クリスマスイヴの約束
昨年のクリスマスイヴは紗江子と一緒に、眼下にキラキラとネオンが輝くレストランで食事をした。福岡市内では一番高い高層ビルで、若い者達には人気のレストランだ。それだけに、この予約を取るのも大変だった。今年も運良く予約が取れた。それだけに喜びも大きい。
俺たちは交際して一年半少しだったが、二人の気持ちは既に決まっていた。そして将来の夢を語り合った。紗江子は小柄だがキュートで、黒いロングヘアが魅力的だ。
俺は平凡なサラリーマンで特に自慢出来る事もないが強いて言うなら、真面目だけが取り柄だ。
そして今年もまたイヴの夜を迎えて、紗江子とイヴの夜を楽しむはずだった。俺は約束の場所に向かっている。本当はワクワクするのだが不安も入り交じっている。俺は予約したレストランが入っている高層ビルを見上げた。既に紗江子はレストランに居るのだろうか。それとも後ろから「お待たせと」声を掛けてくるのか、ついそう思ってしまう。
今年もここでイヴの夜を過ごそうと約束した。俺は今そこに向かっている。本来なら今年も一緒にイヴを迎えるはずだった。でも紗江子は俺の側には居ない。居ないが約束は約束、淡い望みに期待を掛けて向かっている。
その不安とは紗江子が俺の前から突然姿を消したのは六ヶ月前の紫陽花が咲き乱れるころだった。
「ねぇ裕樹、私と一緒にいて幸せ?」
「なにを言っている幸せに決まっているじゃないか」
「そう、ありがとう。私もよ」
恋人同士にはよくある他愛もない会話だった。でも紗江子はその後、暗い表情を浮かべる日が多くなった。俺は気になり、いったいどうしたのと聞いて見たが、なんでもないと下を向いてしまうばかりだ。
最近は特に酷い、なぜか暗い表情が多くなってはいたが、翌日から紗江子とは連絡が取れなくなってしまった。携帯も通じないし、住んでいたマンションも引っ越してしまっていた。それも家族もろとも消えた。
紗江子に嫌われたのか? 俺は嫌われるような事をしたのか? いくら考えても思い当たる事が浮かばない。小枝子の両親とはまだ会ったことはないが、いずれ挨拶するつもりだった。しかしなぜ家族まで居なくなるのか? まさか引っ越しまでして俺を避けたかったのか? いやそれは考え過ぎだ。しかし何の連絡もなく消えるなんて理解出来ない。
いくら探しても依然として彼女は行方不明のまま。俺は傷心のまま時を過ごすしかなかった。紗江子と一緒にいた時は街も輝いて見えたのに、今は寂れた街にしか見えなくなった。紗枝子のいない街は、まるで廃虚の街のように感じる。
でもひとつだけ希望があった。俺たちは今夜のイヴをレストランで会おうと約束していたのだ。
たぶん紗江子が来ないのは分かってはいるが、約束は約束だ。一途の望みに賭けるしかないのだ。レストランの入っているビルのエレベーターに乗ると数組のカップルが嬉しそうに腕を組んでいる。まるで俺に当て付けるかのように。俺だけが一人だ。たまらず下を向いてしまう自分が情けない。ただ虚しさが残る。
二人の予約席は昨年と同じ窓側のネオンが一番綺麗に見える場所だ。
「お一人様ですか?」
「いや予約してある桜井ですが、連れは遅れて来ますから」
来るはずはないが、そう言うしかなかった。念の為、電話をしたがやはり出てくれなかった。
やがて紗江子と約束した八時になった。係りの者がオーダーをとりに来る。
来ないはずの紗江子の分の料理とシャンパンを頼んだ。
何組かの客達はメリークリスマスと言って乾杯を始めている。俺は窓際から街のネオンを眺めシャンパングラスを持ったまま、ガラスに映るに自分の情けない姿を見ていた。
その時だった。突然後ろから一人の若い女性から声を掛けられた。ドキっとした。紗江子かと思ったが声が違う。
「こんばんは、桜井裕樹さんですよね」
「あっハイ、あれ? 貴女は確か紗江子の友人の……」
「ハイ 松崎香織です。覚えていて頂き嬉しいですわ」
「あの~どうして此処を?」
「実は、紗江子に頼まれて来ました。約束の場所に貴方が居なかったら、そのまま帰るつもりでした。いてくれて良かった。それで紗江子が貴方の前から姿を消した事について」
「知っているのですか、紗江子の行方を」
「お話が長くなりますが、ちょっと掛けて宜しいですか」
「あぁどうぞ。それで」
香織は紗江子とは高校時代から親友だ。何度か紗江子と三人でドライブに出掛けた事もある。今は東京の会社に勤めているらしい。福岡には支店もあるので仕事ついでに紗江子に頼まれてやって来たそうだ。俺は驚いた。そして最初に思い浮かべた事は……別れ話なら自分の口で言えばよいのに友人を使う事もないだろうと内心、気分を悪くした。
