああ、弘香ちゃんことかな?」
「連れ子がいるなんて初耳です……」
 正隆さんは非常に楽天的な性格であり、説明してなかったっけと笑っていた。
 家のなかは静まり返っている。両手にたくさんの食料を持ちながら歩くが、無駄に玄関から冷蔵庫までの距離が遠い。居間には、もうさっき話した女の子はいないようだった。
 食料品をしまったあと、正隆さんが言った。
「せっかくだし、挨拶してきたらどう? 知らない人が来たから警戒しているかも」
 僕は困った。美帆の幼馴染でしかない僕にとって、正隆さんの再婚など関係なく赤の他人である。しかし、美帆の家を逃げ場所として利用しつづけるのであれば、顔を合わせないままにするのは気まずい。提案を素直に受け入れることにした。
 教えてもらった部屋の引き戸は締まっていて、ノックをして声をかけても返ってくるものはなにもない。かなり警戒心が強い子のようだった。
 いったん戻り、正隆さんにその話をすると「そうか」と小さくうなずくだけだった。
 ようやく顔を合わせることができたのは、美帆が帰ってきたあとだ。陸上部での練習を終えた美帆は、疲労を表に出さず、背筋を伸ばしたまま歩いてくる。
「あら、来てたの?」
 僕は、チロを膝に抱えたまま英単語帳を眺めていた。僕がこの家にいることを誰も咎めないし、当たり前のように受け入れられる。それが心地よかった。
「もうあの子には会った?」
「いや……」
「そ。もう遅いし、とりあえず、うちでご飯食べたら?」
 僕の家でご飯が用意されることはない。断る理由はなかった。
 美帆は、居間の内線電話を手に取って、どこかにつなげはじめた。あの女の子の部屋にも内線電話があり、直接出向かなくても話せるようにしているのだそうだ。いくらか言葉をかわしたのち、「あとで持っていくわ」と言っていたから居間に来るつもりはないようだ。
 正隆さんも美帆も料理をしない。その日の食事として選ばれたのはレトルトカレーだった。お金持ちであるものの二人とも食事にそこまで興味がなく、そっけない食事ばかりとっていた。
 僕は、例の子に会おうとしたところ無視されてしまったことを話した。
「無理もないわ。あの子にとっては未知の場所だから」
「いつここに来たの?」
「昨日よ。だからわたしも、そこまであの子に詳しいわけじゃないわ。そもそも、この人の再婚相手が、今入院しているの」
「入院? どうして?」
「いろいろあるのよ。母親がいないままここに引き取られたわけだから怖がって当然よ」
 言葉の節々から、重い事情の存在を察することができた。他人である僕があまり深入りしないほうがいいだろう、と考えた矢先、思考を読んだみたいに美帆がつづけた。
「だから、さっさと顔を合わせて警戒を解かせたほうが無難よ。ご飯を届けるときにあなたも一緒に来て」
「逆効果では?」
「あなたのナヨナヨしたところを見れば、警戒する必要なんかないって一発でわかる」
 歯に衣着せない言い方にがっくりきたが、かといって否定もできなかった。
 ご飯のあと、美帆に従ってカレーを女の子のいる部屋まで運ぶ。やたらと広い家なので、別の部屋に移るだけでも二十秒近く歩かなければならなかった。
 部屋の引き戸を美帆が叩き、声をかけると、ようやくその戸が横にスライドした。
 お盆を持っていた僕の真正面に、インターホン越しで話した女の子の姿が現れる。
 背の低い子だった。肩くらいの長さの黒髪をまっすぐ下ろしている。猫のように少し吊りあがった瞳を持ち、緊張感からか口はまっすぐ引き結ばれていた。黒白の縞模様が描かれたトップスをまとっていて、首の近くに小さなホクロがあるのが見えた。
「なんで……?」
 一番の印象は華奢であること。小学生なのか中学生なのか判断に迷ってしまった。
 女の子は、想定しえない人の姿に停止してしまっている。それから、体を後ろにのけぞらせたあと、僕の手にあるものを見て、大きなため息をついた。
「ありがとう、ございます……」
「うん……」
 そのまま立ち去ろうと思ったが、美帆が僕の背中を押してくる。いいから入りなさい、と有無を言わさぬ口調で命令されて、仕方なくそのまま部屋に足を踏み入れた。
 畳敷きの部屋であり、広さは二十畳ほどもある。もともと空き部屋だったと記憶しているので、物がほとんどない。布団が奥に敷かれていて、その少し手前に小さな円卓が置かれていた。
 円卓にお盆をのせると、女の子はどうしたらいいかわからないというように目を泳がせた。
 気まずさなどおかまいなしに、美帆が円卓の前で腰を下ろした。
「紹介するわ」
 僕も仕方なく畳にあぐらをかいた。美帆に任せておこうと思った。
「朝倉圭人というわたしの幼馴染よ。うちの猫が好きすぎてよく遊びに来るの」
 突っ込みどころがあったが、ややこしくなるので会釈するだけで済ませた。
「で、この子は弘香ちゃん。確か、まだ中学二年生だったわよね」
 弘香、という名前の女の子は、言葉を発さずうなずいた。
 中学二年生ということは、僕よりも二つ歳下ということになる。子供であれば年月が解決してくれそうだし、大人であれば一定の距離をもって接することができるだろうが、急に家族が増えることについて一番難しい年頃なのではないかという気がした。
「ほら、あなたもなにか話しなさいよ」
「無茶ぶりが過ぎる……」
 とはいえ、警戒されっぱなしなのもよくない。僕は、なるべく優しそうな顔を浮かべながら「よろしく」と言った。
 しかし、弘香は僕を見てすぐにお盆を手に持ち、僕から離れるように隅のほうに移動した。そして、畳にお盆を置いて食事をはじめる。
 戸惑った。こんな子と果たして仲良くなれる日が来るんだろうか。
 そう考えていたことを、よく覚えている。

* * *

 僕の前に立つ弘香は、記憶のころよりも背が高くなっている。同じ桜の木のまえに立つと、そのことがよくわかった。実年齢より幼くみられることも多かったのに、今では十分に年相応であると感じられた。もともと僕の身長は百八十センチ近くあったけれど、今の僕はそれよりも十センチ近く低そうだから体感的に大きく見えるというのもあるかもしれない。
 あれから一年が経ったのであれば、高校二年生から高校三年生になったということだろう。その姿自体が、一年の月日を刻み込んだ実例なのだと思った。
 インターホンに取りつけられたカメラ越しに僕の姿を見たはずだ。やたらと長い髪は、特に印象に残っているだろう。
「なんで……」
 弘香は、僕の顔をまじまじと見つめている。それから、つぶすくらい強く目をつぶったあと、大きく息を吐いた。眉根を寄せて僕に言う。
「通してもらえますか?」
 呆然として、僕は道をふさぐ形でど真ん中に立っている。申し訳なくなり、僕はすぐに体を桜の幹に押しつけた。枝の先についた桜の花が、風に揺られて音を立てている。人間アーチのように、桜が通る人を歓迎しているようだった。弘香は、怪訝そうに僕をにらみ、僕の脇を通りすぎていく。
 しかし、背中が見えたところでその足が止まった。
「……なんですか?」
 見すぎてしまっただろうか。僕はすぐに視線をそらした。
「いや」
「あなた、もしかしてわたしのことをつけているんですか?」
 昨日の今日だ。偶然ではないと考えても不思議じゃない。怖がらせたくはなかった。
「この場所が好きでここにいるだけだ。昨日のことは忘れてくれ」
「……やはり昨日、ふざけたことを言っていた人だったのですね」
「申し訳ない」
 どう説明したところで、今の自分の状況を説明できない。どんな手品やイリュージョンを見せたところで、人はその裏にタネがあると理解している。現実に他人に成り代わるなんてことが起こったと言ってどんな証拠を見せようとも、おそらくそこに全く異なる手段を想像させて、話がこじれるだけだ。
「なにが目的ですか?」
「目的? そんなものはない」
「いろいろと疑問に思うことがあります。どうして、あの人のことを知っているのか。あの家によく来ていたことをなんで知っていたのか。そのうえで、なんで自分のことをその人だと思い込むような発言をしていたのか」
「……頭が混乱していた」
「今は、普通の会話ができるようです。となるとやっぱりふざけていたとしか思えません」
 ふざけているわけがない。今だって、自分が朝倉圭人であることを告げたいと思う。
 そこで僕は気づいたことがあった。昨日は四月一日。一年のなかで、僕がしたような発言がもっとも軽く受け止められる日だ。
 笑ってしまいそうになった。めちゃくちゃな状況に陥って、壊れそうなくらいの頭痛を抱えながら自分を取り戻そうとした行動は、はたから見ればその程度のものだったのだろう。
 呪いだと思った。白瀬家の人たちに支えられて、自分の道を歩む寸前ですべてを奪われて、取り返しのつかないほど遠くに追いやられてしまった。近くに立っている弘香が、こんなにも遠い。過去すべてを、根こそぎ奪われたのだと思い知らされる。
 僕の考えていたことは間違いだった。体の違いというだけじゃない。やっぱり僕は、もっと大きなものを失ってしまったのだ。
 日差しだけがやたらと眩しい。くしゃみが出ないように懸命にこらえていると、肌に触れる空気がやたらと冷たく感じられた。足元にはいくらか花弁が落ちていて、何度となく踏まれたのか土の色にまみれていた。
「一つだけ、質問に答えてください。あなたは、朝倉さんとどういう関係なんですか?」
「僕は……」迷った挙句、こう答えた。「友達、友達かな……」
「本当に? そんな話を聞いたことはなかったです」
「だとしても、そうだ」
 同一人物とは言えず、かといって一切関係のない存在であると言いたくもなかった。その中間点として選んだのが、たまたまその言葉だった。
「死んだというのは、昨日初めて聞かされたけど、本当なの?」
「……そうです」
 未だに理解できない。死んだ要因について尋ねると、弘香は簡潔に答えてくれた。
「この付近で倒れていたそうです。詳しい死因はわからないということでした。一年前の三月三十一日のことです」
「……一年前の、三月三十一日。しかもこの場所……」
 僕の記憶が途切れているのは、まさにその時点であり、その地点でもある。何らかの理由で、僕は死んでしまった。そして、なぜかその魂だけが一年の月日を経て、日野尚樹という男の体に入り込んだ。
 状況からわかることを整理するとそうなる。自分の記憶とも一致するから、間違いない事実であると確信できた。じゃあどうして僕は、今ここで、朝倉圭人としての意識を保ってここにいつづけているのだろうか。日野尚樹という人格をどこかに追い払ってまで。
「亡くなったことも知らないのに、友達なのですか?」
「不快にさせてしまったらごめん。ずっと引きこもっていて、外の情報をなにも知らない」
 弘香は興味なさそうだった。
「もう、昨日のことについては問いません。あなたのことは結局よくわかりませんし、それほどわかりたいわけでもないのだと気づきました」
「そうか」
「あのような不快な発言をもう二度としないのであれば、もういいです」
 腹の底部からじんわりと鈍痛が走る。どうやら、この体はあまり胃腸が強いほうではないらしい。水無川や河川敷に沿うようにまっすぐのびる歩道を、弘香がまた歩みはじめた。
 ――わたしは、小学生のとき、教室の水槽で飼っていたグッピーが苦手でした。
 ――でも、たぶん同じだったんです。だから、ああ、わたしの世界ってこんなものなんだって、わかるのがつらかったのだと思います。
 畳に押しつけて書いたせいか、線がまっすぐではなく、ぎざぎざになっていた。弘香の書いた文字からそこに秘められた弘香の考えを読み解こうと食い入るように凝視したものだった。
 後ろ姿には、初めて会ったころの臆病さは残っていなかった。
「……潜る必要なんかもうない、か」
 これ以上は、弘香の負担になるだけだろう。反対方向に進もうとした矢先、背後の足音が聞こえなくなっていることに気がついた。
 後ろを見ると、弘香が足を止めて僕に不思議そうなまなざしを向けている。
 しかし、すぐに顔をそらし、また足を前に踏み出していた。

* * *

 弘香と出会ったばかりのころ、僕はよく弘香の部屋前の広縁に腰かけて空を見上げていた。
 橙色に灯る、傘のような形をした照明に、それよりも薄い色をした床の木材が照らされていた。開け放たれた窓から五メートル四方の中庭がうかがえて、中央に植えられたオリーブの木や四角く切り取られた夜空が目に映った。風がほとんど入らなくて、葉がこすれる音も、窓を揺らすような音も聞こえない静かな空間だった。
 空調が届かず、薄暗く、殺風景なその場所を僕は好んでいた。嫌なことや、考えなければならないことを忘れて、体に突き刺さる五感の一つ一つを柔らかく受け止めることができた。
 これが、弘香の言う水槽のなかなんだろうか。自分の手には、先ほど渡された紙が握られている。文字はぐにゃぐにゃで読みづらかったけど、そこに書かれたどの文字も、弘香の心を表わした大事な言葉だということを理解していた。
《わたしは、小学生のとき、教室の水槽で飼っていたグッピーが苦手でした。》
 紙を広げると、最初の一行にはそんなことが書かれている。つづきを読む。
《いえ、もしかしたら、それに限らず飼われた動物や生き物を見ること自体が嫌だったのかもしれません。初めて教室に水槽が置かれて、そこに泳ぐグッピーを観察していたら、ずっと同じところをぐるぐる泳ぎながら、口を小さく動かしていたのです。その目はずっと大きく開かれたままで、ときおり左右に傾けて、水槽を眺めるわたしたちに怯えているように感じられました。みんな、かわいいかわいい、大事に育てようとか言い合っていても、その言葉が魚に届くわけがないし、空気の振動としか感じられないでしょう。大きな顔をして、大きな目玉を持った人間に囲まれて、必死にそこから逃れようとして、でも、逃げ場所もなくて、ずっと同じ場所をさまよっているように、わたしの目には見えました》
 そこで紙の一番下に到達してしまったので、裏を見るとまだ文字がつづいていた。折り目を伸ばす。後ろにいくにつれて、文字はだんだんと粗くなっている。書きたいことに手が追いつかず、じれったくなったのかもしれない。
《けど、たぶん同じだったんです。だから、ああ、わたしの世界ってこんなものなんだって、わかるのがつらかったのだと思います。当時はわかりませんでしたが、わたしもおびえていたんです。小さな箱のなかで、外にあるいろんなものが怖くて逃げたくて仕方なかったのに、逃げ場所などどこにもなかったんです。世界は残酷で、常に嵐が吹き荒れていて、どれだけ耳をふさいでも目をつむっても、助けてくれる人なんでどこにもいない。その事実が、わたしの眼前に突きつけられたような感じがして、わたしは恐怖したんだと思います。そして、今も変わっていません。わたしにとっては、ずっと嵐が吹き荒れているんです。もう嵐は収まったのだと知っていても、そう思うことができません。》
 言葉はそこで締めくくられていた。この言葉になんと返せばいいのだろうと迷った。
 僕と弘香を隔てる引き戸越しに、弘香の体温が伝わってくる気がした。肺のなかで、澄んだ空気と熱のこもった空気がまじりあうのを感じる。
 満月の浮かんだ空を見上げながら思う。きっと、僕と彼女には似ているところがあるのだ。

* * *

 僕の感覚で言えば三年前、現実には四年前のこと。
 今でも、一つ一つの光景が鮮やかによみがえる。
 言葉や思いを積みあげて、僕も、いつのまにか弘香のことを好きになった。
 それを、今の僕は、はっきりと自覚している。


第二章




 事件性のない他人の死を調べるのは思ったよりも困難である。誰かが誰かを刺し殺したということであれば、ニュース記事となりその事実を確認できるし、肉親であれば戸籍などで死亡の事実を客観的事実として見ることが可能だが、それ以外の手段しか使えない事件性がない死については、明確な情報を得る方法がほとんどない。
 また、さらに厄介なことに僕の両親の所在も不明だった。僕の住んでいた家にはもう人はいないらしいということを遠目から観察して理解した。玄関には常に鍵がかかっていて、郵便受けには郵便物が届けられた形跡もない。住民票や各契約上の住所もすでに変更済みなんだろうと考えられる。本当であれば周囲の人間に聞き込みしたいところだけど、あまりにも怪しいので実行に移せてはいない。
 朝倉圭人の死と家族の状況については、探偵や興信所などを利用して調査をしてもらうよりほかないのだろう。弘香のことを疑っているわけではないが、確たる証拠がなければ自分の死をきっちり受け止めることはできそうになかった。
 なんにせよ、それを実行するには金が要る。僕にまず求められていたのは社会復帰だった。

* * *

「ほんとうに料理してくれたんだ。お兄ちゃんがこんなにちゃんとするなんて思わなかった」
 テーブルには、僕の作った料理が並んでいた。といってもオムレツとサラダだけである。
「簡単なものだけど」
「卵は全然崩れていないじゃない。でも、昔から手先が器用だったもんね」
 日野尚樹は、小さいころにピアノを習っていたということを聞いた。小学生のときにはいくつかコンクールに出て、賞をもらったこともあったのだそうだ。僕自身、この体は朝倉圭人のときよりも細かい作業をやりやすいなと感じていた。
「僕はなんで引きこもっていたんだろう。なかなか悪くないスペックなんじゃないか?」
「あ、調子に乗った……」
「服装を整えたし、昨日は髪も切った。見た目は普通の高校生になったし、いろいろできることも増えてきたからなぁ……そのお茶とって」
「はい……まぁ、お兄ちゃんはやればできる人だってのは、わたしも認めるところだけど」
 うっとうしい髪がなくなったことで、体に対する違和感もだいぶ減退している。
「まず、バイトをしようと思うんだ」
「学校に戻るんじゃなくて?」
「……記憶がない状態で、元のコミュニティに戻るのが怖い。新しいコミュニティに入るだけであれば、今の僕でもできるんじゃないかと思う。もし、無理になったらやめればいいだけだ」
「うん」
「だから、履歴書を買うお金をくれないか?」
 悲しいことに、僕はつむぎからお金をせびる立場である。つむぎは、ため息をつきながら、「アルバイトをするのなら、スマホがないと不便じゃない?」と、履歴書代だけではなくスマホを新調するためのお金まで渡してくれた。
「でも、アルバイトをするには、親の同意が必要か」
「うん。今すぐは無理だと思うよ」
 未成年の難しいところである。僕は、他人の親からの承認を得るというミッションをこなさなければならないみたいだった。
「お兄ちゃんのもSIMフリーだから、新しい端末を買えばすぐに使えると思う。お母さんの同意については、ここにサインして印鑑押しといてってメモしておいておけば、やってくれるんじゃないかな」
「なにからなにまでありがとう。ひとまず、候補だけピックアップしておくよ」
 この子は本当に中学生だろうか。将来有望である。
 通販でもよかったが、せっかくなので外で端末を購入した。高スペックである必要はないため、充電の持ちや安さを重視して決めた。最低限アプリを入れて、つむぎをラインのフレンドに加えさせてもらった。
「このアイコンはもしかして」
「桜撮ってきた。使えると思ったから」
 名前は、元の持ち主のものにした。さすがに僕の名前で入れることは憚られた。
 この体で生きていく最低限の準備は完了した形になる。最初を考えれば大きな進歩である。

 それから数日で同意書にサインと捺印をもらい、アルバイトの面接を受けることになった。
 僕が働いていた喫茶店は心理的抵抗があったため、別の働き先を探した。最終的に選んだのは、近くにあるスーパーだ。面接を担当したのは、矢倉という背の低いおじさんだった。
「……ん、ずいぶんと若いね。言わなくてもいいけど、なにか事情でもあるの?」
「お金が必要だからです」
 その言葉で十分だった。まともなコミュニケーションさえとれれば問題ないようで、すぐに採用が決まった。僕のメイン業務は品出しだが、レジに入ってもらうとも言っていた。レジなら、カフェのときにも似たようなものを使った経験がある。どうにかなるだろう。
 採用が決まった旨をつむぎに伝えると、つむぎはポテチをのどに詰まらせた。
「え? 本当に?」
「本当。決まらないと思っていたの?」
「うん」
 兄のことは嫌いじゃないみたいだが、どうも信用はないらしい。引きこもっていたから仕方ないのだけど、悲しい気持ちになった。
 また、僕は少しずつ、日野尚樹の部屋をきれいに片づけはじめた。あまり他人の私物を触りたくなかったのだけど、日常生活に支障をきたすレベルで汚かったから、最低限生活を送れるようにはしておきたかった。ゴミを拾い、埃のたまった場所を掃除機や雑巾できれいにすると、だいぶ空気から息苦しさが抜けた気がした。
 それでも、他人の部屋というのは居心地が悪いものである。ありとあらゆるところに自分とは関係のない私物が転がっていて、その一つ一つに日野尚樹としての記憶が蓄積されているように感じられて、自分の異物性がよりくっきりと浮かび上がってくるようだった。
 小説や漫画、過去の教科書。古い衣類、ピアノの譜面、壊れた電化製品。要らないものと思えるものも、本人にとっては重要なのかもしれない。せめて、僕の人格と入れ替わりでどこかにいればよかったのだけど、もしそうならここに戻ってくるはずだ。僕によって押し出され、魂ごと消失してしまった可能性が高いと思えた。
 日野尚樹の部屋には、パソコンが一台置かれていた。これについては長く使用された形跡があり、埃もあまり被っていなかった。机は汚れていたから、ベッドのうえで使っていたのではないかと考えられる。パソコンにもパスワードがかかっていたし、本人のプライバシーに深く関与してくるので、これもあまり触るべきではないと判断した。
 壁には相変わらず、アイドルのポスターが貼られていた。以前、スマホのハンドストラップに【BB☆FESTIVALS】というアイドル名が記載されていたが、やはりそのアイドルのポスターだった。右下に小さくユニット名が印字されていたし、そこに映るアイドルの顔もファミレスで見たときのものと同じだった。
 部屋のなかで長い時間を過ごすうえで、もっとも苦手だったのがポスターだった。壁のいたるところにあるからよく目が合うし、やたらと明るくポップな色合いが部屋の雰囲気とそぐわない気がして、気味の悪さを覚えた。ポスターを剥がしてしまいたかったが、下手にいじると破いてしまいそうで手出しすることができなかった。
 新しく買ったスマホには、ストラップをつけていない。なるべく部屋にいる間は、スマホで時間をつぶすようにしていた。空白の一年間に起こった事件を調べていると、いろんな変化があったのだということを思い知らされる。そしてそれは、僕の知識や記憶で作り上げられるものとは思えなかったから、一年という現実の重さをまざまざと突きつけられる感じがあった。

* * *

 僕のバイトが始まったころに、中学や高校の授業もスタートしたようだ。つむぎは制服を着て出かけることが多くなった。
「自分の分の洗濯物は、勝手に取り込んでね。あと、出かけるときはこの鍵で閉めて」
 子供のような扱いであるが、兄の威厳などあるはずもないのでうなずくしかなかった。
 スーパーのバイトは、最初こそ苦労したものの、途中からは問題なくこなせた。一つ一つの商品の配置を覚えなければならない点、店内の事情によりレジや惣菜コーナーを手伝わされることもあったが、慣れればそこまで難しい仕事ではなかった。
 早くお金を貯めたかったし、あの家にいても居心地が悪いのでシフトを長めに入れた。フルタイム勤務よりも働いていたのではないだろうか。そのうちに、店長の矢倉さんも僕が学校に行っていないことに気づいたようだが、特に詮索してくることはなかった。ただ、面接時の発言から勝手に家庭事情を想像したようで、「いつも頑張っていて偉いね」とか「なにかあれば相談に乗るからな」なんてことを言われたりもした。それに対して、僕は困ったように笑うことしかできなかった。
 ある日のことである。ピザ用のチーズを前に並べていたところ、僕の背後から誰かが近づいてきた。買い物の邪魔をしないよう、すぐに作業を終えて離れようとする。しかし、そこにいる人の姿を見て僕の体が固まってしまった。
 そこには、正隆さんともう一人の女性の姿があった。
「あ……」声が漏れた。すぐにしまったと思って口を手でふさぐ。女性は車いすに乗っていて、正隆さんに後ろから押してもらっていた。女性が反応して、僕の顔を不思議そうに眺めた。
 突然の事態に、僕のなかの感情が暴れそうになった。眼球の裏に熱がふくれ、呼吸がうまくできない。明らかに挙動不審である。僕の今の姿で、そんな反応をしてはいけないのに。
 女性の顔は、僕の記憶とあまり変わらない。長い髪の毛。目が子犬のように丸くて、頬には細かいしわが刻まれている。穏やかな雰囲気が体から醸し出されていた。
「店員さん? どうかしたの……?」
 女性の声に正隆さんも僕に気づいたようだ。僕はあわてて顔をそらした。
「いえ。申し訳ありません。ごゆっくりどうぞ」
 逃げるようにその場を立ち去る。背中に刺さる視線を振り払って、僕は控室に戻った。
 控室ではパートのおばさんがテレビを見ていた。僕のことなど気にしていないようだ。自分のカバンからポケットティッシュを出し、思い切り鼻をかんだ。手が震えている。心を落ちつけるのにしばらく時間がかかると思った。
 まだ品出しの途中だし、すぐに戻らなければならない。深呼吸を繰り返して心臓の鼓動が遅くなるのをじっと待った。
 一分くらいで心が静まる。そのあとに感じ取ったのは、陽だまりのような温さだった。
 見間違うはずもない。何度となく顔を合わせた正隆さんの再婚相手――佳織さんだ。
 もしも僕の体が朝倉圭人であれば、こんなふうに逃げる必要なんてない。大学生活はどうかしら、思ったよりも普通ですよ、美帆ちゃんがこのまえね……なんて発生しえなかった会話を想像する。夜。広い居間に僕らは集まって、やたらと質素な食事を口に含みながら、どうでもいいことを話す。そこには過度な気遣いも、喉の乾く緊張感もない。自分の心の一部をそこに置きっぱなしにしても失うものはない。500ミリのペットボトルに入ったお茶を飲み下す。口をぬぐい、目の下をほぐした。
 僕一人いなくなったところでうまい具合に世界は回っていく。ごちゃごちゃ考えても、今の現実は変わらない。自分の頬を叩く。とっとと業務に戻ろう。
 フロアに戻ったが、すでに正隆さんたちの姿はない。二段式のカートを引きずり、乳製品のコーナーに移動する。朝に出した牛乳はすでに残り少なくなっている。賞味期限の近いものを前に並べながら、新しい牛乳を奥に詰める。冷蔵庫の温度も正常に保たれているのを確認して、チェックシートに丸をつけた。夕方に近くなると、客足も増える。すぐにレジを手伝うことになるだろう。ほかに少なくなっている商品がないか見てから、近くにいた店長に報告する。
「そろそろレジ行きますか?」
 腕時計を見て、矢倉店長はうなずいた。
「気が利くねぇ。助かるよ」
 肩をポンポンと叩かれる。最近気づいたことだが、店長の頭頂部が少し禿げている。苦労が多い人なんだろう。
 カフェで使用していたころよりもレジの機能が複雑だったが、レジ打ちもすぐに慣れた。マニュアルがあり、それに沿って手を動かすだけだ。近いうちに名札から研修中の文字も外れるだろう。
 レジ打ちを終えて、十八時くらいに帰宅する。夜遅くまで残ったほうが稼げるけれど、つむぎに夕食の準備をさせたくないという思いがあった。帰ってすぐにキッチンに立って、シチューを作った。食卓に並べて、つむぎを呼ぶと二階から下りてきた。
「……お兄ちゃん、働きすぎじゃない?」
「あんまり家にいても仕方ないから。それに、今年受験なんでしょ」
 そうだけど、とつむぎが濁す。僕のせいで受験失敗なんてことになったら笑えない。
 日野尚樹の体に乗り移ってから、すでに二週間近く経過している。その間に、僕はつむぎと一緒に暮らしていて、いろいろと気づいたことがあった。
 まず、つむぎは夜遅くまで勉強している。部屋の明かりがずっとついていて、ときおり飲み物を取りに一階に下りてくるけど、それ以外は机に向かっているようだ。僕に心配かけまいと受験のことをあまり口にしないが、きっと明確な志望校があるんじゃないかと思う。
 また、母親が帰ってくることはほとんどないようだ。一度、僕のアルバイトの承認のため、記名と捺印をしたことがあったが、つむぎは僕と会わせようとしなかった。仕方なく二階の部屋にこもっていたが、階下からはやたらと低い声が聞こえてきた。うっせえな、とか、疲れてんだ、とか、かなり粗い口調だったことを記憶している。
 帰ってこない時点で予測していたが、あまりいい親ではないようだ。僕のためにサインや印鑑を頼み込んでくれたからこそ、僕はこうして働くことができている。つむぎには頭があがらなかった。
「細かいことは全部僕に任せてくれ。つむぎは自分のことだけ考えていればいい」
「でも、お兄ちゃんはどうするの? このまま学校には行かないの?」
「それは、もう少し考えるさ」
「忘れちゃいけないよ。お兄ちゃんも、進学するなら受験の年なんだから」
 つい最近終わったはずの大学受験。にもかかわらず、また受験の年と言われるのはおかしな話である。
 正直なところ、日野尚樹の通っていた高校にあまり興味はなかった。ひとまず、お金をためて、自分自身になにがあったかを確認したい。僕は、現状を受け入れたわけではない。こうなった以上はそれを全うするしかないと感じているだけだ。元の自分に戻れる手段があれば、すぐにでも戻りたかった。
 昔から困ったときは、美帆だったらどうするのか、ということをよく考える。美帆が、今の自分と同じような目に遭ったとしたら、いったいどうやって乗り切るのだろう。自分の体なんてものに拘泥せず、他人の人生と自分の人生を両立させるのだろうか。失った人間関係をも、自分自身の能力で取り戻すのだろうか。美帆ならやりかねない、と僕は思った。
 小さいころから、美帆が困り果てたり、泣いたりする姿を見たことがない。実の母親が出て行ったときも、「その程度の人だったってことよ」なんて冷たく突き放すような言葉を発していた。原因は正隆さんの浮気にあったが、美帆を見捨てる理由にはならない。特に言伝もなく去ったことには、怒りや悲しみがあってもおかしくないのに、淡々とその行動についての評価を下していた。
 きっと美帆なら――細かいことを気にせず、今の体でも学校に行った方が自分の目的に適うと考えれば、迷わずそうすることを選ぶだろう。自分にはおそらくできない。美帆が今の僕の姿を見たら、「情けないわ」なんてこぼすのだろうか。
 追いかけつづけた美帆の背中。道標としていつも僕のまえにそびえていた。決して揺らぐことも、消え散ることもない。後ろを歩む僕を、ときおり振り返って引っ張りながら、然るべき方向へと導いてくれた。困り果て、うずくまったときには手を差し伸べてくれた。寄りかかっていたのは、きっと僕だけではない。美帆という人格がずっと変わらずそこにあったから、僕はいろんなことを耐えてこられたのだと思う。
 僕と同じように、美帆も一人暮らしを開始する予定だったから、きっと秦野にはないないのだろう。僕がいなくなったことについても、「その程度」としか受け止められなかった可能性もある。その場合、僕が耐えられなくなりそうだ。
「今はバイトを頑張りたい。受験のことはそのあとに考えようと思う。そのうえで、つむぎには負担をかけないようにする。大丈夫だ」
 つむぎは、不安そうな面持ちで「わかった」と言った。つむぎのためにも状況の整理を急いで行わなければならない。



 一か月ほど、アルバイトと家事をこなす日々を過ごした。お金を早く貯めるため、極力休まずに仕事をしていた。一日一万円程度の稼ぎだったから、給与日には二十万円近いお金を受け取ることができた。これ以上必要になる恐れもあるが、依頼自体はすでにできるはずだ。僕は、スマホで評判のいい探偵事務所や興信所を調べ、渋沢にある事務所に依頼することにした。そもそも秦野で起きたことであるため、近い事務所のほうがいいと判断した結果でもあった。
 今の家から徒歩で二十分ほど離れた位置にある。前払いで十万円ほど必要みたいなので、封筒に入れて持ってきていた。
 事務所は、築三十年以上ある雑居ビルの六階にあった。あまり備品がなく、殺風景な内装だ。職員らしき人物は五人ほどいて、僕が入るとすぐに気づいて頭を下げた。
「こちらにどうぞ」
 想像していたよりも薄汚いテーブルと丸椅子があった。腰を下ろして十分くらいして、奥から太った男の人が近づいてきた。若い見た目を訝っているのか、目を細めて僕のことをじっと見つめていた。
「お待たせしました。奥の部屋までご案内します」
 事務スペースを離れ、一枚ドアを隔てた先に狭い廊下が伸びていた。黒い絨毯を踏みつけて、前から二番目の部屋に通された。
 部屋には、机と二脚のパイプいすが置かれていた。手前に座るよう指示された。
 太った男の人は、あごの下をさすりながら、奥に腰かけ、一枚の紙を取り出した。
「弊所では、初回のご相談は無料ですが、以降のご相談・ご依頼は有料となっています。また、弊所のポリシーとして受け入れられない依頼もあるため、その点ご了承ください」
「はい……。ええと、一応、ウェブサイトを見てきたので、ある程度は把握しています」
「ありがとうございます。では、まず簡単にご相談内容をうかがえますでしょうか」
 茶色のレザーファイルを開き、ペンを紙のうえに置いたうえでそう尋ねてきた。
「ある人のことを調べてほしいんです」
「素行調査、のことでしょうか」
「……正確に言えば、ある人が亡くなったのですが、その死の詳細を知りたいのです」
「なるほど。もう少し詳しく事情をお聞かせください」
 僕が、朝倉圭人という人物と友人であったこと、友人が死んだと知り、その死がどのように起こったものなのかを知りたいということを話した。
「公に処理された死因に疑いを持っているわけではなく、その死因自体を知りたいということになるでしょうか?」
「おっしゃるとおりです。ただ、できるだけ、詳しく知りたいと思っています。死んだ位置、日時、死んだ時の状況。お金を払った範囲で対応できる分で、お願いしたいです」
「ご予算はどれくらいで考えていますか?」
「現在、払える金額は二十万円くらいです。足りなければ、翌月以降にもっとお支払いします」
「ひとまずは、二十万円ですね。二十万円分の調査で得た情報が足りなければまたご相談、という形でよろしいでしょうか」
「大丈夫です」
 男は、紙に話をメモしている。それから胸ポケットから名刺を出した。
「私は、弊所の調査員――長瀬と申します。本日のお話は、私が聞かせていただきます。また、我々が可能な調査内容についても、説明をさせていただきます。そのうえで、正式にご意思が固まりましたら、ご依頼をお願いいたします」
「はい」
 基本的には聞き込みということになるらしい。また、その人物の行動を順に追っていくため、できる限りの情報を教えてほしいということを言われた。自分のことであるため、躊躇なく話すことができた。
 前払いとして一万円、それ以上は調査結果後に支払いをお願いするとのことだった。契約書を書かされたが、生年月日をごまかせば特に怪しまれることはなかった。
 事務所を出た。ここでお金を惜しむべきではない。今後に備えてより一層バイトを頑張ろうと思った。

