作家でごはん!鍛練場
里野山女魚

醜穢小町

 稲を刈り取って、稲株と稲藁だけになった田んぼに、僅かながら緑の葉が見える。刈り取った後の株から、新しい葉が生えてきているのだ。これを「|孫生え《ひこばえ》」とじいちゃんは呼ぶ。これが出始めるとじいちゃんは春先の田植えのために、耕運を始める。秋起こしと言って、これをしなければ来年の稲作に悪い影響が出る。
 夏のじめっとした空気がようやく去って、移動性高気圧が秋の空気を運んでくる頃になると、ほ場はようやく乾き切る。そうするとじいちゃんは「どら、そろそろしよら」とばあちゃんを誘って、秋起こしをする。じいちゃんとばあちゃんがこれを始めると、僕は秋が来たぞと思うのだ。
 
 じいちゃんが昨日秋起こしを終わらせて、僕の心はすっかり秋めいていた。近所の山本さんから、梨とりんごを貰ったこともそれを助長していた。合服を腕まくりするくらいで丁度いい気温になったことだし、学校からの帰り道、少し散歩するかと言って、友人の日高聡と道草を食うことにした。
 その日、話題を出したのは聡の方だった。
「そういや田上風華って人知ってる?」
「ん、隣のクラスの田上の姉ちゃんのこと?」
「そうそう、その田上の姉ちゃん」
 中学校から家までの帰り道沿いにはM川が流れている。名水百選にも選ばれたこともある川の支流だから、初夏になると、木陰も透き通って底がはっきりと見える程だ。そのM川の淵横にはM川八幡という神社があって、来週末には秋祭りがある。
 淵はいつも穏やか、真っ直ぐ生えた杉の呼吸の音まで聞こえてきそうなほど、静かな場所だった。神社の境内の横道を下っていくと、簡単に淵へ行ける。一番近いカフェへ行くのにも車で一時間もかかるこの村では、そこが思春期の僕たちの何気ない話をする場所なのだ。
 秋の初めとはいえ夕焼けの時間も短く、青空が深い瑠璃色になるとあっという間に暗闇になってしまう。散歩もあと三十分くらいだろう。
 境内の横道を歩きながら聡が聞いてきた田上風華という女性は、確か二十歳である。狭いコミュニティなのもあって、村人同士全員、多分一度は顔を見合わせたことがあるだろうが、名前を覚えられるほどじゃない。じゃあなぜ僕が田上風華という名前を聞いて、パッと思い出せたかと言えば、村一番の美人だからだった。市内にある大学のオープンキャンパスの案内表紙に載っているというので、それが回覧板で回ってきたこともある。
「それで、その人がどうしたの?」
「芸能人のオーディションに受かって、東京に行くんだってよ」
「へー、すごいじゃん。綺麗な人だもんね」
「サイン貰ってた方がいいかな」
「有名になってからでいいんじゃない? 実家はこっちなんだし、帰ってくるでしょ」
 そう返した時、前を歩いていた聡が突然、後退るように立ち止まる。
「しっ!」
 聡は振り向き、指を口元に当てて、僕に黙るように伝える。
「え、何? 誰かいた?」
 修学旅行の消灯後、見回りの先生に気付いたような反応だったから、誰かが居るんじゃないかと思って、咄嗟に小声で返す。
「あれ、ほら、田上風華だよ!」
 聡が左手で指差した先には、太い杉の間から淵が見えている。川辺はすっかり陰に落ちて、流れが作る水面の起伏すらも見られない。丸っこく小さな石で埋め尽くされた岸と、底の見えない淵の境目に、噂の田上風華が立っているのだ。ここからだと少し距離はあるが、あの横顔は間違いなく彼女だった。
 聡は口元を手で隠して、
「なんでこんな所にいるんだろう」
 と言う。
「帰省してるんじゃないの」
 田上風華は市内の大学へ通うのに、この村を出て一人暮らしをしていると聞いていたから、僕たちは慌てた。誰だって自分の噂話を聞いてしまうのは、気を良くしないだろう。たまたま彼女の話をしている時に鉢合わせてしまうなんて……。
「もう今日は帰ろうよ、あの人もいることだし」
 聡にそう言うと彼は頷いて、僕の後ろに着いてくる。
 するとその時、ゴーンゴーンと鐘の鳴る音が聞こえた。この神社から、山の上へ登っていくと寺がある。その寺の|梵鐘《ぼんしょう》の音だった。午後五時を知らせる時報だ。
 来た道を戻ろうとすると、淵の方から、うぅなのかおぉなのか、文字にし難いうめき声が聞こえてくる。体がきつく絞られているかのような声音で、苦しんでいると分かった。
「ねぇ、彼女……なんか苦しんでるんじゃない?」
 聡も声に気付いて言う。
「うん……なんか心配だし、一応声かけとこうか」