「突然ごめんなさい。私の口から言う前にこれを読んで頂けますか」
それは紗江子から手紙だった。俺は手紙を読むうちに涙が込み上げて来た。
『祐樹さん突然、貴方の前から姿を消してごめんなさい。何度も本当の事を言おうかと迷ったけど言えなかったの。今、私は東京のある医大病院に入院しています。病名は乳癌です。大好きな祐樹さんが今の私の姿を見たら百年の恋もいっぺんに冷めてしまうと思います。髪の毛も抜けて寝やせ細って……私は今、病魔と闘っています。私もイヴを楽しみにしていました。でも今年は間に合いそうにありません。今は家族も東京で私を看病してくれています。病院の先生は癌の権威でもあり、必ず治してあげると約束してくれました。私はそれを信じて頑張っています。本当は電話して祐樹さんの声を聞きたい。貴男の声を聞いたら私は病院を抜け出す貴方に逢いたくなる。それだけに辛いの。ごめんなさい。その代わり枕元には祐樹さんの写真を置いています。
祐樹さんに心配を掛けまいとした事を私の行動は逆に貴方を傷つけたかもしれません。私の事は忘れて健康な人と幸せになって欲しいと、自分に言い聞かせもしました……でも、でも祐樹さんが私の事を忘れずに約束のレストランで待っていてくれるならと思い、友人に頼み手紙を託しました。貴方がレストランに居なかったら私は諦めます。もし貴方が友人から渡された手紙を読んでくれたなら嬉しいです。そして私はまた、元どおりの健康な体になったら、お会い出来ると嬉しいです。あと一年いや半年待ってくれますか?』
読み終えると香織は、ニコリと笑ってこう言った。
「失礼ながら貴方の涙を見て、わたし安心しました。紗江子の女心を分かって頂けますか?」
「知らなかった。紗江子がそんな病で苦しんでいるなんて。本当は恨みもしました。でも紗江子は本当に治るのでしょうか。それが心配です」
「大丈夫ですよ。貴方が紗江子を想ってくれればきっと治りますよ」
香織は傷心しきった俺の背後に回り、泣きじゃくる子供をなだめるように肩に優しく手を置いた。俺は彼女に伝言を頼んだ。俺は何年でも待っている。そしてまたこのレストランで紗江子の笑顔を見たいと。
あんなに霞んで見えた夜の街がなぜか急に華やかに見えた。失望からちょっとは希望の光が見えた瞬間だった。
そして年が明け、桜の咲く時期がやって来た。
あれから四ヶ月が過ぎた。紗江子はいまだに癌と戦っている。好きな人に哀れな姿は見せたくないと云う。女だからいつまでも美しくありたい。しかし髪が抜け落ちて、やせこけた姿。それは誰にも見せたくない気持ちは分かる。紗江子は苦しんでいる。出来るなら抱きしめてあげたい。それが出来ない辛さ。
それでも俺は逢いたかった。無視してでも東京に行くべきだと何度も思ったことか。
しかし紗江子の女心が分からない訳でもない。結局は逢いたい気持ちを抑えて、彼女の回復を願っていた。
香織の会社は東京に本社があり、地元の福岡市内にも支店がある関係で数ヶ月に一度、福岡に来て俺に定期的に紗江子の様子を伝えてくれる。
『紗江子は頑張っていますが、でも病魔に冒された姿を見せたくないと言っています』
と、決まってハンコを押したように繰り返しだけだった。
香織は連絡係りとして懸命に俺に伝えてくれた。そんな日々が続くうちに、とうとう半年が過ぎ更に一年が経とうとしていた頃、紗江子と過ごしたイヴの日から三度目のイヴが迫っていた。香織から話したい事があると連絡を受けた。
もしかして病気が悪化したのかと思いつつ、約束した福岡駅近くにあるカフェに向かった。すでに香織は席に座っていた。俺に気づくとゆっくりと頷いた。
「お久し振りです」
彼女はニコリともせず頭を下げた。
「いいえ、こちらこそいつも連絡を頂き感謝しています。で、紗江子の病状は?」
だが彼女はなかなか下げた頭を上げようとしない。
「ごめんなさい。紗江子は一生懸命頑張りました。でも神様は微笑んでくれませんでした。本当に残念です」
「えっ!? どういう事ですか? まさか……」
香織の眼には涙が溢れていた。そして何も応えなかった。俺は全てを覚った。
「そんな! そんな事ってあるのですか。俺はずっと紗江子を待っていたのに。やはり無理しても逢いに行くべきだった」