 日野家に戻ると、家のなかが異様な静けさに包まれていた。
 今日は土曜日で、つむぎも休みだった。僕が出かけたときに、つむぎは家にいた。鍵は閉まっていなかったけれど、どこかに行ったのだろうか。急に背中から這いあがる寒気があった。リビングのドアを開けると、薄暗いなかでカーテンが窓いっぱいに広がっていた。
 時刻は16時過ぎであり、まだ日が沈む時間帯ではない。普段であれば、ドレープカーテンは夜になってから閉めていた。僕は、カーテンの近くまで歩み寄って、外の景色をのぞく。
 曇り空に覆われた街並みが見えた。雨は降っていないが、外も暗く感じる。天気予報では、夜に雨が降るかもしれないとされていた。僕は、リビングの電気をつけるために入り口付近に戻ろうとして、耳にわずかに届く、息遣いのような音の存在に気がついた。
 まさか泥棒か、と思い、あわててその方向に耳を澄ますと、その音はソファの裏側が発信源であるとわかった。おそるおそる近づいた僕の目の前に、隠れるように膝を抱えているつむぎの姿が現れた。
「……つむぎ?」
 僕の呼びかけに、肩が動いた。それでもつむぎは答えない。つむぎの前でしゃがみこんだ僕は、もう一度声をかけた。
「なにかあったの? 大丈夫?」
 伏せられたままの顔が、振り子みたいに左右に揺れた。
「電気をつけようか?」
 また左右に振った。
「ええと、僕はあまりここにいないほうがいい?」
 少し固まったあと、僕の服の袖をつかんだ。
「……いたほうがいい?」
 今度こそ縦に一回。僕は、尻を床につけた。部屋の空気は冷えていた。僕の袖をつかむつむぎの手に自分の手を重ねると、ひんやりとした感触が掌を伝わった。丸まっているつむぎの体はずいぶんと小さく見え、長袖のトップスともに縮んだように感じられた。顔をうつむけているから、呼吸のたびにうなじがわずかに上下している。空気を吸って吐く音に力がなく、僕はとても不安な気持ちになった。
 袖を握られているせいで、電気をつけることもできない。僕はしばらく並んで座っていた。
 やることもなくぼんやりしていると、普段は意識しないものを意識する。食卓として使用しているテーブルの足の上部が丸く、下にいくにつれて細くなっていること。カーペットの模様が大小さまざまなひし形を組み合わせてできていること。天井に設置された蛍光灯が、僕の片腕よりも長そうであること。
 気分の滅入ったつむぎを見たのは、初めてのことだった。いつも僕のことを心配したり、背を焼こうとしたりしていた。でも、この子はまだ中学三年生の女の子だ。悩みを多く抱えている年頃だし、日々の生活のなかでいろいろと苦しむところもあるのかもしれない。
「電気つける?」
「……いい」
 ようやく、つむぎの声を聞くことができた。声はかすれ気味だった。
「水飲む?」
「いいって」
「うん」
 僕が日野尚樹であれば、もっとできることがあるのだろう。でも、僕はつむぎの過去も考えも理解していない。だから、どのような言葉が必要なのかもわからない。
「ごめん」
 いろんな意味を込めて、そう言った。
「僕がこんな状態でなければ、つむぎを苦しめることはなかったかもしれない」
「お兄ちゃんのせいじゃない」
「だとしても、僕じゃ、つむぎをどう助けてあげればいいのかわからない」
 過去からの積み重ねによって、今の状況を把握できた可能性がある。でも、僕には突然起こった出来事であり、戸惑うことしかできない。
「そこにいてくれればいい」
 つむぎは、ようやく顔をあげた。それから横目で僕の顔をちらりと見た。
 目の下が少し腫れている。僕が戻る前に泣いていたのだろうか。
「お兄ちゃんが、いてくれるんだったら、わたしは大丈夫。大丈夫だよ」
 初めてつむぎと顔を合わせたときに、頬を流れていた涙。この子の胸に潜むものがあり、それがじんわりと苦しめているのかもしれない。僕が部屋から出てくる前は、一人で泣いているだけだったのではないかと思った。
「なにもこんなに暗いところにいなくていいじゃないか」
「誰にも見られなくて済むから落ちつくの」
 一人になりたい気分だったのだとしたら、邪魔をしてしまった可能性がある。とはいえ、離れてほしいわけではないみたいなので、僕はしばらくそこにいることにした。
「そうか。今のお兄ちゃんには、こんな姿、初めて見せるんだね」
「少し驚いている。でも、気にするようなことじゃない。僕は普段からつむぎに助けられてばかりだから、僕だってつむぎを助けたい」
「ありがとう」
 この子は他人を気遣ってばかりだ。中学生であれば、わがままを言ったり、自分本位の行動をしてしまってもおかしくない。そこに、この子の背負ってきた人生が垣間見えるようで、複雑な気持ちになった。
「たまに、こういうふうになっちゃうの。わたしの心が弱いせい。心配させちゃってごめんね」
「……誰だって辛くなるときはあるんじゃないか?」
「うん。だから、あんまり気にしなくていいの。落ち着くまで待ってくれれば」
「わかった。つむぎのためならお安い御用だ」
 日が沈み、お互いのお腹がすくまで、僕らは並んで座ったまま時を過ごした。僕にできる唯一のことがそばにいることだから、最大限のことはしてあげたかった。なにがあったのか、どうして泣いていたのか、ということが気になったが、訊くことはできなかった。話してくれるときを待ったほうがいいと考えたからだ。
「今日は、ありがとう」
 ご飯のあと、つむぎは自分の部屋に戻っていった。もうその顔に、今日見た翳りはない。それでも、さきほどのつむぎの表情が、僕の脳裏にしこりのように残っていた。



 しばらくのあいだ、つむぎの様子に異変はなかった。僕のことを慮り、夜には勉強をつづけている様子だった。一度だけ、模試の成績を見せてもらったことがあったが、志望校よりも高い偏差値を確保できていた。家族の問題があるし、ナイーブになるところがあって、あのようなことが起きてしまったのだろうか。
 本来であれば、僕が勉強を教えてあげるのがいい。しかし、もともと日野尚樹の学力はあまり高くなかったみたいなので、怪しまれないようにする匙加減が難しかった。一度だけ、つむぎの勉強を見たときがあったが、スムーズすぎた僕の教え方に違和感を覚えている様子だった。
 悩みがあるのであれば聞きたいが、おそらくつむぎは話そうとしないだろう。自分のなかに抱え込んでしまうタイプだ。
 そして、この家の母親は相変わらずめったに帰ってこない。帰ってきたとしても夜遅く、僕だけでなくつむぎと会話することもないようだ。僕の親もそうだったけど、子供の存在のことが頭から抜けているんじゃないかと思う。
 もともと、日野尚樹が引きこもりをしていた理由はなんだったのだろう。僕――朝倉圭人のことを調べたら、次にこの体の持ち主についても調べたほうがいいかもしれない。なにか、深い事情があるのではと思い始めていた。

* * *

 僕が初めて日野家の母親と対面したのは、5月の初旬のことだった。アルバイトを終え、家に入った瞬間、リビングから出てきたその人と遭遇した。
 この人が、日野尚樹やつむぎの母親であるとすぐに理解できた。なぜなら、家のなかを我が物顔で闊歩できるのは、他にこの人しかいないからだ。あごくらいまで伸びている茶髪を、ゆるくカールさせている。目の下にはやたらと厚いアイシャドウが施されていた。
 第一印象は、思ったよりも派手な見た目をしているということだった。
 同意書のサインに記載されていた名前は、確か、加奈子。年齢不詳だが、四十代ではないかという気がした。
「あ、どうも」
 言ってすぐに、あまり適切な言葉ではないと気づいた。親子の話し方ではない。
 すると、母親は僕のもとに歩み寄って、三和土に置かれていた靴の一足をつかんだ。
 呆然と見ていると、その靴を僕に向かって思い切り投げ飛ばした。ぎりぎり的中しなかったが、僕の顔の横をかすめてドアに当たる。靴底と衝突して、風船が破裂したような大きな音を立てた。
 混乱した僕が玄関の端に寄ると、母親は靴を履いて玄関から外に出た。甲高い靴音が鳴り響いているのが、ドア越しでもわかった。もしかして、突っ立っている僕が邪魔だったから、靴を投げてどかせたのだろうか。
 やはり気性の荒い人物なのだろう。リビングにはすでにつむぎがいて、僕の代わりにご飯を作ってくれていたようだ。母親も食事をとったらしく、机のうえには食べ終わったあとの皿が一人分存在していた。
「おかえり、お兄ちゃん」
 僕はさっき起こった出来事について話す。と、つむぎは、目をそらして「ん」とつぶやく。
「どこかに行ってしまったけど、用事でもあったんだろうか」
「そういうわけじゃないよ。もともと、家を家をとして使ってないから。ご飯を食べに来ただけなんじゃない?」
 もしかしたら、無理やりつむぎにご飯を作らせたのかもしれない。あの傍若無人ぶりを見たら、自然とそういう発想になる。
「アルバイトで疲れてるでしょ。お兄ちゃんの分も作ってあるから食べてね」
「ありがとう」
「お母さんには、そういうことしないように言っておくね」
 僕は、冷蔵庫のお茶を出すためにキッチンに入った。シンクの隅に設置された三角コーナーにいつもより食べ物がたくさん積まれていた。それを見て、たぶんあの母親の仕業だろうと直感した。つむぎとも一悶着あったのではないだろうか。
「想像はしていたけど、僕との関係はあまり良好じゃないようだね。会話らしい会話ができなかった。鳩が自分の足元にいて邪魔なとき、威嚇して追い払うのと一緒だよ。つむぎが僕と会わせないようにしていた理由がよくわかった」
「わたしたちが暮らしていくのに困らないお金を稼いでくれるから、文句は言えないよ。帰ってきたときは、それに報いないと」
 つむぎの作ってくれた料理はいつもおいしい。急いで作ったであろうカレイのトマト煮、サラダチキン、昨日の残りの麻婆ナス。栄養バランスまで考えられている。
「もしかして、こういう咄嗟の対応に伴ってお金をもらっているの?」
 つむぎは、箸をくわえたままリモコンをとって、テレビをつけた。画面にニュースが表示されて、静岡で起きた窃盗事件について報道している。
「そういうことだったんだ。気づけなくて悪かった」
「ううん、お兄ちゃんに余計な負担をかけたくないから。記憶喪失で大変なときに、あんまり嫌な目にあってほしくない」
「そう思っているのは僕も同じだ。今度は、僕も手伝う」
 この家を便利なレストランくらいに考えているのかもしれない。つむぎのあのような姿を見た以上、一人だけで抱えさせるわけにはいかない。
「片づけは全部僕がやるから、食べ終わったら部屋に戻っていいよ。勉強もしたいだろ」
 リモコンでチャンネルを切り替える。民放のバラエティ番組が画面に映った。やたらと大きな笑い声がテレビから聞こえてくる。
 つむぎは、僕の言葉に従ってすぐに自室に入った。食器を洗い、残ったおかずをラップして冷蔵庫に突っ込む。リビングを出ようと、カーペットの際に足を乗せたとき、足の裏からちくっという刺激が走った。痛みが大きかったので足をどけて、その下を見ると数ミリ程度の石のようなものが転がっていた。
 僕は、それを手に取ってキッチンに戻った。キッチンスペースの奥にゴミ箱が2つ設置されている。右側のゴミ箱のふたを開けて、予想が当たっていたことを確信した。
 割れた皿の破片が小さな袋にまとめられ、不燃ごみのなかに紛れ込んでいた。おそらく、僕が踏んづけたのは、回収しきれなかった破片だ。急いで作ろうとしたが故の事故なのか、それとも僕に靴を投げたときと同じように、あの母親がした行動によるものなのか。
 キャビネットのうえに置かれていた救急箱を手に取って、僕は二階のつむぎの部屋のドアをノックした。すぐにつむぎが、いいよ、と返事をしてくれる。
 中に入る。つむぎの部屋は、いつもきれいに整理整頓されている。学習机には、ノートと問題集が並べられていて、その前につむぎが座っていた。紅茶から湯気が立っている。
「どうかしたの?」
「お皿、割ったんだろ。怪我していない?」
 僕が言うと、つむぎが吹き出した。
「それでわざわざ救急箱を持ってきたんだ」
 でも、僕の懸念は当たっていた。つむぎの左の小指の付け根に切り傷があった。破片を拾うとき、左手に体重を乗せてしまい、そこにたまたま小さな破片が落ちていたのだそうだ。
「さっきお風呂入ったときに、絆創膏外しちゃった」
「雑菌が入るといけないからつけなおしたほうがいいな。僕が巻くよ」
「うまくできる?」
 僕はつむぎの左手を広げた。小さな手だった。僕の手で完全に包み込めてしまうのではないかという気がした。救急箱から消毒液と絆創膏、軟膏を取り出す。消毒液をかけると、まだ痛むのか一瞬だけ目をつむっていた。軟膏を塗り、絆創膏を巻きつけた。
「お兄ちゃんはやっぱり手先が器用だね」
 元の体よりもこういった作業がやりやすい。ゴミを近くのクズかごに入れて、救急箱を閉じた。立ち上がろうとしたところで、つむぎが「ねえ」と声をかけてきた。
「一個わからないところがあるの。教えてくれる?」
「僕でよければ」
 幾何学の問題だった。複雑な図形のなかで、一つの辺の長さを答える必要があるようだ。
「こことここの三角形が相似らしいんだけど、なんで? って なっちゃって」
 デスクライトが眩しかった。問題文を通読し、一分ほど考えて理解した。つむぎの目指している学校の偏差値は高いので、元大学受験生の僕でもしっかり考えないと答えを導けない。かみ砕いてつむぎに伝えると、「そういうことだったんだ」と理解してくれた。
「お兄ちゃん。もしかして、部屋にいるときに勉強もしていたの?」
 返答に窮した。明らかに日野尚樹は勉強していなかったが、「まぁ」と濁しておいた。
「こっちの問題は、わかる?」
 同じように幾何学だが、今度は立体の問題だ。わからないふりをしようかと少し迷ったが、その中途半端さがつむぎの受験勉強の支障になると思うとできなかった。また教えると、つむぎは感心したような目になった。
「すごいね、お兄ちゃん。なんでもすぐ解けちゃう」
「たまたまだよ。しかし、この問題集は解説が粗いな、わかりづらい」
「そうなの。おすすめの問題集ないかな?」
 高校受験は本気でやっていなかったから、その手の知識があまりない。
 ふと、弘香のことが脳裏をよぎる。弘香はどんなふうに勉強をしていただろう。僕が高校二年生で弘香が中学三年生のとき、美帆と僕と弘香の三人で勉強会をしたことがあった。そのときの弘香の学力はあまり高くなったけど、有名な問題集を使っていた記憶がある。
「濃い青のやつ……」
「……あのね、数学の問題集はだいたい青いんだよ」
 正論である。僕は、ちょっと待ってくれと言い置いて、日野尚樹の部屋からスマートフォンを持ってきた。ネット検索で調べて一分ほど、目的のものが見つかった。
「これだ。難しい問題が多いらしいけど、メジャーな形式の問題がだいたい載っているらしい」
 ページ数からしても相当の分量があって、コスパがよさそうだ。つむぎも見たことがあるらしく、「本屋で探してみる」と言った。それから、「お兄ちゃんが、お兄ちゃんじゃないみたい」と付け加えられたので、心臓が止まりそうになった。
「なんだよそれ」
「前から思っていたの。人って記憶をなくすと、まったく違う人間みたいになっちゃうんだって。でも、生活史健忘っていうやつだからなのかな。わたしはね、昔のお兄ちゃんも、今のお兄ちゃんも同じくらい好きだよ」
「……昔のお兄ちゃん、ね」
「うん。今のお兄ちゃんは知らないと思うけど、もっと大人しい人だった。他人よりもいろんなことを気にしちゃうし、わたしには話せないことでいっぱい悩んでいるみたいだった。でも、誰よりも努力家だったし、あんなことがあるまでずっと優しいお兄ちゃんだった」
 人格が記憶で作られるのであれば、この脳みそにまだ日野尚樹の人格が眠っているのだろうか。ふとしたときに現れて、僕ごと消し飛ばしてしまうこともないわけではないのだ。
「過去に、いろいろあったんだな」
 僕のつぶやきに、つむぎは答えなかった。僕にとっては会ったことのない人物で、僕が知っているのはこの体に憑りついたときに見た汚らしい恰好や埃の積み重なった部屋くらいだ。もしも、「昔のお兄ちゃん」にもう会えないとなったら、つむぎはそれを受け入れてくれるのか。
「記憶、戻ってほしい?」
 実際のところは記憶喪失ではない。もしも日野尚樹の人格が戻った場合、僕の魂は行き場をなくしてしまう気がする。場合によっては両立することもあるかもしれないが、その確率は低いように思えた。
「本当のところ、わたしはわからないの。だって、またお兄ちゃんは部屋に引きこもってしまうかもしれない。また苦しんでしまうのかもしれない。だったら、なにもかも忘れてしまったままのほうがいいんじゃないかって気もする」
「そうか」
 日野尚樹がつむぎをまた一人にしてしまう可能性もある。それは、僕にとって恐ろしい想像だった。僕は僕としての人生を優先したいけど、つむぎにもよりよい道を歩んでほしかった。
「病院に行こうかな」
「さすがに、もう一か月以上経つもんね。わたしもそうしたほうがいいと思う。記憶が戻る戻らないは別として、体が心配だから」
「あの母親とまた対峙しなくちゃいけないけど」
「わたしがなんとかする」
「いや、さすがに僕がやるよ。僕自身のことだから」
 朝倉圭人の死因がわかるまで、まだ二週間くらいかかるそうだ。その間にも、できる限りのことはやっておこうと思った。



 一か月以上の期間を空けて、僕は再び弘香と遭遇した。
 アルバイトを終えた帰り、僕は洗顔ペーパーを買うため、途中でコンビニに寄った。ティッシュペーパーや歯ブラシの売場に向かおうとしたが、雑誌コーナーの前に弘香が立っていて、お互いに目を合わせてしまった。
 気まずい空気。僕は、すぐに目をそらして後ろを通ろうとした。
「待ってください」
 読んでいたファッション雑誌を棚に戻して、僕のほうを向いた。無視するわけにはいかないので、立ち止まって振り返った。
 弘香は制服を着ていた。学校帰りだったのかもしれない。すでに午後六時くらいだから、部活後なのだろう。
「僕?」
「あなた以外に誰がいるんですか。話したいことがあります。買い物を終えたら外で少し話しませんか?」
 断る理由を考える間もなく、弘香はかごに入ったスポーツドリンクやお菓子をレジに運んだ。拒否権はないのだと理解し、僕もさっさと必要なものを買って外に出た。入口付近は駐車スペースなので、建物の横に移動した。弘香が壁に背中をつけて、腕を組んで待っていた。
 すでに日は沈みかけていて、周囲の景色は暗くなっている。建物の前には煌々と明かりが灯っているが、今僕らが立っている場所にはその切れ端しか届いていない。弘香の顔の半分が影に覆われていて、どんな表情をしているのかはっきり読み取れなかった。
「日野尚樹」
 言い当てられて、買ったものを落としそうになった。
「やっぱり、それがあなたの名前なんですね」
「どうして、わかったの?」
「……偶然にも、あなたがわたしのクラスメイトであるとわかったからです」
 偶然、という言葉をやたら強調していたから、そこに疑念があるのだろうとわかった。それと同時に驚く。今、僕らはクラスメイトという関係性なのか。日野尚樹も弘香も高校三年生ということは知っていたが、同じ学校で同じクラスとは、確かに偶然が過ぎるように思える。
「そういえば、今の姿に見覚えがあるような気もします。一体あなたが何者なのか、考えていたんです。どうしても、気になりました。あなたが、わたしの知り合いのことを詳しく知っていたことが、引っかかっていました」
「知り合い、ね」
 弘香がにらむ。急に、僕の右腕をつかんできた。ビニール袋が揺れて音を立てる。
「なんで今さら、あんなふざけたことまで言ってわたしに近づいてきたの? それに、あの言葉の意味は何? あなたを見ているとイライラしてくる。わたしを惑わせてなにがしたいの? まったくもって意味が分からない」
「惑わせようとなんかしていない。僕には僕の事情があるんだ」
「事情? いったい何の事情があってそんなことになるの? 嫌がらせなの? せっかく、忘れることができてきたのに、なんで心をざわつかせることばかり言うの? ねえどうして? 前に会ったとき、あんなことを何であなたが言うの?」
 混乱する。いったいなんのことを指しているのか僕にはわからなかった。
 顔が近づくと、弘香の表情がよく見えるようになる。眉毛や目の動き、唇の色、さらに僕の腕を握る手の震えまでが伝わっていた。急にふと、朝倉圭人としての感情に乱される。目に映るその姿も、自分の意思や記憶も変わっていないのに、なんで僕は正面から向き合うことが許されないのだろう。手から力が抜けて、洗顔ペーパーがアスファルトに落ちる。僕は大きく息を吸う。大丈夫、僕の理性はちゃんと働いている。
「あんなことって? 具体的に言ってくれないとわからないよ」
 弘香は僕の腕から手を離した。少し興奮が収まったのかもしれない。その間に、僕は落ちてしまった洗顔ペーパーとビニール袋を拾いなおした。弘香と同じように、僕の手も少し震えていた。弘香の前では冷静になりきれない。
「去り際に、言ったでしょ」
「なにを?」
 目をつぶり、顔を下に向けていた。
「潜る必要なんかもうない……そう言った」
 やっと思い出した。独り言で、つい口から漏れただけなのであまり意識した発言ではなかった。だから、すぐにピンとこなかった。
「こんなこと言う人、その意味が分かる人なんて、世界に一人しかいないのに……。なんで見も知らないあなたなんかが言うのよ」
 そういうことか。僕が僕であることを告げる覚悟もないのに、軽率な言葉だったと反省する。朝倉圭人がすでに死んでいたのだとすると、その死について弘香はどういう気持ちになったか。もっとよく考えるべきだった。
「……まさか、僕のことを調べて、僕が戻るまで近くのコンビニで張っていたの?」
「正確には、クラスメイトだったからたまたま知ることができたのだけど」
 弘香は、この一か月の間に起こったことを話した。不登校生徒である僕の情報を学校で耳にしたこと。以前に僕と会ったときの情報と重なるところがあったため、日野尚樹の過去の顔写真を探したこと。顔写真と記憶の顔が一致したため、同一人物であることが判明したこと。それで、僕とまた会うためにコンビニで何度か張っていたこと。
「でも、わからなかった。あなたと朝倉さんが同じ学校に通っていたのは一年間だけ。朝倉さんは部活には入っていなかったし、朝倉さんの働いていたバイト先にあなたが勤務していたという話もない。どこに接点があったのか、調べることはできなかった」
 四月、水無川沿いで話をしたときに、日野尚樹と朝倉圭人は友人関係だったという嘘をついた。実際には接点がなかったのだから、不審に思うのは当然のことである。
 冷たい風が、僕の体に絡みつき、前に立つ弘香の髪を揺らした。雲間から満月が現れて、僕らを照らし出した。足元から影が、じんわりと浮かび上がってきた。
「あなたは、何者なの?」
 弘香は、髪を手でおさえながらそう言った。
 その目は、まっすぐ僕をとらえていた。
 僕は、とっさに言葉が思いつかなかった。
 胸に異物が混ざったような、妙な感覚に襲われる。何者という二文字がざらついて、うまく取り込むことができなかった。
 僕は、朝倉圭人である。それは、間違いようのない事実として認識していることだ。
 でも、朝倉圭人にはなれない。ありとあらゆる常識が、僕の現状を受け入れない。名乗ってみても、誰も信じはしないだろう。
 その一方で、日野尚樹になれない。僕に日野尚樹としての記憶はない。つむぎが大切に思っていた兄のことを僕は知らない。朝倉圭人の記憶を持ったまま、日野尚樹であるフリをしつづけるしかない。
 じゃあ、どちらにもなれない僕は、いったい何者なのか。
「僕、は……」
 こんなこと考えたこともなかった。体と心がバラバラになったとき、まったく別の人間が生まれるのかもしれない。
「質問を変えるわ。あなたは、なんであんなことを言ったの?」
 答えられない。朝倉圭人としての言葉だったからだ。
(ありがとう)
 蘇るのは、弘香の笑顔だった。仏頂面の多かった弘香が、徐々に心を開いてようやく見せてくれたその表情に僕はとても驚いていた。
(もう少しだけ、頑張れそうです)
 そのとき、僕の頭から久しぶりに鋭い痛みが走った。もうないと思っていた頭痛が、思考能力を停止させた。眼前の光景がぐらつく。
(わたしはもう、水のなかにはいなかったんだ)
(あなたのおかげです)
 バランスが狂い、立っていられなくなった。ここで倒れたら、弘香に要らぬ負担をかけてしまう。体に力をこめるが、どうやって直立姿勢を保つのかが思い出せない。目の前から光が失われていき、僕の体と意識の距離が遠くなる。
 まぶたの形に区切られた世界に、弘香の顔が映っていた。僕の視界ごとぼやけて消えていく。

* * *

 弘香と初めて出会った日から、僕は彼女にほとんど会えなかった。もともと与えられた部屋から外にできることが少ないそうで、偶然誰かと出くわすと顔を背けてどこかに行こうとする。広い屋敷だからそれが可能であり、なおいっそう僕たちの距離を遠ざけていた。
 美帆は、ソファでくつろぐ僕を見て、アイスを食べながら近づいてきた。
「どっちが飼い主かわからないわね」
 三毛猫のチロが、僕の腹のうえで丸まっている。ちなみに、美帆にはまだ懐いていないから、こんな姿のチロを抱くことはできない。
「僕の優しさが動物には伝わるんだと思う」
「強い生命のまえでは、警戒してしまうだけじゃないかしらね」
 美帆が手を伸ばして撫でようとしたところ、チロは四本脚を伸ばして、ソファの後ろに逃げてしまった。僕がいないとき、ちゃんと面倒を見られているのか心配になる。
「あーあ、嫌われてる」
 僕はソファの後ろに回ってチロを捕まえた。腕に抱いて、背中をなでると尻尾が立つ。
「動物は難しいものね。しゃべってくれないから、なにを考えているかわからない」
 ソファに座りなおす。美帆はもう触ろうとはしなかった。
「今夜は、うちで食べていくの?」
「ごめん。あんまりお金に余裕がなくてさ。そうさせてもらえると助かる」
「首元の傷、あとで見せなさい。手当てするわ」
 襟の位置を調整して隠していたつもりが見られていたようだ。昨日の夜、増えてしまったものだった。もう血は出ていないが、触ると痛みがある。
 食事を終えて、すぐに処置してもらう。大した傷ではないため、絆創膏等は貼らなかった。
「あなたの家は相変わらずね」
「事故みたいなもんだから、大したことじゃない。転んだのと同じだ」
「そ」
 それ以上は追究してこなかった。ちょうど正隆さんが帰ってきたようで、玄関のほうから物音が聞こえた。しかし、いつもと異なり話し声も耳に届く。
「あれ? 誰か来た?」
「大丈夫よ。あなたは、そこにいなさい」
 来客だったら、余所者の僕は邪魔になるのではないかと思ったが、そうではないらしい。やがて、僕たちの前に現れたのは、正隆さんともう一人の女性の姿だった。
 女性が車いすに乗っていて、その後ろに立つ正隆さんがハンドグリップを握っている。カーペットに腰かけていた僕は立ち上がった。すぐにその女性がどういう人かわかった。
 居間の入り口で、車いすの女性が正隆さんのほうを見た。もしかしたら、僕の存在に戸惑っているのかもしれない。そう思うと申し訳なかった。
「こっちが、美帆。そして、その隣にいるのは美帆の幼馴染の圭一君だ」
 小さなうなずきを返してから、女性が僕たちのほうに視線を戻した。
「初めまして。佳織と申します。今日からこの家にお世話になります」
「お世話になります、じゃないよ。家族の一員になるんだから」
 正隆さんがかがみこんでそう告げると、恥ずかしそうに縮こまってしまった。
 想像していたよりもきれいで、痩せた人だと思った。やつれているようにすら感じられた。僕は、どう返していいかわからず、中途半端に頭を下げた。
「ええと、正隆さんの言っていたように、美帆の幼馴染です。すみません、よくこの家に遊びに来ているので……」
 大事な場面に、本来僕はいるべきじゃない。すぐにでも帰ったほうがいいだろう。ソファの横に置いていた学生鞄をとろうとしたところで、正隆さんが「いや、いいんだよ」と言った。 
 気まずい状況に困り果てていると、美帆がようやく腰を上げた。腕を組んでため息をつく。
「お父さん。事前に来るなら来るって言ってもらえない? なにも準備していないわよ」
「驚かせようと思ってな!」
「要らないサプライズだわ。ちなみに、あの子も知らないの?」
「……そっちは、単純に言うのを忘れていた」
 向こう見ずなのはいつものことだけど、今回ばかりはもう少し考えてほしかった。美帆は、しばらく呆れていたが、やがて車いすの女性――佳織さんに「ごめんなさいね」と謝った。
「今日だと思わなかっただけですから、気にしないでください。せめて、来るときくらいは出前でも取りたかったんですけど」
「あぁ……気を使わなくて平気ですよ。ふふ、よかった。ちょっと緊張していたものだから」
 佳織さんもすでに食事は済ませたらしい。美帆は、内線電話で弘香に佳織さんが来た旨を伝えたようだ。十秒ほどで、弘香が居間に駆けつけた。
「お母さん!」
 僕らの存在など構わず、母親の手を握った。ずっとこの家にいて疎外感や孤独感に苦しめられていたのかもしれない。初めて見る、安心したような表情だった。
「ちゃんと元気にしていたみたいね」
 弘香の姿を見るのは、そのときで二度目だった。一度目の印象が薄れつつあったタイミングだったから、久しぶりにその姿を視界に収めて、そうか、こんな子だったかと新たになにかを発見したような気分だった。
 しばらく二人で話していたが、やがてその会話も終わった。そのときようやく弘香が僕の存在に気づいて、驚いたように目を丸くした。
「弘香ちゃんが使っている部屋に布団を用意するから、今日は二人でゆっくり過ごしてくれ。美帆、悪いが準備してくれないか?」
「はいはい」
 美帆が居間を出たあと、正隆さんは佳織さんに家のなかを案内することにしたようだ。車いすを押してどこかに行ってしまったので、僕と弘香だけが残されるという最悪の事態に陥った。
「どうも、久しぶり」
 しかし、相変わらず弘香に会話する意思はないようだった。前回と異なり、逃げようとしないだけマシだが、目を合わせてくれない。
 やっぱり僕は帰ったほうがいいだろう。新しい家族としてスタートを切るのに、いろいろ話すべきこともあるんじゃないかと思う。学生鞄を肩にかけて、黙ったまま立ち尽くす弘香に対して、「もう帰るよ」と告げた。
「はい」
 弘香が一言だけ返事をする。僕のことをちらりと一瞥して、また目をそらす。
 もう少しだけ話をしたくなって、僕はつづけた。
「正隆さんや美帆にも、帰ったことを伝えておいてくれないか? こんなときに僕がいて悪かった。それにしても、優しそうなお母さんだね」
 調子に乗って話しかけすぎただろうか。ただ、せっかくの機会だし、少しくらいは距離を縮めておきたかった。
 僕の問いかけに弘香は戸惑っている様子で、腕をさすりながら目を泳がせていた。十秒程度沈黙がつづいたので、僕はあきらめて踵を返した。居間の扉を開いたところで、かぼそい声が背中に触れた。
「朝倉さん、というのでしたっけ」
 前回に美帆が紹介した名前を、一応覚えていてくれたらしい。僕はうなずいた。
 弘香は、出入り口の反対側にある掃き出し窓のほうを見ていた。カーテンがまだ閉められておらず、窓枠の内部が黒く染まっていた。窓が鏡のように僕らの姿を映していて、僕のうなずきも窓越しに見たのだと理解した。
 それが証拠に、窓越しに目を合わせようとすると、その首がまた横に動いた。
「そうですか。お二人に伝えておきます」
 初めて会ったときから避けられている。僕と仲良くするつもりはないのだろう。特に、気に障るようなことをした覚えはないが、美帆の幼馴染でしかない僕が、この家に頻繁に出入りしていることが気に入らないのかもしれない。
「うん。よろしく」
 僕にとってもこの家は大事な居場所だった。できることなら、僕の存在を弘香にも認めてほしいと思う。だが、この複雑な状況で無理をするべきではない。もしも、難しいようであれば白瀬家とは距離を置いたほうがいいとも考えた。
 ドアノブを回し、扉を開けたとき、急にお腹の鳴る音がわずかに聞こえた。そういえば、弘香はまだご飯を食べていないんじゃないだろうか。振り返ると、恥ずかしそうに俯いている。
 気づいていないフリをしようか迷ったが、僕は言った。
「ご飯、ちゃんと食べておきなよ」
 睨まれるまえに扉を閉めた。また、あの家に帰らなければならないと考えると憂鬱な気持ちになった。

 それからもしばらく、僕と弘香が顔を合わせることは少なかった。佳織さんが来たことにより、弘香が部屋から出る機会も増えたが、相変わらずろくな会話ができない。一度、美帆に、こんなことを言ったことがある。
「来る頻度を減らそうと思う。チロのことは……もう少し美帆が面倒見てやってくれ」
 しかし、美帆は「ふぅん」と意に介さない雰囲気だった。
「ま、あなたがそれでいいならいいわよ。ただ、来たいときにはいつでも来なさい」
 心遣いがありがたかった。週の半分以上は白瀬家に訪れていたが、そこから週一日程度にとどめるようになった。それでも、美帆から頻繁に連絡をもらい、僕の近況を確認しようとしていた。
 ある日のことだった。バイト帰り、LINEにメッセージが届いていた。
《終わったら電話ちょうだい。話があるの》
 それを見た僕は、すぐに美帆に電話をした。そして、美帆から驚くべきことを言われた。
「あの子が倒れたの。しばらく、入院することになりそうだわ」
 いったいなにがあったのか、どうしてそうなったのか、僕はまだわかっていなかった。