 二人で再び淵の方まで行くと、田上風華は顔を抑えてフラフラとよろめいている。いつもならちろちろ流れる川音や、さらさらそよぐ葉音が微かには聞こえてくるのに、その時は喉をつぶすような彼女の低い声しか聞こえてこなかった。
「もしかしたらすごく体調悪いのかも」
 僕も聡も最初とは違う焦りを感じていた。少し駆け足になって土手を下る。
 村は年寄りが多いのもあって、道の途中で彼らが休んでいることがある。見かければ声がけをするよう先生に言われているのだ。そういうのがあって、体調が悪そうな人へ話しかけることは当たり前のことだった。
 彼女との距離は三〇メートルほどだっただろうか。彼女は変わらず頭を振って苦しんでいる。
「あのー! 大丈夫ですか? 僕たち田上くんの同級生で」
 僕が声をかけると彼女はこちらに気付く様子もなく、突然どぼりと川の中へ。そしてずぶずぶ躊躇うことなく、深い方へ深い方へ進んでいく。
「え!」
 聡と僕は大慌てで彼女に近付くけれど、全く近付いている気がしない。むしろどんどん遠ざかっていくような気さえする。
 そしたら彼女は深さが腰ぐらいの所で立ち止まると、ごおおと何年も閉じていた重い扉が開くような声を出す。その響きは静止した水面を震わせ、僕たちの扁桃体を刺激するのには充分だった。怒りとも苦しみともとれるもので、まるで大きな動物の威嚇のようだ。僕らは何が何だか分からなくて、息をするのも躊躇した。
 それ以上近付き難くて、聡と目配せをする。すると、びちゃびちゃ、びちゃびちゃと水に何かが滴り落ちる音が聞こえてくるのだ。もちろん音の発生源は田上風華からで、彼女を中心に川がだんだんと赤く染まっていく。彼女は呻くのをやめていて、水を赤く染める何かの垂れる音だけが、僕らの鼓膜を震わせる。じっとしていると、横顔しか見せていなかった彼女が、ゆっくりと僕らの方へ振り向いた。
 僕は彼女の顔を見て、何本も足のある虫が、つま先から頭の先まで這い上がってくる気配がした。
 彼女の皮膚はふつふつと発酵しているように気泡が出来て、それが膨れては破裂し、そこから赤い液体が飛び出てくる。眼球のあった場所はすでに空っぽで、紫黒の穴がこちらを向いている。下顎は正常な位置から随分と下に落っこちて、頬の肉が今にも千切れそうだ。首から下はどろどろとロウソクのように骨ごとただれていた。そして不思議なことに、彼女の着ていたシンプルな白いワンピースも、皮膚と一体化して液体のごとくただれている。
 川に滴り落ちる何かとは、彼女自身だったのだ。
 聡と僕は悲鳴も上げないで、走り出した。当然彼女に背を向けて。
 岸を転がるように駆けて、土手を|匍匐《ほふく》のごとく登って、聡の背中を何度も叩いて「もっと早く」と催促した。村を通る国道まで無我夢中で走る。街灯の下、息を切らして倒れ込むようにアスファルトへ手をつくと、銀色のワゴン車が一台通り過ぎていくので、助かったとようやく腹の底から空気を吸い込むことができたのだ。
「さっきのは何?」
「分かんない! あんあ気持ちの悪いもの……怖い……」
 聡はすっかり取り乱していた。僕も手や膝の震えが止まらない。
「け、け、警察! 警察に言おう!」
 真っ青な顔をした聡がそう言うので、僕もそうしなくちゃと思った。
「そ、そうだね。とりあえず、ここから一番近い聡の家へ行こう。お母さんたちに連絡してもらおうよ」
「そうだね、そうだね」
 僕たちは聡の家まで脇目も振らず走った。
 出迎えた聡のお母さんは、僕らが半泣きで説明するのを聞いてくれたが、
「田上さんとこの娘さんが、川で溶けていた」
 なんてことを間に受ける事はない。しかし僕らの必死さを見て、念の為と思ったのか田上さんちへ彼女は電話をかけた。
「もしもし、日髙ですー…………ああ、いや違うんですよ。ごめんなさいねえ、突然連絡して……それでねえ、田上さん。うちの息子と澤田さんちの俊也君がねえ……そうそうその澤田さん……神社のとこの淵で風華ちゃんを見たって言ってて……え、あ、帰省はまだ? …………うんうんそうよねぇ。でもねぇ、あんまりふざけて言ってる感じじゃないのよ…………そうなの、その……えらくびっくりして帰ってきたから……だからね、風華ちゃんに確認だけしてた方がいいかなと思ってね……うちの子たちも心配してるから……」
 どうやら田上風華は、地元に帰ってきているわけではないということが、電話の様子から分かった。だけれどそれは些細な問題ではない。黙って帰ってきている可能性だってあることだから。聡と僕が一番頭を抱えたこと。
 それは田上さんのお母さんが、田上風華へ連絡を入れると、彼女は市内にいて、そして生きているということだった。