「本当にごめんなさい。紗江子も貴方に逢いたいと何度も泣いて私を困らせました。でも決まって紗枝子はこう言うのです。『やっぱり駄目こんな姿を見せたくない。髪は抜け骨と皮のような身体、でもでも逢いたい』そんな言葉の繰り返しなのです。分かってやって下さい。紗江子は貴方の前では永遠に美しい女性でありたかったのです」
俺は店の中にいる客が見つめるのを知りながら、嗚咽を漏らす事が止められなかった。
香織は人目をはばからず、俺の顔を抱き寄せて一緒に泣いてくれた。まるで母のように。
翌日、俺は香織と一緒に東京に向かった。なんでも紗江子の両親が俺の為に葬儀の日を遅らせてくれたらしい。両親は紗江子が病室で綴った日記を見て、二人の仲を知って紗江子の望みを叶えてやりたかったのだろう。告別式に飾られた写真は、あのロングヘアで微笑む姿だった。とうとう病姿の紗江子は見る事は出来なかった。でも俺の心の中では永久に美しい紗江子が存在している。美しいままで永遠にそれが女心だろうか。
しめやかに行われた葬儀の中で俺は傷心しきっていた。そんな姿を見た紗江子の両親は。
「ありがとうございます。紗江子の日記を見て貴方の仲を知りました。そこまで思ってくださり、きっと紗江子も天国で喜んでくれていると思っています」
紗江子が亡くなり一年が過ぎた。その間、香織が東京からわざわざ福岡まで来て「貴方の様子を見に来ました」そう言って笑う。香織は当時の想い出話をして帰って行く。以前は半年に一度だったが最近は月に一度と頻繁にやってくる。それが何故か俺はそれを楽しみにするようになっていた。憔悴しきった俺を香織は慰めくれた。どれほど励まされた事か。
あれから十年の歳月が流れたが、今でもあのレストランはイヴの予約は半年も前から申し込まないと予約が取れないほどの人気だ。
俺たち家族は、イヴの夜は毎年ここで過ごし、そして来年の予約を取って帰るのが恒例となっている。
「メリークリスマス!」
俺の前の席には妻が座って、妻の隣には五歳の息子が座り、俺の隣には三歳になる娘が座っている。俺の妻……恥ずかしながら紗江子の遺言により紗江子の友人こと松崎香織と結婚した。
紗江子が香織に言ったそうだ。『私が病魔に倒れたら香織に祐樹さん頼むわね』この言葉は紗江子の遺言と取れたのだろう。俺もそう思っている。
香織は傷心しきった俺を献身的に支えてくれた。次第に心が惹かれて行くのは自然だったのかもしれない。紗江子が亡くなり俺は一年以上も立ち直れなかった。ギリギリ仕事はした。いや仕事をする事で紛らわせようとした方が正しいのだろうか。しかし仕事が終り一人で家にいると心が折れそうになる。それを支えてくれたのが香織だった。
だが事実は多少違っていたらしい。紗江子は俺がどうして見舞いに来てくれないのかと香織に訴えたとか。香織は三人でドライブした頃から俺を好きになっていたらしい。
しかし親友の彼を奪う訳にも行かず、そんな時に紗江子は病に倒れたのだ。
そんな事とは知らず、紗江子と俺の仲に割って入ったのだろうか? 紗江子の遺言『私が病魔に倒れたら香織に祐樹さん頼むわね』もシナリオなのか? 本当にそう言ったかは確かめようもない。だが良い方に解釈するとこうなる。
紗江子を失った彼を見捨てる事は出来ない。それなら私が救ってあげたい。親友なのだから当然、紗江子も知らない女に奪われるのなら親友に託したい気持ちも分かる。
ただ変わりすぎた紗江子も逢いたくても、こんな姿を見せたくないのは本当の事だろう。
香織は最良の方法を取った事になる。でも香織が少し小細工したシナリオ通りになったのだろうか。これを小細工と言ったら香織の愛情を踏みにじる事になる。
しかしそれは単なる風の噂であって、なんの確証もないし問いただす理由もない。今は幸せなのだから。そんな香織は時折、含み笑いする事がある。それが意味するものは? 俺は永遠に知る事はないだろう。いや知ろうとも思わない。
ただ俺たち家族は毎年、紗江子の命日に墓参りに行くのが恒例となっている。
了
執筆の狙い
5千字前後に纏めた掌編です。
クリスマステヴの夜、福岡の夜景が見える有名なレストランに恋人と待ち合わせしていたが恋人の紗江子は来なかった。代りに彼女の親友、香織が手紙を託されて持ってきた。その内容は。
「姿をくらましてごめんなさい。実は癌に侵されて髪は抜けガリガリに痩せて貴方に見せられる体ではなく、会う事が出来ません」そんな内容だった。裕樹はがく然とする。
今年最後の投稿作品となりました。
クラスマスに合わせて予定していた作品と入れ代えました。
今年一年、皆さま方ありがとうございました。
来年も宜しくお願い致します。