 微睡。自分の意識の上澄みが、今の光景を夢だと認識している。反面、意識の底が夢の世界とつながっていて。僕は自由にその二つを行き来することができた。過去から積み上げてきた大事な思い出のなかに浸っているのが気持ちよくて、抜け出そうと思えなかった。
 寝湯に体を横たえたときのように、全身が温さに包まれていた。重力を感じず、浮遊感すらあった。まぶたの裏に、自分の思い描いた光景を蘇らせる。邪念を排して、その光景から与えられる感情を十全に味わっているうちに、僕の心が凪いでいく。
 波紋が広がる。柔らかい感触が皮膚を刺激する。少しずつ、僕の体が光の差すほうへと浮かびあがっていた。あとわずかでも、今の光景と一緒にいさせてくれないかと思うが、しだいに遠ざかるばかりで、僕の眼前には眩しい白い光と、息苦しさばかりが迫ってきた。
* * *

 ぼやけた視界。ピントが合うまでの約一秒で、僕の意識が現実に帰ってくる。
 眩しく感じていた光は、よく見ると二つある。白い天井に掘られた長方形の穴のような蛍光灯の光。もう一つは、そよぐカーテンの奥から斜めに差し込む光。
 体を起こすと、次にミントを薄めたような涼しげな匂いを感じた。白いベッドのうえに僕は横になっていて、青い病衣を身にまとっていた。
 深呼吸をしてから、目をつむる。僕の最後の記憶は、弘香と話したときだ。突然の頭痛に襲われて、気絶したことを覚えている。
 ベッドから下りて、二本足で立つ。力がちゃんと入る。おそらく、気絶してからそこまで時間は経っていない。どこの病院だろう。あいにくと入院の経験がないので、すぐには見当がつかなかった。
 病室には他の入院患者の姿が一名だけあったが、寝ている最中のようだ。僕は起こさないようにゆっくり歩き、病室の外に出る。左右に伸びる廊下の先をたどると、奥にナースステーションらしきものが見えた。歩いている途中、二の腕に痛みが走ったので見ると、少しだけ腫れているのがわかった。もしかしたら、寝ている間に点滴を打たれたのかもしれない。
 ナースステーションの看護師に事情を話すと、「もしかして、日野さんでしょうか」と尋ねられた。僕はすぐにうなずく。
「気が付かれてよかったです。すぐにご家族に連絡しますね」
「はい……あの。僕はどれくらい寝ていたんでしょうか?」
「一日ですよ。脳に異常はありませんでしたので、疲労によるものだと思います。あとで先生の診察もありますが、そこで問題がなければ退院していただいて大丈夫です」
 やはり、あまり時間は経っていないらしい。入院の手続きは、一応あの母親がやってくれたのだろうか。また、弘香が病院まで送り届けてくれたのだろうか。
「ちなみに、お体に違和感のあるところはありますか?」
「特にないです。むしろゆっくり寝たおかげで、だいぶ楽になった気がします」
 いったん病室で待機してほしい、とのことだったので、僕は病室に戻った。点滴してしばらく経ったのか、強い空腹感があった。僕の寝ていたベッドの近くを探すが、財布が見当たらない。もしかしたら、つむぎが持って帰ってしまったのかもしれない。スマホだけは近くのキャビネットに置かれていた。SUICAがあればどうにかなるだろう。
 スマホの電源が落ちていたので、起動する。やがて時刻が表示された。僕が気絶してから、ちょうど二十四時間くらい経ったみたいで午後五時だった。
 一階の自販機コーナーに、カロリーメイトが置いてあった。水と合わせて購入して病室に戻った。ベッドに座りながら食べていると、スマホがぶるぶると震えた。
《目が覚めたんだ。よかった~》
 つむぎからだった。心配をかけてしまって申し訳なく思う。電話したかったが、病院のなかということで憚られた。メッセージを打ち返す。
《さっきね。どうも疲れていたみたいだ。いろいろありがとう》
《ううん。今向かってるから、ちょっと待ってて》
 僕は、スマホをスリープにした。カロリーメイトを食べて、ベッドの横に設置された窓から外の光景を眺めた。
 三階の高さから、敷地の一部を視界に収めることができた。そこで、この病院に来たことがあると気づいた。以前に訪ねたときと病棟が違うから、記憶と一致させるのに時間がかかった。
 佳織さんが入院していた病院で、一度弘香が倒れたときも、ここに運ばれた。初めて出会ったあと、もう一度佳織さんが入院したことがあり、僕もその見舞いに訪れたことがあった。
(あの子が倒れたの。しばらく、入院することになりそうだわ)
 夢の切れ端で美帆から伝えられた言葉。僕はあのとき、弘香の見舞いに行くことはできなかった。僕の存在自体が負担になるとわかっていたからだ。僕と弘香が、本当の意味で向き合うようになったのは、その出来事がきっかけだった。
 二十分ほどで、母親とつむぎが到着したらしい。僕の記憶が確かならば、この病院は日野家から、車で十五分ほどの距離にある。休日ということもあり、すぐに駆けつけてくれたようだ。僕の病室に二人が入ってきた。
「お兄ちゃん……!」
 つむぎが、ベッドの僕を見るや駆けつけてきた。ベッドに座っていた僕に抱きつく。柔らかい体温が伝わってくる。背中をぽんぽん叩いていると、その後ろからあの母親の姿も現れた。
 玄関で靴を投げられた日から、まともに顔を合わせていない。さすがに公衆の面前で横暴なことをする様子はないが、僕をちらりと見ただけで話そうとしなかった。ジーンズと白シャツというラフな格好で腕組みしながら、病室の真ん中に突っ立っている。
「日野さん。準備ができましたので、診察室までお連れします。ご家族の方もどうぞ」
 看護師に一階の奥にある診察室まで案内された。スチールデスクの前に、白髪の医者が座っていた。PCに文字を打ち込んでいたが、僕らが入るや椅子を回してこちらに向いた。
「ここに座って。ああ、ご家族はこちらに」
 後ろから入った看護師が、医師の指示に従って、奥の椅子を二つ僕の横に並べた。僕の隣につむぎが、さらに横に母親が腰かけた。医師がマウスを動かすと、モニタにMRIの画像と思しきものが映し出された。
「日野尚樹くんだね。気分はどうだい?」
「特に問題ありません」
「ちなみに、目覚めたのはついさっきだろう。混乱はないかな? 自分の状況は把握できているかい?」
 僕は覚えている限り説明した。昨日の夕方ごろ、コンビニのそばで倒れたこと。そのまま病院に運ばれたこと。丸一日寝ていたと看護師から聞いたこと。
「なるほど。きちんと把握できているようだね。もう少し補足すると、救急通報があったのは午後五時五十分くらい。そこから十分くらいでこの病院まで運ばれた。呼吸や脈拍は正常だったが、脳に異常がある可能性を考慮して、すぐにMRI検査を行った。その結果が、今、ここに映されているものだ」
 当然のことながら、僕にはその画像を読み解くことができない。だが、看護師の話からすると、特に問題はなかったのだろう。
「この点については、すでにご家族に説明済みだ。出血や脳血栓などの所見は認められない。入院させて、一日様子をうかがったが、特に大きな問題はなさそうだ。今のところ、自分の体について少しでも異常を感じる箇所はある?」
 僕は、全身の神経に意識を張り巡らせた。両手を開いたり握ったり、足のつま先を上に持ち上げたり下げたりした。肩を回しても、痛みはない。倒れたときに体をぶつけた可能性もあったが、どこにも傷らしきものはなかった。
「特に違和感はありません」
「うん。じゃあ、口を横に広げてもらえるかい? イーって」
 その通りにした。すぐに医師がうなずく。
「じゃあ、次に、目をつぶって腕を前に伸ばしてくれる?」
 腕を伸ばして数秒で、「もういいよ」と言われた。腕を下ろす。
「大丈夫だね。喋りもしっかりしているようだ。あと、最近、疲労がたまるようなことをしたかい?」
「アルバイトを長く入れていました。休みをあまりとっていなかったかもしれません」
「やはり、過労の可能性が高いんじゃないかと思う。ぐっすり寝て、元気になっただろう?」
「はい」
「顔色も悪くないね」
 聴診器で鼓動の音も聞かれるが、問題ないようですぐに医師が耳から外した。
「若いからといって無理は禁物だよ。今回みたいなことがないように、自分の体力と相談しながらやるようにしてね。お母さん、そんな感じですが、気になることはありますか?」
 医師の顔が母親のほうへとスライドする。母親は、険しい顔をしながら小刻みに顎を上下に動かしていた。それから、「いいえ、先生がそう言うなら」と小さく答えた。あまり僕の診察に興味がないんだろうと思った。
 PCに文字を打ち込んだのち、また医師の目が僕のほうに向いた。
「なにもないようであれば、本日中に退院していただいて大丈夫。もし、他になにか訊きたいことがあれば答えるけど、なにかあるかな?」
 チャンスだ、と思った。図らずも脳の検査まで実施してもらった。病院には近いうちに行こうと思っていたし、お誂え向きだ。
「実は、もっと前からなんですが、記憶の混濁があるんです」
「記憶の混濁?」
 ここでもやはり正直にすべてを伝えるわけにはいかない。他人の体に乗り移ったなんて言っても信じてもらえない。つむぎにしたのと同じように、生活史健忘に近い症状であると伝えた。
「いつから?」
「だいぶ前です。四月一日からだったと思います」
「そんなに前から?」
 医師が母親のほうを見た。僕からこのことを伝えていなかったが、つむぎからも特に聞いていなかったらしい。母親は、驚いている様子だった。
「このことを、お母さんには話さなかった?」
「……そのうち戻るんじゃないかと思ったので。妹にしか言っていません」
 どうやら、医師は、日野家の歪な家庭事情に気づいたようだ。おでこを何度かさすってから大きなため息をついていた。さらに詳しい情報をということだったので。僕は、本質的なところに触れないように話をつづけた。
「頭をぶつけるなど、トリガーとなるようなことはなかったと思います。目が覚めたときに、すでに自分が何者か、どうしてそこにいるのか理解できませんでした。そして、妹であるつむぎと会話をしているうちに、自分の記憶が喪失しているようだと気づきました。名前、経歴、趣味趣向、そういったパーソナリティの部分に変容が生じたのだと知りました」
「……なるほど。つむぎちゃん、お兄さんの言っていることは本当かい?」
「本当だと思います。その日から、お兄ちゃんの様子は大きく変わったので」
「ちょっと頭を触るよ」
 僕の頭にコブや傷がないかを確認しているようだ。もし仮に頭を打っていたとしてもすでに治っているだろう。
「外傷はないと思うんですが、四月一日にひどい頭痛がありました。また、倒れるときにも、同じように頭痛がありました」
 医師は、僕の言葉の一つ一つをPCに入力している。それから、質問してきた。
「どんな痛みだい?」
「うまく説明できません。内側から引きちぎられるような感じです。その痛みが出たときは、立っていられなくなります」
「頭のどこが痛む?」
「全部ですけど、強いて言うなら真ん中です」
 今度は首の後ろや後頭部を触られる。それでも違和感はないようで首をかしげていた。
「聞く限り、頻度は多くなさそうだね。過去にどれくらい頭痛があった? また、頭痛が起きたとき、どれくらいつづく?」
「僕の覚えている限り、三回、だと思います。四月に二回、倒れるまえに一回。頭痛はほとんど数分で収まっていた気がします」
「ふむ。特に、薬などの特殊なものを飲用していない?」
「はい」
「その頻度だと、群発頭痛とも考えづらいな……。教えてくれてありがとう」
 結局、医師は頭を悩ませるばかりで診断を下せないようだった。やはり、この超常現象は医学的なもので解決できないのだろう。
「お母さん。どうされますか? 突然聞いて混乱されていると思いますが、もしこれが本当であれば慎重に診ていく必要があるかもしれません」
 水を向けるが、母親は苦い顔をして目元を押さえていた。床を見つめて、それから目を細めながら僕を見て、ようやく顔を上げた。小さな声で言った。
「そうですね。その必要があるのであれば、そうしてください」
「現状、明確な病気というわけではないので、入院は難しいです。定期的に通っていただくのが一番いいと思います」
「であれば、それでお願いします」
「承知しました。尚樹君もそれでいいかな?」
 僕はうなずいた。
 病院に通えるようになったことで、多少の安心感がある。とはいえ、自分の現状が良化するという期待を持つことはできなかった。



 僕が記憶喪失と告げてから、母親は、僕と少しだけ会話をするようになった。
 かといって、決して僕のことを心配しているわけではない。僕の症状や近況に対する質問はしてこないし、事務的なこと以外に言葉を交わすことはない。それでも、まともに会話ができなかったことを考えれば大きな進歩である。
 母親にとって、日野尚樹という息子は興味の対象ではないらしい。だからこそ、他人である僕に罪悪感が湧くこともなく、淡々と接することができた。たとえば、急に肩を揉めと言われたり、散らかっている箇所を掃除しろと指示されたりするのだけど、素直にそれに応じていれば、物を投げつけられたり、罵声を浴びせられたりすることはない。
 もっとも、帰って来るのは週に一度くらいなので、頻度は少ない。つむぎを勉強に集中させるという意味で、母親の相手ができるようになったのは、僕としても有難かった。

* * *

 僕は、一か月半ぶりくらいに白瀬家の数寄屋門の前に立っていた。
 倒れて病院に運ばれてから十日ほどが経過していた。会話の途中で意識を失ったので、おそらく弘香が救急車を呼んでくれたのだろう。そのお礼という名目でここまでやってきた。
 インターホンを押す。以前と異なり、身なりは整えているし、日野尚樹として全く面識のない状態ではない。ただし、弘香がいなければおそらく相手にしてもらえない。家のなかに弘香がいることを祈るしかなかった。
 やがて、応答があった。
「ああ。あなたですか。どうかしたのですか?」
 弘香の声だ。僕は安心した。
「いや、前に急に倒れてごめん。救急車を呼んでくれたのかなって、お礼を言いに来たんだ」
 沈黙がつづく。やがて、「入ってください」という声が聞こえてきた。
 数寄屋門を抜けて、玄関扉を開く。遠隔操作で開錠してくれたようだ。中に入ってすぐに、奥から弘香が歩いてきた。
「ここで話すのも悪いので、居間まで行きましょう。靴を脱いであがってください」
 弘香に言われるがまま行動し、居間のソファに腰かけた。冷蔵庫からお茶を出し、コップに入れて、テーブルのうえまで運んでくれた。居間の隅に、僕のよく知る姿を見て、思わず声を上げそうになる。
 チロだ。
 僕の記憶よりも一回り大きくなっているがすぐにわかった。右耳から右目のあたりが黒の毛で覆われていて、腹を囲むように茶色の毛が生えている。それ以外は白い毛だ。何度もその毛を撫で、膝の上に抱いたからよく知っている。
 僕を見上げて、首をひねっている。緑がかった瞳が、僕の顔に固定されたまま動かなかった。それから僕に近づいて、僕の足にすり寄ると尻尾を二回振った。小さくみゃあと鳴く。
 かがんで、チロの背中を撫で、頭をさすり、耳をつまんでやるとまた尻尾が揺れる。僕がいなくてもちゃんと手入れされている。抜け毛はほとんど残っていないし、皮膚もきれいだ。
 しばらくチロと戯れていたが、本来の目的を思い出して弘香に視線を戻す。が、弘香は、僕とチロの様子を見ながら硬直していた。
「……猫が、好きなんですか?」
 僕は慌ててチロから手を離す。
「まぁ。その、勝手に触ってしまってごめん」
「いえ。すごく猫の扱いがうまいのですね」
 チロは、ソファにのぼり、僕の太ももに乗っかった。そして、朝倉圭人であったときと同じように目を閉じて寝転がる。どうしよう。慣れた様子だと訝しく思われるかもしれない。撫でるのはやめて、頭のうえに手を当てるだけにとどめておいた。
 弘香は、ソファの反対側に腰かけた。広いソファなので、50センチくらいは離れている。
「朝倉さんも、そうでした」目のうえにかかった髪の毛を横にずらす。「こんなふうに、チロをよく膝に抱えて座っていました」
 僕は困った。話題をそらす。
「一応、僕らは同級生なんだろう? 丁寧語で話す必要はないんじゃないか?」
 倒れるまえ、僕に詰め寄ったときは、その口調が崩れていた。丁寧語に戻ったのは、そのときのことを反省したからかもしれない。
「そう、ですね……いえ、そうね。うん。そうだわ」
 ゆるやかな生温い風が流れて、皮膚になめらかに触れる。風上に目を向け、さっきまで閉ざされていた掃き出し窓が開かれていることに気づいた。縁側の奥に設置されたスロープをのぼり、車いすに腰を据えたまま佳織さんが逆光に包まれていた。
「あら?」
 僕の心臓が跳ねた。一瞬だけ、この一か月半の間に起こったいろんなことを忘れて、朝倉圭人に戻ったように感じた。唾を飲み込む。佳織さんに声をかけられるまえに、自分から話さないと自分の心のバランスが崩れる気がした。
「すみません。お邪魔しています」
 佳織さんが、何度も瞬きをする。それから、ほほを緩めた。
「お友達? どうぞごゆっくり」
 弘香が佳織さんのそばに駆け寄って、「一人だと危ないでしょ」と言いながら、室内用の車いすに乗り換えるのを手伝う。自分も介助したい気持ちを抑えて、お茶にまた口をつけた。
 乗り換えた佳織さんは、車輪を回してゆっくりと進み、ソファの横で止めた。電動式だけど、あまりそれを使わないのは相変わらずだ。僕やその膝元に視線を行き来させている。
「ごめんなさい。ちょっとお顔をよく見せてくれない?」
 その通りにした。佳織さんは、少しだけ体を前に倒した。
「ありがとう。どこかであなたの顔を見た気がするの。気のせいかしら」
 スーパーでのことだろう。客の一人の顔を覚えていると言ったら怪しまれると思ったので、言及しなかった。
 弘香が居間に戻り、掃き出し窓とレースカーテンを閉める。一年前と比べて、家具の配置や家の雰囲気に大きな変化はない。壁に埋め込まれた八十インチのテレビ。ベージュのカーテン。灰色のカーペットが足元に敷かれている。
 自分の家ではないけど、自分の家のように過ごしてきた場所。状況が大きく異なっていても、その空気感は脳裏に残っていた。
「見た感じ、うちの子の同級生かしら。この家に、お友達を入れたのは初めてだと思うけど」
「……そうです。同級生です。実はこのまえ、話している途中で倒れてしまったんです」
 コンビニの前でたまたま会い、気を失った。僕の予想通り、弘香が救急車を呼んでくれたらしい。僕は、今日、お礼に来たのだと告げた。
「そうだったの。お体が悪いの?」
「病院で診てもらいましたが、疲労だと診断されました。ここ最近、スーパーでアルバイトをしていたのですが働きすぎたみたいです」
「あ、思い出した」
 佳織さんも、僕のことを覚えていたらしい。僕の働いているスーパーの名前を当てたので、うなずいた。
「店員さんだったのね。あら? でも、うちの子と同級生なのよね。あの日は平日じゃなかったかしら。学校はよかったの?」
「その、いろいろあって……」
「ごめんなさい。訊きすぎてしまったかしら。答えづらいことであれば言わなくて大丈夫」
「すみません」
 不登校であることは言わなかった。日野尚樹のためにも、気軽に口にしないほうがいいだろうと思った。佳織さんがつづける。
「不思議ね。なんだか、懐かしい気持ちになるわね」
 その言葉だけで、何を言わんとしているのか理解できた。僕は死んだと聞いた。そして、その死はどのように受け止められたのだろう。
 家の一つ一つのものに思い出が刻まれている。新居に引っ越す前に、しばらくこの家から離れる覚悟を決めていた。こんな形で戻ってくることになるとは思いもよらなかった。食卓の横の床にチロがフンをしていた時期があり、何度も掃除しているうちに、木目が薄くなってしまった。また、キャビネットのうえに置かれている木製のコアラの像は、弘香が肩に引っ掛けて落としてしまったことがあり、その際に後ろ側が微妙に欠けてしまっている。その一つ一つを指摘すれば、僕が、朝倉圭人がここにいることを証明できるのかもしれない。
 だけど、やはり荒唐無稽だと思われるのではないかという気がしてできなかった。
 さすがにしゃべりすぎたと思っているのか、佳織さんはそれ以上話さなかった。車いすを押して、居間を出て行く。車輪の回る音が遠ざかるのを、僕はじっくりと味わっていた。
「ねえ」
 弘香は、僕の顔をまっすぐ見た。
「お母さんも訊いていたけど、体が悪いの? 初めてこの家に来たとき、外でうずくまっている姿も実は見ていたの」
 結局、つむぎや医師にしていたのと同じ言い訳をするしかないと判断した。説明を終えると、つむぎは「そう」とつぶやいた。眉間にしわを寄せている。
「ごめん。あんまり信じてもらえないよね」
「……疑っているわけじゃないの。ただ、朝倉さんと友人であることは覚えていたのね」
「むしろ、ほとんどそれくらいのことしか記憶していない。日野尚樹としての記憶が、ほとんど失われているような状態だ」
「あのときからもう一か月以上経っているけど」
「そうだね。それでも、状況は変わらない。もしかしたら、一生このままかもしれない」
 嘘をつくのがうまくなった自分に嫌気がさす。僕の記憶ばかりが閉じ込められているこの脳みそは、いったい誰のものなのだろう。脳移植をしたわけもないし、どうしてこんなふうになったのかが理解できなかった。
「朝倉さんのことはどこまで覚えているの?」
 もしもこれからも接する機会があるのなら、ボロが出ないよう、予めある程度知っていると伝えたほうがいいだろう。
「いろいろと覚えている。この家に幼馴染がいて、よく来ていたことも知っている。バイトをして、学費を稼ぐために努力していたこと。高校三年生のときに受験勉強を頑張って、東橋大学に合格したこと。秦野を出る予定で、一人暮らしのために賃貸契約を結んでいたこと。ほかにも、細かいことをいくらか知っている」
「なんとなく合点が行ったわ。それでも、あなたがどういう関係だったのかわからないけど」
 弘香が立ちあがった。両手を後ろで組んで、掃き出し窓の前に立った。
「……お礼に来たってことなら、最後にもう一つだけ教えてよ」
 日差しが淡く差し込んでいるなか、頭を右に向けて言った。以前より大人びたその輪郭に、妙な寂しさが沸き上がった。カーペットにのせた足に、いつもよりも意識が向く。
「朝倉さんは、あなたにとってはどういう人だったの?」
 チロは、身じろぎ一つせずに僕に身を預けている。少し大きくなっても毛の感触は、そこまで変わらなかった。
 僕にとって、僕は僕でしかない。だから、どんな人間かなんてことをまじめに考えたことなんてなかった。けれど、弘香が求めているのは、そういうことではないのだろう。
「わからない。ただ、迷いながら生きているような人だと思う」
「そう」
 この答えでよかったのか。弘香は、それ以上のことを訊こうとはしなかった。


第三章




「お兄ちゃん、見て! 模試の成績がすごくよかったの!」
 五月の下旬に入ったころ、学校から帰ってきたつむぎが僕に言った。最近は、アルバイトの日数をおさえているから、僕が先に家にいることが多い。
 つむぎの見せてくれたのは、僕がここに来る前に受けた模試の結果だ。模試の成績がいいと誰かに見せたくなる気持ちはよくわかる。
「お、すごいじゃないか。英語が校内四位だ」
「そう。わたし、頑張った甲斐があったよ」
 元気そうなつむぎの姿を見られたことがうれしかった。僕は、リビングでスマートフォンを握りしめながら、つむぎの報告を聞いている。
「全体的に高水準の成績だし、順調だな。ここからみんな成績上がっていくだろうから、油断はできないだろうけど」
「うん。これからも頑張るね。お兄ちゃんは、もうアルバイト終わったんだ」
「午前中で切り上げたよ。店長は、物足りなそうにしていたけど」
 疲労によるものだと診断された以上、無理をするわけにはいかない。つむぎを必要以上に心配させるのは嫌だった。ひとまず、お金についてはゆっくり貯めていけばいい。
 夕飯は、つむぎと一緒に作った。僕は僕で、受験生のつむぎに負担をかけたくない。つむぎはつむぎで、一度倒れた僕に無理をさせたくない。折衷案がそれだった。実際、二人で作ることで効率が良くなり、短時間で終えることができるようになった。
「最初からこうしておけばよかったね。一人でやるよりも楽しくできるし」
「非効率かと思ったけど、案外悪くなかったな」
 片づけを終えて、日野尚樹の部屋に戻った僕は、スマホの画面を開く。そこには、以前に依頼した興信所からの調査完了のメールが届いていた。担当者の方と再度会う必要があるようなので、日程の調整を行った。
 結果が出ることはわかっていたが、いざそうなると怖さもある。隠されていて、現実が分からなかったからこそ、現状を恐れずにすんでいたかもしれない。
 やがて、三日後のアポイントを取りつけた。いったいどういう結果が待っているのだろうとすでに緊張しはじめていた。

 ところで、自分のこととは別に日野尚樹のこともこっそりと調べていた。情報源としていたのは、日野尚樹の部屋とつむぎとの会話だ。
 日野尚樹の部屋については、他人の部屋をあさるようなものだから気が引けた。その一方で一か月以上を日野尚樹として過ごすうちに、遠慮する気持ちが薄れていったのも事実だ。部屋にはいくらでも推察の材料が転がっている。
 僕が特に着目したのは、ピアノの譜面だった。コピー用紙に印字されているが、日野尚樹のメモらしきものもたくさん残されている。譜面は、僕が数えた限り百近くあり、かつてピアノを習っていたころにどれだけ真剣に取り組んでいたかがうかがえる。メモのほとんどは、小節ごとにどんなことを意識して弾くかという内容だった。だが、そのなかにたまに、殴り書きのように心情を吐露しているような文章も存在していた。
《父さんとまた会える》
 これだけでなく、他にも父親に関する言葉が見受けられた。この家に父親がいないことには気づいていたが、つむぎの言葉の端々から察せられるのは、かつてはいたということだ。それがどのような事情により、いなくなってしまったのかはわからなかったが、この家庭事情の大元に関わっているような気もしていた。
 また、つむぎにも少しだけ話を聞いたことがある。
「記憶のために、状況を整理したいんだ。僕がそういう風になる前兆とかあった?」
 つむぎはしばらく考え込んでいたが、あまり思いつかないようで首を振った。
「引きこもっている間、お兄ちゃんと会わなかった。だから、普段お兄ちゃんがなにをやっていたのか知らないの。でも、引きこもり始めたときのことは覚えてる」
 僕はその内容をじっくり聞くことにした。つむぎがつづけた。
「最初はね、お母さんと顔を合わせないようにするために、お母さんのいるときだけ部屋にこもっているような感じだった。でも、だんだんと元気がなくなって、ご飯をあまり食べなくなって、わたしと話すのも億劫そうにするようになった。学校に行く頻度が減って、いつのまにか部屋から出てこなくなった、というのがわたしの記憶」
 想像はしていたが、日野尚樹と母親の仲に問題があったらしい。つむぎが僕と会わせようとしなかったのも、そこに理由があるのだろう。
「そのときは、頭痛がするとか、体に不調を訴えることはあったの?」
「たぶん、なかったと思う。ただただ、口数が少なくて、疲れている雰囲気だったよ」
 気力を失っていたからこそ、部屋のなかも荒れていたのだろう。部屋の掃除をしていた様子もないし、毎日時間を消費するだけだったのではないだろうか。
 その時期に日野尚樹の精神を消耗させることが起きていた。おそるおそる尋ねる。
「半年前くらいにいったいなにがあったの? たぶん、いろいろあったんだよね」
 つむぎは、どう答えるべきか迷っている様子だった。記憶喪失と信じている以上、ストレスとなるような事実を教えていいのか悩んでいたのかもしれない。
「また今度教えるね。わたしも、心の準備ができていないから」
 結局そう濁された。軽々しく口にできることじゃないということだけは理解できた。

 推測できることはいくつかある。父親がいなくなったことにより、日野尚樹と母親の関係が悪化し、最終的に精神をすり減らしてしまった。あるいは、父親がいなくなったことにどちらか片方が関与しており、そのことが関係悪化につながったのかもしれない。
 家庭事情の細かい点については、そのなかにいる人にしかわからない。あの母親にそういったことは期待できないから、話してくれるとしたらつむぎしかいないだろう。父親が死んでいるのか生きているのかすらもわからない現状では、肝心なところに踏み込むことができない。いつか話してくれる日を待つしかないのだろうと思った。



 約束の十六時に事務所を訪れて、職員に話をするとすぐに担当者がやってきた。
「お待ちしていました。また奥へどうぞ」
 前回とは違う部屋に通される。内装はほとんど同じで、机と二脚のパイプいすがある。
 担当者は、ファイリングされた報告書とCD―ROMを手渡した。
「こちらが、今回の調査結果の内容です。説明しますので、最初のページを開いていただけますでしょうか」
 指示に従う。このなかに、僕が経験したはずの顛末が記載されている。自分の死についての報告を自分で聞くことになるとは妙な気分だ。最初に依頼内容の概要が書かれていて、その次のページから調査方法、それぞれについてどのような結果が得られたかが表示されている。
「請負時に申し上げたように、今回の依頼内容については、主に目撃証言やメディア関係者への聞き込みをもとに情報収集をさせていただきました。まずは、目撃証言から集めましたので、次のページをご覧ください」
 一枚めくると、証言がまとめられていた。僕は、それを読み込む。
「日時は、昨年の三月三十一日の午後二時半。桜並木で倒れている朝倉圭人さんが発見されたようです。発見された時点ですでに呼吸が止まっていて、脈もなかったそうです。体温がまだあったので救急通報されたようですが、そのまま帰らぬ人となりました」
 写真が一つだけ掲載されていた。どうやらスマホのカメラで撮ったものみたいだ。倒れた僕の周囲に、人が何名か取り巻いている。人垣の奥に、うつぶせに倒れている自分の姿があった。間違いなく僕だとわかった。着ている服や背格好が、僕のよく知っているものだった。
 これが、途切れている記憶のつづき。いざ突きつけられると、言葉でしか認識していなかった自分の死が、まぎれもない真実なのだと理解せざるを得なかった。それと同時に、未だにふわふわした感覚もある。本来見るはずのない自分の死を、こうやって目の当たりにしているということ自体が現実離れしているからだ。
「信憑性をあげるため、当時現場にいた複数名の方からヒアリングしています。時刻に関しては、すべての方の証言がおおむね一致しました。倒れた瞬間を見た方はどなたもいなかったようですが、そこそこの騒ぎとなり、とっさにAEDの使用もされたそうです。そういった措置の甲斐なく、脈が戻らなかったということです」
 通報から救急搬送されるまでの時間についても克明に記されていた。情報を読み込み、担当者からの話を聞くにつれて、僕は冷静でいられなくなる。実際に僕の頭で五感を通じて認識したことではないけれど、時系列に沿った記述に想像が動く。あのあとに、僕がたどった軌跡を追うことができてしまう。自分の命が停止し、懸命の救命処置にびくともせず、体が冷えていくところが勝手に思い浮かんでしまった。
 テーブルに出されたお茶を一気に飲み込む。手が震えていた。その様子に気づいたらしい担当者の人が、「大丈夫ですか?」と尋ねてきた。僕は、手を顔の前で振る。
「つづけても、よろしいですか? ご体調がすぐれないとか?」
「そんなことないです。あまり気にしないでください」
 担当者は、メガネを持ち上げて僕をまじまじ見てから、説明に戻った。
「目撃証言からわかったのはそんなところです。あくまで朝倉圭人さんが亡くなったという出来事を外から見た情報でしかありません。次のページから、メディアからの情報になります」
 またページをめくる。
「今回の件については、事件性がありませんので、大きく取り上げた記事はありませんでした。しかし、地方紙にはわずかに記載があり、そこに死因が書かれています。抜粋した記事によると、『致死性不整脈』と言うもののようです。基本的に、どうしてそうなったかまではわかりませんが、年齢が若い方でも突発的に発生することがあるとのことです。記事を書いた方に直接お会いして話を伺いましたが、病院からの情報をもとに記事を作成しており、この死因で間違いないとのことでした」
「……そうですか。裏取りまでありがとうございます」
 本当に僕は死んでいるのだ。疑ってはいなかったが、嘘である可能性がゼロとなったのは僕にとって非常に大きかった。
 しかし、まだページは終わっていない。顔を上げると、担当者が言った。
「ご依頼の内容については以上です。我々の調べられる範囲はここまでだと思います」
「この先は……?」
「そこからは、今回の調査に付随して得た情報になります。必要がないのであれば、破棄いたしますが、どうしましょうか」
 僕は先のページを読んでみることにした。そこには、僕が予想していないことが書かれていて、つい思考が停止してしまいそうになった。
 そこには、僕の家族に関することが書かれてあった。
 どうやら、僕の両親は、僕の死後に離婚。それから遠方に行ったらしい。当然、住所までは調べられなかったようだが、少なくとも秦野にはもういないとのことだ。僕が日野尚樹の体で目覚めたときに自分の家に向かったが、その家にはすでに誰も住んでおらず、空き家だったのだろう。
「もし、さらに詳しい情報を知るのであれば、ご家族に尋ねるのがいいでしょう。これ以上のことはできませんが、ご参考までに載せています」
 ある意味、予想通りかもしれない。もともとうちの家族は限界だった。僕が死ななくても、大学のために一人暮らしをするなかで、同じような結末をたどっていたのかもしれない。今さら家族と会うことに意味を感じなかったが、資料だけはそのままもらうことにした。
「他にご質問等なければ、これで依頼いただいた分は完了ということでよろしいでしょうか」
 僕は、うなずいた。興信所には十分に調べてもらったと言えるだろう。
 資料を鞄に入れて、僕はもともと住んでいた家のまえに向かった。
 建ち並ぶ家々のなかの一つ。あの時は混乱していて気づかなかったが、表札はすでに亡くなっていた。郵便受けをのぞくと数件のチラシが入っているだけだ。あまりうろちょろしていると怪しまれるかもしれない。僕は、周りに人がいないのを確認してから敷地に入った。
 まだ売りには出されていないのかもしれない。大した施錠もされていない。手入れはされていないのだろうけれど、時間の経過が少ないせいか、ほとんど僕の記憶と相違なかった。玄関ドアを開けようとしても、前回同様に鍵がかかっていた。どうにかして、内側に忍び込めないかと思う。かつての僕の所有物がまだ残っているのではという期待もあった。一周して、一つずつ窓を動かしてみるが、やはりどこも開いていない。
 庭の奥に入り込むと、塀や壁に挟まれて外から見えにくくなる。僕は、生えている雑草が湿っていることや虫が飛んでいることなど気にせずに座り込んだ。
 空は曇っている。今日は雨が降るかもしれないと天気予報で言っていた。見上げた先、二階の窓にはカーテンがかかっておらず、中がわずかに見通せる。僕の部屋だった場所で、そこには段ボールに詰めた荷物が積みあがっていたはずだ。奇しくも、僕が死んだあとの遺品整理に大層役立ったのではなかろうか。
 今の僕が、かすかに朝倉圭人という存在とつながっているのはここだ。鞄のなかからまた資料を取り出してぱらぱらと眺めた。三月三十一日に死亡。致死性不整脈。両親は離婚。秦野という場所に、僕の残滓がほとんど残っていない。
 元に戻るという希望は、日野尚樹になった日から徐々に薄れている。人間の慣れとは恐ろしいもので、少しずつ今の状況に順応している自分がいる。僕の五感がとらえる情報のすべてが僕の死や一年という月日を裏付けており、覆せない事実であることを痛感させられる。
 僕だけが過去に取り残されている。僕の朝倉圭人としての記憶だけが、一年前という時点に囚われて抜け出せずにいる。すでに僕以外は、僕の存在抜きに動いていて、弘香も両親も新たな人生を踏み出している。僕だけ、場違いで仲間外れだ。
 どうして、こんなふうに僕をこの世界に残したのだろうか。もしも目が覚めなければ、僕は自分が死んだことにも気づかず、語りえぬものとして失われるだけだっただろう。喪失に気づいたのは、僕が朝倉圭人としての記憶を持ちながら日野尚樹に成りかわってしまい、失われてしまったことを知覚したからだ。
 気づかないなら、それでよかった。自分がいなくても回っている世界を見て楽しいわけがないし、他人の人生を押しつけられるのも重荷だ。この状態を一時的なものであるとどこかで信じているところがあったから耐えられていたのであって、これから何十年も日野尚樹として生きるのだとすれば、どこかで心が折れるような気がした。
 夢にしては、長くてじめじめとしている。倒れた僕が長き眠りについていて、その間に夢を見ているのだとしたら、いい加減に目覚めたい。
 薄汚れた塀。放置されたウッドデッキ。家がずっと嫌いだった。わざわざ憎みあってまで、一緒にいなければならない家族という呪縛がうっとうしかった。僕の心に湧き出した黒い泡。自分のいろんな感情が黒く染められていくのが恐ろしかったし、感情をコントロールするためにも解放されたいとずっと願っていたし、大学進学を経てようやく逃げられると思っていた。そのために、受験勉強やバイトを頑張ってきた。
 なのに、現実は、僕の大事なものまで一緒に奪って行ってしまった。
 頬に小さな雨粒が当たった。黒ずんだ空から雨が降り始めている。空模様からすると、そのうちに本格的に降り始めそうだけど、現段階では大した雨ではないから動こうという気にはならなかった。
 スマホが一秒ほど震えたので、ポケットから出す。つむぎからメッセージが届いていた。
《まだ時間かかりそう? 今日はわたしがご飯作ろうか?》
 右上に表示された時間は、すでに十七時を過ぎている。そうか、もうそんな時間か。不思議とさっきまでの陰鬱とした気持ちが、使命感に置きかわっていく。
 今日はバイトだと嘘をついている。遅くなりすぎたら怪しまれるかもしれない。
 つづけてメッセージが届く。
《雨降り始めたけど、傘持って行ってる? よかったら迎えに行こっか?》
 苦笑する。僕はすぐに打ち返した。
《ちょうど終わったからすぐに帰るよ。また一緒に作ろう》
 あと少しだけ、一人でいたい。朝倉圭人でいられる時間も必要だ。数分だけここにいてから、あの家に戻ろうと思った。