    ◇

 僕たちの話はあっという間に村に知れ渡ったが、信じてくれる人は誰もいない。なぜならその溶けたという本人はピンと生きているからだ。あらかた淵に漂っていたビニール袋を、そんなふうに見間違えたのだろうと判断された。
 だけども僕は自分自身を誤魔化すことができない。毎晩目を閉じると、彼女の醜く穢らわしい姿が思い起こされた。僕らが見たものは紛れもなく田上風華で、彼女は間違いなく血を噴き出し、骨身を溶かしたのだ。
 
 秋祭りの前々日。田上風華を淵で見てから三日経った日。
 村にはもうM川八幡から四方に伸びるように、道路の両脇に|注連縄《しめなわ》が張り巡らされていた。街灯や電柱には竹が括り付けてあって、|煤竹《すすたけ》色を薄くしたような葉が何枚も地面に落ちている。小さい頃はよくそれを拾って川に流して遊んでいた。
 僕が学校から帰ってくると、家の玄関で駐在さんとお母さんが立ち話をしていた。彼はよく村人の自宅訪問をしているから珍しいことではない。
「あ、俊也くん、おかえり」
「こんにちは」
 駐在さんへ挨拶をして、家の中へ入った。僕の家は玄関から左へ行くと、すぐ畳の居間がある。僕は居間で持っていた鞄を下ろして、机の上にあるお菓子を物色していた。
 玄関に近いからお母さんと駐在さんの話はここまで筒抜けだ。最初はただ聞こえてくるだけの音だったが、途中からしっかりと僕はそれを聞いた。
「そういえば、俊也くんと聡くんが見たという風華ちゃんのことなんですがね」
「それはもう言わないであげてくださいね、あの子落ち込んでるんですから」
「いや、それがね、お母さん。実は本当だったんじゃないかなんて話になりましてね」
「ええ?」
「警察署に友達がいましてね? そいつから不思議な話を聞いたんですが、どうやらそれが風華ちゃん絡みだったらしくて。詳しく聞いたら、三日前、俊也くんたちが風華ちゃんを見たって言ってた日、ある男が風華ちゃんを彼女の家で殺したと自首してきたんですよ」
「ええ! え、でも風華ちゃんは生きてるって田上さんも確認されてますでしょう?」
「そうなんですよ。警察は自首してきたからには本人の家を訪ねなくちゃならないでしょう? それで、二十時過ぎに風華ちゃんの家へ行ったら本人は生きてるし、男は滅多刺しにしたと言うんですが、血痕も見当たらないしでただの業務妨害じゃないかって。風華ちゃんはその日一日ダンスのレッスンがあって、帰ってきたのはついさっき。男が侵入したと説明した午後十七時前には家に居なかったと言うんですね。ダンスレッスンへ行き帰ってくる彼女の姿も、マンションへ侵入し、その後慌てたように部屋から飛び出る男の姿も、供述通りの時間で監視カメラに映っているので間違いない」
「ちょうど俊也が風華ちゃんを見たって言ってる時間じゃないですか! えーなんでしょう。何かの予兆というか虫の知らせというか」
「いやー、そうなんです。どうやらその男ってのが風華ちゃんの元カレだったらしくて。ほら風華ちゃん芸能人になるからって、その男と別れたみたいで。元々ストーカーで接触禁止にされてたので、そのまま逮捕されたんですが」
「はー。不思議なこともあるもんですね。でも風華ちゃんが無事で良かったじゃないですか。誰も殺されてなくて。じゃあその人の幻覚というか、妄想? だったんでしょうか」
「それがね。男が出頭してきた時に着ていた服、これね、返り血が付いてたみたいなんですよ。しかも凶器のナイフまで男は持ってきている。だから鑑識に回して調べてもらうと、風華ちゃんの血液ではなかったんですが、間違いなく血液ではあるんです。でもこれが、人血なのか獣の血なのかすら分からない。法科学でも分からないなんて、宇宙人かもしれないって友人は笑ってましたよ。本人に聞いても『風華ちゃんを刺したときに付いた』としか言わないんです。それに風華ちゃんが生きていたことを伝えると、信じられないという顔をしていたと聞きました。嘘をついている様子では無かったと。でもね、もっと不思議なことが起きたんです。男から没収した凶器と血の着いた服なんですがね、気付いたらその血液が綺麗さっぱり無くなっていたらしいんです。誰かが拭いたんじゃないかと色々調べたみたいなんですが、大事に保管されていて誰も触った形跡が無い。それにルミノール反応ってあるじゃないですか。それも出てこなくなったから、集団幻覚だったんじゃないかって身内で持ちきりですよ。さすがに友人も何かおかしいと言ってましたね。所轄はもうこの件を詳しく調査しないらしいです。男は、風華ちゃんの家にスペアキーで侵入し、彼女ではない何かを刺し殺したが、その遺体もその痕跡も、そして証拠もすっぽり無くなってしまっている訳なんですね」
「まあ……気味が悪い」

   ◇
 
 僕は次の日学校で、急いで聡へその話をした。
「じゃあ、やっぱり僕らが見たのは田上風華だったんじゃないか? 本物の彼女は淵で死んでいて、今は偽物の彼女なんだよ!」
 聡もびっくりしていたが、見たものが幻ではない可能性が出てきたことへの関心が大きく、すっかりそれ前提で物事を考えていた。
「いやいや……いや、うん。あり得ない話でもないか……死んだのが偽物か本物かは置いといて……でもそうなると三人の田上風華が存在してないとおかしくない?」
「確かに……ダンスレッスンに行ってたやつ、男が殺したというやつ、僕たちが川で見たやつ」
「もし男がマンションで殺したってやつが川で見たやつと同じだとしても、その男が殺すのは不可能なんだよね。僕らが寺の鐘を聞いた時くらいに、マンションの監視カメラに映っているんだから。それに、男に付いてた血液っていうのも……なんで消えちゃったんだろう」
「何か薬を飲ませて、時間差で殺してるんじゃない? カプセルに入れると溶けるのに時間がかかって、アリバイを偽装できるって何かの小説で読んだよ」
「あんな死に方をする薬がこの世に存在するの? 骨まで溶かすんだよ? もし存在していたとしても一般人じゃきっと手に入らないよ」
「そっか……。同時に存在していたらしい三人の田上風華のうち、二人は消えてしまってるということになるよね?」
「そうだね。あそこら辺はそんなに流れも強くないから、底に沈んでしまって見つかってないだけかもしれないけど……」
「うーん……」
 事件は僕らの知識や思考回路で解決できるものではなく、それっきり話が進まなくなってしまった。何が起点になっているのか、これっぽっちも思い浮かばないのだ。ここにはいないはずの彼女、殺されたはずの彼女、あったはずの証拠。どうしてこんなに複雑なことが起こっているんだろう。
「死体、探しに行ってみる?」
 聡が気弱に言う。
「僕らが見たものの跡が残ってるかもしれないし」
「うん……」
 田上風華を淵で見てから、そこへ行くことは避けていた。でもその日、聡とまた淵へ行くことを決めた。謎が増えていく中、二人ともどこか探偵のような気分だったのだ。
 あの時と同じくらいの時間帯だった。同じように神社の横を通って淵へ向かう。するとまた聡が、
「しっ!」
 と言って、土手の手前で立ち止まる。
 僕はもしかしてと思うと、ぞぞぞと足元から鳥肌が立ち始めた。そして恐る恐る聡の見る先を覗く。
 なんと田上風華が立っていた同じ場所に、男が一人、しゃがみ込んでいる。服装からして若い男だ。カーキのシャツにベージュのズボンとシンプルな格好。農家や木こりの多いこの村で、こんな洒落た服装をしている人間は滅多にいない。おそらく村の外の人間だ。
「もしかして、またおんなじことになるんじゃないの?」
 聡が言う。
「誰か呼んでくる?」
「その間に死んじゃうかもしれないよ!」
「でも、僕らじゃどうしようもできないよ!」
 何かしなくてはと思うのに、足が前に出て行かない。それは聡も同じなんだろう、腰が後ろに引けている。
 そうこう二人で話している間に、男がすくっと立ち上がった。彼は川辺の景色を見渡している。葉が互いに揺れぶつかる音、どこかで木の実が落っこちてちゃぽんと可愛らしい水音が聞こえる。あの時とは違う。前回が僕らだけにしか見えなかった惨状であれば、今回は誰にでも平等に訪れるこの淵本来の柔和だ。
「話しかけてみる?」
 聡へ話しかけると彼も同じことを思っていたのか、すぐこくんと頷いた。音を立てないようこそりと踏み出した時、岩間に打ち付ける波のように風がざばあと強く吹く。そして立っていた男がくるりとこちらに振り向いた!
 僕らは咄嗟にわぁと叫んで、目をぎゅむと瞑り、駆け足で道をひき返す。そうすると後ろから、
「ちょっと待ってー!」
 と呼ぶ声がする。
 聡と見合っていると、また、
「お願いだから待ってくれないか!」
 と聞こえてくる。声は先ほどよりも近く、どうやら僕たちを追って来ているようだ。聡と僕はやっぱりこないだと違うんだと分かって、走るのをやめ、声の主がやってくるのを待った。
 互いの顔がはっきりと見える距離に近付いた時、彼ははぁはぁと息を荒くして、