 僕に来客があると知らされたのは、とある水曜日の午後五時くらいのことだった。
 その日、僕はいつものようにアルバイトを終え、日野家のリビングで、スマートフォンをいじっていた。空白の一年間について、何が起こったのかを定期的に調べるようにしていて、大きな政治的動向だけでなく、芸能人の結婚・離婚などに至るまで、情報を仕入れておかないと世間についていけないと思った。
 僕もよく知っている大物俳優と新人女優の熱愛報道の記事を見ていたところ、インターホンが鳴った。すでに帰っていたつむぎが応答する。
 それから、いくらか言葉を交わしたあと、僕に来客だと言ったのだ。
「お兄ちゃんの担任の先生が来たみたい」
「へ?」
 あわててカメラモニターに映し出されたその人の姿を見た。色が白く、線の細い男の人だ。
 声が入らないよう少し離れてから言った。
「つむぎ、どうしよう」
「え? 普通に出ればいいんじゃない?」
「いや、急に来られても困る。こういうのって事前に連絡が来るものじゃないの? アポイントもなく来られるのはさすがにおかしいというか」
「アポイントならあったよ」
 固定電話にそういう連絡が来ていたらしい。僕は、つむぎに謀られたのだと理解した。
 モニターの担任教師は、所在なさげに鞄を両手で握っている。生尾返すのはかわいそうだという気持ちが働き、最終的に家に上げることにした。
 玄関で僕と会った担任教師は、年上とは思えないほど丁重に頭を下げた。
「どうも初めまして。日野尚樹君の担任を務めさせていただいている山内と申します。今日は尚樹君にご挨拶に参りました。尚樹君はどこにいらっしゃいますか?」
「……僕です」
 前情報と見た目が異なっていたのだろうか。驚いた様子を見せたものの、山内先生は「そうでしたか」と二回うなずいた。
「お母様はいらっしゃいますか?」
「いません。いつ帰るかもよくわかりません」
「ええと、お母様を名乗る方が電話に出ましたけども」
 つむぎをにらむと、つむぎは何食わぬ顔で「わたしです」と白状した。山内先生は、
「……妹さん?」
 と尋ね、うなずき返され、ようやくそこで状況を理解したようだった。困っている様子だったのでさすがに見捨てておけず、上がってもらうことにした。リビングのソファに座らせ、お茶を運び、少し離れた位置でカーペットのうえに腰を下ろした。テーブルの横側にいるので、距離が絶妙に開いている。そして、つむぎも僕の隣にいる。
「思ったよりもしっかりしているんだね、尚樹君は」
「そうですか?」
「うん。その……言い方が悪いけど、ずっと家のなかで引きこもっていると聞いていたから、いろいろ悪いほうに想像してしまっていたんだ」
 騙しているようで気が引けた。見た目からして、まだ若そうだ。三十手前くらいの年齢ではないかと想像する。僕が通っていたころにいたという記憶がないから、最近あの高校に着任したばかりなのかもしれない。気が強いように見えなかったから、生徒に舐められているんじゃないかという気さえした。
 熱血漢のようなタイプじゃないことに安心する。大きな声を出さず、相手のことを慎重に見極め、言葉を選びながら話している感じがした。
「あんまり、尚樹君の詳しい事情についてはあまり知らないんだけどね。担任を請け負ってから一度も会わないままだったから気になっていたんだ。前任の担任からは、しばらくそっとしておいたほうがいいとまで言われていたし、少し迷ったけど来てよかったよ」
 お人好しなタイプなのだとしたら、あまり詳しい事情を話さないほうがいいだろう。いつものように記憶喪失と嘘をついたら、おそらく必要以上に心配してしまう。
 僕が黙り込んでいるのを警戒ととらえたらしく、山内先生が手を横に振った。
「ああ、今日来たのは、単に顔を見るためだよ。学校に来るべきだとか、そんなことを言いに来たわけじゃないんだ。時間がかかるかもしれないし、尚樹君には尚樹君の事情があるのだろうし、ゆっくり自分を見つめなおすことも必要だと思う。一人の大人として、できることがあれば協力したいと考えているだけだ」
 残念ながら、担当教師にできることはなにもない。医師にすら対応できない事態だ。僕は、つむぎに余計なことを言わせないよう、目で制してから口を開く。
「先生は、どの教科の担当なんですか?」
 予想していない問いかけだったのか、山内先生は目を丸くした。
「……世界史だけど」
「そうなんですね。ところで、僕は文系なんでしょうか?」
「うん。あまり覚えていないみたいだね。地歴は、世界史を選択している」
 僕も元々文系で、世界史を選択していた。思わぬ偶然があるのだと少し驚いた。
 せっかくの機会だから、日野尚樹に関する情報収集に利用しようと思う。あまり無知でいると怪しまれるだろうけれど、踏み込みすぎなければ「学校に行っていない期間が長くて覚えていない」という言い訳で通用する。
「僕って、いつくらいから学校に行っていないんでしたっけ」
 どうやら、僕の情報についてファイリングしているらしい。山内先生は、その情報を確認してから答えた。
「高校二年生の十一月からだね。少なくとも十二月からは一度も来ていない」
「そうなんですね。よく、三年生に上がれましたね」
「出席点は正直ぎりぎりだったみたいだね。定期テストは受けていないけど、なんとか進学できるように前担任が計らってくれたと聞いてる。そこは感謝しないといけないよ?」
 しかし、日野尚樹は学校どころか家からも出ていなかったので、あのままだったら退学になっていたんじゃないだろうか。
「もともと、成績はどんな感じでしたか? 僕はあまり勉強ができないのでしょうか?」
「どうだろう。特別悪いとも良いとも聞いていない。通知表の成績でも平均点近くをさまよっていたようだね」
 勉強についていけなくなったということではないようだ。不登校になった要因は、学校よりも家庭にあるのだと想像できる。ほかにも日野尚樹の学生生活について質問したところ、山内先生が尋ねた。
「学校に興味があるのかい?」
 押しつけがましくならないような柔らかい口ぶりだった。僕は首を振った。
「そうか。今はその気がなくても、もし戻りたいのであればいつでも歓迎する。最大限協力もさせてもらうつもりだよ。学期の途中から復帰する場合、いろいろ大変だろうってことはわかっているからね」
 つむぎが、僕の背中をちくちくと押す。つむぎとしては、やはり学校に行ってもらいたいのだろう。鼻水が出てきたので、ティッシュで鼻をかむ。花粉症というのは想像より期間が長いらしい。未だに鼻が楽になる気配がなかった。
「ところで、白瀬さんとは知り合いなんだろう?」
 油断していたところに耳をつくその名前が、僕の思考を凍らせた。
「以前、白瀬さんが君のことを訊いたときがあった。どうして学校に来ていないのか、複雑な事情があるのか、なんてことを知りたかったみたいだ。当然、なにも答えてはいないけど、ずいぶんと君のことを心配していたよ」
「いつくらいのことですか?」
「十日ほど前だったと思う」
 僕が倒れた日よりも後だ。さすがに様子がおかしいと気になったのかもしれない。
「尚樹君の交友関係について詳しく知らないけれど、そうやって君のことを気にかけてくれる人もいる。困ったことがあれば相談してみるのも悪くないんじゃないかな」
「ありがとう、ございます……」
 不登校生徒を無理に学校に行かせようとは思わないが、学校に戻ってこられるのであればそうしてほしいというのが本音なんだろう。
 山内先生は学校に仕事を置いてきたらしく、戻らなければならないと告げて立ち上がった。母親とあいさつできなかったことを気にしているようだったので僕は言う。
「あの人とはたぶん会えないと思います。帰ってくるのは稀なので」
「……そうなんだね」
 僕らの関係性が引っかかっている様子だが、そのまま山内先生は帰っていった。
 玄関で見送ったあと、つむぎが上がり框の際に立ち、顔だけを後ろに向けた。嘘をついたことについて僕の反応をうかがっている。黙って僕の顔をじっと見ている。
「まさか、母親を名乗っていたとは思わなかったよ。普通、声でわからないかな?」
 僕がおどけてそう言うと、つむぎがほおを緩ませた。
「わたしね、電話に出るとき声が低いって言われるの。それで勘違いさせたみたい」
「勘違いしたのなら、そのままにしておけば都合がいいってことか。さすがに事前に言ってほしかったよ。心の準備ができない」
「言ったら、逃げるんじゃないかと思って」
 否定はできない。僕としては面倒な事態でしかないから、理由をつけて会わないようにしていた可能性はある。
「……まだ学校に行く気はない」
「わかってる」
「でも、行く日が来るかもしれない。そこについては、もうちょっと考えさせてほしい」
 他人の人生を背負って、学校という交友関係の色濃い場所に行く覚悟ができていない。日野尚樹のことをまだ僕はあまり知らない。この先どうなるかもわからない。朝倉圭人である僕が他人の人生に深く干渉するには、情報が足りなさすぎる。
 そろそろ晩御飯の時間だ、と僕が言うと、つむぎが、そうだね、と小さくうなずいた。
「ねえ」
 つむぎは、リビングに戻る途中で立ち止まり、一拍おいてから言った。
「白瀬さん、っていう人。あの先生が言っていたとおり、友達なの?」
「……そうとも言い切れない」
「わたしは覚えてるよ。お兄ちゃんが部屋から出てきて、外をさまよったとき、インターホンを押した家の表札にそう書かれてあった。あの家の人なんだよね」
 観念するしかない。僕はうなずいた。
「……もしかして、わたしに隠し事してる?」
 答えられなかった。顔を俯けていると、つむぎがごまかすように笑った。
「変なこと訊いちゃってごめんね。ご飯、一緒に作ろう」
「うん」
 僕らはそろってリビングに入り、今日は何を作るかという話題にシフトさせた。罪悪感はある。それでも、このことをつむぎに話すことは一生ないだろうと思った。



 BB☆FESTIVALSというアイドルグループは、主に都内で活動している。ライブハウスの活動からスタートし、野外コンサートや舞台を経て、テレビでの露出を増やそうと画策している売り出し中のアイドルだ。CDの売り上げは、まだトップテン入りしたことがない。
 横浜の千人規模のライブハウスを埋めたことがあったようで、その成長ぶりにSNSのファンが熱を上げていた。日野尚樹を調べるうえで、どういうアイドルなのかということは参考になる情報の一つだった。
 BB☆FESTIVALSが、CDの手売りイベントを実施するという情報を入手した僕は電車に乗って池袋までやってきた。西口公園には、すでにファンと思しき人たちが並んでいて、道行く人たちから奇異の目で見られていた。
 西口公園のステージのうえに、手売りイベントのためのテーブルや機材が用意されていた。このイベントは動画配信も併せて行うらしい。スタッフと思しき人は一人しかおらず、公園前に停めたワゴン車との間を繰り返し往復しながら準備を進めていた。
 手売りするのは新作のCDで、発売日がまさに今日らしい。事前に新曲のMVが動画サイトにアップロードされていたが、想像していたよりもいい曲だった。明るい曲調であり、五人のメンバーが踊っている澄んだ青空に包まれたビルの屋上も、雰囲気にマッチしていた。コメントがすでに数十件ついており、再生回数も三万回を超えていた。
 日野尚樹は、引きこもるまえからファンだったと思われる。部屋に飾ってあるポスターは、今から一年ほど前に作られたもので、ほとんど市場に出回っていないため、発売当時に購入していなければ入手は難しかっただろう。
 僕は、スマホで開始時間までの時間をつぶす。と、やがてファンの歓声が聞こえてきたので顔を上げると、メンバーと思しき五人が続々と僕のまえに現れた。
 ステージの横に並び、マイクを持った五人が一斉に頭を下げた。
「BB☆FESTIVALSです!」
 あいにくとアイドルを追いかけたことがないので、ファンの熱狂に戸惑う。一部のファンから、メンバーの名前を叫ぶ声が聞こえてきた。呼ばれたメンバーはその声に反応して手を振り返している。リーダーの女の子が、大きな声で言う。
「たくさん来てくれてありがとう~! みんなに会えてうれしいです! 今日は、たくさんファンのみんなとお話しできたらいいなと思ってます!」
 またもファンからの叫び声。テレビにたくさん出るようなアイドルじゃなくても、熱狂的なファンは結構いるらしい。いやむしろ、小規模だと距離が近い分、熱量も生まれやすいのかもしれない。
 ざっと見渡す限り、人であふれかえっている。あまり大きな公園ではないからほとんど隙間がない。五百人近くいるのではないかという気がした。
 ここに来るまでに、僕はある程度予習をしておいた。さきほどから話しているリーダーの子は、確か高階美玲。その左右に立つよく似た顔の子は双子であり、それぞれ三月かずさと三月あずさという。また、さらに横に立つ三つ編みの子が根元茜、反対側の端にいるショートカットの子が羽田陽子。ファンの歓声とその反応を見ても、記憶に間違いはなさそうだ。
 一人ずつ、今日の意気込みについて話し、それが終わるとさっき見たスタッフらしき男の人が言った。
「それでは、始めたいと思います。事前に整理券を入手している方からお並びください。整理券がない方は、申し訳ありませんがその後にお願いします」
 このスタッフは、おそらくプロデューサーではないだろうか。さすがに警備の人間を雇っているようで、警備服を着た二人が列の整理を始めた。僕は、流れを見て、整理券のないほうの列に並んだ。
 簡素なステージに五人のメンバーが並ぶ。左から上がって右に進むなかで、五人と握手をするという段取りのようだ。やたらと統制の取れたファンが一分ほどで列を形成し、すぐに手売りが開始された。
 簡単な手荷物検査を経て、一人ずつ壇上にのぼる。僕の番になるまで時間がかかりそうなのでスマホを見ると、やはり公式チャンネルから現在の状況が配信されていた。ステージの横にカメラやマイクが設置されているらしく、ステージ上の様子を確認することができた。
 横並びになったメンバー全員と握手できるみたいだ。一人あたり十秒程度の会話。配信の同接数は千人以上、コメントでは「かわいい」とか「俺も行きたかった」などと書かれていた。
 こういう場面では、どういうことを話したらいいのだろう。ファンです、応援していますとでも言えばいいのだろうか。人数と一人当たりの時間から逆算すると、まだ一時間くらいかかる。壇上の動きを見ているのもだんだんと飽きてくるし、足も痛くなる。引きこもりからバイト漬けの生活を送り、多少は体力も戻っているが、立ちっぱなしでいるのはやはりつらい。ときおり屈伸をしたり、背筋をそらしたりしながら、列が進むのを待つしかなかった。
 僕の番になったときには、足が痛くなっていた。適度に動ける状況ならまだしも、ぎちぎちに詰められた状態では体の負担が大きい。
 壇上に上がり、まず最初に握手をしたのは猫と茜だった。MVの感想などを伝えて、次に三月あずさ、その次に高階美玲、三月かずさとつづいていく。そして、最後に羽田陽子との対面になったときだった。羽田陽子が、僕の顔を見て、「あ」と小さく声を上げた。
 なにかおかしなことをしたのかと心配するが、間もなく、羽田陽子が言った。
「久しぶり~! しばらく見なかったけど、また来てくれたんだねー」
 ポニーテールの明るそうな子。確か、グループの最年少だ。僕の手を握ると、うれしそうに笑いかけてきた。そうか、と不意に悟り、無難にうなずき返すことにした。もしも、初期からこのグループを応援していたのであれば、日野尚樹のことを記憶しているメンバーがいてもおかしくない。
「尚樹くん、前よりも体が大きくなったんじゃないかな。応援してくれてありがとうね」
 名前を当てられた以上、羽田陽子の勘違いとも考えられない。
「今回の曲もすごくよかったです。いつも応援しています」
「う、ん。あれ? なんか雰囲気が変わったね。でも、うれしいよ」
「……雰囲気が変わりました?」
「前はなんといか……いやなんでもない。大人になったってことなのかな」
 次の人の番になったため、引きはがされてしまい、僕は買ったCDを手にステージから降りなければならなかった。西口公園の人だかりは、半分くらい削られている。購入を終えた人の一部は、まだ公園内に残っていた。大きな円を五つ重ねたモニュメントが空を区切っていて、日差しが隙間から差し込んでいる。イベントは、来たファン全員に手売りを行ったあと終了だと、告知の際に記載されていた。CDをリュックに入れて、さっさと帰ることにする。
 根強いファンは、サプライズでライブ等が行われることを期待しているのかもしれない。SNSにそんなことを書いているファンもいたと記憶している。ただ、どのみち配信されるのだから、わざわざここに残る意味はないだろう。
 駅の方角へ体を向けたところで、急に肩を叩かれた。
「あれ? ねえ、日野君?」
 声をかけてきたのは、無精ひげの生えた背の高い男性だった。顔つきから判断するに、三十は超えているだろう。男の足元から伸びた濃い影が、僕の足元に敷かれていた。
「日野君、だろ? なんだ、来ていたのか」
 その手にはCDが握られていたから、ファンの一人だと推測できる。この男も日野尚樹と同じく古参ファンで、そのときからの知り合いなのだろうか。
「以前よりも、ずいぶんと小奇麗になったもんだ。って、どうした? 俺のことを忘れたわけじゃないだろ?」
「いえ……」
 二十センチほどの身長差があるせいで、首の後ろを折り、目線を上に動かさなければ顔を見ることが難しかった。先ほど、羽田陽子に雰囲気が変わったと指摘されたばかりであるため、どのように反応するべきか迷う。
「なんだ、ほんとに忘れたのか?」
「いえ、忘れていません。山田さん」
「なんだ、その間違い方は。生意気なやつだ」
 冗談だと受け止めてもらえた。髪の毛をかき混ぜられる。
「では、佐藤さん」
「もういいって。溝口っていい加減言えや」
 名前を引き出すことに成功し、僕は安堵した。名前が分からないことがバレたらややこしいことになりそうだった。
「最近、全然姿を見なかったから死んだと思ったじゃねえか。なんだ、アイドルの追っかけは卒業するつもりか?」
「それなら、ここに来るわけないじゃないですか」
「ま、そりゃそうだ。どうだい、今回の曲の感想は?」
 僕は感じたことを正直に伝えた。と、溝口と名乗る男の顔が曇った。
「ふぅん。そうなんだ」
 日野尚樹らしくない発言だったのだとわかったが、なにがよくなかったのかわからない。
「日野君が来ない間に、またどんどん規模がでかくなったぞ。数年後にはテレビにバンバン出て、遠い存在になっちゃうかもな。知ってるか? かずとあずの動画がバズったこと」
「知ってますよ。入れ替えドッキリのやつですよね」
「そうそう。寂しいような、うれしいような、複雑な気持ちだ」
 予習が役に立っている。今後のBB☆FESTIVALSについて、溝口さんは延々と最近の躍進に語っていたが、やがて僕に向かって言った。
「このあと時間ある? 軽く飯でも食おう」
 抵抗感もあったが、日野尚樹のことを知る人と話す機会を無下にするわけにはいかない。
「いいですよ。ただ、あまり長くはいられません」
「おっけー」
 数分歩いたところにファミレスがあったのでそこに入る。僕がドリンクバーとパンケーキを頼んだのに対し、溝口さんはがっつりハンバーグセットを頼んでいた。
「俺のおごりなんだからもっと頼めばいいのに」
「お腹空いてないので」
「そんなんだから背が伸びないんだ」
 あいにくと自分の体ではないので何とも思わない。話しているうちに、溝口さんがスポーツ用品メーカーで働いていること、三十代後半の年齢であることがわかった。一方的に話す溝口さんに、僕があいづちを打つような形で会話が進んでいく。おかげで、ここ数か月の間に溝口さんに起きた嫌な出来事やうれしい出来事、溝口さんの家族の情報について一気に知ることになった。あまりうれしくはないけれど。
「それでさ、うちのおふくろがビービーうるせえんだわ。歳とると、やかましいのと上品なのに二分されていくのはなんなんだろうな。そのうち、あの子たちも歳とって、一人くらいはおふくろみたいなのになると思うと悲しくなるぜ」
「あの……」
「言いたいことはわかる。さすがに今の五人を見ていてそんな印象は受けないもんな。でも、人ってなにがあるかわからないもんだ。高校のときの友人がな……」
 のべつまくなしにしゃべりつづける。会話に穴ができるのを嫌がるタイプだろう。しかし、聞いている側としては口を差しはさむ隙がないので非常に困る。僕は、五分くらいその友人の反省について聞かされる羽目になった。
 やがて、ようやく溝口さんがコーヒーカップに手を伸ばし、束の間の沈黙が生まれた。
「ちょっと、訊いてもいいですか?」
「ん?」
 冷めたコーヒーをすすって、まずそうに顔をしかめている。
「僕が前に溝口さんに会ったのは、どれくらい前でしたか?」
 質問内容に眉を八の字にしたが、すぐに答えてくれた。
「八か月前じゃないかな。十月初めのライブ」
「そのときのことって覚えていますか? 最近、あんまり記憶力がなくて」
「そのときのことって、いったい何が訊きたいの?」
「どんなことを話しましたっけ?」
 十月は日野尚樹が引きこもる直前くらいだ。そのころに引きこもり始める予兆があったのではないかと思った。
「どうだったかな? 今みたいな感じで話していたと思うけど。そういえば、あのときと今では熱量が違うよね」
「熱量?」
「日野君は、ずいぶんと落ち着いたよ。今日、シングルの感想を訊いたときに驚いた」
 やっぱり、あの発言は日野尚樹らしくなかったようだ。溝口さんがコーヒーをかき混ぜる。
「前だったら、絶対に曲の文句を並べていたはずだからね。今まで曲をほめていたことなんて一度もなかったんじゃないか? 自分が作ったほうがいい曲になるとまで言っていたじゃないか。それなのに、急に曲調が、とか、ダンスが、とか薄い感想になったから、別人なんじゃないかとすら思ったよ」
「そ、そんなにいろいろ文句言ってましたっけ」
「言ってたよ。コード進行がワンパターンだの、アレンジにセンスがないだの」
 今回の曲も良かったと羽田陽子に告げたとき、戸惑った表情を浮かべていた。もしかして、アイドルに対しても曲の文句をつけていたんじゃないだろうか。悪い意味で印象に残るファンだから、他のメンバーは当たり障りのないことしか言わなかったのかもしれない。
「日野君はピアノを本気でやっていた人間だから、気になることも多いんだと思っていたよ。でも、さすがに大人になったんだな」
「そうです。大人になったんです。生意気だったと思います」
「で、本当の感想は?」
「本当です。いい曲だと思いました。それ以上のことは特にありません」
「日野君の辛辣な感想聞くの結構好きだったんだけどなぁ。自分がプロデューサーやりたいとまで言っていたのに、もうそこまでの熱はないのか」
 ポスターを貼ったり、スマホのストラップをつけたりしているから、かなりのファンだろうとは思っていた。しかし、想像していたよりも厄介なタイプだったようだ。
「ちなみに、十月のときに変なことはありませんでしたか?」
「さっきから妙な質問が多いなぁ。特になかったと思う」
「……そのときいろいろ悩んでいたので、相談していたような」
「……うーん。確かに」
 カマかけだったが、意味はあったようだ。溝口さんはしばらく考え込んでいたが、突如「あ」と声をあげた。
「お父さんに久しぶりに会えるんだって言っていたね」
「え?」
 日野尚樹の父親。譜面に残された「父さんとまた会える」という文字。十月、引きこもり始めた時期に、父親に会っていた。となると、その父親が引きこもるようになったきっかけなのかもしれない。
 溝口さんが言った。
「そういえば、今年が受験だったっけ。来年には大学生になるんだろうし、いつまでもアイドルの曲が悪いだなんて言っていられないよな。志望校は決めているの?」
 不登校であることはあまり言いたくなかった。曖昧にうなずく。
「どこを目指しているの?」
「東橋大学です」
「お?」
 つい、朝倉圭人だったときの感覚で言ってしまった。日野尚樹の学力とは釣り合わないかもしれない。
「じゃあ、これからは本気で受験勉強をするわけだ。アイドルよりも自分の人生だ」
「そうですね」
 どうにかして、日野尚樹の父親のことを調べられないだろうか。そうすれば、もっと日野尚樹のことを理解できる、と思った。