「待って、不審者じゃないんだ……逃げないで……」
 と言う。
 彼は二十代後半くらいの顔立ち、前髪は目に掛かるくらいで左へ寄せていて、ふんわりとした髪質だった。ぱちっとした目ではなくどこか眠たげ、唇は薄く、筋肉も無さそうで、全体的に覇気のない男だった。見た感じ僕のお父さんと同じだから、一七〇後半くらいの身長だろう。
「ごめん。突然追いかけてきて怖いよね。でも、あの、ほんとに不審者ではないんだ……」
 どうやら彼は、僕たちが自分を変質者だと思っている、と考えているらしい。そう思わせたのは僕らだ。聡の方を見ると気まずそうな顔をしている。失礼なことをしてしまった。
「僕たちもごめんなさい。こないだここで怖いことがあったからびっくりしたんです」
「怖いこと? ……あ、そうだ自己紹介をしておかないと、怪しい人のままだよね。俺は毎年やってる秋祭りのアドバイザーというか監督官というか……なんと言ったらいいのかな……村長からの依頼で、お祭りが正しい手順で行われているか見届ける役でここへやってきたんだ。いつもは渡辺っていう人が来てると思うんだけど、今回は代理で俺が」
「渡辺さん? 渡辺さんって毎年お祭りの時期になるとうちへやってきて、お酒飲んで帰る人?」
「え……あぁ、うんそうかもね。そうだろうな……だからお土産にこんな大きな焼酎の瓶を俺に持たせたのか……というかそのうちってのは君の家ってことだよね?」
「そうです」
「もしかして、村長さんって君のご家族?」
「はい、僕のじいちゃんが村長です」
「あー! 良かった! ここらへん地図にない細かい道が多いから、迷ってたんだ。最初に出会った人が村長のお孫さんだなんてついてるなぁ。案内をお願いしてもいいだろうか」
 毎年秋祭りが近付くと、うちへ訪ねてくる渡辺という中年男性が、お祭りのアドバザーだということを、この時初めて僕は知ったのだ。この時期、お祭りにあやかって村全体が宴会状態で、親戚なのか友達なのか分からない、でも毎回必ず居る謎のおじさんは、どこの家にも存在するものだった。大人内では分かっているが、子供に詳しく説明されることは少ない。僕はその渡辺のおじさんのことを、祖父の友達の息子、そのくらいに考えていた。真面目な仕事をしていたのかと、妙に安心する。
 であれば、あの渡辺のおじさんと、今目の前にいるさほど元気があるようにも思えない、だけれども胡散臭さは無く裏表のない空気感を持つこの男が、同じ仕事をしているということだ。実は渡辺のおじさんの方が、ずっと代理でうちへ来ていたのではないか? そう考えてしまうほど、渡辺の叔父さんがお酒を飲むこと以外で、何かしているところを見たことが無かったのだ。
「そういえばさっき、ここで怖いことがあったって言ってたよね?」
 僕の家へ向かう途中で、彼さんがそう聞いてきた。
「あ……えっと」
 聡と僕はお互いをちらっと見る。人へ話すことにすっかり消極的になっていたのだ。何も返事をしないのも良くないだろうと思って、
「怖いことがあったんですけど、本当だったのか本当じゃなかったのか分からないんです」
 と返した。
「そうか……。その怖いものというのは君たちが見たことなの?」
「はい! でも、あまりにも現実的でないし、でも、忘れられないくらい気色が悪くて……」
 聡が食い気味で答える。乗り気が無いだけで、本当は誰かにきちんと聞いて欲しかったし、信じて欲しかった。
「僕たちあそこの淵へ行くのも、すごく怖かったんです。でも、何で僕たちがあんなものを見たのか、何で世にも不思議なことが起こったのか、知りたくて。今日あそこへ行ったんです」
「なるほどね。何が起こったのか話してくれないかな? もしかしたら、分かるかも」
 そんなことを彼が言うので、聡が、
「え! もしかして探偵ですか!」
 と言った。僕も話を聞くだけで謎を解決できるなんて、名探偵みたいと心が踊る。探偵みたいと思ったのは、警察には見えなかったからだ。僕たちがイメージするような威圧を、彼からは感じられない。
「た、探偵じゃないよ、本当に。ただのアドバイザーだから。ね、あんまり期待しないでくれよ。それに、きっと君達でも解決できることだ」
 
 彼とM川八幡の境内へ入った。境内の中には小さな公園がある。公園といっても遊具は滑り台のみ。あとはトラックのタイヤを半分にしたようなものが、三個置いてあるだけだ。そこへ三人腰掛けた。
「僕たちでも解決できるってどういうことですか?」
 僕は尋ねる。僕たちが見たこと、聞いたこと。まるっとすっかり彼へ話した。そうしたら、この神社へ行こうと言われたのだ。
「君たちはこの神社の由来を知らない?」
「小学生の頃、フィールドワークで調べました」
「そうか、良い学校だね。どんなものか説明できる?」
「えっと……確か。
 昔、若い男がこの淵の近くを通った時、すごく綺麗な女の人がいて、その人がお腹が空いたと言うので、その男は持っていたお弁当を分けてあげました。その出来事からしばらくして、この淵で大洪水が起きました。男はその川の氾濫に巻き込まれてしまったのです。ところがそこで誰かに助けられます。それはこないだお弁当を分けてやった女性だったのです。その女性は姿を現したかと思えば突然、牛の頭に、鬼の体という恐ろしい生き物へ姿を変えました。男を助けたのは、その姿から『|牛鬼《ぎゅうき》』と呼ばれる妖怪だったのです。男は命を助けてくれた牛鬼へお礼を言おうとしましたが、それの様子がおかしい。なんと牛鬼には『人を助ければ、その人間の代わりに死ななければならない』という決まりがあったのです。牛鬼は男を救った後、真っ赤な血を流し、体は溶け、川に流れて行きました。だからこの神社はその牛鬼を祀っていて、ここの淵を『|牛鬼淵《ぎゅうきがふち》』と呼ぶのです」
 僕が話し終えると、彼は小さく拍手をする。毎年小学六年生になると、フィールドワークの発表会があって、僕の班ではこの神社で調べたことを発表したのだ。
「あれ、ちょっと待って、俊也。もう一回」
 聡がそんなことを言うので、
「え、やだよ。恥ずかしい」
 と返す。
「違うよ。牛鬼はどうやって死んだか、もう一回話してよ」
「だから、牛鬼は男を救った後、真っ赤な血を流し、体は川に溶け……」
「あ!」
 僕たちは一緒に叫ぶ。
「じゃあ、僕たちが見たのは、牛鬼だったってことですか?」
「うん。俺はそう思うよ」
 僕の問いかけに彼は答える。
「でも、そっか。それなら本物の田上風華じゃない、消えてしまった二人の彼女の説明がつくってことですよね?」
「殺された田上風華というのは、本物の田上風華の身代わりになった牛鬼で、その牛鬼は瞬間移動でこの淵に戻って来て、体を溶かして死んでいったってことだ!」
 聡がここぞとばかりに指をパチンと鳴らす。
「いい推理だね」
 彼は瞬きと頷きを同時にして、聡の言葉を肯定する。
「じゃあ、田上風華は以前牛鬼を助けたことがあるってことですよね? 田上風華は今回の件をどう考えているんだろう。牛鬼が助けてくれたって分かってるのかな」
 牛鬼がいざと言う時に命を救ってくれる存在だと知っていたら、皆必死に人助けをするだろう。田上風華はそれを知っていて、牛鬼と分かって手を貸してやったのではないか? 他意があってしても善い行いをした事実は変わらないけれど、なんだかズルをした様な印象を僕は彼女に感じてしまう。
「君たちは口酸っぱく、子供の頃から大人に言われ続けてきたことは無い? 例えば、何か人助けに関するような……」
 彼の質問に、僕たちはハッとする。
「年寄りが多い村だから、体調が悪そうな人を見かけたら必ず声を掛けるように、と習ってきました……」
 僕は田上風華に向けた厳しい眼差しを、きゅっと引っ込めた。そして恥ずかしくなる。
「君たちが苦しむ少女の見た目をした牛鬼に、当たり前に声をかけたように、田上風華も行動を起こしただけだと思うよ」