 秦野市役所に訪れたのは、朝倉圭人として転出届を提出したとき以来だ。一見病院のようにも見える白い建物であり、入ってすぐのところに戸籍謄本の窓口がある。僕はそこで、日野尚樹として戸籍謄本の取得手続きを行っていた。
 マイナンバーカードがあってよかった。二十分くらいで目的のものを手元に来た。僕は受け取ってすぐにその内容を眺めた。「戸籍に記載されている者」の欄。父のところに、しっかりと名前が刻まれている。
《日野 勝利》
 読み方は、かつとし、だろうか。また、母としては《日野 加奈子》という名前が記載されていた。続柄はやはり長男だし、特に違和感のある箇所はない。義理の父母であるというドッキリもない。離婚しているわけでもない。
 僕は戸籍謄本をしまい、駅前のカフェのなかに入ってから再度内容を見た。戸籍謄本を初めて見たが、思ったよりも情報が少ない。祖先や兄弟姉妹についても記載があると考えていたが、生年月日と両親、続柄の情報くらいしかめぼしいものがない。生年月日については、つむぎに教えられたものとぴたりと一致する。
 スマホで日野勝利の名前を調べた。すると、すぐにそれらしき情報に引っかかった。目に飛び込んできたのは、「指揮者」という三文字だった。
 アーティストの情報をまとめたウェブサイトに、日野勝利のことが書かれている。1969年に広島県で生まれる。有名音大を卒業後、指揮者コンクールに入選。ドイツの小規模な楽団にて指揮者として活動。そこから活動範囲を広げていき、数々の楽団で指揮を経験している。
 この人が本当に日野尚樹の父親なのか、同姓同名の別人なのか。広島県出身ならば、本籍地は秦野ではなさそうだ。親の戸籍謄本を取得することは可能らしいが、すぐに受け取るのは難しいみたいだった。
 もう少し著名な指揮者であれば詳しい情報を得られるのだろうけど、そこまでの有名人ではないらしく、プライベートな情報を載せているサイトが見つからない。あとは、つむぎに直接訊くしかないのだろう。ただ、日野尚樹がピアノをやっていたこととの関連性があるし、年齢からしても父親としておかしくないと考えられた。
 さらに、日野勝利の情報を調べる。めぼしいものを探していると、一つのネットニュースにぶち当たった。
【ベテラン指揮者、酔っ払って通行人に傷害】
 内容はこうだ。二十五時くらい。東京の繁華街にて、騒いでいたところ通行人が注意。それに対して怒り狂った日野勝利が、押し倒して殴り、相手の肩の骨を折るなどのけがを負わせた。日付は昨年の九月二十一日だった。
 それ以外に記事がないか探したが、特に見当たらなかった。おそらく、これがもっとも日野勝利の人間性を推察できる情報だろう。無論、酒によって人格が変わることもあるから、すべてを推し量れるわけではないけれど、なかなかにクセのある人物であることは想像できる。
 家に戻った僕は、つむぎに早速尋ねることにした。晩御飯を作る途中、なにげない会話にまぎれて、僕は言った。
「ねえ、僕の父親は指揮者の人だったのかな?」
 にんじんを切っていたつむぎの手が止まった。
「当たってる?」
 つむぎはうなずくと、言葉を返すことなくまた包丁を動かしはじめた。あまり触れてほしくない話題なのだとわかったが、かまわず訊くことにする。
「日野勝利。結構、経験豊富な人みたいだね。この家で見かけたことはないけど、どこにいるんだろう」
「どうして……お父さんのことがわかったの? 思い出したわけじゃないでしょ」
「部屋のなかに、父親について書かれたものがあったから」
 嘘だ。戸籍謄本まで見たと言ったら変に思われるかもしれないと勝手に考えた。
「それと、記憶を失うまえはずいぶんと父親のことを慕っていたみたいだ。父親のことについて知っていることがあれば教えてほしい」
「さあ。なんにも知らない」
「そんなことはないんじゃないか。父親なんだから」
「知らないものは知らないの。それよりも、野菜は切ったからお肉の準備してくれない?」
 冷凍庫から豚肉を取り出し、電子レンジで解凍しながら僕は言った。
「つむぎは、父親のことが嫌いなのか?」
 おそらくそうなんだろうと思った。日野尚樹が尊敬し、慕っていたからこそ、また父親と会って心理的ショックを受けることを危惧している。僕自身、引きこもるきっかけに父親が関連しているのではないかと疑っていた。他人の家庭だなんだと言っていられる状況ではないし、つむぎには申し訳ないけど少しでも情報を集めなければならない。
「不安に思わなくていいよ。今の僕に、父親をリスペクトする気持ちはない」
 ようやく、つむぎが「好きじゃない」と認めた。
「僕は、過去になにがあったか、ただ知りたいだけなんだ。ずっとなにも知らないままでいるのはやっぱり不安だし、恐ろしい。母親との関係も良好ではないようだし、どう振舞うべきかがよくわからない。だから、最低限のことだけでも教えてくれないか?」
「最低限のこと?」
「うん。どんな人なのか。どうして、この家にいないのか」
 思えばアルバムなど、家族写真すら見当たらない。ピクニックに行ったことがあるとつむぎが教えてくれたとき以外、父親が話題になることはなかった。ただ、そこからわかることは、この家にも平和な時代があったということである。
 この家は、とても広い。なのに、ずっとここに暮らしているのは僕とつむぎの二人だけだ。父親だけではなく、母親すらもめったに帰ってこない。リビングに置かれた四脚の椅子は、いつも寂しげに浮き上がっているし、戸棚に置かれたもう二人分の食器は、普段使用されないから奥に置かれていて、父親のものと思しきものについては一回も使用された姿を見ていない。さらに、日野尚樹が部屋に引きこもっていたときには、僕でさえ一階に降りることはなかった。
 僕が初めてこの家で目覚めたときの印象は、とても暗いということ。天井に設置されていたはずの蛍光灯早く目を果たしておらず、昼も夜もないような異様な雰囲気だった。僕は自分の家から逃げて、白瀬の家に入り浸っていたけど、つむぎの場合は逃げ場所もなかったんじゃないかと思う。そこには、いるべき人の空白が大きく関係しているのだろう。
「昔は、とても優しかった。あまり覚えていないけど、確かそうだったはず」
 ピクニックだけではなく、家族で遊園地に行ったり、旅行に行ったりしたこともあったそうだ。しかし、それはつむぎが小学校低学年のときまでで、しだいに家族がそろう機会はどんどん減っていたということらしい。
「お兄ちゃんはピアノをずっとやっていたから、コンクールに家族で行ったことも何度もあった。お父さんからは目をかけられていて、厳しく指導されることもあったようだけど、いつもお兄ちゃんのことをほめていたよ」
「……やっぱり、父親の影響でピアノをやっていたんだ」
「うん」
 つむぎは切った野菜をザルに入れて手を洗った。透明な水音が響いている。レバーを下ろすと水音が止まり、つむぎはタオルで手を拭いた。
「お兄ちゃんは、『雨だれ』を聴いていたことは……覚えてないよね」
「ショパン?」
「そう。わたしの一番好きな曲。お兄ちゃんも、すごく好きだった。二人でね、水無川のそばで寝転んで、イヤホンを分け合って聴いてた。静かな曲で心が落ちつくの。あのころが、一番幸せだった。よくお兄ちゃんも言っていたんだけど、音楽と景色はセットなの。緩やかに風が流れているなか、桜に囲まれたあの場所で、葉のこすれる音と合わせて聴くのがすごく気持ちよかった」
 大事な思い出なんだろう。つむぎの表情が穏やかだった。もしかしたら、そんな仲睦まじい兄妹の横を通り過ぎたこともあったのかもしれない。同じ秦野という場所にいながらも、当時の僕らは別々の人生を歩んでいた。
「でもね、だんだんとそれが変わっていった。お父さんが酒におぼれだしたころから、徐々に変なふうになっちゃった。みんな苦しんでた。お父さんがお家にお金を入れなくなってきて、お母さんが働き出して、お兄ちゃんはピアノのコンクールで結果が出なくなってきた」
「そのころに、父親になにかあったの?」
 つむぎは首を振った。
「実を言うとね、わからないの。お父さんのことはお父さんにしかわからないと思う。ただ、酒癖がほんとによくなくって、いつも暴れてた。だから、私はお父さんに近寄らなかったし、お母さんも呆れてた。お兄ちゃんだけ、そのうちに元のお父さんに戻ることを期待して、いつも面倒を見ていたよ」
 家族の歯車がかみ合わなくなる。それは僕にも経験がある。だから、つむぎの気持ちが痛いほどによくわかった。日野尚樹と違い、僕は向き合うことをしなかった。向き合ってもいいことがないとわかっていたし、一度壊れたものが元に戻る姿が想像できなかったし、自分自身、元に戻ってほしいと願わなくなった。
「酔ったお父さんが吐いたあと、それを掃除することもあった。暴れたお父さんに叩かれてもそれに耐えていた。愚痴も聞いていたし、お兄ちゃんのおかげで収まったこともあったけど、どんどんお父さんは悪化していった。それに伴って、負のスパイラルが始まるの。お母さんはいつもイライラしていて、わたしたちとろくに話さなくなった。お兄ちゃんは疲れてきて、ピアノの調子もどんどん悪くなって、ピアノの結果が出なくなるとお父さんはさらに荒れた。お父さんの酒の量が増えると、お兄ちゃんがまた面倒を見て、お母さんは家に寄りつかなくなって、その繰り返し。家族みんな会話がなくなっていくし、疲弊していくし、どんどん家のなかが暗くなった」
「つむぎは?」
「わたしは、混乱してた。どうしたらいいかわからなかった。でも、まだ終わっていないって思ってた。いつか噛み合う日がくるんじゃないかって。うまく行くときがくるんじゃないかって。でも、そんな日は、ずっと来なかった。お兄ちゃんみたいに頑張っていなかったけど、どこかでそうなるって夢を見ていた」
 いったい、何が悪かったのか、どこでずれてしまったのか、振り返ってみてもわからない。僕のときもそうだった。だけど、こういうときにまた噛み合うことはほとんどない。そして、今、ここに父親がいないことがその証左なんだろう。
「お兄ちゃんが引きこもるようになったあとも、わたしはいつか出てきてくれることを信じてた。できることはほとんどなくて、ご飯を用意したり、ときおり声をかけたりすることくらいだったけど、いつか届く日が来るって思ってた。想像していたよりも違う形だったけど、叶ったとわかったときはすごくうれしかったよ」
「……ごめん」
「どうして謝るの?」
「わかっているだろう。僕は、つむぎの望んでいたお兄さんじゃない」
「ううん。お兄ちゃんはお兄ちゃんだよ」
 豚肉の解凍が終わり、電子レンジから音が鳴る。僕はごまかすように電子レンジから豚肉を取り出した。石みたいに固かった肉がゴムみたいに柔らかくなっているのを確認する。
 僕がもしも過去の自分になんの未練もなければ、日野尚樹として、この家のためにできることに尽力するのかもしれない。でも、僕は朝倉圭人であることをやめられない。白瀬家で味わった温かい感情を知ってしまっているから、それをあきらめることができない。朝倉圭人としての感情や思いが残りつづけて、目の前に存在する人たちのことを自分事として受け止めることができない。つむぎのことだって、僕は妹として考えることはできない。
 騙さなければ。騙しつづけなければ。表面上は記憶を失った兄としてふるまいながら、朝倉圭人としての自我を保ち、朝倉圭人として生きる道を模索する。思えば、半分元に戻ることをあきらめながらも日野尚樹のことをすぐに調べようとしなかったのは、自分の存在と切り離さないといけないという抵抗感の現れだったのかもしれない。個人情報のあふれるスマホやPCを共有してしまったら、僕と日野尚樹の違いがどんどん薄まってしまう。日野尚樹として目覚めた日に書き留めた自分の記憶に関するメモは、ずっと僕の財布の中にしまい込んでいる。僕は、そのメモと朝倉圭人としての意志のみをよりどころに、これからも偽物の人生を歩みつづけなければならない。そして、どんな形であっても、自分の人生を取り戻す必要がある。
「そうだな。記憶がなかったとしても、僕はつむぎの兄だ。今はそれを自覚している」
「うん。お兄ちゃんがいれば、わたしは平気。前にも言ったとおりだよ」
「つむぎにそういう思いをさせないようにする。兄の務めだ」
「ありがとう」
 僕らは料理を再開する。
 フライパンで野菜を炒めながら、僕の目はどこか遠いところを見ていた。いつだって、僕の脳裏には幸せだったときの日々がこびりついている。朝倉圭人として十八年ほど生きて、そのうえで手に入れたものと、ほんの二か月ほどの間に押しつけられたものを天秤にかけたなら、どうしたって前者に思いが寄るのは当然のことだ。
 ――朝倉さん。
 初めて弘香が僕を呼んだとき至近距離で僕を見ていた瞳。三年ほどの宝石のような日々は、胸のなかで今もてかてかと美しく光り輝いている。



 弘香が倒れて入院したと聞いた日から、僕は白瀬家にまったく立ち寄らなくなった。さすがにそんな大事になったのに、他人である僕が入り浸るわけにもいかない。ただでさえ、再婚という大きなイベントがあり、新しい家族を形成する大事な時期だ。美帆や正隆さんは、それでも「遠慮するな」と言ってきたけど、それは二人がおかしいのであって常識としてもう負担をかけるわけにはいかないと考えていた。
 ところがある日、授業が終わったあと、高校から出た僕を正隆さんが待ち伏せしていた。
「乗りなよ」
「……お久しぶりです。ええと、どこか行くんですか?」
「ま、お茶でもしよう」
「はぁ……」
 僕は仕方なくロールスロイスの助手席に乗り込んだ。静かな発進音。車内には、やたらと古臭い洋楽が流れていた。
「いつから待っていたんですか?」
「四十分くらいかな。授業がいつ終わるのか覚えてなかったからさ」
「電話してくれればよかったでしょう」
「電話しても、最近あまり出ないじゃん」
 そのとおりだったので口をつぐむしかなかった。信号で車が停まったとき、僕の二の腕の裏が湿っているような感覚があった。あわてて思い当たる部位をまさぐると、絆創膏がいつの間にか取れていて、傷口からじわじわと出血している。
「ダッシュボードにタオルがあるから拭いておくといい。清潔に保ってある」
 バレてしまった。僕は恥ずかしくなり、顔をうつむけながらも、言われたとおりにした。
 カフェの近くの駐車場に停めたあと、正隆さんは後ろの席からビジネスバッグを手に取り、中から新しい絆創膏を出すと僕に渡した。
「なんで持っているんですか?」
「その癖、まだ直っていないんだろうとあらかじめ想定していたのさ」
 圧迫して、血が垂れないように絆創膏を貼りなおしてから店内に入り、テーブル席で向かい合う形で座った。正隆さんは、運ばれてきたコーヒーに砂糖とミルクをドバドバ入れている。
「どうしてうちに来ない?」
「前にも言ったでしょう。僕がいると邪魔だと思うからです。今は、白瀬家にとって重要な時期だし、他人の僕がいていいわけがない」
「そんなことないんだけどなぁ……」
 このあとアルバイトを入れていたから、どこかのタイミングで切り上げないといけない。
「仕事はいいんですか?」
 僕の質問に、正隆さんは嫌そうに笑う。
「大丈夫だ。夜に少し用事があるけど、今は空いているから。出なければわざわざこんなところまでは来ない。特殊な職業だから、昼イコール忙しいということじゃない」
「そうですか」
「バイトか?」
「わかっているなら話は早いですね。二十分くらいでここを出ないと」
「休んじゃえよ。体調が悪くなったと言えば、向こうも無理はさせられないはずだろ」
「その分、時給が発生しません」
 正隆さんがため息をついた。学費のためにバイトをしていることは、正隆さんも知っていることだ。とはいえ、白瀬家から足が遠のくようになり、食費がかさんでいることも事実である。
「疲れているだろう。たまには休んだって大きな問題はない。久しぶりにうちに来て、ご飯を食べたり、くつろいだりすればいい」
「迷惑になりますから」
「うちのことはいいんだよ。どうせ広い家で、使いきれないんだ。むしろいてくれないと寂しいくらいだし、美帆もそうしてくれることを望んでいる」
「あの二人はどうでしょう? 望んでいないのではないですか?」
「圭人」
 真剣な話をするとき、正隆さんは僕の下の名前を呼ぶ。目力の強さや顔の迫力から、やはり政治家なのだと思い出させられる。その肩幅に、大人としての大きさを感じさせられる。
「他人のことを、気遣っていられるような状況なのか?」
 腕に視線が移ったので、僕は下を向いて絆創膏に手を触れた。
「でも」
「でもじゃない。圭人が気にする必要はない。そういう細かいことは、わたしに任せておけばいい。高校生なんてまだ子供だ。子供は、大人に任せておけばいいんだ」
「僕は、美帆と幼馴染というだけで、あくまで他人です」
「私は、他人だなんて思っていない。だから心配になる。せめて目の届く範囲にいてほしい」
 うれしい言葉だった。だからこそ、甘えるのが怖いと思った。
「私にも問題があった。もっとしっかり事前準備をしておくべきだったかもしれない。逆に、行き当たりばったりのほうがうまくいくと思っていた。そこは考え直すつもりだ」
「はい……」
「それだけじゃない。チロのこともある。現状、チロをうまく扱えるのは圭人だけだ。美帆にも私にも懐いてくれなくて困っているんだ。手を貸してほしい」
「チロのため……?」
「そうだ。ひとまず今日だけでもいい。うちに来なさい」
 十秒程度の逡巡ののち、僕は正隆さんの言葉に従うことにした。バイト先には風邪をひいたと嘘をつき、正隆さんに連れられるがまま白瀬家のなかに入った。
 ここに来るのは一か月ぶりくらい。玄関の三和土には、あの女の子のものと思しき靴、再婚相手の女性のものらしき靴が置かれていて、二人とも在宅であるらしいことがわかった。
「いい。遠慮しなくていい。あの二人にもいろいろ事情があるのは確かだ。でも、だからこそ私たちは仲良くなれると思っている」
 靴を脱いだ。無理だとわかれば、さすがの正隆さんもあきらめるかもしれない。居間には誰もいなかったので二人を探していると、すぐに奥の広縁に腰かけた親子の姿を見つけた。弘香は僕といたときとは違い、楽しそうに笑いながら母親と話している。
 正隆さんと再婚した佳織さんは、やはり足の状態がよくないらしい。ストッパーがつけられた車いすが、解放された窓の横に置かれていた。雲間に半ば隠れた日差しに照らされている。
「ちょっといいかな」
 正隆さんの声に二人が反応する。佳織さんは僕らを見て穏やかに笑みを浮かべるが、さっきまで楽しそうにしていたはずの弘香からは笑顔が消えた。やっぱりだ、と僕は思った。
 ここは僕のいるべき場所じゃない。僕が割り入っていい空間ではなかった。
「話している途中にごめんね。ちゃんと紹介をしていなかったから、もう一回改めて、二人に紹介したい人がいるんだ」
 正隆さんが二人の前にしゃがみこんだ。後ろに立つ僕は、表情の作り方がわからず戸惑う。今日の僕はチロのブリーダーとして来たのだと自分に言い聞かせる。
 と、急に正隆さんに腕を引っ張られた。床がツルツルしているので、つまずきそうになる。
「朝倉圭人くんだ。美帆が幼稚園児だったときからずっと仲良くてね。私にとっても家族みたいなものなんだ。そのうちに美帆と結婚するかもしれないし」
 聞き捨てならない言葉に、僕は反論するしかなかった。
「付き合ってもないのにそんなわけないじゃないですか……。すみません。前にも言ったように、ただの幼馴染です。今日は、チロの様子を見るために来ただけです」
 佳織さんは、前髪を持ち上げながら言った。
「最初に会ったきりだったから、気になっていたんです。変に遠慮させてしまったんじゃないかって。わたしたちのことは気にせずに来ていただいても大丈夫ですよ」
「ありがとうございます」
 僕の目は、憮然とした表情の弘香に移る。弘香が倒れたと聞いたとき、僕は自責の念に駆られた。不安定な時期に他人である僕の存在は、負担だったのではないか。
「ごめんね」
 弘香に向かって小さくつぶやくと、弘香は一瞬だけこちらを見た。
 僕は、居間に戻った。買い始めた当初と違い、美帆の部屋から居間に飼育ケースが移動している。美帆も部活などで忙しく、面倒を見られる人が見たほうがいいからだ。
 一か月ぶりの僕の登場にもかかわらず、チロは相変わらず僕に懐いてくれている。ソファで抱きながら座ると、気持ちよさそうに体を預けてきた。
「さすがだな。私と美帆じゃこうはいかない」
「慣れですよ。たとえば、このへんをくすぐってやると喜ぶんです」
 顎の下をゆるく撫でるのと同時に、チロは喉を鳴らしながら目を細めた。
「エサはもうあげましたか?」
「どうだったかな? 最近、弘香ちゃんがメインで面倒を見てくれてるんだ。弘香ちゃんにも結構懐いているからね」
「そうなんですね」
「弘香ちゃんに訊いてみたらどうだい?」
 僕は、自分が考えていることを正直に話すことにした。特に弘香から警戒されていること、この時期に僕のような部外者がいることが、弘香に精神的負荷をかけてしまったのではないかと考えていること。
「一度倒れたのは事実だ。精神的な負荷も要因の一つだろう」
「であれば、また負荷をかけるようなことをすべきではないと思います」
「でも、それは圭人の存在だけが問題だったわけじゃないはずだ。私だって同じだ。それでも少しずつ話をして、今では多少警戒を解いてくれている」
「僕にも同じようにしろと?」
「ああ。そうすれば、圭人が遠慮する理由もなくなるだろう」
 いったんチロを飼育ケースに戻し、さっきの広縁の近くに足を運んだが、すでに弘香は部屋に引っ込んでしまったらしく姿が見えなかった。すぐそばの引き戸にさえぎられた場所が、弘香に割り与えられた部屋だったと記憶している。僕は、軽くノックをしてみた。
「いる? 朝倉だけど」
 返事がない。引き戸越しに物音は聞こえるから、中に人はいるのだろう。佳織さんだったら返事をしてくれそうなので、いるとしたら弘香だと思った。
 もう一度声をかけても返答がなかった。そのとき、白く塗られた引き戸をまじまじと見ていて思いついたことがあった。居間にいる正隆さんにお願いして、紙とペンを用意してもらう。
《急にごめん。今日、チロにエサをあげたタイミングを教えてほしいんだ。僕が面倒を見ていたときは、朝昼晩に少しずつエサを出していたんだけど、今エサを出すべきか迷っている。》
 書いた紙を折りたたみ、さっきの弘香の部屋の前に戻る。そして、引き戸と枠の間にできたわずかな隙間に押し込んで、その紙を差し入れた。紙とこすれて、かしゃりという小さな音が響く。隙間の向こうに行った紙の角が、畳にぶつかったのが少しだけ見えた。気づいただろうか。隙間から顔を離して立ち上がり、居間に戻る。
 それから数分待ってから、再度弘香の部屋の前に行った。と、さっき差し入れたところに、折りたたまれた紙が返ってきていることに気がついた。その紙を開いてみる。
《正午くらいにエサを与えたので、今は必要ないと思います》
 僕の書いた位置より下に、ちゃんと文字を書いてくれている。僕はほっとした。返事もなく突っ返されたらどうしようかと考えていた。さらに下にペンを走らせる。
《ありがとう!》
 隙間からまた紙を入れる。対面ではまともに会話できない弘香だけど、筆談であれば成立するというのは大きな発見だった。そういえば、今日は平日だし、学校があるはずだ。正午にエサを与えたということは、学校に入っていないということだろうか。そんなことだけが気にかかっていた。
 それから十日後、僕は再び白瀬家に訪れていた。遠慮する気持ちは変わっていないけど、また正隆さんに待ち伏せされるのは嫌で、顔を見せることにした。あのロールスロイスが正門の前に停まっていたとき、異様に目立っていたから勘弁してもらいたかった。
 しかし、弘香は僕と顔を合わせたがらず、やはり部屋のなかにこもってしまう。僕は、また紙を入れて反応をうかがうことにした。警戒させないようにするにはチロの話題がいいだろうと思い、こう書いた。
《最近、チロに変わったことはある? 飼いはじめたときは体調をよく崩していたから。》
 また一つ発見があった。僕がいったんその場を離れないとダメらしい。数分くらい別の場所に行き、帰ってくると律儀に返事を書いてくれる。
《三日前は、食欲が少なかった気がします。病院に連れて行くべきか迷いましたけど、翌日には回復していたので様子見しています》
《僕も気をつけて見てみるよ。かかりつけの動物病院はわかる?》
《わかりません。》
《藤林動物病院ってところ。ここから車で十分くらいの場所にある》
《そうなんですね。調べたら出てきました。》
 紙での応酬は、思ったよりもスムーズだった。それでもやはりこれは対面じゃないから成り立つことで、また部屋に入ろうとしたら拒絶される気がした。
 さらに一週間後にも、バイト帰りに白瀬家に立ち寄った。弘香とのやりとりを経て、少しくらいはまたこの家にお世話になってもいいのではと思うようになったからだ。僕の存在の有無にかかわらず、基本的に弘香は家にいることが多いのだと正隆さんからは聞かされた。学校にもやはり通ってはいないらしく、ごくまれに保健室に登校することはあるようだった。
 チロについての話題ののち、僕はこんなことを書いてみた。
《僕のことが怖い?》
 紙を渡すとき、迷った。チロの話題を外れて、弘香が返事をしてくれるか自信がなかった。でも、僕のなかに弘香のことを知りたいという気持ちが芽生えはじめていた。
 僕の懸念とは裏腹に、すぐに紙は引き戸の手前側に返ってきた。
《ごめんなさい。》
 その謝罪は、僕の質問に対する答えを如実に表していた。
 過去に、なにかがあったのだろう。美帆に無害と評されている僕にまで恐怖心を抱くほどなのであれば、つい最近まで赤の他人であったこの家に住まうのはどれだけの負荷なのだろう。一度倒れた理由も、そこと関連しているのかもしれない。
 さらに思い切って訊いてみた。
《この家に僕が来ることは、やっぱり嫌?》
 しかし、その下に弘香が書いた文字は、こんな三文字だった。
《大丈夫》
 ずっと、弘香に冷たい印象を受けていた。しかし、本当はそんなことはないのかもしれない。警戒心が人一倍強く、そんな印象を与えてしまうだけで、その奥にある心境はもっと柔らかいものなのかもしれない。
 僕は話題を軌道修正し、当たり障りのない内容に戻した。こんな形のやりとりが弘香にとって望ましいのであれば、それをつづけていくしかない。
 結局、僕は正隆さんの思惑通り、また白瀬家に入り浸る機会が増えた。遠慮して遠ざかっていたけれど、僕としてはとてもありがたいことだった。自分の家にいる間にこみ上げる感情は薄れ、穏やかな気持ちで過ごすことができる貴重な場所だ。もしかしたら、弘香も僕の事情をある程度聞いていたのかもしれない。だから、僕がここにいることを許してくれたのではないかという気がした。
 白瀬家に来るたびに、僕は必ず一回は弘香とコミュニケーションをとるようにしていた。チロのことだけでなく、小説や音楽について言葉を交わすこともあった。口頭の対話よりも時間はかかるけれど、その分、一つ一つの言葉に本心がつづられているような感じもあり、色濃いやりとりができるように感じられた。
 特に、僕が弘香に文字を書くのは、白瀬家に上がった直後と帰る直前だった。僕が来たことや帰ることを伝えることを考えると自然とそうなった。
 紙でのやりとりが増えるにつれて、弘香は僕が近くにいても返事をするようになった。少しずつではあるが、僕を信用してくれたということだろう。夜、広縁に腰かけて、ぼんやりと風に吹かれていると、心のなかにある汚泥がぬぐわれて、涼やかに洗われるような感覚がある。時間がゆったりと流れて、一回一回の呼吸が胸に染み入るのをじっくりと覚える。僕と弘香の間に声を介した受け答えはないから、その時間、僕は静寂のなかに浸かることができた。
 お互いに詳しい事情までは知らなくても、僕と弘香はどこかで似ていると直感していた。弘香も、そう感じているのではないかと思った。自分の家のなかではあまり寝られないくせに、ここにいるときは気持ちが凪いで、自然と眠気に襲われる。体に刻み付けられた傷跡の痛みに頼らなくても、頭には、風のない日の湖のような緩やかな波紋が広がるだけだ。
 いつしか、僕と弘香は、自分のことを紙に書き記すようになった。たぶんそれは、直接顔を合わせるとできないような核心に近い部分についての話だった。
 ある日、弘香から受け取った紙に書かれていた。
《わたしは、小学生のとき、教室の水槽で飼っていたグッピーが苦手でした。》
 僕は、そのときにはいろんなことを弘香に教えてもらっていた。弘香が、人を、特に男性を恐れるようになったのには深い事情がある。そして、弘香の心情を書き表したのが、そんな言葉だった。
《いえ、もしかしたら、それに限らず飼われた動物や生き物を見ること自体が嫌だったのかもしれません。初めて教室に水槽が置かれて、そこに泳ぐグッピーを観察していたら、ずっと同じところをぐるぐる泳ぎながら、口を小さく動かしていたのです。その目はずっと大きく開かれたままで、ときおり左右に傾けて、水槽を眺めるわたしたちに怯えているように感じられました。みんな、かわいいかわいい、大事に育てようとか言い合っていても、その言葉が魚に届くわけがないし、空気の振動としか感じられないでしょう。大きな顔をして、大きな目玉を持った人間に囲まれて、必死にそこから逃れようとして、でも、逃げ場所もなくて、ずっと同じ場所をさまよっているように、わたしの目には見えました》
 こんな不器用なやりとりを経ながらも、本当の意味で距離を縮められたのはそのときだったのだろうと思う。正直に自分のことを伝えようとするその言葉に、僕は読み入ってしまった。
《でも、たぶん同じだったんです。だから、ああ、わたしの世界ってこんなものなんだって、わかるのがつらかったのだと思います。当時はわかりませんでしたが、わたしもおびえていたんです。小さな箱のなかで、外にあるいろんなものが怖くて逃げたくて仕方なかったのに、逃げ場所などどこにもなかったんです。世界は残酷で、常に嵐が吹き荒れていて、どれだけ耳をふさいでも目をつむっても、助けてくれる人なんでどこにもいない。その事実が、わたしの眼前に突きつけられたような感じがして、わたしは恐怖したんだと思います。そして、今も変わっていません。わたしにとっては、ずっと嵐が吹き荒れているんです。もう嵐は収まったのだと知っていても、そう思うことができません。》
 僕は想像する。弘香はどんなふうに生きてきたのかということを考える。僕は僕で、嫌なこともいっぱい味わってきたし、弘香と同じような気持ちになったこともあるし、そのなかで、美帆や正隆さんに救われながら懸命に今を生き延びていた。空に浮かぶ満月が、澄んだ空気にさらされていた。今、弘香にとってこの世界はどんなふうに見えているのだろう。どんな言葉をかければ、弘香の不安や恐怖を和らげることができるのだろう。そんなことを考えているうちに、僕はペンを走らせていた。
《言いたいことはわかる気がする。僕にとってもこの家は大事な逃げ場所で居場所だし、美帆に連れてこられなければもっと苦しかったんだと思う。》
 空白がなかったし、その場を離れたくもなかったので、そこで文を区切った。紙を渡すと、新しい紙に記してまたこちらに渡されてきた。
《少しだけ、美帆さんから聞きました。朝倉さんも、この家に救われたのですね。》
《うん。美帆は、ああ見えておせっかいなところがあるから。》
《確かにそうかもしれません。いつも私のことを気づかってくれます。》
 冷たいようでいながら、他人のことをよく見ている。ドラッカーの本あたりに、そのようなことが書かれているのだろうか。
《学校に行っていないって聞いた。それについて何か言いたいわけじゃない。もしも、愚痴を吐く相手がいないんなら、僕を使ってくれていいよ。一応、年上だし。》
《美帆さんと同じ歳ですよね。であれば、わたしと二歳差です。》
《中学二年生か。もともと学校もこのあたりなの?》
《いえ、もともとは北海道に住んでいたので、お母さんの再婚からです。あまり秦野のことをよく知らないので、今度教えてください。》
 こんなにたくさんの言葉を交わすのは、その日が初めてのことだった。いつもであれば多くても五回くらい。それでも不思議と楽しくて、書いて引き戸のなかに入れ、受け取るや読んで返事を考える作業を何回も繰り返した。
 本当であればもう帰る時間だ。眠気がますます強くなる。この家の安心感と、普段の寝不足からまぶたがどんどん重くなる。でも、せっかく仲良くなれたこの機会を逃したくなくて、言葉が尽きるまでこのやりとりをつづけようと思った。
 やがて、こんな文章が届いた。
《朝倉さん。わたしが来て迷惑ではないですか?》
 驚いた。しばらく考え込んでいたら、別の紙でまた引き戸越しに送ってきた。
《わたしがいたせいで、朝倉さんはここに来にくくなったのでしょう。ずっと謝りたいと思っていたんです。》
 ああ、そうか。僕のなかで腑に落ちたような感覚があった。
 親が再婚したからといって、この場所にいることを当然と思えるわけじゃない。弘香も、僕と同じように他人であるという意識を抱えながらここにいる。僕がいるときに僕と顔を合わせなかったのも、もしかしたら僕に遠慮していたからだったのかもしれない。まだ、中学二年生の女の子で、僕よりも二つ歳下で、世界のいろんなものが大きくて広くて、その巨大さに押しつぶされそうな気持ちで生きている。僕は、そのことを見誤っていたのだと思った。
 僕は目をつむり、自分の考えを整理する。やがて、ペンを取り、こうつづった。
《正隆さんも、美帆も、佳織さんも、弘香もいるこの場所が、僕の居場所なんだと思う》
 紙を部屋に差し入れて、僕は膝を抱える。
 心のなかが一気に緩んでいくのを感じた。膝に回した掌が、デニムの冷たい生地をつかんでいる。正隆さんには遠慮の言葉を並べながらも、僕はずっとここにいたかった。この家から、僕の大事な場所から、距離を取りたいなんて思っていなかった。できることならば、僕に安らぎを教えてくれたこの場所で、生温い気持ちに包まれながら生きていたかった。
 ――それで、よかったんだ。
 膝頭に押しつけていた額を持ちあげ、目を開き、大きく息を吐く。開放された窓から、オリーブの枝葉がこすれる音が聞こえてくる。寝てしまったら、返事が来ても気づくことができない。だから、起きた状態で待つ必要がある。
 しかし、僕のまぶたはどんどん重くなるばかりだった。眼球の表面が乾いて、目に映る夜空やオリーブの木や橙色の照明がぼやけて、遠のいていく。引き戸の奥に紙を入れてから、もう五分ほど経とうとしている。僕はとうとう意識を保てず、膝を抱えたまま眠りに落ちてしまった。

 それからどれくらい経っただろう。
 自分が寝ていることにも気づかず、薄く張られた夢のなかに漂っていた。どんな夢を見ていたかなんてまるで覚えていない。ただ、なんの不安もなく、いろんなことを忘れて、穏やかな眠りについていたことだけは覚えている。
 急に意識が浮かびあがり、徐々に視界が明確になってくると今度は隣に人の気配を感じた。
 引き戸が半分くらい開いているのか、僕の背中側から光が漏れている。広縁の天井に吊るされた明かりとは違うもう一つの光が、僕の斜め前に薄い影を作っていた。
 左に顔を向けると、美帆でも正隆さんでもない、あどけない女の子の顔が近くにあった。
「あ……」
 僕が目を覚ますと思っていなかったのか、口を小さな丸の形に開き、僕の顔をじっと見つめていた。それから言う。
「朝倉さん」
 二か月ぶりくらいに見た弘香の顔。そして初めて僕に呼び掛けるその小さな声は、僕の耳に、ゆっくりと滑らかに響いていた。