醜穢小町

執筆の狙い

作者 里野山女魚
114-142-63-70.ppp.bbiq.jp

こちらシリーズものの一話(最初の話という意味ではなく)です。この話に出てくる「若い男」が中心のシリーズとなっています。この話は書き終わっていません。最初はノリノリで書けていたのですが、なんか面白くないぞ、、となってしまいました。テーマは「牛鬼」皆様でしたらどのような感じで結末に向かおうかなと考えますか?私の予定では、秋祭りの日になって、泣いている子供の声がするので友達と2人でその子の元へ向かう様子を最後に持ってきて、妖怪の話として伝承されるより人間の善意に根付く形で妖怪が傍にいるね♪みたいな終わりを目指していました。もし宜しければ考えをお聞かせください。

コメント

偏差値45
KD059132067141.au-net.ne.jp

>中年男性が、お祭りのアドバザーだということを
脱字かな。

要するに『身代わり地蔵』のようなもの。そんな印象ですね。
妖怪というよりも怪異という感じ。

文章そのものは悪くはないと思います。小説としてはよくまとまっている。
それなりの面白さもある。
あえて言えば、もっとぜい肉をけずってスマートにした方が良いような気がしますね。

で、ちょいと残念なところは雰囲気ですね。
ドロドロとした恐ろしい化け物という先行イメージが強いので、物語全体が暗くなっている。
ところが、内容の芯の部分は良いお話になっているので、その「ちぐはぐさ」に
食べ慣れていない物を食べさせられた不快さがあるかな。

里野山女魚
114-142-63-70.ppp.bbiq.jp

偏差値45様 脱字発見ありがとうございます><
「ちぐはぐさ」と言われてハッとしました。もしかしたそれが筆の乗っていかない原因かもしれません。
牛鬼の伝説を読んだ時、いい話だなと思った反面、目の前で人間が溶け始めたら怖いな、、、と言う感覚がそのまま小説のちぐはぐさとして現れてたのかもしれません、、、書いている間に雰囲気の調整をするぞ!とやる気が出てきました。恩人です。読んでくださりありがとうございました。

夜の雨
ai224000.d.west.v6connect.net

「醜穢小町」読みました。

話としては筋が通っていると思いますが。
ただ、御作は村長の息子である『僕』とその友人の『聡』の二人の視点で物語が語られており、顛末しています。
なので、『牛鬼《ぎゅうき》』の伝説と『田上風華』が絡んでいませんが。

つまり『淵』での『血を吹いて解けた女』が田上風華としての根幹の部分が解明されないで終わっています。

御作の『牛鬼』の伝説と『田上風華』が絡ませるには、田上風華のエピソードが必要です。
田上風華が牛鬼を助けるようなことをしたとか。

もしくは田上風華を殺したと警察に自首してきた男が牛鬼を助けるようなことをしたとか、それで牛鬼が男を殺人犯にしては人生棒に振るので、田上風華を殺さなかったことにした。
その代わり、牛鬼が田上風華に変身して亡くなった(淵で解けた)とか。

どちらにしろ現状の御作では二人の少年の視点からだけで物語が進んでおり、牛鬼が田上風華に絡んだ話が「想像」だけで進んでいます。
なので、何の確証もありません。
田上風華に話を聞いたところ、M川八幡の神社で人助けのようなことをしていたとか。
または田上風華を襲った男が神社で人助けをしていたとか。
という具体的なエピソードがあれば、御作の顛末がしっかりすると思います。

現状の御作でも二人の少年の視点での『牛鬼伝説』の顛末は描かれていましたが。
顛末が弱いことは確かですね。

あとアドバイザーという青年ですが、具体手的にどんな組織(会社等)にいるのか、または経営しているのかなどは書いておいたほうがよいですね。
アドバイザーというだけでは怪しいので。

登場人物のキャラクターなどは描かれていたのでは。

御作に描かれている「監視カメラ」は一般的には、「防犯カメラ」では。


お疲れさまでした。

謎の物書きP
softbank060117225123.bbtec.net

拝読しました。
確かな文章力で読み物として成立してると思いますが、設定の甘さが目立ちます。
少年たちが目撃した風華、男に刺された風華、ダンスレッスン受けてた風華。同時に存在しているわけですよね。刺されたのは牛鬼で、絶命して地元の川に瞬間移動。
となると、牛鬼はストーカーに刺されることを予知して自宅待機してたってことになりますよね。本物の風華がレッスン行く途中で車に撥ねられて死んじゃう可能性だってあるわけですから。
そもそもの話なんですが、レッスン行ってるんだから、わざわざ牛鬼が自宅に殺されに行く必要あるかとか。
 普段牛鬼と風華はどう暮らしていたのかとか。あと、現場には血痕がなかったのに、男の証拠品はなぜ消えるのに時間差があったのかとか。


さて、あくまでも私なら案ですよ。

まず、M川(私なら牛洗川とか適当に牛のついた名前にします)では幽霊を見かけるというような噂を用意する。

牛鬼の伝承は前半にだす。牛鬼はもともと人を騙して食べる妖怪らしいですね。
で、伝承の内容はそのままでも良いとして

少年たちが川で溶ける風華を目撃。ほぼ同時期に風華自宅マンションで殺害される。程なく風華レッスンに出席ということにして

少年たちは、牛鬼が伝承通り身代わりになったと推理。その魂は川に還ったんだと考える。

ところが伝承には誤りがあった。牛鬼は困っている人間を装い、助けてくれた人に取り憑く。本人が命を落としたとき、それを食べるというもの。その際抜け出した魂が川に還るとか。
幽霊の噂は、牛鬼の犠牲者の魂。
食事を終えた牛鬼は、その後本人になりすまし何事もないように生活して次の獲物を待つ

みたいな感じにするとホラーっぽいような。

里野山女魚
114-142-63-70.ppp.bbiq.jp

夜の雨様 少年2人だけで話が顛末している、ほんとにその通りです。なんで書いている途中で気付けなかったのか、自分で今びっくりしています。田上風華と牛鬼との絡みの設定をもっと詰めて書き進めていこうと思います。ここで聞いてみて良かったです。本当にありがとうございます。

里野山女魚
114-142-63-70.ppp.bbiq.jp

謎の物書きP様 設定部分のご指摘ありがとうございます。自分では納得して書いているつもりなので、別の方の視点から「ここはどういうこと?」という甘い部分を言っていただけるのが、本当に助かります。
なるほど、牛鬼の伝承が後から判明するには少し弱いかなと元々思っていたのですが、最初に持ってくることで構成が増やせて、2段階の解明みたいなのがあってより面白いですね、、、
他の方の意見も取り入れ、話の進め方の案を何個か作って書き直してみます!

ご利用のブラウザの言語モードを「日本語(ja, ja-JP)」に設定して頂くことで書き込みが可能です。

テクニカルサポート

3,000字以内