第四章




 傘を忘れたという連絡をつむぎから受けたのは、午後四時くらいのことだった。倒れた日からバイトを早めにあがっていた僕は、更衣室のなかでそのメッセージを見た。天気予報では曇りとなっていたけれど、外は一時間ほど前から土砂降りだ。
《帰れない? なら、迎えに行くよ》
《いいの? だったら場所を教えるね》
 僕は自分の分の折りたたみ傘しか持っていなかったので、一度家に引き返してからつむぎの学校へと向かった。つむぎの通う中学は、家から徒歩圏内にある。二十分ほど歩くと、目的の中学校の校舎が見えてきた。僕は、正門の前に向かいながら電話をかけた。
「学校の前に着いた。どこにいる?」
「ええとね。今お兄ちゃんは正門のところ?」
「そう」
「正門から見て右側に三階建ての校舎があるの。そこの前に来てくれない?」
 電話を切った僕は、言われたとおりの場所に向かった。授業が終わってから結構経っているはずだから、そこまでたくさんの生徒が残っているわけではない。門扉が解放されていて、守衛の姿も見えなかったから、足早に敷地内を進んでいった。
 薄汚れた昇降口のまえで、すぐにつむぎの姿は見つかった。
「ごめん。ありがとう」
 傘の一つを渡す。昇降口の奥には、横に伸びた廊下と図書室があった。
「勉強していたの?」
 つむぎはうなずいた。
「気づいたら土砂降りになっててびっくりしちゃった。止まなさそうだったから、早く帰ろうと思ったの。お兄ちゃんが来てくれてよかった」
「ちょうどバイトが終わったタイミングだったからすぐ見られた。折りたたみ持ってないの?」
「いつもは持って行ってるんだけど、今日はたまたま忘れちゃった」
 図書室で勉強をしていなければ、友達の傘に入れてもらうという選択肢もあっただろう。悪い偶然が重なった結果、一人で帰れない状況ができあがったのだと思う。
 六月になり、梅雨に入りはじめたのかもしれない。傘に当たる雨粒は、破裂する音のようにばちばちと鳴っている。中学校の正門を抜けると、歩道のわきに水がたまっていた。正門のすぐ横に花壇があり、ツツジが植えられている。
「あれ? もしかして洗濯物……取り込んでないかも」
 急に、つむぎが思い出したように言った。
「帰ったときには濡れてたから洗濯しなおした。ま、しょうがないな」
「ああ、やっぱり……」
 歩いている途中、水無川のそばを通りかかった。まだ降りだしたばかりだから、水が表面に出てきていない。しかし、この雨がつづけば通常の川と同様の様相となるだろう。すでに花を失い、葉に覆われた枝を雨天に突きさす桜の木が、強雨に打たれて上下に揺れていた。
「雨だれってこういうことを言うのかな?」
 僕の言葉に、つむぎがきょとんとした。
「ほら、つむぎが好きだって言っていた曲。葉っぱとか軒先とかに当たって、落ちてくるのを確かそう呼ぶんだよね」
 つむぎに教えてもらったその曲を、そのあとに何回か聞いてみた。繰り返し叩かれる黒鍵の音が雨粒を表現しているのだそうだ。静かな曲で、雨の音を室内で聞いたときのような雰囲気だと僕は感じた。
「聞いてくれたんだ」
「そりゃそうだよ。つむぎの兄として、それくらいは知らないといけない」
 自動車のタイヤが水滴を散らしながら通りすぎていく。曲が思い描いているよりも強い雨だろうし、響いている音は黒鍵よりも暴力的だった。雨音というのは結局、雨粒という塊が重力によって叩きつけられ、弾けて砕ける音である。それが液体だとしても、強い力で衝突したのであれば激しさを伴う。
「お兄ちゃんは、好き? あの曲」
 僕はうなずいた。
「そうだね。そうだと思う」
 玄関前にたどり着き、服に着いた雨粒を払いながらドアを開けると、家を出たときから靴が一足増えていることに気がついた。
「あれ? お母さん来てたの?」
「いや、知らない。でも靴があるってことはいるんだろうね」
 リビングに行くとすぐに出くわした。濡れた髪をタオルで拭きながら、テレビを見ていた。
 日野尚樹の母親、日野加奈子。仕事はもう終わったのだろうか。この人はどういうタイミングで家に来るのかよくわからない。
「風呂」
 浴室のほうを指さされる。それだけで何を言いたいのかわかった。僕はすぐに壁に設置されたリモコンで風呂に湯を張る。
「洗ってあんの?」
「バイト行く前に掃除しているから」
「そ」
 自分でやればいいのにと思ったが、口に出すとなにが起こるかわからない。外に干していたタオルは濡れてしまっているから、普段使用していないバスタオルを洗面所に持って行った。
「冷蔵庫にビールはある?」
 僕の代わりに、つむぎが答えてくれた。
「ないよ。買ってくる?」
「五本くらい適当に買ってきな。あと、つまみも」
「わかった」
 出かけようとするつむぎを止め、僕が買いに行くことにした。さすがにつむぎの見た目で買うことはできないだろう。しかし、よく聞くと、あんな頼みかただったのに実はビールやつまみの好みがあるらしい。どういうものを買えばいいのかつむぎにこっそり教えてもらってから、コンビニで少し多めに購入した。家に戻ると、ちょうど母親が風呂に入っていて、つむぎとゆっくり話すことができた。
「これでいいの?」
 ビニール袋の口を開いて見せた。つむぎは、「大丈夫」とうなずいた。
「お母さんのチョイスと違うものを選んだら怒られちゃうから、気をつけないといけないの」
「つむぎは中学生だろ。まさか買ったことがあるの?」
「数回だけ。私服で堂々としていれば、なんとかなったよ。お兄ちゃんも平気だったでしょ」
 日野尚樹は高校三年生であり、十分に成年に見える。褒められたことではないけど、自分の身を守るためには仕方がなかった。
 やがて、風呂場から母親が上がってくる。そして、冷蔵庫に入れていた缶ビールの一つを取り出して、一気に全部を飲み込んだ。酒には強いらしく、顔色はほとんど変わらなかった。
「飯はいつ作るの?」
「もう作ってほしいなら作る」
 母親はスマホを一度見てから、六時半くらいという指定をした。今から約一時間後である。
 冷蔵庫のビールを二本出して、テレビのまえのソファに座る。どうやら、しばらくは放置でいいらしい。僕はシャワーを浴びてから、キッチンに入った。つむぎと相談して、麻婆豆腐とニラ玉を作ることにする。
「……お母さん、少し機嫌がいいみたい」
 つむぎがささやくような声でそう言った。
「あれで?」
「うん。声がいつもよりも優しい」
 確かに、僕の記憶と比較しても大人しい気がする。物を投げたり、声を荒げることの多い人が、ただテレビの前でビールを飲んでいるだけだ。
 指定された時間までに料理を作り終えると、すぐにそれに気づいたようだ。飲みかけのビールを持って、食卓に腰を下ろす。冷蔵庫に残っているビールも持ってこいと言われたので、もう二つを食卓のうえに置いた。
 四つ目の缶を開けるときには顔が赤らんでいた。料理に対する感想は言わず、ただ黙々と箸をすすめていた。
「なに見てんだよ」
 僕は慌てた。
「いや、次にどうしたらいいのかなと」
「普通に飯を食えばいいだろ。言われないとできないのか」
 あんまりこの人と同じ食卓を囲いたくない。けれど、断ることもできなかったので、僕とつむぎも食事をはじめることにした。僕の真正面に母親がいるので、視線の置き場所に困った。
 窓の外の雨音はつづいている。雨足が弱まっている様子もない。酒の臭いは、少し離れたこの場所にも漂ってきていた。久しぶりに味わう異物感が僕を襲う。つむぎにもこの家にも慣れたけれど、いまだにこの母親には慣れない。さらに、もともと家族としての体裁を保っていたころの記憶を二人は持っているけれど、僕にはない。
「おまえ、まだ記憶ないのか?」
 急な問いかけに驚き、答えを返すのに数秒の時間を要した。
「ない」
「なにも覚えてない?」
 僕はうなずいた。
「じゃあ、よくわからない女二人と飯を食っている状況なのか?」
「さすがにもうわからないということはないけど、過去のことを知らないのは確か」
「へぇ」
 にやにや笑っている。日野尚樹のことを心配している様子はまったくなかった。今の状況を面白がっている雰囲気すらある。
「ほとんど別人だもんな。いや、実際に別人なのか。自分がどうやって生きていたのかもわからず急にこんな状況に放り込まれているのだから、周りにあわせてやり過ごすしかない。母親だと思っていない相手に、母親であると自分に言い聞かせながら接して、妹だと思っていない相手に、兄として話さなければならない。バカバカしくてやってられないんじゃない?」
「お母さん!」
 つむぎの怒声に日野加奈子は肩をすくめる。
「実際そうだろ。それどころか、自分がどういう人間かも理解していない。他人から教えてもらうことはあっても、自分の実感として認識しているものはない」
「そうだけど、仕方ないじゃないか」
「別に、そのことを責めているわけじゃない。滑稽だと思っているだけ」
「滑稽?」
「一人だけなんにもなかったみたいに、呆けた顔をしているのが。こんなどうしようもない家のなかで、バカみたいに笑っているのが。つむぎ、あんたならわかるでしょ」
 つむぎは目をそらす。うなずくことも、首を振ることもしない。
「電気を消して、カーテンを閉め切った部屋のなかでおびえていたくせに、記憶消しただけですべてなかったことにできるんだからすごいもんだ。当たり前みたいに、普通の人間みたいに料理して、飯を食べて、会話をして、呼吸しているなんて、今でも信じられない。本当だったら部屋のなかにいて、誰とも会わないままゆっくりとつぶれていくだけだったろうに、過去をすべて捨てたらこんなにも楽になる」
「そんなことを今の僕に言っても意味がない」
「ほんとうに。でも、意味がなくても言いたくなる」
 眩しそうに細められた目が僕をとらえる。親子としての温度は感じなかった。一定の距離を置いて、日野尚樹という存在を眺めている。雨の音を聞いているうちに妙な胸騒ぎを感じて、早くこの場から去りたいという気持ちに駆られた。食事を早く済ませようと箸を持った矢先、つむぎが言った。
「お母さん。いい加減にして」
 半分以上食べた僕に対して、つむぎの茶碗のご飯はほとんど残っている。日野加奈子は、僕の買ったチーズを口に入れた。
「なんで?」
「お兄ちゃんにとって大事な時期なのはわかっているでしょ。せっかくこうやって部屋から戻ってきて、今も頑張っているお兄ちゃんになんで負荷をかけるようなことを言うの? そんなことをして、いったいなにになるの?」
「頑張っているっていうのは、前に言ってたアルバイトのこと?」
「それだけじゃない。ずっとよくわからない状況でも、めげずに私たちに向かい合ってくれている。わたしたちだって、それに向き合わないといけないでしょ」
「夢見る少女のまんまね。好きにしたらいいけど」
 つむぎは一瞬だけ言葉に詰まり、膝にのせた手を握りしめた。
「夢を見たっていいじゃない」
 憤るつむぎの姿を見るのは初めてだった。斜め下に向かって吐き出される声が震えている。
「叶うなら、実現できるならそのほうがいい。わたしにとっても、お兄ちゃんにとっても、それがいいってわかっているなら、夢を見たほうがいいよ。なんでなにもかもをあきらめないといけないの。少しずつ、本当に少しずつだけど、前進してる。このまえね、お兄ちゃんの学校の先生が来たの。記憶のことは話さなかったけど、お兄ちゃんの様子を見ていて、問題なんかなさそうだって驚いていたよ。わたしだって知ってる。お兄ちゃんは、わたしの受験を気にして家事をやってくれるようになった。いつも優しく接してくれた。もう夢なんて言えるほど遠いものじゃないってこと、わたしは理解しているの。お母さんはそんなこと知らないでしょ。なんにも知らないのに、知ったようなこと言わないで」
 その剣幕にヒヤヒヤしたが、日野加奈子は片方を吊り上げて笑う。
「さっきも言ったじゃない。好きにすればいいって。だれも止めやしない」
「余計なこともしないで。わたしたちにはわたしたちのペースがあるの」
「はいはい」
 二人の口論の間、僕は黙っていることしかできなかった。
 この母親は僕のことを理解していない。嘘をつき、だましている。赤の他人がなりすましているということをわかっていない。そのうえで僕は、日野尚樹としての皮をかぶり、ごまかしながら接している。
 僕の罪を、見抜かれたかのような錯覚があった。朝倉圭人という人間を背負って、日野尚樹として抱えていたものを見ないようにして、自分が元に戻れるということを第一義として、あたりさわりなく、この家にあるいろんものを乗り越えていくだけでいい。母として存在するならば母でいい。妹としてそばにいるのなら妹として扱う。それ以上のものを求める気はなく、本当に大事な朝倉圭人としての人生を取り戻すことだけを考えればいい。たとえそれが、つむぎの目指す道とは相反するとしても、自分を奪還することを優先する。そのために、つむぎの兄ではない僕が兄のふりをして接することになる。確かに、滑稽なのかもしれない。
「記憶を取り戻してほしいの? それともこのままでいてほしいの?」
 僕の問いかけに、日野加奈子は同じ言葉を繰り返した。
「好きにしたらいい。どっちでもいい」
「二度と記憶が戻らないとしても、構わない?」
「構わないな」
 僕のことを別人だと言いながらそう答えるのだから、息子などどうでもいいのだろう。
「勘違いしているのかもしれないが、もうとっくに崩壊してんだよ。崩壊していることを知らないのはおまえだけだ。こっちはお前たちが死んでいないかたまに確認しに来ているだけで、死んでさえいなければどうなろうと興味なんかない」
「興味って……」
「アルバイトをしているんなら、とっととつむぎを連れて家から出て行けばいい。そうしてくれれば、おまえたちのことを気にする必要がなくなる」
 そう言って、日野加奈子は立ち上がった。つむぎはなにかを言おうとして、結局口をつぐんでしまった。僕の知らないなにかが、この空気に立ちこめる倦怠感の要因なんだろう。でも、それについては誰も教えてくれない。口に出すことさえ恐れている様子だった。
 食事や片づけを終えた僕は、日野尚樹の部屋に戻った。そういえば、ここで初めて目が覚めたとき、蛍光灯の明かりはなく、僕がつけてほしいと頼むとつむぎは不思議そうな顔をした。あれはいったいどういう意味だったのだろう。
 窓の外を見下ろす。雨はつづいている。街灯に照らされた細長い道のり、さらに奥には影に沈み込んだ大山の姿が見える。この家は、僕の経験していたものとは違う異常性を抱えている。だからといって、僕は別の場所に行くこともできない。せめて、日野尚樹が成年であったならば、もっと自由に行動できたのだろうけど、今の僕には逃げ場所がない。十八歳からなので、六月十日に誕生日を迎える日野尚樹は、あと少しで成年になる。そのときになったら、身の振り方を再考したほうがいいのかもしれない。
 あの母親は、たらふく酒を飲んでから家を出て行った。僕の知る限り、この家で寝泊まりしたことがない。本当に僕らの生存確認をしに来ているだけなのだろう。数万円のお金を置いただけで、行き先も告げず、あいさつをすることもなかった。
「お兄ちゃん」
 夜九時を回ったところで、ドア越しにつむぎの声が聞こえた。
 中に入れてやると、パジャマ姿のつむぎが床に腰を下ろした。だいぶ整理したおかげで部屋にはだいぶスペースができた。
「どうしたの?」
「お母さんの言ったこと、あまり気にしないでね。あの人は、そういう人だから」
 僕を心配してくれたらしい。他人のことを気遣ってばかりで疲れないのだろうか。
「今さらそんなこと気にしないよ。母親なんだろうけど、母親であることを求めてない」
「うん……」
 初対面から最悪だった。靴を投げられたときに聞こえた激しい音は、今でも覚えている。
「でも、よくこの雨のなか外に出たよね。あのままいればよかったのに」
「そうだね」
「いつもどこで寝泊まりしているんだろう。もう一つ家があるのかな」
「たぶんね。わたしも詳しく聞いていないからわからないけど、たぶんそうだよ」
 母親の私物らしきものもあまりない。衣類と食器くらいしかないんじゃないだろうか。
 誰も事情を教えてくれないなら、もっとこの家を探って調べたほうがいいのかもしれない。
 今のところ、僕はあまりこの家を隅々までは見ていない。実を言うと、一室だけ気になっている部屋がある。埃をかぶったグランドピアノが置かれているだけの部屋が二階に存在する。僕やつむぎの部屋がある場所とは反対側にあり、分厚い扉にさえぎられている。おそらく防音室なんだと思うが、異様に殺風景で足を踏み入れてはならない雰囲気を醸し出していた。
 日野尚樹が部屋に引きこもる前は、あの場所で練習をしていたのだろう。
 どこかにこの家の過去に関する物が眠っている可能性がある。つむぎがいないときにでもいろいろ見てみようと思った。
「お兄ちゃんは、なにも考えなくていい。いろんなことを思い出しても、思い出さなくてもいい。わたしはお兄ちゃんの味方だから、それだけは忘れないで。滑稽だなんて思わないし、一生懸命生きているのを、わたしは知っているから」
「つむぎは……」
「え?」
「つむぎは、永遠に前の僕が戻ってこないとしたらどう思う?」
 しばらく黙り込んでいた。いつかそのうち戻ってくるとつむぎは信じている。だから、どちらでもいいとか焦らなくていいと言える。でも、そうじゃなかったとしたら、日野尚樹は死んだのと同じということになる。
 やがて、つむぎは言った。
「戻ってこないなんてことはないって、わたしは信じてる。今のお兄ちゃんも昔のお兄ちゃんも、絶対にわたしにとっては必要だから」
 僕は、そうか、とうなずいた。



 梅雨入りのニュースが流れたのは、それから三日後のことだった。昨年の梅雨入りを知らないけれど、昨年よりも少し早いらしい。昨日、一昨日と晴れの日が続いていた。しかし、今日は暗い雲に覆われていて、しとしとと雨が降り注いでいる。
 天気予報によると、一週間は雨がつづくらしい。スーパーに来る客の数は、晴れの日よりも少なくなる。値引きシールをいつもより早い時間に、多くの商品に貼らなければならない。矢倉さんも忙しそうに走り回っていた。
「これからしばらくは売上減りそうだから、いろいろ考えないとな」
 シールを貼り終えて、手持ち無沙汰になった僕に矢倉さんは言った。
「どうするんですか?」
「俺も雇われだからさ、できることは少ないのよ。うちのオムニがもっと利用されればなぁ」
 おさえようとしたくしゃみが、我慢できずに出てしまう。この体は相変わらずの花粉症だ。いったいいつまでこの症状に悩まされることになるのだろう。一度調べたとき、意外といろんな植物の花粉が交代するように年中舞っていることがわかった。花粉症でなかった自分は恵まれていたのだと実感する。
「まだスギもギリギリ飛んでいるんだっけ? あとはイネ科かな。大変だねぇ」
「それか普通の鼻炎かもしれません。自分でもあんまりわかっていなくて」
「俺も花粉症だけど、そこまでひどい症状じゃないんだ。この時期にはすっきり」
 ひどいときは、鼻水が尽きるくらいまで出し切らないと終わらない。いったん、鼻水をかみに控室に行くと言ったら、忙しくないしいいよと了承してくれた。おかれたティッシュで何回も鼻をかむが、なかなか楽にはならない。
 外の駐車場は、いつもの七割くらいしか埋まっていない。矢倉さんの言ったように、僕がいなくても回るだろう。今、控室にいるのは僕だけで、他の人たちは全員出払っている。最近いろいろ考えすぎたせいで疲れがある。僕はスマホのアラームをセットして、五分だけ寝ることにした。
 目を閉じる。少しだけ意識を失い、気づいたときにはアラームが鳴っていた。すぐに寝られたらしく、寝る前から五分も経った感じがしない。が、スマホの時刻は五分後になっている。
 まだ寝たかったが、あんまりサボっているわけにはいかない。控室から出た僕はさっき矢倉さんと話した場所に行ったが、すでにそこに矢倉さんの姿はなかった。
 レジの様子でも見てこようと思って、惣菜コーナーに足を踏み入れたときだった。僕の視界が異様な光景を映した。
 なにかトラブルでもあったのか商品が床に散らばっている。遠巻きに見るお客さんの視線の先に、複数のスタッフが片づけをしているところだった。矢倉さんもそのなかにいる。
 僕はあわてて駆けつけた。
「どうしたんですか?」
 スタッフの一人が僕を見て言った。
「お客さんの一人が暴れて……。大声出したり、商品投げつけたり」
 このアルバイトを始めて、粗相を働く人を何人か見たけれど、こういうことが起こったのは僕の知る限り初めてだった。ざっと見渡す限り、惣菜やパンなど二十程度の商品が、フードパックや包装から飛び出す形で床に転がっていた。
「手伝います」
 もう捨てるしかない。食べ物を回収しきらないと衛生上の問題があるから、棚の下や通路の死角をよく確認しなければならなかった。小声で矢倉さんに話しかける。
「その客はどこに行ったんです? 捕まえないと」
「いや……」
 どうやら、その人は逃げるように出て行ってしまったらしい。なにをされるかわからないと深追いはしなかったと矢倉さんは教えてくれた。
「明らかに雰囲気が普通の人とは違ったからね。うちの従業員を危険な目にあわせるわけにはいかない」
「でも、これだけのことをされたら損失も……」
「仕方ない。警察には連絡しておくけど、それ以上のことはあきらめよう」
 一部始終を見ていたと思われるお客さんもおびえた様子だった。ひそひそと近くの人と話している人もいた。少しだけ聞こえてきた範囲を要約すると、かなり年配のおじさんで、ひげが生えていて、体臭もあったようだ。ろれつが回っておらず、なにを言っているのかほとんど聞き取れなかった、顔色が悪かった、雨のなかを傘なしで歩いてきたのか服や髪が濡れていた、なんてことも話されていた。
 雨のなかを傘も差さずに出たのだろうか。矢倉さんが、手ぶらだった、なにも持ち去ってはいないだろうと言っていた。
 片づけのあと、騒ぎになったことについてお客さんに謝罪をし、業務に戻る。仕事の間、さっきの出来事が気がかりで、ずっと出入り口や窓の外を気にしていた。しかし、そのあとは特に大きなトラブルなく、その日のシフトを終えた。
「今日は、いろいろ手伝ってもらってありがとうね。もっと写真とか撮っておけばよかった。警察に話すとき、まともな材料がなくて苦労したから」
 帰り際、矢倉さんがそう声をかけてくれた。
「気にしないでください。店長じゃなくて、その人が悪いんだし」
「うん。気をつけて帰るんだよ」
 夕暮れ。それでもなお、雨の止む気配がない。空を見上げながらため息をつく。
 本能的に一つの疑惑があった。その人はまさか、日野尚樹の父親ではないだろうか。
 だが、僕がインターネットで調べた風貌は、もっとさわやかな雰囲気の人だった。ポマードで髪の毛を固めており、髭もなかった。真面目そうな細身の男性であり、目つきは優しそうに見えた。もっとも、そんなものはいくらでも変わることができる部分だけど、聞いた話と写真の姿に乖離が大きく、別人という考えが自然だとも思えた。
 玄関につくと、いつもあの母親の靴がないかをチェックする。今日はないようだ。しかし、つむぎの靴もない。電気をつけていくと、ほとんど真っ暗だった家のなかからなにかが出てくるんじゃないかと怖くなるときがある。しかし、そこには人などおらず、いつもどおりの光景が広がっているだけだった。
 それから五十分程度待っていたが、帰ってこない。スマホを見ても、LINEにメッセージは届いていなかった。普段であれば六時前には家に帰っている。しかし、現在時刻は六時を過ぎている。心配しすぎだと自分でも思うが、電話をかけてみた。
 十回以上の発信音が鳴っても、応答はなかった。
 図書室で勉強しているから、電話に出られないのかもしれない。つむぎの学校の最終下校時刻は午後七時くらいだった。それまでは待つしかない。
 料理を作り終え、ソファに寝転がって、スマホの画面を眺めながら過ごす。LINEでメッセージを送ったところ、既読だけはついた。返信がないことを気にしながら待ちつづけていると、午後七時半くらいにつむぎが帰ってきた。
「おかえり。今日遅いけど、なにかあった?」
 つむぎは濡れた傘を振る。雨粒が三和土に散らばった。血色の悪い顔には表情が浮かんでいなかった。少しだけ髪が濡れていたのでタオルを渡すと、「ううん」と言って髪を拭いた。
「ご飯食べようか」
 言うと、今度はうなずいていた。
 会話がなく、お互いに箸と食器の当たる音だけを響かせながら食事を進めた。つむぎの様子がおかしい。いつぞやに部屋で膝を抱えていたときと同じ空気感を感じていた。
「話せないこと?」
 つむぎは、僕の顔をじっと見た。その目は少し充血している。数秒間はそのままの状態だったが、やがてつむぎが口を開いた。
「お兄ちゃん」
 箸が置かれた。僕も同じように、コップを下ろして喉をごくりと鳴らした。
「ん?」
「明後日、お兄ちゃんの誕生日だよね」
「うん」
「お兄ちゃんは十八歳になるんだね。せっかくの誕生日だし、お祝いとかしたいね」
 なにが言いたいのかさっぱりわからなかった。
「別にいいよ。ケーキ食べたいんなら買ってくるけどさ」
「でもわたし、お兄ちゃんの誕生日から一週間くらい友達の家に泊めてもらうことにしたの。だから、そのあとにお祝いしようよ」
 訝しく思う。重苦しい雰囲気のなかでする話ではない。
「一週間後でもなんでもいいよ。別に、祝わなくてもいいし」
「それでね。お兄ちゃんもどこかに出かけてくるというのはどうかな? 一週間くらい」
 言葉を失った。あまりにも突然すぎて、ついていけない自分がいた。
「どうして?」
「お兄ちゃん。家に一人だけいてもつまらないでしょう。だったら、気晴らしに出かけてみるのもいいんじゃないかな。お金もあるんでしょ」
「なんでわざわざそんなことをする必要があるのかわからない」
「十八歳になれば、一人でホテルに泊まることもできるよ。大人になったらできることを、いっぱい楽しんでほしいって思っているだけだよ」
「二、三日くらいならまだわかる。でも、なんで一週間も?」
 つむぎは答えない。混乱した頭を整理するため、冷たいお茶を飲み込む。
 誕生日から一週間わざわざ出かけなければならない。つむぎはまだ未成年で、親の了承なしだと宿泊を断られる可能性もあるから、友達の家に泊まると言っているのだろう。まるでこの家を一週間ほど空けてほしいと言いたいかのようだ。
「もしかして……」
 ふと思いついたことがあった。今日のスーパーで起こったことを考慮し、以前に日野加奈子が言っていたこともあわせて推測すると、その結論に行き当たった。
「……父親に関連することなんじゃないか?」
 つむぎは観念したというように目をつむった。それから小さく首肯した。
「隠さないでほしい。僕には、父親に対する執着や情念なんてない。つむぎがそうしたほうがいいと言うのであれば僕はそうする。つむぎを信用しているからだ。でも、必要なことを教えてくれないと、なにを注意しなければならないのかが分からなくなる。答えにくいことだったら言わなくていいから、答えられる範囲だけでもちゃんと伝えてくれ」
 嘘偽りがないのだと示すため、僕は、再び開いたつむぎの目をまっすぐ見据えた。
「まず、僕は一週間ほど、この家にいてはいけない。そうだな?」
 僕の質問に、つむぎがようやく素直に答えた。
「一週間も必要かはわからない。でも、それくらい空けてほしいってこと」
「次の質問。もしかして、父親がこの秦野近辺をうろついているんじゃないか?」
 数秒程度の逡巡ののち、つむぎは「そうだね」と認めた。僕はそこで確信し、今日スーパーで起こった出来事を話した。耳に入った風貌についても説明したが、つむぎは言った。
「お父さんだと思う。ほぼ間違いなく」
「現場を見たわけじゃないのにどうしてそんなことが言える?」
「それは……」
「隠さないでくれと言ったばかりだ。その感じだと、帰る前に見かけたんじゃないか?」
「……うん」
 予想通りだった。帰る時間が遅くなったこととも関連してそうだ。
「向こうは、わたしに気づかなかったみたい。でも、間違いなくお父さんだった。そのスーパーで暴れた人と同じで、傘は持っていなかった。口の周りも顎の下も髭でいっぱいで、足取りはおぼつかない感じだった。どこで買ったかわからないお酒飲みながら歩いていたよ。ずっと後をつけていたんだけど、東のほうに行って、追いきれなかったから途中で帰ってきた。見失いそうだったから、お兄ちゃんのLINEには気づけなかった。ごめんね」
 雨だから歩きながら返すのも難しいだろう。僕は一つ気になったことがあった。
「なんで後をつけていたんだ? 結構危険そうだけど」
「もしも家の方角に来たら、お兄ちゃんに家から離れるように伝えようと思ったの。でも全然違う方向に行ったから、今日はもう大丈夫だって確信できた。この雨のなかを引き返してくるとも考えづらかったし」
「なるほど」
 スーパーで暴れたあと、つむぎの学校のある付近を通り、さらに東に行った。動いている方向は常に同じだから、確かに戻ってくる可能性は低そうだと思えた。
「ありがとう。僕のためにいろいろしてくれたこともわかった。そして、つむぎがどうして一週間くらい家を空けるように言ったのかも理解できた。その父親が、いつこの家にやってくるのかわからないから、念のためしばらく別の場所にいてほしいってことだね」
「うん。そういうこと」
 であれば、つむぎの言うことを聞かないわけにはいかない。バイトもしばらくは休んだほうがいいだろう。言い訳を考えておかなければならない。
「ねえ、これって僕の誕生日と関係があると思う?」
 つむぎは「たぶんね」と答えた。
「お兄ちゃんだけじゃないよ。お父さんもお兄ちゃんに執着していたから。わたしはお父さんの頭のなかがどうなっているのか知らないけど、お兄ちゃんの誕生日に合わせてわざわざ来た可能性は十分にあるよ。だからこそ、明日からは絶対にここにいないほうがいい。一週間もしたらお父さんは諦めるんじゃないかって思う」
「前にもこういうことはあった?」
「あったよ。でも、そのときは誰もいないと思って帰っちゃったみたい」
 僕にとって、父親と会ったほうが得だという可能性はある。なぜなら、日野尚樹に関する情報を握っている重要人物の一人だからだ。だが、つむぎがここまでする以上、関わるのは危険だと感じられた。
「つむぎは、大丈夫なの? 学校には行くのなら、そこで遭遇する可能性がある」
 実際、今日はたまたますれ違ったわけだ。同じことが起こらないとも限らない。
「わかってる。わたしも気をつけるよ。もう後をつけたりしないから」
「ならよかった」
「ごめんね。急で戸惑ってると思うけど、お兄ちゃんのためだから。あとで盛大に誕生日を祝おう。ケーキ買って、おいしいもの作って、楽しいことをいっぱい話そう。わたしね、家族で一緒にそういうイベントをするのは久しぶりなの。お兄ちゃんだけのためじゃなくて、わたしのためにも、お兄ちゃんの誕生日を祝いたい」
「僕も同じ気持ちだ。自分の誕生日なんて、そんな実感ないしね。でも、豪華な料理作ったりするのは楽しそうだ。絶対にやろう」
 僕らは、食事を再開する。こうやって二人で食べることはしばらくできない。
 自分の作った料理を食べている間、日野尚樹の父親のことが気になっていた。どういう人物で、過去に何があり、そして今こうやって恐れられるようになってしまったのだろうか。
 会わないと決めてなお、その興味は僕の脳裏から離れなかった。



 朝になってすぐ出発できるように、僕もつむぎも事前に荷物をまとめた。翌朝になると、僕もつむぎも大きめの荷物を持って家を出た。つむぎは、いったん荷物をコインロッカーに入れて、そのあと友達の家に運ぶらしい。
 予約したホテルは、海老名にある。小田急線で二十分ほど揺られてたどりついた。チェックインまではカラオケやカフェなどで時間をつぶし、午後三時くらいにホテルに入った。
 海老名にした理由の一つは、秦野に戻りやすいこと、また、小田急線の沿線のなかでも人が多いほうで、そのなかにいたほうが紛れると考えたからだ。もちろん、ここに日野尚樹の父親が来ることはないと思うけれど。
 つむぎには、ホテルに入った旨を連絡した。午後四時ごろ、つむぎからも友達の家に着いたという内容のメッセージが届いた。僕もつむぎもなにかあればすぐに連絡をすると取り決めていた。あとは一週間海老名で過ごし、あの父親が立ち去るのを待つだけだ。
 ほとんどやることもないので、適当に本を買ったり、たまに外に出たりして過ごす。一週間もこの状態でいるとなると億劫だった。秦野に近寄りさえしなければ、あとはどこに行ってもいいかもしれない。つむぎが学校にいる間は比較的安全だろうし、ここを離れても問題はないと考えた。
 が、その日の夜だった。
 夜十時くらいになり、僕はベッドに横になっていた。あまり寝られずに呆然と天井を見上げていると急に気分が悪くなるのを感じた。
 いったいどうしたんだろう。うどんやチェーン店の牛丼を食べただけなので、食中毒だとは考えづらかった。しかし、だんだんと胸が圧迫されるような不快感が広がっていき、身じろぎすることさえも苦しさを覚えるようになった。
 ――本当に風邪を引いたのか。
 寒気があるわけではなかったが、吐き気や倦怠感がある。眠気など消えて、体をむしばむ苦痛に耐えるだけの時間がつづいた。二時間、三時間が経っても和らぐことはない。手足が自由に動かせなくなってきたところで、本当にまずいのではという焦りに支配される。助けを呼んだほうがいいんじゃないか。119番したほうがいいんじゃないか。なんとかして起き上がろうとするが、体が動かなかった。
 人間とは不思議なもので、そんな状態でも寝られたらしい。ふとした瞬間に、時間は五時間ほど経過していて、窓の外が明るくなっていた。記憶ごとぽっかりと空いたような感覚。それは、僕が初めて日野尚樹として目覚めたときのようだった。
 寝たおかげか、昨夜の体調不良は鳴りをひそめている。たまたまそうなっただけだろうか。
 時刻は午前九時くらい。朝ご飯を買ってこようと立ち上がった瞬間に違和感を覚えた。
 違和感の対象は、部屋のなかである。使っていなかったはずのコップが、窓前のテーブルに口を上に向けて置かれていた。昨晩の記憶がほとんどないけれど、自分で使ったのだろうか。
 コップ以外に、特に自分の記憶と相違ある箇所はなかった。僕は、コンビニでおにぎりとお茶を購入して飲んだ。一週間泊まるので、定期的に洗濯をしなければならない。コインランドリーで乾燥まで済ませたあと、僕はベッドのうえに腰かけた。スマホを見たが、LINEにつむぎからのメッセージは届いていない。今のところ問題は発生していないようだ。
 いつまた体調を崩すかわからないので、近くの薬局で風邪薬や栄養ドリンクを購入しておいた。今の僕の体調は、昨日が嘘みたいに元気である。保険証も持ってきていないし、病院に行こうという気にはならなかった。だが、大事をとって、予定していた外出を取りやめて、ホテルの部屋のなかで安静にすることにした。
 夜。また午後十時くらいに床につくと、またそれが起こった。
 明らかにおかしい。どうして急にこんなことになるんだ。何度か起こった頭痛とも異なる。まったく別の種類の苦しみが僕を襲っていた。
 しかし、やはりいつのまにか次の日になっていて、夜とともに不快感も体からなくなる。
 それと同時に、また部屋のなかに違和感が生じていた。
 コップ。それから、開けていたはずのカーテンが閉められている。僕は体が不調をきたした段階でコップを下向きにしたのに上向きにされている。この部屋に誰かが侵入したのかと考えると恐ろしかったが、間違いなく鍵はかかっているし、それ以外に動かされた形跡はない。盗まれたものもない。あくまで部屋の一部が少しずつ動かされているだけである。
 自分のなかに、侵入者以外のもう一つの推察があった。それは、ある意味で侵入者よりも怖い想像でもあったから、僕はあまり考えたくなかった。
 買ったスポーツ飲料を一気飲みする。暑くないにもかかわらず汗が出てきた。外は相変わらずの雨で、窓には水滴がたまっている。どうして今さら、こんなことに悩まなければならないのだと思った。今はまだいい。体の不快感も、時間が飛ぶような感覚も、夜にしか起きていない。だけど、これが昼にも起きたらどうなるのだろう。僕はそのとき、どうなってしまうのだろう。不安が次から次へと湧いてきて、頭がぐちゃぐちゃになってしまった。
 二日連続で同じようなことが起き、僕は戸惑っていた。もしも、今日もそうなったら、とうとう事実が確定してしまいそうだった。なんらかの対策をとらなければならないと考える一方で、そんなわけはないと楽天的に考えようとする自分もいた。
 結局、この日も思い悩んでいるうちに夜になってしまった。つむぎからは、当たり障りのないメッセージが届くので返答したが、他にはなにもしていない。刻一刻と、午後十時が近づいてきていた。定刻で起こりえることかどうかはわからないけど、それまでには事態を好転させる手を打たなければならない。
 考えた挙句、思いついたのは三年前と同じだった。ペンを手に取り、テーブルに備えつけられていたメモ帳に、メッセージを残した。そこにはこう書いた。
《もしも、君なら返事をしてくれないか? 日野尚樹》
 そして、案の定、夜の十時くらいから体がまともに動かなくなる。目が覚め、朝の日差しに照らされながら、僕はすぐに一日前のことを思い出していた。緊張していた。本当に返事が来ていたらどうしようと思い、喉が渇いた。ベッドから這い上がり、テーブルに置かれたメモ帳を見た。
《初めまして。朝倉圭人さん。ぼくはずっとなかにいて、あなたを見ています。》
 僕の書いた文字の下にそう記されていた。

* * *

 危惧していたことが、現実になってしまった。僕は愕然として、その紙を握ったままベッドにもたれるように座り込んだ。日野尚樹。僕の魂をその体に封じ込められてしまった男。ずっと狭くて暗い部屋に引きこもっていた、つむぎの兄であった男。僕にとっては幽霊みたいな彼がこうして現実のものとして現れた。
 手が震えていて、心臓の壁が薄くなったと錯覚するほど鼓動がはっきり聞こえる。呼吸すらままならなくなってきた。今僕が握っているこの紙に、その存在が克明に記されている。それでもその紙を手放すことはできず、やたらと強い力でその紙をつかんでいた。
 現実逃避をするわけにいかない。僕はメモ紙をもう一回眺めた。さっき読んだものより下につづきの文章が書かれていた。
《まず、いろいろごめんなさい。ぼくにもどうしてこうなったのかはわからないんです。もともとあの部屋に引きこもっていたのはあなたも知ってのとおりです。いつのまにか、あなたという人が入ってきて、自分は奥のほうに引っ込んでいきました。それでも、ぼくは、その意識のはしっこにいて、あなたの動かしている『ぼく』を遠目から眺めていました。》
 僕の片手が、前髪に指を絡めながら額に当てられる。この頭のどこかに日野尚樹がいる。そして僕のことを眺めている。なんの冗談だと思った。意識の端にいるということは、今の思考でさえも観察されているのだろうか。
 当然のことながら、頭のなかから別の人の声がするということはない。どうして今さらこんなことを伝えられなければならないんだ。足に力が入らず、体を前に倒しておぶさる形でテーブルをのぞきこむと他のメモ書きがまだいくつも残されている。どうやら、右から順番に読めば文章がつながるようだった。一番右のメモ書きを剥がして、また座りこんだ。
《おどろいていると思います。ごめんなさい。でもぼくにはもうあまり気力もなかったし、別に自分の代わりに生きてくれるならそれでもいい気はしていたんです。ぼくなんかよりもうまく生きていけそうだし、この世に未練もないし、その一方であなたはあるみたいだし。でも、ぼくの意識自体はずっと残っていて、消えることはありませんでした。》
 次のメモを引っぺがす。ずいぶんと考えながら書いてくれたことが理解できた。どんな現実だとしても、こうなった以上は全部を把握するしかない。
《ぼくのせいで、朝倉さんに迷惑をかけたことが過去にもあります。一度目は、初めて朝倉さんの意識が入ってきた日。さすがにぼくもわけがわからず、動揺していました。だから、自分の体の主導権を取り戻そうとしたんです。そのとき朝倉さんに強い頭痛が発生したようです。》
 あの頭痛が? 日野尚樹による影響? 驚きに言葉を失った。
 確かに、そう考えると筋が通りそうではあるが、まさか最初から日野尚樹の意識とともに動いていたとはにわかに信じがたかった。
 僕の意識が無理やり引っぺがされそうになったがゆえの痛み。
 それが、例の頭痛の正体だったのか。
 すぐにつづきのメモを取る。
《次は、ヒロカさんという女の子と話していたときです。ぼくとして生きていたあなたが朝倉さんであることを言うのではないかと思ったとき、急に怖くなり、そのときに口を封じようとしたんです。結果として、倒れることになってしまって申し訳なかったです。》
 確かに、そうだ。僕は、自分の正体を告げようかと迷っていた。
 さらに残った二枚をいっぺんにつかんだ。
《そして、今、ぼくは別にあなたから体を取り戻そうとはしていません。これは、ぼくの心の不安定さが招いたことです。父さんのことをつむぎから聞き、この場所に逃げていることを知っています。だから、ぼくはここにいる間、怖くなりました。》
《こんなところに来るわけがないとぼくも思っています。でも、誰もいない空間で一人でいると不安が増してきてしまって……その結果、朝倉さんにも伝わってしまったようです。ほんとにごめんなさい。平常心でいるようにしますから、ぼくのことは気にしないでください。》
 文章はそこで終わっていた。僕のなかの混乱がますます強くなっていた。
 あの頭痛は、日野尚樹に起因するものだった、そのときに日野尚樹は僕から体の主導権を奪おうとしたと書かれている。ならなんで、日野尚樹自身で体を動かせているのか。
 僕一人で考えても答えが出ないのはわかっている。ただ、いっぺんにたくさんの情報が伝えられたせいで、どこから手をつけていけばいいのかわからない。テーブルのうえを改めて見たが、やはりそれ以上はなかった。スマホにもメモ書き等はない。
 日野尚樹。他人の話でしか聞いたことのない人物が、ずっと僕のそばにいるという。文面では、何回も謝罪の言葉を述べていた。想像していたことではあるけれど、あまり気が強いほうではないらしい。書いてあることが本当であれば、僕と対立するつもりもないようだ。
 僕が寝ていると思っていた時間の一部を、日野尚樹が使っていた。気分の悪さのなかで時間が飛んだのではなく、僕の意識を日野尚樹に奪われているのだろう。
 なんの根拠もなく、僕はこのままいられると信じていた。自分自身を取り戻そうと考えていたのもそれが前提である。だが、日野尚樹の言葉を信じるならば、彼の意志とは関係なく体の主導権を得るようになったということである。たとえ、日野尚樹に僕を追い出す気がなかったとしても、勝手にそうなってしまう可能性が十分にある。
 嫌だ、と思った。僕は、僕を失いたくない。間借りしている身だということは理解していたが、突然他人の体に目覚め、他人の人生に巻き込まれて、状況に混乱しながらも自分を取り戻そうとしていたところをさらに奪われる。そんなこと、あってはならない。
 昨日買って冷蔵庫に入れていた水を飲み、起きたばかりで乾いた喉をうるおす。手のメモを改めて並べるが、どう考えても僕の字ではない。日野尚樹の部屋で見た字と筆跡が一致するかどうかはっきりしないけど、確かに似ている気はした。僕がこんな目に遭わされている以上、なにが起こっても非現実的とは言えない。
 しばらく動揺が抜けなかった。昼が過ぎ、日が傾いて、また夜へと近づいていく。さすがにお腹が空いてきたので、コンビニで弁当を買う。あの家に戻り、つむぎのいるところでこんな姿を見せるわけにはいかない。メモ書きでの会話もできない。この一週間で、できる限りのことをするしかないという結論に至った。
 また、僕はメモを残す。
《教えてほしいことがある。》
 気になったことを羅列していく。疑問はいくらでもあったが、日野尚樹が答えられる質問になければ意味がない。
 まず訊きたかったのは、僕の思考が読めるのかということ。次に、もともと僕のことを知っていたのかということ。最後に、どんな形で僕と意識を交代させたのかということ。
 翌日、僕の質問に対する答えがメモに書かれていた。
《一つ目の質問ですが、思考までは読めないです。朝倉さんと同じものを見て、聞くことくらいしかできません。なのでそこは安心してもらって大丈夫です。》
《次に、朝倉さんのことは知りませんでした。同じ高校の先ぱいだったことも、二つ歳が離れていることも、こうなって初めて知りました。だから、あの日、朝倉さんが自分のことをいろいろ書いてくれたとき、ぼくに対して自己紹介をしてくれているような感じでした。》
《で、最後。意識の交代は、ぼくにもよくわかりません。見るものとか聞くものを共有しているとさっき書きましたが、その状態から急に体が動かせるようになります。しびれた手足に血流が戻る感覚に近いかもしれません。》
 メモは三つだけではなかった。さらにもう一つを読む。
《ぼくにも、朝倉さんのことを教えてください。朝倉さんは、一切僕の存在を感じていないということですか? ぼくが動いているときに、朝倉さんからは見ることができないのですか?》
 日野尚樹は、はたして信用できる人物なのか計りかねていた。こうやって筆談をする以外に話したことなんてない。日野尚樹の言葉が正直に答えている保証はない。でも、僕のなかに不思議と彼の言っていることは本当だという確信があった。体を共有しているがゆえだろうか。
 僕もまた、正直に答えることにする。
《見ることも聞くこともできない。完全に意識を失っている。最初にメモを残したときも返事が来るとは思っていなかったんだ。返事をしてもらってようやく状況が理解できた。頭痛があったときにも、他の誰かの存在なんてまったく感知できなかった。》
 そこまで書いて、ホテルにいられる日数が今日を入れてもう二日しかないことに気がついた。遠慮している場合じゃない。もっと訊かないといけない。
《今のところ、夜以外に体を動かすことはないようだけど、昼には動かせない? あと、僕から体の主導権を切り替えるのは、君の意志なのか? 筆談するようになってから、体の不調はだいぶ収まった気がするけど、これには心当たりがある?》
 次のメモを取り、つづきを書く。
《質問攻めでごめん。あと、ここに来ている理由は知っていると書いていたよな。君と父親との間に、いったいどんなことがあったんだ。そして、あの家の異様さは、どういう経緯によるものなんだ。教えられる範囲で構わないから教えてくれ。》
 夜になり、次の朝になると返事が来ている。起きてすぐ、メモの置かれたテーブルへ。
《これも理由がわからないんですが、昼は体が動きません。もともとずっとこの状態だったので、ここ最近、夜に体を動かせること自体がぼくにとっては不思議です。決して、ぼくの意志で体の主導権をとっているわけじゃありません。》
《あと、体の不調が薄まっているのは、ぼくの心がまた落ちついてきたからだと思います。人と話せると楽になることってやっぱりありますね。負担かけてごめんなさい。》
 僕も、少しずつではあるけれど冷静になっている。日野尚樹は、僕の嫌がることを書かないでくれている。僕のほうが年上だし、お互いに混乱するような事態なのだから、僕だけが取り乱すわけにもいかないという考えまで芽生えてきた。
 窓の外は相変わらずの雨だ。僕は、残りのメモに目を向けた。
《ぼくの父さんのことで、心配をかけてしまってすみません。ほんとに、こればっかりはどう説明すればいいのか……。指揮者だったことは、すでに知っていると思います。ぼくにとっては、親というだけじゃなくて、師匠みたいな人でした。》
 メモを重ねて、ベッドのうえに腰を下ろす。本を読むみたいに、メモを一つずつめくりながら読み進めていく。
《有名というわけじゃないけど、父さんはすごい人です。音楽に関することはすべて父さんから教わりました。もともと厳しくも優しい人で、父さんのことが大好きでした。いまでも、それはあまり変わらないかもしれないですけど。》
《どこでずれてしまったのか、あんまりもう思い出せません。ただ、父さんがある楽団を追い出されるように去ってから、歯車が狂いだした気がします。酒の量も増えてきたし。家族全体がバラバラになったような感じで。》
 つむぎから聞いたこととあまり相違ないが、楽団を追い出された、というのは初耳だった。
《でも、ぼくにとって父さんは父さんだから。変わらずに尊敬しつづけてきました。いつかまた、前みたいにかっこいい父さんに戻るって根拠もなく信じていたんです。今となってはバカみたいな話ですけど、それでもそう思っていました。》
 写真で見たスマートな姿から、スーパーで暴れたときに聞こえてきたひどい風貌に至るまで転がり落ちた。変わる前の姿を知っていたら、そう思うのも無理はないのかもしれない。
《言動が荒っぽくなりました。なぐられることもありました。汚い言葉でののしられたこともありました。うちの家族はみんな、父さんを恐れるようになりました。家族の会話というのはほとんどなくなっていきました。》
 僕は、息をのんだ。
《そして、とうとうその日がやってきたんです。》
 その文字だけ、一枚のメモ帳のど真ん中に大きく書かれていた。
 ここからが核心に触れる内容なのだと理解できた。
《父さんがとうとう傷害事件まで起こしたことは、知っていると思います。父さんは留置所に入りました。最終的に、被害者の人と話し合って決着をつけて、十日ほどで家に帰ることができたんです。》
《ここまでのことがあってもなお、ぼくは父さんを信じていました。逆に、反省して酒を減らしてくれるんじゃないかとさえ考えていたくらいです。でも、実際には、最悪のことが起きました。》
 その字がゆがんでいる。日野尚樹の文字はあまりうまくないけれど、非常に丁寧で読みやすかった。でも、ここに至って感情の起伏が文字に現れている。次のメモ書きに残された文章はめちゃくちゃで、文字の一部が黒く塗りつぶされて消されていたり、文字の大きさがバラバラになっていたりした。
《なんか、もう、すごく●。殺されるんじゃないかって。ああ、ぜ●んぶこわれ●ちゃった。そう思い●った感じ……いろんものはか●いされて、あ●たまんなかまっ白で。すみません、ぜんぜんうまくいえないですね。》
《とにかく、そのいろいろ。こんな感じでゆるしてください。たいへんだったんです、だからもう家はずっとあんなんだし、ぼくは引きこもっちゃったし。家にいないふりして。■■■■ちょっとつかれ●たので、休みます。ごめんなさい。■■》
 メモ書きはそこで終わっていた。さらに書こうとして消したあとがある。読んでいて、これ以上訊くことは望めないだろうとわかった。僕自身、家のことで苦しんだ過去があり、それと向き合う辛さは知っているつもりだった。
 書いてある範囲だけでも十分に推察できる。おそらく、スーパーで暴れたときの何倍もの激しさで、家のなかでやらかしたことがあったのだろう。それ以来、あの母親は夫と会うことを避けるようになり、日野尚樹は電気をすべて消してバリケードを張った。そんななかで、急に僕という人間があの家に紛れこんだ。
 つむぎはいったい、どんな気持ちであの家で暮らしていたのだろうか。初めて会ったときの涙の本当の意味がようやく腑に落ちた気がした。
 明日、僕はこのホテルを出て、あの家に帰らなければならない。堂々と日野尚樹に質問できるのも今回が最後だろう。
 しばらく考えた挙句、こんな質問をした。
《教えてくれてありがとう。十分だ。それと、僕は君のことをなんと呼べばいい?》
 チェックアウトの日の朝、ちゃんと返事が届いている。そこにはこう書かれていた。
《もともとぼくの先ぱいだったんだから、呼び捨てでいいです。尚樹とか。逆に、ぼくはセンパイと呼んでいいですか?》
 僕の声は、日野尚樹にも聞こえる。伝えるだけなら書く必要はない。
 まとめた荷物を背負いながら、僕はつぶやいた。
「それでいいよ、尚樹」
 握られたメモ書きがくちゃりと音を立てる。日野尚樹の声は、僕には聞こえない。

* * *

 雨は、一週間降りつづけていて、今もなお強く降っている。空は灰色の雲で覆われており、日差しが差し込むのをずっと見ていない。つむぎには今日帰る旨を伝えていたし、つむぎも同じく家に帰る予定だ。
《約束通り、一緒にお祝いしよう、お兄ちゃんの誕生日》
 小田急線のなかで、つむぎからそんなメッセージが届いた。
《学校終わってから、ケーキとかいろいろ買っておくね。お兄ちゃん、食べたいのある?》
 正直、尚樹の誕生日のことを忘れていた。それだけこの一週間は濃かった。
 尚樹の意識が共存しているのなら、本人の意向を確認しておけばよかったなと思う。
 僕のほうで適当に見繕っておくと打って、スマホをスリープした。ぎりぎりまでホテルにいたから、ちょうど正午くらいになっている。駅前で昼食を済ませてから家に帰り、そのあとに晩御飯の準備をしようと考えた。家をしばらく空けてしまったから掃除もしたい。
 昼食を終えたころには、雨がさらに強くなっていた。台風が来ているわけじゃなさそうだけど、ここ最近で一番強い雨じゃないだろうか。アスファルトにできた水たまりが通り道を封鎖していることがあり、飛び石みたいに薄いところを跳ねて行かないとまともに進めなかった。
 バイトのシフトも空けてしまったので、明日には再開しなければならない。
 僕はもう、日野尚樹としての日常に慣れている。不安定で、倒れることもあって、家族ではない相手と一緒にいながらも、僕にとっての日常に成りかわっている。僕が知覚している現実を尚樹も見て聞いていると知った今、この生活にまた別の色が加わったような感じがした。
 風が強くて、傘が裏返りそうになる。何度か足の踏み場に失敗した影響で、靴下はすでにびしょびしょだ。さっさと帰って風呂にでも入ろう。「すごい雨だな」とつぶやくと、尚樹が意識の片隅で肯定しているような気がした。
 念のため、家の周囲に怪しい人影がいないことを確認してから玄関ドアを開けた。三和土には出かけたときの状態から、つむぎの靴がなくなっているだけだ。暗すぎる家の電気をつけると眩しい人工的な光が瞬間的に灯った。
 洗面所からタオルを取って濡れた髪を拭き、靴下を脱いで洗濯機に放り込んだ。今着ているもの以外は全部ホテルで洗濯しておいたから、鞄から出しておくだけですむ。
 リビングの電気のスイッチを入れた。雨の音がうるさかった。キッチンに行き、コップを少し洗ってから水を飲む。そのあとに閉め切られていたカーテンを開け、窓の外の状況を見た。庭には特になにも干していないことを確認してからまたカーテンを閉める。
 鞄を持って二階にあがる。相変わらずピアノだけが置かれている防音室を通り、日野尚樹の部屋に入った。
 部屋の電気をつける。ちょっと散らかった部屋が浮かびあがる。鞄に入っていた着替えを元の場所に戻して、ベッドのうえに座った。
 そういえば、最近天気予報を見ていない。ホテルにいるときは、天気にまで頭が回らなかった。スマホで検索して調べると、どうやらいったん明日に天気が回復して、そのあとまた西から雨雲が流れてくるらしい。梅雨はまだまだつづきそうだった。
 家の冷蔵庫は空にしておいたから、今日の晩御飯のために買い物をしなければならない。
「尚樹は、なにが食べたい?」
 そんなことを訊いてみる。当然のことながら返事はない。虚しく宙に声が消えた。
 そういえば、味覚は尚樹と共有しているのだろうか。そこまで詳しくは訊けなかったからよくわからない。ほとんど味気ないものばかり食べていたし、久しぶりに思いきり美味しいものを食べたい。心労がたまっていると思われるつむぎを喜ばせたい気持ちもあった。
 つむぎが好きな食べ物は、エビフライだ。僕も好きだし、それでいいかもしれない。あとは鶏のから揚げとか、かき揚げとか、適当に油を使う料理を含めておけば十分だろう。せっかくだし、お刺身とかも買って、盛大に楽しもうと思った。
 雨は止みそうにないが、できることならば弱まったタイミングで出かけたい。僕は、窓にかかっていたカーテンを引いて、外を眺めた。
 見ていたスマホをポケットにしまう。音からわかっていたことだけど、弱まっている様子は全くない。天気予報でも、今日は深夜までずっと雨がつづく見込みとなっていた。また雨に濡れるのだと思うと嫌な気持ちになるがこればっかりは仕方ない。
 買うべきものを整理しながら、カーテンを閉じようとしたときだった。
 僕の視界の隅に、人影が映った。なぜその人の姿が気になったのか、自分ではすぐにわからなかったが、やがてたたずまいの異様さが引っかかったのだとすぐにわかった。白いTシャツ、デニム生地のパンツ。少し太っていて、顔の下部を覆うように髭が生えている。ビニール傘を手に持ちながら、じっと斜め上を見上げていて、その姿にピントがあってくると、その表情が変わった。
 無表情から、口元がゆっくりと横に開いていき、目尻にしわが寄る。そんな感じはしなかったけれど、笑っているのではないかと思った。
 その瞬間、急に脳裏が熱くなった。

 ――まずい!

 心臓が大きく跳ね、背筋が冷えた。
 カーテンをあわててしめた。僕はなにをぼさっとしていたんだ。
 僕は現在の姿を目の当たりにしたことがなかったから、認識するのが遅れた。
 父親だ。あれは、日野尚樹の父親だ。会うことを避けていた、例の男だ。
 微妙にネットで見た写真の面影が残っていたし、聞いた話とも一致する。
 このままやりすごそうかと思った矢先、気づいた。
 ――鍵を閉めていない!
 あわてて立ち上がった。伝聞情報だけでなく、僕の見たあの姿から妙な危機感を感じ取っていた。だが、僕の足から力が抜けて、がくんと膝をつく。平衡感覚を失い、視界がブラックアウトする。手をついて立ち上がろうとするも、どこに床があるのかわからない。
 と、僕の口の周りになにか温かい泥のようなものの感触があった。
 瞬きを繰り返すうちに視界が戻ってくる。僕は、倒れながら吐いてしまったようだった。昼に食べたばかりのラーメンがドロドロになって床に広がっていた。
 ――まさか、尚樹。こんなことしている場合か!
 壁伝いになんとか立ち上がる。しかし、また熱を持ったものが胸からこみ上げて、口から滝のようにこぼれ落ちた。今日食べたものがすべて吐き出されているんじゃないか。出し終わってから、口をぬぐい、膝を叩いた。
 寄りかかるようにしてなんとか階段のまえにつく。この状態で安全に降りようとすると恐ろしく時間がかかる。僕は勇気を振りしぼった。
 体を横向きにし、四つん這いになってから頭を抱え、一気に転げ落ちた。
 痛覚が鈍化していて、階段の角に当たる感触と痛みが別々に発生する。
 ぐるぐるぐるぐる視界が回る。
 腕に当たり、背中に押しつけられ、反対側の腕に体重が乗ってから、膝にぶつかる。
 ときおり足をのばして、壁にすりつけておいたが、自分の状況がまったくわからない。わずか数秒程度だと思うのに、やたらと長く感じた。
 やがて、回転が止まり、固い床の感触だけが自分の肌に残っていた。
 体のあちこちが痛む。途中、何度か減速しようとしたけど、うまく行ったのだろうか。特に背中を強く打ちつけたらしく、鈍い痛みが走っていた。
 立ち上がる。すべって、前のめりに倒れた。さっきの回転のせいなのか、吐いたときからのぐらぐらが直っていないのか。息を吸っている感じがせず、吐息の音ばかり聞こえていた。
 ――どうして。どうして。まだあんなところにいる。
 僕は匍匐前進みたいに玄関に体を進めていた。びっくりするほど体に力が入らない。
 ――一週間経って、もう安全になったんじゃないのか。
 また吐きそうになったので、懸命にそれを抑えた。これが尚樹の心情を反映させたものであると考えると、日野尚樹という人格が共存していることが改めて実感できる。
 気分が悪すぎて寝てしまいたい。体を動かしたくない。でも、ここでちゃんと侵入を阻まなければならないという確かな予感があった。それは、この体に染みついたものなのか、意識の片隅で尚樹が声高に叫んでいるせいなのか、わからなかったけれど。
 ――やめてくれよ。なんで僕がこんな目に。
 そのとき、無情にも玄関ドアが開く音がした。壁や窓にさえぎられていた雨音がダイレクトに僕の耳朶を叩く。
 顔をあげると、僕の前にやたらと大きく見える男の姿があった。
 ぼんやりとした視界にそびえる熊のような顔。閉じた傘を片手に持ち、僕のことを見下ろしながら、また口を横に広げた。
「尚樹」
 雷光に少し遅れた雷鳴が、その背中からごぅうぅうと浮かび上がった。



 玄関の扉が閉じられた。
 雨音が弱まり、雷鳴も聞こえなくなる。この体にかかる強い重力が、背中から一切離れることなく、僕を冷たい床に押しつづけていた。
 日野勝利が、玄関の上や下を向き、それから首を斜めに傾けた。黒目が右往左往しているのが気味悪く、僕のなかの緊張感がますます高まるのを感じていた。
 傘が倒されて、三和土にたたきつけられた。玄関のすぐそばでうつぶせになっている僕を、不思議そうに眺めている。
「どうした、尚樹?」
 目を合わせるのが怖くて視線をそらした。倒れたビニール傘は、遠目て見たよりもボロボロで骨の一部がゆがんでいた。雨から守りきれなかったのか、白いTシャツの肩の部分から水滴が垂れている。さっき玄関の電気を切ってしまったから、ドアが閉ざされたあとは黒い塊がのっそり動いているようだった。
「そこで寝ていたのか? あまりいいことではないな。そのように教育した覚えはない」
 低い、重量感のある声だった。そのあとに黒い塊が近づいてきて、靴を脱ぎ散らかしながら家にあがった。倒れた僕のそばで背筋を伸ばしながら立っている。小さな歩幅で僕の横を通りすぎていくとき、床の鳴る音が響いた。
 日野勝利の歩いた道筋に水滴が点々と転がっている。玄関のドアが近くにあり、僕の後ろに日野勝利のいる今が逃げ出す絶好のチャンスである。震える足に懸命に力を込めて立ち上がろうともがく。肺がふくらんでいく様を意識して、大きく息を吸った。立ち方を忘れていた僕の足の筋肉に、少しずつ力が込められていく。
「それでいい」
 背後から声が聞こえたので振り向くと、腕組みした日野勝利が僕のことをじっと見ていた。僕が立ち上がるまで、わざわざ待っていたのだとようやく気づいた。行動や思考がすでに支配されているかのような錯覚を味わう。前へ進もうという僕の意志とは裏腹に、足は一歩たりとも前に動かなかった。
「当然のことだが、わたしがいない間も練習はつづけていたのだろうな。毎日、最低でも六時間はピアノを弾くように言ったことを忘れたわけではあるまい。今日はその成果を見せてもらおう」
 裸足にのしかかる体重が、膝関節を曲げる力となって襲いかかる。油断してしまったらすぐにでも崩れ落ちてしまいそうだった。高いところから下ろされた長い腕が、僕の肩をつかむ。その手に力が入り、僕の肩から痛みが走った。
 至近距離になり、日野勝利の顔が視認できるようになる。浅黒い肌にぎらつく大きな二つの瞳がおびえた僕の姿を映し出している。また口を横に開く笑い方。唇の間から汚れた歯がのぞいていた。口臭も漂ってくる。
「お父さんの言うことを、ちゃんと聞きなさい。尚樹のためだ」
 口を開いても声は出ない。
「返事はどうした? まさかピアノの練習をしっかりしていないから披露できないなんて馬鹿なことを言うつもりか? 私が、おまえのことをどれだけ手塩にかけてきたのか。おまえには必ず一角の者になってもらわなければならない」
 日野尚樹として生活して二か月余り。この父親と会ったことは一度もなかった。こんな風貌で突然現れて、偉そうに胸を張る姿が恐ろしくて仕方なかった。久しぶりに会う息子に対してピアノのことしか話さないのも奇妙だと感じた。
「ああ、わかったぞ」肩をつかんでいるほうと逆の手で顔を覆う。「私が教えてあげられなかったから、拗ねてしまったのか。もう大人になりつつあると思っていたが、まだまだ子供だったのだなぁ。たとえ離れていたとしても、きちんとおまえのことを想っている。だから、今日だって忙しい時間を縫ってここまで来たんだ」
 笑い声がかすれている。この人はなぜ笑っていられるんだろうか。
「おまえが生まれたときから祈っていた。無神論者である私でさえもずっと神に祈っていた。スポットライトの照らされた輝かしいステージで多くの人に見守られながら、誰よりも美しい音を紡ぐ姿が未来として訪れることを。そして、おまえが座っているそのステージには指揮者として私も立つ。コンチェルトが終わると、とめどない拍手だ。夢だった世界が、現実として近づいてきている」
 持ち上げられていた頬が下がる。吐き気をこらえるのに必死だった。口のなかか渇いて、上唇が歯茎にくっついている。
「来なさい」
 肩から後ろの襟に移動した日野勝利の手が、僕を引っ張った。
 僕の逆らおうとする力よりもはるかに日野勝利の腕力が勝る。抵抗するたびに首元が締まるので吐き気が強くなった。階段をのぼる途中足を踏み外し、転げ落ちそうになったが、構わず日野勝利が強烈な力で引っ張りつづける。襟が首に食い込み、呼吸ができなくなった。階段に投げ出された体が、段差の角にこすりつけられる。命の危険を感じたが、体が言うことを聞かなかった。
 階段のすぐそばにある防音室の扉が開くと、そのなかに投げ飛ばされた。
 ようやく呼吸を許された僕は、のどをおさえながら懸命に息を吸い込む。胃からまた内容物が駆けあがってきて、ぼろぼろと口からこぼれ出てしまった。
「ううむ。おかしいな。おかしいぞ」
 防音室のピアノの蓋を指で触ると、日野勝利が言った。
「埃が積もっている。練習をしていたのならそんなわけはない。なんだ、なんだこれはなんだこれは!」
 僕の頬を掌で叩いた。吐いたゲロには見向きもしない。
「なにをやっていたんだ! ピアノピアノピアノ! あれほど言っていた私の指示をなんで無視した! 最近は結果も出ていないのに、サボっている場合か!」
 唾が飛ぶ。あまりの大声に、鼓膜が痛くなった。そこから先もなにかいろいろ言われたけれど、言葉として認識できず耳を通りすぎていった。耳が壊れるんじゃないかとさえ思った。
 僕はまた引っ張られて、ピアノのまえの椅子に座らされる。僕にピアノ経験などない。蓋が持ちあげられると埃が宙に舞ったのか咳が出た。鍵盤との距離感がつかめず、手を無理やり置かされたときに思ったよりも近くにあることに驚いた。
 日野尚樹の指の関節は太い。僕の手をつかむ日野勝利の手も同じ特徴を持っていた。どちらも手が大きく、厚みもあった。親子なんだということを、こんなところから思い知らされる。
「まさか、そのような体勢でピアノを弾くつもりか? 猫背! 腕の脇をしめろ! なぜこんな基礎的なことから指導しなければならない! どれだけ弾いていなかったんだ!」
 姿勢を正される。ドレミファソラシドがどこにあるかまではわかるが、それ以上のことはなにも知らない。今回ばかりは尚樹に変わってもらいたかったが、心のうちで呼びかけても反応はない。だが、僕では日野勝利を満足させることは絶対にできない。
「まずは、トロイメライから。楽譜などいらないだろう」
 手を叩いてリズムを取りはじめる日野勝利に戸惑うしかなかった。鍵盤に両手を置いたまま呆然としていると、手を叩く強さがだんだんと強くなっていった。
 大きな二つの手がぶつかりあって両手内の空気が破裂する音が一定のペースで鳴り響き、気が狂いそうになる。いっこうに弾こうとしない僕など関係なく、ずっと手を叩きつづけている。狭い室内に閉じ込められていると、日野勝利の体臭も気にかかるようになる。ピアノの屋根と譜面台との間に大きい窓が見えた。窓ガラスに水滴が強い力でぶつかっているようだったけど、その音はほとんど聞こえてこなかった。ぱちん、ぱちん、という強い音がずっと耳元で聞こえていて、その音が鳴るたびに僕の心臓がつぶされていくような感覚があった。僕のなかでは数分くらいつづいているような気がしたが、実際には数十秒程度の出来事だったのかもしれない。
 やがて、手の叩く音が止まった。おそるおそる日野勝利の様子を確認すると、僕を見下ろしながら片頬を吊り上げていた。
「トロイメライは嫌だったか。では、メランコリーだ」
 あきらめたのではなかった。またその両手が一定のペースで叩かれる。電気のつけられていない暗い部屋のなかに、窓の外で走った雷光が瞬いた。雷の音さえも耳に入らない。ひたすらに手と手がぶつかり合う音だけがつづいている。またしばらく鍵盤に手を置いたまま動かずにいると、別の曲名の名前を告げて、さっきと同じように手を叩きはじめる。そんなことを何回も繰り返した。
「ラ・カンパネラ」
 僕でも聞いたことのある最高難度の曲。告げられる曲の難度が徐々に上がっていることは理解していたが、もはややけっぱちとしか考えられない。これもまた弾けずに黙していると、やがて僕の体に強い衝撃があった。
 床にぶつかった僕は、遅れて突き飛ばされたことを把握した。起き上がろうとする僕の両肩をおさえつけた日野勝利が僕の上に馬乗りになり、大声で叫んだ。
「いいから弾けぇえええ!」
 拳が突き刺さった。繰り返し繰り返し、その拳が僕の腹や頬に振り下ろされた。
「自分の状況がわかっているのかぁぁ!」
 転げて避けようとしても、視界が定まらず、距離感覚がつかめなかった。
「このバカ野郎が!」
 体を守ろうとする腕ごとつぶされる。力が強すぎてどうしようもない。
 日野勝利の声は耳鳴りとして、拳の衝撃は全身を伝わる大きな振動として認識される。痛覚はどこか遠いものとして体を走っていた。状況がわからない。視界は何度も揺れるし、乗りかかっている日野勝利の重さに苦しさを覚える。殴られながらも、僕は別のことを考えていた。つむぎのことだ。今は何時なんだろう。つむぎが、今の状況で帰ってきたらどうなってしまうのだろう。僕は兄ではないけれど、騙してきた罪悪感も、これまで僕を支えてくれた感謝の念もあった。まだ学校にいて、僕と尚樹のためにどんなケーキを買おうかと楽しそうに笑っているのだろうか。僕が料理の準備を進めていることを信じて、もしかしたらプレゼントを買うことさえも考えているのかもしれない。こんなどうしようもない兄のために、二人だけで過ごす誕生日会を盛り上げるため、なにをしようかと想像を膨らませているのかもしれない。だが、現実というのはこんなにも馬鹿げている。痛みと苦しみが綯交ぜとなった不快感のなかで、この降り注ぐ拳を受けつづけているだけの時間でしかない。
 殴り疲れたのか、いつのまにか振動は止まっている。また吐いたらしく、僕の左頬に吐瀉物がかかっていた。酸っぱい臭いがする。それでどうやらまだ生きているのだとわかった。
 防音室の扉を開く日野勝利の背中が見えた。目玉だけを動かして様子をうかがうが、その姿は扉の向こうに消えていた。
 体の痛みを強く感じた。痛みのないところなどないというくらいに全身が痛かった。ポケットをまさぐると、そこにはまだスマホがちゃんと入っている。
 震える手でスマホの画面をつけて、LINEを開いた。
《家に帰ってくるな》
 それ以上の文章を考えるのはしんどかった。この雨だし、以前みたいにメッセージを読めない可能もある。だが、すぐに既読の文字が灯った。スマホの時刻は十四時くらいだから、まだ学校にいる時間だろう。
 つむぎからの返信が届く。
《なにがあったの》
 僕はすぐに返す。
《いいから。絶対に帰るな》
 スマホをスリープしてポケットにしまった。ここまで言っておけば帰ってくることはないと思った。
 安心感が芽生えるのと同時に、痛みが再度蘇ってくる。
「参ったな……」
 喋ったつもりだけど、声に出せたか自分でもわからなかった。口のなかに固いものが転がっていたので、口から吐き出すと折れた歯だった。血にまみれている。
「僕も、こんな目に遭ったことはないよ。尚樹」
 ホテルにいたとき、見ることと聞くことくらいしかできないと言っていた。また、体の主導権が移るときは、しびれた手足に血流が戻る感覚に近いとも言っていた。であれば、この痛みは共有されていないはずだ。もしそうなら、よかったと思う。
 痛みは、人の精神を和らげることがある。僕はそれを知っている。だからといって今の強烈な痛みはその域を超えている。
「おまえも大変だったんだなぁ。おびえていた理由がわかったよ。そりゃ怖いよなぁ。つらかったよなぁ。簡単に逃げることもできないもんなぁ」
 かすれ声でもいい。とにかく伝えられるのであれば、話さないといけない。僕の体力もどこまで持つか自信がなかった。
 僕は言った。
「逃げるぞ、尚樹」
 頭に思い浮かぶのは、カーテンを閉め切って、椅子をドアの前に置いて、ベッドのうえで膝を抱えながらおびえている一人の男の姿だった。僕の協力なしで、立つ気力すら持てないことだろう。でも、彼の協力なしに、僕もどうすることもできなかった。
「いろいろ考えているんだろ。もともと、父親のことを尊敬していたらしいじゃないか。だから、そんな自分を捨てられないのかもしれない。ずっと父親に支配されて生きてきて、逆らうことに恐ろしさを感じているかもしれない。でも、もう限界だと理解はしているだろう?」
 掌を握った。
「いつ戻ってくるかわからない。痛みは僕が引き受けてやる。だから、勇気を持ってくれよ、尚樹。そうしたら、僕が外に連れ出してやる」
 僕はもう一度繰り返した。
「一緒に逃げよう、尚樹」
 その瞬間、体が一気に軽くなるのを感じた。

 防音室の窓は、五十センチ四方くらいで人が通るのに十分な大きさだった。防音室から出てしまったら、ドアの開閉音で気づかれてしまう可能性がある。家にはいない可能性があるが、確実性の高い手段をとるしか選択肢はなかった。
 レバーを上げて、窓を手前に引いた。窓は二重構造になっていて、十センチくらいの隙間の先に、もう一つ分厚い窓があった。つまみで施錠するタイプだったので、ひねって開錠した。窓を横に転がすとようやく外との境界がなくなった。見下ろした先に、リビングからも通じている庭が見える。
 思ったよりも遠い地面に対して迷っている暇などなかった。僕は窓に足をかけて、窓枠に腰かける形で腰を下ろした。右足が防音室に入っていて、左足が外に投げ出されている。
 絶え間ない大粒の雨。顔に容赦なく降りかかってくる。着ていた服がすぐにずぶ濡れになり、髪の毛からは雫がこぼれてきた。これだけの雨音であれば、着地の音をごまかせるだろうか。
 少しずつ体をずらしていき、窓枠を両手でつかんだ。右足を下ろして宙ぶらりんになる。
 そして、一気に両手を離して、庭に飛び込んだ。
 ぐちゃっ、とぬかるんだ地面にぶつかった。泥のおかげで思ったよりもダメージが少ない。両脚は痛んだけれど、音や衝撃がぬかるみに吸収されたようだった。そのかわり、僕の膝や腕は泥まみれになった。カーテンは、帰ってきたときと同じくちゃんと閉められている。
 ふらふらになりながらも、家の外に出る。
 この雨のなか、外を出歩いている人はあまりいない。時間的猶予があれば、スマホで救急車や警察を呼ぶだけで済んだかもしれない。けれど、いつ戻ってくるかもわからない状況で、悠長に待っているわけにもいかなかった。裸足で、泥まみれで、ズタボロの体を引きずりながら歩く僕は、周囲からいったいどう見えているのだろう。
 僕の足は、自然とあの場所に向かっていた。
 雨に打たれて、全身の傷に染みる。塀に手をついて体を支えながら、肩で息をして、それでもまっすぐ前を見据えて僕は歩いていた。
 ふと、正隆さんの声が脳裏によみがえってくる。
(私は、他人だなんて思っていない。だから心配になる。せめて目の届く範囲にいてほしい)
 目をつぶるとまた意識を失うんじゃないかというくらい、息が苦しかった。
 歩くのをやめたくなったとき、佳織さんの声も聞こえてきた。
(わたしたちのことは気にせずに来ていただいても大丈夫ですよ)
 美帆の声も。
(猫を拾ったの)
 そして、弘香の声までも、頭のなかに響いてきた。
(朝倉さん)
 僕を温かく包み込んでくれた人たちの声に、僕は立たされていた。今の僕は朝倉圭人ではないけれど、それでも、僕が唯一心を預けられる場所だ。一本の道を進み終えて、横を走る道路を渡ると、緑の葉をつけた桜の木が並ぶ歩道に至る。足を休めるため、水無川の河川敷との間に設置されたフェンスに寄りかかったとき、水無川から轟音が聞こえてきた。
 普段から目に焼きつけていた姿ではない。もっと凶暴なものに変貌している。
 増水だ。
 上流から下流にかけて、ただの下り坂のようだった水無川の表面にすさまじい勢いで水が流れている。ここ最近はずっと雨がつづいていたし、なおかつ今日の雨は非常に強い。伏流水があふれて、通常の河川と同じように、あるいはそれ以上の激しさで水しぶきを上げ、濁った水を奥へ奥へと押し出していた。
 川面はしきりに形を変えて、ときに大きく跳ねたり、左右の強い流れに飲み込まれたりする。段差を落ちるたびに白い泡を引き連れて、波打ちながら大きな音を響かせていた。
 そのとき、上流のほうから一塊の大きな波が押し寄せていることに気がついた。
 少しずつ近づいてきて、やがて僕の前を通りすぎたあと、より大きな水流となって延々と下りつづける。
 さらに水音が強くなる。
 僕の髪や服を濡らしつづける雨が、桜の枝葉を叩きながら、雨だれを地面にぶつけている。
 水の流れが強くなると、僕の胸を締めつけるように悲しみが押し寄せてくる。
 僕は戸惑った。自分でもその感情を制御しきれなかった。
 これはなんだ。
 体の痛みによる不快感とも、こんな目に遭わされている懊悩とも違う。
 奥底から、突き動かされるような熱いものがこみ上げていた。
 僕の瞳から、一粒、二粒と涙の雫が落ちる。
 悲しくないはずなのに、悲しくて泣いている。
 怒涛のように押し寄せる悲しみは、血流をゆがめ、湿ったものをあふれさせていた。
(ごめんなさい)
 震えたような声が僕の脳裏に聞こえたのは、それからすぐのことだった。
(ごめんなさい、ぼくのせいで。ごめんなさい、ごめんなさい)
 川の勢いに連動するように、その悲しみが僕の内側を暴れまわる。
 とめどなく僕の心に流れ込んでくる。
(ごめん、なさい……)
 その言葉は、日野尚樹のものであるということはなんとなく伝わってきた。
 雨はますます強く、僕の体を洗い流していく。
 生き物のように、うごめき、うなりつづける川を僕は見つめる。自分の顔から垂れているものが、雨なのか涙なのかももうわからない。フェンスをにぎる僕の手には、強い力が込められていた。全身の力を使わないと、意識ごと轟音に吸い込まれていくような気がした。
 ――ああ、ほんとにひどい有様だ。
 川は、鉄砲水からさらに水位を増して、雨粒をその身に取り込みながら過ぎ去っていく。
 涙にぼやけて、雨に煙った視界のなかで、僕はしばらく立ち尽くしていた。

* * *

 ちりん、とガラスの鳴る音がする。風に吹かれた風鈴の短冊が、くるくると回転しながら宙を泳いでいる。雲一つない空に、数羽のウグイスが舞っていた。掃き出し窓のそばの縁側に腰かけながら、僕は首をそらして眩しい日差しをうっすら開いたまぶた越しにのぞいている。
 蝉時雨が響くなか、額から垂れてきた汗をぬぐう。強い日差しに形作られた影が、僕の左腕のあたりからまっすぐ伸びていた。後ろからの扇風機の風が、肌を冷やしてくれる。
「アイス食べる?」
 僕に近づいてきた影があった。横を向くと、そこには美帆がいた。
 返事をする間もなく、カップアイスとスプーンをそばに置かれる。僕は、うなずいて、「ありがとう」とだけ告げた。
 美帆も僕の隣に腰かけて、扇風機を近くに引き寄せた。
「最近は、またよく来るわね」
 蓋を開けて、スプーンをつついてみるがまだ溶けていない。あきらめて、アイスをまた置きなおしてから僕は言った。
「いろいろあってね」
「うまくやっているみたいじゃない。あの子も部屋から出てくることが増えたわ」
 弘香のことだろう。僕は肩をすくめた。
 実際、僕と弘香は打ち解けて、会えば普通に話すようになった。眠ってしまった僕に話しかけてきたあの日からだ。学校にも通いだしたと聞いたことがあった。初めて会ったときと比べて、たいぶ元気になったという印象がある。
「心配かけてごめん」
「まったくよ。世話の焼ける弟と妹が同時にできたような気分だわ」
「僕はともかく、弘香のほうは実際に妹だろう。義妹だけどさ」
「ま、この歳でそうなっても簡単に割り切れるものじゃないわよ。向こうもどう思っているかわからないし」
「このまえ、姉さん、って呼ばれてなかった?」
 すると、美帆は「そうだったかしら」と鼻を搔いた。珍しく照れくさそうだと思った。
「中学のときだって、後輩の一部には姐さん姐さんって言われて慕われていたじゃないか」
「それはさすがに字が違うわよ……」
 アイスが溶けてきたときに、車輪の回る音が聞こえた。佳織さんが、車いすを動かしながら居間に入ってきた。首を回して、誰かを探しているようだった。
「あら、弘香がどこに行ったか知らない?」
 美帆が答えた。
「確か、友達と服を買いに行っているはずです」
「ごめんなさい。そうだったの。てっきり家にいるんだと思っていたわ」
「あの子がどうかしたんです?」
「単に、どこにもいないから気になっただけよ。そうね、ここに来てからお友達もいなかったけど、最近はちゃんとそういう子もいるのね」
 うれしそうに笑っている。この暑いなか、よく出かける気になるもんだと僕は思った。
「圭人くんは、今日ここで食べていく?」
 佳織さんがそう尋ねてきた。
「ええと、そうさせてもらえると」
「全然いいのよ。それじゃ、そのつもりでいるわね」
「すみません」
 夏休みに入ってから、僕はほとんど毎日のようにこの家に入り浸っていた。僕自身のためではなく、チロのためという建前もつづいていた。弘香にも懐きつつあったけれど、一番懐いているのは、その段階でも間違いなく僕だった。
 アイスを食べたあと、蚊に刺されてしまったので縁側から出て掃き出し窓を閉めた。ソファに腰かけると、居間のなかをうろついていたチロが僕の足元に近づいてきた。その体を持ちあげて、自分の横に置き、背中をさすると気持ちよさそうに目をつむっていた。
 空が赤らみはじめたころ、弘香は帰ってきた。さらに少し遅れて正隆さんも仕事を終えて、家に戻った。
 ご飯を作るのは、だいたい佳織さんだった。佳織さんが来てから、キッチンの周囲を改造して車いすでも不自由なく料理できるような仕組みが出来上がっていた。いつも、この家の食事は非常に質素なものだったけど、佳織さんが作るようになってからそれも変わっていた。
 日が沈み、窓から入る光は減っているが、居間の天井に設置された蛍光灯の光が、まばゆく居間を照らしている。僕も美帆も弘香も、食事を運ぶのを手伝い、テーブルのうえには五人分の食事が並べられた。五人がそれぞれいつもの椅子に座って、箸を持った。
 僕のなかの思い出は、きれいに光り輝いている。
 五人はいつも、どうでもいいような話をする。その日に起こったことだったり、ニュースに関することなど話題はいろいろだ。なんの気兼ねもなく、僕らは口々に好き勝手にしゃべりながらおいしいご飯を口に運んだ。
 最初は、こんなふうにうれしくて楽しくて、幸せな気持ちを得られるなんて想像もしていなかった。正隆さんや美帆によって寄せ集められた僕たちは、少しずつ会話を重ねて、少しずつ心を許して、笑いながら食卓を囲えるまでになった。
 僕の前に広がる景色は光に満ちていて、白さにつぶれるほどだ。僕にとってこの景色はなによりも大切で、宝物のような存在だった。もっと長くこの幸福な光景を見ていたかった。もっと僕を温めてくれるこの場所で僕のことを迎え入れてくれる人たちとかかわって、ときに恩返しもしたかった。朝倉圭人として得たこの関係をもっと大事にしたかった。
 でも、僕は、そんな日々を他人のものとして背負うことしかできない。朝倉圭人としての過去を、記憶を、幸せな光景を、大事な人たちと共有することはできない。
 輝いているその景色が、だんだんと遠ざかっていく。
 僕一人だけ、暗い場所に取り残されて、みんな光の彼方に消えていってしまう。
 正隆さんの赤ら顔も、佳織さんの柔らかい微笑みも、美帆の呆れたような表情も、弘香の子供みたいな満面の笑みも、だんだんと、かすれて、見えなくなっていく……。


























エピローグ


 病院のベッドで目覚めるのは、これで二度目だった。まさかこの短期間で同じようなことが起こるとは全く思っていなかった。ただ、前回と違う点は、僕の体に倒れる要因が刻まれていて、明確に入院が必要だと判断された点だった。
 僕は、結局白瀬家には到達できず、水無川沿いの歩道のうえで倒れていたらしい。朝倉圭人が死を迎えた場所と奇しくもほとんど同じである。救急車で運ばれて、結局、前と同じ病院の別の病棟で入院する羽目になった。
 よほど傷がひどかったようで、起きてからも三日間は歩くことさえできなかった。あばら骨は折れていたし、腕にはヒビが入っていたし、二階から落ちた際に膝も痛めたらしい。気絶してから丸一日眠ったあと、目を覚ましたとき、あまりにも全身の痛みがひどくて驚いた。
「お兄ちゃん、着替え持ってきたよ」
 ベッドの横の椅子につむぎが座る。目覚めたばかりのときは泣きじゃくっていたけれど、今はだいぶ落ち着いたようだった。
「ありがとう。いつも悪いな」
「ううん。わたしにはこれくらいのことしかできないから」
 受けとろうとすると痛みが走るから、ベッドのわきに置いてもらった。下半身よりも上半身のダメージが大きい。
 倒れたときとは打って変わり、現在、外は晴れている。梅雨前線はまだ去っていないようだけど、今日はちょうど関東周辺を雨雲が避けてくれていると天気予報が伝えていた。
「窓、少し開けようか?」
「そうだね、そうしてくれ」
 つむぎが立ち上がった。開いた窓から、緩い風が流れ込む。
「お母さんは来た?」
 前髪をおさえながらつむぎが尋ねた。僕はかぶりを振る。
「わかっているだろう。僕は、昔のあの人を知らないけど、そういう期待は持てない」
「うん、そうだね……」
 椅子に座りなおしたつむぎは、顔を俯けてしまった。また思いつめてしまっただろうか。
 ずっと、僕に巻き起こった出来事をつむぎは重く受けて止めていた。当然と言えば当然だ。一週間だけと甘く見た結果、僕は殺されるほどの目に遭った。あの家のなかの様子や僕が発見されたときの状況からして、どれほどのことがあったかは想像に難くないだろう。過去のことをつむぎは話したがらなかったし、唯一事情を詳しく知っている自分が、もっときちんと僕を守らなければならなかったと泣きながら言ったことがあった。
 しかし、当然つむぎのせいなんかではない。
 日野尚樹のトラウマによる影響がなければすぐに逃げられただろうし、もともと僕も油断していたところがあった。早く彼の存在に気づいて、いち早く行動に移していれば、こんなことにはならなかったかもしれない。
 そして、なにより一番悪いのはあの父親だ。
 もちろん、僕はあの父親の過去を知らない。どんな思いで生きていたのかもわからない。だけど、僕は彼を許すことはできなかった。父親のことを日野尚樹はずっと尊敬していた。あれだけ殴られても、その思いは捨てきれなかった。水無川のそばに立ち、日野尚樹の感情があふれてきたときに身をもって知ることができた。
 結局、あの家にいた日野勝利は、つむぎの通報によりお縄となった。すぐに僕がボロボロの体で発見されたこと、日野勝利の過去に傷害罪での逮捕歴があったこと、日野勝利自身も特に容疑を否認しなかったことが決め手だった。今は留置所で取り調べを受けているらしい。
 警察の人も僕のところに来たが、送検と起訴はほぼ間違いなくされるとのことだ。そういう意味では、しばらく恐れる必要はなくなった。
「お父さんがいなくなって、お母さんが元に戻ってくれるんじゃないかなって少し思っていたから。でも、もう無理なんだね」
「そんなふうにあっさり戻るなら、初めから僕たちを見捨てるようなことはしなかったんじゃないかな。というか、僕に起こったことをあの人は聞いているのか?」
「聞いているはずだよ。わたしは警察で一度会ったから」
 そのときにはまともに会話できなかったようだ。僕たちが生きているかを確認していたと前に話していたから、もう興味もないのかもしれなかった。
 正直なところ、僕自身もあの母親には関心がない。ただでさえ僕にとって赤の他人であるのに、親らしいことをしない姿を見ていて好感が持てなかった。日野直樹として生きて、僕が狂わずに済んだのはひとえにつむぎのおかげである。
「つむぎは、僕がいればいいと言っていただろう。僕も、正直、家族はつむぎだけで十分だと思う。十八になったし、できることが増えた。両親に頼る必要はない」
「うん」
「今度からは、僕に頼ればいいよ。記憶も少しずつ戻ってきているんだ」
「え?」
 つむぎは目を丸くした。記憶は当然戻っていないが、日野尚樹と共存していることを知った今、こう説明するのが自然だと思った。
「初めて僕がつむぎに弾いてあげた曲がショパンの前奏曲『雨だれ』だった。僕が、九歳で、つむぎが六歳のときのことだったよね」
 すると、急につむぎが顔をゆがめた。
 この話は、尚樹から教えてもらったことである。入院中、尚樹にこっそり筆談で過去の出来事を尋ねた。うすうす気づいてはいたが、強雨でなくなり、水無川の水位が下がったくらいのタイミングで尚樹の声はまた聞こえなくなった。
 どうしても、つむぎに大好きだったはずの兄の言葉を聞かせてやりたかった。
 僕はつづけた。
「『ごめん、ずっと一人にさせてしまった。ぼくはもう大丈夫だ』」
 つむぎの目からはぼろぼろと涙がこぼれていた。初めて会ったときとも違う、さらに強い感情がもたらした涙のように見えた。
 他人の人生を背負わされることの意味を僕は舐めていたのだと思う。望んでそうなったことはないとしても、僕は日野尚樹であることもつづけなければならない。
 たとえそれが、つむぎを騙すことであったとしても。
 僕は、つむぎが泣き止むまで黙って見守っていた。

* * *

 さらに翌日のことだった。
 また雨が降っていた。僕は、大人しくベッドで横になりながら本を読んでいた。入院生活というのは思ったよりも暇なのである。つむぎが来ているとき以外、体の痛みが少しずつ収まるのを待つしかなかった。
 昼過ぎ、まずい病院食を食べ終わって、眠くなりはじめたころ思わぬ見舞客がやってきた。
 かつ、かつという足音。またつむぎかと思って顔をあげたとき、体が凍りついた。
「……なんで?」
 思わず声が出てしまう。そこにいたのは弘香だった。
「近所で話題になっているらしいわよ」
「そんなことを訊いているんじゃないけど、どうしてここに?」
「さすがに気になったの。冷やかしで来るほど悪い人間じゃないつもり。少しかかわった人間として、心配になったから来ただけ」
 特に見舞い品は持ってきていない様子だった。足を動かすたびにスリッパと床がこすれて、キュッキュッという音が鳴っている。
「……本当に大変だったんだ」
 僕の顔をまじまじ見ながら言う。
 頬が腫れているし、口のなかは前歯が一本折れたせいで隙間ができている。自分でも気の毒になるような姿だと鏡を見たときに思った。
「頬はともかく、歯はどうしようもないな。インプラントにするお金もないし、折れた歯も回収できなかったし。退院したら歯医者に行って、修復できるか相談してみるよ」
 歯がないせいで少し喋りづらい。ものを食べるときに痛みがあり、かなりストレスである。今は比較的痛みのない左の奥歯で噛んでいる。
「……殴られたの?」
 弘香は、僕に尋ねたあと、しまったという顔をした。あまり突っ込んで訊くべきではないと考えたようだ。
「別にいいよ。そのとおりだ。殴られた」
「そう。そうなんだ、うん」
「いつのまにか折れていた感じだったな。ほかの歯も、折れていないけど結構痛むんだ。早く歯医者に行きたいよ」
 なるべくおどけて話したが、あまり効果はなく、弘香は眉間にしわを寄せた。
 僕は弘香の過去を知っている。だから、この手のことに敏感なのも理解している。
「僕は、別に平気だ。もう過ぎ去ったことだ。二度とこんなヘマはしないよ」
 自分の身近な範囲でこのようなことが起こったことに戸惑っているのかもしれない。申し訳ないという気持ちがあった。
 弘香も、この話をつづけるべきではないと判断したらしく、横のキャビネットに置かれていた本に視線を移した。
「意外と、そういう本も読むのね」
「小説だけどね。暇つぶしにはちょうどいいんだ。いつでも中断できるから」
「ちょっと見てもいい?」
 紙のブックカバーがつけられたその本を手に取る。ぱらぱらとめくっていたが、あまり興味をそそられるような内容じゃなかったのかすぐに本を閉じた。
 すると、本の隙間から一枚の薄い紙がひらひらと落ちた。僕の体勢では拾えないため、弘香が紙を拾いあげる。
 その瞬間、僕は自分の失敗に気づいた。
 それは、昨日の夜、僕が尚樹に質問するために書いたメモ書きだ。しおりにちょうどいいため本に挟んでいたのだ。昨日晴れていた影響か、尚樹からの返事はもらえなかった。
 でも、と僕は思いなおす。よく考えれば大した質問はしていない。
《ほかに、なにか言っておきたいことはある?》
 書いたことはそれだけだ。焦った様子を見せると逆に怪しいと気づき、僕はあえて取り返そうとしなかった。
 拾ったあとの弘香は、明らかにしおりではないからかまじまじとメモ書きを眺めていた。
 やがて、その動きが止まる。そこに書いてある文字を見たのだろう。
「さっき、妹に伝えるために書いたんだ。あんまり気にしないでくれ」
 手を差し出す。それでも、弘香は目を見開いたまま、返そうとはしなかった。
「どうした?」
 どうも様子がおかしい。僕の質問に答えることなく、弘香は声を震わせてつぶやいた。
「………なんで……この字……」
 僕を見た。その目が、まっすぐ僕をとらえる。
 僕は動揺を隠すのに必死だった。
 弘香は、僕の字をよく知っている。だから、メモ書きに異様な反応を示したのだ。
 表情には出さず、僕はメモ書きと本をつかんで、キャビネットのうえに置きなおした。なにも知らないふりをしようと心に決めていた。
 弘香は踵を返す。僕のこの行動をどう受け取ったのかはわからない。なにも言わないまま病室から出ようとする背中を僕はそのまま見送っていた。
 姿が見えなくなり、足音も聞こえなくなり、窓の外の雨の音だけが耳に入るようになったとき、僕は自分のなかに違和感を覚えた。
 ――あれ?
 すぐには違和感の正体がわからなかった。自分の心を整理していったとき、やがて一つの疑問にたどりついた。
 ――どうして、僕は、こんなにごまかすのに必死になったのだろう。
 日野尚樹として振舞わなければという思考が、とっさに僕の脳裏を走った。今までにない思考だった。日野尚樹と思われなければならないなんて、なんで考えたのだろう。
 なにかが、僕に起きている。
 胸に手を当てると、激しい心臓の鼓動が伝わってくる。
 父親のことを知り、尚樹の事情に同情したから? それとも、ただの気の迷い?
 いや、あるいは。
 僕は、背筋が冷えるのを感じた。芽生えた一つの予想に恐ろしさを覚えていた。
 尚樹から感情の奔流を受け取ったあのときから僕に変容が生じたのではないか――。
 窓には水滴が無数に散らばっていて、ときおりその一つが重力に負けて滑り落ちる。
 考えるのをやめた僕は、ベッドの掛布団を引っ張り、そのなかにうずくまるのだった。







◆ ◆ ◆

 嵐はいつも吹き荒れている。楽しかったことやうれしかったことは次第に薄れて消えていくのに、良くなかったことばかりが心に刻み込まれてしまうから、あとで記憶を古い順番になぞっていくと、打ちひしがれた日々の光景だけが映写されて、その隙間に存在したはずの美しい記憶は闇のなかへと転げ落ちてしまう。涙に濡れ、心を壊された年月が、いつもわたしの記憶としてこびりついていて、なにかを思い返すたびに、嵐に包まれる。すると、過去から連綿とつづく人生というものが、どうしようもなく虚しく思えてくる。

 わたしにとって、あの人たちに出会う前の日々は息苦しい水槽のなかでした。
 物事は必ず悪い方向に進みます。願ったことは叶えられず、一生望むはずのないことばかりが起こり、どうしようもない現実に苦しみを抱くのです。たとえ、たまたま積み重なったものだとしても、期待と失望を繰り返すうちに、物理法則のように絶対的な方程式なのだと徐々に思わずにはいられなくなります。
 だから、わたしがあの人たちに会ったときも、さほどの期待をしていませんでした。
 むしろ、また悪いことが起こるのだと決めつけて、関わることを避けていました。
 やたらと大きな屋敷の隅にいて、誰にも見つからないところに縮こまっているほうがはるかに安らぎました。ほかの誰もいない空間では、誰かの声は聞こえません。無機物に囲まれながら、なんの振動もない空気だけを肌に受けているときは、わたしに存在する嵐が収まり、わたし自身も無機物であるかのように思い込むことができました。
 でも、わたしは人間ですから、置物として過ごすことはできません。食べたり飲んだりしなければ生きていけません。そこにどうしたって人とのかかわりが発生します。
 朝倉圭人さんは、わたしの人生に突如として現れた男の人でした。
 不意打ちのように出会い、最初は拒絶することしか考えませんでした。
 向こうもわたしの拒絶の態度には気がついていて、距離を置いてくれました。しだいに家にも来なくなり、だんだんと朝倉さんの存在を忘れてきていました。
 しかし、ある日を境に、またわたしの前に現れるようになったのです。
《急にごめん。今日、チロにエサをあげたタイミングを教えてほしいんだ。僕が面倒を見ていたときは、朝昼晩に少しずつエサを出していたんだけど、今エサを出すべきか迷っている。》
 チロの面倒を見るために来たという朝倉さんは、返事をしないわたしにそんな紙を差し入れてきました。戸惑いましたが、ここまでされたら返さないわけにはいきません。必要なことだけを書いて戻しました。わたしと顔を合わせたときの申し訳なさそうな表情に、罪悪感を覚えたためでもあります。
 だけど、そこからしばらく、わたしたちは紙に書いた文字で話をするようになりました。
 何度かやりとりしているうちに、そのことが苦ではないことを知りました。声を介さず、紙に記された文字だけで伝えあう。静かな言葉の応酬が、とても心地よかったのです。
 しだいに、わたしと朝倉さんのやりとりは増えていきました。内容は、どんどん深くなっていき、自分のことを話すことに抵抗がなくなっていきました。だから、ある日、わたしは自分の心に秘めていた、自分の正直な考えを書き記すことにしたのです。
 書いて渡してから、少し後悔しました。ここまで明け透けにしてしまって、恥ずかしいという気持ちになったからです。でも、朝倉さんは真剣に受け止めていました。
 そこから紙を渡しあってしばらく、朝倉さんから返事が来なくなったことに気づきました。
 最後にわたしが書いて、引き戸の反対に差し込んだ紙は、まだ挟まったまま残っています。
 どうしたのでしょう。もう帰ってしまったのでしょうか。
 気になったわたしは、膝を立てて、引き戸をそっと開きました。
 引き戸の先には中庭があり、オリーブの木がまっすぐ立っています。木の葉のこすれる音を感じながら横を見ると、そこには膝を抱えて眠っている朝倉さんの姿がありました。
 床と接している脛に、木材の冷たさが伝わってきます。窓が開いていて、満月の青白い光が直にその場を照らしていました。朝倉さんの顔は下に向けられていて、かすかに寝息のようなものが聞こえてきます。
 わたしはずっと直接話すことを避けていたわけですから、朝倉さんの姿をまじまじと見るのは初めてです。いえ、それどころか、男の人の顔をしっかり見たことさえもなかったかもしれません。
 この人は、どんな顔をしているんだろう。そんなことがふと気にかかりました。
 膝を滑らせるようにして、朝倉さんのすぐ横に近づきました。肩をずらすだけで触れてしまうほどの距離です。じっとその寝顔を眺めていると、やがて朝倉さんが目を覚ましました。
「あ……」
 どう反応すればいいのか、わかりませんでした。顔をのぞいていたことを知られたら変な子だと思われてしまいます。恥ずかしくて、ごまかすように呼びかけました。
「朝倉さん」
 すると、朝倉さんは、寝ぼけ眼で瞬きを繰り返したあと、穏やかに笑いかけてきました。
 時間が止まったような感覚がありました。どうしてなのか自分でもよくわかりません。
 ただ、その瞬間に、わたしのなかの嵐が弱まるのを感じたのです。

 それが、わたしの恋の始まりでした――。

失われたボーイミーツガール

執筆の狙い

作者 DS
19.20.178.217.shared.user.transix.jp

長編ですが、一人でも最後まで読んでくれる方がいると嬉しいです。

コメント

謎の物書きP
fs76eed67d.tkyc307.ap.nuro.jp

拝読しました。
細かいことは後回しにするとして、とりあえず総評として、面白かったです。
それにしても長編です。ここでは実質的限界が1万字くらい。この長さになるとほぼ読まれないレベルです。何字あるんでしょう?
私もやらかしてるので責めるつもりはないですが4万字以上ありそうです。そこは20万字まで入れられる仕様にしている運営様の責任なんで私としては別にいいんですけど、一応4万字以内がここの規定です。

本題です。

プロローグは文末が「た」「だ」の連続が気になりました。でも本編の方ではよく配慮されているので、過去であることを強調していたのかなと。
誤字はちらほらありましたが、このボリュームならかなり少ないのでは。でも

>【つむぎは】「そう」とつぶやいた。眉間にしわを寄せている。
ここは弘香ですよね。

本編冒頭から謎があって興味惹かれます。そういったシチュエーションの話はよくありますが、ありきたりにならないのは見事だと思います。
あと、登場人物それぞれの人物像がよく書けていると思います。キャラに厚みがあります。つむぎが歳の割にしっかりしすぎてる感はありますが、時折見せる年相応の振る舞いや、特殊な家庭環境がそうさせたのかと考えれば無理のないレベル。
この長さで中弛みしないのもかなりの筆力では。

気になった点についてです。
結局謎の原因がわからない。物語の本質はそこではないということであればそれまでですが。
一番気になった点は主人公にとって大きな存在であるはずの美帆のことを現在の時間軸で気にかけないのと、美帆自身も出てこないこと。
ラストはお察し系で皆まで書かれてないですが、弘香が筆跡を見たところから、尚樹との最初の出会い、思い出の木で再会、尚樹になつくチロとかの点と点が繋がって確信するのかと。
この後良い展開は想像しにくいなと思いました。
まぁそういう話だといえばそれまでですが、読了感としてはやりきれなさがありました。

夜の雨
ai203217.d.west.v6connect.net

冒頭の原稿用紙数枚分読みましたが、文章が読みやすく内容が理解しやすい。
また、キャラクターが立っていました。
主人公とヒロインが正反対のキャラで、この先を面白く読めるのではと思いましたが。

ちなみにワードで調べてみると。
原稿用紙 393枚 で、約、132400字です。
つまり単行本一冊まるごとです。

初期情報でした。

DS
19.20.178.217.shared.user.transix.jp

謎の物書きP様、ご感想ありがとうございます。
最後までお読みいただけたようで、とてもうれしいです。

>私もやらかしてるので責めるつもりはないですが4万字以上ありそうです。そこは20万字まで入れられる仕様にしている運営様の責任なんで私としては別にいいんですけど、一応4万字以内がここの規定です。
そうなんですね、そうとは知らず失礼しました。
申し訳ありません。
4万文字って相当短いような気がするのですが、そういうものなのですかね。

>誤字はちらほらありましたが、このボリュームならかなり少ないのでは。でも
>【つむぎは】「そう」とつぶやいた。眉間にしわを寄せている。
おっしゃる通りです。ありがとうございます。直しておきます。
誤字をなくすのはなかなか難しいものですね……。

本編についてのコメントもありがとうございます。
私自身は、暗くて重い話が大好物なので暗くて重い話でないとなかなか筆が乗らず、こういうジメジメした感じのものを書いてしまいます。ここに掲載した13万文字程度で第一部、そこからも続いていく想定で書いていましたが、基本的にはご想像いただいたように暗い感じで終わる形で考えていました。
基本的な設定として、雨が降るたびに水無川の水位が上がる→水無川の水位に合わせて日野尚樹の思考が流れこんでくる→思考が流れ込んでくるたびに、憑りついた主人公の意識が破壊されていく、という形になっているので、今後も雨が降るたびに、主人公の人格が破壊されて日野尚樹の人格が戻ってくるという流れです。
美帆については、おっしゃるようにもっと出しておくべきだったと反省しています。(どこに出そうかと考えていたら、終わっていたという……)
ただ、暗くて重いだけの話はあまり需要がないかもしれないので、そういう点で自分を見つめなおそうと思います。

ご感想いただけて良かったです。投稿してよかったと思えました。
ありがとうございました。

DS
19.20.178.217.shared.user.transix.jp

夜の雨様、最初のほうとはいえ、読んでいただきありがとうございます。
文章が読みやすいと思ってもらえたようでよかったです。

飼い猫ちゃりりん
dw49-106-174-216.m-zone.jp

DS様
プロローグしか読んでいませんが、良い文章だと思います。
ただ優等生の文章かなぁ。もっと不良の文章でもいいかもなんて思ってしまいました。不良ってのは、もっと強引にぶち込んでいく感覚。多少の文法の乱れは関係ねー!って勢いで。(本当はダメですよ。笑)
飼い猫がちょっと書いて見ました。

 幼稚園からの幼馴染だった白瀬美穂は、僕の家から少し離れたところに住んでいた。彼女が住む豪邸は小高い丘の上に建っていて、夕暮れ時はその瓦が赤く輝いて僕の部屋を照らした。
 僕の部屋は二階だから、窓から斜陽に染まる景色を楽しめるはずなのに、僕の記憶は赤く輝く豪邸の絵で埋め尽くされている。
 支配、憧れ、圧倒…… 僕の幼年期は白瀬美穂の支配下にあったと言っても過言ではない。

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